杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 19… 杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる。浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学、松岡映丘に師事する。山本丘人、髙山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年(昭和4年)、帝展に出品、1931年(昭和6年)、美校日本画科卒、結城素明に師事。
石本 省吾(いしもと せいご、1909年〈明治42年〉10月… 石本 省吾(いしもと せいご、1909年〈明治42年〉10月20日 - 1985年〈昭和60年〉6月24日)は、日本の酒造家。石本酒造2代目社長。幻の酒「越乃寒梅」を造り上げる。 新潟県中蒲原郡大江山村大字北山新田(現 新潟市江南区北山)の蔵元・石本酒造に生まれる。 1928年(昭和3年)3月に新潟中学校を卒業、4月に明治大学予科に入学、中学校の時に引き続き端艇部に入部、アムステルダムオリンピックのボート競技の国内予選で敗退、端艇部を退部、山岳部に入部。 1933年(昭和8年)3月に明治大学政治経済学部を卒業、石本酒造2代目社長に就任、1944年(昭和19年)から新潟中学校の先輩で新潟財務局技手の田中哲郎の指導を受け、太平洋戦争後、銘酒「越乃寒梅」の改良を開始。
廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日… 廣田 宗(ひろた そう、1909年(明治40年)10月20日 - 1986年(昭和61年)11月29日)は、日本の実業家。小田急電鉄社長、日本民営鉄道協会会長等を務めた。 大分県出身。1932年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、三菱銀行入行。 四日市、熱田各支店長を経て、本店営業部長、審査第二部長、福岡支店長、取締役、審査第一部長を歴任。 1963年にその人格・識見を見込んだ小田急電鉄社長の安藤楢六が、当時の三菱銀行頭取だった宇佐美洵に懇請し、小田急グループに迎えられ、小田急百貨店専務に就任。 1964年、小田急電鉄に転じ取締役、翌年専務、1969年社長。 1981年には会長に退き、ホテル小田急社長を兼務した。
丸井 金猊(まるい きんげい、1909年10月19日 - 1… 丸井 金猊(まるい きんげい、1909年10月19日 - 1979年7月12日)は、戦前に活動していた日本画家。 神奈川県立神奈川工業高等学校工芸図案科(のちの産業デザイン科)元教諭。本名・丸井 金蔵(まるい きんぞう)。 愛知県葉栗郡北方村(現在の一宮市北方町)出身。九人兄弟の三男として生まれる。愛知県立工業学校(現在の愛知県立愛知総合工科高等学校)を卒業後、郷里出身の著名な日本画家である川合玉堂に憧れ、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学。同期生には、杉山寧、川本末雄らが在籍。1933年卒業後(修業年限5か年)同校同科研究科(現在の大学院)に2年在籍。
尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 199… 尾茂田 叶(おもだ かの、1909年10月19日 - 1997年1月7日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)ホノルル生まれのプロ野球選手。ポジションは外野手。アメリカ人日系2世。
小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月… 小福田 租(こふくだ みつぎ、1909年(明治42年)10月18日 - 1995年(平成7年)7月29日)は日本の海軍軍人、航空自衛官である。海軍兵学校(第59期)卒。最終階級は海軍で海軍中佐、自衛隊で空将。ペンネームは小福田 晧文(こふくだ てるふみ)。 1909年(明治42年)10月、岡山県津山に生まれる。1928年(昭和3年)3月、岡山県立津山中学校(現:岡山県立津山高校)卒業し、同年4月、江田島海軍兵学校第59期に入校。1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校卒業。1933年(昭和8年)4月、第25期飛行学生を卒業。1934年(昭和9年)、大村海軍航空隊で戦闘機課程を受ける。周囲の勧めもあり、結婚を考えて海軍省に結婚願いを提出し、晩秋に「結婚認可書」を受けとるも、すぐに「戦地に転勤を命ず」という辞令がきたので、婚約を解消した。
