村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月… 村井 資長(むらい すけなが、1909年(明治42年)11月22日 - 2006年(平成18年)3月31日)は日本の工学者、早稲田大学名誉教授、日本カナダ教育文化交流財団理事長。早稲田大学第10代総長、早稲田奉仕園第6代理事長、恵泉女学園大学初代学長。キリスト教プロテスタントである。次男村井吉敬は早稲田大学客員教授を務めた。旧姓日野西。 北海道茅部郡石倉村(現森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善三男)の三男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため翌年から一年間、現地の内地人用小学校に通う。
遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)… 遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)11月22日 - 1999年(平成11年)9月15日)は、元体操選手。ラジオ体操を考案した人物のひとり。位階は正四位。 茨城県多賀郡日立村(現・日立市)出身。東京高等師範学校を卒業し、熊本師範学校教諭となる。教諭時代に1936年ベルリンオリンピックに出場。 1954年(昭和29年)世界選手権の日本代表団監督、1956年メルボルンオリンピック体操国際審判員などを歴任したのち千葉大学教授となり、1975年(昭和50年)に退官する。退官後は東京女子体育大学教授に転じ1982年(昭和57年)まで務めた。ほか、日本体操協会副会長なども務めた。1999年死去。
福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 -… 福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 - 1990年10月5日)は日本の政治家。参議院議員(2期)。旧姓は辻。東与賀村長の辻武一郎の子。祖父は佐賀の干拓の父と呼ばれた辻演年。兄は陸軍兵器学校の校長などを務めた陸軍中将の辻演武。 佐賀県佐賀郡出身。旧制佐賀県立佐賀中学校卒業後、上海の東亜同文書院大学に進むが中退。明治28年創業の蔵元「窓の月」を営む福岡家に養子に迎えられる。海外経営に熱心でハルビンや蘇州で酒造を手がけた。戦後、翼賛事務長などを理由に公職追放となり、1948年に生コン、酒類、建築資材などを販売する福岡商店を創業した。 追放解除後の1955年から佐賀県議会議員を5期務めた後、国政に進出。
細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1… 細川 忠雄(ほそかわ ただお、1909年11月20日 - 1969年11月29日)は、日本の新聞記者。 山梨県甲府市出身。東京外国語学校フランス語科卒。東京市役所勤務ののち、1939年読売新聞社に入社。ハノイ特派員、バンコク支局長などを経て、1946年論説委員となり、1955年から夕刊コラム「よみうり寸評」を担当した。日本エッセイスト・クラブ賞選考委員を務めた。
綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1… 綾若 真生(あやわか まさお、1909年11月20日 - 1989年11月10日)は、青森県南津軽郡(現在の黒石市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は高橋 勝雄(たかはし かつお)。最高位は西前頭5枚目(1940年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重82kg。得意手は右四つ、下手投げ、捻り、足癖、とったり。 農家に生まれ、幼少時から力が強く米2俵を両手に担ぎ近在の評判になったという。同じ津軽出身の綾櫻を慕って上京、出羽海部屋に入門して1925年1月場所に綾櫻に因んだ「綾若」の四股名で初土俵を踏んだ。綾櫻や大ノ里らの指導を受け、入門から5年後の1930年5月場所で十両に昇進した。
加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1… 加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1986年1月3日)は、新潟県出身の俳人。本名チヨセ。旧姓・矢野。東頸城郡安塚(現上越市)生。1929年、加藤楸邨と結婚。1931年、句作をはじめ「若竹」「馬酔木」に投句。1940年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。1954年、池上不二子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。句集に『冬萌』『朱鷺』『太麻由良』『夢たがへ』『飛燕草』『頬杖』がある。 1986年1月3日没、墓所は東京都世田谷区の九品仏浄真寺。
稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明… 稲葉 修(旧字体: 稻葉 修、いなば おさむ、1909年〈明治42年〉11月19日 - 1992年〈平成4年〉8月15日)は、日本の政治家、文部大臣(第94代)、法務大臣(第34代)、衆議院議員(14期)。法学博士。 兄の稲葉圭亮も政治家で衆議院議員だった。長男は元衆議院議員の稲葉大和。 1909年11月19日、現在の新潟県村上市に生まれる。村上中学、旧制山形高校といずれの学校でもいわば武勇伝(中学では生徒会長として祭りの日に学校を休みにしろと同盟休校を主導したため、高校ではカンニングが発覚したため)での中途退学を経て、1936年中央大学法学部独法学科を卒業。1940年中央大学大学院を修了。1945年中央大学教授に就任。
山本 三郎(やまもと さぶろう、1909年(明治42年)11… 山本 三郎(やまもと さぶろう、1909年(明治42年)11月17日 - 1997年(平成9年)10月15日)は、日本の建設官僚、経営者。工学博士。建設事務次官などを歴任した。 山梨県に生まれる。1933年、東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に内務省土木局に就職。関東地方建設局内の各所長などを経て、1956年、建設省河川局長、1960年、建設省技監、1961年、建設事務次官を歴任。1963年に退官した。同年、土木学会会長( - 1964年)に就任。 1964年、三井港湾開発社長となる。1974年、水資源開発公団総裁に就任し、1982年まで在任した。1997年死去。享年87。 治水分野で活躍し、特定多目的ダム法や海岸法、地すべり等防止法、治山治水緊急措置法の制定や、1963年に新河川法が制定される際に中心的な役割を果たした。
牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月… 牛場 信彦(うしば のぶひこ、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1984年〈昭和59年〉12月31日)は、日本の外交官。位階は従二位。 対外経済担当大臣(福田赳夫改造内閣)、在アメリカ合衆国日本国特命全権大使、外務事務次官、外務審議官、在カナダ日本国特命全権大使などを歴任した。世界和平連合会発足当時の理事。祖父は牛場卓蔵。兄に近衛文麿の秘書官を務めた牛場友彦がいる。弟は慶應義塾大学医学部教授で、国家公安委員会委員を務めた牛場大蔵。 1909年、兵庫県にて生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1932年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、外務省に入省。 入省後、第二次世界大戦敗戦まではドイツ畑を歩む。
栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月… 栗山 良夫(くりやま よしお、1909年〈明治42年〉11月16日 - 1988年〈昭和63年〉1月13日)は、日本の政治家、労働運動家。参議院議員(3期、日本社会党)。 岐阜県出身。1930年(昭和5年)浜松高等工業学校電気科卒業。東邦電力に入り、戦後、中部電力労働組合委員長、電産協議会議長に就任する(いずれも初代)。 1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙において愛知県地方区から日本社会党公認で立候補して初当選する(6位当選)。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙から全国区に転じ、2回当選した。この間、参議院電力問題に関する特別委員長、同労働委員長を歴任、社会党内では中央執行委員、党統制委員、愛知県連会長などを務めた。
まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 20… まど・みちお(1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人。作詞家。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。25歳のときに北原白秋にその才能を認められた。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称された。 山口県都濃郡徳山町(のちの徳山市、現在の周南市)の生まれ。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母がまどの兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。
マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月… マキノ 光雄(マキノ みつお、明治42年(1909年)11月15日 - 昭和32年(1957年)12月9日)は、日本の映画プロデューサー。「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活京都撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東横映画撮影所長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。 1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。
大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 19… 大島 里喜(おおしま りき、1909年11月15日 - 1986年)は、日本の歌手(民謡歌手)。本名は大久保 里喜(おおくぼ りき)。 大島里喜は、東京都・伊豆大島・大島町の民謡「大島節」や「あんこ節」の歌い手、第一人者で、大島節を日本全国に広げ、伊豆大島の観光資源化に寄与貢献した。また、大島民謡という郷土芸能・郷土文化を、後世に口承・伝承する役目を担った。大島御神火太鼓を創始したのも大島里喜である。 1909年(明治42年)、11月15日、大島里喜(本名・大久保里喜)は、東京都伊豆大島・元村(現在の大島町・元町)に生まれる。父・大久保虎吉、母・柳瀬志げ(伊豆大島志考記載)。 1925年(大正14年)、唄の神様と言われた柳瀬シズに唄を勧められ、大島民謡を本格的に習い始める。
坪川 信三(つぼかわ しんぞう、1909年(明治42年)11… 坪川 信三(つぼかわ しんぞう、1909年(明治42年)11月13日 - 1977年(昭和52年)11月20日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。 自由民主党衆議院議員(10期)、福井市長(1期)、建設大臣、総理府総務長官、沖縄開発庁長官を歴任した。福井県出身。 1909年11月13日、福井県足羽郡社村種池(現・福井市種池1丁目)に生まれる。 1924年3月社村江守尋常小学校高等科卒業。1929年3月福井師範学校(現・福井大学教育学部)卒業。 北京で日本居留民の教育に携わり,のち湯沢三千男内相の秘書官となる。 1946年4月、福井県全県区から第22回衆議院議員総選挙に立候補し初当選するも、炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問され、その後逮捕されたが起訴猶予処分となった。
芳武 茂介(よしたけ もすけ、1909年(明治42年)11月… 芳武 茂介(よしたけ もすけ、1909年(明治42年)11月12日 - 1993年(平成5年)8月3日)は、日本のクラフトデザイナー。現在の山形県南陽市出身。 1935年、東京美術学校(のちの東京芸術大学)を卒業後、商工省工芸指導所に勤務。1941年、第4回新文展に「飛鳥置物」を出品して特選を受賞。1945年には日本陸軍向けの囮飛行機の開発に参加した。 1956年、ガラス工芸の佐藤潤四郎らと日本デザイナークラフトマン協会を設立した。1961年、工業技術院産業工芸試験所意匠第二部長を退官、デザイン事務所東京クラフトを設立し、武蔵野美術大学教授に就任。1974年、国井喜太郎賞を受賞。1976年、鋳鉄による皿、鍋で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1980年、勲四等旭日小綬章を受勲。
小森 和子(こもり かずこ、1909年〈明治42年〉11月1… 小森 和子(こもり かずこ、1909年〈明治42年〉11月11日 - 2005年〈平成17年〉1月8日)は、日本の映画評論家、タレント。旧姓は安彦(あびこ)。愛称は「(小森の)おばちゃま」。 東京府東京市赤坂区(今の東京都港区赤坂)に生まれ育つ。実家は裕福であった。小学校は赤坂区内に通い、当時麻布区にあった東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)を卒業した、今風に言えば港区育ちである。高等女学校卒業後、『婦人公論』誌編集部で見習い記者を務める。 関係を持った菊池寛の運営する『映画時代』誌編集部へ移り、さらに京都で作家の川口松太郎の愛人生活を送るようになる。その後、神戸にあったイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店で会社員生活を送る。
飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2… 飯田 しづえ(いいだ しづえ、1909年11月10日 - 2003年3月30日)は、日本の政治家、市民活動家。大阪府内初の女性市議会議員として、1955年から7期、無所属の豊中市議会議員を務めた。 大阪府大阪市出身。大阪市電の車輌課の技手だった父松田信八、母志なの長女として生まれる。母方の姓である「中村」を継いで祖父の養女となった。1922年、大阪府立梅田高等女学校(1923年に移転し大手前高等女学校と改称)に入学、当時は女子が小学校を卒業して女学校へ行くことは珍しかったが、勉強好きの母の「受けるだけ受けさせてみたら」の一言で受験がかなったという。 女学校在学中に、新教育運動の流れをくむ国語教師や英語教師の影響を受けて映画や芝居に興味を持ち、次第に社会主義思想にも関心を寄せるようになった。
榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 … 榊原 金之助(さかきばら きんのすけ、1909年11月9日 - 1983年3月12日)は、日本の新聞記者、政治家。『東海新聞』(『東海愛知新聞』の前身)の創立者の一人。東海新聞社の社長を26年間務めた。また、愛知県議会議員を2期務めた。 愛知県額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に生まれる。祖父の事業の失敗から岡崎市の中心部に一家は移住。文選工見習いをしながら家計を助け、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業。 1915年(大正4年)春、竹内京治が社主を務めていた日刊紙『岡崎朝報』に入る。やや遅れて入社したのが太田光二であった。太田は戯作的色合いの強かった同僚記者とは一線を画し、「時事漫談」という硬派の文章を執筆していたという。
黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 200… 黒田 俊夫(くろだ としお、1909年11月8日 - 2006年12月30日)は、日本の人口学者。厚生省人口問題研究所所長、日本大学人口研究所所長、日本人口学会会長などを歴任した。 兵庫県姫路市伊伝居生まれ。姫路市立姫路商業学校(現兵庫県立姫路商業高等学校)では同級生の柿坪正義(のちに特命全権大使)とともに東京商科大学(現一橋大学)を目指し、勉強し、1931年同大学商学専門部卒業、支那経済事情研究会入会。1933年東京商工会議所入所。1936年日本大学商経学部経済学科卒業。1939年上海中支那軍票交換用物資配給組合入所。1947年厚生省人口問題研究所入所。1953年東京商科大学専攻科修了。1961年資源調査会専門委員。
久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 20… 久保田 尚志(くぼた たかし、1909年11月8日 - 2004年1月1日)は、日本の化学者。理学博士。大阪市立大学名誉教授。有機化学の権威。日本化学会名誉会員。 鹿児島県鹿児島市出身。鷹師町で生まれて1914年に市内の上竜尾町に転居し、鹿児島市立大龍小学校を出る。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、第七高等学校造士館 (旧制)理科甲類を1929年に卒業。東北帝国大学理学部化学科で真島利行に師事して1932年に卒業し、東北大の助手となって藤瀬新一郎の下で研究に従事。1936年に大阪帝国大学理学部小竹無二雄研究室の助手に転じて、1939年に大阪大学助教授。同年「白茶に含まれるフラパノール、アンペロプチンの構造研究」で理学博士。
近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8… 近藤 豊(こんどう ゆたか、1909年(明治42年)11月8日 - 1994年(平成6年)5月24日)は、日本の建築学者。京都市生まれ。 古建築の研究者で、古建築の細部の意匠や文様を分類した。 中学生の時より京都帝大教授の天沼俊一に師事し、天沼とともに日本・朝鮮の古建築の多数の写真を撮影した。 1940年に京都大学大学院を卒業。京都大学工学部建築学教室嘱託を経て、滋賀県立短期大学建築科教授、大阪教育大学家政学部教授、摂南大学工学部建築科主任教授などを歴任。 一心寺本堂(大阪府大阪市)、明王院多宝塔(岡山県浅口市)など多数の建築の再建における設計監督も務めた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 198… 野間 光辰(のま こうしん、1909年11月7日 - 1987年4月30日)は、日本の国文学者。号は般庵。京都大学名誉教授。専門は近世日本文学で、井原西鶴研究の第一人者。 大阪府出身。旧制浪速高等学校を経て、1933年、京都帝国大学国文科卒業。藤井乙男に師事。1949年、京都大学助教授となり、1951年、教授に昇任した。 1973年、定年退官し名誉教授、皇學館大学教授を1983年まで務めた。1981年勲二等瑞宝章受章。1987年4月30日叙正四位。 1974年、藤本箕山の『色道大鏡』を刊行した。実証的な学風で知られ、井原西鶴や近松門左衛門や曲亭馬琴の研究においても成果を残している。終生、羽織はかま姿で教壇に立ち、文人の風格を漂わせる名物教授だった。
上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991… 上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日)は、日本の俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。
