平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 202… 平井 英子(ひらい ひでこ、1918年1月13日 - 2021年2月21日)は、大正末期から昭和初期にかけて童謡のジャンルで活躍した日本の歌手である。出生名は林 秀(はやし ひで)、結婚後の姓名は鈴木 英子(すずき ひでこ)あるいは鈴木 英(すずき ひで)、旧姓は平井。 東京府東京市四谷区(現:東京都新宿区)塩町出身。7歳で幸田露伴の妹幸田延子に師事しピアノを学ぶ。その頃、作曲家の中山晋平の門下生となり、1928年(昭和3年)、ニッポノホン(日本コロムビアの前身)から童謡歌手としてデビューする。日本ビクター(現在のJVCケンウッド)の創立と同時に専属の童謡歌手となる。 野口雨情・中山晋平のコンビによって作曲・作詞された童謡を主に歌っていたが、佐々紅華が作詞・作曲した楽曲も歌い、本人談によると、一番「かわいがって頂いた」のは紅華だという。
一渡 明(いちわたり あきら、1918年1月11日 - 19… 一渡 明(いちわたり あきら、1918年1月11日 - 1974年12月9日)は、現在の千葉県我孫子市出身で出羽海部屋に所属した力士。本名は渡辺 明。164cm、102kg。最高位は東前頭18枚目。 1933年5月初土俵、1937年1月十両昇進。1939年1月新入幕したが、1943年5月に若くして廃業。その後は食堂を経営したが、交通事故が原因で店をたたみ旅館を経営していたが後遺症で死亡した。
相武山 信男(そうぶやま のぶお、1918年1月11日 - … 相武山 信男(そうぶやま のぶお、1918年1月11日 - 没年不明)は、神奈川県津久井郡(現相模原市緑区)出身で出羽海部屋に所属した昭和年間の元大相撲力士。本名は橋本 信男(はしもと のぶお)。最高位は西十両2枚目。得意技は左四つ、寄り。 1937年1月場所に初土俵を踏む。1942年5月場所に十両に昇進。立ち合いに相手の懐に飛び込んで鋭い出足を生かし、左を差して一気に出る颯爽な取り口が持ち味だった。しかし、腰が軽く四つに組まれて出足を止められると、攻め手がなく苦戦した。十両4場所目の1944年1月場所、13勝2敗の好成績を挙げた(十両優勝は上位の九州錦)。翌5月場所は自己最高位となる西十両2枚目まで上がるが、3勝7敗と負け越し、11月場所は全休し、この場所限りで廃業した。
加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 199… 加太 こうじ(かた こうじ、1918年1月11日 - 1998年3月13日)は、日本の大正、昭和の庶民史、世相・風俗・文化史などの評論家・庶民文化研究家・紙芝居作家。 東京市浅草区神吉町(現・東京都台東区東上野四丁目、五丁目辺り)の貧困家庭に生まれ、荒川区尾久に育つ。本名は加太一松(かぶと かずまつ)だが、名門の加太家の血筋を誇る父に反発し、尋常小学校5年の時から「かた」と名乗るようになった。父親が働かないため関東大震災前に母親と別れ、大商人の妾をしていた伯母(父親の姉)に育てられる。 紙芝居の世界に入ったのは高等小学校在学中の14歳の時。高等小学校卒業後、師範学校への進学を希望していたが、給費制度廃止のために断念し、紙芝居の世界で働く。
下平 正一(しもだいら しょういち、1918年1月10日 -… 下平 正一(しもだいら しょういち、1918年1月10日 - 1995年8月25日)は、日本の政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(10期)。 長野県塩尻市出身。長野県東筑摩農学校(現:長野県塩尻志学館高等学校)中退。国鉄労働組合長野地方本部委員長や塩尻町議などを歴任し、1955年の衆院選に左派社会党から立候補しトップで初当選、続く1958年の衆院選でも、社会党を脱党して立候補・当選した小沢貞孝との革新分裂選挙となったが連続当選。以後小沢が民社党へと移った後も同じ選挙区で相争う様になるが、最終的に10回連続当選した。60年安保闘争では国会内に警官隊を導入した際に負傷する。 1969年8月9日、愛知県内を自動車で走行中に後部から追突される交通事故に遭遇。
