須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日… 須田 實(すだ みのる、1880年(明治13年)10月30日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 秋田県出身。秋田尋常中学校を経て、1898年(明治31年)9月、士官候補生(12期)として陸軍に入る。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に陸軍歩兵少尉任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 佐賀連隊区司令官、歩兵第55連隊長、第16師団参謀長等を経て、1927年(昭和2年)3月、陸軍少将に進む。同年7月、歩兵第3旅団長に就任し、1928年(昭和3年)8月、予備役に編入された。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月… 藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 - 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrel… ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる〉、1880年10月28日 - 1964年(昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、キリスト教プロテスタントの信徒伝道者、社会事業家、実業家。 1905年(明治38年)にYMCA派遣の英語教師として来日し、生徒のキリスト教青年会(YMCA)活動を通して滋賀県内の伝道を始め、プロテスタントの伝道団体「近江ミッション」を興した。それを支える資金活動として建築事務所「ヴォーリズ合名会社」を興し、こんにちの近江兄弟社グループを築いた。伝道のほか、自給自足の精神で、病院や学校の開設などの社会事業を行った。
大ノ川 甚太郎(おおのかわ じんたろう、1880年10月25… 大ノ川 甚太郎(おおのかわ じんたろう、1880年10月25日 - 1917年1月20日)は、石川県河北郡(現:金沢市)出身の大相撲力士。本名は木越 甚太郎(きごし じんたろう)。 1880年10月25日に石川県で生まれる。 1901年5月に君ヶ濱部屋から初土俵を踏む。1905年5月場所で新十両昇進を果たし、2年後には新入幕を果たした。1912年1月場所、梅ヶ谷と引き分ける大健闘を果たし、好成績を収めて1912年5月場所では小結へ昇進し、上位陣との対戦で力を発揮していく。腕力が強く、両肩が力瘤で隆起していたことから「コブさん」の異名で親しまれた。1916年に師匠・君ヶ濱(志子ヶ嶽市五郎)が死去したことで、出羽海部屋へ転籍する。
三矢 宮松(みつや みやまつ、1880年(明治13年)10月… 三矢 宮松(みつや みやまつ、1880年(明治13年)10月23日 - 1959年(昭和34年)1月10日)は、日本の内務官僚、宮内官僚。
弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月… 弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月13日)は、中華民国の詩人、禅僧、音楽教育者、芸術教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晩晴老人。仏教徒には「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められたという。 1880年、天津に生まれる。祖父は李鋭、父の李世珍は吏部主事。李叔同の親は敬虔な仏教徒だった。 1884年(光緒10年)、5歳の時、74歳の父は病気で亡くなった。 1885年、李叔同は啓蒙教育を受け始めた。 1887年、常雲荘に師事。李叔同は四書五経、金石、書道を勉強し始めた。 1895年、16歳の時、輔仁書院に入学。
山室 宗武(やまむろ そうぶ、1880年10月21日 - 1… 山室 宗武(やまむろ そうぶ、1880年10月21日 - 1963年10月31日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。士族山室宗意の二男として生れる。中学濟濟黌を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第18連隊付となる。翌年、日露戦争に出征。陸軍砲工学校高等科で学んだ。 陸軍野戦砲兵射撃学校教官、同校教導大隊中隊長、野戦砲兵監部員、野砲兵第14連隊大隊長、陸軍野戦砲兵学校教導連隊大隊長、同校教官、欧州出張、野戦重砲兵第8連隊長、野戦砲兵学校教導連隊長などを経て、1932年(昭和7年)4月、陸軍少将に進級。 陸軍技術本部員、技術本部第3部長、野戦砲兵学校幹事、同校長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、陸軍中将となった。
