曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年… 曾根 俊虎(そね としとら、1847年11月13日〈弘化4年10月6日〉 - 1910年〈明治43年〉5月30日)は、幕末期の武士(米沢藩士)、大日本帝国海軍大尉、号は暗雲、中国名は曾嘯雲。幼名は小太郎。近代日本史におけるアジア主義の中の最重要人物とされ、興亜会の創立者としてよく知られている。 米沢藩の儒者・曽根敬一郎の子。曽根家は明治元年まで代々上杉家の家臣(馬廻組)を勤め、戊辰戦争後に父・魯庵を失った後、俊虎は百五十石を賜っている。藩校興譲館で漢学を学び、雲井龍雄の感化を受けた。戊辰戦争で父を失った後、米沢で渡辺洪基に英学を学び、さらに江戸に出て慶應義塾に入り、福澤諭吉・吉田賢輔に洋学を学んだ。
法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘… 法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘化4年9月28日〉 - 1923年〈大正12年〉2月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(鳥取県郡部選出、当選1回)。大阪商業会議所副会頭。族籍は大阪府平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)に生まれる。法橋助作の二男。漢学を学ぶ。明治初年郷里を出て、大阪に来る。後に東京に遊ぶ。この間翻訳書を読んで略世界の事情に通じ、官民の間に多くの交友を有する。 1882年頃洋銀相場に手を出して一敗地に塗れ、ほとんど起つことができなくなる。しかしようやくにして失敗を挽回し1887年頃より、小泉清左衛門、森作太郎、播本孝良等と共に公共事業に奔走する。
小渕 志ち(おぶち しち、1847年11月9日(弘化4年10… 小渕 志ち(おぶち しち、1847年11月9日(弘化4年10月2日) - 1929年(昭和4年)3月16日)は、上野国勢多郡石井村(現・群馬県前橋市)出身の女性実業家(製糸家)。愛知県東三河地方の玉糸製糸業の先覚者とされ、特に豊橋市では「玉糸製糸の祖」として顕彰されている。 座操器による玉糸の操糸法を確立させ、玉繭という屑繭から高品質の生糸を繰ることに成功した。1885年(明治18年)に渥美郡二川町に製糸工場(後の糸徳製糸)を建設した。糸徳製糸の経営の傍ら、東三河地方で同業組合の結成を促進するなど、製糸業の発展に大きな功績をあげた。 弘化4年(1847年)10月2日、上野国勢多郡石井村(現・群馬県前橋市富士見町石井芝110番地)に生まれた。
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘… 荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘化4年10月1日) - 1922年(大正11年)4月30日)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。 長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任して大番頭といわれた。海員掖済会や日本勧業銀行、満鉄等の創立にも携わり、三菱商業学校(明治義塾)校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にあたった。勲四等旭日小綬章、賜・銀杯一組。 弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。
井上 操(いのうえ みさお、弘化4年9月20日(1847年1… 井上 操(いのうえ みさお、弘化4年9月20日(1847年10月28日) - 明治38年(1905年)2月23日)は、日本の法律家。 信濃国松代城下(現・長野県長野市)に松代藩士・井上五郎左衛門の子として生まれる。藩の兵制士官学校で武田斐三郎について学び、司法省法学校に入学。在学中に山縣有朋の知遇を得る。1876年卒業。1882年から明治法律学校で治罪法(刑事訴訟法)の講義を担当。1886年、東京帝国大学教授に任じられるが、判事に転じて大阪控訴院評定官となり、その後、大井憲太郎らによる大阪事件の裁判のため、大阪重罪裁判所裁判長となった。関西法律学校が開校すると刑法などの講義を担当する。1890年大阪控訴院部長に進むが、1895年病気のため帰郷。
菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年… 菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年9月18日) - 1926年(大正15年)1月1日)は、日本の武士(弘前藩士)、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。新聞『東奥日報』創刊者。東津軽郡郡長、初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。諱は武行。 「東奥の西郷隆盛」と言われ絶賛された。正五位勲四等旭日小綬章。 弘前藩(津軽藩士)・菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。幼名は喜代太郎。 藩校・稽古館に学び、皇漢の学を修め、1864年(元治元年)より藩の勤務。藩校・稽古館で司監を務める。戊辰戦争に際して藩論が新政府支待に傾くと脱藩して庄内藩に向かう。