石橋 周一(いしばし しゅういち、1918年1月10日 - … 石橋 周一(いしばし しゅういち、1918年1月10日 - 2007年8月9日)は、日本の経営者。九州電力副社長、福岡放送社長を務めた。東京都出身。 1941年に九州帝国大学工学部機械学科を卒業し、1942年に日本製鉄八幡製鉄所に入社。 1946年4月に日本発送電を経て、1951年5月に九州電力に転じ、1971年5月に取締役に就任し、1975年5月に常務を経て、1979年12月に副社長に就任。1987年6月から1991年4月までに福岡放送社長を務めた。 1982年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2007年8月9日肺炎のために死去。89歳没。 妻の喜和子(1925年生)は岩田屋百貨店社長中牟田喜兵衛(2代)の娘。
鈴木田 登満留(すすきだ とまる、1918年1月9日 - 没… 鈴木田 登満留(すすきだ とまる、1918年1月9日 - 没年不明)は、熊本県出身のプロ野球選手。
大橋 正雄(おおはし まさお、1918年1月8日 - 197… 大橋 正雄(おおはし まさお、1918年1月8日 - 1975年10月4日)は、日本の政治家。2人目の和歌山県公選知事(1967年4月23日 - 1975年10月4日)として3期を務めた。長男は前和歌山市長の故 大橋建一。 和歌山市出身。父の仕事の関係で京畿道京城府(現・ソウル特別市)に生まれた。第五高等学校を卒業。1941年10月、高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部卒業後、内務省に入省し千葉県属となる。千葉県警察部勤務を経て、短期現役海軍主計科士官(8期)を志願。1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎え解員(復員)した。
大原 敏夫(おおはら としお、1918年1月7日 - 193… 大原 敏夫(おおはら としお、1918年1月7日 - 1939年)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。 愛媛県立越智中学校(現・愛媛県立今治南高等学校)在学時代は内野手だった。その後呉海軍工廠では捕手を務め、1937年に阪急軍に入団。 当時の阪急の捕手には倉本信護(ちなみに、彼とは呉海軍工廠でチームメイトだった)、島本義文がいて出場が難しいかと思われたが、デビュー戦となった1937年4月12日のイーグルス戦で、8番捕手として先発出場。2打数1安打1打点1盗塁と活躍し、2人の正捕手争いに割って入る事ができた。その後、倉本が名古屋軍へ移籍し、島本が持病の肩痛で出場機会が減少したことから、翌1938年に阪急の正捕手になった。
北垣 信行(きたがき のぶゆき、1918年1月7日 - 19… 北垣 信行(きたがき のぶゆき、1918年1月7日 - 1981年10月21日)は、日本のロシア文学者。 茨城県下妻市出身。1944年東京外国語学校ロシヤ語科卒業。北海道大学助教授を経て、東京大学教養学部教授。当初大竹博吉とともにルイセンコ論争に加わったが、のちロシア文学の翻訳・研究に専念し、レールモントフ、ゴーゴリのほか、トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などを翻訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
三宅 千代(みやけ ちよ、1918年1月7日-2017年3月… 三宅 千代(みやけ ちよ、1918年1月7日-2017年3月30日)は、昭和・平成期の歌人・作家。 愛知県名古屋市にて眼科医の家系に生まれる。旧姓・杉田。杉田久女の夫・杉田宇内は遠縁にあたる。 母が崖からの転落事故の後遺症で半身不随となったため、幼少期は両親それぞれの実家や親戚宅に預けられて育つ。そうした生活から非行少女的な行動をとるようになったが、小学4年のときに担任教師の綴り方指導を受け、新愛知新聞への投稿で50回入賞するなど文才を認められたことで立ち直った。東京女子大学国文科在学中に歌誌「詩歌」に入会し、前田夕暮に師事。卒業後は名古屋市立大学病院の勤務医・三宅寅三と結婚するが、結婚の翌年に夫が太平洋戦争に召集され、その所属部隊はレイテ島で全員玉砕したと伝えられる。
比留間 豊(ひるま ゆたか、1918年1月6日 - 2002… 比留間 豊(ひるま ゆたか、1918年1月6日 - 2002年1月26日)は、日本の土木工学者。東京帝国大学(現在の東京大学)土木工学科卒。 技術開発、特に道路の機械化施工に取り組み、高速道路事業に大きな功績を残した。コンクリート製防護壁の発明者。土木学会名誉会員。建設省道路局道路公団監理官、株式会社間組常務取締役、東京道路エンジニア株式会社社長などを歴任。日韓トンネル研究会参与。1989年6月、勲三等瑞宝章受章。2002年1月26日、心不全のため死去、享年84。
