伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月… 伊藤 大輔(いとう だいすけ、1898年〈明治31年〉10月13日 - 1981年〈昭和56年〉7月19日)は、日本の映画監督、脚本家である。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。 1898年(明治31年)10月13日、愛媛県宇和島市に中学校教師の父・朔七郎と母・寿栄の息子として生まれる。 1911年(明治44年)、旧制松山中学(現・愛媛県立松山東高等学校)に入学。この時に雑誌『白樺』の影響を受けて、同窓の伊丹万作、中村草田男、重松鶴之助らと回覧雑誌『楽天』を発行。文才のある伊藤が文章を書き、画才のあった伊丹が挿絵を描き、中村、重松らと文筆を競った。中学卒業後、父逝去のため進学を諦め、呉海軍工廠に製図工として勤務する。
山之内 二郎(やまのうち じろう、1898年(明治31年)1… 山之内 二郎(やまのうち じろう、1898年(明治31年)10月13日 - 1980年(昭和55年)6月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1898年(明治31年)に鹿児島県で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第40期、東京帝国大学法学部卒業。1939年(昭和14年)1月16日に陸軍省軍務局課員に就任し、8月1日に朝鮮軍参謀に転じた。1941年(昭和16年)3月1日に陸軍大佐に進級し、10月15日に第6師団参謀長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。1943年(昭和18年)6月11日に東部軍司令部附となり、11月10日に軍需省軍需官に就任した。 1945年(昭和20年)3月1日に陸軍少将に進級し、免陸軍省整備局御用掛となり、中部軍管区参謀副長兼第15方面軍参謀副長に就任した。
寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1… 寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1991年11月5日)は、日本の医学者、日本薬理学会会長。東北大学医学部名誉教授。朝鮮総督府京城医学専門学校教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。東北大学医学部卒業。
山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - … 山住 克己(やまずみ かつみ 、1898年10月11日 - 1986年2月19日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。
渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - … 渋沢 信一(しぶさわ しんいち、1898年10月11日 - 1983年7月15日)は、日本の外交官。外務事務次官。
田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 196… 田中 豊(たなか ゆたか、1898年10月11日 - 1969年2月5日)は、愛媛県出身の大蔵官僚。大蔵次官、宝酒造社長、日本勧業銀行副総裁。 第七高等学校造士館を経て、東京帝国大学法学部に入学。東京帝大在学時はア式蹴球部に所属した。 1923年に大学を卒業して大蔵省に入省。銀行局に配属。主税局国税課長、理財局長を経て、太平洋戦争中の1944年に主税局長に就任。1945年2月24日に大蔵次官に就任したが、津島壽一の大蔵大臣辞任に伴って同年4月に退任した。 戦後の1945年9月より日本勧業銀行の副総裁を務めたが、公職追放により副総裁を辞任し、弁護士を開業した。1951年、宝酒造社長に就任し、1965年に相談役となった。
佐藤 善一郎(さとう ぜんいちろう、1898年10月10日 … 佐藤 善一郎(さとう ぜんいちろう、1898年10月10日 - 1964年3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員、福島県知事などを務めた。 1898年(明治21年)、福島市出身。信夫農学校(現・福島県立福島明成高等学校)卒業。1937年(昭和12年)に旧・清水町の町長に就任。福島県議を経て、第二次世界大戦後は公職追放される。1952年(昭和27年)、福島県経済連の初代会長に就任し、財政を立て直した。また、同年から衆議院議員に2期連続で当選。1957年(昭和32年)、自由民主党を離党し、農協・日本社会党の地盤を獲得して福島県知事選挙に立候補し当選。福島県知事在任中に、福島第一原子力発電所の大熊町への建設を決定した。
