儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11… 儀我 誠也(ぎが せいや、1888年〈明治21年〉11月11日 - 1938年〈昭和13年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)10月、第16師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。1923年(大正12年)12月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。
石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年… 石濱 純太郎(いしはま じゅんたろう、1888年〈明治21年〉11月10日 - 1968年〈昭和43年〉2月11日)は、日本の東洋史学者、関西大学名誉教授。石浜、石濱など、複数の漢字表記が見られるが、正式には「石濵」である。 1888年(明治21年)、大阪府で生まれた。堂島で製薬業を営んでいた石濵豊蔵の長男として生まれ、大阪市住吉区墨江二丁目に住んだ。1897年に漢学塾泊園書院(現・ 関西大学)へ10歳で入って、藤沢南岳の下で学んだ。大阪府立市岡中学校(現・大阪府立市岡高等学校)に進み、中学校では画家の小出楢重、作曲家の信時潔らと同級であった。 1908年、大学は東京へ出て、東京帝国大学文科大学支那文学科に入学。
西村 直(にしむら なおし、1888年11月10日 - 19… 西村 直(にしむら なおし、1888年11月10日 - 1982年2月25日)は、日本の実業家。化学磁器・工業用セラミックスメーカーの西村工業(現 ニッカトー)の創業者である。 1888年(明治21年)11月10日、実業家の西村勝三の五男として東京に生まれる。慶應義塾普通部卒業後、東京高等工業学校応用化学科に進学。校長の手島精一は、勝三とは旧知の間柄であったが、直の進学を見届けるように1907年に死去した。東京高等工業学校では、直は染料化学に強い関心を持つ。1909年に卒業。その頃には品川白煉瓦は業績不振の時期にあり、日本皮革も合併後の主導権争いのさなかにあった。直は、父の事業を世襲として継ぐより自らが関心を持つ染料化学を生かした事業を望み、東京瓦斯に入社した。
大井 伊助(おおい いすけ、前名・蒼生治、1888年(明治2… 大井 伊助(おおい いすけ、前名・蒼生治、1888年(明治21年)11月9日 - 没年不明)は、日本の資産家、家主、大阪府多額納税者。族籍は大阪府平民。 大阪府・先代伊助の長男。府立市岡中学卒業。1938年に家督を相続し、蒼生治を改め襲名する。貸家業を営む。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。紺綬褒章を賜る。趣味は読書、旅行。宗教は真宗。住所は大阪市大正区北泉尾町1丁目。
奥田 剛郎(おくだ たけろう、1888年(明治21年)11月… 奥田 剛郎(おくだ たけろう、1888年(明治21年)11月9日 - 1981年(昭和56年)3月24日)は、大正から昭和期の検察官、政治家、法学者、華族。貴族院男爵議員。 農商務省官僚・奥田義人の長男として生まれる。父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月1日、男爵を襲爵した。 1914年(大正2年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年、三菱造船に入社。1923年(大正12年)検事に任官し、新潟区裁判所、横浜地方裁判所兼区裁判所、浦和地方裁判所兼区裁判所、東京刑事地方裁判所、東京控訴院の各検事を歴任した。 1936年(昭和11年)3月14日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治2… 小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治21年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉5月31日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医、実業家、政治家。医学博士。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授、新潟県医師会副会長、越後天然ガス取締役、新津市議会第5代議長。趣味は楽焼の制作。 新潟県中蒲原郡吉沢村(現 五泉市吉沢)の機業家・酒井準治郎の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第四高等学校を卒業、1914年(大正3年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業。 1914年(大正3年)12月に京都帝国大学医科大学外科学教室助手に就任、1915年(大正4年)2月に退職、6月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室副手に就任、8月に助手に就任、1916年(大正5年)6月に退職、同月に小倉記念病院耳鼻咽喉科部長に就任、1917年(大正6年)12月に退職、1918年(大正7年)1月から京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室および解剖学教室で研究、9月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室助手に就任、11月に助教授に就任、1919年(大正8年)6月から新潟医学専門学校耳鼻咽喉科学教室講師を兼任したが翌7月に辞任、12月に長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授に就任、1922年(大正11年)4月に依願退官。
尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954… 尹 白南(いん はくなん、1888年11月7日 - 1954年9月29日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の俳優、脚本家、映画監督、小説家、ジャーナリスト、演劇演出家。本名は尹 教重。本貫は坡平尹氏。 李氏朝鮮忠清南道公州府出身。大韓帝国国費留学生として早稲田大学に入学したのち、東京高等商業学校(現一橋大学)に移り、同校を卒業した。日韓併合後毎日新報記者となり、のち俳優、映画製作などに携わるようになる。1930年に東亜日報に朝鮮初の大衆小説「大盜傳」を連載し人気を博す。1931年には劇芸術研究会を創立し新劇場運動の先駆者としての役割を果たした。1937年満州国に移住し、歴史小説を執筆。日本の降伏後帰国し、朝鮮映画建設本部本部長兼代表委員長に就任。
栗田 敏(くりた とし、1888年(明治21年)11月6日 … 栗田 敏(くりた とし、1888年(明治21年)11月6日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の公吏。東京市蒲田区長。 茨城県出身。1913年(大正2年)中央大学を卒業し、東京市に奉職する。文書課文書係長、本郷区会計課長、同税務課長兼戸籍兵事課長、同庶務課長、日本橋区庶務課長などを経て、1940年(昭和15年)12月、蒲田区長に就任し、1942年(昭和17年)9月まで務めた。
杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日… 杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日 - 1949年(昭和24年)4月2日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 愛媛県周桑郡三芳村(現在西条市)出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格して逓信書記官補となり、1916年(大正5年)には朝鮮銀行書記・勝田主計総裁秘書となった。寺内内閣が成立して、勝田が大蔵大臣に就任すると、引き続き秘書官となり、大蔵参事官も兼ねた。1924年(大正13年)に清浦内閣が成立して再び勝田が大蔵大臣となると、杉もまた秘書官となった。 同年、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
鈴木 ひでる(すずき ひでる、1888年〈明治21年〉11月… 鈴木 ひでる(すずき ひでる、1888年〈明治21年〉11月6日 - 1944年〈昭和19年〉12月27日)は、日本の化学者。日本の女性で初めて薬学博士となった人物である。愛知県碧海郡富士松村字逢見(現・刈谷市)に生まれ、日本女子大学校を卒業後に、母校の化学助手としての研究、日本女子大と東京帝国大学の薬学科での長年の研究を経て、揮発性有機オイルであるペリレンの研究により、薬学博士の学位を取得した。56歳で急逝するまで、教育と研究一筋の生涯を送り続けた。下の名は「秀」「秀留」との表記もある。 愛知県碧海郡富士松村字逢見で誕生した。家は塩問屋であったが、父親は向学心に富み、自身が勉学の機会を得られなかったことから、子供たちの修学に努めた。
宍戸 左行(ししど さこう、1888年11月5日 - 196… 宍戸 左行(ししど さこう、1888年11月5日 - 1969年2月3日)は日本の漫画家。本名は宍戸 嘉兵衛。 1888年、福島県に生まれる。旧制福島中学校(のちの福島県立福島高等学校)卒業。 1907年、絵の勉強のためアメリカ合衆国のシアトルに渡り、キャノン画塾で洋画を、通信教育で漫画の技術を学んだ。9年間のアメリカ滞在中、毎日のように映画を見たと回想しており、これがのちの漫画制作に活かされたとされる。 1923年に帰国。東京毎夕新聞社に入社し政治漫画を手掛けた。その後、東京日日新聞、やまと新聞にも寄稿。左行というペンネームは、アメリカからの帰国後に見た「左側通行」の立て札から。1926年、村山知義、柳瀬正夢らとともに「日本漫画家連盟」の結成に参画する。
植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年… 植松 七九郎(うえまつ しちくろう、1888年 <明治21年> 11月3日 - 1968年 <昭和43年> 5月9日)は、日本の精神医学者。位階は正四位。 長野県諏訪郡本郷村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1915年東京帝国大学医科大学卒業。同大学三浦内科、精神科に勤務。1918年渡米し、マサチューセッツ州立精神病院病理研究所員、ダンバース精神病院病理研究所員、ボストン精神病院病理研究所員、ハーバード大学医学部神経病理部講師。1923年論文「プルキンエ細胞樹枝突起と軸索における限局性腫脹について」で医学博士。慶應義塾大学医学部神経科講師。1925年同大学助教授、1926年同大学教授。
