片山 仁八郎(かたやま にはちろう、1916年3月31日 -… 片山 仁八郎(かたやま にはちろう、1916年3月31日 - 1997年3月14日)は、日本の経営者。三菱電機社長、会長を務めた。佐賀県鳥栖市出身。 1935年に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、同年に三菱電機に入社した。1974年に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1980年から社長に就任し、1985年から会長に就任し、1991年から相談役に就任した。 日本電子工業振興会会長、新世代コンピュータ技術開発機構理事長なども歴任した。 1983年にマイクロ波放電光源装置の開発により、毎日工業技術賞に授賞し、1989年に勲一等瑞宝章を受章し、1993年にドイツ一等功労十字章を受章した。 1997年3月14日膀胱癌のために死去。
清水 保夫(しみず やすお、1916年3月31日 - 199… 清水 保夫(しみず やすお、1916年3月31日 - 1991年12月16日)は、日本の経営者。山口県出身。 1937年に浜松高等工業学校応用化学科を卒業し、同年に宇部興産(現:UBE)の前身である宇部窒素工業に入社。 軍隊生活を経て、1967年11月に取締役に就任し、1971年5月に常務、1977年12月に専務を歴任し、1983年6月に社長に就任した。。1991年5月には会長に就任。 1991年12月16日肝不全のために死去。75歳没。
岡本 隆三(おかもと りゅうぞう、1916年3月31日 - … 岡本 隆三(おかもと りゅうぞう、1916年3月31日 - 1994年4月14日)は、日本の作家・中国文学者。 静岡県生まれ。1937年東京外国語学校支那語科卒業。戦後横浜国立大学助教授を務めるが辞職して文筆に専念する。近現代文学が専門。中華人民共和国と文化大革命、毛沢東の支持者であった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
勝部 真長(かつべ みたけ、1916年3月30日 - 200… 勝部 真長(かつべ みたけ、1916年3月30日 - 2005年6月19日)は、日本の倫理学者。お茶の水女子大学名誉教授。 東京府牛込生まれ。旧制松江高等学校を経て、1940年東京帝国大学文学部倫理学科卒業、1948年同大学院修士課程修了。和辻哲郎に師事する。日本出版会に勤めた後、東大副手、講師を務める。1963年文部省在外研究員としてドイツ、イギリスに留学。お茶の水女子大学で教授を務めた。1979年定年退官、名誉教授、上越教育大学教授。1981年中央教育審議会委員、1985年総務庁青少年問題審議会副会長。1989年勲二等瑞宝章受章。ほかに、日本道徳教育学会会長、日本倫理学会会長、政教関係を正す会会長、海上自衛隊幹部学校講師、日本を守る国民会議(現:日本会議)代表委員を務めた[要出典]。
瀬尾 裕(せお ゆたか、1916年3月30日 - 1988年… 瀬尾 裕(せお ゆたか、1916年3月30日 - 1988年10月13日)は、イギリス文学者、中央大学名誉教授。 東京府荏原郡大森に生まれる。東京高等学校を経て、1940年東京帝国大学英文科卒、1944年同大学院修了。1942年逓信官吏錬成所専任講師、1949年中央大学経済学部助教授、1951年文学部助教授、1960年教授、1986年定年退職、名誉教授。フォースター『インドへの道』などを訳した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
大河内 正陽(おおこうち まさはる、1916年3月30日 -… 大河内 正陽(おおこうち まさはる、1916年3月30日 - 2003年6月1日)は、日本の工学者(電気工学、計算機工学)。 神奈川大学教授、専修大学教授を歴任した。戦前から戦後にかけて、日本のアマチュア無線の振興に貢献した。日本アマチュア無線連盟(JARL)名誉会員。従五位。 理化学研究所第3代所長大河内正敏の甥。子爵大河内正倫の子。大河内正樹の父。元華族大河内松平宗家第13代。 兵庫県川辺郡伊丹町(現伊丹市)生まれ。 1940年、東京工業大学電気工学科卒業。1946年4月より東京工業大学講師、1958年4月より神奈川大学工学部教授、1972年4月より専修大学経営学部教授。 専修大学では1972年9月から1976年5月まで電子計算機室運営委員会委員長、1978年4月から1980年8月まで同大学経営学部長、1984年4月から1986年3月まで専修大学情報科学研究所所長を務めた。
