正木 安左衛門(安左衞門、まさき やすざえもん、1840年9… 正木 安左衛門(安左衞門、まさき やすざえもん、1840年9月27日(天保11年9月2日)- 1913年(大正2年)6月18日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・徳三郎、徳次郎。 山城国乙訓郡今里村(京都府乙訓郡乙訓村字今里、長岡町を経て現長岡京市)で、地主、農業・正木安兵衛(旧姓・山脇)、りう(祖父・安兵衛長女)の長男として生まれる。漢学、詩文、法学、政経学を修めた。 1876年(明治9年)5月、乙訓郡第三区長に就任。兼学区取締、同郡第四組戸長兼学区取締、乙訓郡書記を歴任。1882年(明治15年)7月、京都府会議員に選出され、通算3期在任して、1892年(明治25年)2月に辞任。
板倉 胤臣(いたくら たねおみ、1840年9月27日(天保1… 板倉 胤臣(いたくら たねおみ、1840年9月27日(天保11年9月2日)- 1895年(明治28年)8月21日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国長柄郡茂原村(千葉県長柄郡茂原村、茂原町茂原、長生郡茂原町を経て現茂原市)で、醤油醸造業・板倉任他郎の長男として生まれる。1865年(慶応元年)江戸に出て芳野金陵に師事し儒学を修め、勤皇の志士と交わった。 1868年(明治元年)夏、鎮撫総督柳原前光が勅使として上総、下総に派遣された際に、板倉は先導役を務めた。同年9月、鎮台府房総監察兼宮谷県知事・柴山典の属官となり訟事を担った。 1872年(明治5年)に帰郷し、千葉県第7大区(長柄・埴生郡)副区長に就任。
大貫 房吉(おおぬき ふさきち、1840年9月10日(天保1… 大貫 房吉(おおぬき ふさきち、1840年9月10日(天保11年8月15日) - 1912年(明治45年))は、明治時代の日本の実業家、政治家。 大貫与左衛門の男として、相模国高座郡大島村(神奈川県高座郡大沢村、相模原町を経て現相模原市緑区大島)に生まれる。1888年(明治21年)分家し戸主となる。1869年(明治2年)に横浜へ移り、1874年(明治7年)以降、大島屋を屋号に掲げ材木商を営む。 横浜商業会議所、同区会、市会議員を務めたほか、土木常設議員として市政に関与した。さらに横浜中央銀行、横浜貯蓄銀行取締役のほか、横浜衛生会社を立ち上げ社長を務めた。
阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(184… 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(1840年8月18日) - 明治37年(1904年)5月5日)は、明治維新期の近江商人・実業家。阿部市郎兵衛家の分家。 阿部彦太郎は、近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。本家筋にあたる5代阿部市郎兵衛の三男が分家した阿部市次郎の長男である。 彦太郎は『布彦』と呼ばれ、父と共に攘夷運動が激しかった文久年間(1861年-1863年)に、室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加えラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う『唐物店』を開いた。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年… 船越 衛(ふなこし まもる、天保11年6月15日(1840年7月13日) - 大正2年(1913年)12月23日)は、広島藩出身の明治期の官僚・貴族院議員。男爵。父は広島藩の財務官僚として名高かった船越昌隆(八百十郎)。幼名は洋之助。号は松窓(松操、しょうそう)。子に船越光之丞、弟に加藤隆義がいる。
岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11… 岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11年6月10日〉- 1915年〈大正4年〉2月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。貫堂と号し、素水を俳号とする。栄典は正二位勲一等男爵。 明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を務める。開拓官僚として赴任した北海道を調査し、北海道庁設置の必要性を政府に働き掛け、初代北海道庁長官となる。 土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現在の高知県)宿毛で生まれた通俊は、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。1869年(明治2年)には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