君島 興一(きみじま こういち、1898年10月10日 - … 君島 興一(きみじま こういち、1898年10月10日 - 1971年1月3日)は、日本の経営者。茨城県出身。 1922年に小樽高等商業学校を卒業し、同年に川崎汽船に入社。1946年11月に取締役に就任し、専務を経て、同年12月に社長に就任。1950年8月に川崎重工業専務に就任し、1963年6月から1965年2月まで副社長を務めた。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年1月3日心筋梗塞のために死去。72歳没。
松井 正夫(まつい まさお、1898年〈明治31年〉10月1… 松井 正夫(まつい まさお、1898年〈明治31年〉10月10日 - 1956年〈昭和31年〉11月17日)は、日本の有機化学者、文部官僚。元文部省学校教育局大学教育課長、新潟高等学校の最後の校長、新潟大学理学部初代学部長。位階は正三位。 新潟県新潟市学校町通2番町(現 新潟市中央区学校町通2番町)の判事・松井郡治の長男として出生。 1916年(大正5年)3月に新潟中学校を卒業、1919年(大正8年)7月に第二高等学校を卒業、1922年(大正11年)3月に東京帝国大学理学部化学科を卒業。 1922年(大正11年)6月に山口高等学校教授に就任、11月から1924年(大正13年)3月まで陸軍に入隊のため山口高等学校を休職、1931年(昭和6年)12月から1933年(昭和8年)9月まで化学の研究のためドイツやアメリカに留学。
三橋 八次郎(みつはし はちじろう、1898年〈明治31年〉… 三橋 八次郎(みつはし はちじろう、1898年〈明治31年〉10月10日 - 1984年〈昭和59年〉12月27日) は、大正から昭和期の農業技術者、政治家。参議院議員(1期)。 青森県北津軽郡飯詰村(現五所川原市)の農家に生まれた。農村生活の向上を目指して、1921年(大正10年)東京農業大学高等科を卒業。さらに、1924年(大正13年)東京帝国大学農学部農学科第1部全科目選科を修了した。 1924年、愛媛県産業技手となり県立農事試験場(現:愛媛県農業試験場)に配属された。以後、農業技師、農事試験場長、県経済部農業改良課長兼農事試験場長、農事講習所長などを務めた。30年間、愛媛県下の農家の指導に従事し、県農業祭を考案し、農作物の品種改良などに尽力した。
矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - … 矢島 恭介(やじま きょうすけ、1898年10月10日 - 1979年11月11日)は、 帝室博物館調査官、歴史学者。 1898年に長野県に生まれる。1925年、早稲田大学文学部を卒業。同年 帝室博物館勤務。1938年、帝室博物館鑑査官。1954年、東京国立博館考古課長。1961年、同館退職。 1979年から東京芸術大学、明治大学、国学院大学、立教大学講師、文化庁文化財保護審議会専門委員をつとめた。 1972年、勲四等瑞宝章。
日淳(にちじゅん、1898年(明治31年)10月10日 - … 日淳(にちじゅん、1898年(明治31年)10月10日 - 1959年(昭和34年)11月17日)は、日蓮正宗の僧侶。大石寺第65世法主。姓は堀米。竜谷阿闍梨。院号は信乗院。道号は泰栄。 1898年(明治31年)、長野県伊那市坂下町、堀米暦太郎の次男として誕生。幼名は寿万男(すまお)。10歳で父と死別。1911年(明治44年)、伊那市信盛寺の当時の住職、岡田道篤のもとへ得度し、諦栄と名乗ったが、のちに大石寺第57世日正に師僧変更し道号を泰栄(たいえい)と改名。 1922年(大正11年)6月には神奈川教会所担任教師に、同年12月に大石寺百貫坊住職となり、その後、京都・住本寺住職取り扱い、東京中野教会(後の昭倫寺)主管(信盛寺住職兼任)、東京・常泉寺住職を歴任。
市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年10月8日 - … 市村 今朝蔵(いちむら けさぞう、1898年10月8日 - 1950年6月9日)は、日本の政治学者、地主。日本女子大学教授、早稲田大学教授を歴任。日本女子大学理事、森村学園理事、明星学園理事長等を歴任。 長野県北佐久郡東長倉村(現・軽井沢町)出身。雨宮敬次郎の妻の末弟・市村藤吉の子。旧制上田中学第15回卒業。早稲田大学政経学部卒。1923年4月、山岡製紙工場の娘・きよじと結婚。大山郁夫に師事、友人の我妻栄とシカゴ大学に学び、1925年帰国。次女信江は建築家・三輪正弘の妻、三女の令子は我妻洋の妻となる。軽井沢の大地主で、別荘地を開拓し、近衛文麿から雨宮荘を譲り受けた。 欧米遊学後、日本女子大学教授、早稲田大学講師を務める。
山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)… 山本 茂一郎(やまもと もいちろう、1898年(明治31年)10月8日 - 1978年(昭和53年)5月13日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。 陸士31期、陸大38期(優等)。参議院議員(2期)。 和歌山県出身。農業・製糸業山本亀吉の四男として生まれる。五條中学校卒を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官され、歩兵第38連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業した。 1928年(昭和3年)3月、陸軍省整備局付勤務、整備局課員、イギリス駐在などを経て、1933年(昭和8年)3月、陸軍兵器本廠付に発令され、ジュネーブ軍縮会議日本全権団随員となる。