不知火 光五郎(しらぬい こうごろう、1847年10月15日… 不知火 光五郎(しらぬい こうごろう、1847年10月15日〈弘化4年9月7日〉 - 1882年〈明治15年〉7月11日)は、大坂相撲で活躍した元力士。湊部屋(大阪相撲)に所属していた。 本名は佐藤 幸五郎(後に佐藤 光五郎に改名)。身長,体重は不明。出身地は筑前国嘉麻郡下山田(現在の福岡県嘉麻市下山田)。 最高位は大関(大阪相撲)。横綱を締めた錦絵が残るが、図柄は他力士の流用であり、土俵入りを行った記録はない。「山響改 不知火光右衛門」とあり改名の記念品との見方もある。 筑前国嘉麻郡下山田で佐藤利平の次男として出生。幼少の頃から力持ちとの評判で、巡業で訪れた、同じ筑前国出身の梅ヶ谷藤太郎(後の第15代横綱)に見初められ、相撲界に入門。
窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8… 窪 全亮(くぼ ぜんりょう、1847年9月28日(弘化4年8月19日)- 1913年5月11日)は、日本の教育者。明治および大正時代に、現在の東京都稲城市で活動した。号は「素堂」。「稲城」の地名の命名者という説がある。 1847年に長沼村(現稲城市)に生まれる。若い頃江戸に出て、大沼枕山に学ぶ。 1871年に郷里の長沼村に作られた東長沼郷学校「博文学舎」の教員となる。翌年、学制が発布されると尋常小学校の教員に就任した。 1880年(明治13年)に私塾「奚疑塾」(けいぎじゅく)を自宅に開いた。この塾は尋常小学校卒業者を対象とし、広く生徒が集まった。奚疑塾の名は、帰去来辞の「樂夫天命復奚疑」に由来する。
小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4… 小林 清親(こばやし きよちか、1847年9月10日(弘化4年8月1日)- 1915年(大正4年)11月28日 )は、明治時代の浮世絵師。明治10年(1877年)ごろに、江戸から移り変わる東京の様子を版画で表現した。 江戸本所にて幕臣で本所御蔵小揚頭取を務める小林茂兵衛の子として生まれる。母は浅草御蔵方小揚頭を務めた松井安之助の長女ちか。9人兄弟の末子で、幼名は勝之助。小林家は足軽級の軽輩であったが、蔵米を扱う職務上、番方の同心より裕福であり、家には剣客の居候がおり、また出入りの医師もいるほどであった。 1862年(文久2年)、15歳の時に父が亡くなった為、勝之助が元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ。
古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘… 古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘化4年7月11日)- 1914年(大正3年)11月3日)は、幕末の平戸藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡平戸村(長崎県北松浦郡平戸村、平戸町を経て現平戸市)で、平戸藩士・吉川右衛門兵衛の長男として生まれる。藩儒の平田貞次郎、楠本瑞山らから漢学を学んだ。慶応2年(1866年)藩校維新館学員に就任。王政復古の際には藩主松浦詮に従って京都に滞在し、明治2年(1869年)藩主の近侍職となった。 廃藩置県後は実業界に転じた。1885年(明治18年)平戸士族授産生産社副社長に就任し、その後同社長に就任。1887年(明治20年)第九十九銀行(現十八親和銀行)取締役頭取に就任し、1902年(明治35年)7月、同頭取を退任。
月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8… 月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8月7日) - 明治27年(1894年)1月8日)は、江戸時代末期の福岡藩士、明治時代の官僚。北海道樺戸集治監典獄、樺戸・雨竜・上川三郡郡長として北海道開拓に携わる。樺戸郡月形町の町名は彼の姓に由来している。 弘化4年(1847年)、筑前国遠賀郡中底井野村(現福岡県中間市中底井野)で旭迎堂を開いていた儒学者でもある福岡藩士月形健(春耕)と伊藤常足の門人の宮崎省庵の娘の竹との間に生まれ、直吉と名付けられる。 嘉永3年(1850年)鞍手郡植木村(現福岡県直方市)に伯父(父の長兄)の月形深蔵(漪嵐)が隠居して教授所を開き、直吉は深蔵の元に足しげく通い、朱子学や剣術を学ぶ。
飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年… 飯田 俊徳(いいだ としのり、弘化4年6月25日〈1847年8月5日〉 - 1923年〈大正12年〉8月27日)は、日本の鉄道の父といわれる井上勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者である。山口県萩市出身。元長州藩士。 萩藩大組飯田家の子として生まれた。はじめは吉次郎といった。 藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰・大村益次郎らに師事する。1864年、高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。 1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した(この時飯田と共に派遣されたのが、松下村塾時代の同期生でもあった渡辺蒿蔵)。帰国後、工部省鉄道局に入局。 1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年… 市川 文吉(いちかわ ぶんきち、1847年8月3日(弘化4年6月23日) - 1927年(昭和2年)7月30日)は、明治時代のロシア語通訳、外交官、教育家。幼名は秀太郎。 1847年、広島藩士・市川兼恭の長男として江戸神田新白銀町で生まれる。1860年(安政7年)、蕃書調所の仏学稽古人となり、1864年(元治元年)、開成所の仏学科教授手伝並に任ぜられた。 かねてより駐日ロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチは幕府にロシアへ留学生を送ることを提案していた。1865年(慶応元年)、幕府は提案を採り上げ、遣露留学生を送ることを決定。当時開成所教授で、ロシアとロシア語に関心を持っていた父の推薦で留学生に選ばれた。