平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)… 平山 復二郎(ひらやま ふくじろう、1888年(明治21年)11月3日- 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の鉄道省官僚、土木工学者(工学博士)。鉄道省建設局長を最後に退官し、第44代土木学会会長や日本技術士会会長、パシフィックコンサルタンツ社長、ピーエス・コンクリート社長などを歴任。1957年の技術士法制定に奔走し、建設コンサルタント制度の確立に貢献。また、新幹線計画では幹線調査委員会委員としてその実現に貢献した。勲三等。墓地は谷中霊園[3]。
木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 197… 木島 義夫(きじま よしお、1888年11月2日 - 1979年12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。参議院議員(3期)。 千葉県出身。1914年、東京高等商業学校専攻部(現一橋大学)卒。卒業後は長柄村長、千葉県議を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙で千葉県から立候補して当選。翌1947年、公職追放となる(衆議院議員を1期務める)。追放解除後の1960年の参院補選で千葉県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。参議院議員を3期務めた。この間、参議院法務委員長、北海道開発庁政務次官などを歴任する。このほか千葉郊外自動車(のちの千葉中央バス)や東洋バスを設立。東洋交通、東洋観光、東洋バス、長平不動産の各社長も務めた。
麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21… 麦倉 俊三郎(むぎくら しゅんざぶろう、1888年(明治21年)11月1日 - 1969年(昭和44年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 栃木県出身。麦倉奉蔵の四男として生れる。宇都宮中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第65連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 1921年(大正10年)5月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第19師団参謀、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)などを経て、1927年(昭和2年)10月、歩兵少佐に昇進。1928年(昭和3年)12月、歩兵第61連隊大隊長となり、歩兵第27連隊付、第1師団参謀、陸軍歩兵学校教官などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し独立歩兵第11連隊長に就任した。
渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月… 渋沢 正雄(しぶさわ まさお、1888年〈明治21年〉11月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月10日)は、日本の実業家。子爵・渋沢栄一の三男。日満鉄鋼販売、石川島自動車製作所、富士製鋼各社長。東京石川島造船所専務取締役。日本製鐵常務取締役兼八幡製鐵所長。族籍は東京府平民。 渋沢栄一の三男で、渋沢篤二、渋沢武之助の弟、渋沢秀雄の兄。渋沢敬三、渋沢信雄、渋沢智雄の叔父。渋沢雅英と渋沢裕の大叔父。1906年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て1915年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。同年分家する。第一銀行に入り1917年、これを辞する。 渋沢貿易、富士製鋼、汽車製造、石川島造船所、石川島自動車、石川島飛行機、秩父鉄道、富士鋼材商会、日本鋼製建具、日本煉瓦製造、日本鋼管各会社の重役だったが1932年末、総ての関係会社を辞任し製鉄業に専念する。
青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳… 青木 敬輔(あおき けいすけ、1888年11月 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 青木輪之輔の長男として福岡県に生まれる。1908年福岡県立中学修猷館、1913年7月第五高等学校英語法律科を経て、1916年7月京都帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。 卒業後、司法官試補、予備検事となるが、1918年判事に転じ、徳島地方裁判所、和歌山地方裁判所、大阪地方裁判所、高知地方裁判所、神戸地方裁判所、再び大阪地方裁判所の判事を経て、1927年大阪控訴院(現・大阪高等裁判所)判事に就任する。その後、奈良地方裁判所部長判事、神戸地方裁判所部長判事を歴任し、1940年2月若松区裁判所監督判事兼福島地方裁判所若松支部部長となる。
徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後… 徳重 伍介(とくしげ ごすけ、1888年11月 - 終戦直後没)は、日本、満洲国の教育者。 徳重義一の五男として、福岡県に生まれる。1906年福岡県立中学修猷館を経て、1912年東京高等商業学校専攻部貿易科を卒業。 1913年大阪市立大阪甲種商業学校教諭兼大阪高等商業学校講師となり、山口高等商業学校教授を経て、満洲国立大学哈爾濱学院教授に就任。1942年12月大連高等商業学校校長に就任。