大村 直(おおむら なおし、1880年(明治13年)10月2… 大村 直(おおむら なおし、1880年(明治13年)10月21日 - 1963年(昭和38年)10月20日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。静岡県田方郡中郷村長。 静岡県田方郡中郷村(現三島市)に生まれる。早稲田大学に学ぶ。 静岡県大場郵便局長、中郷村会議員、同村長、静岡県会議員、三島市選挙管理委員長を歴任。ほか、興亜化学興業取締役を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では静岡県第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は、翼賛会政調逓信、農林兼務委員を歴任した。 戦後、公職追放となった。
野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月2… 野村 伝四(のむら でんし、1880年(明治13年)10月20日 - 1948年(昭和23年)7月26日)は、日本の英文学者、方言学研究者、民俗学者、教育者。 1880年(明治13年)、鹿児島県肝属郡高山町(現・肝付町)で生まれた。父伝之助は漢学者で槍の名人、文武両道に秀でていたというが、伝四が五歳の時、西南戦争の被弾がもとで没した。1900年(明治33年)、鹿児島県中学造士館卒業、一級上に橋口五葉がいた。1903年(明治36年)7月に第一高等学校卒業し同年9月、東京帝国大学英文学科に入学、1906年(明治39年)7月卒業。同級に中川芳太郎、森田草平、栗原古城らがいた。3年先輩に皆川正禧と野間真綱がおり、野間の熊本五高時代の1年先輩に寺田寅彦がいた。
高木 尚右(たかぎ しょうすけ、1880年(明治13年)10… 高木 尚右(たかぎ しょうすけ、1880年(明治13年)10月17日 - 1958年(昭和33年)5月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 山口県出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。のち東京帝国大学工科大学機械工学科卒業。 1924年(大正13年)12月に陸軍工兵大佐・工兵第20大隊長、1927年(昭和2年)7月に陸軍技術本部附、1930年(昭和5年)8月に陸軍少将・舞鶴要塞司令官を経て、1931年(昭和6年)8月1日に待命、同月29日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 19… 横濱 勉(よこはま つとむ、1880年10月15日 - 1960年12月23日)は、日本の建築家。旧第九十銀行本店(国の重要文化財)などの設計で知られる。盛岡市出身。
山本 勝次(やまもと かつじ、1880年(明治13年)10月… 山本 勝次(やまもと かつじ、1880年(明治13年)10月12日 - 1928年(昭和3年)1月10日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 山本庄次郎の二男として静岡県浜名郡白須賀宿伝馬街(白須賀町、湖西町を経て現湖西市)に生まれる。小学校を卒業後、敷知郡新所村(浜名郡新所村、湖西町を経て現湖西市)の湖西高等小学校から浜松中学校を経て、1900年(明治33年)東京専門学校政治経済学科を卒業する。浜名郡会議員、白須賀町会議員、同町長、静岡県会議員、浜名郡農会長、県農会、県蚕業組合、県畜産組合の役員などを歴任した。1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第9区から憲政会所属で出馬し当選したが、任期満了を待たずして死去した。
伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 -… 伊原 五郎兵衛(いはら ごろうべい、1880年10月8日 - 1952年4月3日)は、長野県飯田市出身の実業家・鉄道経営者。
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉1… 甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉10月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月20日)は、日本の華族(伯爵)。甘露寺家第35代当主。東宮侍従、侍従、侍従次長、明治神宮宮司を歴任した。官位は従二位勲一等。 1880年(明治23年)、甘露寺義長の長男として生まれる。母は子爵勘解由小路資生の四女・立子(たつこ)。 学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。 1910年(明治43年)12月、東宮侍従に任じられ、大正天皇践祚の後も東宮侍従として裕仁親王(のちの昭和天皇)に仕えた。
上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月… 上田 万平(うえだ まんぺい、1880年(明治13年)10月4日 - 1935年(昭和10年)7月8日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 熊本県天草郡高浜村(現天草市)に上田稲穂の長男として生まれ、上田松彦の養子となる。江戸時代中期から後期に同村の名主を務め、国学者や陶芸家として活動した上田宜珍は先祖にあたる。第五高等学校を卒業。1906年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、北海道庁事務官、香川県事務官・警察部長、農商務参事官、同書記官、静岡県内務部長、京都府内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1921年5月、岐阜県知事に就任。