岡野 衛士(おかの もりと、1898年(明治31年)10月8… 岡野 衛士(おかの もりと、1898年(明治31年)10月8日 - 1976年(昭和51年)8月25日)は山口県山口市出身の実業家。大阪証券取引所理事長などを務めた。
岡本 素光(おかもと そこう、1898年10月8日 - 19… 岡本 素光(おかもと そこう、1898年10月8日 - 1978年8月22日)は、日本の宗教哲学者、仏教学者、博士(文学)。第6代駒澤大学総長。曹洞宗の僧侶。 鳥取県東伯郡出身。号は天室。1911年(明治44年)鳥取桂養寺の渡辺月俊について得度。1924年(大正14年)曹洞宗大学、1931年に駒澤大学仏教学科卒業。同年に駒澤大学の講師、1936年に新設の道憲寮寮監を兼務。1941年、駒澤大学教授に就任。1961年『大乗起信論における「存在」の研究』で博士号(文学、駒澤大学)を取得。 1964年駒澤大学北海道教養部初代部長・駒澤大学附属岩見沢高等学校初代校長。1965年岩見沢駒澤短期大学初代学長。
佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日… 佐分 眞(さぶり まこと、1898年(明治31年)10月8日 - 1936年(昭和11年)4月23日)は、大正期昭和期に活躍した日本の洋画家。レンブラントの影響を受け写実主義に傾倒した堅実な画風を築いた。 愛知県名古屋市西区園井町(現・中区錦)に、資産家で第6代一宮町長の佐分慎一郎の庶子として生まれる。母・田中たまは元芸者で、佐分との結婚前に有栖川宮熾仁親王との間にイクという名の娘をもうけていた。叔父・田中徳次郎は中部電力の前身会社を興す。愛知県立第一中学校在学中の1914年、複雑な家庭事情に悩み、自殺しようと家出するも三浦三崎で見つかる。 1915年に上京して郁文館中学校に転校、また川端画学校夜間部でも学ぶ。
伊藤 廉(いとう れん、1898年(明治31年)10月7日 … 伊藤 廉(いとう れん、1898年(明治31年)10月7日 - 1983年(昭和58年)1月24日)は、日本の洋画家。 愛知県名古屋市出身。本名読みは「きよし」。愛知一中卒業、明治大学文学部中退、東京美術学校西洋画科卒業。1927年ヨーロッパに渡りジョルジュ・ルオーに師事。帰国後、二科展で二科賞を受賞。1930年里見勝蔵らと独立美術協会を興す。1943年国画会会員。1954年東京藝術大学教授。1962年定年退官、名誉教授、愛知県立芸術大学教授。
本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日… 本多 顕彰(ほんだ あきら/けんしょう、1898年10月7日 - 1978年6月30日)は、日本の英文学者、評論家、浄土真宗の僧侶。法政大学名誉教授。 愛知県名古屋市の寺院に生まれ、自らも僧籍を有した。本名・けんしょう。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)を経て、1923年東京帝国大学文学部英文科卒。九州帝国大学講師、旧制福岡高等学校教授、東京女子高等師範学校教授を経て、1933年から1966年まで法政大学教授を務めた。その後、駒沢大学、実践女子大学、武蔵野女子大学の教授を歴任。シェイクスピア、ロレンスなど英文学の翻訳・研究に加え、近代日本文学など広範な評論活動をおこなった。 夏目漱石、親鸞に関する著作のほか、エッセイストとしても長年執筆を行い、学内事情を暴露した『大学教授』や『歎異抄入門』はベストセラーとなった。
河村 良介(かわむら りょうすけ、1898年10月7日 - … 河村 良介(かわむら りょうすけ、1898年10月7日 - 1993年7月29日)は、日本の経営者。日本クレジットビューロー(のちのJCB)社長を務めた。山口県出身。 1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に山口銀行(のちの三和銀行)に入行。1945年9月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1957年5月に監査役に就任。1961年1月に日本クレジットビューロー(のちのJCB)社長に就任し、1970年に会長を経て、後に相談役を務めた。 1958年(昭和38年)11月10日、「世界貝類展」が開催されていた国立科学博物館に昭和天皇が行幸。河村は貝類標本収集家としての一面もあり、説明員の一人として加わった。
西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 1… 西松 三好(にしまつ みよし、1898年 <明治31年> 10月6日 - 1971年 <昭和46年> 10月22日)は、日本の経営者。西松建設社長を務めた。位階は従四位。 新潟県出身。1922年に京都帝国大学工学部土木学科を卒業し、1926年12月に西松組(のちの西松建設)に入社。1936年に代表幹事を経て、1937年10月に副社長に就任し、1947年5月には社長に昇格。 1956年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1971年10月22日、急性心筋梗塞のために死去。73歳没。死没日付をもって従四位に叙され、勲三等旭日中綬章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
