朝長 厳(ともなが つよし、1911年9月20日 - 198… 朝長 厳(ともなが つよし、1911年9月20日 - 1983年12月31日)は、日本の経営者。日本冷蔵(現在のニチレイ)社長、会長を務めた。長崎県出身。 1935年に明治大学商学部を卒業し、同年に日本水産に入社した。1943年に帝国水産統制(のちの日本冷蔵)に転じ、1960年9月に取締役に就任し、1963年1月に常務、1965年3月に専務を経て、1967年3月に社長に就任。1975年3月に会長に就任。 1970年11月に藍綬褒章を受章。 1983年12月31日肺炎のために死去。72歳没。
小川 瓦木(おがわ がぼく、1911年〈明治44年〉9月20… 小川 瓦木(おがわ がぼく、1911年〈明治44年〉9月20日 - 2000年〈平成12年〉9月12日)は、日本の書家。 千葉県白井村今井(現在の白井市)出身。。 1935年 (昭和10年)、前衛的書家、上田桑鳩に師事。 。 2000年9月12日、心不全のため死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 19… 小林 恒夫(こばやし つねお、1911年9月19日 - 1991年12月6日)は、日本の映画監督・脚本家。東京都京橋出身。東映で現代劇をメインに撮っていた。 その後、テレビドラマ、PR映画の演出を手がける。テレビ映画では主に東映と古巣の東宝(系列会社宝塚映画も含む)製作作品の演出を多く手がけた。当時東宝の子会社だった円谷プロ作品にも参加する。特に『マイティジャック』でパイロット版を本放送版へ補強する仕事から入り、事実上のメイン監督を務めた。 監督昇進が41歳と遅かったものの、『点と線』における無駄をなるべく排し、テンポの良い時間経過と万人に理解しやすい物語の展開と切り口が持ち味であり、巧みな演出でリアリズム重視の独特の重厚さと緊迫感を与える作風であった。
坂井 時忠(さかい ときただ、1911年9月18日 - 19… 坂井 時忠(さかい ときただ、1911年9月18日 - 1990年1月19日)は、昭和時代後期日本の政治家。内務省および警察庁の官僚を経て、兵庫県知事を4期16年にわたって務めた。
小野寺 喜得 (おのでら きとく、1911年 <明治44年>… 小野寺 喜得 (おのでら きとく、1911年 <明治44年> 9月16日 -1993年 <平成5年> 4月4日) は、日本の地方政治家。岩手県一関市長(5期)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 岩手県西磐井郡真滝村(現・一関市)生まれ。1936年早稲田大学政治経済学部政治学科卒。卒業後は岩手県庁に入り、6年間勤務したのち、一関市役所に移る。1958年教育長、翌1959年助役となり、1963年一関市長に当選する。 市長在職中は国立一関工業高等専門学校や日本電気の誘致、駅前など土地区画整理事業の実施、両磐地区広域市町村圏指定、同地区広域消防組合の発足、市役所の移転、国土庁モデル定住圏策定圏域選定、東工業団地の造成と工場誘致などに参画した。
田中 茂穂(たなか しげほ、1911年(明治44年)9月15… 田中 茂穂(たなか しげほ、1911年(明治44年)9月15日 - 1982年(昭和57年)10月11日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、国務大臣行政管理庁長官(第28代)、鹿児島県議会議長等を歴任。 鹿児島県の現垂水市出身。大阪府土木課長の父が1920年(大正9年)に亡くなり、母の兄である小林俊次郎九州帝国大学工学部教授を頼って一家で福岡県福岡市に転居。旧制福岡県立福岡中学(現福岡県立福岡高等学校)に入学するが、けんかにより退学処分を受ける。小林のはからいで旧制鹿児島一中(現鹿児島県立鶴丸高等学校)に転入するも、3年次に再びけんかにより退学処分を受ける。私立福山中学(現鹿児島県立福山高等学校)に転入するが、配属将校排斥運動のリーダーとなってストライキを起こしたことにより退校処分。
川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月1… 川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月14日 - 1978年(昭和53年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。父親は立憲民政党代議士の川崎克。元厚生労働大臣の川崎二郎は次男。 大阪府大阪市生まれ。1929年(昭和4年)旧制芝中学校卒業。1935年(昭和10年)早稲田大学政治経済学部を卒業。早大時代は陸上部に所属する傍ら、学内の弁論大会に参加し、痛烈な軍部批判を行って入賞したこともある。卒業後はNHKに入局するも、戦時中は応召により中国大陸を転戦、この時の経験から、戦後日中友好運動に挺身することとなる。 企画部副部長を最後にNHKを退職し、戦後初の総選挙となった1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に父親の地盤を引き継いで旧三重1区から日本進歩党公認で立候補し当選、以後当選11回を数える(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