建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年〈明治13年〉10… 建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年〈明治13年〉10月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月9日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等功四級。 新潟県出身。陸士13期、陸大21期。日露戦争時に騎兵科士官として奉天会戦の勝利に貢献する。参謀本部第二部長、参謀本部第一部長、第10師団長、第4師団長を経て、二・二六事件後に予備役編入され、松岡洋右外相の下で更迭された東郷茂徳に代わり駐ソビエト連邦大使に就任した。宇垣一成の側近であり、三月事件にも参加している。 現在の新潟県新潟市で地方官吏・野崎美孝の三男として生まれ、同地方官吏・建川周平の養嗣子となる。高田中学校を経て旧制新潟中学校卒。
久村 清太(くむら せいた、1880年(明治13年)10月3… 久村 清太(くむら せいた、1880年(明治13年)10月3日 - 1951年(昭和26年)9月1日)は、日本の実業家、科学技術者である。帝人の創業者の一人として知られる。 山形県酒田市に生まれる。父の名は金蔵で、名匠といわれた表具師だった。琢成小学校から旧制荘内中学、旧制二高を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する。在学中に太陽レザー製造所でヴィスコースのレザークロスの試作研究にあたり、1907年(明治40年)につや消しレザーの特許取得やヴィスコース製造法の開発に専念するため中退した。その後はその出資によって、東京レザー合資会社の設立に携わる。
小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日… 小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日 - 1956年(昭和31年)10月13日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員。 大分県大分郡、のちの南庄内村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で、小野同雲の二男として生まれる。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1905年(明治38年)早稲田大学法科を卒業した。 神奈川県の依頼で満州の利源調査委員に就任し、絹、綿の調査を実施し、そのことがきっかけで1907年(明治40年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し、本社課長を務めた。ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)の債務整理で実績を上げ、同社常務取締役、古河鉱業重役、関西硫酸監査役などを務めた。
久野 尊資(くの たかすけ / たかし、1880年(明治13… 久野 尊資(くの たかすけ / たかし、1880年(明治13年)10月2日 - 1939年(昭和14年)2月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県知多郡加木屋村長、同郡横須賀町長。 愛知県知多郡加木屋村(横須賀町を経て現東海市加木屋町)で、久野浅右衛門の長男として生まれる。1890年(明治23年)愛知県尋常師範学校(のち愛知第一師範学校)を卒業した。その後、教員となり加木屋小学校長を務めて退職。1905年(明治38年)家督を相続し農業を営む。 加木屋村長、横須賀町会議員、同町長、知多郡会議員、愛知県会議員、同参事会員、同議長などを務めた。1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙で愛知県第2区から立憲民政党公認で出馬して当選し、その後、第一控室会に所属して衆議院議員に1期在任した。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、明治13年(1880年)10… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、明治13年(1880年)10月 – 没年不明)は、日本の実業家、政治家。元境商工会会頭、岡田汽船・岡田物産・境港合同運送各(株)社長。元ネオセメント・合同汽船各(株)取締。元境町会議員、西伯郡会議員。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。海運業。幼名泰助。 岡田商店の元代表取締役会長岡田洲二の父。 岡田庄作の二男。前名泰助を改め襲名する。 境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした功績は特筆すべきものがあった。 市内光祐寺西の墓地に眠る。その墓碑に元町長足立正による墓誌銘が刻まれている。