政岡 憲三(まさおか けんぞう、1898年〈明治31年〉10… 政岡 憲三(まさおか けんぞう、1898年〈明治31年〉10月5日 - 1988年〈昭和63年〉11月23日)は、日本のアニメーション作家、アニメ監督、演出家。大阪府出身。日本のアニメ黎明期において多大な貢献をしたことから「日本のアニメーションの父」「日本動画の父」と評される。 1898年(明治31年)、大阪府に生まれる。 1917年(大正6年)、京都市立美術工芸学校卒業。黒田清輝の元で学ぶ。 1925年(大正14年)、マキノプロダクションに入社。 1926年(大正15年)、京都市下加茂に吞平プロダクション(個人映画プロダクション)を設立。『貝の宮殿』を自主制作。 1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に入社。
原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1… 原田 準平(はらだ じゅんぺい、1898年10月5日 - 1992年4月7日)は、日本の鉱物学者。理学博士(東京帝国大学)。 神奈川県横浜市生まれ。1924年、東京帝国大学理学部卒業。1925年、熊本高等工業学校教授・第五高等学校教授。1929年、欧州の大学留学。1931年に北海道帝国大学理学部の地質学鉱物学教室創設とともに同助教授となり、1932年、同理学部教授。1939年 東京帝国大学 理学博士 「本邦産硼素鉱物の研究」。1947年北海道大学理学部教授。 1958年、理学部長。1962年に定年退官。北海道大学名誉教授。同年、新設の旭川工業高等専門学校校長となり、1970年に退職。1972年、旭川工業高等専門学校名誉教授。
増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10… 増田 甲子七(ますだ かねしち、1898年(明治31年)10月4日 - 1985年(昭和60年)12月21日)は、昭和戦後期の政治家。吉田茂の側近として、運輸大臣、労働大臣、内閣官房長官、自由党幹事長などを歴任。
高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月… 高木 松吉(たかぎ まつきち、1898年(明治31年)10月4日 - 1965年(昭和40年)12月9日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 福島県双葉郡広野村(現広野町)で生まれる。1922年(大正11年)中央大学法律科を卒業。弁護士となり、報知新聞法律相談所長に就任した。 1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福島県第3区から民主自由党公認で出馬して当選。その後、第27回総選挙まで連続4回当選した。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙では落選した。この間、運輸大臣秘書官、裁判官訴追委員会代理委員長、第3次吉田内閣・法務政務次官、衆議院行政監察特別委員長、日本民主党全国委員会副委員長、同代議士会副会長、日本交通公社法律顧問などを歴任した。
久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日… 久慈 次郎(くじ じろう、1898年〈明治31年〉10月1日 - 1939年〈昭和14年〉8月21日)は、昭和初期にアマチュア野球で活躍した日本の野球選手(捕手)。 函館のクラブチーム・函館太洋倶楽部で活躍したが、試合中に送球を頭に受け死亡した。 岩手県盛岡市出身(青森県青森市生まれ)。盛岡中学を卒業後、早稲田大学商科に進学。身長5尺9寸(約179cm)の恵まれた体格と強肩の持ち主で、在学中からリーダーシップを発揮。また、野球部監督の飛田穂洲に心酔し、「一球入魂」を座右の銘としていた。既に大学時代にはまだプロ入りすらしていなかった段階にも拘らず「捕手の神様」と評された。 1922年(大正11年)大学卒業後は北海道函館市の函館水電に入社、同社に勤めながら函館太洋倶楽部(函館オーシャン)でプレーした。
牧村 史陽(まきむら しよう、本名は源三、1898年10月1… 牧村 史陽(まきむら しよう、本名は源三、1898年10月1日 - 1979年4月25日)は、大阪の郷土史家、方言研究家。大阪市生まれ。生粋のなにわっ子で、稀代の大町人学者と呼ばれた。 1898年10月1日、大阪船場の木綿問屋の長男に生まれる。大阪大倉商業学校卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独力で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ち込む。1948年から雑誌「大阪弁(全7巻)」を編集。1952年から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。大阪の歴史、地理、演劇などを実証的に調査し、新聞や雑誌などに発表した。1978年大阪文化賞を受賞。「郷土史は足で書け」が持論。 1979年4月25日没。