岩崎 信彦(いわさき のぶひこ、1909年11月7日 - 1… 岩崎 信彦(いわさき のぶひこ、1909年11月7日 - 1987年8月25日)は、日本の経営者。東京都出身。 1933年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に住友合資に入社。1948年に住友機械工業(のちの住友重機械工業)に転じ、1955年5月に取締役に就任し、1959年11月に常務、1964年5月に専務を経て、1969年6月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1987年8月25日心不全のために死去。77歳没。
井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11… 井川 伊勢吉(いかわ いせきち、1909年〈明治42年〉11月7日 - 1990年〈平成2年〉7月4日)は、日本の実業家。大王製紙創業者。幼名高助。大王製紙前会長井川意高の祖父。 1943年(昭和18年)大王製紙設立。1981年(昭和56年)県功労賞。1984年(昭和59年)伊予三島市名誉市民。1986年(昭和61年)愛媛放送賞受賞、同年勲二等瑞宝章。 井川伊勢吉は、幼名高助といった。チビだったため、低助のアダ名がついた。伊勢吉の経営者としてのスタートは、戦時下という特殊な事情もあって苦難の連続であったが、苦労を苦労としない不屈の精神力と決断力が今日を築いたといえる。 伊勢吉について、地元商店街の関係者によると「創業者の井川伊勢吉氏は、身長が百五十センチに満たない小柄な人でしたが、働き者でね。
浅村 廉(あさむら きよし 1909年11月6日 - 199… 浅村 廉(あさむら きよし 1909年11月6日 - 1994年7月6日)は、日本の経済企画官僚。 東京府立一中、第一高等学校文甲を経て、1935年、東京帝國大学法学部を卒業。台湾銀行入行。高等文官試験行政科合格を経て、朝鮮総督府入庁。財務局勤務などを経て、経済企画庁総合開発局長。その後、道路公団副総裁を経て、1968年4月から1977年9月まで住宅金融公庫に総裁としてその椅子にあった。1980年4月、勲二等旭日重光章を受章。
棟田 博(むねた ひろし、1909年〈明治41年〉11月5日… 棟田 博(むねた ひろし、1909年〈明治41年〉11月5日 - 1988年〈昭和63年〉4月30日)は、日本の作家。自己の戦争体験を元に手記・随筆・小説を描いた「兵隊作家」のひとり。 1909年(明治41年)11月、岡山県英田郡倉敷村(現在の美作市林野)の伊藤家に生まれる。後に岡山県津山市の棟田家の養子となる。家は料亭を営み、常に芸妓の姿や三味線の音が絶えなかったという。旧制岡山県立津山中学校を経て、早稲田大学文学部国文科を中退する。地元に帰り、短歌同人に参加するなど、文学青年の道を歩む。 1928年(昭和3年)に徴兵検査甲種合格、1929年(昭和4年)1月、岡山歩兵第10連隊に現役兵として入営する。
吉富 重夫(よしとみ しげお、1909年11月5日 - 19… 吉富 重夫(よしとみ しげお、1909年11月5日 - 1976年5月9日)は、日本の行政学者・政治学者・弁護士。法学博士(京都大学)。大阪市立大学名誉教授。辻清明 (政治学者)と並ぶ行政学第2世代の一人。 1909年、長崎県佐世保市に生まれる。1930年佐賀高等学校文科甲類卒業。1934年京都帝国大学法学部政治科卒業。同年、立命館大学研究生。1935年立命館大学助教授に就任。1942年立命館大学教授に就任。1947年立命館大学を退職。1948年京都弁護士会で弁護士登録。1952年大阪市立大学法学部教授に就任(~1973年)。1962年大阪市立大学法学部長(~1964年)、1967年大阪市立大学教養部長(~1969年)、1973年大阪市立大学停年退官。
小沼 亨(おぬま とおる、1909年11月5日 - 1963… 小沼 亨(おぬま とおる、1909年11月5日 - 1963年9月8日)は、日本の公取官僚。青島領事などを経て、公正取引委員会事務局長を務めた。 愛媛県西宇和郡三瓶町(現・西予市)出身。1934年東京帝国大学法学部政治学科卒業。同年東京市入庁。1939年興亜院属。1940年興亜院華中連絡部事務官。1943年青島領事。1951年特別調達庁業務部総括課長。1952年特別調達庁管理部不動産管理課長。同年調達庁総務部会計課長。1954年公正取引委員会事務局官房庶務課長。1957年公正取引委員会事務局経済部長、総理府共済組合運営審議会委員。1962年公正取引委員会事務局長。1963年正四位勲三等瑞宝章。
松村 博司(まつむら ひろじ、1909年11月5日 - 19… 松村 博司(まつむら ひろじ、1909年11月5日 - 1990年10月30日)は、日本の国文学者。名古屋大学名誉教授。文学博士。1958年、日本学士院賞受賞。 静岡県島田市出身。静岡県立静岡中学校、静岡高等学校 (旧制)文科丙類を経て、1933年、東京帝国大学文学部国文科卒業。1957年「栄花物語の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。 1933年から1938年まで、母校の静岡中学で教鞭を執った(国漢)。山形高等学校教授、第八高等学校教授、名古屋大学文学部助教授を経て、1959年、同教授。1973年、定年退官、名誉教授。南山大学教授。1980年、南山大学退職。1958年、「栄花物語の研究」で日本学士院賞受賞。