曽沢 太吉(曾澤太吉、そざわ たきち、1909年10月17日… 曽沢 太吉(曾澤太吉、そざわ たきち、1909年10月17日 - 1996年2月13日)は、国文学者。中古・中世文学が専門。 長野県上高井郡小山村(現須坂市)生まれ。旧制須坂中学(長野県須坂高等学校)を経て、1933年京都帝国大学文学部国文科卒。旧制大阪府立市岡中学、池田中学などの旧制中学校教諭を経て、1943年大東亜錬成院錬成官、1944年長岡工業専門学校教授、1947年奈良女子高等師範学校教授、1950年奈良女子大学教授、1963年文学部長、1971年学長。1977年定年退官、名誉教授、摂南大学国際言語文化学部教授。仏教美術協会理事長。文化庁平城宮跡保存整備委員会委員などを歴任した。
川島 武宜(かわしま たけよし、1909年〈明治42年〉10… 川島 武宜(かわしま たけよし、1909年〈明治42年〉10月17日 - 1992年〈平成4年〉5月21日)は、日本の法学者。専門は、民法・法社会学。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1969年)(学位論文「所有権法の理論」)。東京大学名誉教授。弁護士。1979年学士院会員、1991年文化功労者。我妻栄門下。弟子に、潮見俊隆、渡辺洋三、唄孝一、廣中俊雄、石村善助、平井宜雄、六本佳平、石田穣、淡路剛久など。 岐阜県岐阜市生まれ。啓蒙的な著作を多く著し、丸山眞男、大塚久雄とともに戦後民主主義、啓蒙主義を代表する論者。東京帝国大学教授、スタンフォード大学客員教授等を歴任。東京大学教授退官後は弁護士として活動した。
二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年〈明治42年〉10… 二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年〈明治42年〉10月16日 - 2000年〈平成12年〉2月3日)は、日本の政治家。 内閣官房長官(第36・37代)、北海道開発庁長官(第27・28代)、科学技術庁長官(第18・19代)、原子力委員会委員長(第18・19代)、労働政務次官(第1次岸改造内閣)、衆議院商工委員長、同建設委員長、衆議院議員(16期)、自由民主党副総裁(第11代)、自由民主党幹事長(第16・23・24代)、自由民主党総務会長(第24代)などを歴任。 鹿児島県肝属郡高山村(現・肝付町)生まれ、出身。鹿児島県高山村長を務めた二階堂篤志の四男二女の次男として生まれる。鎌倉時代以来の名家・二階堂氏の出身であり、生家(二階堂屋敷)は国の重要文化財(1975年6月指定)で最後の居住者であった。
井原 伍郎(いはら ごろう、1909年10月15日 - 19… 井原 伍郎(いはら ごろう、1909年10月15日 - 1974年1月7日)は、日本の経営者。福岡県福岡市出身。 1930年に大倉高等商業学校を卒業し、同年に西部ガスに入社。1958年3月に福岡支店長に就任、取締役、常務、専務、副社長を経て、1970年2月に社長に就任。 1974年1月7日心筋梗塞のために死去。64歳没。
桑原 万寿太郎(くわばら ますたろう、1909年10月15日… 桑原 万寿太郎(くわばら ますたろう、1909年10月15日 - 1998年2月17日)は、日本の動物行動学者、基礎生物学研究所・九州大学名誉教授。 東京府生まれ。1933年北海道帝国大学理学部動物学科卒、1944年同理学部助教授、1949年「蜜蜂の空間定位に於ける触角の機能 (独文)」で北海道大学理学博士、1949年九州大学理学部教授、1973年定年退官、名誉教授、上智大学教授、1977年岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所初代所長、1981年岡崎国立共同研究機構長兼基礎生物学研究所長、1983年退官、名誉教授。 ミツバチの帰巣行動などを題材に、昆虫の生理、行動、感覚などの仕組みを研究、動物行動学を広く紹介した。
河原崎 国太郎(かわらさき くにたろう、1909年10月14… 河原崎 国太郎(かわらさき くにたろう、1909年10月14日 - 1990年10月11日)は、前進座の女形で俳優。本名:松山 太郎(まつやま たろう)。屋号は山崎屋。 両親とも広島県の出身。祖父・渡辺又三郎は広島藩主浅野家に仕え、維新後、代言人から政治家になり広島市会議長、第8代広島市長、衆議院議員などを務めた。父・松山省三はその三男で松山家に養子入り。リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。母・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれたのが太郎(国太郎)である。このため東京神田の生まれだが、国太郎自身「私の故郷は広島」と話している。 1928年、旧制立教中学校卒業後、二代目市川猿之助に入門。