坂本 良隆(さかもと よしたか、1898年10月1日 - 1… 坂本 良隆(さかもと よしたか、1898年10月1日 - 1968年5月21日)は、日本の指揮者、作曲家。 岩手県盛岡市出身。1921年ドイツに留学。1925年ベルリン音楽大学指揮科卒。パウル・ヒンデミット、シュタイン、ヴァルター・グマインドル、山田耕筰、信時潔らに師事。指揮者活動のほか作曲作品も多い。島根大学教授と大阪音楽大学講師を務めた。作曲とピアノの教え子に牛腸征司がいる。
高梨 乙松(たかなし おとまつ、1898年〈明治31年〉9月… 高梨 乙松(たかなし おとまつ、1898年〈明治31年〉9月30日 - 1943年〈昭和18年〉7月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(大阪府第三区選出、当選1回)。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)に生まれる。万太郎の三男。1920年(大正9年)に関西大学を卒業し、1921年(大正10年)に弁護士試験に合格。弁護士事務所を開業した。一般民刑事件の依頼に応じる。 1913年(大正2年)以来国民党の政策に共鳴し、旧党解散の後革新倶楽部となり、更に革新党となるのに伴って一貫して行動を共にする。革新党大阪支部長として同党内に重きをなす。 司法省委員となる。その他、榎本鋳造鉄工所監査役、油谷機械工作所監査役、油谷重工業常監などを務めた。
大西 禎夫(おおにし よしお、1898年〈明治31年〉9月2… 大西 禎夫(おおにし よしお、1898年〈明治31年〉9月28日 - 1966年〈昭和41年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)で大西行礼の三男として生まれる。高松中では野球部に入部し、1915年にはエースとして第1回甲子園への出場を果たしている。1921年(大正10年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 卒業後は帰郷して讃岐信託に入社。そのかたわら母校・高松中の野球部監督に就任。26年夏、28年春夏連続の甲子園出場を果たしている。その後1935年には讃岐信託の常務となった。 1945年(昭和20年)高松琴平電気鉄道社長に就任して、21年間在任した。
酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月2… 酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月28日 - 1942年(昭和17年)1月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正夫。 子爵・酒井忠亮の二男として生まれる。 1923年(大正12年)東京商科大学を卒業。1924年(大正13年)横浜正金銀行に入行。その後、内外食品取締役、同監査役などを務めた。 父の死去に伴い、1928年(昭和3年)10月15日、子爵を襲爵した。 1940年(昭和15年)4月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで1期在任した。
伊藤 貞市(いとう ていいち、1898年9月27日 - 19… 伊藤 貞市(いとう ていいち、1898年9月27日 - 1980年10月10日)は、日本の地球科学者。専門は、鉱物学・結晶学。学位は、理学博士(東北帝国大学・論文博士・1939年)。東京大学名誉教授。1968年勲二等瑞宝章受章。大阪市出身。シカゴ大学などに在籍し、鉱物学者として活躍した伊藤順は貞市の子息である。 1954年、大分県木浦鉱山から新鉱物「亜砒藍鉄鉱」を発見し記載した。1960年、ナミビアで発見された新鉱物が「伊藤石」(itoite) と命名された。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9… 外村吉之介(とのむら きちのすけ、1898年(明治31年)9月27日 - 1993年(平成5年)4月15日)は、民藝運動家、染織家。滋賀県出身。甥に歌人の塚本邦雄(1920年 - 2005年)がいる。 1898年(明治31年)9月27日、滋賀県神崎郡五個荘町川並(現東近江市五個荘川並町)生まれ、1925年(大正14年)に関西学院神学部を卒業した後、1932年(昭和7年)手織物の創作活動を開始した。国画会会員、日本民芸協会常任理事などを歴任し、1993年(平成5年)4月15日死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉… 大森 義太郎(おおもり よしたろう、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1940年〈昭和15年〉7月28日)は、日本のマルクス経済学者。