米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年(明治42… 米内山 義一郎(よないやま ぎいちろう、1909年(明治42年)11月4日 - 1992年(平成4年)10月5日)は、昭和から平成初期の農民運動家、社会運動家、政治家。衆議院議員、青森県上北郡浦野舘村長。 青森県上北郡浦野舘村(上北町を経て現東北町)で、歯科医師・米内山健助、ミキの長男として生まれる。1923年(大正12年)4月、青森県立青森中学校(現青森県立青森高等学校)に入学。同級に津島修治(太宰治)、阿部合成らがいた。 1926年(大正15年)10月、青森中学校を中退して帰郷し青年団活動に従事。1927年(昭和2年)6月、社会民衆党に入党し小作争議に加わる。1928年(昭和3年)全国農民組合青森県連合会の創立に加わり執行委員に就任し、上北地方の農民運動を指導した。
柴野 民三(しばの たみぞう、1909年11月4日 - 19… 柴野 民三(しばの たみぞう、1909年11月4日 - 1992年4月11日)は、日本の児童文学作家・詩人。 東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)生まれ。日比谷小学校(現千代田区立麹町小学校)、錦城商業学校卒業。 1929年(昭和4年)、大橋図書館にに勤務し、児童図書室を担当する。『赤い鳥』などに投稿し北原白秋に師事。童謡誌「チチノキ」同人として詩作する。1932年(昭和7年)、有賀連らと「チクタク」を創刊。1935年(昭和10年)、私立大橋図書館を退職し、小川未明主宰『お話の木』創刊に際して編集に当たる。のち絵雑誌『コドモノヒカリ』などを編集、1942年から文筆業。 1992年4月11日、呼吸不全のため死去。
岡本 舜三(おかもと しゅんぞう、1909年11月3日 - … 岡本 舜三(おかもと しゅんぞう、1909年11月3日 - 2004年4月14日)は、日本の応用力学者、文化功労者。埼玉大学第5代学長(1974年 - 1980年)。埼玉大学名誉教授。耐震工学の専門家。東京府出身。
河田 清史(かわた きよし、1909年〈明治42年〉11月3… 河田 清史(かわた きよし、1909年〈明治42年〉11月3日 - 1991年〈平成3年〉)は、日本の翻訳家、文筆家。本名・篠原善太郎。創価学会系の東西哲学書院 元代表取締役。 東京生まれ。1935年、東京帝国大学文学部美学専攻卒業。1939,40年に宝塚歌劇の脚本を執筆。アジア文学に関心が深く『ラーマーヤナ』の抄訳を数回行った。
上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1… 上野 淳一(うえの じゅんいち、1909年11月1日 - 1997年10月19日)は、朝日新聞社の元社主。 朝日新聞社第3代社主・上野精一の息子であり、初代社主・上野理一の孫。岳父は三井財閥幹部の福井菊三郎。岳母の父は麻布中学校を創立した江原素六。息子は第4代社主の上野尚一。 北野中学校、広島高等学校 (旧制)、1934年京都帝国大学経済学部卒業。1937年に朝日新聞社に入社。戦後の1945年に戦争責任を明らかにするために退社。神戸商科大学事務局長、田中耕太郎最高裁判所長官の秘書官を務めた後、1952年に朝日新聞社に復帰した。1970年から社主となった。京都国立博物館評議員、仏教美術研究上野記念財団理事。
高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)… 高橋 喜一郎(たかはし きいちろう、1909年(明治42年)10月31日 - 2001年(平成13年)9月16日)は、日本の政治家。山形県新庄市長(5期) 。位階は正五位。 山形県最上郡新庄町(現・新庄市)出身。1927年、山形県立新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)卒。1947年、新庄町議会議員に当選。1949年、新庄町の市制施行により、新庄市議会議員となる。市議会議長を2期務めた。1965年、新庄市長に当選する。3期務めた後、1977年に落選。4年後の1981年に市長に返り咲き、2期務め、1989年に退任した。ほか、新庄体育協会、新庄市社会福祉協議会各会長、山形県体育協会理事を歴任した。
土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月3… 土州灘 浪五郎(としゅうなだ なみごろう、1909年10月31日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。二子山部屋→二所ノ関部屋所属。本名は石川 久治(いしかわ ひさじ)。高知県香美郡香我美町(現香美市)出身。最高位は西十両14枚目。得意技は左四つ、下手投げ。 同郷の前頭・土州山役太郎の二子山部屋に入門。1928年1月場所に初土俵を踏む。1936年5月場所に十両に昇進。この場所は1勝10敗と大きく負け越し、1場所で幕下に落ちた。幕下から三段目に落ち、1942年5月場所で廃業した。