盧 道陽(ノ ドヤン、노도양、1909年10月14日 - 2… 盧 道陽(ノ ドヤン、노도양、1909年10月14日 - 2004年4月3日)は、大韓民国の地理学者。日本の駒澤大学地歴科を卒業し、明知大学校の博物館長や湖西大学校名誉教授を務めた。大韓地理学会を、キム・ドテ(김도태)、ユク・ジス(陸芝修、육지수)、キム・ジョンウォン(金鍾遠、김종원)とともに1945年9月11日に創立し、カヤ文化研究院長などを歴任した。盧道陽は、1970年の論文で、風水地理と現代の科学的地理学を比較して、両者とも人間と自然環境との関係を見ているが、風水地理はある特殊な場所の土地を論じるだけなので、現代地理学でいう自然環境よりはその範囲が狭いと述べた。
中尾 明(なかお あきら、男性、1909年10月14日 - … 中尾 明(なかお あきら、男性、1909年10月14日 - 没年不明)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ロサンゼルスオリンピックバンタム級日本代表。法政大学卒業。 1931年、全日本アマチュア拳闘連盟主催の全日本アマチュア拳闘選手権大会にフェザー級で優勝を収めた。 1932年、ロサンゼルスオリンピックにバンタム級の日本代表として出場したが、1回戦でこの大会の銅メダリストとなるホセ・ルイス・ビジャヌエバ(英語版)(フィリピン)と対戦し、ポイント負けを喫した。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
大津 正(おおつ まさし、1909年10月13日 - 199… 大津 正(おおつ まさし、1909年10月13日 - 1997年1月29日)は、日本の政治家秘書。共に内閣総理大臣となった岸信介・佐藤栄作兄弟の下で秘書を務めた。山口県熊毛郡田布施町生まれで、この二人とは同郷である。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
次田 真幸(つぎた まさき、1909年(明治42年)10月1… 次田 真幸(つぎた まさき、1909年(明治42年)10月13日 - 1983年(昭和58年)11月15日)は、上代日本文学者。 妻・万貴は、文学博士田中義能の四女。弟次田香澄は中世日本文学者。 東京小石川に生まれる。父の次田潤は国文学者で、その長男。父の転勤にしたがい鹿児島、釜山、伊勢、鹿児島、佐賀、東京と移転、水戸高等学校(旧制)卒、1933年東京帝国大学文学部国文科卒。 1937年第四高等学校教授、40年第二高等学校教授、43年東京女子高等師範学校教授、49年お茶の水女子大学助教授、53年教授、75年定年退官、名誉教授、幾徳工業大学教授。80年退職。没後正四位。
安藤 俊雄(あんどう としお、1909年10月12日 - 1… 安藤 俊雄(あんどう としお、1909年10月12日 - 1973年12月26日)は、天台宗の仏教学者。大谷大学学長。 1909年、愛知県田原町(現:田原市)生まれ。1933年九州帝国大学法文学部哲学科を卒業。1936年京都帝国大学大学院修了。宗教哲学を専攻した。同年、大谷大学専門部嘱託教授、1937年より真宗専門学校教授(1950年の校名変更に伴い同朋大学教授)、1953年大谷大学専任講師、京都大学講師。1955年に「天台実相論の研究、一念三千論の展開」を九州大学に提出して文学博士号を取得。1956年に大谷大学教授となり、1970年からは学長を務めた。
緑川 林造(みどりかわ りんぞう 1909年(明治42年)… 緑川 林造(みどりかわ りんぞう 1909年(明治42年)10月12日~1993年(平成5年)1月7日)は、日本の工学者。北海道工業大学(現・北海道科学大学)元学長。工学博士。秋田県出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
月田 一郎(つきた いちろう、1909年10月11日 - 1… 月田 一郎(つきた いちろう、1909年10月11日 - 1945年9月27日)は、日本の俳優である。 本名は築田 智二郎(つきた ともじろう)だが、本名同じとの説や月田 一郎(つきだ いちろう)説などもある。戦前に松竹蒲田撮影所、新興キネマ、東宝などで多数の作品に出演したバイプレーヤーである。身長は5尺4寸(約163.6センチメートル)、体重は14貫200匁(約53.3キログラム)。 1909年(明治42年)10月11日、山口県岩国町(現在の同県岩国市)に生まれる。幼児期に東京府東京市(現在の東京都)へ移り、早稲田小学校(現在の新宿区立早稲田小学校)、東京中学校(現在の東京高等学校)を卒業して、法政大学に進学する。