上田 弥兵衛(うえだ やへえ、1880年9月28日 - 19… 上田 弥兵衛(うえだ やへえ、1880年9月28日 - 1950年9月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県川辺郡杭瀬村(小田村字杭瀬を経て現尼崎市)出身。大阪高等商業学校卒。米穀商を営み、日露戦争に参加、陸軍二等主計となる。大阪商業会議所特別議員、大阪穀物商同業組合長、大日本木管、網島土地、大日本石油鉱業、南洋護謨拓殖各(株)社長、大阪堂島米穀取引所、東京米穀会専任幹事、日本倉庫(株)取締役、日本米穀(株)理事となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において大阪市から無所属で立候補して当選する。1920年の第14回衆議院議員総選挙では大阪3区から無所属で立候補して当選する。
高橋 熊次郎(たかはし くまじろう、1880年(明治13年)… 高橋 熊次郎(たかはし くまじろう、1880年(明治13年)9月24日 - 1957年(昭和32年)11月13日)は、日本の政治家。衆議院議員。初代上山市長。 福島県信夫郡瀬ノ上村(現・福島市瀬上町)に、醤油醸造業の宍戸家に生まれる。1903年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、セントルイスのブライアント・ストラットン商業大学に学ぶ。1906年に帰国し、山形県南村山郡上山十日町高橋家に婿入りする。 山形商業銀行、山形自由新聞社各取締役、上山電気社長を務める。 1914年10月、上山町の西北部山麓地帯にある金井村黒沢の部落林約7町歩を買収、さらに隣接する上山町三千刈の民有地約8町歩を買収して果樹園、畜産、酪農の農園を造成した。
横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年… 横田 郷助(よこた ごうすけ、旧字体: 橫田鄕助、1880年(明治13年)9月23日 - 1931年(昭和6年)10月11日)は、内務官僚、南洋庁長官。 山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に横田稲稔の長男として生まれる。旧制山口高等学校卒業を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学を卒業し、神奈川県属に任じられた。同年11月に高等文官試験に合格し、翌年から樺太民政署事務官を務めた。1909年(明治41年)に徳島県事務官となり、群馬県事務官を経て、1912年(大正元年)に群馬県内務部長に就任した。1915年(大正4年)からは三重県内務部長となり、1918年(大正7年)には賞勲局書記官に転じた。
井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月… 井上 柳梧(いのうえ りゅうご、1880年(明治13年)9月21日 - 1962年(昭和37年)3月6日)は、日本の蚕糸学者、政治家。上田蚕糸専門学校第2代校長、上田市長。農学博士。勲二等旭日重光章。 東京府本郷区駒込千駄木町(現東京都文京区)で、官僚・井上廉の息子として生まれた。1893年(明治26年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。1898年(明治31年)高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。官界を志していたが科学分野への興味がまさり 東京帝国大学農科大学に進み農芸化学を専攻。1908年(明治41年)7月に卒業して大学院に進み、1911年(明治44年)蚕糸研究のためフランス、ドイツ帝国に留学。
大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月2… 大山 郁夫(おおやま いくお、1880年(明治13年)9月20日 - 1955年(昭和30年)11月30日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)の医者・福本剛策の次男として生まれ、17歳の時に神戸の米穀商・大山晨一郎の養子となり大山姓となる。東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業。シカゴ大学およびミュンヘン大学への留学を経て1914年(大正3年)に早稲田大学教授となり、政治学を講じた。やがて大山を含めた「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授連は早大当局に対して様々な改革要求を突きつけることになる。
