植田 三男(うえだ みつお、1913年3月11日 - 199… 植田 三男(うえだ みつお、1913年3月11日 - 1997年8月30日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1937年に神戸商業大学(現神戸大学)を卒業し、同年に日商に入社した。 1992年11月に取締役に就任し、1970年5月には日商岩井専務に就任し、1974年11月に副社長に就任し、1977年6月には社長に昇格した。1984年6月に会長に就任し、1986年6月から相談役を務めた。 1990年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 1997年8月30日慢性心不全のために死去。84歳没。
小枩山 貞造(こまつやま ていぞう、1913年3月11日 -… 小枩山 貞造(こまつやま ていぞう、1913年3月11日 - 1972年4月27日)は、石川県能美郡寺井野村小杉(現在の能美市小杉町)出身で井筒部屋に所属した大相撲力士。ただし、1944年に井筒親方が亡くなった後、双葉山相撲道場預かりになっていた。本名は竹田 貞造(たけだ ていぞう)。最高位は西前頭3枚目(1941年5月場所)。現役時代の体格は170cm、101kg。 得意手は右四つ、出し投げ、小股掬い、内掛け、肩透かし、櫓投げ。変わり身が速く、多彩な技を繰り出す取り口で人気が有った。 1941年1月場所4日目、西前頭14枚目の地位で東横綱男女ノ川を破っているが、これは大正時代に「金星」という相撲用語が見られるようになってからでは、長らく最も番付下位の力士による金星獲得の記録であった。
野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1… 野々村 一雄(ののむら かずお、1913年3月10日 - 1998年1月12日)は、日本の経済学者。専門はソヴィエト経済。一橋大学名誉教授。元経済理論学会代表幹事。 1i913年、愛知県で生まれた。大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業後、満鉄調査部に入社。 満鉄調査部では石堂清倫とともに資料課に属し、基礎理論が中途半端なまま、関東軍の要望にこたえて総合調査をおこなう経調派・綜合課グループに批判的な立場をとった。そしてそこでの研究、調査内容が軍部に批判的なものであったため、満鉄調査部事件で逮捕され、1945年に懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。 敗戦後は満鉄の後身である中長鉄路調査局に上級調査員として勤務。
山本 二三丸(やまもと ふみまる、1913年3月10日 - … 山本 二三丸(やまもと ふみまる、1913年3月10日 - 2011年12月3日)は、日本のマルクス経済学者、立教大学名誉教授。 愛知県豊橋市出身。第一高等学校卒、1936年東京帝国大学経済学部卒。1954年「再生産論」で立教大学経済学博士。1936年東京貯蓄銀行書記、1938年東亜研究所所員、1940年日本鉄鋼連合会書記、1941年鉄鋼統制会書記、日本鋼管書記、1946年立教大学経済学部助教授、1948年教授となり、1978年定年退任、名誉教授。愛知大学教授を務めた。マルクス経済学の厳密な検証において功績があったが、現実の世界経済、世界の社会主義国の崩壊など、理論と現実の乖離は大きく、大きな課題を残して2011年12月3日、98歳で逝去。
相馬恵胤(そうま やすたね、大正2年(1913年)3月9日 … 相馬恵胤(そうま やすたね、大正2年(1913年)3月9日 - 平成6年(1994年)1月4日)は、旧陸奥相馬中村藩主の相馬子爵家32代当主。相馬孟胤の子。妻は尾崎行雄の三女雪香。子に相馬和胤。 学習院高等科を経て、1941年東京帝国大学文学部倫理学科卒業後、宮内庁事務官になった。昭和11年(1936年)2月に父孟胤が死亡したのちに相続。競走馬の馬主となり、日本馬主協会連合会第8代会長となる。相馬市に二の丸球場や長友グラウンドなどを寄贈した。また、相馬野馬追の振興に大きく貢献し、相馬市名誉市民になった。 相馬市公式HP(名誉市民)
岡田 誠三(おかだ せいぞう、1913年3月8日 - 199… 岡田 誠三(おかだ せいぞう、1913年3月8日 - 1994年6月21日) は、日本の小説家である。 大阪府大阪市出身。大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)を経て、朝日新聞社に入社。記者として南方戦線に従軍した経験を基に、短編小説『ニューギニア山岳戦』を著し、1944年上半期の第19回直木賞を受賞した。その後も朝日新聞学芸部記者として映画評などの記事を書き続け、定年退職後に創作活動を本格的に開始。サラリーマンの老後を描いた『定年後』はベストセラーになり、テレビドラマ化された。ほかに『定年後以後』、大塩平八郎の乱をモチーフにした『雪華の乱』などの作品がある。