金田 利雄(かねだ としお、1909年〈明治42年〉10月1… 金田 利雄(かねだ としお、1909年〈明治42年〉10月10日 - 1998年〈平成10年〉12月22日)は、日本の政治家、銀行家。新鶴村長、福島協和信用組合理事長。 1909年(明治42年)10月10日、旧新鶴村(現会津美里町)生まれる。 福島県立会津工業高等学校卒業後、福島県経済農業協同組合連合会に勤務する。 同校出身者として初めて旧新鶴村長に選出され、旧新鶴村長を務める。 村長在任中、「簡易水道布設費国庫補助に関する請願」を参議院に提出し、それらが1963年(昭和38年)12月21日に受理され、広域簡易水道を完成させた。 新鶴村長退任後、同校出身者として初めて福島協和信用組合理事長に就任。
折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 197… 折田 泉(おりた いずみ、1909年10月10日 - 1972年1月4日)は、日本のヴァイオリニスト、作曲家。 鹿児島県旧川辺郡知覧町(現・南九州市)出身。元衆議院議員の実業家折田兼至の五男。1927年に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業後、東洋音楽専門学校を経て東京高等音楽学院(国立音楽学校)へ進学し、アレクサンドル・モギレフスキーと芝祐孟に師事、1932年に本科卒業。新交響楽団(現・NHK交響楽団)でもヴァイオリンを弾いたが、手首を痛めて鹿児島県に帰郷。失意の中にいたが石井漠舞踊団の後援をしていた兄に誘われ、再上京して入団し舞踊に伴奏するヴァイオリニストとなる。黎明期だった洋楽界の基礎がために尽くす。
太田 三郎(おおた さぶろう、1909年10月10日 - 1… 太田 三郎(おおた さぶろう、1909年10月10日 - 1976年10月11日)は、日本の英文学者・比較文学者。 1909年(明治42年)10月10日、朝鮮・釜山に生まれた。 1934年(昭和9年)に東北帝国大学法文学部英語英文科を卒業した。太平洋戦争後に東京工業大学助教授に就任し、その後教授に就任した。1948年(昭和23年)には中島健蔵、福田陸太郎とともに日本比較文学会を設立、幹事を務め、国際比較文学会に出席した。1966年(昭和41年)に千葉大学教授に就任し、1973年(昭和48年)に定年退官した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
八馬 眞治(八馬 真治、はちうま しんじ、1909年〈明治4… 八馬 眞治(八馬 真治、はちうま しんじ、1909年〈明治42年〉10月10日 - 1976年〈昭和51年〉1月9日)は、日本の実業家。多聞酒造社長。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の六男。1932年、早稲田大学経済学科卒業。1942年、八馬汽船、1943年、西宮酒造各監査役。1949年、八馬汽船取締役。 灘五郷酒造組合理事長、日本酒造組合中央会評議員、西宮商工会議所常議員、西宮カントリークラブ理事をつとめる。また多聞有限社員である。 三代八馬兼介、八馬安二良、八馬駒雄の弟。 趣味は庭球。宗教は真宗。住所は兵庫県芦屋市平田町、西宮市大井手町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
三田村 泰助(みたむら たいすけ、1909年(明治42年)1… 三田村 泰助(みたむら たいすけ、1909年(明治42年)10月9日 - 1989年(平成元年)9月23日)は、日本の歴史家(東洋史・中国史)。 1909年、福井県南条郡武生町(現越前市)生まれ。山口高校から京都帝国大学東洋史学科に進んだ。東洋史学科では、内藤湖南、羽田亨に師事した。卒業後は、1949年から80年まで立命館大学教授。定年退職後に名誉教授。1989年9月に死去。
内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982… 内田 博(うちだ ひろし、1909年10月9日 - 1982年2月25日)は、日本の詩人。福岡県三池郡大牟田町(現・大牟田市)出身。詩人で童話作家の内田麟太郎は長男。 本名は内田弘喜智。1909年、福岡県大牟田下里(現・大牟田市元町)に3男4女の次男として生まれる。1922年に大牟田町立第二尋常小学校(現・大牟田市立大牟田小学校)を卒業すると進学せず、書店の丁稚奉公や実兄の起こした会社で働いた。 19歳のときに石川啄木の影響で詩作を始める。1929年、処女詩「秋・風景詩」を地元紙に投稿して掲載され、その後も地元紙に「村山三郎」の筆名で投稿をおこなった。その後、1932年に日本プロレタリア作家同盟に加盟。