尾留川 正平(びるかわ しょうへい、1911年9月13日 -… 尾留川 正平(びるかわ しょうへい、1911年9月13日 - 1978年1月21日)は、日本の地理学者。専門分野は農業地理学。村落の開拓過程や農業地域形成論、地域調査論を主な研究テーマとした。学位は、理学博士(東京教育大学・論文博士・1953年)。筑波大学名誉教授。日本地理学会第14代会長。旧姓は原(はら)。 岐阜県吉城郡船津町(現・飛驒市)生まれ。1941年、東京文理科大学地学科地理学専攻卒。1951年、同助教授。1952年、東京教育大学助教授。1953年、「裏日本海岸砂丘の地理学的研究 開拓及び土地利用とその因子」で東京教育大学より理学博士の学位を取得。1965年、教授。1972年 - 1974年、日本地理学会会長。
小松 真一(こまつ しんいち、1911年9月13日 - 19… 小松 真一(こまつ しんいち、1911年9月13日 - 1973年1月10日)は、日本の実業家。『虜人日記』の著者として知られる。東京都中央区日本橋出身。 1932年、東京農業大学農学部農芸化学科卒業。大蔵省醸造試験場、農林省米穀利用研究所を経て、台湾でブタノール工場を創設。1944年軍属としてフィリピンでブタノール生産のため派遣される。日本の敗戦と共に捕虜となり、1946年まで虜囚生活を送る。復員後、食品加工のための企業を設立。醸造技術を活かして、飲料アルコール原料のための協同組合を設立。1973年脳溢血のため死去。 没後の1974年に遺族により私家版『虜人日記』が出され、翌1975年に筑摩書房で改訂刊行された(ちくま学芸文庫で再刊)。
額田 巌(ぬかた いわお、1911年9月12日- 1993年… 額田 巌(ぬかた いわお、1911年9月12日- 1993年11月)は、日本の工学者。包結研究家。学位は工学博士、文学博士。 1911年(明治44年)岡山県生まれ。1935年早稲田大学理工学部を卒業し日本電気に入社。配属先で位相幾何学を知り、岡田幸雄と小泉四郎の指導を受ける。回路接続から「結び」に興味を持つようになり、1940年(昭和15年)頃から結びについて本格的に研究を開始。結びが閉回路である点に着想を得て、結びの表示に円表示を用いる。1945年「格子にて消弧可能なる放電管に依る継電方式の確立」で早大工学博士、1962年「日本における結縛の歴史、民俗学的研究」で東京教育大学文学博士。 また、世界各地の結びについて調査。
安田臣(やすだ かたし、1911年9月11日 - 1977年… 安田臣(やすだ かたし、1911年9月11日 - 1977年2月9日)は日本人の建築家。建設省営繕局監督課長を経て、1963年に独立。建設省時代に手がけた大分県庁舎、島根県庁舎及びその周辺整備計画にて日本建築学会賞を受賞した。山陰地方に多く作品が見られる。 島根県邑智郡邑南町に生まれる。1937年(昭和12年)早稲田大学理工学部建築学科卒業。卒業後、同潤会技師を経て、住宅営団技師。戦後は広島県の戦災復興都市計画に参加。建設省発足後は営繕局建築課建設専門官、九州地方建設局営繕部長を経て、1962年営繕局監督課長に就任。1963年に退官し、東京都港区赤坂に安田臣建設設計事務所を開設し、代表取締役となる。
家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 19… 家城 巳代治(いえき みよじ、1911年9月10日 - 1976年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家。 東京都出身。東京府立三中、弘前高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業後、1940年に松竹大船へ入社する。助監督部で渋谷実の下で働く。渋谷により『激流』(1944年)が着手される直前に召集されたため、家城が代打で初監督を務めた。 戦後は、撮影所に設立された労働組合の委員長に就任して経営側と渡り合ったが、1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、松竹の追放者第一陣のリストに名を連ね退社を余儀なくされた。 その後独立プロダクションを支え、以降、『雲ながるる果てに』『ともしび』『異母兄弟』などの名作映画を作り上げ、社会派の映画監督として活躍する一方、草創期のテレビドラマで演出家としても活躍した。