加藤 春彦(かとう はるひこ、1913年3月8日 - 199… 加藤 春彦(かとう はるひこ、1913年3月8日 - 1993年6月12日)は、愛知県愛知郡豊明村出身の俳人。『帯』主宰。『馬酔木』同人。 当時としては珍しいサラリーマンの一人息子として、1913年(大正2年)3月8日に愛知県愛知郡豊明村に生まれた。1930年(昭和5年)に旧制中学を卒業し、すぐに名古屋市役所に就職した。1957年(昭和32年)から5年間は名古屋市老人福祉施設「寿寮」(現在は民間に移管されて養護老人ホーム 名古屋市寿荘)の寮長を務め、その後は名古屋市高齢者職業紹介所所長を務めた。1968年(昭和43年)には定年を前に名古屋市役所を退職した。 水原秋桜子の句集『新樹』を読んだのがきっかけで俳句の世界に足を踏み入れ、1941年(昭和16年)には月刊俳句誌『馬酔木』に投句した。
原田 恒雄(はらだ つねお、1913年3月7日 - 2004… 原田 恒雄(はらだ つねお、1913年3月7日 - 2004年1月30日)は、日本の農学博士、経営者。和歌山県出身。 1938年に京都帝国大学農学部農芸化学科を卒業し、同年に大日本麦酒に入社し、1949年にアサヒビールに移る。1956年にはビール醸造研究のためにドイツに留学。1960年に西宮工場長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1974年に副社長に就任し、1976年に相談役を経て、1980年から顧問を務めた。 1987年から1992年までに全国清涼飲料工業会会長を務めた。 1968年に農芸化学技術賞を受賞し、1977年に紫綬褒章を受章した。 2004年1月30日肺炎のために死去。90歳没。
宮崎 英修(みやざき えいしゅう、1913年3月7日 - 1… 宮崎 英修(みやざき えいしゅう、1913年3月7日 - 1997年8月9日)は、日本の仏教学者・僧侶。立正大学名誉教授。 兵庫県出身。1937年立正大学文学部宗教学科卒。1943年立正大学生主事補。44年予科講師、48年仏教学部助教授。59年教授。68年「不受不施派の源流と展開」で立正大学より文学博士の学位を取得。現代宗教研究所長、83年定年退任、名誉教授、身延山短期大学学頭。
中井 正文(なかい まさふみ、1913年3月6日 - 201… 中井 正文(なかい まさふみ、1913年3月6日 - 2016年10月27日)は、日本の翻訳家、作家、独文学者。 東京帝国大学ドイツ文学科在籍中に、フランツ・カフカのドイツ語全集を手に入れ、戦後「変身」「アメリカ」などの翻訳を行う。 作家として「神話」で『中央公論』懸賞入選。「寒菊抄」で第20回直木賞候補。生まれ育った広島県を舞台とした戦争文学を残している。 早くから作家を志し、東大在学中は石川達三を敬愛、同氏とともに同人誌『星座』に参加する。本郷界隈で、高校、大学の後輩梅崎春生、学友の檀一雄、太宰治、織田作之助らと親交を持ち、ともに作家を目指した。 広島大学教授。のち同大学名誉教授。 1986年に勲三等旭日中綬章。
鷲見 四郎(すみ しろう、1913年3月6日 - 2003年… 鷲見 四郎(すみ しろう、1913年3月6日 - 2003年9月22日)は、日本のヴァイオリニストである。鷲見三郎の弟、鷲見加寿子の父、鷲見由希子と鷲見精一の祖父。 鳥取県米子市尾高町出身。1928年、レオポルト・アウアー門下のニコライ・シフェルブラットに師事する。1929年、新交響楽団(現在のNHK交響楽団)に入団する。 1932年、第1回音楽コンクール(現在の日本音楽コンクール)のヴァイオリン部門で最優秀者に贈られる「賞」(現在の第1位)を受賞し、翌1933年の第2回でも続けて「賞」を受賞した。戦後、NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた。1961年から1981年まで国立音楽大学教授を務めた。
榊 米一郎(さかき よねいちろう、1913年(大正2年)3月… 榊 米一郎(さかき よねいちろう、1913年(大正2年)3月5日 - 2014年(平成26年)2月20日)は、日本の電子工学者。名古屋大学名誉教授、豊橋技術科学大学名誉教授。位階は従三位。 京都府京都市出身。父はサンスクリット学者で京都帝国大学名誉教授の榊亮三郎。1932年旧制第一高等学校理科甲類卒業、1935年東京帝国大学工学部電気科卒業、沖電気勤務、1939年名古屋帝国大学嘱託となり、助教授、1951年「磁気測定法に関する研究」で名古屋大学工学博士。1952年名古屋大学工学部教授。1967年 - 1969年工学部長。1974年定年退官、名誉教授、豊田工業高等専門学校校長、1976年退官、名誉教授、豊橋技術科学大学初代学長となる。
渋谷 昇次(澁谷、しぶや しょうじ、1913年(大正2年)3… 渋谷 昇次(澁谷、しぶや しょうじ、1913年(大正2年)3月5日 - 2001年(平成13年)9月17日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、静岡県志太郡大井川町長。 静岡県出身。1938年(昭和13年)早稲田大学大学専門部商科を卒業した。 桜組商事、南興水産(パラオ本社)、焼津水産などで勤務。大東亜省の委嘱によりマニラ日本人会書記に就任した。 帰国後、網代冷凍代表取締役、日本漁民組合副組合長、日本社会党静岡県支部連合会青年部長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で静岡県全県区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、社会党漁民部長、全国漁民協議会事務局長などを務めた。
谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日… 谷口 睦生(たにぐち むつお、1913年(大正2年)3月5日 - 1943年(昭和18年)10月2日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。昭和初期の日本陸上短距離界においては、吉岡隆徳とともに「双璧」と見なされた選手で、200m直走路で日本記録を更新、100mで日本学生記録タイをマークした。第二次世界大戦で戦死。 熊本県八代郡鏡町(現在の八代市)生まれ。宇土中学校(現在の熊本県立宇土中学校・高等学校)在学中より競技で頭角を現し、九州選手権(100・200メートル)の保持者であった。同窓の戸上研之(三段跳、山鹿出身)とともに、関西大学に入学。 「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳と並び、昭和初期日本陸上短距離界の双璧と見なされた選手で、1933年(昭和8年)には日比対抗東京大会で200メートル優勝。
栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 200… 栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 2005年3月6日)は、詩人。「生ましめんかな」や「ヒロシマというとき」で知られる。 広島県広島市生まれ。可部高等女学校(現広島県立可部高等学校)在学中の17歳から、短歌・詩を中心に創作活動を始めた。1930年、山本康夫が広島で創刊した歌誌『処女林』(1932年に『真樹』に改題)の同人となる。1945年8月6日(広島市への原子爆弾投下)に爆心地の4キロ北の自宅で被爆。戦後は夫の栗原唯一とともに執筆活動を行い、平和運動に参加し、反戦、反核、反原発、反差別、反天皇制を主張、特に昭和天皇の戦争責任を言及しており、『戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。
朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日… 朴 世東(パク・セドン、朝鮮語: 박세동、1913年3月4日 - 没年不詳)は、大韓民国の実業家、政治家。第2代韓国国会議員。 江原江陵出身。日本大学法科卒。商会支配人、鉱山経営者、鉱業評論社社長、大韓青年団江陵郡団長、建青首席総務、大韓農民総連盟中央総本部副委員長、大韓独立青年団中央広報部副団長、経済新聞主幹、現代日報創刊主幹・総務局長、大韓反共団中央総本部副団長、大韓啓蒙協会副会長などを務めた。光復後は共産党打倒に尽力し、国会議員在任中は李承晩の政治路線に従って自由党の発展に貢献をしたが、その後族青系と見なされ、除名処分を受ける危機に陥った。
小島 正雄(こじま まさお、1913年〈大正2年〉3月4日 … 小島 正雄(こじま まさお、1913年〈大正2年〉3月4日 - 1968年〈昭和43年〉1月20日)は、日本のジャズ演奏家・評論家、司会者。愛称はチャーさん。 東京生まれ。早稲田大学在学中に、服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)にトランペット奏者として参加した。卒業後、1941年(昭和16年)にNHKに就職。翌年召集され、1947年(昭和22年)に復員後、戦後再結成した名門ジャズバンドであるブルーコーツのバンドマスターとして活躍。また、日本を代表するコーラスグループであるダークダックス、ボニージャックス、スリー・グレイセス等の育ての親である。 9500万人のポピュラーリクエスト(文化放送)、味の素ミュージックレストラン、オーナー(水・木)(以上、TBSラジオ)。
小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001… 小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001年8月5日)は、日本の美術家、造形作家。1959年、米国『LIFE』誌が特集した「ジャンク・アート世界の7人」に選ばれた。青森県弘前市出身。 1931年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業した。1938年、東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中、鳥海青児のアトリエに出入りするようになり、油彩画を描きはじめた。大学卒業後徳島県立富岡中学校に赴任し、図画担当教員をしながら春陽会に出品を続けた。1942年、(旧制)福井県立三国中学校に転任した。1944年、三国町へ疎開していた詩人の三好達治と交流したり、1946年、同郷の版画家、棟方志功(青森市出身)と同じ下宿になったことがある。