今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉… 今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉10月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月10日)は、群馬県出身の民俗学者。日本民俗学会評議員。群馬県勢多郡北橘村議会議員を務めた。 1909年(明治42年)10月8日、群馬県勢多郡北橘村下箱田(現・渋川市北橘町下箱田)の今井善平と新子の長男として生まれる。今井家は農林業のかたわら質屋を経営していた。今井家は代々「善兵衛」の名を継ぐ旧家で祖父の今井善兵衛は1905年から1909年まで北橘村村長をつとめていた。1916年(大正5年)、橘尋常高等小学校に入学する。1922年(大正11年)、前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学する。
鈴木 善照(すずき よしてる、1909年 <明治42年> 1… 鈴木 善照(すずき よしてる、1909年 <明治42年> 10月8日 - 1993年 <平成5年> 8月18日)は、日本の経営者、工学博士。同和鉱業社長を務めた。位階は正四位。 千葉県出身。東京帝国大学に学ぶ。在学中は漕艇部に所属して活動。ベルリンオリンピックの漕艇競技のエイト種目では、東京帝大クルーが日本代表に選ばれたため、鈴木もその一員としてオリンピックに出場した(敗者復活戦で敗退)。鈴木はクルーのバウ(舳手)を務めた。 1936年に東京帝国大学工学部採鉱科を卒業、同年に同和鉱業に入社。1960年11月に取締役に就任し、1963年5月に常務を経て、1971年に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。
荘司 雅子(しょうじ まさこ、1909年10月6日 - 19… 荘司 雅子(しょうじ まさこ、1909年10月6日 - 1998年2月22日)は、日本の教育学者。広島大学名誉教授。フレーベル研究の第一人者。日本では女性で最初の文学博士取得者。 日本統治下の台湾、現在の嘉義県朴子市の生まれで、旧名は荘嫌(そう けん)、のちに荘無嫌(そう ぶけん)に改名。奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業後、広島文理科大学(現広島大学)教育学科に進学。そこで、ペスタロッチ研究者として知られる長田新に師事。フリードリヒ・フレーベルと幼稚園教育学を研究テーマに選ぶ。 卒業後、広島大学で助手、講師、助教授を経て、教授となる。1953年「フレーベル研究」で日本では女性で最初の文学博士の学位を取得。
本間 重三(ほんま じゅうぞう、1909年(明治42年)10… 本間 重三(ほんま じゅうぞう、1909年(明治42年)10月5日 - 1964年(昭和39年)11月4日)は、昭和時代の政治家。山形県酒田市長。 酒田本間氏の一族、本間鐐吉の二男として生まれ、兄鉄之助の跡を継ぐ。山形県立酒田中学校を経て東京商科大学を卒業し、1933年(昭和8年)より酒田市役所にて勤務する。庶務課長、考査役、総務課長と歴任したのち、1946年(昭和21年)青塚恒治前市長が公職追放となると市長代行者に選任された。翌年の1947年(昭和22年)4月には公選初代酒田市長に就任。3期12年に渡り務め、1959年(昭和34年)に退任した。 市長在任中は、戦後復旧、酒田病院設立などに尽瘁した。
中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5… 中野 重美(なかの しげみ、1909年(明治42年)10月5日 - 1991年(平成3年)8月9日)は、広島県広島市出身の実業家。中国電力副社長、中国電気工事(中電工)社長、広島商工会議所会頭などを務めた。
黒羽根 忠雄(くろばね ただお、1909年〈明治42年〉10… 黒羽根 忠雄(くろばね ただお、1909年〈明治42年〉10月5日 - 1996年〈平成8年〉6月17日)は、日本の医学者、内科医。医学博士(東京慈恵会医科大学)。元・黒羽根内科医院院長。山形県鶴岡市出身。 貧しい人からは診療料金を取らない事で知られ、通称は「赤ひげ先生」であった。 東京医学専門学校(現・東京医科大学)を卒業後、東京慈恵会医科大学で大脳生理や条件反射学総説大脳感応現象の研究をした。
佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 … 佐渡ヶ嶌 林蔵(さどがしま りんぞう、1909年10月5日 - 1955年3月17日)は、新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身で浅香山部屋、井筒部屋に所属した力士。本名は佐々木 林蔵。182cm、98kg。最高位は西前頭12枚目。 1933年1月初土俵。軍隊を終えた後だったため、23歳と遅い入門だった。入門した浅香山部屋が同年7月師匠(元横綱三代目西ノ海)の急逝により閉鎖されたため、井筒部屋に移籍した。左四つの吊り寄りが得意であったが、けたぐりの飛び道具もしばしば見せた。熱心な稽古の甲斐があって1939年1月十両昇進、1940年5月新入幕を果たし、翌1941年1月には最高位となる西前頭12枚目に昇進し、横綱男女ノ川と大関五ッ島を倒す殊勲を演じたものの4勝11敗と大きく負け越した。