10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29… 10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29日(弘化4年6月18日)- 1904年(明治37年)10月20日)は、日本の実業家・慈善家。総合建設会社(ゼネコン)の佐藤工業株式会社創業者。富山県砺波郡柳瀬(現砺波市)生まれ。多くの橋の架設に私費を投じ、又、本願寺富山別院が焼失した際、2ヵ月後に「蓮如上人400回忌法要」という大行事を控えていた本願寺の為に結果的に無償で昼夜突貫で再建した。 1500年代の佐藤家の祖佐藤助左衛門から数えて9代目佐藤助九郎の子で、名は10代目貞次であるが、佐藤工業の創業者、初代助九郎と称している。 貞次は近郷に並ぶ者のない豪力と胆力の優れた父の資質を受け継ぎ、相撲・盤持ちなどを得意とし“力持ち貞次”といわれた。
物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7… 物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7月10日) - 昭和3年(1928年)6月23日)は、明治から大正に活動した国学者。 豊後国速見郡杵築(現・大分県杵築市)に生まれる。父は国学者の物集高世で、高見はその二男三女の長男であった。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。 少年時代、故郷で漢学と国学を修める。慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。慶応2年(1867年)に京都へ出て、玉松操に師事して国書を修める。 明治2年(1869年)に父と上京。明治3年(1870年)5月、平田銕胤の門に入り国学を修めたほか、神祇官職員の東条琴台に師事して漢学を修める。
知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育… 知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育13年5月27日) - 1929年(昭和4年)5月18日)は、琉球王国時代から大正にかけての沖縄県の唐手家、実業家、政治家。 琉球藩時代は砂糖奉行等を務め、廃藩後は尚家経営の沖縄広運(株)社長。1908年には初の民選首里区長に選ばれた。 唐手は松村宗棍に師事した。 1847年、首里当蔵町(しゅりとうのくら)に生まれる。知花家は尚質王の第五王子、東風平王子朝春(こちんだあんじちょうしゅん)を始祖とする勝連御殿(かちれんうどぅん)から分家した首里士族であり、琉球王国時代は知花殿内(ちばなどぅんち)と呼ばれた名家であった。小林流開祖の知花朝信は甥に当たる。
武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) … 武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) - 明治10年(1877年)5月3日)は、幕末の福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。名は(建部)自成。通称は小四郎、燕之允。父は建部武彦、伯父に黒田一葦(母の兄)、従兄弟に加藤堅武(父の妹の子)が居る。
工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年… 工藤 則勝(くどう のりかつ、弘化4年5月17日〈1847年6月29日〉 - 1916年〈大正5年〉1月11日)は、明治時代の司法官。大審院検事。 工藤勇蔵の長男として陸奥弘前(現青森県弘前市)に生まれる。弘前藩藩校稽古館で学ぶ。1871年(明治4年)司法省に奉職し検事となり、1878年(明治11年)判事に転じる。1880年(明治13年)岩手重罪裁判長兼控訴院評定官となり、1889年(明治22年)宇都宮予審裁判所長、1892年(明治25年)東京地方裁判所検事正、1898年(明治31年)函館控訴院検事長を経て、1903年(明治36年)大審院検事に進んだ。
立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5… 立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5月13日)- 1929年(昭和4年)4月4日)は、明治時代の政治家、養蚕家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。旧姓は小野。 備中国浅口郡船穂村(現・倉敷市船穂町船穂)の豪農・小野市太夫の4男として生まれる。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ。1866年(慶応2年)10月、19歳の時に美作国津山藩領西西条郡二宮村(苫田郡二宮村を経て、現在の津山市二宮)の大庄屋・立石正介の養嗣子となった。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した。 1878年(明治11年)4月、中島衛らと共に共之社を結成。