小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年… 小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年不明)は、長野県佐久市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 岩村田中学校ではエースピッチャーとして活躍。東京鉄道局で外野手に転向した。1937年に名古屋金鯱軍へ入団。同姓の小林利蔵と共にクリーンアップを担い、チームを牽引している。また、1937年春季リーグと1938年秋季リーグには規定打席に到達しながら、死球の数が四球の数を上回るという珍記録を残した(2007年に大村直之が記録するまで史上唯一の達成者だった)。1940年には翼軍へ移籍。そこでもチームの主軸を担い、キャリアハイである4本塁打49打点を記録するも同年に応召された。 戦後は藤倉電線で4番打者として活躍し、都市対抗野球では1試合7打点の記録も残している。
石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3… 石黒 孝次郎(いしぐろ こうじろう、1916年(大正5年)3月28日 - 1992年(平成4年)3月2日)は、日本の実業家、古美術商。レストランクレッセント創業者。栄典は紺綬褒章。祖父に石黒忠悳、父に石黒忠篤が居る。 1916年(大正5年)3月28日、東京府東京市牛込区揚場町17番地(現東京都新宿区揚場町)に石黒忠篤の次男として生まれる。父は農政の神様といわれた農林大臣の石黒忠篤。祖父は日本陸軍軍医で日本赤十字社第4代社長の石黒忠悳。 旧制成蹊高等学校を経て1941年(昭和16年)に京都帝国大学法学部を卒業し、翌年三井物産に入社。戦時中は物資補給を担った。このときの部下に楊馥成が居る。1946年(昭和21年)、三井物産退社。
山本 重信(やまもと しげのぶ、1916年3月28日 - 2… 山本 重信(やまもと しげのぶ、1916年3月28日 - 2008年7月3日)は、日本の商工・通産官僚、実業家。階級は海軍主計大尉。位階は正四位。勲等は勲二等。 通商産業省通商局局長、中小企業庁長官、通商産業事務次官、トヨタ自動車工業副社長、トヨタ自動車副会長、日野自動車工業会長などを歴任した。 長野県須坂市に生まれる。長野県旧制須坂中学、旧制松本高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、1939年4月、商工省入省。短期現役海軍主計科士官(2期)に志願して、同年5月5日、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年9月5日に卒業。霧島に配属。第三遣支艦隊・磐手乗組、佐世保鎮守府経理部付、呉建築部員を歴任。
岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28… 岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日 - 2013年(平成25年)10月25日)は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子(読み同じ)。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
柳 武彦(やなぎ たけひこ、1916年3月28日 - 生没不… 柳 武彦(やなぎ たけひこ、1916年3月28日 - 生没不明)は、日本のフィールドホッケー選手。 慶應義塾大学経済学部卒業。1936年ベルリンオリンピックでホッケー競技に出場した。 伊藤赳夫 | 伊藤通弘 | 上野安夫 | 大津敏雄 | 菊池信 | 倉内大次 | 酒井義雄 | 杉山益男 | 武知治 | 田中昇 | 浜田駿吉 | 村岡敏 | 柳武彦 | 脇坂貞夫 | 監督: 石川周策 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
小沢 政雄(おざわ まさお、1916年3月28日 - 199… 小沢 政雄(おざわ まさお、1916年3月28日 - 1996年10月4日)は、日本のロシア文学者。上智大学名誉教授。 神奈川県小田原市国府津(当時の同県足柄下郡国府津村)出身。1938年東京外国語学校ロシア語科卒業、陸軍士官学校教官、戦後拓殖大学講師、1955年『ロシア・リアリズムの系譜』で日本翻訳出版文化賞受賞、1957年上智大学外国語学部ロシア語科設置に際し教授、1986年定年退職、名誉教授。 1996年10月4日、腎不全のため死去。
宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1… 宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1981年5月22日)は、日本の公認会計士、会計学者。 長野県諏訪市出身。旧制成立商業学校を経て、1937年明治大学商学部卒業。1939年計理士開業。1949年公認会計士開業。同年から1972年まで母校講師。1971-1977年日本公認会計士協会会長、同相談役。第一監査事務所代表社員。