跡見 花蹊(あとみ かけい、天保11年4月9日〈1840年5… 跡見 花蹊(あとみ かけい、天保11年4月9日〈1840年5月10日〉 - 1926年〈大正15年〉1月10日)は、日本の教育者、日本画家、書家。学校法人跡見学園の創設者。甥は浦和画家の跡見泰。本名は跡見瀧野(たきの)。 摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。 17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。頼山陽門下の宮原節庵に漢籍、詩文、書を学ぶ。画は円山応立・中島来章から円山派(写生派)を、日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。
横山 意一郎(よこやま いいちろう、天保11年4月8日〈18… 横山 意一郎(よこやま いいちろう、天保11年4月8日〈1840年5月9日〉 - 1903年〈明治36年〉4月30日)は、日本の政治家、群馬県の大地主。群馬県会議員。族籍は群馬県平民。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)に、横山佐右衛門の長男として生まれる。嘉永3年(1850年)家督を相続する。大地主で、農業を経営する。素封家の主人で、宝生流謡曲を趣味とする。 明治初年太田町肝煎名主戸長、1884年(明治17年)4月から同年8月まで県会議員をつとめる。 1898年(明治31年)に隠居。菩提寺は太田市の受楽寺。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
松田 源五郎(まつだ げんごろう、1840年5月9日(天保1… 松田 源五郎(まつだ げんごろう、1840年5月9日(天保11年4月8日)- 1901年(明治34年)3月1日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、長崎市会議長。 肥前国彼杵郡、のちの長崎県長崎区(現長崎市)酒屋町の鶴野家で生まれ、貿易業の叔父・松田勝五郎の養子となる。私塾で学び、家業を継承した。 1872年(明治5年)永見伝三郎と共同で金融業・永見松田商会(立誠会社に改称)を設立し、のちに十八銀行に発展させ頭取に就任。その他、小野組長崎支店支配人、東京築地活版製造所取締役、長崎商法会議所会頭、九州鉄道取締役、長崎電灯(のち長崎電気瓦斯)取締役、長崎製氷取締役、九州倉庫取締役、香港ローラ麦粉取締役、長崎貯蓄銀行頭取、石川島造船所(現IHI)監査役、東洋浚渫社長などを務めた。
伊藤 雋吉(いとう しゅんきち、1840年4月30日〈天保1… 伊藤 雋吉(いとう しゅんきち、1840年4月30日〈天保11年3月28日〉- 1921年〈大正10年〉4月10日)は、日本の海軍軍人、茶人、政治家。海軍中将正二位勲一等功三級男爵。 丹後田辺藩の下士、伊藤勝介の長男。丹後国加佐郡田辺城下(現在の京都府舞鶴市)に生まれる。幼少より学問に優れ、藩命により江戸に遊学して大村益次郎に師事し、兵学や数学を学ぶ。 明治維新の後、兵部省出仕、海軍操練所出仕、海軍兵学寮中教授(以上は文官)を経て、1871年(明治4年)、海軍少佐(武官)に任官すると同時に「春日」艦長。 「日進」副長を経て、1872年(明治5年)に海軍中佐に進級すると同時に「筑波 」艦長。その後、海軍兵学校監学課長、海軍兵学校長代理、海軍兵学校次長、「金剛」艦長を歴任し、1878年(明治11年)に海軍大佐に進級。
籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保1… 籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保11年3月21日) - 1899年(明治32年)3月30日)は、平戸藩士、剣術家、政治家。旧名は桑田源之丞。 滋賀県知事、元老院議官、島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任した。心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた。 平戸藩家臣桑田安親の長男として肥前国松浦郡平戸村(現・長崎県平戸市)に生まれる。先祖に戦国武将の籠手田安昌、籠手田安経、籠手田安一がいる。 平戸藩(松浦静山)伝の心形刀流剣術を学び、免許皆伝を得る。幕末には藩探索方に任じられ京都で情報収集を行う。その傍ら直心影流戸田一心斎(栄之助)の道場に通い、師範代高山峰三郎と面識を持つ。
大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天… 大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天保11年2月19日〈1840年3月22日〉 - 1912年〈大正元年〉11月23日)は、幕末から明治初期の地方官僚。幕末の志士(彦根藩郷士)。姓は伊賀。字は厚龍、雅号に菱陀。幕臣・小栗忠順の処刑に関与したことで知られる。上野国岩鼻県知県事として強権を振るったことで「首切り龍太郎」の異名をとり恐れられたが、住民から罷免要求が出され半年で免職となった。 大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた。父の周倫は厚斎と号する医者で、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(184… 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