福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年… 福島 茂富(ふくしま しげとみ、1888年11月~1950年2月15日)は山梨県出身の経営者。精養軒社長を務めた。 明治21年(1888年)、父・須田五郎(耕)と母とら(登良)の二男として山梨県東八代郡一宮村で生まれた。須田家は当時でも600年以上続く旧家であり、代々郡中惣代や里正を務めたという。母とらは根津財閥創始者であった根津嘉一郎の姉で、茂富は根津にとって甥であった。 山梨で遊興にふけったのち、24歳で故郷を離れ大磯にあった根津の別荘に住み込んだ。これは茂富の放蕩をいさめるためとも言われ、根津による監禁という表現すら見られる。ここで庭の手入れなど家の下働きに1年ほど従事したのち、1913年(大正2年)に根津が経営するカブトビール(のちの日本麦酒鉱泉)に入社した。
物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月2… 物集 和子(もずめ かずこ、1888年(明治21年)10月26日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の小説家、掃苔家。藤岡 一枝とも。本名は藤浪和。 国学者・物集高見の娘で、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。実兄の物集高量は国文学者、姉は同じく小説家の大倉燁子(本名は芳子)。義兄の藤浪鑑は病理学者(京都帝国大学教授)。また、親族に女優の早瀬久美がいる(姉妹の物集千代子の孫)。 東京府東京市本郷区駒込千駄木林町(現在の東京都文京区千駄木)出身、跡見高等女学校卒業。 文学を志して姉の芳子とともに二葉亭四迷に弟子入りしたが、1908年(明治41年)、二葉亭は朝日新聞社特派員としてロシアに赴任することになったので、同社の同僚であった夏目漱石に物集姉妹の世話を依頼した。
山本 惣治(やまもと そうじ、1888年(明治21年)10月… 山本 惣治(やまもと そうじ、1888年(明治21年)10月25日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の実業家。富士自動車、メトロポリタンエージェンシーズ、大日本機械工業、山本発条分岐、富士不動産、富士倉庫の経営者や、京浜不動産、日新商事、大同メタル鉱業の役員を歴任した。 経団連理事、関東経営者協会委員、日本工業倶楽部、交詢社会員。長男の岳父に外務官僚で事業家の日高信六郎。 1888年、新潟県高田市呉服町で骨董商「山静堂」を営む山本家の養子仙介の二男として生まれた。兄弟姉妹は男6名、女3名。 1911年(明治45年)に東京外国語学校卒業して、久保田鐵工所に就職し、鮎川義介に恩顧を受ける。
金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月2… 金山 らく(かなやま らく、1888年(明治21年)10月22日 - 1977年(昭和52年)1月7日)は、帝国大学で学んだ日本初の女子大学生の一人、日本初の女性理学士の一人として知られる数学者。東京女子高等師範学校教授。夫は画家の金山平三で、後半生は夫の画業を支えた。旧姓名の牧田 らく(まきた らく)で言及されることも多い。 京都府京都市中京区に、呉服商・牧田久吉の次女として生まれる。京都府高等女学校(現:京都府立鴨沂高等学校の前身)在学中に数学への関心を深める。らくの父は「女に学問などいらぬ」という考えの持ち主で、女子高等師範学校への進学にも反対していたが、高等女学校時代の恩師がらくの父を説得し、進学が許されたという。
馬場 義也(ばば よしや、1888年(明治21年)10月22… 馬場 義也(ばば よしや、1888年(明治21年)10月22日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。神奈川県平塚市長。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。1916年(大正5年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。福井県属、同今立郡長、北海道庁理事官、同空知支庁長を歴任した。関東大震災後、帝都復興院事務官となり、のち復興局事務官、同地方事務官となった。 1927年(昭和2年)、山形県書記官・警察部長に転じ、さらに岐阜県書記官・警察部長、北海道庁部長・警察部長を務めた。 退官後の1933年(昭和8年)に平塚市長に選出された。 1935年(昭和10年)に退任した後は、大同映画株式会社社長を務めた。
前田 若尾(まえだ わかお、1888年10月21日 - 19… 前田 若尾(まえだ わかお、1888年10月21日 - 1947年10月6日)は、女子教育者。平塚裁縫女学校(現:洗足学園音楽大学)創立者。大日本婦人会本部理事、婦人同志会幹事長、日本婦人団体連盟副会長、少年保護婦人協会理事、文部省刷新委員会委員。 高知県土佐郡潮江村(現・高知市)の高知藩士の士族の家に生まれる。1917年東京裁縫女学校卒業。錦秋女学校の教員を務めた後、青山女学院の教員となる。エディンバラ宣教会議が女子教育機関設立を決議し、東京女子大学を設立したため、青山女学院が廃止される。恵まれない下層の女工に奉仕するため、日本絹撚会社に就職するも関東大震災で壊滅。 1923年10月3日に裁縫塾を開き、1924年5月3日平塚裁縫女学校(現:洗足学園音楽大学)の設立認可。