千田 モト(ちだ モト、1916年3月27日 - 1997年… 千田 モト(ちだ モト、1916年3月27日 - 1997年6月28日)は、日本の舞踏家。北海道出身。札幌舞踊会設立者。数々の公演を手がけた他、バレエの振興発展や、後進の育成に尽力した功績でも知られる。長女は千田康子(元東京バレエ団)、二女の千田雅子は、現札幌舞踊会代表。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)卒業。クラシックバレエの専門教育は受けておらず、独学で学んだ。戦前は、北海道の委属で町村歌の振り付けなどを手がけ、戦後間もない1948年3月、札幌舞踊会を設立。以後、北海道を拠点に、数々の公演を手掛けた他、1953年には日本バレエ協会北海道支部設立に携わり、1956年まで副支部長を務めている。1965年、北海道で初めて「白鳥の湖」全幕を公演。
勝沼 晴雄(かつぬま はるお、1916年3月27日 - 19… 勝沼 晴雄(かつぬま はるお、1916年3月27日 - 1985年3月17日)は、日本の公衆衛生学者、東京大学名誉教授。 静岡県出身。勝沼精蔵の長男として生まれる。1941年東京帝国大学医学部卒。病理学教室入室 7月海軍軍医中尉(グアム〔2〕、トラック島、横須賀航空技術廠、操縦士)。1949年公衆衛生学入室。1952年、米国留学(ピッツパーグ大学)。1950年、医学博士。論文の題は「白血球像の日差に関する研究」。 1952年、米国ピッツパーグ大学留学。 1955年、東京大学助教授、1959年、同教授。 1960年4月8日、新日本窒素肥料(現・チッソ)から支援を受けて、日本化学工業協会は「水俣病研究懇談会」を設置した。
登張 正実(とばり まさみ、1916年3月27日 - 200… 登張 正実(とばり まさみ、1916年3月27日 - 2006年3月20日)は、日本のドイツ文学者。東京大学名誉教授。 ドイツ文学者・登張信一郎(竹風)の子として宮城県に生まれる。1941年、東京帝国大学独文科を卒業。 1943年、広島高等学校教授に着任。1951年、一橋大学助教授となる。1964年、「ドイツ教養小説の成立」を提出して文学博士号を取得。母校である東京大学文学部助教授となり、1967年、教授昇進。1976年、定年退官した後は成城大学教授となった。この間、日本独文学会理事長、IVG(Internationale Vereinigung für germanistische Sprach- und Literaturwissenschaft 国際ゲルマン語学文学連合)理事、財団法人ドイツ語学文学振興会理事長等をつとめた。
森本 甚兵衛(もりもと じんべい、1916年3月27日 - … 森本 甚兵衛(もりもと じんべい、1916年3月27日 - 2009年12月6日)は、日本の経営者。西宮酒造(現在の日本盛)社長を務めた。京都府出身。 1916年(大正5年)3月27日、京都府船井郡世木村殿田(現在の南丹市)で生まれた(前名は吉田省三)。 世木村殿田で営まれていた家業(始祖は吉田萬右衛門)は生糸、醤油醸造であったが、兄弟・親族に医者が多く、自らも医学の道を志し、旧制松江高等学校理科乙類に入学した。 しかし、3年時に中退、1941年に立命館大学経済学部に入学し首席で卒業した。時代は太平洋戦争に突入し、省三は中部第三七部隊に入営、陸軍歩兵少尉に任官し、北支派遣軍独立歩兵となった。 終戦後、1948年に灘琺瑯に入社。
浜口 隆一(はまぐち りゅういち、1916年3月26日 - … 浜口 隆一(はまぐち りゅういち、1916年3月26日 - 1995年1月2日)は、日本の建築評論家・建築史家。東京大学助教授等を経て、日本大学理工学部教授に就任。 東京生まれ。1938年東京帝国大学工学部建築学科卒業。丹下健三と共に前川國男建築設計事務所に入所。その後東京帝国大学大学院岸田研究室に進み、1943年に大学院修士課程修了。建築史の講師任用になるがいったん辞し、1948年東京大学助教授となるが、のち退官して評論家。1966年から1977年まで日本大学理工学部建築学科教授。
谷村 裕(たにむら ひろし、1916年(大正5年)3月26日… 谷村 裕(たにむら ひろし、1916年(大正5年)3月26日 - 1996年(平成8年)10月22日)は、日本の大蔵官僚。大蔵事務次官、公正取引委員会委員長、東京証券取引所理事長等を歴任。 東京に生まれる。旧制暁星中学4年生修了、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科卒業。採用試験20科目全てで優を取り、トップで大蔵省に入る。大臣官房文書課属。 1938年(昭和13年)短期現役海軍主計科士官(1期)を志願。同年7月、海軍経理学校に入学し、同年12月に卒業。海軍主計中尉に任官。名取に配属。第五艦隊司令部付妙高乗艦、呉海軍工廠会計部購買課勤務を歴任。1940年(昭和15年)11月、主計大尉に昇進。
内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2… 内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手・審判員。日本プロ野球最初の大型左腕投手である。