渡辺 信(わたなべ まこと、天保11年2月1日(1840年3… 渡辺 信(わたなべ まこと、天保11年2月1日(1840年3月4日) - 明治44年(1911年)12月13日)は、明治時代の素封家、政治家、実業家、蔵書家。号は青洲(せいしゅう)。市川大門村(現在の市川三郷町)の自宅内に青洲文庫という私立図書館を設立した。 甲斐国島上条村(現・甲斐市島上条)の小田切五郎右衛門の三男、小田切五三郎として生まれる。万延元年(1860年)、甲斐国西八代郡市川大門村の豪農・豪商渡辺寿の次女ふじのの婿養子となり、名を信(まこと)に改める。1871年(明治4年)家督を相続する。 1877年(明治10年)、甲州葡萄の主要生産地である八代郡祝村(甲州市勝沼町)で、雨宮広光を社長として大日本山梨葡萄酒会社が発足し、渡辺は藤村紫朗・栗原信近・若尾逸平・初鹿野市右衛門らとともに株主の一人となっている。
小野 太三郎(おの たさぶろう、1840年2月17日(天保1… 小野 太三郎(おの たさぶろう、1840年2月17日(天保11年1月15日) - 1912年(明治45年)4月5日)は、幕末から明治時代の日本の社会事業家・慈善家。名は他三郎とも表記される。 加賀の金沢に生まれる。実家は古本の商店だった。若くして眼の病気を患い、視覚障害者となりながらも盲人を中心に慈善活動に携わった。後に金沢藩に仕え、1864年(元治元年)に発生した加賀の大飢饉で農作物が不作となり貧困に陥った平民に慈善を行った。明治維新後は古着屋を経営し、後に廃藩置県により非藩の小屋が廃止となる。1873年(明治6年)には金沢市内に1棟につき約20人の盲人や窮民を集い、救済活動を始めた。 その後も施設を増築し、1890年(明治23年)までには20棟の慈善施設を建設し、約400人の窮民を集め慈善活動に貢献した事が記録されている。
池坊 専正 (いけのぼう せんしょう、1840年2月17日〈… 池坊 専正 (いけのぼう せんしょう、1840年2月17日〈天保11年1月15日〉 - 1908年〈明治41年〉4月23日)は、華道池坊第42世家元。六角堂頂法寺 住職。名は正麿、号は長春館柳外。京都生まれ。 明治維新と東京奠都は、京都に本拠を置き、朝廷や武家と深い関係を築いてきた池坊に大きな変革を迫ることになる。京都では、奠都による衰退を防ぐために1872年(明治5年)から京都博覧会が開催されるようになり、門弟を引き連れて出瓶した。1877年(明治10年)には、内国勧業博覧会に立花・生花を出品した。 明治政府の学校令により、1879年(明治12年)から京都府女学校の華道教授に就任、女性に対するいけばな教育に力を注いだ。
中丸 精十郎(なかまる せいじゅうろう、天保11年1月1日(… 中丸 精十郎(なかまる せいじゅうろう、天保11年1月1日(1840年2月3日)(異説1841年) - 明治28年(1895年)11月15日)(異説1896年)は、日本の画家。明治時代前期に活躍した洋画家・日本画家、版画家。雅号は金峯・金峰。 甲府城下(山梨県甲府市若松町)に生まれる。父は「精七」、母は「婦さ」で精十郎は長男。精十郎の妻(後妻)はか祢で、長男は蓮一(精十郎)。 甲府横近習町の文人画家である竹邨三陽(たけむらさんよう)の画塾に学び、南画家の日根対山に師事する。対山は1869年(明治2年)に死去するが、精十郎はこれ以前に対山門下を離れており、この頃には精十郎の父が死去し家督を相続したものと考えられている。
竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日… 竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、1840年1月30日〈天保10年12月26日〉 - 1922年〈大正11年〉1月9日)は、日本の実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は五男、麻生太郎と寬仁親王妃信子は外曾孫。 天保10年(1840年)、土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれる。 目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど、主家の財政再建に尽力した。 慶応2年7月(1866年8月)、宿毛から16kmほど離れた阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦が停泊したことがあった。対応に苦慮した宿毛領主・山内氏理は、竹内に小銃200丁を備えた歩兵2個小隊を付けて接触させた。
岡田 逸治郎(おかだ いつじろう、1840年1月24日(天保… 岡田 逸治郎(おかだ いつじろう、1840年1月24日(天保10年12月20日) - 1909年(明治42年)10月4日)は、明治時代の滋賀県の政治家、諱は久通(ひさみち)。 1840年1月24日(天保10年12月20日)、近江国野洲郡中山道守山宿の加宿吉身郷(現・滋賀県守山市吉身)に住む岡田弥兵衛(諱は久忠)の長男として誕生。岡田家は士格に列し、宮津藩領分庄屋総代を務め、別に種油製造「大黒屋」を営んでいた。 1845年(弘化2年)、森唯楽軒の私塾に入塾。 1852年(嘉永5年)、黒船の浦賀への来航を見るため家出同然に守山を出奔。浦賀より江戸に遊学していたが、翌々年父の遣いにより連れ戻される。 1857年(安政4年)11月、近江国栗太郡辻村の木村重左衛門の五女「たみ」と結婚し、4年後家督を継ぐ。
奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1… 奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1月8日 – 大正15年(1926年)10月13日)は、幕末から明治期にかけて活動した医師・海軍軍医。幕府の歩兵屯所附医師を経て、維新後に海軍医官として要職を歴任し、のち開業医として活動した。幼名は瓊太郎、のち省吾。幕末期には玄省(げんせい)を名乗り、明治初年に虎炳と改めた。 天保11年(1840年)1月8日、出羽国上山藩医・奥山玄仲(1809-1905)の長男として長崎に生まれる。父玄仲に従って江戸に出て、林復斎・安積艮斎・安井息軒らについて儒学を学び、語学面では当初父から、のち堀達之助から蘭語を学んだ。文久3年(1863年)9月、歩兵屯所附医師となり西丸下屯所に詰め、慶応元年(1865年)5月には歩兵屯所附御抱医師・富士見御宝蔵番格、慶応3年(1867年)5月には歩兵屯所附医師取締介に進んだ。
内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保… 内田 雄蔵(雄藏、うちだ ゆうぞう、1840年1月6日(天保10年12月2日) - 1909年(明治42年)1月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥後国下益城郡河江村(のち益南村、小川町を経て現宇城市)生まれ。戸長、下益城郡会議員、学務委員、熊本県会議員、同常置委員、郡所得税調査委員、地方衛生委員、郡参事会員、地方委員となる。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙において熊本4区から国民協会所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
永岡 久茂(ながおか ひさしげ、天保10年(1840年) -… 永岡 久茂(ながおか ひさしげ、天保10年(1840年) - 明治10年(1877年)1月12日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の会津藩士、志士。通称敬次郎。当肉楼主人とも号した。 天保10年(1840年)、永岡冶左衛門の子として若松城下に生まれる。藩校日新館や江戸の昌平黌で学び詩作に優れた。江戸留学中に起きた戊辰戦争では初め江戸大砲隊の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦。これに敗れてからも北越戦争に赴き、奥羽列藩同盟時には同盟締結のため梶原平馬の片腕として奔走した。また、会津戦争で若松城が包囲された際には榎本武揚より兵100名を借り受けるが救援に失敗。会津三絶と言われる「独木誰支大力傾」という詩を詠み、これを嘆いた。
中田 正朔(なかた まさもと、1840年 - 1913年)は… 中田 正朔(なかた まさもと、1840年 - 1913年)は、日本の神職。 伊勢国宇治(現在の三重県伊勢市)に生れる。漢学を鷹羽竜年に、書を養徳寺雪鷗に、国学を八羽光穂にそれぞれ学ぶ。和歌、書道に長じた。 1872年(明治5年)、宇治山田神社祠掌となり、宮崎郷学校幹事、度会県権少属、1876年、神宮主典を経て禰宜に進み、ついで造神宮頭となり、1887年(明治20年)4月より神宮皇學館(現在の皇學館大学の前身)館長を兼務(1890年8月まで)、1893年(明治26年)、兵庫の廣田神社宮司となり、ついで大阪・堺の大鳥神社宮司に転任、1903年(明治36年)に退職した。 神宮奉職中、神宮司庁と神宮教院分離問題に尽力、功があった。
新垣 世璋(あらかき せいしょう、1840年 - 1920年… 新垣 世璋(あらかき せいしょう、1840年 - 1920年)は、琉球王国末期から明治期にかけて活躍した唐手(現・空手)家であり、那覇手の大家である。 新垣世璋は、1840年(天保11年)那覇市東若狭町に生まれた。あだ名は「猫(マヤー)・新垣」もしくは「新垣小(グヮー)」と言い、位階は親雲上であった。従って、新垣の正式な呼び名は、新垣親雲上世璋である。新垣家は久米村出身ではないが、子供の頃より久米村に通って勉強していたため、久米村に友人が多かった。唐手(とうで)は鄭氏屋部親雲上(元の外間)に師事した。 新垣は、1867年(慶応3年)、首里崎山にあった王家別邸・御茶屋御殿で開催された冊封終了の祝賀会で、十三歩、ちしやうきん、交手(組手)などを演武しており(ウンスーを演武したとの記録もある)当時すでに名の知れた唐手家であった事が覗える。
白鳥 慶一(しらとり けいいち、1840年(天保11年8月)… 白鳥 慶一(しらとり けいいち、1840年(天保11年8月) - 1913年(大正2年)5月5日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 のちの青森県東津軽郡荒川村(現青森市)の地主の家に生まれる。16歳にして戸長となり、浦町組の組長を兼ねた。のち青森県会議員を4期務めた。ほか、同常置委員を務めた。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では青森県第1区から無所属で出馬し当選。自由党革新派に所属し、青森の中心街にあった監獄を荒川村に誘致するとともに柳町と同村間に道路を敷設するなど功績を残した。
岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) -… 岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) - 1905年(明治38年)5月20日)は、日本の武士(岡山藩士)、実業家(三菱商会本社副支配人、日本郵船長崎支店長、日本逓業取締役、東京株式取引所理事)、茶人(織部流)。幼名は滝吉、のち滝之助。号は淵冲、谷神。 1840年(天保11年) 、備前国御野郡内田村(現・岡山市)生まれ。1870年(明治3年)、30歳の時は、岡山藩家老で金川領主の日置健太郎支配の下級藩士(陪臣)であった。廃藩置県後は東京に出て、官吏となるも、1877年(明治10年)36歳の時に岩崎弥太郎が創設した三菱商会に書記係として入社。のちに本社副支配人となる。1887年(明治20年)、三菱の荘田平五郎・内田耕作・浅田正文・岡本健三郎らと共に日本郵船(共同運輸と三菱汽船との合併会社)を創立した。
小笠原 定一(おがさわら ていいち、1840年(天保11年9… 小笠原 定一(おがさわら ていいち、1840年(天保11年9月) - 1905年(明治38年)10月31日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 陸奥国九戸郡(のち岩手県南九戸郡久慈町、九戸郡久慈町を経て現久慈市)生まれ。岩手県属、九戸、二戸両郡長を務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙において岩手2区から国民協会所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙では立憲改進党から立候補して落選した。1905年に死去した。
大庭 長九郎(おおば ちょうくろう、1840年(天保11年6… 大庭 長九郎(おおば ちょうくろう、1840年(天保11年6月)- 1909年(明治42年)11月15日)は、明治期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。諱・実次。 陸奥国栗原郡堀口村(宮城県栗原郡姫郷村、志波姫村字藤木、志波姫町を経て現栗原市)の農家に生まれる。金融業により一代で富を築いた。養蚕、製糸を奨励し地域の振興に尽力した。宮城商業銀行監査役、築館税務署営業税調査係顧問、日本赤十字社特別社員なども務めた。 1889年(明治22年)志波姫村長に就任。栗原郡会議員にも選出され、1890年(明治23年)宮城県会議員に就任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙に宮城県第四区から出馬して当選し、その後、第5回総選挙でも再選され衆議院議員を通算2期務めた。
中村 彦次(なかむら ひこじ、1840年(天保11年1月)-… 中村 彦次(なかむら ひこじ、1840年(天保11年1月)- 1911年(明治44年)11月18日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員、官選島根県知事。名・庸、字・和叔、号・桐蔭、旧姓・鶴田。 筑後国上妻郡前津村(現筑後市前津)で、庄屋・鶴田良右衛門の二男として生まれ、後に中村氏を称した。地元の私塾・継志堂で学ぶ。安政4年(1857年)に師・牛島栗斎に随行し8カ月間にわたり山陽から奥羽まで遊歴し見聞を広めた。その後、咸宜園で学んだ。 王政復古後、国事に奔走するなかで、久留米藩に逃れてきた大楽源太郎に同調したため、久留米藩難事件に連座し明治4年(1871年)に禁獄一年の刑を受け名古屋の監獄に収監された。
朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838… 朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838年説も) - 1882年4月4日)は、山形県鶴岡市出身(生地は現在の新潟県村上市)の大相撲力士。本名は本間→佐藤 庄蔵、本間姓の前の苗字は不明。最高位は大関。現役時代の体格は180cm、113kgと伝わる。 越後国の農家に生まれ、漁師に奉公に出された。庄内藩出入りの船人足として働いていたところが藩主の目に止まり、藩主の勧めで同郷の立田川(7代、元関脇常山五良治)に入門した。初土俵は万延元年(1860年)10月場所、幕下二段目に付け出された。最初の四股名は「由良ノ海庄蔵」だが、文久2年(1862年)2月に朝日嶽と改名した。朝日嶽の名は地元の名山大朝日岳に因んだ。