田辺 定義(たなべ さだよし、明治21年(1888年)10月… 田辺 定義(たなべ さだよし、明治21年(1888年)10月20日 - 平成12年(2000年)1月18日、旧字体: 田邊 定義)は、男性長寿日本一だった現在の鳥取県日野郡多里村(現在の日南町)出身の男性。 広島県の高等小学校卒業後、郵便局に勤め、のちに公務員となる。その後、東京市職員、東京市政調査会常務理事、公明選挙連盟理事、明るい選挙推進協会顧問などを歴任した。 1999年4月29日より日本人男性の国内最高齢者(男性長寿日本一)となる。 2000年1月18日、神奈川県川崎市で111歳と90日で死去。新聞など大手メディアで訃報の報道はされなかった。墓所は多磨霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
福島 繁三(ふくしま しげぞう、1888年(明治21年)10… 福島 繁三(ふくしま しげぞう、1888年(明治21年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月29日)は、日本の内務・警察官僚。官選埼玉県知事。旧姓・阿久津。 栃木県大田原町(現大田原市)出身。阿久津脩斎の二男として生まれ、福島ソノと結婚して改姓。第一高等学校を卒業。1913年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1915年、内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、宮城県加美郡長、鹿児島県学務部長、長野県学務部長、京都府書記官・学務部長、滋賀県書記官・警察部長、香川県書記官・警察部長、青森県内務部長、秋田県書記官・内務部長などを歴任。
沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月1… 沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月17日 - 1970年12月8日)は、日本の外交官。外務次官後、駐フランス特命全権大使・初代ビルマ特命全権大使を経て、再び外務次官。初代国連大使、世界経済調査会議長。 旧制鳥取県第一中学校から旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業した。外交官試験に首席合格し外務省入省。外務省きってのフランス語・英語の堪能者で、戦前は宮内省御用掛を兼務し、昭和天皇の通訳を務め、戦後も元首等との通訳にあたった。また、財団法人滝乃川学園理事長(第4代)などもつとめた。妻の美喜(孤児院エリザベス・サンダースホーム創設者)は、三菱合資会社社長・岩崎家当主男爵岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘。
鈴鹿 栄(すずか さかえ、1888年10月17日 - 195… 鈴鹿 栄(すずか さかえ、1888年10月17日 - 1957年9月1日)は、軟式野球に用いるボールを発明した人物である。
中村 貫之(なかむら かんし、1888年(明治21年)10月… 中村 貫之(なかむら かんし、1888年(明治21年)10月17日 - 1983年(昭和58年)12月31日)は、大正から昭和期の銀行家、華族。男爵、貴族院議員。孫の橋本久美子は第82・83代内閣総理大臣橋本龍太郎の妻。政治家の橋本岳は曾孫。 陸軍軍人・中村雄次郎の二男として生まれる。学習院中等科から高等科で里見弴と親しく、共に回覧雑誌『麦』を刊行、『白樺』同人であった[要出典]。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。父の死去に伴い1928年(昭和3年)11月1日、家督を相続し男爵を襲爵した。 1914年(大正3年)、横浜正金銀行に入行する。カルカッタ支店副支配人、カラチ出張所副主任を経て蘭貢支店支配人、東京支店副支配人、ラングーン支店支配人、シアトル支店支配人、本店支配人などを歴任。
二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1… 二見 甚郷(ふたみ じんごう、1888年10月16日 - 1968年11月17日)は、日本の政治家、外交官。宮崎県知事(公選第3代)。宮崎市長(第9代)。衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。 宮崎県東諸県郡高岡町(現宮崎市)出身。宮崎県立宮崎中学校、第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、1915年東京帝国大学法学部政治学科卒。同年外交官及領事官試験に合格し外務省に入省、1923年退官。1928年に衆議院議員に当選。1933年には在郷軍人の国家主義団体である明倫会を結成し宣伝部長に就任。1941年駐タイ公使を経て、1945年宮崎市長となる。1947年の公選制となっての最初の県知事選では、得票数1位となるも法定得票数に届かず、安中忠雄との決選投票となるが、投票直前に公職追放された。
古屋 菊男(ふるや きくお、1888年(明治21年)10月1… 古屋 菊男(ふるや きくお、1888年(明治21年)10月15日 - 1980年(昭和55年)2月1日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。 山梨県出身。1912年(大正元年)金沢医学専門学校を卒業し、その後、京都医科大学大学院で学んだ。 神戸掖済会病院副院長を務めた後に開業。その後、浅間村国民健康保険診療所長、結核予防会山梨県支部長、山梨診療所長を歴任した。 政界では、山梨県会議員、同副議長、山梨県公安委員会委員を務めた。1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から改進党所属で出馬して当選し、その後日本民主党に所属して衆議院議員を1期務めた。この間、改進党中央常任委員、社会保障制度調査特別副委員長など務めた。