筆名に成瀬 光雄がある。 神奈川県横浜市で大森啓助の子として生まれる。1922年(大正11年)東京府立四中から一高を経て、東京帝国大学経済学部卒。卒業と同時に同学部助手。1924年(大正13年)東京帝大助教授。 1928年(昭和3年)4月、赤化教授への政府の弾圧が徹底的であり、早晩退職を余儀なくされるとして、先手を打つように辞表を提出して辞職。以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。 1933年(昭和8年)に『唯物弁証法読本』を出版。 1937年(昭和12年)の人民戦線事件で検挙される。
長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月2… 長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月26日 - 没年月日不明 )は日本の哲学者。元八幡大学教授。岡山県出身。 備前岡山の池田家家老 日置健太郎を母方の祖父とする名門の家に生まれる。父親、長崎常は札幌農学校で内村鑑三と共にクラーク博士に学んだ農務省官僚であった。なお、常は九州法学校創設時に宇賀田順三と親交があった人物。母キヨは日本画壇の女流画家。 明は岡山一中から慶応義塾、松本高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し伊藤吉之助に師事する。卒業後西南学院専門学校、九州専門学校で教鞭を執る。1947年、宇賀田順三の要請により 戸畑専門学校開校時に教授に就任。1948年から1956年まで八幡大学教授(1954年に法経学部長就任)。
植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月… 植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1999年〈平成11年〉5月4日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。衆議院議員(2期)。 奈良県奈良市般若寺町で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業した。 牧場、牛乳商を経営。奈良県獣医師会長を務めた。 政界では、奈良市会議員、同議長、奈良県会議員、同副議長を務めた。1940(昭和15年)11月、大政翼賛会奈良県支部常務委員に就任。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け奈良県全県区から立候補して当選した。この間、拓務省委員、大東亜省委員、翼政会政調厚生・農林兼務委員などを務めた。
佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 198… 佐藤 晴雄(さとう はるお、1898年9月26日 - 1986年12月2日)は、日本の実業家。 山梨県出身。1924年に東京帝国大学政治科を卒業し、同年に満鉄に入社し、東京支社長などを歴任し、1945年までに勤務した。 1964年5月から京浜急行電鉄社長に就任し、1969年11月から会長に就任した。社長在任中は都営地下鉄浅草線との相互乗り入れなど鉄道の輸送力増強に力を入れ、湘南モノレールの開業にも携わった。 1967年から1969年までに日本民営鉄道協会副会長を務め、満鉄会理事長や日本経済団体連合会理事やホテルパシフィック東京社長・会長、日本ホテル協会理事なども務めた。 1974年に勲二等瑞宝章を受章した。
成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)… 成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年(明治31年)9月23日 - 1980年(昭和55年)10月4日)は、大正から昭和期の鉄道技術者、労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員、小倉市会議長。 大分県西国東郡、のちの真玉村(真玉町を経て現豊後高田市)で、代々庄屋を務めた成重家に生まれる。実家が破産し一家で小倉市に移った。1918年(大正7年)小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科を卒業した。 大連に渡り、大連機械、山東鉄道(膠済線)で勤務し、同鉄道従業員組合長を務め、1923年(大正12年)山東鉄道が中国に還付され帰国した。鉄道省門司鉄道局技手に任官し小倉工場に配属された。現業委員会小倉支部長に3期在任。