三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大… 三条 実春(三條 實春、さんじょう さねはる、1913年〈大正2年〉3月2日 - 1990年〈平成2年〉6月30日)は、日本の神職、華族。貴族院公爵議員。 父三条公輝、母多栄子(毛利元敏女)の長男として生まれる。1938年、東京帝国大学文学部を卒業。 1938年、厚生省体力局企画課嘱託となる。以後、厚生省人口局管理課嘱託、同研究所人口民族部嘱託を務め、この間、応召を受け陸軍中尉となった。父の死去に伴い1945年12月15日、公爵を襲爵して貴族院公爵議員に就任し、1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 戦後、春日大社宮司、平安神宮宮司を務めた。 実行 - 公教 - 実房 - 公房 - 実親 - 公親 - 実重 - 公茂 - 実忠 - 公忠 - 実冬 - 公冬 - 実量 - 公敦 - 実香 - 公頼 - 実教 - 実綱 - 公広 - 実秀 - 公富 - 実治 - 公兼 - 公充 - 実顕 - 季晴 - 実起 - 公修 - 実万 - 公睦 - 実美 - 公美 - 実憲 - 公輝 - 実春 - 公隆 - 実久
福與 正治(ふくよ まさはる、1913年3月2日 - 199… 福與 正治(ふくよ まさはる、1913年3月2日 - 1995年9月3日)は日本の英文学者。成蹊大学名誉教授。長野県下伊那郡上久堅村(現・飯田市)出身。 編著に『英文法辞典』(培風社)、訳書に『天路歴程 研究社新訳注双書』(研究社)などがある。
山中 宏(やまなか ひろし、1913年3月2日- 2008年… 山中 宏(やまなか ひろし、1913年3月2日- 2008年1月31日 )は、日本の経営者、商学博士。明治生命保険社長、会長を務めた。 東京都出身。1934年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に明治生命保険に入社した。1955年に欧米を視察し、1957年に財務部長に就任し、取締役、常務、専務を経て、1972年4月に副社長に就任し、1974年4月には社長に昇格した。1982年4月に会長に就任し、1990年4月に取締役相談役に就任し、1998年4月から名誉相談役を務めた。 1950年から1958年までに成城大学で講師を務め、1959年から1969年までに東京大学で経済学講師を務めた。 1976年10月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日… 木村 定三(きむら ていぞう、1913年〈大正2年〉3月1日 - 2003年〈平成14年〉1月21日)は、愛知県名古屋市出身の実業家・美術品収集家。 特に熊谷守一の収集家として知られていた。晩年や没後にはコレクションが愛知県美術館に寄贈されており、愛知県美術館は3309点の木村定三コレクションを有している。 1913年(大正2年)3月1日、木村定治郎ととくの三男として、愛知県名古屋市に生まれた。定治郎は名古屋市中区で肥料米穀仲買を商い、名古屋市内に多数の土地や家屋を所有する大地主でもあった。定治郎は大正初期に米穀肥料商を廃業し、土地や家屋の管理に専念していた。 1929年(昭和4年)に旧制愛知県熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を卒業し、第八高等学校(現・名古屋大学)文科甲類に入学した。
平野 史(ひらの ふひと、1913年3月1日 - 1994年… 平野 史(ひらの ふひと、1913年3月1日 - 1994年12月2日)は、日本の経営者。日本電装(現在のデンソー)社長、会長を務めた。愛知県出身。 1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1941年にトヨタ自動車工業に入社。1949年12月に日本電装に転じ、1956年2月に取締役に就任し、1967年1月に常務、1971年2月に専務を経て、1977年3月には社長に就任。1982年3月から会長を務めた。 1979年4月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年12月2日急性肺炎のために死去。81歳没。
山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - … 山形 敞一(やまがた しょういち、1913年2月27日 - 1998年9月14日)は、日本の内科医。専門は、消化器病学(特に膵臓疾患)。東北大学名誉教授。1986年勲二等瑞宝章受章。 宮城県石巻市生まれ。石巻中学校(旧制)、第二高等学校(旧制)、東北帝国大学医学部卒業。1936年、内科学第三講座(教授山川章太郎、助教授黒川利雄)に入局。1957年に黒川利雄の後任として東北大学医学部第三内科講座教授、尚仁会第二代会長に就任。 宮城県対がん協会会長、日本癌治療学会総会会長、日本内科学会総会会頭、日本医史学会会長などを歴任。日本対がん協会賞、石巻市民功労賞などを受賞。アララギ派歌人としても著名で、多くの歌集があるほか、医学史特に仙台藩の医学史を研究した。