油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 199… 油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 1992年7月21日)は日本の実業家(美術商)。 長野県北佐久郡三井村香坂(現佐久市香坂)出身。小学校高等科卒業後に上京し、昭和6年(1931年)東亜美術協会の絵画出張販売員となる。同9年(1934年)共同出資により日東美術協会を創立するが、同12年(1937年)から14年(1939年)まで、日中戦争に従軍した。同16年(1941年)、上野広小路に美術店を開いたが、東京大空襲で焼失した。戦後は武者小路実篤の知遇を経て、その作品を扱った。同40年(1965年)「美術年鑑」の権利を創刊者の山田正道から買い取り、「美術年鑑社」として株式会社を設立し、代表取締役社長となった。
白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉… 白井 庄次郎(しらい しょうじろう、1909年〈明治42年〉10月29日 - 2020年〈令和2年〉8月11日)は、日本のスーパーセンテナリアン。滋賀県高島市在住の長寿の男性。2020年4月14日以降死去するまで男性長寿日本一となっていた。 1909年生まれ。滋賀県高島市に暮らす。2016年に県内最高齢男性となる。 2016年9月時点では耳が遠いが身の回りのことは自分ででき食事の好き嫌いもない。2016年に初めて要介護認定を受けデイサービスに通い始めた。2018年時点では次男夫婦と同居し、身の回りのことは自分ででき、知事選の期日前投票にも行っている。趣味は新聞や歴史に関する本を読むことだった。 2020年4月、巴一作の死去に伴い、110歳169日で国内最高齢男性となる(厚生労働省発表、2020年4月15日)。
番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)1… 番場 嘉一郎(ばんば かいちろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1989年(平成元年)5月30日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授、千葉商科大学名誉教授。元青山学院大学教授。第4代千葉商科大学学長(1975年4月 - 1987年3月)。太田哲三門下。中村忠(一橋大学名誉教授)、山浦久司(第29代会計検査院長)は門下生。従三位。 1909年10月28日、東京都渋谷区初台に生まれる。生涯にわたりこの地で暮らした。 東京府立第一商業学校、東京商科大学(現在の一橋大学)附属商学専門部を経て、1931年4月、同大学本科に入学。 太田哲三のゼミナールに所属し、1934年3月に卒業する。卒業論文は『経営分析研究』。
野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月… 野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。三島由紀夫や幸田文を世に送り出した人物である。 福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1930年(昭和5年)、久留米市で同人誌『街路樹』に参加して詩作を開始する。1933年(昭和8年)、詩集『北の部屋』を出版。1936年(昭和11年)、安西均や丸山豊らと同人誌『糧』を創刊。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。
櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉… 櫻井 勝之進(さくらい かつのしん、1909年〈明治42年〉10月28日 - 2005年〈平成17年〉12月25日)は、日本の神職。 1909年、島根県那賀郡今福村(現浜田市)に社家の長男として生まれる。1931年(昭和6年)に神宮皇學館(皇學館大学の前身)を卒業し、熊本県菊池市の菊池神社の宮司など官国幣社4社の神職を経て、1955年に神宮教化局教導司、1957年より神宮禰宜として奉職。祭祀のかたわらで皇學館大学で祭祀概説の非常勤講師を兼務。1975年に芦屋大学で日本文化研究の教授に就任(1995年まで)。多賀大社宮司、神社本庁総長を務めたのちに皇學館大学理事長に就任。1990年に神社本庁から「長老」の称号をうける。
高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1… 高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1934年7月13日)は、日本の社会運動家。 福岡県三井郡合川村(現久留米市)で、造り酒屋の二女に生まれた。福岡県立久留米高等女学校(現福岡県立明善高等学校)を経て、1926年日本女子大学に入学。労働農民党の活動に参加していた長兄・日郎(じつろう)の影響で、在学中の1929年頃から学生社会科学連合会(学連)目白班の運動に参加し、卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟。同大学国文科を卒業、1930年4月より機関紙『無産青年』編集局で働くかたわら、各地でオルグ活動を行なった。結核のため1931年暮れから1932年にかけて入院したが、途中で病院を抜け出し活動に復帰。