目迫 秩父(めさく ちちぶ、1916年3月24日 - 196… 目迫 秩父(めさく ちちぶ、1916年3月24日 - 1963年3月18日)は、神奈川県出身の俳人。本名は文雄。 横浜市生。県立商工実習学校(現神奈川県立商工高等学校)卒。1941年、昭和特殊製鋼に入社。1946年、スト争議により退社。同年「濱」に入会し大野林火に師事。1949年に結核を発病。貧困生活の中、入退院を繰り返しながら意欲的に病涯を詠んだ。代表句『狂へるは世かはたわれか雪無限』他。1958年、句集『雪無限』により第7回現代俳句協会賞。1963年、喀血による窒息で死去。「濱」(1963年7月号)では追悼号が組まれた。
木村 三四吾(きむら みよご、1916年3月24日 - 20… 木村 三四吾(きむら みよご、1916年3月24日 - 2008年4月)は、日本の近世文学研究者。大阪樟蔭女子大学名誉教授。「餘二稿」「餘二庵」「佐保之不貞祢」と号した。 兵庫県姫路市生まれ。1933年、姫路高等学校入学。1939年、京都帝国大学国文科卒業、同大学院に進学。1945年、天理図書館司書研究員。天理図書館の名物司書として名声が高かった。1976年、天理図書館を停年退職し、同年大阪樟蔭女子大学教授に就任。同大学図書館長を勤め、1986年定年退職、同大学名誉教授。 若い頃は俳諧関係の研究を中心に行い、晩年は曲亭馬琴を中心に研究した。『木村三四吾著作集』全4巻がある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
辻 昶(つじ とおる、1916年3月22日 - 2000年5… 辻 昶(つじ とおる、1916年3月22日 - 2000年5月15日)は、日本のフランス文学者。東京教育大学名誉教授。ヴィクトル・ユゴーを専門とし多くの翻訳を行った。 画家・辻永の長男として東京に生まれる。ドイツ文学者の辻瑆は弟。旧制武蔵高等学校卒、東京帝国大学仏文科卒、東京教育大学教授、1980年定年退官、名誉教授、白百合女子大学教授。 2000年、急性リンパ性白血病のため死去。
加古 三枝子(かこ みえこ、1916年3月22日 - 200… 加古 三枝子(かこ みえこ、1916年3月22日 - 2002年12月17日)は、日本の声楽家。本名・小泉三枝子。兵庫県高砂市生まれ。東京音楽学校声楽料卒業。 1940年から1971年までお茶の水女子大学講師、1957年から1972年まで東京芸術大学講師を務めた。1957年、ヒンデミット「マリアの生涯」を日本初演。30代の時、11歳年下の音楽学者・小泉文夫と恋におち、周囲の反対を押し切って結婚し、小泉が50代で死んだ後その思い出を刊行した。自身の詩「碧い部屋」に柴田南雄らが曲をつけ、自作自演を行っており、CDも製作された。墓所は渋谷区法雲寺 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
波部 忠重(はべ ただしげ、1916年3月21日 - 200… 波部 忠重(はべ ただしげ、1916年3月21日 - 2001年12月29日)は、日本の貝類学者。日本貝類学会名誉会長、日本動物分類学会名誉会員、勲三等瑞宝章受章者。 20世紀後半の日本における代表的貝類学者の一人として知られ、日本産の貝類の分類学的研究を主に手がけ、1600以上の分類群(科、属、種など)を記載した。また専門の研究者だけではなく、アマチュアの研究者や愛好家への指導も広く行って後進の育成に力を注いだ。また、昭和天皇が相模湾で収集した貝類コレクションを『相模湾産貝類』(1971年)として黒田徳米・大山桂らと共にまとめたことでも知られる。 1916年(大正5年)3月21日、兵庫県多紀郡日置村(現:丹波篠山市)に生まれる。
小沼 文彦(こぬま ふみひこ、1916年3月21日 - 19… 小沼 文彦(こぬま ふみひこ、1916年3月21日 - 1998年11月30日)は、日本のロシア文学者。 埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。慶應義塾大学予科から文学部卒業。予科時代に『罪と罰』を読んで感銘を受け、卒業後、ロシア語ができないままソ連に留学。その後政府留学生として、1943年にブルガリア首都ソフィアのソフィア大学ロシア文学科を卒業。敗戦後の一時期、ソ連に抑留され、約10年間外地に在住、帰国を共にした前夫人・菊池節子は、杉原千畝の義妹(姉幸子が夫人)。 帰国後は金沢大学や中央大学でロシア文学を教え、約30年かけ『ドストエフスキー全集』(筑摩書房)を個人全訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21… 森村 茂樹(もりむら しげき、1916年〈大正5年〉3月21日 - 1979年〈昭和54年〉11月24日)は精神科医、地域医療と社会福祉を推進した教育者。兵庫県西宮市に兵庫医科大学を創設、理事長、学長、病院長を歴任した。 精神科医森村真澄・豊の一人っ子として兵庫県川辺郡尼崎町(現在の尼崎市)で生まれる。尼崎市第三尋常小学校から兵庫県立第一神戸中学校(現神戸高校)を経て第三高等学校(現京都大学)に進んだ。卒業した1936年(昭和11年)は京都帝国大学文学部哲学科に合格したが方向転換、翌年、東京帝国大学医学部に入学、1941年(昭和16年)卒業、精神病学教室主任教授で東京都立松沢病院長を兼務する内村祐之の指導を受け、東大病院精神病学講座の副手嘱託となる。
菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21… 菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21日 - 2002年(平成14年)7月21日)は、日本の詩人・文芸評論家。「群系」創刊同人。 仙台市生まれ。1937年(昭和12年)明治大学文藝科卒。太宰治と親しく交わる。戦後、紫書房、大蔵財務協会に勤務。1960年(昭和35年)よりフリーの編集者。かたわら文芸評論を書いた。「群系」創刊同人。 息子・菊田求(1949-1975)も詩や小説を書いたが、学生運動のさなか自死した。遺稿集に『反逆と愛のはざまで ある学生の孤独な遺書』(光風社出版 1979年5月)がある。
富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 201… 富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 2015年5月15日)は、日本の経営者。北海道放送社長、会長を務めた。北海道旭川市出身。 1939年に早稲田大学専門部法科を中退し、同年に満蒙学校を卒業。1941年に小樽新聞社に入社後、全道の新聞社統合により1942年11月に北海道新聞社に移籍し、政経記者として活躍。1945年には内閣記者会詰めとして憲法審議を担当。1951年12月に北海道放送に転じ、1956年の日ソ和平交渉の際には民間放送代表特派員の一人として鳩山一郎首相の随行団に参加した。1967年に取締役、1970年に常務、1978年に専務、1979年に副社長を経て、1984年に社長に就任。
武藤 武雄(むとう たけお、1916年(大正5年)3月20日… 武藤 武雄(むとう たけお、1916年(大正5年)3月20日 - 1978年(昭和53年)10月20日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員、初代日本労働組合総評議会(総評)議長。 茨城県那珂郡山片村(山方町を経て現常陸大宮市)出身。1930年(昭和5年)茨城県小貫農業公民学校を卒業した。 入山炭鉱(のち常磐炭鉱)に入社し坑内夫として勤務。労働運動に加わり、常磐炭鉱労働組合長となり、1946年(昭和21年)常磐地方炭鉱労働組合連合会の初代組合長に就任。1947年(昭和22年)炭労(のちの日本炭鉱労働組合)中央執行委員長となり、1950年(昭和25年)総評が結成されると初代議長に就任した。1952年(昭和27年)の炭労の労働ストでの対応を巡り、炭労臨時大会で不信任となり委員長を解任され、総評議長も退任した。
松田 瓊子(まつだ けいこ、1916年(大正5年)3月19日… 松田 瓊子(まつだ けいこ、1916年(大正5年)3月19日 - 1940年(昭和15年)1月13日)は、日本の小説家。父は小説家の野村胡堂。夫は政治学者の松田智雄。 東京市小石川区(現在の東京都文京区)に4人兄弟の次女として生まれる。作家の父と高等女学校の教員であった母のもと、文化的に恵まれた家庭に育つ。日本女子大附属高等女学校(現在の日本女子大学附属中学校・高等学校)に入学した頃から少女小説を書き始め、女学校卒業の頃に初めての長編である『人形の歌』を完成する。女学校卒業後は日本女子大学校(現在の日本女子大学)英文科に入学する。卒業生名簿に名前が記載されていないことから、卒業はしなかったとされている。
森 三十郎(もり さんじゅうろう、1916年3月19日 - … 森 三十郎(もり さんじゅうろう、1916年3月19日 - 2012年7月2日)は、日本の法学者、福岡大学名誉教授。元法学部長、理事。 福岡県鞍手郡鞍手町出身。第五高等学校を経て、九州帝国大学法学部卒。(宇賀田順三門下、在学中に高等文官試験に合格)。 九大助手、拓務省、大東亜省、外務省勤務、応召して陸軍主計中尉で敗戦を迎え、1948年戸畑専門学校教授(憲法、行政法)に就任。1950年新制八幡大学助教授、教授を歴任後1954年に退任。後鹿児島県立大学、久留米大学助教授。1956年福岡大学教授に就任。1987年、定年退任、名誉教授。 総合国家学研究所のち森国家学研究所を主宰し、天皇制擁護の論陣を張った。
大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月… 大河原 春雄(おおかわら はるお、1916年(大正5年)3月19日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の建築行政指導者、都市計画家、都市計画研究者、教育者。東京都首都整備局技監や東京理科大学教授を歴任した。 石川県金沢市に生まれる。旧制第四高等学校を経て、東京帝国大学工学部建築学科に進学し、1938年(昭和13年)に優秀な成績で卒業する。当時の都市計画講座は内田祥三(のちに総長)の担当だった。卒業後は警視庁保安部建築課に就職し、都市計画の実務に入る。この就職には、都市計画講座に注力していた内田の薦めがあったともされる。 当時建築行政は警察業務として扱われており、東京府では警視庁が所管して市街地建築物法を執行していた。