河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 20… 河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 2012年1月20日)はNHKの元アナウンサー。 長野県出身。長野商業学校、旧制松本高等学校文科乙類を1933年に卒業。兄の広三が思想事件で連座したことより進学を断念し、1939年NHK入局。 スポーツアナウンサーとして活躍。ラジオを中心に、栃若時代の大相撲実況や箱根駅伝などの名調子で親しまれる。1952年ヘルシンキオリンピックなどオリンピック中継でも実況を務めた。 退職後は相撲雑誌『別冊グラフNHK大相撲特集』(『別冊NHKウィークリー・ステラ大相撲特集』)の編集長も務めた。 2012年1月20日、呼吸不全のため町田市の病院で死去。98歳没。
横山 正(よこやま ただし、1913年2月27日 - 198… 横山 正(よこやま ただし、1913年2月27日 - 1989年11月29日)は、日本の芸能・演劇史研究者。 広島県福山市生まれ。1938年九州帝国大学文学部国文科卒、1944年京都帝国大学大学院退学。大阪学芸大学助教授、大阪教育大学教授。1962年「近世的性格に焦点をおいた浄瑠璃の史的研究」で大阪大学文学博士。78年定年退官、名誉教授。
中村 誠太郎(なかむら せいたろう、1913年2月27日 -… 中村 誠太郎(なかむら せいたろう、1913年2月27日 - 2007年1月22日)は、日本の理論物理学者。東海大学名誉客員教授。 1913年、滋賀県彦根生まれ。1941年、京都帝国大学理学部を卒業した。 1943年に東京帝国大学理学部助手となる。1953年に学位論文「ベーター崩壊の中間子理論」を東京大学に提出して理学博士の学位を取得。東京大学理学部助教授、1971年に教授に昇進。1973年に東京大学を定年退官した。その後は日本大学教授、1978年より東海大学教授、1983年からは特任教授をつとめたが、1994年に退職。
田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 201… 田辺 秀雄(たなべ ひでお、1913年2月27日 - 2010年9月15日)は、日本の音楽評論家。 音楽学者・田辺尚雄の長男として東京に生まれる。慶應義塾大学法学部卒。日本コロムビア・レコード勤務の後、東海大学教養学部教授となる。父同様に東洋音楽研究のほか、洋楽にも造詣が深く、義太夫協会、日本民謡文化協会会長を務めた。 2010年9月15日、肺炎のため東京都新宿区の自宅で死去。97歳没。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月2… 和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月16日)は、日本近代文学研究者、歌人。 京都府京都市生まれ。立命館大学法文学部国文学科卒。立命館中学校教諭、立命館大学予科教授、1949年(昭和24年)立命館大学助教授、1956年(昭和31年)同大学教授。1976年「近代文学創成期の研究 リアリズムの生成」で立命館大文学博士。1979年退任、名誉教授、大谷女子大学教授。1983年退職。1985年、勲三等瑞宝章受章。1999年、肝臓癌のため死去。 歌誌『ポトナム』同人。筆名・周三。小泉苳三に師事。門下に上田博など。
浅蔵 五十吉(あさくら いそきち、1913年2月26日 - … 浅蔵 五十吉(あさくら いそきち、1913年2月26日 - 1998年4月9日)は、日本の陶芸家である。浅蔵五十吉の二代目、本名は与作(よさく)。 石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれ。初代徳田八十吉、北出塔次郎等に師事。 1981年(昭和56年)、日本芸術院賞受賞。1984年(昭和59年)に日本芸術院会員、1992年(平成4年)に文化功労者、1996年(平成8年)に九谷焼作家として初めてとなる文化勲章を受章した。 1993年(平成5年)、故郷の寺井町に「浅蔵五十吉美術館」が開館した。設計は池原義郎。 1998年(平成10年)4月9日、呼吸不全のため金沢大学医学部付属病院で死去。享年85。1999年(平成11年)には後継者が三代目を襲名した。
本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990… 本田 實(ほんだ みのる、1913年2月26日 - 1990年8月26日)は、世界を代表する日本のアマチュア天文家。独学による天文観測で、生涯に彗星12個、新星11個を発見した。 鳥取県八頭郡八頭村(現・八頭町)出身。八東町名誉町民第1号。八東尋常高等小学校(現・八頭町立八東小学校)卒業。1976年日本天文学会神田茂記念賞受賞。1985年第19回吉川英治文化賞受賞。1987年フランス天文学会100周年記念賞受賞。 本田は1923年ごろ(当時10歳)、生家の星空の美しさを意識し始め、ためた小遣いで口径28mmのシングルレンズと焦点距離25mmのラムスデン式接眼鏡を買った。32倍の屈折望遠鏡を自作して下弦の月を見たのが、望遠鏡による初めての天体観測となった(当時17歳)。