小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年… 小川 松民(おがわ しょうみん、1847年6月8日(弘化4年4月25日)- 1891年(明治24年)5月29日)は、明治時代の漆芸家。本名は繁次郎。 江戸の日本橋に金具師であった小川忠蔵の子として生まれる。1862年(文久2年)に中山胡民の門人となり蒔絵を学んだ。後に池田孤村の門人となり、尾形光琳の画風を学ぶ。この経験を活かし、古作の蒔絵を模造した漆器の制作にあたった。 明治維新後の1870年(明治3年)に独立して、浅草馬道町に転じる。1876年(明治9年)に開催されたフィラデルフィア万博に出品し視察するために渡米した。帰国後は再度蒔絵を使用した漆器の制作にあたり、1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会には松民の作品が出品された。
8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろ… 8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろう、1847年6月6日(弘化4年4月23日) - 1917年(大正6年)2月26日)は、明治時代の地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。族籍は新潟県平民。幼名は千吉、のち宗輔と称した。第四国立銀行設立者。 越後国蒲原郡天王新田(新潟県北蒲原郡天王新田、天王村、中浦村、福島村、豊浦村、豊浦町を経て現新発田市)出身。1871年(明治4年)以降、新潟県第二十二大区小八区天王新田用掛、同県第二十二大区長、天王村長を歴任する。第四銀行の発起人に名を連ね、1874年(明治7年)初代頭取に就任した。 また、新潟県下第一の大地主であり、1890年(明治23年)には新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
辨開 凧次郎(べんかい たこじろう、1847年(弘化4年)6… 辨開 凧次郎(べんかい たこじろう、1847年(弘化4年)6月 - 1924年(大正13年)10月23日)は、アイヌの家畜商、のちに許可を受けて獣医を兼業した。アイヌ語によるアイヌ名は「エカシバ」。なお、「辨開」を「弁開」と表記することも多い。 のちに二海郡八雲町落部となる地域のコタンに生まれ、20歳で落部コタンのリーダーとなる。当時の獣医にあたる伯楽の活動で周囲から尊敬を受け、薬草の知識もあり、また造園家としても活躍した。 1900年(明治33年)5月、皇太子明宮嘉仁親王の結婚の儀に際し、ヒグマ2頭を献上した。この時のアイヌ正装姿の写真が小学校教科書にアイヌ風俗として掲載された。また、凧次郎は皇室より、紋章付の器具、菓子、巻煙草、酒、手箱、千本松の盆栽32本(「御所の松」)を拝領し、明治天皇・皇后引見の栄誉を受けた。
岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、18… 岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、1847年5月31日(弘化4年4月17日)- 1921年(大正10年)1月4日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡熊谷町長、同北埼玉郡下忍村長。 武蔵国埼玉郡樋上村(のちの埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上、現:行田市)で生まれる。忍藩士から漢学を学んだ。農業を営む。 明治3年(1870年)、樋上村名主役となる。副戸長、戸長、長野村連合戸長、下忍村会議員などを務め、1890年、初代熊谷町長に就任。その後、埼玉県会議員、北埼玉郡会議員、同議長を歴任。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。
杉浦 銀蔵(すぎうら ぎんぞう、弘化4年4月17日〈1847… 杉浦 銀蔵(すぎうら ぎんぞう、弘化4年4月17日〈1847年5月31日〉 - 1899年〈明治32年〉10月2日)は、明治時代における愛知県岡崎市の実業家。同地の電力会社岡崎電灯の創業者の1人であり、電源開発の功により岡崎市の名誉市民に選ばれている。「杉浦銀蔵」の名は養父の名を襲名したもの(2代目杉浦銀蔵)で、前名は仙吉。 本項では、2代目銀蔵の死後に岡崎電灯の経営を引き継いだ3代目杉浦銀蔵(文久2年3月18日〈1862年4月16日〉 - 1941年?)についても記述する。 2代目杉浦銀蔵、幼名仙吉は、弘化4年(1847年)に三河国幡豆郡西尾順海町(現・西尾市順海町)に生まれた。11歳のとき地元西尾の古着商「河内屋」で働き始める。
内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年… 内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年4月15日) - 1926年(大正15年)2月20日)は、幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人。幼名は助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号の「鳴雪」は、「何事も成行きに任す」の当て字という。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。 伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれた。嘉永2年(1849年)に実母が死去すると、曾祖母と祖母のもとで育てられた。安政元年(1854年)頃から父に漢籍を教わり、軍記物や草双紙、寄席や義太夫に親しんだ。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。