植谷 久三(うえたに ひさみつ、1911年9月10日 - 2… 植谷 久三(うえたに ひさみつ、1911年9月10日 - 2004年11月26日)は、日本の経営者。山一證券社長、会長を務めた。三重県出身。 1935年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山一證券に入社。 1954年に取締役に就任し、1958年に常務、1966年9月に専務を経て、1968年11月に副社長に就任し、1972年5月には社長に昇格。1980年12月に会長に就任し、1987年4月に取締役相談役に就任。 1977年10月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2004年11月26日老衰のために死去。93歳没。
小宮 賢一(こみや けんいち、1911年9月10日 - 19… 小宮 賢一(こみや けんいち、1911年9月10日 - 1990年6月3日)は、日本の建築系内務官僚。都市計画家。建築行政家。 現在運用されている建築基準法や都市計画法制定に尽力。建築の審査・行政指導方面で活躍した人物。 一方で、戦前期東武鉄道に造成開発された分譲住宅地常盤台 (板橋区)原案の設計者としても知られる。 東京出身。1934年(昭和9年)東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、内務省本省大臣官房都市計画課に入省配属。市街地建築物法の運用、防火防空都市計画を担当した。 1937年(昭和12年)には、砧台付近を想定して戦前開催が中止となった当時の東京オリンピック選手村試案を制作し『建築と社会』11月号にて発表している。
篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 198… 篠田 義雄(しのだ よしお、1911年9月10日 - 1988年4月2日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。岐阜県岐阜市出身。 1935年に東京商科大学を卒業し、同年に大阪商船(のちの大阪商船三井船舶)に入社。1964年4月に取締役に就任し、1967年5月に常務、1970年5月に専務を経て、1972年5月に副社長に就任し、1973年5月には社長に昇格。1976年6月に会長に就任し、1980年6月には相談役に就任。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1982年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1988年4月2日心不全のために死去。76歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横田 良一 (1911年9月10日 - 1936年1月10日… 横田 良一 (1911年9月10日 - 1936年1月10日)は戦前に活躍した、日本の男性歌手である。 「天草小唄」「アリランの唄」などのヒット曲がある。本名は中道實穂。
吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 -… 吉村 公三郎(よしむら こうざぶろう、1911年9月9日 - 2000年11月7日)は、昭和期の映画監督である。兄はフランス文学者の吉村正一郎。4人の子供を儲け、長男は元NHK解説委員の吉村秀實。映画監督の西村昭五郎は、いとこ。 滋賀県大津市膳所生まれ。吉村家は、同県坂田郡山東町の中山道で代々脇本陣を営んでいた。父・吉村平造は大阪朝日新聞社の政治記者から、保険会社重役などを経て、大阪市助役、第11代広島市長(在任1915年1月~1916年12月)を務めたため、これに伴い2歳から京都市下京区で、4歳時は広島市大手町で育った。広島を発つ前の晩、家族で万代橋のたもとにあった映画館で映画を初体験。チャップリンの映画に感銘を受けたことが映画を志す切っ掛けだったという。
小江 慶雄(おえ よしお/おおえ よしお、1911年 <明治… 小江 慶雄(おえ よしお/おおえ よしお、1911年 <明治44年> 9月8日 - 1988年 <昭和63年> 11月7日)は日本の考古学者。位階は従四位。 1911年滋賀県東浅井郡湖北町尾上(現・長浜市湖北町尾上)に生まれる。1933年九州帝国大学法文学部入学。考古学を学び、1936年に卒業。1948年、京都師範学校教授となり、ついで京都学芸大学で考古学を教え、後進の指導も熱心に行なった。京都学芸大学学長に就任後も精力的に国内外の遺跡調査に奔走した。 1983年勲二等瑞宝章受章。1988年死去。死没日付をもって従四位に叙された。 1970年代以降に地中海を中心として調査が進められていた欧米の水中考古学を幅広く日本の考古学会に紹介し、島国である日本における水中遺跡調査の必要性を積極的に教授したが、当時は陸上の遺跡調査が優先であって協力・賛同を得ることは困難であった。