三井 敏正(みつい としまさ、1916年 <大正5年> 3月… 三井 敏正(みつい としまさ、1916年 <大正5年> 3月18日 - 1989年 <平成元年> 12月14日)は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。位階は従四位。 山口県出身。1938年に東京帝国大学工学部船舶学科を卒業し、同年に三菱重工業に入社した。1973年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務、1980年6月に副社長を経て、1983年6月にキャタピラー三菱社長に就任し、1987年7月までに務めた。 1983年4月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年12月14日、結腸癌のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
海藤 勇(かいとう いさむ、1916年(大正5年)3月18日… 海藤 勇(かいとう いさむ、1916年(大正5年)3月18日 - 1984年(昭和59年)2月17日は、日本の内科学者。専門は、消化器病学、特に肝臓疾患。医学博士。 長崎県長崎市生まれ。 1941年、東北帝国大学医学部卒業後、同医学部内科教室(教授 黒川利雄)に入局。1962年、東北大学医学部同内科助教授。1966年、岩手医科大学教授。1981年、同大学付属病院長・理事。がん予防対策に貢献した。医学博士(東北帝国大学)、論文「糖尿病に於ける肝臓機能について」。正五位、勲三等瑞宝章。1984年逝去、享年67。
内藤 良平(ないとう りょうへい、1916年〈大正5年〉3月… 内藤 良平(ないとう りょうへい、1916年〈大正5年〉3月17日 - 1996年〈平成8年〉12月21日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 秋田県秋田市で生まれる。1933年(昭和8年)秋田市商業学校(現秋田市立秋田商業高等学校)を卒業した。 1935年(昭和10年)鉄道省(のちの日本国有鉄道)に入省。仙台鉄道局秋田運輸事務所、新潟鉄道局秋田管理部総務課などに勤務。国鉄労働組合中央委員、同秋田支部書記長、秋田県労働組合会議議長、同事務局長、護憲連合秋田県代表委員などを務めた。秋田市議会議員に選出され2期在任し、同総務財政委員長、秋田県地方労働委員も務めた。 1949年(昭和24年)日本社会党に入党。
太田 絢子(おおた あやこ、1916年3月17日 - 200… 太田 絢子(おおた あやこ、1916年3月17日 - 2009年10月31日)は、昭和・平成期の歌人。歌誌『潮音』主宰を務めた。歌人・漢文学者の太田青丘は夫。『潮音』現主宰の木村雅子は娘。旧姓・近藤。 北海道利尻町生まれ。実践女子専門学校(現実践女子大学)国文科卒。在学中は高崎正秀の指導を受ける。同校助手を経て、北海道岩見沢農業高等学校、北海道小樽潮陵高等学校などの教員を歴任。小樽市を第二の故郷として愛した。 1950年(昭和25年)、歌誌『新墾』及び『潮音』に入社。後に『新墾』選者も務める。1957年(昭和32年)、師の小田観螢の媒酌により、太田青丘の後妻に入り、北海道を離れ鎌倉市に住む。1996年(平成9年)に夫の太田青丘の没後、『潮音』主宰を継承。
石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2… 石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2013年1月27日)は、歌人、編集者、出版人。短歌新聞社元社長。 新潟県三条市生まれ、栃尾市育ち。本名は清作。1940年、同郷の詩人内藤鋠策と『抒情詩』を復刊する。1943年応召を受け、中国、仏領インドシナなどで従軍。戦後、郷里新潟県で「越後短歌」を創刊。 1953年東京で短歌新聞社を創立、月刊短歌情報誌『短歌新聞』を発刊。1977年に月刊短歌総合誌『短歌現代』を創刊した。以後、2011年12月の廃業まで一貫して社長を務めた。名歌集を安価で読める「短歌新聞社文庫」、新鋭歌人による「現代歌人叢書」「現代女流短歌全集」の創刊や、短歌現代新人賞の創設、『短歌現代』編集長に高瀬一誌を起用するなどの施策を打ち出し、戦後短歌に大きな影響を与えた。