横瀬 恭平(よこせ きょうへい、1918年 <大正7年> 1… 横瀬 恭平(よこせ きょうへい、1918年 <大正7年> 1月6日 - 2017年 <平成29年> 11月7日)は、日本の経営者。住友ゴム工業4代目社長を務めた。位階は従四位。 兵庫県出身。1941年に京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、1942年に住友電気工業に入社。1969年5月に取締役に就任し、1972年5月には常務に就任。1974年5月に住友ゴム工業専務に就任し、1977年9月に副社長を経て、1980年3月には社長に就任。1984年3月に副会長に就任し、1985年10月に会長、1991年3月に取締役相談役を経て、1992年3月から相談役を務めた。 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1989年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
木原 正雄(きはら まさお、1918年1月5日 - 2008… 木原 正雄(きはら まさお、1918年1月5日 - 2008年6月24日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。専門はソ連などの社会主義経済。 1918年、京都府京都市に生まれた。京都市立第一商業学校でロシア語を選択し、立命館大学経済学科に進んだ。同大学を1941年に卒業。1942年、満州国総務庁高等官試補、満洲建国大学高等官試補となった。1943年から1945年にかけて民族研究所に勤務。1945年、京都帝国大学講師となった。 1946年、京都帝国大学助手に昇進。1950年、京都大学経済学部助教授に昇進。1967年、経済学博士の学位を取得。1968年、京都大学教授に昇進。1970~1971年、1973~1974年には、経済学部長を務めた。
古茂田 守介(こもだ もりすけ、1918年〈大正7年〉1月5… 古茂田 守介(こもだ もりすけ、1918年〈大正7年〉1月5日 - 1960年〈昭和35年〉7月21日)は、昭和期の洋画家。新制作派協会物故会員。愛媛県道後村(現:松山市)出身。 人物画、静物画を得意分野とした。黄土色や暗褐色、くすんだ緑色等を主調として、色彩より形を重視し、均整のとれた構図の人物や静物を描いた。その色彩から、彫刻的な量感や実在感が作品に強く表れ、特別個性のある画風であった。戦後の日本美術で抽象表現主義の流行するなか、自身の信念を貫いて具象絵画を追究し続けた。 愛媛県道後村大字祝谷にて、元町会議員の父・文平の三男として生まれる。兄2人、姉1人、弟2人の6人兄弟。生まれながらにして喘息をかかえており、生涯闘病することとなる。
北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 197… 北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 1976年11月18日)は、日本の小説家、劇作家。
北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 197… 北條 誠(ほうじょう まこと、1918年1月5日 - 1976年11月18日)は、日本の小説家、劇作家。 東京生まれ。1934年旧制府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)を四修で卒業。1940年早稲田大学国文科卒。出征ののち、1943年東亜交通公社勤務。川端康成に師事し、1940年『埴輪と鏡』で芥川賞候補。戦後、鎌倉文庫に入社、編集をおこなう。1946年『寒菊』『一年』で野間文芸奨励賞受賞。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を八住利雄、伊馬春部、北村寿夫とともに交代で執筆。終戦直後の民主的で明るい人間関係を描くホームドラマは人気番組となった。1953年(昭和28年)『白扇』で直木賞候補。