菅波 茂(すがなみ しげる、1913年〈大正2年〉2月25日… 菅波 茂(すがなみ しげる、1913年〈大正2年〉2月25日 - 1982年〈昭和57年〉12月23日)は、日本の政治家、医師。自由民主党衆議院議員。 福島県いわき市生まれ。磐城中学校(現・福島県立磐城高等学校)、昭和医学専門学校(現・昭和大学医学部)を卒業後、千葉医科大学第二内科研究室を経て、四倉町にて家業の病院を継ぐ。 1963年(昭和38年)、福島県議会議員に石城郡から自民党公認で立候補して初当選を果たした。1967年(昭和42年)1月8日に県議を辞職した。同月、第31回衆議院議員総選挙で旧福島3区から自民党公認で立候補し初当選(当選同期に塩川正十郎・加藤六月・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・水野清など)。
牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 20… 牛島 春子(うしじま はるこ、1913年2月25日 - 2002年5月29日)は、日本の作家。福岡県久留米市出身。結婚後満州国に渡り、『祝という男』で1941年芥川賞次席。戦後、日本に引き揚げてのち、菅生事件などの作品を書いた。 以下は参考文献(多田、2009年)のpp.231 - 239による。 久留米市本町で洋品店を営む牛島丞太郎・あやめ夫妻の二女として生まれる。1927年、10歳年上の兄の影響を受け、処女作「合歓の花」を書く。1929年、久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)を卒業し、奈良女子高等師範学校を受験したが失敗。1930年、久留米の文芸誌『街路樹』に参加する。1931年に久留米の日本足袋(現在のブリヂストン)に就職。
内田 義彦(うちだ よしひこ、1913年2月25日 - 19… 内田 義彦(うちだ よしひこ、1913年2月25日 - 1989年3月18日)は、日本の経済学者である。 愛知県名古屋市生まれ。専攻は経済学史、社会思想史。アダム・スミス、カール・マルクスと、近代日本思想史の研究で知られる。著書『社会認識の歩み』で、歴史認識と現代認識の関係、理念とハウ・トゥの関係、本の読み方について、を論じて、日本における社会科学の進展も交え考察している。 1954年8月16日に学位論文『経済学の生誕』で、専修大学から経済学博士の学位を受ける。
飯塚 正二(いいづか しょうじ、1913年〈大正2年〉2月2… 飯塚 正二(いいづか しょうじ、1913年〈大正2年〉2月24日 - 1999年〈平成11年〉4月27日)は、昭和から平成時代の政治家。位階は正五位。静岡県藤枝市長。 藤枝市出身。1930年(昭和5年)静岡県藤枝農学校卒業。 静岡県庁に入り、1966年(昭和41年)副出納長、1967年(昭和42年)事業部長、1968年(昭和43年)公営企業管理者を経て、1972年(昭和47年)藤枝市助役に転じた。 1976年(昭和51年)6月、藤枝市長に就任。4期務め、1992年(平成4年)引退した。 1999年(平成11年)4月27日死去、86歳。死没日をもって正五位に叙される。
堀米 庸三(ほりごめ ようぞう、1913年2月24日 - 1… 堀米 庸三(ほりごめ ようぞう、1913年2月24日 - 1975年12月22日)は、山形県河北町生まれの歴史家。専攻は西洋中世史。
青山 光二(あおやま こうじ、1913年2月23日 - 20… 青山 光二(あおやま こうじ、1913年2月23日 - 2008年10月29日)は、日本の小説家。 神戸市生まれ。第三高等学校を経て東京帝国大学文学部美術史学科卒業。在学中の1935年(22歳)、織田作之助らと同人雑誌『海風』を創刊する。 大村謙太郎の仲介により映画『東京ノ回敎徒』を制作することとなり脚本を担当、1944年6月「室町一郎」名義で脚本完成、9月末に映画完成。 戦後、『旅への誘ひ』(1948)などの私小説風連作を発表。1956年、『法の外へ』で直木賞候補。 その後、任侠ヤクザ路線に移行し、『修羅の人』で1966年再度直木賞候補、1966年(53歳)小説新潮賞を受賞。1977年、『竹生島心中』で三たび直木賞候補、及び泉鏡花文学賞・平林たい子文学賞候補。
石井 良雄(いしい よしお、1913年2月23日 - 198… 石井 良雄(いしい よしお、1913年2月23日 - 1986年8月27日)は、日本の経営者。東京都出身。 1935年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に日清製粉に入社。1962年7月に取締役に就任し、1967年5月に常務、1971年5月に専務を経て、1973年11月には社長に就任した。1981年6月には相談役に就任。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1983年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1986年8月27日肺癌のために死去。73歳没。
太田邦夫(おおた くにお、1913年2月23日 - 1997… 太田邦夫(おおた くにお、1913年2月23日 - 1997年4月23日)は、昭和・平成期の病理学者。東京医科歯科大学、東京大学各名誉教授、日本医学会4代会長。 兵庫県神戸市にて大阪商船副社長の太田丙子郎の長男として生まれる。旧制第一高等学校を経て1937年(昭和12年)東京帝国大学医学部医学科を卒業し、陸軍軍医として北支やラバウルで死線を彷徨う。 東京帝大助手を経て1941年に同講師、1944年医学博士号取得、癌研究所病理部長、1948年東京医科歯科大学教授となる。癌研所長の中原和郎の推薦で、ニューヨーク市のスローン・ケタリング癌センター(en:Memorial Sloan Kettering Cancer Center、アルフレッド・スローン、チャールズ・ケタリングの寄付による研究施設)に留学し、外科病理を研修。