豊岡 益人(とよおか ますと、1909年〈明治42年〉10月… 豊岡 益人(とよおか ますと、1909年〈明治42年〉10月27日 - 1988年〈昭和63年〉10月29日)は、昭和時代の政治家。三重県上野市長。 三重県出身。市田真道の三男として生まれ、豊岡博道の養子となる。1934年(昭和9年)東京帝国大学文学部を卒業し、帝国美術院付属美術研究所嘱託となり、翌年念佛寺住職に就任。三重県国宝重要美術調査員、上野市公安委員を経て、1950年(昭和25年)三重大学講師を経て、1953年(昭和28年)5月、上野市長に就任した。 市長就任後間もなく東近畿大水害に見舞われ災害復旧に奔走。また、周辺村との合併問題をまとめた上野基本調査は統計界の大賞である大内賞を受賞した。
三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 198… 三田 博雄(みた ひろお、1909年10月26日 - 1989年7月17日)は、日本の科学史家。神戸大学名誉教授。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日… 土門 拳(どもん けん、1909年〈明治42年〉10月25日 - 1990年〈平成2年〉9月15日)は昭和時代に活躍した日本の写真家。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界屈指の名文家としても知られた。 土門は、1950年代の前半頃から「社会的リアリズム」を標榜(後年本人が告白したところでは、実質的には社会主義リアリズムであったという)、「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、日本の写真界に一時期を画した。当時、リアリズム系の写真家としては、木村伊兵衛と双璧をなした。
石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 199… 石井 孝(いしい たかし、1909年10月25日 - 1996年5月6日)は、日本史学者。幕末維新期対外関係が専門。
磯部 忠正(いそべ ただまさ、1909年10月22日 - 1… 磯部 忠正(いそべ ただまさ、1909年10月22日 - 1995年7月13日)は、日本の哲学者。 兵庫県生まれ。1933年東京帝国大学文学部哲学科卒。学習院大学教授、学習院院長、名誉院長・教授。 磯部俶は弟。1987年、勲二等旭日重光章受章。1995年7月13日、腹膜炎のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
宮沢 次郎(みやざわ じろう、1909年(明治42年)10月… 宮沢 次郎(みやざわ じろう、1909年(明治42年)10月22日 - 1999年(平成11年)7月3日)は、日本の実業家。満洲国官吏、大蔵官僚を経て、トッパン・ムーア会長。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校に学ぶ。1933年(昭和8年)、東京帝国大学法学部卒業。満洲国政府に入り、1941年(昭和16年)、日本政府に派遣され、内閣総力戦研究所に入所。1942年(昭和17年)、満洲国に帰任、役職を歴任。終戦後、大蔵省国有財産局総務課勤務を経て、1949年(昭和24年)、高松財務局国有財産部長。高松財務部次長を経て、本省理財局管理課長、印刷局業務課長を歴任。1953年(昭和28年)5月、凸版印刷に転じ、取締役総務部長。
西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月… 西村 力弥(にしむら りきや、1909年(明治42年)10月22日 - 1985年(昭和60年)5月6日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。 山形市出身。1929年(昭和4年)山形県師範学校を卒業した。小学校訓導となり、農業、自由労働者、役場書記などを経て、再び小学校教員に就任。全教協最高闘争委員、全官公共闘委員会渉外部長、山形県教員組合執行委員長、山形県官公労働組合会議議長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月、第25回衆議院議員総選挙で山形県第1区から社会党左派公認で立候補して初当選し、以後、第29回総選挙まで連続して再選され、衆議院議員に連続5期在任した。この間、日本社会党出版部副部長、同軍事基地委員会事務局長、同軍事基地対策特別委員長、同社会主義理論委員会副委員長、同党両院議員総会副会長、原水爆禁止日本協議会顧問、日本平和委員会常任理事、山形県労農会議議長、山形日中貿易社長などを務めた。