川野 芳満(川野 芳滿、かわの よしみつ/ほうまん、1898… 川野 芳満(川野 芳滿、かわの よしみつ/ほうまん、1898年(明治31年)9月22日 - 1979年(昭和54年)7月2日)は、日本の政治家、衆議院議員(9期)。 現在の宮崎県宮崎市で生まれた。1919年(大正8年)慶應義塾大学専修科卒業。 宮崎市議会議員、宮崎県通貨安全委員会会長を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に日向民主党から初当選、日本自由党から自由党、自由民主党へと所属政党を替えながら当選9回。両院法規委員会委員長、大蔵委員会、運輸及び交通委員会、社会労働委員会各委員長を経て、第三次鳩山内閣の通商産業政務次官となる。藍綬褒章を受章し、証券民主化議員連盟委員長、宮崎県酒造組合、全国酒卸協同組合各連合会長、全国酒造組合中央会理事などを務めた。
本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 19… 本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 1981年10月18日)は、日本の実業家。東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。勲二等旭日重光章受章。 1921年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、東京ガス入社。取締役供給部長、副社長等を経て、1953年社長就任。戦後の首都圏の都市ガス整備を行った 日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長、社団法人如水会理事長等も務め、1968年に勲二等旭日重光章受章。 1981年10月18日、肝不全のため東京女子医科大学病院で死去、享年83。
白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)… 白鳥 義三郎(しらとり ぎさぶろう、1898年(明治31年)9月21日 - 1965年(昭和40年)12月27日)は日本の千葉県出身の教育者・政治家。千葉県津田沼町長、習志野市初代市長などを歴任。習志野市立習志野高等学校の創立に尽力した。 白鳥与惣左衛門の四男として千葉県千葉郡津田沼町久々田に生まれる。1926年(大正15年)、ベルリン工科大学建築科を卒業、帰国後は東京で教師をつとめた後、合理主義と人道主義の精神に徹した政治活動を展開。 1947年(昭和22年)、公選首長として津田沼町長となり、1955年(昭和30年)、習志野市制が施行されて連続2期市長に当選、文京住宅都市としての習志野市の基礎を築き、大いに地方自治を推進した文化人市長として知られた。
中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - … 中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は、日本の経済学者。経済学博士(東京商科大学・1939年)。一橋大学初代学長、一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1963年から1980年まで日本学士院会員。1968年文化功労者。第4期日本学術会議副会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。勲一等瑞宝章受章。 父である中山朝之助は福島の平(現・いわき市)で生まれ、その後三重の宇治山田(現・伊勢市)で山田朝報という新聞社を創業し、主筆を務めた。旧制宇治山田中学(現・三重県立宇治山田高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1923年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業し、同年4月、東京商科大学大学助手に就任。
降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 19… 降旗 徳弥(ふるはた とくや、1898年9月18日 - 1995年9月5日)は、日本の政治家、実業家。信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任した。映画監督の降旗康男は三男。
川村 秀文(かわむら ひでふみ、1898年〈明治31年〉9月… 川村 秀文(かわむら ひでふみ、1898年〈明治31年〉9月18日 - 1981年〈昭和56年〉3月2日)は、日本の内務・厚生官僚。官選千葉県知事、学校法人川村学園理事長・学園長。 秋田県鹿角郡花輪町出身。内務官僚・川村竹治の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。1923年、内務省に入省し東京府属となる。 以後、内務省大臣官房会計課長、欧米各国視察(1931年)、国際労働総会政府代表随員(1931年、ジュネーヴ開催)、社会局書記官・保険部監査課長、厚生省保険院総務局企画課長、厚生省保険院総務局長、厚生省社会局長などを歴任。