白川 元春(しらかわ もとはる、1918年〈大正7年〉1月2… 白川 元春(しらかわ もとはる、1918年〈大正7年〉1月2日 - 2008年〈平成20年〉8月18日)は、日本の陸軍軍人、航空自衛官である。第11代航空幕僚長、第8代統合幕僚会議議長。 東京府出身。男爵陸軍大臣・白川義則の三男として生まれる。東京府立六中を経て陸軍予科士官学校に進む。原隊は立川の飛行第5聯隊。陸軍航空士官学校(51期)を卒業し、浜松陸軍飛行学校乙種学生、飛行第45戦隊付、航空士官学校区隊長を経て、飛行第90戦隊中隊長としてマレー、ジャワを転戦。陸大卒業後は、第2飛行師団参謀、終戦は南方軍総司令部参謀としてサイゴンで迎えた。 復員後は公職追放となり、妻の実家のある松江で本屋の番頭をしていた。
永末 英一(ながすえ えいいち、 1918年1月2日 - 1… 永末 英一(ながすえ えいいち、 1918年1月2日 - 1994年7月10日)は、大日本帝国海軍の軍人(短期現役士官)。日本の政治家。民社党委員長、衆議院議員(通算10期)、社会主義インターナショナル副議長。
西沢 実(西澤 實、にしざわ みのる、1918年(大正7年)… 西沢 実(西澤 實、にしざわ みのる、1918年(大正7年)1月2日 - 2013年(平成25年)7月2日) は、日本の放送作家・劇作家。筆名に苗川正 、芸名に西沢みのる。 日本放送芸術学会、日本放送作家協会、日本演劇協会の各会員。 長野県長野市出身。旧制海城中学卒業。1939年(昭和14年)、東京中央放送局JOAK(現・NHK)が実施した朗読の新人募集に応募する。1941年(昭和16年)には中央大学法学部在学のまま、同年に設立された東京中央放送局専属劇団俳優養成所に参加した。同年大学を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)に応召して第2師団に入隊、戦車隊長としてトラック島で敗戦を迎える。軍隊での最終階級は陸軍中尉であった。
中村 太郎(なかむら たろう、1918年1月2日 - 201… 中村 太郎(なかむら たろう、1918年1月2日 - 2011年4月22日)は、日本の政治家。参議院議員(3期)、労働大臣(第50代)。 山梨県東山梨郡勝沼町(現甲州市)出身。1941年、早稲田大学法学部を卒業。第二次世界大戦に陸軍主計大尉として満洲へ出征。 1950年、峡東貨物株式会社社長に就任し、山梨市教育委員会委員長などを歴任。1959年、山梨県議会議員に当選し4期務めた。その間、自由民主党山梨県支部連合政調会長、同議員団会長、県議会議長などを歴任。 1974年7月の第10回参議院議員通常選挙に山梨県選挙区から自由民主党公認で立候補し当選。以後、第12回、第14回参議院議員通常選挙で再選され3期務め、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。
細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 199… 細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 1996年12月26日)は、労働運動家。 新潟県糸魚川市出身。陸軍士官学校卒業。陸軍では後に内閣総理大臣を務める田中角栄の上官だった。共に新潟出身で1918年(大正7年)年生まれという共通点があり堅い友情に結ばれていた。終戦時は関東軍第5軍司令部付陸軍中尉であった。 シベリア抑留を経験した。日本に引き揚げた後に日本国有鉄道(国鉄)に入り、国鉄労働組合(国労)へ加入した。1952(昭和27)年国労本部中央委員に就任。岩井章と共に国労内の日本共産党系勢力を指導した。1957(昭和29)年の新潟闘争で国鉄を解雇された。その後は総評反主流派の中核的な論客となったり、現場協議制度を国鉄で行ったり、国労新綱領の策定を指導したりした。
田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 200… 田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 2001年12月12日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党所属の衆議院議員。青森県南津軽郡田舎館村出身。姓のうち「沢」の戸籍上の表記は「澤」。 津島文治元青森県知事の娘婿で、1947年、29歳で青森県議会議員に初当選。1960年、「津軽のケネディ」を名乗って衆議院議員選挙に立候補し、初当選。以来12回連続当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・藤井勝志など)。 自民党内では宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に属し、衆議院議院運営委員長、国土庁長官、自民党国会対策委員長、農林水産大臣、防衛庁長官などを歴任。