関根 慶子(せきね よしこ、1909年10月4日 - 199… 関根 慶子(せきね よしこ、1909年10月4日 - 1998年9月12日)は、日本の国文学者。文学博士(東京教育大学・論文博士・1962年)。お茶の水女子大学名誉教授。 国文学者・関根正直の娘で、仏文学者の関根秀雄は実兄、旧約聖書学者の関根正雄は実弟。経済学者の関根友彦や、倫理学者関根清三は甥。 東京生まれ。1927年、内村鑑三の聖書講義を聞いて入信し、1930年、塚本虎二の丸の内聖書研究会の会員となる。1931年、東京女子高等師範学校卒、1939年、東京文理科大学国文科卒業、副手となる。1940年、実践女子専門学校教授。1949年、お茶の水女子大学専任講師、1953年、助教授。1962年、「中古私家集の研究」で東京教育大学文学博士。
北川 敏男(きたがわ としお、1909年10月3日 - 19… 北川 敏男(きたがわ としお、1909年10月3日 - 1993年3月13日)は、日本の統計数学者、情報科学者。 推測統計学、品質管理で顕著な業績を上げた。また、「情報学」、「情報科学」を提唱し、『制御』『栄存』『創造』の三座標軸を提案した。 大阪帝国大学助教授、九州大学教授、同理学部長、富士通国際情報社会科学研究所所長、日本学術会議会員、日本情報処理学会会長を歴任。理学博士。 北海道小樽市出身。1934年東京帝国大学理学部数学科卒。大阪帝国大学講師を経て、1939年九州帝国大学助教授。1943年九州帝国大学教授。1963年附属図書館長、1965年基礎情報科学研究施設長。1968年理学部長、1973年退官。
昌谷 忠(さかや ただし、1909年10月3日 - 1991… 昌谷 忠(さかや ただし、1909年10月3日 - 1991年11月27日)は、日本の経営者。ダイセル化学工業社長、会長を務めた。東京都出身。 1933年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に三井銀行に入行。1965年に常務、1969年に専務を経て、1971年1月にダイセル化学工業社長に就任。1979年9月に会長を経て、1987年に相談役に就任。 1981年に勲二等瑞宝章を受章。 1991年11月27日、動脈硬化症のために死去。82歳没。
金久保 通雄(かなくぼ みちお、1909年10月3日 - 1… 金久保 通雄(かなくぼ みちお、1909年10月3日 - 1971年6月7日)は、昭和時代に活躍した新聞記者である。 東京出身。法政大学卒。国民新聞社、東京日日新聞を経て1936年に読売新聞入社。読売新聞時代には満州国新京支局長、論説委員、社会部長、出版局長を歴任した。つづり方コンクール、全日本学生キャンプ、読売教育賞などを企画する。また、日刊新聞を小中学校の教材にした新聞学習を提唱、実験教育を試みた。 1968年に定年により読売新聞社を退職、翌1969年、報知新聞社に転じて常務取締役・編集局長を務め、1970年に報知新聞を退職した。
橘 喜久子(たちばな きくこ、1909年10月2日 - 19… 橘 喜久子(たちばな きくこ、1909年10月2日 - 1968年12月5日)は、日本の女優。女優の大山デブ子は妹。 本名、石川政子。大阪市東区出身。1924年、松竹下加茂撮影所へ入社。「繞る秘密」(ヘンリー小谷監督)でデビュー。1925年、蒲田に移り、「孔雀の光」全6編でヒロインを演じたが、病気退社。1927年ヤマト映画製作所、1928年河合映画に入社する。葉山純之輔、雲井竜之介らの相手役で現・時代劇に出演し、1933年大都映画に改称後も多くの作品に助演。1942年合併で大映東京撮影所に所属し、1967年「早射ち犬」を最後に引退した。1968年12月5日、59歳で死去した。
大石 貞治(おおいし さだじ、1909年(明治42年)10月… 大石 貞治(おおいし さだじ、1909年(明治42年)10月2日 - 1989年3月2日))は、日本の実業家。三笑亭本店代表取締役社長。静岡県食肉事業協同組合連合会相談役。 静岡県静岡市両替町出身。大石善吉の長男。静岡県立静岡中学校卒業。三笑亭代表取締役社長、静岡県食肉事業協同組合連合会長、同環境衛生同業組合理事長、静岡県食料品小売商業組合監事、日本食肉協会副会長を務めた。 趣味はスポーツ観賞。宗教は浄土宗。住所は静岡市両替町2丁目。