野田 壽雄(のだ ひさお、1913年2月23日 - 2004… 野田 壽雄(のだ ひさお、1913年2月23日 - 2004年4月8日)は北海道大学名誉教授。大阪府生まれ。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
由田 浩(よしだ ひろし、1913年2月23日 - 1977… 由田 浩(よしだ ひろし、1913年2月23日 - 1977年10月3日)は日本の教育者。由田学園理事長、横浜事件の関係者。 富山県礪波郡長源寺に生まれる。法政大学法文学部法律学科を卒業し、古河電気工業に入社する。そのかたわら1940年4月に昭和塾に入り、1941年3月に卒業する(同期に浅石晴世、板井庄作、黒木利克、武田満作、武田豊、学生組には永末英一ら総勢59名)。同年11月に昭和塾が解散したのを機に、12月に高木健次郎、浅石晴世、板井庄作らの昭和塾関係者とともに研究会の再編成を考え、細川嘉六にその研究会プログラムを相談する。 1941年10月、昭和塾友以外の知人らとともに「政治経済研究会」グループを発足させ、そのメンバーとして研究活動に携わる。
萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22… 萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年〈大正2年〉2月22日 - 2007年〈平成19年〉11月4日)は、日本の画家、版画家。油彩画、現代木版画などを描く。 1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市宝一丁目)に生まれる。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男。父の元治郎は警察署長を務め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人の飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった。 1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には家族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る。1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する。
中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没… 中村 信一(なかむら しんいち、1913年2月22日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(内野手)。 北予中学校(現松山北高)在学中に第8回選抜中等学校野球大会に出場、準々決勝に進出する。その後法政大学に進学し、1936年に東京セネタースへ入団。遊撃手として二塁手の苅田久徳、三塁手の高橋輝彦らとともに「百万ドルの内野陣」を形成した。1937年秋シーズン途中に応召し、1940年に復帰。1941年にチームが名古屋金鯱軍と合併し大洋軍と改称、金鯱軍で遊撃を守っていた濃人渉が大洋軍でもそのまま遊撃を守ったため三塁に転向する。終戦後の1946年はゴールドスターで復帰するが、翌1947年に退団、そのまま現役引退した。
小池 岩太郎(こいけ いわたろう、1913年(大正2年)2月… 小池 岩太郎(こいけ いわたろう、1913年(大正2年)2月22日 - 1992年(平成4年)7月21日)は、日本の美術教育者、インダストリアルデザイナーである。東京府(現・東京都)出身。 東京美術大学(現在の東京芸術大学)卒業後、地方公務員として福岡県庁に勤務する。その後東京に戻り商工省(現在の経済産業省)に入省し、工芸指導所にて技手として活動した。1947年(昭和22年)には古巣の東京芸術大学にて助教授として復帰し、1965年(昭和40年)に教授に昇格する。1980年(昭和55年)に退職後は、同大学の名誉教授に選出され、同時期に池を中心に複数のデザイナーと共にGKデザイングループを結成し、日本酒「大関」のボトルデザインやオートバイ、レコード、家庭用品等幅広いデザイン設計に携わった。
平田 源一(ひらた げんいち、1913年2月21日 - 19… 平田 源一(ひらた げんいち、1913年2月21日 - 1995年9月10日)は、日本の経営者。ブラザー工業社長を務めた。広島県出身。 1934年に山口高等商業学校を卒業し、1943年1月にブラザー工業に入社。1946年6月に取締役に就任し、1962年7月に常務、1975年1月に副社長を経て、1979年2月には社長に就任。1981年2月から1987年2月までに監査役を務めた。 1983年3月に勲三等瑞宝章を受章。 1995年9月10日肺炎のために死去。82歳没。