木村 宗男(きむら むねお、1911年9月6日 - 2005… 木村 宗男(きむら むねお、1911年9月6日 - 2005年)は、日本語教育の研究者、実践者。早稲田大学名誉教授。
八杉 龍一(やすぎ りゅういち、1911年〈明治44年〉9月… 八杉 龍一(やすぎ りゅういち、1911年〈明治44年〉9月6日 - 1997年〈平成9年〉10月27日)は、日本の生物学史家。東京工業大学教授、早稲田大学教授を歴任。 1911年、ロシア語学者の八杉貞利の子として東京に生まれた。東京帝国大学理学部動物学科を卒業。実験動物学から生物学史研究に研究テーマを広げた。1947年(昭和22年)、『自然科学』8月号にて「ルイセンコ学説について」を発表。日本国内でルイセンコ論争が盛んになる契機を作った。1962年(昭和37年)、東京工業大学教授に着任。1972年(昭和47年)、早稲田大学教授となった。
村岡晢(むらおか あきら/せき、1911年9月6日 - 19… 村岡晢(むらおか あきら/せき、1911年9月6日 - 1996年5月7日)は、日本の西洋史学者。早稲田大学名誉教授。ドイツ近代史。 1911年、村岡典嗣の長男として東京に生まれる。東北帝国大学文学部で学ぶ。1956年に「ランケ研究序説」を東京大学に提出して文学博士号を取得。山形大学助教授、早稲田大学教育学部教授。1981年に定年退官し、名誉教授となった。
岡 一雄(おか かずお、1911年9月5日 - 1986年8… 岡 一雄(おか かずお、1911年9月5日 - 1986年8月28日)は、日本の経営者、銀行家。足利銀行社長を務めた。島根県平田市出身。 1933年に高等文官試験行政科に合格し、1934年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。 1958年に中小企業金融公庫理事を経て、1960年11月に足利銀行常務に就任し、1961年11月に専務、1972年5月に副頭取を経て、1974年4月には社長に就任。1978年6月から1982年6月までに特別顧問を務めた。 1981年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1986年8月28日脳梗塞のために死去。74歳没。
宮崎 辰雄(みやざき たつお、1911年〈明治44年〉9月3… 宮崎 辰雄(みやざき たつお、1911年〈明治44年〉9月3日 - 2000年〈平成12年〉2月22日)は、日本の政治家。位階は正四位。勲等は勲一等。 神戸市長(第13代)、神戸市山岳連盟会長などを歴任した。 旧制神戸三中(現:兵庫県立長田高等学校)を経て、旧制姫路高校に入学するも、河本敏夫退学問題に端を発する全校ストライキに参加し放学処分となる。その後1936年(昭和11年)立命館大学専門部法学科卒業。大学卒業後は神戸市役所入庁。神戸市助役を経て、1969年(昭和44年)から神戸市長を5期20年務めた他、財団法人神戸都市問題研究所の創設者・理事長としても活動した。市長初当選時は自由民主党・日本社会党・公明党・民社党を与党としていたが、1973年の市長選では自民党が支持を撤回、替わって日本共産党が推薦に加わる。
牧瀬 菊枝(まきせ きくえ、1911年9月3日 - 1997… 牧瀬 菊枝(まきせ きくえ、1911年9月3日 - 1997年)は、昭和期に活動した女性史研究者、生活記録運動家。旧姓島崎。 1911年(明治44年)に生まれる。1932年(昭和7年)、実践女子専門学校(現在の実践女子大学)を卒業。同年岩波書店に入社し、1940年(昭和15年)まで勤務する。1937年(昭和12年)に牧瀬恒二と結婚。戦後に、生活記録運動や思想の科学研究会の活動に参加し、聞き書きの手法で庶民生活の歴史を発掘した。 1911年(明治44年)9月3日、静岡県富士市の禅寺に生まれる。実践女子専門学校国文科に進むが、良妻賢母の養成を旨とする校風にはなじめなかったという。1932年(昭和7年)に実践女子専門学校を卒業後、岩波書店に就職し編集者となった。
桂田 芳枝(かつらだ よしえ、1911年〈明治44年〉9月3… 桂田 芳枝(かつらだ よしえ、1911年〈明治44年〉9月3日 - 1980年〈昭和55年〉5月10日)は、日本の数学者。数学の分野で日本初の女性博士号取得者であり、北海道大学(旧北海道帝国大学)で最初の女性教授、女性名誉教授である。日本国外でも、スイスの数学者であるハインツ・ホップ(英語版)との共同研究「リーマン空間の閉曲面の合同定理」で、高い評価を受けた。 1911年(明治44年)、北海道余市郡赤井川村で誕生した。父は余市郡余市町の小学校の校長であり、「子供は大きな夢を持ってのびのびと育つべき」という、当時としては先進的な考えの持ち主だった。芳枝は北海道の大自然を駆け回って育つ一方、学校では算術に夢中になった。
竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不… 竹田 助一(たけだ すけかず、1911年9月2日 - 没年不明)は、兵庫県出身のプロ野球選手。 旧制姫路中学、同志社大学を経て1936年に阪急軍へ入団。同年秋季リーグ終了後退団。
林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 19… 林 弥一郎(はやし やいちろう、1911年9月2日 - 1999年8月14日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍少佐。日中友好会会長。中国人民解放軍空軍の父。大阪府出身。
小南 弘久(こなみ ひろひさ、1911年 <明治44年> 9… 小南 弘久(こなみ ひろひさ、1911年 <明治44年> 9月2日 - 1977年 <昭和52年> 7月24日)は、日本の経営者。日動火災海上保険社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1932年に同志社大学予科を中退し、1939年に日動火災海上保険に入社。 1959年に取締役に就任し、1960年に常務、1962年に専務を経て、1964年に社長に就任。1966年2月までに社長を務め、同年6月には相談役に就任した。 1968年12月に日本サラリーマンユニオンを設立し、代表にも就任した。 1977年7月24日、出血性脳梗塞のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
城 秀男(じょう ひでお、1911年9月2日 - 2010年… 城 秀男(じょう ひでお、1911年9月2日 - 2010年1月22日)は、日本の染織家。染織工芸を専門に佐賀大学の名誉教授でもあり、多くの染織家を輩出してきた。 2010年1月22日、肺炎により佐賀市内の病院にて死去。98歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、布や繊維、それを素材とする製品に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ファッション/P:技術と産業)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986… 川手 泰二(かわて たいじ、1911年9月1日 - 1986年8月22日)は、日本の新聞記者、会社経営者。名古屋放送株式会社代表取締役社長、会長。全国朝日放送取締役。 山梨県北杜市(旧須玉町若神子)出身。父は、昭和初期に立憲政友会所属で山梨県選出の衆議院議員だった川手甫雄。兄は、山梨トヨタ自動車社長やテレビ山梨取締役を務めた川手淳一。弟は、日軽アルミニウム工業専務を務めた川手雄三。 山梨県立甲府中学校、日本大学法学部卒業。大学卒業後の1936年に朝日新聞社に入社。社会部の事件記者として鳴らし、警視庁キャップを務めた。1961年に東京本社特信部長に就任。 1962年4月、名古屋放送の開局に際して放送界に転じ、取締役東京支社長に就任。
水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年… 水野 洽(みずの ひろし、1911年9月1日 - 1997年11月4日)は、日本の映画監督である[4][5]。別名片岡 均(かたおか きん)[4]。
山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日… 山田 憲吾(やまだ けんご、1911年(明治44年)9月1日 - 1990年(平成2年)1月19日)は、日本の医学者、整形外科医。新潟県北蒲原郡中条町(現胎内市)出身。京都帝国大学医学部医学科卒業。徳島大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
安部 幸明(あべ こうめい、1911年〈明治44年〉9月1日… 安部 幸明(あべ こうめい、1911年〈明治44年〉9月1日 - 2006年〈平成18年〉12月28日)は日本の作曲家。 広島県広島市の軍人の家庭に生まれる。中学のころから音楽に興味を持ち始め、1929年(昭和4年)に東京音楽学校に入学してチェロを専攻。チェロをハインリヒ・ヴェルクマイスターに師事するも、やがてプリングスハイムに作曲を、ローゼンストックに指揮を学ぶ。1936年(昭和11年)新興作曲家連盟に参加。同年末服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)に、チェロ奏者として参加している。1939年に「チェロ協奏曲」でワインガルトナー賞一等賞を獲得し、深井史郎・山田一雄・小倉朗らと同人「プロメテ」を設立。