平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 19… 平野 順次(ひらの じゅんじ、1909年10月2日 - 1990年9月13日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1933年に京都帝国大学哲学科を卒業し、1939年に栗本鐵工所に入社。1961年5月に取締役に就任し、1966年11月に専務を経て、1967年10月には社長に就任。1981年6月から1985年6月までに会長を務めた。 1990年9月13日、肺炎のために死去。80歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 193… 土井 修爾(どい しゅうじ、1909年10月1日 - 1938年7月7日)は、日本の水球選手である。1932年に開催された夏季オリンピックの男子トーナメントに出場した。日中戦争中は陸軍に士官として召集されていたが、日本国内での訓練中の負傷がもとで病死(戦病死)した。 広島県広島市出身。父の土井與一は弁護士であった。広島市立袋町小学校、県立広島第二中学校(現在の広島県立広島観音高等学校)を経て、早稲田大学法学部に学ぶ。 早稲田大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。水球には4か国(ドイツ、アメリカ、ハンガリー、日本)が出場した。初出場の日本は国内の優秀選手を送り出したが、全敗を喫した。
平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-199… 平野 春逸(ひらの しゅんいつ、1909年10月1日-1992年8月23日)は、日本の医学者。医学博士。専門は生理学、解剖生理学。福岡大学名誉教授。クラシック音楽レコードの愛好収集する音楽評論家でもあり、また、ツバキの愛好収集家としても知られた。 鹿児島市出身で医師の長男。鹿児島女子師範学校附属小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高等学校)に入学し、1927年卒業。県立鹿児島病院研究補助員を務めた後、九州医学専門学校(現・久留米大学医学部)に入学。九州医学専門学校を1933年に卒業して、一度鹿児島へ戻り県立鹿児島病院の医員を翌年まで務める。1934年には九州医学専門学校内科に入局して、1936年には放射線科へ転じ、1937年に医局長となる。
佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年… 佐々 久(ささ ひさし、1909年10月1日 - 1989年6月8日)は、日本の郷土史家、東洋史学者、教育者。宮城県図書館長、仙台郷土研究会会長などを務めた。 宮城県仙台市生まれ。東北帝国大学で東洋史を専攻し東北学院の教授などを務めたのち、30代後半で宮城県の郷土史研究に転じる。公務員として教育行政や文化財保護、図書館運営に携わりながら『仙台市史』、『宮城県史』の編纂・執筆をし、また宮城県内の多くの自治体の地方史を監修した。1981年、勲四等瑞宝章受章。蔵書は宮城県図書館に寄贈され「佐々久文庫」として所蔵されている。 1909年(明治42年)10月1日、宮城県仙台市二十人町に7人きょうだいの長男として生まれる。
市田 禎蔵(禎藏、いちだ ていぞう、1909年 <明治42年… 市田 禎蔵(禎藏、いちだ ていぞう、1909年 <明治42年> 9月30日 - 1992年 <平成4年> 7月27日)は、日本の経営者、銀行家。位階は正五位。 滋賀県出身。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日本銀行に入行。1959年4月に日本開発銀行理事を経て、1966年5月に常陽銀行副頭取に就任し、1967年11月には頭取に昇格。1975年7月に会長、1979年12月に取締役相談役を経て、1981年6月には相談役に退いた 1980年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年7月27日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
正田 富美子(しょうだ ふみこ、1909年〈明治42年〉9月… 正田 富美子(しょうだ ふみこ、1909年〈明治42年〉9月29日 - 1988年〈昭和63年〉5月28日)は、20世紀の日本人女性。日清製粉社長・正田英三郎の妻。上皇后美智子の母。今上天皇の外祖母に当たる。旧姓:副島。旧名:富美。 中支那振興の常務理事であった副島綱雄の長女として生まれる。上海の日本人北部小学校に通学していた。その後、麹町区の雙葉高等女学校を卒業した。 1929年(昭和4年)春、19歳のときに後の日清製粉会長となる正田英三郎と結婚。英三郎との間には2男2女をもうける。1959年(昭和34年)に長女の美智子が、民間人として初めて皇太子明仁親王と結婚して皇族となった。1988年(昭和63年)5月28日、入院していた聖路加国際病院で腎不全のため死去(満78歳没)。