竹田 省(たけだ しょう、1880年〈明治13年〉9月19日… 竹田 省(たけだ しょう、1880年〈明治13年〉9月19日 - 1954年〈昭和29年〉2月26日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1917年)。京都大学名誉教授。関西大学第15代学長(事務取扱)。弟子に大隅健一郎、大森忠夫、大橋光雄など。 松本烝治とともに、日本の商法学を確立した研究者と評価される。特に手形法での業績は大きく(人的抗弁と物的抗弁の区別など)、竹田の著書や論文により手形法に関する問題は出尽くしたとされる。 京都帝国大学を退官後には我が国の法学界において初めての一つの大学に依らない法学専門雑誌である民商法雑誌を末川博とともに創刊。竹田は以前より大学の機関雑誌しか法律雑誌がないことを遺憾とし、ドイツのゴールドシュミットによる「商法破産法雑誌」に範を取り「民商法雑誌」とした。
安倍 季雄(あべ すえお、1880年9月7日 - 1962年… 安倍 季雄(あべ すえお、1880年9月7日 - 1962年12月19日)は、日本の童話作家。号は村羊。 山形県出身。函館中学校(現北海道函館中部高等学校)卒。 1908年時事新報社に入社、『少年』『少女』の編集主幹となりみずからも執筆する。1929年退社し、東京中央放送局『コドモ・テキスト』編集顧問となり、口演童話を開拓、大阪毎日新聞嘱託講師として全国各地に講演旅行する。1952年久留島武彦と全国童話人協会を設立し、のち2代委員長となる。
青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月… 青木 知四郎(あおき ちしろう、明治13年(1880年)9月7日 - 昭和50年(1975年)2月22日)は、衆議院議員(1期)、鉄道実業家。藍綬褒章受章者。 岐阜県羽島郡、後の上中島村(現羽島市)出身。明治41年(1908年)慶應義塾大学部法律科卒業。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙で岐阜県四区から選出され、立憲民政党に所属。加藤六蔵(愛知)、東郷実(鹿児島)、三橋四郎次(静岡)ら9名と共に農民党議員として知られた。 岐阜県会議員、同参事会員、岐阜県農会議員、同農事協会副会長、羽島郡農会会長、同農事協会長。岐阜製氷、日本絹布会社、濃飛農工銀行各監査役。竹鼻銀行、竹鼻鉄道取締役を経て赤坂通運社長などを歴任した。
山田 道兄(やまだ みちえ、1880年(明治13年)9月7日… 山田 道兄(やまだ みちえ、1880年(明治13年)9月7日 - 1936年(昭和11年)8月27日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 岐阜県武儀郡東武芸村(現在の関市)出身。早稲田大学政治経済科出身。扶桑新聞主筆、東京毎日新聞記者、読売新聞記者を経て、民友通信社を創設して社長を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。その間、濱口内閣で農林参与官を務めた。
吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 194… 吉江 喬松(よしえ たかまつ、1880年9月5日 - 1940年3月26日)は、フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授。号は孤雁。
加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9… 加藤 繁(かとう しげる/しげし、1880年〈明治13年〉9月3日 - 1946年〈昭和21年〉3月7日)は、明治から昭和前期にかけての東洋史学者。 1880年、島根県松江にて、旧松江藩士内田家の4男として生まれた。1歳のとき、同じ元松江藩士の加藤家の養子となった。松江中学時代に三宅雪嶺の支那(中国)研究論に惹かれて東洋史を志した。国民英学会を経て、22歳で東京帝国大学史学科支那史学科選科に入学。在学中に起こった日露戦争に伴う召集による休学を挟み、1906年に25歳で卒業した。この間に内田銀蔵の日本土地経済史の研究と師である白鳥庫吉の影響を受けて、当時日本ではほとんど研究されていなかった中国経済史研究をテーマに定めた。
国光 五郎(くにみつ ごろう、1880年(明治13年)9月3… 国光 五郎(くにみつ ごろう、1880年(明治13年)9月3日 - 1951年(昭和26年)2月3日)は、日本の政治家、山口県多額納税者。衆議院議員、地主。族籍は山口県士族。 山口県阿武郡萩(現在の萩市)に石津潤一の五男として生まれ、国光佐一の養子となった。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。高等文官試験に合格し、三重県属、内務属、佐賀県事務官、広島県事務官を歴任した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。立憲政友会に所属。 その後、山口県会議員や岩田村長を務め、また農業を営み山口県農会長・帝国農会議員を務めた。 1935年(昭和10年)、衆議院で補欠当選を果たし、第19回衆議院議員総選挙・第20回衆議院議員総選挙でも再選された。