松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉… 松谷 健一郎(まつたに けんいちろう、1918年〈大正7年〉1月1日 - 2002年〈平成14年〉10月23日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。 広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学、旧制広島高等学校を経て、1941年(昭和16年)京都帝国大学工学部を卒業し、海軍を経て、中国配電入社。 1975年(昭和50年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1977年(昭和52年)中国電力株式会社常務取締役、1979年(昭和54年)中国電力株式会社取締役副社長、1981年(昭和56年)中国電力株式会社代表取締役社長、1987年(昭和62年)中国経済連合会会長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役会長、1995年(平成7年)中国電力株式会社相談役。
長持 栄吉(ながもち えいきち、1918年1月1日 - 20… 長持 栄吉(ながもち えいきち、1918年1月1日 - 2000年6月16日)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。
山口 正之(やまぐち まさゆき、1918年1月1日 - 19… 山口 正之(やまぐち まさゆき、1918年1月1日 - 1999年3月20日)は、日本のマルクス経済学者。 佐賀県佐賀市出身。東京帝国大学経済学部卒。立命館大学産業社会学部教授、1983年定年、名誉教授、大阪経済法科大学教授。日中友好協会会長を務めた。1999年、肺炎のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
田中 修平(たなか しゅうへい、1918年1月1日 - 19… 田中 修平(たなか しゅうへい、1918年1月1日 - 1992年4月20日)は、日本の経営者。大阪建物(現在のダイビル)社長を務めた。 三重県出身。1948年に東京商科大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1972年5月に大阪建物常務に就任し、1973年6月には社長に昇格。1981年6月に会長を経て、1986年6月から相談役を務めた。 1992年4月20日急性心筋梗塞のために死去。74歳没。
磯部 健雄(いそべ たけお、1918年 - 没年不明)は、神… 磯部 健雄(いそべ たけお、1918年 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手。 小田原中学校から國學院大學を経て、1938年秋に名古屋金鯱軍へ入団。1940年に退団。
土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身… 土肥 省三(どい しょうぞう、1918年 - )は長野県出身の元プロ野球選手(投手、右翼手)。
伊藤 経盛(いとう つねもり、1918年 - )は、愛知県出… 伊藤 経盛(いとう つねもり、1918年 - )は、愛知県出身のプロ野球選手。
岡本 一雄(おかもと かずお、1918年 - 没年不明)は、… 岡本 一雄(おかもと かずお、1918年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは捕手、一塁手。
太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)… 太田 健一(おおた けんいち、1918年 - 1944年?)は、栃木県出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。
佐野 利勝(さの としかつ、1918年 - 2006年)は、… 佐野 利勝(さの としかつ、1918年 - 2006年)は、ドイツ文学者。京都大学・滋賀医科大学名誉教授。 1918年、大阪府に生れる。1941年、京都帝国大学経済学部を卒業。同大学文学部独文科に進んで1946年に卒業。卒業後は、母校の京都大学教養部教授。1982年に定年退官し、名誉教授となる。その後は滋賀医科大学教授として教鞭をとった。