大場 松魚(おおば しょうぎょ、1916年(大正5年)3月1… 大場 松魚(おおば しょうぎょ、1916年(大正5年)3月15日 - 2012年(平成24年)6月21日)は、漆芸家。蒔絵の重要無形文化財保持者(人間国宝)。金沢美術工芸大学名誉教授、金沢市名誉市民。石川県金沢市出身。本名、勝雄。 石川県立工業学校卒業。父の大場宗秀に10年間学んだ後、昭和18年上京し、松田権六の内弟子となり2年間師事。 伊勢神宮式年遷宮御神宝「御鏡箱・御太刀鞘」(昭和27年及び47年)、中尊寺金色堂の保存修理(昭和39年)に従事したことが端緒となり、本格的な平文の技法に取り組んだ。 1978年に紫綬褒章を受ける。 1982年(昭和57年)4月20日には人間国宝に認定される。 フランスでクリスタルガラスとの融合など、新しい枠組みにも取り組んだ。
五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3… 五味川 純平(ごみかわ じゅんぺい、1916年(大正5年)3月15日 - 1995年(平成7年)3月8日)は、日本の小説家。本名︰栗田 茂(くりた しげる)。 関東州・大連生まれ。東京商科大学(現一橋大学)に入学するも1年で中退し、東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科入学。同校在学中に、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、その後卒業し、満州鞍山の昭和製鋼所に入社する。ここで隅谷三喜男と知り合う。1943年召集を受け、満州東部国境各地を転々とした。1945年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下数名で、捕虜となる。 1948年の復員後、自らの従軍体験を基にして1956年に発表した『人間の條件』が1,300万部を超える大ベストセラーとなり、一躍人気作家となる。
沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5… 沢原 梧郎(澤原 梧郎、さわはら ごろう、1916年〈大正5年〉3月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、広島県多額納税者。辰栄工業会長。 広島県呉市出身。沢原亮吉の長男。沢原俊雄の孫。1941年、慶應義塾大学経済学部経済学科卒業。1948年3月より1952年3月まで呉市公安委員並びに委員長を務める。1963年7月より1978年7月まで広島県公安委員並びに委員長を務める。呉三田会会長を務める。 趣味は洋楽。宗教は真宗。住所は広島県呉市長ノ木町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
中井 信彦(なかい のぶひこ、1916年3月14日 - 19… 中井 信彦(なかい のぶひこ、1916年3月14日 - 1990年11月27日)は、日本の歴史学者。専攻は近世経済思想、農業思想。 台湾生まれ。1938年慶應義塾大学卒、杉野女子短期大学教授をへて1963年慶大教授、1973年「歴史学的方法の基準」で毎日出版文化賞、1980年同書で慶大文学博士、定年となり愛知大学教授。1989年『色川三中の研究 伝記編』で角川源義賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
谷岡 武雄(たにおか たけお、1916年3月14日 - 20… 谷岡 武雄(たにおか たけお、1916年3月14日 - 2014年6月14日)は、日本の地理学者。立命館大学名誉教授。学校法人立命館名誉役員。学校法人立命館元総長・立命館大学学長。京都府綴喜郡多賀村(現・井手町)生まれ。 京都府師範学校(現・京都教育大学)本科を卒業し、専攻科修了後は小学校の訓導として勤務。その傍ら立命館大学予科に通う。1944年(昭和19年)立命館大学法文学部地理学科卒業。 その後、立命館大学で助教授、教授を歴任し、文学部学部長に就任。1962年(昭和37年)、「近畿における平野の発達に関する地理学的研究」で東京大学より理学博士の学位を取得。立命館退官後は、中部大学に移籍していたが、1984年(昭和59年)の立命館総長選挙に推薦され当選。
小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2… 小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2006年8月3日)は、日本の実業家。六花亭創業者。北海道函館市出身。 旧制野付牛中学校(現・北海道北見北斗高等学校)卒業。父の事業の失敗で進学を断念し、1933年に母方の叔父・岡部式二が経営する札幌千秋庵に入社。 1937年にもう一人の叔父・岡部勇吉が創業した帯広千秋庵(現在の六花亭の前身)の経営を引き継ぐ。当初は同業他社が多かったことから苦戦を強いられる。だが、1939年に価格等統制令が敷かれ、他の店が砂糖不足で思うように商品を作れなくなった際、知人の会社社長の薦めもあり、前もって砂糖を大量に購入していたため、小田の店は従来どおりに製品を作ることができ、次第に客足が増えるようになった。
曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916… 曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916年3月13日 - 1980年1月28日)は、大韓民国の政治家。第4・5・7・8代韓国国会議員。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。24保安法波動の時に負傷し病院に搬送された野党議員の1人であった。 日本統治時代の大邱府出身。明治大学法学部卒。大邱大学(現・嶺南大学校)講師、民主党中央党政策委員・中央常務委員・大邱戊区党委員長、新民党慶尚北道第4地区党委員長・全党大会副議長・中央党指導委員、国会財政経済委員会幹事、国会大邱西門市場(朝鮮語版)火災事件救護調査特別委員会委員長を務めた。 1980年1月28日、持病により大邱市内の自宅で死去。享年64。
加藤 長治(かとう ちょうじ、1916年(大正5年)3月13… 加藤 長治(かとう ちょうじ、1916年(大正5年)3月13日 - 2004年(平成16年)11月4日)は、日本の政治家。戦後から平成初期にかけて活躍した相模原市議会議員。位階は従五位。 1916年3月13日、神奈川県津久井郡青根村で、加藤開・妻フジの第4子として生まれる。当時、山間部である津久井郡青根村(280戸)と青野原村(320戸)は平均耕作面積が狭く、炭焼きなどの山仕事しかない貧しい村であったが、過剰な人口を抱えて、昭和15年には県の経済更生指定村となった為、国策に基づき分村計画を立て満州に開拓団を送り出すことが義務付けられた。丁度、加藤長治が名古屋の騎兵第三連隊から二年十一か月の軍隊生活を終わり除隊して帰宅した頃であった。
谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年(大正5年)3月1… 谷川 安孝(たにかわ やすたか、1916年(大正5年)3月12日 - 1987年(昭和62年)12月13日)は、日本の理論物理学者。1939年に物理学者の坂田昌一と共に中性中間子が非常な短時間で2つあるいは3つのγ線になることを発表した。兵庫県出身。 1949年に日本人で初めてノーベル賞(ノーベル物理学賞)を受賞した湯川秀樹に師事し、1942年に坂田昌一、井上健と共に中間子とミュー粒子は別種であり、中間子はミュー粒子より重く、中間子が自然崩壊してミュー粒子に変化するという二中間子説を提唱した学者として知られている。 1916年3月12日、兵庫県に生まれ、大阪帝国大学(現:大阪大学)を卒業する。 名古屋帝国大学(現:名古屋大学)にて助教授を務め、神戸大学で教授となる。
大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月1… 大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月11日 - 1990年(平成2年)9月2日)は、昭和期の作詞家。 北海道小樽市生まれ。テイチク専属作詞家として多数の作品を残し、「玄海ブルース」、「海のジプシー」、「肩で風切るマドロスさん」、「玄海エレジー」(田端義夫)、「君忘れじのブルース」(淡谷のり子)、「アリラン」、「トラジ」、「江の島悲歌」、「連絡船の唄」、「木浦の涙」(菅原都々子)、「炭坑節」(美ち奴)、「泪の連絡船」(真木不二夫)、「東京ロマンス・タイム」(楠トシエ)、「流転笠」(今村隆)、「浮草小唄」(鈴木三重子)、「しのび泣く青春」、「青い夜霧の港町」(大木実)、「カスバの女」(エト邦枝)、「ひとりぽっちの青春」、「世界を賭ける恋」、「男の友情背番号・3」、「街から街へつむじ風」、「王将・夫婦駒」、「夜霧の慕情」「泪が燃える」(石原裕次郎)、「銀座の恋の物語」(石原裕次郎、牧村旬子)、「文左たから船」(三波春夫)などがある。
瀬井 清(せい きよし、本名:薛 永順、1916年3月10日… 瀬井 清(せい きよし、本名:薛 永順、1916年3月10日 - 1973年2月26日)は、中華民国・福建省福州市出身のプロ野球選手(内野手)。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
山野 幸吉(やまの こうきち、1916年〈大正5年〉3月10… 山野 幸吉(やまの こうきち、1916年〈大正5年〉3月10日 - 1998年〈平成10年〉7月8日) は、日本の内務・自治官僚。初代沖縄・北方対策庁長官。位階は正四位。 島根県松江市出身。松江高等学校を卒業し、1941年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部を卒業。翌1942年、内務省に入省し神奈川県属となる。 短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月、同校を卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。 戦後、内務省に復帰し、静岡県商工課長、自治省公務員課長、千葉県総務部長、総理府特別地域連絡局長などを経て、1970年5月、沖縄・北方対策庁長官に就任した。