波多野 保二(はたの やすじ、1880年9月 - 1965年… 波多野 保二(はたの やすじ、1880年9月 - 1965年2月8日)は、日本の官僚。逓信官僚として、。位階は従三位、勲等は勲三等。レジオンドヌール勲章。前島密賞。台湾総督府専売局書記。総督府税務官。拓殖局書記官。逓信副事務官。戦時船舶管理局事務官。軍需局事務官。菅船局書記官。逓信書記官。高等海員審判所審判官。逓信省参事官。航空局次長。初代逓信局省航空局長。東京逓信局長。 新潟県の山本常吉の四男、山本保二として生まれ、後に衆議院議員の波多野傳三郎の養子となる。1906年(明治39年)、東京帝國大學法科大學を優秀な成績で卒業し、1908年(明治41年)に文官高等試驗に合格した。 1909年(明治42年)1月16日に臺灣總督府税務官に任命され官僚としてのキャリアをスタートした。
岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉… 岩本 勇次郎(いわもと ゆうじろう、1880年〈明治13年〉8月30日 - 1938年〈昭和13年〉6月24日)は、日本の裁判官、弁護士、大学教授。 1880年愛媛県生まれ。東京帝国大学卒業後、裁判官となり、東京控訴院部長判事などを歴任後、大審院判事に就任。また、弁護士としては、東京第二弁護士会会長などを務めた。 また、明治大学法学部教授を務めたほか、慶應義塾大学講師、早稲田大学講師、中央大学講師、東京大学野球連盟理事長などを務めた。
丹下 茂十郎(たんげ もじゅうろう、1880年(明治13年)… 丹下 茂十郎(たんげ もじゅうろう、1880年(明治13年)8月24日 - 1938年(昭和13年)2月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。 愛知県東春日井郡勝川町(現在の春日井市)に、丹下武左衛門の二男として生まれる。愛知県の農林学校を卒業後、東春日井郡の書記、ついで愛知県の技手を務めた。その後、判任官から高等官に昇任し、農商務省農務局事務官補を務めた。さらに滋賀県産業主事、理事官に任じられ、勧業課長、蚕糸課長、商品陳列所所長などを歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、廣田内閣で大蔵参与官を務めた。
塩原 秩峰(しおはら ちつみね、1880年(明治13年)8月… 塩原 秩峰(しおはら ちつみね、1880年(明治13年)8月19日 - 1937年(昭和12年)3月24日)は、大正時代から昭和初期に活躍した日本の演歌師、歌手。栃木県那須塩原市出身。 初期の京都オリエントで書生節を多数吹き込み、「レコード流行歌」の普及に大きな功績を持った鳥取春陽に次ぐ、人気演歌師である。やや低めの歌声が特徴。代表曲には『平和節(ジョーヂァソング)』、『金色夜叉』、『春爛漫の花の色』などがある。京都オリエントがニッポノホン大阪支社レーベルになってからは新録音発売は途切れたが、1934年(昭和9年)、大阪ニットーで吹き込んだ『兵隊ぶし』で再びヒットを放つ。片面は美ち奴とデュエットの『水兵ぶし』で、塩原はこの2曲を最後に引退する。
畑 歓三(はた かんぞう、1880年8月16日 - 1957… 畑 歓三(はた かんぞう、1880年8月16日 - 1957年1月31日)は、日本の教育者。関西学院文学部教授などを歴任した。 1880年8月16日に、香川県丸亀市で生まれる。愛媛県松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1897年に関西学院普通学部へ編入する。1899年に同校を卒業し、1900年に同志社大学へ進学するも、退学。1902年に、文部省中等学校教員英語科試験合格。同年、早稲田大学に入学し、1905年卒業。1906年から1912年まで、私立麻布中学英語科教員を務め、1913年にカリフォルニア州アラメダ市日本人小学校長。また、同年、カリフォルニア大学大学院に入学し、美学・ギリシャ哲学を専攻する。
植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年〈明治13… 植竹 龍三郎(うえたけ りゅうざぶろう、1880年〈明治13年〉8月15日 - 1942年〈昭和17年〉7月20日)は、日本の実業家、政治家、僧侶(僧名は龍山)。衆議院議員(栃木県第1区選出、立憲政友会) 栃木県那須郡、のちの川西町(黒羽町を経て現大田原市)に生まれた。先代植竹三右衛門の二男、植竹三右衛門の弟。1901年(明治34年)高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。1903年、あるいは1911年、分かれて一家を創立した。朝鮮清津港において対支露貿易業を営み、同地日本人会議長、並びに商業会議所会頭に挙げられた。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に栃木県第1区(宇都宮市)から立候補して当選。
櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月… 櫻内 幸雄(さくらうち ゆきお、1880年〈明治13年〉8月14日 - 1947年〈昭和22年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。商工大臣、農林大臣、大蔵大臣など歴任。 元中国電力会長櫻内乾雄、元衆議院議長櫻内義雄の父。福田康夫元首相の妻貴代子や政治家の太田誠一は孫。 旧雲州広瀬藩士・櫻内和一郎の長男。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。岐阜新聞、愛知新聞などで記者を務めていたが、実業家の雨宮敬次郎に認められ、実業界に入り、大日本軌道、日本高架鉄道の設立に参画、1907年(明治40年)に東洋競馬会を起こして理事。 また銚子、石巻、埼玉、逗子などで電燈会社を創業、1910年(明治43年)に日本電燈株式会社を設立し取締役。
杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 … 杉 政人(すぎ まさと、明治13年(1880年)8月13日 - 昭和26年(1951年)11月19日)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍中将。岡山県高梁市出身。渋谷隆太郎、上田宗重らと同様に機関科出身者として最初の海軍大将候補であった。退官後は、日本製鋼所の社長を務めた。 明治13年(1880年)に岡山県上房郡高梁町の備中松山藩士杉忠三郎と、その妻で由との間に次男として生まれる。地元の高梁男子校高等科を卒業し、創立第一回の県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)の二年生の編入試験に合格。中学時代に母の由が死去する不運に見舞われる。しかし、母の葬式では、一切涙を見せることはなかった。 卒業後、単身で当時、神奈川県横須賀にあったいわゆる「海軍三校」の一つ海軍機関学校へ入学(他二つは、海軍兵学校および海軍経理学校)。
百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 19… 百木 三郎(ももき さぶろう、1880年8月12日 - 1940年12月3日)は、日本の技術者、実業家。東洋陶器(現TOTO)取締役社長を務めた。 窯業家河原徳立の三男として東京深川に生まれる。順天求合社(現順天高等学校)を経て、1899年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、農商務省海外窯業練習生としてアメリカ合衆国に留学し、1903年コーネル大学大学院修了。父の親友だった大倉孫兵衛に雇われ、1904年の日本陶器設立時に同社入社。 日本陶器では解任された飛鳥井孝太郎の後任として技師長となり、同窓の西山貞を招聘するなどして衛生陶器の開発にあたり、"sanitary ware"の訳語として「衛生陶器」の語を考案するなどもした。
高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ、1880年(明治13年)8月… 高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ、1880年(明治13年)8月11日 - 1958年(昭和33年)4月9日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 岡山県令・高崎五六の三男として生まれる。兄高崎安彦の死去に伴い、1911年(明治44年)1月31日、男爵を襲爵した。 学習院を経て、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を修了した。1906年、三井物産に入社し米国ニューヨーク支店勤務となる。その後、日本製鋼所社員に転じた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。その他、政府貸付金処理委員会委員、財政収支調整調査会委員を務めた。
山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - … 山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - 1967年10月30日)は、日本の洋画家。佐賀市精町出身。 東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。大学卒業後、帰郷し制作と後進の指導にあたる。久米桂一郎、岡田三郎助、北島浅一、御厨純一らと佐賀美術協会を創設。同協会会長、佐賀師範学校教諭を務めた。
櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880… 櫻井 兵五郎(桜井 兵五郎、さくらい ひょうごろう、1880年(明治13年)8月8日 - 1951年(昭和26年)2月11日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、国務大臣、石川県会議員。幼名・正清。 石川県鳳至郡柳田村(現:鳳珠郡能登町)で桜井源次の長男として生まれる。1911年3月、早稲田大学政治経済学科を卒業。1915年4月、日本タイプライター株式会社(現キヤノンセミコンダクターエクィップメント)を創立し常務となる。その他、北陸毎日新聞社長・副社長、北日本耐火煉瓦社長、日本観光社長などを務めた。 1913年7月から1915年4月まで石川県会議員となる。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙に石川県郡部区から立憲同志会に属して出馬し当選。