芝 烝(しば すすむ、1918年 - )は、日本の哲学者。京… 芝 烝(しば すすむ、1918年 - )は、日本の哲学者。京都女子大学名誉教授。 マドラス大学タミル学会終身会員、日本語の系統研究会代表幹事、日本道州制研究会代表。 愛媛県南予生まれ。広島高等師範学校卒業。1947年京都帝国大学文学部哲学科(倫理学)へ入学、旧制大学院(ヘーゲル法哲学)、京大人文科学研究所へと進む。ドイツのハイデルベルク大学に留学(哲学・人類学)。 国立民族学博物館研究協力者、京都女子大学助教授、教授、文学部長、学長代行をへて、名誉教授。その後花園大学教授を務めた。
朴 南秀(パク・ナムス、1918年 - 1994年)は韓国の… 朴 南秀(パク・ナムス、1918年 - 1994年)は韓国の詩人。平安南道平壌出身。 1918年、平安南道平壌に生まれる。平壌の崇仁商業を卒業後日本に渡り中央大学に入学する。卒業後は朝鮮殖産銀行の鎮南浦支店に入行し、1946年に朝鮮殖産銀行平壌支店長に昇進したが、朝鮮戦争期に大韓民国国軍の撤収に伴い越南した。 1939年、『문장(文章)』に「초롱불(灯火)」「거리(距離)」「밤길(夜道)」「마을(村)」 「심야(深夜)」「주막(酒幕)」などの 6篇が推薦された。初期の作品は日帝植民地の農村生活を通して時代的な暗黒相を求めていた。 「문장(文章)」の中に、他の詩人は主に自然を詩っていたとき、朴は社会にも関心をおいて、叙情的な情景に切実な感情を隠喩しているのが特徴である。
植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年… 植村 秀三(うえむら しゅうぞう、1918年 - 2005年)は、日本の裁判官、弁護士、翻訳者。 1918年生まれ。1941年、司法科試験合格。1948年、東京帝国大学法学部卒業後に裁判官となり、松山地方裁判所長、東京高等裁判所判事、公証人などを務める。 1960年頃から精神科医吉益脩夫の指導の下で、「日本犯罪誌」の編集委員となる。1962年にはオーストリアのナチス法制家のエルンスト・ゼーリッヒの著書を翻訳出版。1964年、第1回刑事政策審議会賞。1988年、第3回日本犯罪学会賞を受賞。弁護士に転身する。2005年に死去。同年日本司法精神医学会が設立され、刑事法学者で精神科医の山上皓が理事長に就任した。
織本 匠(おりもと たくみ、1918年 - 2001年)は、… 織本 匠(おりもと たくみ、1918年 - 2001年)は、日本の構造家・構造設計技術者・構造学者・武蔵野美術大学名誉教授・織本匠構造設計研究所(現:織本構造設計)創立者。 織本姓は義父である織本道三郎に由来する。旧姓は佐伯。 1942年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。卒業後は鹿島建設に入社した。 親交のあった芦原義信が中央公論社ビルを設計する際に構造設計を担当した際、独立を企図していた芦原に協力するため独立に踏み切り、1956年に織本匠構造設計研究所(現・織本構造設計)を設立する。一方、1965年に武蔵野美術大学に建築学科の教授に就任し、1970年には主任教授となった 。 1984年に織本匠構造設計研究所の社長を退任し、2年後には武蔵野美術大学建築学科も退職した。
大門 一夫(だいもん かずお、1918年 - 1992年)は… 大門 一夫(だいもん かずお、1918年 - 1992年)は日本の毛髪に関する著作家。 執筆のかたわらパーマ液や脱毛剤など戦後の美容科学の先駆者としての功績が高く、理美容師の育成にも努めた。 東京田端に生まれる。1941年 東京帝国大学医学部薬学科卒。1992年 急性肺炎のため死去(享年74) この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)… 熊本 高工(くまもと たかのり、1918年 - 2008年)は、日本の画家、美術教育者。 山梨県東山梨郡菱山村(勝沼町を経て現甲州市)生まれ。1938年東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒、1942年早稲田大学専門学校政治経済科卒業。1948年東京美術学校油絵科内地留学修了。東京都の公立小学校教諭を1955年まで務める。1957年東京教育大学教育学部芸術学科構成専攻卒業。1958年二紀会絵画部同人。1965年国際美術教育会議(INSEA)東京会議事務総長を務める。1969年女子美術大学助教授、INSEA本部財務局長、1974年東京造形大学教授。1979年岡山大学教育学部教授。1983年上越教育大学教授。