高井 幸雄(たかい ゆきお、1840年(天保11年10月) … 高井 幸雄(たかい ゆきお、1840年(天保11年10月) - 1909年(明治42年)11月26日)は、日本の政治家。徳島市長。現徳島県徳島市出身。 嫡男は広島県立職工学校や台北州立台北工業学校で校長を務めた高井利五郎。 徳島城下の富田浦町車富田(現在の徳島市東富田地区)の徳島藩士の家に生まれた。 井上高格や一坂俊太郎等がつくった自助社の運動に加わり、自助社が出版した過激な言葉で日本政府を批判した「通諭書」の事件後は、1882年(明治15年)に那賀部長を勤めた。 徳島県会議員となった後の1898年(明治31年)から1902年(明治35年)は徳島市長を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
木下 荘平(莊平、きのした しょうへい、1840年(天保11… 木下 荘平(莊平、きのした しょうへい、1840年(天保11年8月)- 1906年(明治39年)5月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、鳥取県会議長。 因幡国八上郡布袋村(鳥取県八上郡三保村、河原村、八頭郡河原村、河原町を経て現鳥取市河原町)で、代々大庄屋を務めた家に生まれた。鳥取の藩儒・正墻適処(薫)に師事し和漢学を修めた。 八上郡農兵組頭、智頭郡農兵組頭、戸長、大区長、学区取締、准十二等出仕、八束郡長などを歴任。1881年(明治14年)鳥取県が再置され、同年11月、鳥取県会議員に当選し、同常置委員、同議長(第3、4、7代)を務めた。 岡崎平内の辞職に伴い1891年(明治24年)9月に実施された第1回衆議院議員総選挙鳥取県第1区補欠選挙で当選し、以後、第2回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
中沢 琴(なかざわ こと、天保10年〈1839年〉頃 - 1… 中沢 琴(なかざわ こと、天保10年〈1839年〉頃 - 1927年〈昭和2年〉10月12日)は、現在の群馬県出身で新徴組に参加した法神流の女剣士。兄は新徴組隊士の中沢貞祇。 上野国利根郡利根村穴原(現在の群馬県沼田市利根町穴原)生まれ。幼少から剣術、とくに長刀に優れ、文久3年(1863年)、浪士組に参加する兄に従い男装して京へ上り、のち新徴組に参加、各地を転戦した。当時の女性としては高身長の170 cmで、男装していれば娘たちに惚れられて困ったと伝えられる。 自分より強い者と結婚すると決め、結局現れなかったため生涯独身で過ごした。 1927年(昭和2年)10月12日死去。琴の墓は生まれ故郷の利根町穴原にあり、多くの歴史ファンが訪問している。
香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保1… 香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保10年11月15日〉- 1915年〈大正4年〉3月18日)は、江戸末期の水戸藩出身の勤皇志士で、明治から大正期の日本の宮内官僚。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官などを歴任し、美子皇后(昭憲皇太后)に長きに渡って仕えた。 諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、後に華族の子爵、ついで伯爵に列する。生年は1841年(天保12年)という説もある。 下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。
関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年… 関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年11月10日) - 1918年(大正7年)3月30日)は、日本の武士・越前福井藩士、政治家。別名を山本龍二郎、関龍二。号は湘雲。正三位勲二等男爵。 1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。 藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。
守道 半四郎(もりみち はんしろう、1839年12月14日〈… 守道 半四郎(もりみち はんしろう、1839年12月14日〈天保10年12月3日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革商)、資産家、名望家、政治家、奈良県多額納税者。守道皮革製造所主。族籍は奈良県平民。 奈良県北葛城郡陵西村市場(現・大和高田市市場)出身。守道半兵衛の二男。1876年に家督を相続する。農業、皮革製造業を営む。守道皮革製造所を経営し専ら靴、鞄、帯皮、バツキングの類を製造販売する。 内外の事務に鞅掌し、みずから大阪市南区西浜に出て、店員を督励して原料皮の買入れに従事し、あるいは直接ロシア人や各方面の得意客と応接する。 1889年5月、1892年5月に陵西村会議員に当選する。 住所は奈良県北葛城郡陵西村(現・大和高田市)、大阪市南区西浜中通3丁目(現・浪速西)。