永田 敬生(ながた たかお、1911年 <明治44年> 9月… 永田 敬生(ながた たかお、1911年 <明治44年> 9月1日 - 1998年 <平成10年> 2月9日)は、日本の経営者。日立造船社長、会長を務めた。位階は従三位。 熊本県出身。1933年に長崎高等商業学校を卒業し、1934年に大阪鉄工所(のちの日立造船)に入社。1962年11月に社長に就任し、1979年6月には会長に就任。1983年6月に代表取締役を経て、1986年4月から取締役相談役を務めた。日本経営者団体連盟副会長も務めた。 1998年2月9日心不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従三位に叙された。
大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 197… 大野 源一(おおの げんいち、1911年9月1日 - 1979年1月14日)は、将棋棋士。棋士番号7。東京府東京市(現:東京都台東区)出身期。木見金治郎九段門下。 東京出身だが大阪の棋士・木見金治郎の内弟子となる。同門の後輩には角田三男、升田幸三、大山康晴がいる。1929年に四段昇段。 戦前は居飛車党だったが、戦後の1947年(昭和22年)に順位戦がスタートした際に、振り飛車を積極的に採用するようになる。それまで2日制以上の長丁場が当たり前だった対局が「持ち時間各7時間の1日制」に短縮されたことから、居飛車と比べてあまり長考の必要がない振り飛車を採用したとされる。この結果、江戸中期以降は廃れていた振り飛車をプロの戦法として復活させ、「振り飛車の神様」の異名を持つ。
結城 陸郎(ゆうき りくろう、1911年 <明治44年> 9… 結城 陸郎(ゆうき りくろう、1911年 <明治44年> 9月 - 1999年 <平成11年> 3月23日)は、日本の教育史学者。位階は従四位。 石川県宇出津生まれ。1940年、東北帝国大学法文学部国史学科を卒業。教師を経て、1944年、東京第三師範学校助教授、翌年教授となる。1949年6月からは東京学芸大学助教授。1965年4月に名古屋大学教授となり、1975年に定年退官、名誉教授。同年、皇學館大學教授となり、1982年3月まで務める。1960年に「金沢文庫の教育史的研究」により、日本大学から文学博士の学位を授与される。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月 -… 小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月 - 没年不詳)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡、のちの川内市(現薩摩川内市)で生まれる。旧制鹿児島県立川内中学校(現鹿児島県立川内高等学校)を経て、1932年(昭和7年)に旧制第七高等学校造士館文科を卒業して東北帝国大学法文学部へ進学するが、1933年(昭和8年)に東京帝国大学法学部法律学科へ入学し直す。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 三井鉱山(現日本コークス工業)に入社。終戦直前に帰郷した。その後、鹿児島造船役員、東亜重工業役員、西日本建設業保証 (株) 営業所長などを務めた。 戦後、山中貞則らと青壮年同志会に加わり青年団運動に参画。
田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31… 田中 克己(たなか かつみ、1911年(明治44年)8月31日 - 1992年(平成4年)1月15日)は、日本の詩人・東洋史学者、中国文学者。 1911年、大阪府で生まれた。東京帝国大学東洋史学科で学び、1934年に卒業。在学中の1932年、保田與重郎、肥下恆夫、中島栄次郎、松下武雄、小高根太郎、杉浦正一郎、服部正己ら大阪高等学校同窓生と文芸同人誌『コギト』を創刊。1936年堀辰雄の推挙により、詩誌『四季』(第2次)同人となり、津村信夫や神保光太郎と共に編集にも携わった。1941年詩文集『楊貴妃とクレオパトラ』で第5回北村透谷記念文学賞受賞。 1942年1月、文士徴用軍属の第2陣として北川冬彦、中島健蔵、神保光太郎らと共に南方戦線後方(シンガポール・スマトラ)へ派遣された。