保積英次(ほづみえいじ、1918年 - 2007年)は、東京… 保積英次(ほづみえいじ、1918年 - 2007年)は、東京工芸大学芸術学部名誉教授。写真、カメラ、ストロボ(エレクトロニックフラッシュ)、その他の理論と実践を専門とした。 1918年東京生まれ。1941年東京写真専門学校(旧制)卒業。助手、助教授、東京写真短期大学教授を経て、東京写真大学短期大学部学部長(学長職)となる。当時の東京写真短期大学は、主として営業写真館の写真家を目指す者を対象としていた。その後、東京工芸大学芸術学部名誉教授。 桑沢デザイン研究所講師、日本写真学会評議委員などを歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
金井 多喜男(かない たきお、1918年 <大正7年> - … 金井 多喜男(かない たきお、1918年 <大正7年> - 2000年 <平成12年> 3月14日)は、日本の通産官僚。中小企業庁次長や、通商産業省繊維雑貨局長を経て、東亜石油代表取締役社長や、伊藤忠商事取締役副会長などを務めた。位階は正四位。 東京生まれ。福岡県立門司中学校(現福岡県立門司高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1941年に同大学学部を繰り上げ卒業。井藤半彌ゼミ出身。同年高等試験行政科合格。1942年商工省入省。1953年通商産業大臣官房調査統計部化学統計課長。同年通商産業大臣官房調査統計部動態統計課長。1954年通商産業省繊維局綿業課長。1956年通商産業省繊維局綿麻業課長。
西川 元彦(にしかわ もとひこ、1918年 - 没年不明) … 西川 元彦(にしかわ もとひこ、1918年 - 没年不明) は、日本の経済学者 、日本銀行監事。 名古屋高等商業学校で宮田喜代蔵 の指導を受け、「最も理論的なものは、最も実践的である。」という言葉で、経済に対する関心を深める。宮田の勧めもあり、東京商科大学に進学、中山伊知郎の門を叩く。 1941年(昭和16年)東京商科大学卒業後、日本銀行入行。統計局長、調査局長、監事を歴任、一橋大学の講師も務めた。1978年(昭和53年)1月に前川春雄副総裁を委員長とする日本銀行百年史編纂委員会が発足すると、吉野俊彦、呉文二と共に日本銀行百年史編纂委員会の委嘱委員を務めた。 中央銀行の理論と歴史に関する権威として知られ、多くの論文、専門書を執筆・監訳した。
池内 基周(いけうち もとちか、1918年(大正7年) - … 池内 基周(いけうち もとちか、1918年(大正7年) - 1997年(平成9年))は、日本の建築家。 1941年(昭和16年)に横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)卒業後、内匠寮匠生に採用され、1942年(昭和17年)に宮内技手となる。その後招集、復員を経て、宮内府、宮内庁に勤務した。 1956年(昭和31年)に宮内庁管理部工務課建築第一係に所属。1957年(昭和32年)に宮殿造営調査室の企画主任を拝命、1958年(昭和33年)には企画係長となった。 1963年(昭和38年)からの臨時皇居造営部では、造営課企画係長および課長補佐をつとめた。 その後、管理部工務課に戻り、1969年(昭和44年)に課長補佐、1978年(昭和53年)に工務課長となったのち、1981年(昭和56年)に退官。
上野 泰(うえの やすし、大正7年(1918年) - 昭和4… 上野 泰(うえの やすし、大正7年(1918年) - 昭和48年(1973年)2月21日)は、日本の俳人。妻の上野章子は高浜虚子の六女である。 横浜市の出身。立教大学経済学部卒業。昭和17年(1942年)、高浜虚子の六女・章子と結婚した。出征、復員の後、小諸に疎開中の虚子から俳句を学び、戦後の『ホトトギス』の新人として、野見山朱鳥と並び賞された。虚子から「泰の句に接すると世の中の角度が変わって現れてくる。」と評され、「新感覚派と呼んだらどんなものであろう。」と評された。家業の運送業の経営に加わりながら、昭和26年(1951年)『春潮』を主宰した。昭和48年(1973年)2月21日、癌のために急逝した。
矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、… 矢崎 健一(やざき けんいち、1918年 - 没年不詳)は、日本の聖職者、教育者。日本聖公会の聖職者として小金井聖公会主任司祭や、教育者として立教大学一般教養部助教授を務める傍ら、立教学院百年史の編纂を提案し刊行するなど、立教学院の史実を掘り起こし、歴史を体系化することに尽力した。 1940年(昭和15年)、立教大学文学部宗教学科卒業。 1954年(昭和29年)、矢崎は小金井聖公会の主任司祭に就任する。1951年(昭和26年)に購入してあった用地に、牧師館と小金井聖公会仮聖堂が建てられ、同年12月12日には献堂式が行われた。 1964年(昭和39年)の秋頃、立教大学一般教育部助教授であった矢崎は、立教学院の年史書である「立教学院八十五年史」の次の年史である「立教学院百年史」の編纂を立教大学文学部史学科教授の海老沢有道とともに提案し、編纂を進めた。
大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7… 大沢 竜雄(大澤 龍雄、おおさわ たつお、1918年(大正7年) - 1944年(昭和19年)9月)は、昭和戦前期の日本の陸上競技選手。現在の栃木県佐野市出身。箱根駅伝で活躍して日本大学の連覇に貢献し、3000m障害で日本記録を更新した。太平洋戦争に出征し戦死。佐野地域で1951年より開催されている「大澤駅伝競走大会」は、郷土の名選手であった大沢を記念した大会である。 1918年(大正7年)、栃木県安蘇郡常盤村(現在の佐野市牧町)生まれ。1931年(昭和6年)に旧制佐野中学校(現在の栃木県立佐野高等学校・附属中学校)に入学し、陸上競技選手としての活躍を見せた。 1936年(昭和11年)、日本大学に進学。
上原 晋(うえはら すすむ、1918年 - 2015年 )は… 上原 晋(うえはら すすむ、1918年 - 2015年 )は、ラックス株式会社(現ラックスマン)の元開発担当常務。 経歴は以下のようになっている。1918年、兵庫県宝塚市に生まれ、1939年に株式会社錦水堂入社。1958年にMA-7Aモノラル真空管アンプ、6CA7の採用と高圧回路を採用して60wのハイパワーを実現した。
石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2… 石川 義吉(いしかわ よしきち、1918年(大正7年)- 2002年(平成14年)は、日本の軍属、事業家。 太平洋戦争において東京外語大学インド語科在学中にF機関に通訳として従事、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市を補佐した。戦後は三菱商事のインド駐在員として日印関係に尽力した。晩年は東京大学で長崎暢子教授と共にインド学の研究をしていた。 山形県鶴岡市大山町にて粂太郎、元江の子として生まれる。兄弟は12人、妹1人の大家族であった。1935年上京。この頃大川周明やA.M.サーハエの影響を受ける。東京外語大学進学時、インド人教師バルラースからヒンズー語、ウルドゥ語を学ぶ。1941年10月中旬、在学中に参謀本部からの命令により急遽タイへ送られる。
伊藤 久徳(いとう きゅうとく、1918年 - 1997年)… 伊藤 久徳(いとう きゅうとく、1918年 - 1997年)は、日本の将棋駒師。山形県天童。 生前は「天童の天皇」と呼ばれ、天童高級駒の第一人者。 弟子に大澤富月がいる。 1980年天童開催の王将戦で、初めて天童駒が使用された作者が久徳であった。 1989年「現代の名工」として労働大臣表彰。
山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は… 山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は日本の技術者。 累計1万台以上の山田風車が製造され、北海道はもとより、国内外の各地に設置されたが、各地の電化が進むにつれて、1960年代にはその役割を終えた。この数はウィンドファームが設置されている現在の日本国内での設置台数よりも多い。数々の特許を取得した。風トピアで実験の結果、弱風から発電を開始して、強風では独特の構造で風を避け、発電効率が高く、耐久性にも優れ、輸入機より高性能であることが実証された。当時製造された風力発電機は現在の基準でも遜色ない水準で費用対効果に優れていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。