吉田 徳次郎(よしだ とくじろう、1888年(明治21年)1… 吉田 徳次郎(よしだ とくじろう、1888年(明治21年)10月15日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、大正から昭和時代の土木工学者。 兵庫県に生まれる。1912年(明治45年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、九州帝国大学工科大学講師となり、1914年(大正3年)助教授、1924年(大正13年)教授に進み、1938年(昭和13年)まで構造力学、鉄筋コンクリート工学を担当した。同年、東京帝国大学教授に転じ、1949年(昭和24年)に定年退官するまでコンクリート工学、鉄筋コンクリート工学の講義を担当した。この間、イリノイ大学に留学し、アーサー・ニューウェル・タルボット(英語版)に師事し、コンクリートの実験的研究に従事して研鑽を積んだ。
中村 継男(なかむら つぐお、1888年(明治21年)10月… 中村 継男(なかむら つぐお、1888年(明治21年)10月15日 - 1946年(昭和21年))は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)、大蔵官僚。 熊本県熊本市に中村午五郎の長男として生まれる。1912年(明治45年)に長崎高等商業学校(現在の長崎大学経済学部)を卒業後、一年志願兵となり、陸軍三等主計として退役した。熊本税務監督局に属官として勤務し、認められて1917年(大正6年)に東京税務監督局事務官に昇進した。1923年(大正12年)、官を辞して税務懇話会を組織し、納税思想の普及と税務に関する官民協調に尽力した。後の1938年(昭和13年)には税務懇話会は社団法人化された。 1925年(大正14年)、滝野川町の町会議員に当選した。
木村 博(きむら ひろし、旧姓:今井、1888年〈明治21年… 木村 博(きむら ひろし、旧姓:今井、1888年〈明治21年〉10月14日 - 1952年〈昭和27年〉3月13日)は、日本の外科学者、外科医。医学博士。慶應義塾大学医学部外科学教室教授。 新潟県中蒲原郡新津村一之町(現 新潟市秋葉区新津本町4丁目)で全天病院を開業する医師・今井玄秀の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)7月に第四高等学校を卒業、1915年(大正4年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業、1918年(大正7年)2月に京都帝国大学医科大学大学院に入学。 1920年(大正9年)10月に慶應義塾大学医学部外科学教室助手に就任、講師を経て、1922年(大正11年)10月に助教授に就任、1925年(大正14年)9月から1926年(大正15年)9月までヨーロッパとアメリカの病院を視察、1927年(昭和2年)12月に教授に就任、1934年(昭和9年)5月に横浜の警友病院の開設に伴い副院長に就任、1945年(昭和20年)2月に慶應義塾大学病院外科部長に就任、1946年(昭和21年)9月に慶應義塾大学を退職、員外教授に就任、11月に東京都滝野川区滝野川町(現 東京都北区滝野川)の河端病院の開設に伴い院長に就任。
生田 花世(いくた はなよ、1888年(明治21年)10月1… 生田 花世(いくた はなよ、1888年(明治21年)10月14日 - 1970年(昭和45年)12月8日)は、作家、詩人、女性解放運動家。82年の生涯のうちの14年間、生田春月と同棲した。 徳島県板野郡泉谷村(現・上板町)で、砂糖や藍玉を製造する旧家・西崎安太郎の長女に生まれた。父は村長も務めたが、家は維新後衰えていた。 1903年(明治36年)(15歳)、県立徳島高等女学校2年に編入し、『明星』誌、『文章世界』誌などに投稿した。美しくない容貌と145cmと身長が低いことに劣等感を持っていた。服装は生涯飾らなかった。上京後は貧しい田舎出身者であることも劣等感となった。 卒業後、教員免許を取得し県職員の教員となり、1906年半田小学校の、翌1907年松島小学校の教員となり、病弱の詩人横瀬夜雨に文通の指導を受けて詩作し、『女子文壇』誌に投稿し、同誌の主筆、河井酔茗にも師事した。
飯島 正一(いいじま まさかず、1888年〈明治21年〉10… 飯島 正一(いいじま まさかず、1888年〈明治21年〉10月14日 - 1951年〈昭和26年〉2月10日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の銀行経営者。六十三銀行支配人を振り出しに同社の後身八十二銀行で頭取まで昇った。父は六十三銀行第2代頭取で衆議院議員も務めた飯島正治。 飯島正一は、1888年(明治21年)10月14日、長野県更級郡中津村(現・長野市)に飯島正治の長男として生まれた。飯島家は村の素封家で、父・正治は衆議院議員や長野市に本店を置く県下の有力銀行六十三銀行で頭取(在任期間:1898 - 1921年)を務めた人物である。 1911年(明治44年)に早稲田大学商科を卒業。1917年(大正6年)12月、郷里中津村の村長(第6代)に選ばれた。