中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 198… 中村 茂(なかむら しげる、1911年8月31日 - 1985年5月25日)は、日本の外交官。駐ポーランド特命全権大使や、駐ブラジル特命全権大使を務めた。 千葉県出身。1935年高等試験外交科合格。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業。1937年に外交官補に任官後、アメリカ合衆国や、ソビエト連邦、外務省調査部第二課、外務省政務局第三課で勤務。 1950年賠償庁特殊財産部長心得兼特殊財産部総務課長。1951年出入国管理庁長官官房秘書課長。1952年法務省入国管理局総務課長、法務教官。1953年外務大臣官房会計課長、在外公館等借入金整理準備審査会幹事。 在ロス・アンゼルス日本国総領事館総領事を経て、1958年在パキスタン日本国大使館参事官。
池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 199… 池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 1998年12月3日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)を務めた。日本農民組合 (統一派)中央常任委員及び同常総同盟委員長などを歴任。 茨城県筑波郡作岡村安食(現在のつくば市安食)の小地主の家に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)3年の時に、父の経営する会社が倒産し、新治郡土浦町(現在の土浦市)へ移住。同地の茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業後、結城郡宗道村(現在の下妻市)で代用教員に就く。この間、土浦中学校同級生の小林孝祐を介して文化サークルに参加、加藤四海ら全日本農民組合連合会(全農)関係者と親交を深めた。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月2… 角谷 静夫(かくたに しずお、1911年(明治44年)8月28日 - 2004年(平成16年)8月17日 )は、日本の数学者。イェール大学名誉教授。娘は日系アメリカ人文芸批評家のミチコ・カクタニ(角谷美智子)。関数解析や確率論の研究で著名。 大阪市生まれ。旧制甲南高等学校文科を経て、1934年東北帝国大学理学部数学科卒業。大阪帝国大学助教授、1940年、アメリカのプリンストン高等研究所に留学。太平洋戦争中も同研究所で研究を続けるが、1942年に母親の意志を受けて帰国。1948年、再びプリンストン高等研究所に戻る。1949年イェール大学准教授、1952年同教授。1982年、定年退職。 コネティカット州ニューヘブンにて死去。
祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - … 祇園寺 信彦(ぎおんじ のぶひこ、1911年8月27日 - 1998年11月23日)は日本の西洋史学者。 宮城県大崎市古川(旧・古川市)生まれ。宮城県古川中学校(現:宮城県古川高等学校)卒業、第二高等学校(独法)卒業、東北帝国大学法文学部西洋史学科卒業。1962年「古ローマの社会と政治」で東北大学文学博士。東北大学文学部助教授、教授。1975年定年退官、名誉教授、東京国際大学教授。 専門は西洋古代史で、主としたのは、古代ローマにおける政治権力のあり方とその歴史的変遷、さらにその過程において個人が織り成した役割の問題の解明であった。研究は大類伸、原随園の学問的伝統を継承しつつ、マックス・ヴェーバーの歴史学方法論をよりどころとし、西洋古代史の研究と後進の指導に当たり、古代ローマ史研究において開拓者的な役割を果たした。
海老池 俊治(えびいけ しゅんじ、1911年8月27日 - … 海老池 俊治(えびいけ しゅんじ、1911年8月27日 - 1968年7月3日)は、英文学者、翻訳家。 京都市生まれ。1931年東京帝国大学文学部美学美術史卒、34年同英文科卒。女学校教師などをしながら、英文学で斎藤勇に師事し、また横光利一に師事して創作も目指した。戦後1951年から68年まで一橋大学社会学部教授。
西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006… 西村 数(にしむら かず、1911年8月24日 - 2006年7月1日)は、日本の俳人。「ホトトギス」同人。本名は西村 一意(かずおき)。教育者でもあり、鹿児島県の公立高等学校の教頭や校長等を歴任。 鹿児島県谷山村麓(現・鹿児島市谷山中央)にて、教育者の藤太郎とトミの嫡子として生まれ、少年期は清渓学舎で郷中教育を受ける。1929年(昭和4年)に鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業した後、神宮皇學館で学び卒業。 1929年(昭和4年)に17歳で句作を始め、1932年(昭和7年)に「ホトトギス」九月号で初入選。数年後、関西ホトトギス大会で虚子特選を得て、虚子を生涯師と仰ぐ。1935年(昭和10年)、佐賀県伊万里町で教員となり、当地で森永杉洞に師事。
澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911… 澤柳 大五郎(沢柳 大五郎、さわやなぎ だいごろう、1911年8月23日 - 1995年11月3日)は、日本の美術史家。東京教育大学名誉教授。 東京生まれ。父は明治・大正期の教育官僚、教育者の澤柳政太郎。 西洋美術研究を開拓した児島喜久雄(東北帝国大学・東京帝国大学教授)の弟子の一人で後継者。 木下杢太郎(太田正雄)の研究・著作画集の編集を行った。新書などを除き歴史的仮名遣いで著訳書を刊行した。 弟子・同僚らによる『アガルマ 澤柳先生古稀記念美術史論文集』(同編集委員会編、同朋舎出版、1982年)がある。 (古田光、藤田健治、木田献一、屋形禎亮、澤柳大五郎、廣川洋一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、裾分一弘、下村寅太郎、西沢龍生、永井博による共編著) (澤柳大五郎、関根正雄、村治能就、浅野順一、中野幸次、秀村欣二、兼岩正夫、清水富雄、渡辺金一、下村寅太郎、西沢龍生、藤田健治、永井博による共編著)
林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001… 林 文雄(はやし ふみお、1911年8月23日 - 2001年)は、日本の美術評論家。 愛知県出身。東京帝国大学卒業。戦後、日本美術会に所属、共産主義の立場から美術評論を書き、1946年から1948年にかけて土方定一らとの間でいわゆる「リアリズム論争」を展開した。 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『林文雄』 - コトバンク
権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、19… 権 逸(クォン・イル、ごん いつ、朝鮮語: 권일/權逸、1911年8月22日 - 2001年4月3日)は、在日本大韓民国居留民団(現・在日本大韓民国民団)中央団長。在日本大韓民国居留民団顧問。満州国で裁判官、日本で弁護士、韓国で政治家としても活動していた。第8・9代大韓民国国会議員。日本名は権藤嘉郎で、権赫周(권혁주)の名前も使用した。 独立運動家・映画監督の権赫朝は弟。俳優のイム・ドンジン(朝鮮語版)は姪の夫(弟の赫朝の娘婿)。 - 권일(權逸)[リンク切れ] - 国史編纂委員会
半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22… 半田 亘理(はんだ わたり、1911年(明治44年)8月22日 - 1948年(昭和23年)10月21日)は、大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員。 操練19期。最終階級は中尉。黒岩利雄とならび、単機格闘戦の名手と謳われた撃墜王である。 福岡県久留米市に生まれる。1928年(昭和3年)、海軍を志し佐世保海兵団入団。艦船勤務を経て1932年(昭和7年)10月、第19期操縦練習生となる。同期生に磯崎千利、高橋憲一、田中平、五島一平。1933年(昭和8年)3月、同課程を修了し、戦闘機専修。空母「龍驤」飛行機隊に配属される。 その後、大村に転属。在任中、愛国号献納式典で祝賀飛行に参加した。当時部下だった田中国義はその練習中、編隊スローロール等で苦労していたが、半田機は「定位置を微動だにしない、ついて行くのに汗をかいた」と回想する。
小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 197… 小林 正(こばやし ただし、1911年8月21日 - 1975年3月30日)は、日本のフランス文学・比較文学者。東京大学名誉教授。 満州・旅順生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒、1942年東京外国語学校教授、1954年東京大学仏文科助教授。スタンダールが専門で、1962年「『赤と黒』成立過程の研究」で文学博士。 1963年教授、また比較文学講座でも授業を担当し、文学部の西洋近代語近代文学専攻の創設に尽力した。1972年定年退官し名誉教授、同年より成城大学教授。 日本比較文学会理事、東京日仏会館常務理事などを歴任。レジオン・ドヌール勲章を授与された。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。