武市 安哉(たけち あんさい/やすや、弘化4年4月1日(18… 武市 安哉(たけち あんさい/やすや、弘化4年4月1日(1847年5月15日) - 明治27年(1894年)12月2日)は、土佐藩出身の明治時代の日本の政治家であり、北海道を開拓した人物の一人である。 土佐勤王党を結成した武市半平太や、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬の親戚である。 土佐国長岡郡大埇村住吉野(現・高知県南国市大埇)で、土佐藩郷士の武市家の分家に武市才次の長男として生まれた。1862年に15歳で本家の武市善之助より武市本家を相続する。1868年(慶応4年)には、土佐藩士として鳥羽・伏見の戦いに参加する。明治維新を迎え、1872年(明治5年)に小学校の教師となるが、1876年には小学校を辞して、立志学舎の学生とになる。
野坂 清一郎(のさか せいいちろう、旧字体: 野坂 淸一郞、… 野坂 清一郎(のさか せいいちろう、旧字体: 野坂 淸一郞、1847年5月4日〈弘化4年3月20日〉 - 1916年〈大正5年〉10月10日)は、日本の政治家、地主。鳥取県会議員。鳥取県西伯郡大幡村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡大幡村(のち岸本町、現・伯耆町)出身。弥十郎の長子。1872年に第九十六区副戸長に任ぜられる。1874年、岸本、吉長両村戸長。1875年、押口村戸長兼務。 吉定学校保護人、旧会見郡吉定村、上細見村、立岩村、岸本村、押口村、吉長村戸長、同郡上細見、立岩、吉定、岸本、吉長、押口の6村戸長再任、同郡第四番学区学務委員、同郡十七連合戸長、同郡第三四番学区学務委員。 1889年、町村制実施に付八幡村、古豊千村、王子村の主担命ぜられ、村政施設事務取扱、同年大幡村会議員、同年大幡村長。
清水 静十郎(しみず せいじゅうろう、1847年4月29日(… 清水 静十郎(しみず せいじゅうろう、1847年4月29日(弘化4年3月15日)‐ 1915年(大正4年)3月27日) は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国宇和郡日土村(愛媛県西宇和郡日土村を経て現八幡浜市日土町) で清水庄一の長男として生れ、同郡卯之町(東宇和郡宇和町を経て現西予市宇和町卯之町)の庄屋・清水谷男の養子となった。漢学を修めた。1913年(大正2年)2月に分家した。 戸長、副区長などを歴任。1877年(明治10年)6月の特設愛媛県会は、議員資格が戸主に限定されていたが、選挙人10分の8以上の推薦と区内戸長11名の連名申請によって特例で県会議員に選ばれた。以後、1886年(明治19年)3月から1889年(明治22年)1月までと1892年(明治25年)3月から1896年(明治29年)3月までの2期県会議員に在任し、この間、立憲改進党、進歩党に所属した。
松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Jo… 松野 礀(まつの はざま / かん、英: Hazama Johannes Matsuno、1847年4月21日〈弘化4年3月7日〉 - 1908年〈明治41年〉5月14日)は、日本の林学者、林学教育者。東京山林学校初代校長兼教授。旧長州藩臣。ドイツ留学を経て日本への山林科学・林学導入と人材養成の基礎作りに貢献した。配偶者はベルリン出身の松野クララ。 長門国美祢郡大田村(現・山口県美祢市美東町大田)にて,長州藩郷士大野徳右衞門の四男(第七子)として生まれる。幼名は常松。一時他家の養子となったが復籍、以後義兄の医師長松幹の家で育てられた。万延元年(1860年)まで、郷士羽仁藤左衛門より和漢学を習い、文久元年(1861年)より山口にて藩儒岡守節等に就いて漢学を修業する傍ら、義兄に倣って医業を志し、蘭方医坪井信友(二代信道)に就いて初めて蘭学を学んだ。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847… 初代 阿部 孫左衛門(孫左衞門、あべ まござえもん、1847年4月19日(弘化4年3月5日)- 1904年(明治37年)2月15日)は、日本の地主、政治家。衆議院議員、山形県東田川郡新堀村長。幼名・今吉。 出羽国田川郡新堀村(のち山形県東田川郡新堀村大字新堀、現酒田市)で、地主・阿部彦太郎の二男として生まれ、同村の本家・阿部孫右衛門の養子となる。 東田川郡新堀学校世話掛、飽海郡南山牛場看守人、余目勧業区連合村会議員、新堀学校通学村連合会議員、学務委員、山形県会議員、東田川郡勧業会員、新堀村長、東田川郡会議員、同郡参事会員などを務めた。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に山形県第三区から出馬して当選。
納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2… 納屋 才兵衛(なや さいべえ、1847年4月9日〈弘化4年2月24日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月10日)は、日本の写真家。正岡子規最後の肖像写真を撮影したことで知られる。本名は美算。 飯沼慾斎の義弟長矩の七男として、岐阜県大垣市に生まれる。6歳の時「納屋才」の屋号で魚市を営む中島家の養子となり、11歳で家業を継いだ。 三重県桑名市で最初の写真館「笛橋堂」を開業し、明治期東海写真界の発展に寄与した。上京した後は、根岸に名を「春光堂」と改めて写真館を開業した。