千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17… 千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉5月25日)は、日本の医師。沖縄県出身者で初の女医。終戦後の沖縄の女性たちの生活苦による不条理妊娠など、悲惨な事態に立ち会い、また民法改正運動や母子保健など、広い範囲にわたって活動を行った。 沖縄県那覇区若狭町で誕生した。旧姓は渡嘉敷。幼少時に両親が離婚、母のもとで極貧の生活を送った。小学校の成績は常に総代であり、父から「女学校に出してやる」といわれて父のもとへ引き取られた。父は沖縄で初の学校長となった人物、沖縄初の視学であり、繁子は父から強い影響を受けた。父が沖縄人として本土の人間から見下されていたこと、父のもとでの生活も豊かではなかったことで、早くから自立心を培われて育った。
須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17… 須藤しげる(すどう しげる、1898年(明治31年)9月17日 - 1946年(昭和21年)2月3日)は、日本のイラストレーター。愛知県豊田市(旧挙母町)出身。本名は須藤源重(げんじゅう)。本名でも作品を発表。大正時代から昭和時代にかけて多くの雑誌や絵本などに挿絵を描き、抒情画家として活躍した。 彼の生家は代々麩屋を営む商家だった。1904年(明治37年)4月、挙母町尋常小学校(現豊田市立挙母小学校)入学。大人しい少年で、友人と矢作川へ釣りに出かけたり、塩や酒を運ぶ帆船を見に行ったりしていた。こういった彼の少年時代の資料はほとんど残っておらず、彼を直接知る人も今ではほとんどいない。今も、挙母小学校には彼が20歳の時、挙母に戻った際に描いた油絵が掛けられている。
留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 19… 留岡 清男(とめおか きよお、1898年9月16日 - 1977年2月3日)は、日本の教育者・教育学者。専攻は価値心理学、教育科学・生活教育論。 東京府北豊島郡巣鴨村(現・豊島区)出身。旧制早稲田中学校を経て1920年6月、第二高等学校卒業。東京帝国大学法学部に入学し、翌年文学部に転部、1923年3月、東京帝国大学文学部心理学科卒業。 1923年4月、東京農業大学予科大学部講師(英語等担当)。1925年3月、東京農業大学予科大学部教授。1926年から法政大学講師、武蔵高等学校講師を兼務。1929年法政大学児童研究所設立に参画。1929年病気に伏した留岡幸助に代わり、教職を辞して北海道遠軽の家庭学校社名渕分校教頭に就き教護事業を継ぐ。
池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月1… 池田 清就(いけだ きよなり、1898年〈明治31年〉9月16日 - 1966年〈昭和41年〉6月4日)は、因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)池田家当主、会社役員。最後の藩主であった池田徳定の子。母は、池田慶徳の養女・池田常子(池田敬三郎の長女)。1910年から1947年まで子爵であった。 池田徳定の三男。1910年(明治43年)に襲爵し、学習院高等科を経て、1923年(大正12年)に京都帝国大学経済学部を卒業する。横浜正金銀行に入る。1946年(昭和21年)に退行する。 1951年(昭和26年)にエース商会監査役となり1952年(昭和27年)に取締役、1960年(昭和35年)に常務となる。 菩提寺は向島の弘福寺で、関東大震災後の区画整理により昭和3年に清就が合葬したという記載がある。
曾根 純三(そね じゅんぞう、1898年9月13日 - 没年… 曾根 純三(そね じゅんぞう、1898年9月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名曾根 為一(そね ためいち)。椎名 良太(しいな りょうた)名義で脚本を書き、のちに監督名を曾根 千晴(そね ちはる)と変えた。戦前の「職人監督」である。 1898年(明治31年)9月13日、大阪市東区(現在の中央区 (大阪市)北部・東部)に生まれる。香川県出生説あり、本人は否定している。旧制大阪府立天王寺中学校(現在の大阪府立天王寺高等学校)を卒業したのち、神戸のパルモア英学院(現在のパルモア学院専門学校)を中退、証券会社勤務、警察官を経て、劇団の脚本部にいたところ、撮影技師の三木茂、杉山公平と知り合い、西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所の脚本部に入社した。
茂木 七郎治(もぎ しちろうじ、前名・高治郎、1898年〈明… 茂木 七郎治(もぎ しちろうじ、前名・高治郎、1898年〈明治31年〉9月12日 - 1993年〈平成5年〉1月1日)は、日本の商人(肥料商)、政治家、実業家。紫興業社長。野田市議会議長。茂木七郎治家4代目当主。 千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)出身。3代茂木七郎治の長男。明治中学卒業。野田醤油(現・キッコーマン)に入社し、後総武鉄道に転社した。明治大学に学んだ。1918年、家督を相続し、高治郎を改め襲名した。 総武通運社長、野田運輸、花畑乗合自動車各代表、野田自動車運輸代表、総武鉄道常務取締役。東武鉄道、千秋社、柏屋商事各監査役、野田商誘銀行支配人をつとめる。 趣味は読書、旅行、ゴルフ、囲碁。