小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐198… 小田切 信男(おだぎり のぶお、1909年9月29日‐1982年6月13日)は、キリスト教徒の医師で、信徒伝道者、信徒神学者、聖書研究者。 北海道釧路生まれ。1927年北海道帝国大学医学部入学。同年に洗礼を受け両親が所属していた札幌独立キリスト教会の会員として奉仕活動を始め、札幌市東端のスラムで伝道及び無料診療を行なう(召集を受ける1937年までの10年間)。 1934年北海道帝国大学医学部卒業、附属医院第二内科に入局し結核の研究に従事。太平洋戦争開始の1941年札幌市で医院を開業するも召集と解除の繰り返しの中で終戦を迎え、本格的な開業医としての生活は戦後になる。 1945年終戦により札幌独立キリスト教会の再建に努め礼拝の証詞を担当するなど信徒伝道者としての働きを本格化させる。
木原 津與志(きはら つよし、1909年9月28日 - 19… 木原 津與志(きはら つよし、1909年9月28日 - 1971年4月17日)は、日本の政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。弁護士。 長崎県出身。1932年日本大学法律科卒。卒業後は朝鮮に渡り、朝鮮総督府で検事をしていた。終戦後に引揚げ、長崎市で弁護士を開業した。長崎県労働委員会中立委員、同会長代理となり、1951年の長崎市長選挙では現職の大橋博に対抗する形で無所属で立候補したが、同じ弁護士の田川務に破れて落選した(現職の大橋も落選)。 その後、1952年第25回衆議院議員総選挙で長崎1区から日本社会党左派公認で立候補して初当選し、6回当選した。この間1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選、1967年の第31回衆議院議員総選挙で復帰、1969年の第32回衆議院議員総選挙に出馬せず引退した。
玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 20… 玉木 英彦(たまき ひでひこ、1909年9月26日 - 2013年)は、日本の物理学者・科学史家。
吉藤 幸朔(よしふじ こうさく、1909年 <明治42年> … 吉藤 幸朔(よしふじ こうさく、1909年 <明治42年> 9月26日 - 1995年 <平成7年> 3月11日)は、日本の法学者。元通産官僚。位階は正四位。 吉藤の主要著作である『特許法概説』は、1968年に初版が発行されたもので、実務に重点を置き、通常の法律書とやや異なる構成を採るものの、日本の特許法についての基本書とされる。以後、改訂を加えて1994年12月には第10版に達し、吉藤の没後も、熊谷健一の補訂により1998年11月発行の第13版まで刊行が続けられた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月2… 岩月 達夫(いわつき たつお、1909年〈明治42年〉9月26日 - 1980年〈昭和55年〉8月25日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長を務めた。 愛知県出身。1930年に名古屋高等商業学校を卒業。 日本火災海上保険、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1949年12月に日本電装取締役に就任し、1951年10月に常務、1955年12月に専務、1962年8月に副社長を経て、1967年2月に社長に就任。1973年2月には会長に就任した。 1973年4月に藍綬褒章を受章。 1980年8月25日、肺炎のために死去。70歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横山 光雄(よこやま みつお、1909年9月25日 - 20… 横山 光雄(よこやま みつお、1909年9月25日 - 2010年10月20日)は、日本の造園家、造園学者。大学教員として造園都市計画教育に関わり、他方で戦前の旧満洲国の各都市の都市計画、千里ニュータウン計画、駒沢オリンピック公園建設、旧運輸省観光支援策・離村再生・レクリエーション整備、など関与。千葉大学、東京大学、日本大学で教鞭を執る。1969年から1971年まで、日本造園学会会長を務めた。 神奈川県横浜市出身。1930年(昭和5年)、駒場時代の東京帝国大学農学部農学科に入学、丹羽鼎三の園芸第二研究室に入り、1933年(昭和8年)大学院に進学、造園学を学ぶ。 1935年(昭和10年)大学院修了後、埼玉県に2年間奉職し、また東京緑地計画協議会に関与し、東京緑地計画の立案作業に従事。