千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年… 千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年2月18日)- 1931年(昭和6年)4月21日)は、幕末・明治から昭和時代前期の大地主、政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(7期)。 上総国市原郡今富村(千葉県海上村、三和町を経て現市原市)出身。千葉氏の末裔。漢学を修める。1868年(明治元年)里正に就任。1875年(明治8年)千葉県代議人となり、村会議員、郡会議員、郵便局長、小学校長を歴任する。この間、戸長も務めた。1879年(明治12年)県制発布とともに千葉県会議員に当選し、市原倶楽部を設立した。ほか、大日本農会、大日本水産会連合品評会各評議員および協賛会長、千葉県教育会評議員、神国生命保険社長、興業貯蓄銀行、成田鉄道各監査役、千葉県農工銀行頭取、東京米穀取引所理事および監査役などを歴任した。
斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年… 斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年3月26日) - 1938年(昭和13年)2月17日)は、日本の外科医、政治家。衆議院議員(3期)、群馬県会議員(10期)、初代群馬県医師会長。 上野国北甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)の小幡藩藩医、斎藤寿幹(のち寿安)の子として生まれる。幼名・鋌策。はじめ藩の学問所で学び、文久元年(1861年)江戸の医師・福富玄同に弟子入りし、翌年群馬郡野田村(現・北群馬郡吉岡町)の外科医・原沢文仲の弟子となった。また高崎の五藤俊英に種痘術の教えを受けた。慶応3年(1867年)小幡藩奥詰医師となり寿幹の名を襲名。七日市藩医も兼務した。 明治2年(1869年)寿雄と改名し東京に遊学、明治4年(1871年)より大学南校に学び、翌年帰郷。
石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年… 石原 半右衛門(半右衞門、いしはら はんうえもん、1847年3月25日(弘化4年2月9日)- 1930年(昭和5年)2月20日)は、明治期の文部官僚・政治家。衆議院議員。 丹波国船井郡大戸村(京都府船井郡川辺村字大戸、園部町を経て現南丹市園部町大戸)で、江戸幕府旗本滝川氏家臣、地役人・石原三左衛門の二男として生まれた。 明治維新後、文部属、大阪専門学校雇、岩手県尋常師範学校長、京都師範学校幹事、京都府船井郡長などを歴任。 また、川辺村会議員、京都府会議員、同常置委員、平安遷都千百年記念祭協賛会評議員、第4回内国勧業博覧会評議員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙(京都府第5区、1890年7月、大成会)で初当選し、その後、第6回総選挙まで4回再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に通算5期在任した。
5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3… 5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3月17日(弘化4年2月1日)- 1908年(明治41年)8月11日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡雄島村長。幼名・長之助。 越前国坂井郡安島浦(福井県坂井郡安島浦、雄島村安島、三国町安島を経て現坂井市三国町安島)で、回漕業・4代大針徳兵衛の長男として生まれた。明治のはじめに5代徳兵衛を襲名した。回漕業を営む。 里正、組合総代、敦賀県第53大区小2区戸長、第14大区23小区戸長、浦役人、学務委員、所得税調査委員などを務めた。1889年(明治22年)5月、雄島村会議員となり、1890年(明治23年)2月、雄島村長に就任し、安島道の改修に尽力した。
三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化… 三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化4年1月22日〉 - 1908年〈明治41年〉8月15日)は、日本の酒造家。1887年(明治20年)創案した軟水による酒醸造法「三浦式醸造法」は、天下の名酒広島酒発展の基礎を築いた。「吟醸酒の父」ともいわれる。また酒造りの傍ら、村会議員、三津町長および町会議員としても活躍した。 1847年(弘化4年)雑貨問屋を営む清水屋忠兵衛の長男として広島県賀茂郡三津村(現東広島市安芸津町三津)に生まれる。雑貨問屋を営んでいたが家督を弟に譲り、1876年(明治9年)酒造場を譲り受け酒造業を始め、1878年(明治11年)創業した。1898年(明治31年)、軟水に適した改良醸造法を考案し、同年「改醸法実践録」を発刊してその普及をはかった。