小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1… 小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1日- 1913年(大正2年)12月24日)は、明治期の殖産家、染織家。久留米縞織の創始者。 1839年(天保10年)12月1日に武蔵国足立郡宮ヶ谷塔村(現在の埼玉県大宮市宮ヶ谷塔)で生まれた。父の名は善五郎、母の名はチエ。父母共にトクが三、四歳のころに死亡し、祖父母の手により育てられた。結婚後、1860年(万延元年)に一人息子栄三郎が生まれた。のち江戸に定住していた久留米藩の乳母となり、江戸を出発し久留米に滞在。その後久留米において木綿織りをはじめ、久留米縞織の創業者となった。 トクは久留米で、特産品の久留米絣の生産様式が遅れていること、絣の他に織物生産が無いことに気づいた。
須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (18… 須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (1839年11月30日)- 大正6年(1917年)11月13日)は、江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)、『明治天皇御集』の編纂委員を務めた。 須川信行は、天保10年10月25日(1839年11月30日)に近江高島郡西万木村(現滋賀県高島市)の医師清水玄孝の次男として生まれ、19歳の時に御所出入り医師須川覚性(須川検校)の養子となった。医業を修める傍らで早くから和歌に興味を覚え、香川景樹の高弟で故郷高島出身の歌人渡忠秋に入門し、同人死去後小出粲に師事した。養嗣子鶴吉に医業を譲り自身は歌道に専念し、明治23年(1890年)宮中御歌会始の勅題詠進歌『いにしへに 照して今を仰ぐにも 余るは国の光なりけり』が入選した。
岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10… 岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10月21日(1839年11月26日) - 大正4年(1915年)1月1日)は、日本の農政家、報徳運動家、実業家、政治家、衆議院議員。遠江国報徳社社長、掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)創業者。 二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。 遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天… 15代 木村 庄之助(じゅうごだい きむら しょうのすけ、天保10年10月20日(1839年11月25日) - 明治30年(1897年)9月22日)は、大相撲の立行司。本名は深山八三郎。出身地は東京都江東区富岡。 11代木村庄之助に入門、1850年11月木村八三郎の名で番付に載る。のち木村瀬平(3代目、正三郎改め)の所属となる。木村角次郎(角治郎)から1864年10月に木村庄三郎(4代目)を襲名。1885年5月に先代の庄之助の死去に伴い、15代目木村庄之助を襲名した。人物、見識に優れ、故事に精通していた。横綱初代梅ヶ谷の信頼厚く、横綱土俵入りを許されると土俵入りに従った。年寄木村松翁を兼務。1897年9月22日現役没。
田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日(183… 田口 和美(たぐち かずよし、天保10年10月15日(1839年11月20日) - 1904年(明治37年)2月3日)は、日本の医学者。字は士行、号は節堂。 武蔵国埼玉郡小野袋村(現在の埼玉県加須市)出身。医師の家に生まれ、江戸に出て佐藤一斎や塩谷宕陰のもとで漢学を学んだ。その後、林洞海のもとで蘭学を学んだ。1862年(文久2年)より下野国佐野で開業。1869年(明治2年)、大学東校に入り、ウィリアム・ウィリスらについて化学・解剖学・生理学を学んだ。東京医学校教授、東京大学医学部教授、東京帝国大学医科大学教授を歴任。1887年(明治20年)、ドイツに留学し、翌年に日本初の医学博士の学位を得た。墓所は染井霊園(1イ-1-12)。
赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保1… 赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保10年10月6日) - 1896年(明治29年)2月1日)は戊辰戦争の時の会津藩の医師、後に北海道開拓使に出仕した人物である。 1839年(天保10年)会津藩の医者阿部昌信の第3子として会津に生まれる。その後、叔父の赤城家の家督を継ぐ。1868年(慶応4年)藩令により長崎遊学をしている時に鳥羽・伏見の戦いに巻き込まれ、敗走する会津歩兵隊付軍医になり会津に帰還した。 会津戦争にも軍医として参加するが、鶴ヶ城が降伏すると、負傷兵を伴って仙台藩に落ち延びる。その後、榎本武揚らの旧幕府軍に参加した。医官高松凌雲の元で、佐々城本支(伊東友賢)らと函館病院でも軍医として働く。