中井 正一(なかい まさかず、1913年 <大正2年> 2月… 中井 正一(なかい まさかず、1913年 <大正2年> 2月21日 - 1993年 <平成5年> 7月30日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。位階は従五位。 香川県出身。1935年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、同年4月に日本銀行に入行。1958年11月に北國銀行に転じ、専務に就任し、1964年11月に副頭取を経て、1968年11月には頭取に昇格した。1978年12月に会長を経て、1984年6月には顧問に退いた。 1976年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1993年7月30日、北アルプスで下山途中で遭難し、死亡。80歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
青柳 高一(あおやぎ たかいち、1913年(大正2年)2月2… 青柳 高一(あおやぎ たかいち、1913年(大正2年)2月20日 - 1976年(昭和51年)7月24日)は、日本の政治家、衆議院議員。 埼玉県児玉郡若泉村大字下阿久原(阿久原村、神泉村を経て現神川町大字下阿久原)出身。東京市立京橋商業学校(現・東京都立芝商業高等学校)卒。1934年(昭和9年)、青柳製作所を創立、社長となり、このほか関東産業、群馬工業、帝国車輛工業、日本化成工業、大建工業各(株)取締役社長となる。 戦後の1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し当選した。日本進歩党、民主党、民主自由党、自由党に所属した。埼玉3区では荒舩清十郎らと競った。衆議院鉱工業委員会委員、衆議院鉱工業委員会理事、衆議院災害地対策特別委員会委員、衆議院労働委員会理事、衆議院商工委員会委員、衆議院水害地対策特別委員会理事などを務めた。
福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 19… 福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 1994年9月7日)は朝日放送元社長。 香川県高松市出身。1936年に関西大学専門部卒業後、朝日新聞社へ入社。社会部次長、整理部次長をつとめた後、1951年に朝日放送設立に参加。放送部報道課長、編成局次長、総務局長、営業局長、1962年取締役、1968年常務、1971年専務、1974年9月副社長、1983年6月社長就任。1990年6月相談役就任。1994年9月、呼吸不全のため81歳で死去。 毎年、兵庫県西宮市の自宅の庭で500株以上のチューリップを植えて育てた。 1988年、勲二等瑞宝章受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
小笠原 忠春(おがさわら ただはる、大正2年(1913年)2… 小笠原 忠春(おがさわら ただはる、大正2年(1913年)2月19日 - 昭和51年(1976年)5月27日)は、小笠原伯爵家第31代当主。第30代当主小笠原長幹長男。 弟に小笠原忠幸(小笠原長丕養子)、小笠原忠統、妹に鞠子(伊達興宗夫人)他。子に忠利、忠明。 法政大学に学ぶ。1935年(昭和10年)3月、父長幹の死去により、家督を相続する。1944年(昭和19年)、新劇女優と結婚したことで長幹の三男である忠統に家督を譲り隠居、分家させられた。次弟の忠幸はすでに旧安志藩の小笠原子爵家を継いでいたため、忠統が忠春の後継となったものである。 長清 - 長経 - 長忠 - 長政 - 長氏 - 宗長 貞宗 - 政長 - 長基 - 長将 - 長秀 - 持長 - 清宗 - 長朝 - 貞朝 - 長棟 - 長時 - 貞慶 秀政 - 忠脩 - 忠真 - 忠雄 - 忠基 - 忠総 - 忠苗 - 忠固 - 忠徴 - 忠嘉 - 忠幹 - 忠忱 長幹 - 忠春 - 忠統 - 長雅 光康 - 家長 - 定基 - 貞忠 - 信貴 - 信嶺 - 信之 - 政信 - 貞信 - 信辰 - 信成 - 信胤 - 信房 - 長教 - 長貴 - 長守 - 長育 - 勁一 - 牧四郎 - 長定
川澄 健一(かわすみ けんいち、1913年2月18日 - 2… 川澄 健一(かわすみ けんいち、1913年2月18日 - 2015年3月13日)は昭和・平成期に活動した日本の作曲家。滋賀県彦根市出身。 滋賀師範学校卒業。1931年(昭和6年)度の文部省教員検定試験に合格しルドルフ・フェッチ、宮原禎次らの師事を仰ぐ。帝塚山学院高等女学校教諭や帝塚山中学校教諭を経て神戸女学院大学教授。 戦後は主にNHKや在阪民放各局の番組で劇伴を手掛け、NHK全国学校音楽コンクールや毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクール、JRN主催のこども音楽コンクールで長年にわたり審査員を務めた。また、近畿地方を中心に校歌や市町村歌、社歌など300曲余りを作曲し、特に詩人の竹中郁とコンビを組むことが多かった点が特筆される。