西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年… 西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年2月24日(弘化4年1月10日)- 1926年(大正15年)10月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 下総国海上郡成田村(千葉県海上郡成田村、旭町を経て現旭市)で、呉服商、醤油醸造業「成田屋」当主・西村醇治の二男として生まれた。鹿島の儒学者・吉川松浦に師事し漢学を修め、塾頭を務めた。 1879年(明治12年)3月、第1回千葉県会議員選挙で当選し、当時の議員半数改選の制度により再選されたが、日本の府県会は有名無実で自らの意思を貫徹することはできないとして、再任を辞退し1880年(明治13年)8月に議員を退任した。 その後、1881年(明治14年)同志と東京醤油会社を設立し、醤油の共同販売と品質向上を図り、また、1883年(明治16年)アムステルダムで開催された植民地博覧会(en:International Colonial and Export Exhibition)に出品するなど、醤油の海外への販路を開拓した。
伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1… 伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、近江国出身の明治時代の実業家、第2代住友総理事である。 「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。 近江源氏佐々木氏支流伊庭氏の一族である。 1847年(弘化4年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に伯太藩代官伊庭正人の長男として、母、北脇田鶴子の実家で生まれ、7歳まで母方の実家で育つ。幼名は耕之助。 八幡町の児島一郎に剣道を、西川吉輔に国学を学んだ。
松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(184… 松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(1847年1月26日) - 昭和10年(1935年)1月4日)は、日本の国学者、牧師。文語訳聖書の翻訳に関わった。日本における賛美歌事業の草分けである。 1846年(弘化3年)に越後国糸魚川で生まれ、国学者平田鐵胤に学ぶ。京都の白川家学館で国史律令を、江戸の黒川真頼の下で国文学を修めた。1872年(明治5年)、キリスト教排斥を志し、その実態を探るために神戸のアメリカンボード宣教師D.C.グリーンの日本語教師となったが、回心して1874年(明治7年)に洗礼を受けた。このとき受洗した松山ら11名は摂津第一基督教会(のちの神戸教会)を設立した。 組合教会系の信徒としては最も早くから新島譲と親交があり、新島がアメリカから帰国した際に「譲」は「ゆずる」と誤読される恐れがあるとして「襄」と改めるように忠告したといわれている。
須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3… 須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3年12月10日) - 1927年(昭和2年)4月12日)は、日本の政治家。実業家。徳島県美馬市出身。 住友恵市の次男として美馬郡穴吹町舞中島(現在の美馬市穴吹町三島)で生まれる。後に麻植郡鴨島町敷地(現在の吉野川市鴨島町敷地)の素封家・須見徳平の養子となった。 その後、徳島県会議員を経て1902年(明治35年)に第7回衆議院議員総選挙に当選、1917年(大正6年)まで4回の当選を果たす。1926年(大正15年)、憲政会徳島県支部長に就任。他にも阿波紡績、徳島毎日新聞社監査役、第八十九銀行取締役会長を歴任。 1927年(昭和2年)4月12日、82歳で没する。
折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年… 折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日) - 1905年(明治38年)5月6日)は、明治時代の日本の政治家。薩摩藩士。開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。 薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月に開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化… 渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化3年12月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、幕末の武士(人吉藩士)、明治期の政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡一武村長。幼名・練助。 肥後国球磨郡人吉麓町(熊本県球磨郡人吉麓町、人吉町字麓を経て現人吉市麓)で、人吉藩家老・渋谷巴山の息子として生れた。藩校時習館で学び、田代自養に師事し朱子学を修めた。槍術も習った。1862年3月7日(文久2年2月7日)人吉で大火(寅助火事)が発生し、その後、犬童権左衛門とともに薩摩藩に復興資金5千両借財の依頼に赴き目的を果たした。また、薩摩藩士・中原尚介に西洋兵法、英国式砲術を学び、藩兵分隊長、小隊長を務めた。