坂村 徹(さかむら てつ、1888年10月13日 - 198… 坂村 徹(さかむら てつ、1888年10月13日 - 1980年10月18日)は、遺伝学者、植物細胞学、生理学者。教育者。北海道大学農学部名誉教授。広島県広島市幟町(現・中区)幟町出身。 旧制・広島一中(現・広島国泰寺高校)から北海道帝国大学農学部に進み同大学卒業。恵迪寮OB。植物細胞学・植物生理学を研究し1918年、世界で初めて小麦の正確な染色体数を明らかにした。この発見は画期的なもので、この後日本で小麦の研究が盛んになり世界の学会をリードした。この研究を引き継ぎ、木原均が小麦の細胞遺伝学的研究でこの分野の新しい領域を切り拓いた。その他生物を利用した微量重金属の検出法などを開発。1919年同大学教授。
徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年(明治21年)10… 徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年(明治21年)10月12日 - 1957年(昭和32年)11月29日)は、大正・昭和期の海軍技術者、華族。海軍技術中将。工学博士。子爵。東京帝国大学教授。
沢田 豊(さわだ ゆたか、1888年10月11日 - 198… 沢田 豊(さわだ ゆたか、1888年10月11日 - 1987年3月9日)は、日本の経営者。福井県出身。 1913年に神戸高等商業学校を卒業。岩井商店での勤務を経て、1942年に関西ペイント取締役に就任し、常務を経て、1948年9月から1955年4月までに社長を務めた。 1987年3月9日、急性肺炎のために死去。98歳没。
田中 英(たなか えい、1888年(明治21年)10月10日… 田中 英(たなか えい、1888年(明治21年)10月10日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 神奈川県中郡金田村(現在の平塚市)出身。1913年(大正2年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。長野県下水内郡長、同更級郡長、長野県理事官、茨城県理事官、茨城県書記官、同視学官、山口県書記官・学務部長、京都府書記官・学務部長を経て、1930年(昭和5年)に福井県書記官・内務部長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、1934年(昭和9年)に京都市理事・教育部長になったほか、1936年(昭和11年)から1940年(昭和15年)まで尼崎市助役を務めた。
反町 茂作(そりまち もさく/しげさく、1888年(明治21… 反町 茂作(そりまち もさく/しげさく、1888年(明治21年)10月10日 - 1962年(昭和37年)1月2日)は、日本の保険銀行事業家。 1888年、新潟県に生まれる。1911年(明治44年)、早稲田大学商科を卒業。反町新作商店に勤務。 1918年(大正7年)、日本郵船取締役(元ロンドン支店副支配人)であった根岸錬次郎発起の東京動産火災保険(東京市日本橋区道三ノ2)に入社。 1919年(大正8年)2月18日、専務取締役に就任。 1934年(昭和9年)11月19日、取締役社長根岸錬次郎辞任のため、社長に就任。 1944年(昭和19年)、東神火災保険を合併し、東京動産火災保険を大東京火災海上保険と改称した。
近藤 博夫(こんどう ひろお、1888年(明治21年)10月… 近藤 博夫(こんどう ひろお、1888年(明治21年)10月9日 - 1966年(昭和41年)6月27日)は、日本の政治家、土木技術者。第11代大阪市長(1947年 - 1951年)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 旧制七高理科から京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。大阪市役所に入り港湾部長・理事を歴任し、大林組に入り常務。また土木学会関西支部長などを務めた。 1947年の第1回統一地方選挙に日本社会党公認で大阪市長選挙に出馬、保守系の落合九一らを破って当選し1期務める。在任中には広く市民の声を聞くための公聴課を設置、ここで集めた市民の声が大阪市の戦災復興計画の策定に役立った。 1966年6月27日死去。
友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1… 友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1952年2月15日)は、日本の宗教家である。神道天行居の創設者として知られる。出生名は九吾。ほかに、天行、黙山、如甕、磐山などの別号も名乗った。 1888年(明治22年)10月9日、山口県吉敷郡井関村佐山(現:山口市)に生まれる。父は裕蔵・母はむめ。次男であった。出生名は九吾。友清家は、出入りの職人や端女がいる程度には生活に余裕があったが、1895年(明治28年)、歓真が8歳のとき父が急死したことにより、家運は転落した。当時の歓真は病弱な文学少年であり、家塚高志は、「幼時より病弱で大切に育てられたことと、父の急死で家計が一時に崩れたということ」が彼のパーソナリティ形成に影響を与えているのではないかと論じている。
菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月… 菰田 康一(こもだ こういち、1888年(明治21年)10月8日 - 1974年(昭和49年)11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍静岡県。熊本区(現熊本市)で陸軍砲兵中佐・菰田安節の長男として生まれる。金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を7番/418名の成績で卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を優等で卒業した。 1919年(大正8年)4月、砲兵大尉に昇進し参謀本部付勤務となり、参謀本部員、フランス駐在(フランス陸軍大学校卒業)などを経て、1924年(大正13年)4月、砲兵少佐に進級。