小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年… 小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年11月4日) - 明治34年(1901年)4月5日)は、岩手県九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。通称は仙弥。 昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 明治10年(1877年)の西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵の計画に参画するが未然に検挙され(首謀者の神職の名から「真田太古事件」と呼ばれる)、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。明治31年(1898年)には第5回衆議院議員総選挙に岩手県第2区から出馬し衆議院議員に当選。
芳村 正秉(よしむら まさもち、天保10年9月19日(183… 芳村 正秉(よしむら まさもち、天保10年9月19日(1839年10月25日) - 大正4年(1915年)1月21日)は、美作国上福田(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身の勤王の志士で神道家。号は「陽洲」(ようしゅう)。字は「均卿」(きんけい)。神習教初代管長。 医師芳村泰治の二男として美作国上福田に生まれる。母は新見藩士木山閑静の三女留乃。幼名は「謙輔(けんすけ)」。 弘化2年9月19日(1845年10月19日)、6歳の誕生日に祖母和記子に連れられて鎮守の御霊神社に参拝すると「芳村氏は大中臣の後裔にして、神道の家系に属し、異日千載不伝の神道を継ぎ、これを天下に明らかにすべし」との神託を祖母が受ける。
松山 棟庵(まつやま とうあん、1839年10月23日(天保… 松山 棟庵(まつやま とうあん、1839年10月23日(天保10年9月17日) - 1919年(大正8年)12月12日)は、幕末・明治の日本の医師。大学東校(現東京大学医学部)大教授。慶應義塾医学所校長。東京慈恵会医科大学創立者。初名は勤。棟庵は名、字は功、号は棲菝で尊生舎と称した。紀州藩出身。 紀伊国那賀郡神田村(現・和歌山県紀の川市)で。医師松山庄太郎の四男として生まれた。兄は蘭方医新宮凉庭の養子の凉介。帯刀を許されていた藩士で、浜口梧陵と共に、福沢諭吉を6000石で紀州藩に招聘しようと企てたが拒否されたため、紀州和歌山藩の選抜留学生として江戸の慶應義塾に派遣される。紀州藩士の慶應義塾留学に重要な役割を果たしたといわれる山口良蔵が同門に居る。
室 孝次郎(むろ こうじろう、天保10年9月14日(1839… 室 孝次郎(むろ こうじろう、天保10年9月14日(1839年10月20日) - 明治36年(1903年)6月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)、愛媛県知事。名は方義、字は子成、号は桜蔭。 越後国高田本誓寺町(現在の新潟県上越市)の商人市郎右衛門の長男として生まれる。倉石侗窩の私塾・文武済美堂に学ぶ。塾生には前島密がいた。慶応2年(1866年)、京都に上って勤王の志士たちと交わった。戊辰戦争中の明治元年(1868年)7月、新政府軍が高田城下に入ると、新政府軍に入り北陸道官軍御用掛を務め、さらに親兵隊の方義隊(後に居之隊)を組織し戦闘に参加した。 明治3年(1870年)には高田藩の民政属吏聴訟断獄掛、ついで藩校修道館助教授を務めた。
中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保1… 中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保10年9月9日) - 1903年(明治36年)1月24日)は、日本の政治家、大蔵・内務官僚。群馬県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名は豊作、別名は平太夫、少介。 豊後国日田出身。町年寄・中村善右衛門の子。咸宜園に入り広瀬淡窓に学んだ。明治元年(1868年)、日田県諸取調掛となり、同県大属、大分県権典事を歴任。1874年頃に大蔵省租税大属に転じ、租税寮七等出仕、大蔵省権少書記官、同権大書記官などを務めた。1886年、大蔵省主税局長に就任。 1891年4月、群馬県知事に就任。廃娼の方針を維持し、水利組合の設置や、養蚕糸業の振興に尽力した。1896年1月に知事を退任し、同年1月31日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。
浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839… 浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839年9月23日〉 - 明治33年〈1900年〉4月21日)は、滋賀県の実業家。太湖汽船会社社長、第21国立銀行頭取・第64国立銀行頭取等を歴任、篤志家として様々な支援活動を行い、晩年は日本赤十字社の活動に対しても積極的に関わった。 天保10年8月16日(1839年9月23日)、近江坂田郡長浜宮町(現滋賀県長浜市神戸町)の薬種問屋商若森彦右衛門と母田中氏との3男として生まれ、幼名得御寅吉と言う。数え12歳の時に親戚で京で呉服商を営む土田家に奉公に出、帰郷後播州明石に伊藤家に養子として入るが半年で破断となり、万延元年(1860年)12月長浜で縮緬製造を生業とする浅見又之助の養子となった。