後藤 和佐二(ごとう わさじ、1880年(明治13年)8月6… 後藤 和佐二(ごとう わさじ、1880年(明治13年)8月6日 - 没年不詳)は、日本の検事、裁判官。 長野県上水内郡三輪村(現在の長野市)出身。水品安吉の二男として生まれ、後藤省三の養子となった。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1907年(明治40年)、陸軍三等主計。東京地方裁判所予備判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事、横浜地方裁判所部長、東京控訴院判事、静岡地方裁判所部長を歴任した。 広島控訴院部長を務めた後、台湾総督府法院判官に転じ、高等法院上告部判官、高等法院検察官長、高等法院長を務めた。 1933年(昭和8年)に退官した後は、公証人となった。
宮崎 通之助(みやざき みちのすけ、1880年(明治13年)… 宮崎 通之助(みやざき みちのすけ、1880年(明治13年)8月6日 - 1964年(昭和39年)9月17日)は、日本の内務・警察官僚。官選愛媛県知事、静岡市長。 後の静岡県有渡郡大里村(現静岡市)出身。宮崎政吉の長男として生まれる。静岡県静岡尋常中学校に学び、第二高等学校を卒業。1906年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。逓信省に入省。1907年、内務省に転じ京都府属となる。 以後、福島県事務官、島根県事務官・警察部長、宮城県警察部長、北海道庁警察部長、警視庁警務部長などを歴任。 1921年6月、愛媛県知事に就任。県会多数派の政友会の後援で県政を運営したが、中央の政友会が分裂した影響で1924年6月に休職となり、1926年6月23日、休職満期となり退官。
二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880… 二代目 河原崎 権十郎(かわらざき ごんじゅうろう、1880年(明治13年)8月6日 - 1955年(昭和30年)1月11日)は、歌舞伎役者。本名は長谷 幸太郎。屋号は山崎屋。俳名に紫扇。 東京・日本橋の芝居茶屋の子として生まれる。九代目市川團十郎門人となり、明治18年(1885年)市川薫の名で新富座の『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の菅秀才で初舞台。その後十一代目片岡仁左衛門門人となり下阪。明治38年(1905年)大阪弁天座で二代目市川権三郎を襲名する。 大阪での修業ののち帰京、大正8年(1919年)4月歌舞伎座で師匠の九代目團十郎の前名をおそって二代目河原崎権十郎を襲名。浅草の宮戸座、常盤座などの小芝居で活躍、『源平布引滝・実盛物語』の実盛や『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)の辰五郎など、十五代目市村羽左衛門の当たり役を好んで演じ、しかも容貌や芸風までもが似ていたので「浅草の羽左衛門」と呼ばれ人気があった。
金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月… 金光 攝胤(こんこう せつたね、明治13年(1880年)8月5日 - 昭和38年(1963年)4月13日)は、金光教の三代金光様。 明治13年8月5日今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光宅吉(いえよし)喜代(きよ)の長男。父金光宅吉の死にあたり、明治26年12月29日から、広前の取次の座を任され、金光教の信奉者からは三代金光様と呼ばれた。 明治31年、金光式子(金光萩雄の長女)を妻に迎えるも、先立たれ、明治40年佐藤キクヨ(佐藤範雄の長女)を妻に迎え、6男3女(金光鑑太郎(かがみたろう)、金光実司之助(みしのすけ)、金光眞整(しんせい)、佐藤祐子(ゆうこ)、金光護佑(ごゆう)、和泉賀代子(かよこ)、竹部理貴代(りきよ)、金光整雄(せいお)、秋山佑一(ゆういち)の9人)をもうけた。
宮本 半蔵(みやもと はんぞう、1880年〈明治13年〉8月… 宮本 半蔵(みやもと はんぞう、1880年〈明治13年〉8月5日 - 1966年〈昭和41年〉5月17日)は、日本の柔術家である。 1880年8月5日(明治13年)福島県福島市吉井田に生まれた。 元々は丹治半蔵と言う名前であったが、宮本家の婿養子となったことで宮本姓となった。 宮本半蔵は福島県で天神真楊流を学んでいた。1895年(明治28年)神田錦町に天神真楊流の道場「柳真館」を開いていた吉田千春を紹介されて15歳で上京した。 紹介されての上京だったが、既に吉田千春の書生は津田繁三郎が務めていた状況だったので、人形町の竹岡宇三郎が世話をして神田向柳原に天神真楊流道場を開いていた戸澤徳三郎の書生となった。
岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月… 岡上 彦三(おかがみ ひこぞう、1880年(明治13年)8月3日 - 没年不明)は、日本の政治家。兵庫県飾磨市(現・姫路市)長(1期)。 兵庫県飾東郡飾万津(のち飾磨津→飾磨町→飾磨市、現・姫路市)大浜に生まれる。旧制兵庫県立姫路中学校(現・兵庫県立姫路西高等学校)卒業。陸軍に入り、中尉で退役した。 1912年(明治45年)飾磨郡会議員に当選。飾磨町会議員を経て、1931年(昭和6年)飾磨町長に就任。1940年(昭和15年)4月飾磨市の市制施行により、初代市長となったが、4ヶ月で退任した。 このほか、飾磨運輸株式会社社長を務めた。