小田切 謙明(おたぎり けんめい、弘化3年12月1日(184… 小田切 謙明(おたぎり けんめい、弘化3年12月1日(1847年1月17日) - 1893年(明治26年)4月9日)は、明治時代の自由民権運動家、山梨県の名望家。 甲斐国西山梨郡飯沼村(甲府市新青沼)に生まれる。生家は青沼村の村役人を務め、謙明も明治5年には戸長を務めている。1876年(明治9年)には若尾逸平らと金融会社の補融社を設立する。 山梨県では県令藤村紫朗への反発から自由民権運動が起こるが、謙明も藤村を批判し、観風新聞を創刊する。1884年(明治17年)6月には龍泉社を設立し、甲府市桜町(丸の内一丁目)に海洲温泉を開始する。その功績が生前から顕彰され「海洲大権現」としても祀られた。 1880年(明治13年)2月26日、峡中新報社社主の林誾とともに峡中同進会を設立し、依田孝、薬袋義一、加賀美平八郎、佐野広乃らとともに理事委員となる。
阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(… 阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(弘化3年11月24日) - 1922年(大正11年)3月1日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助(二川元助、二川元助重遠)。家紋は四つ星。 土佐国土佐郡(高知藩)高知城下の高知中島町において、土佐藩士(馬廻役、300石。)・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。生家の中島町は板垣退助、片岡健吉の出身地であり、家が近所であった。 戊辰戦争に従軍し、1870年、大坂兵営予備生徒となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月… 2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月8日(弘化3年11月22日) - 1916年(大正5年)5月20日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は吉次郎。 北前船主馬場九兵衛の二男として越中国新川郡東岩瀬村(富山県上新川郡東岩瀬村、東岩瀬町を経て現富山市)に生まれる。長男大次郎の病死により7代九兵衛(初代道久)の跡を継いだ。1881年(明治14年)北陸通船会社創設に資金援助し、北陸における小蒸気船、貨物蒸気船の導入を進めた。1885年(明治18年)上野から直江津間の鉄道が開通すると翌年、伏木の二上兵吉とともに直江津までの小蒸気船業の経営に当たる。
奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月… 奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月19日〉- 1930年〈昭和5年〉7月19日)は、日本の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった。 豊前(現在の福岡県)小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉(現在の北九州市)に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぐ。家系の詳細については奥家 (伯爵家)を参照。 馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務めた。 幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加。1869年(明治2年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。1871年(明治4年)5月、常備4番小隊長に就任。
田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月… 田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月2日〉 - 1909年〈明治42年〉7月6日)は、幕末の高田藩士、明治期の内務官僚。官選山梨県知事。名・利遂、通称・周太郎。 越後国頸城郡高田蓮池横町(現新潟県上越市)で、高田藩士・田沼善太夫(通称・恆)の長男として生まれる。藩儒・木村容斎に学んだ。明治2年9月(1869年)、高田藩史監となり、さらに同藩少属十四等出仕を務めた。 廃藩置県後、柏崎県に出仕。1873年8月、新潟県少属に就任し、楠本正隆県令に仕えた。楠本が東京府知事に転じると、1876年、同府少書記官に就任。1883年6月、神奈川県大書記官に転じた。 1893年(明治26年)3月21日、山梨県知事に就任。
原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年… 原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年〉 - 1901年〈明治34年〉)は、日本の政治家、銀行家、歌人。雅号は寬岡。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、原川 孫九郎(はらがわ まごくろう)と表記されることもある。 静岡県城東郡小貫村戸長、静岡県城東郡佐束村村長(初代)、株式会社佐束銀行専務取締役などを歴任した。 遠江国出身の政治家である。小貫村においては戸長を務め、佐束村においては村長に選任されていた。佐束山への植林に尽力し、豊かな美林を育てた。また、銀行家としての一面も持っており、佐束銀行で取締役を務め、地域経済の振興に努めた。
福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。