松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10… 松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10月8日 - 1961年〈昭和36年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長(第16代)。境町会議員。 鳥取県西伯郡境町栄町(現境港市)出身。中学校では学術優秀で、常に各級の首席を占める。石油、金物商を営む。また境港合同運送社長、岡田回漕店、境港合同運送各取締役、境實業新報監査役をつとめる。 1941年6月から同年8月まで境町長をつとめる。戦後、公職追放を受ける。 「境町の風習」、「八幡通りの変遷」を絵付きで書き残す。蔵書も多く、読書家であった。 父松下哲成(鉄、石油商)は、第8代境町長。妻は岡田汽船社長岡田庄作の二女、岡田商店社長岡田洲二の姉である。
島田 善介(しまだ ぜんすけ、旧名:福田 子之助、1888年… 島田 善介(しまだ ぜんすけ、旧名:福田 子之助、1888年10月7日 - 1955年1月29日)は、栃木県氏家町(現・さくら市)出身の野球選手。 慶應義塾普通部では1年生からレギュラー遊撃手であった。 慶應義塾大学へ進学すると捕手にコンバートし、1906年秋に中止となった早慶戦にも出場していた。また、ハワイ遠征やアメリカ遠征に参加した。強肩で有名であり、二塁送球が鮮やかと評され名物であった。 大学卒業後は「島田善介」と改名し、引き続き三田倶楽部でプレー。 1922年11月に来日した米大リーグ選抜チームとの試合では小野三千麿とバッテリーを組み9対3で勝利し、自身も1回にホームランを打っている。 晩年は日本学生野球協会審査委員、副会長を歴任した。
中御門 経恭(なかのみかど つねやす、1888年〈明治21年… 中御門 経恭(なかのみかど つねやす、1888年〈明治21年〉10月6日 - 1954年〈昭和29年〉2月28日)は、日本の政治家、華族。貴族院侯爵議員。 男爵・中御門経隆の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、中御門侯爵家は当主・経明の死後、男子の相続人が無く娘の萬千子が継承したため爵位を返上。そのため、1899年(明治32年)10月に経恭が従姉妹・萬千子の養子となり家督を相続し、同年10月20日、特旨により侯爵を叙爵した。1913年(大正2年)10月5日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任し、火曜会に属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。 1914年(大正3年)、京都帝国大学理工科大学化学科を卒業。
秋葉 隆(あきば たかし、1888年(明治21年)10月5日… 秋葉 隆(あきば たかし、1888年(明治21年)10月5日 - 1954年(昭和29年)10月16日)は、日本の文化人類学者。文学博士。 1888年、千葉県で生まれた。1914年に東京高等師範学校英語部を卒業し、東京外国語学校ドイツ語専修科へ進み、同校を1917年に卒業。東京帝国大学社会学科へ進んで1921年に卒業した。 1924年に京城帝国大学が開設されると同時に予科講師に任命され、同時に研究のため欧米に留学が命じられた。留学期間中、ロンドン大学、パリ大学に留学し、デュルケーム、ラドクリフ=ブラウン、マリノフスキーなどから文化人類学を学んだ。 1926年、帰国と同時に京城帝国大学法文学部助教授に採用された。
角替 利策(つのかえ りさく、1888年10月5日 - 19… 角替 利策(つのかえ りさく、1888年10月5日 - 1978年)は、日本の農学者(高分子化学)。位階は正五位。勲等は勲五等。学位は農学博士(東京帝国大学・1931年)。旧制は青野。 東京帝国大学農科大学副手、東京帝国大学農科大学実科講師、神奈川県立農事試験所技師、絹業試験所技師、生糸検査所技師、京都帝国大学農学部講師、武庫川学院女子大学教授などを歴任した。 静岡県小笠郡城東村(現・掛川市)出身。青野文之丞の次男として生まれ、角替太郎市の養子となった。 1915年(大正4年)に東京帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)農芸化学科を卒業し、同大学副手、同実科講師、神奈川県立農事試験所技師、絹業試験所技師、生糸検査所技師などを歴任した。
土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5… 土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5日 - 1960年3月26日)は、高知県香美郡赤岡町(現在の香南市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は永森 役太郎(ながもり やくたろう、旧姓は岡本)。身長164cm、体重94kg。得意手は左四つ、寄り、掬い投げ、波離間投げ。最高位は前頭筆頭。 1907年(明治40年)1月場所に幕下付出で初土俵を踏むと、1908年(明治41年)5月場所に新十両、1910年(明治43年)1月場所に新入幕した。黒髪豊か、大銀杏が似合う好男子で、二字口(徳俵)いっぱいまで下がって仕切り、相手の懐に飛び込んで攻め立てる取り口だった。また技を多く持ち、奇手で相手を苦しめた。