北 二郎(きた じろう、1918年9月13日 - 1950年… 北 二郎(きた じろう、1918年9月13日 - 1950年1月29日)は、日本の政治家、農業経営者。父は衆議院議員を4期、参議院議員を1期務めた北勝太郎。弟に北海道開発庁長官・開発庁長官を務めた北修二、奈井江町長の北良治がいる。 北海道空知郡奈井江村生まれ。1937年旧制北海道庁立岩見沢中学校(現・北海道岩見沢東高等学校)卒業。酪農義塾(現・酪農学園大学)、町村農場で農業・畜産を修得し、その後農業を営む。奈井江村酪農振興会会長。 父・勝太郎が第二次世界大戦後公職追放されると、その身代わりとして1947年の第23回衆議院議員総選挙において北海道4区から立候補し初当選。政界に入り、日本農民党・農民新党・農民協同党に所属した。
佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 19… 佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 1984年1月30日)は、日本のコメディアンであり俳優である。本名は中江 勇(なかえ いさむ)。 1918年(大正7年)9月13日、北海道登別市に中江勇として生まれる。兄は劇作家の中江良夫である。室蘭市の旧制・室蘭尋常高等小学校(現在の室蘭市立本室蘭小学校)を卒業する。 その後上京して、20歳になる1938年(昭和13年)に初舞台、1943年(昭和18年)、25歳になる頃「佐山俊二一座」を旗揚げ、1944年(昭和19年)に「劇団新生座」を旗揚げした。 第二次世界大戦の終結後、八波むと志とあらいやだコンビを結成した。浅草・フランス座で人気を博す。
小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 … 小谷 勉(こたに つとむ、1918年(大正7年)9月12日 - 1976年(昭和51年)8月1日)は、日本の医師、医学博士、教育者、大日本帝国陸軍軍医。
高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 20… 高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 2002年4月11日)は、日本のアナウンサー、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 呉服店の三男として生まれる。作家の宮沢賢治とは遠縁にあたる。幼い頃は病弱な子供であったという。花城尋常小学校(1931年3月)、組合立花巻中学校(1938年3月)、高千穂高等商業学校を卒業後、富士電機へ就職。 1942年10月、アナウンサー募集の新聞広告に目が止まったのがきっかけでNHKに入局。入社試験面接官・養成所校長は和田信賢(後に『話の泉』の和田の後任を引き受けた)。1944年5月27日、結婚。1948年1月19日、長女・光が誕生。1950年1月から1954年9月まで慶應義塾大学病院で療養。
深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 200… 深田 英朗(ふかだ ひであき、1918年9月9日 - 2003年)は、日本の歯学者。 東京慈恵会医科大学専門部卒、1953年「乳歯並びに乳歯列の統計的研究」で慶応義塾大学・医学博士。日本大学歯学部小児歯科学教室教授。89年定年退職。小児歯科学。
小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - … 小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - 1996年〈平成8年〉11月8日)は、日本の小説家、英文学者。位階は従四位。本名は小沼 救(おぬま はじめ)。日本芸術院会員。 「大寺さんもの」など、日常を題材とした小説のほか、随筆の名手としても知られる。また、英文学者としても知られており、早稲田大学では文学部教授として教鞭を執った。 東京府東京市下谷区下谷町に父邁(すぐれ)、母涙子(るいこ)の長男として生まれる。明治学院中学部、高等学部英文科を経て、1942年(昭和17年)に、早稲田大学文学部英文科を卒業した。後年、1958年(昭和33年)から、母校早稲田大学文学部で教授を務めている。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。 山口中学校、山口高等学校を経て、1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)入学、1942年9月繰り上げ卒業。同年中島飛行機(富士重工業「スバル」の前身の一つ)に入社、航空エンジン開発部門のエンジニアを務め、同時に帝国陸軍の航技中尉(技術中尉)として陸軍航空技術研究所や陸軍航空審査部に属し、超大型重爆撃機「富嶽」や ジェット戦闘襲撃機キ201「火龍」などの開発に携わる。 敗戦後、1950年オート三輪メーカーの日本内燃機製造(後の東急くろがね工業、現・日産工機)に転職。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。
井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 -… 井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - 没年不明)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・高校野球監督、高校野球解説者。 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、中学の後輩である成田啓二の球を受け、東京六大学リーグで何度か首位打者争いを展開した。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打を記録。大学卒業後は帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局でプレー。終戦後は1947年のみ母校・米子中で監督を務め、地元の米子鉄道管理局へ入社。1950年に国鉄スワローズ結成に伴って入団し、初代主将として開幕から正捕手を務めた。
河合 英一(かわい えいいち、1918年 <大正7年> 9月… 河合 英一(かわい えいいち、1918年 <大正7年> 9月6日 - 2004年 <平成16年> 2月3日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取、会長を務めた。位階は従五位。 愛知県豊橋市出身。1942年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年9月に日本銀行に入行。1970年5月に阿波銀行専務に就任し、1971年12月に副頭取を経て、1973年4月には頭取に就任。1986年6月に会長を経て、1994年6月には相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲三等瑞宝章を受章。 2004年2月3日肺炎のために死去。85歳没。死没日付をもって正七位から従五位に進階した。
久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944… 久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944年7月18日)は、日本の画家。東京美術学校工芸科図案部(現・東京芸術大学デザイン科)を首席で卒業した後、太平洋戦争の中国戦線に出征し、戦死した戦没画学生。東京美術学校卒業生の戦没者はわかっているだけで167名おり、久保はそのうちの1人である。卒業後直ちに応召した後、ほどなく戦死しているので目立った作品が多いわけではないが、1971年 (昭和46年) に東京芸術大学芸術資料館に展示された「図案対象」は、戦没画学生の作品発掘のきっかけの1つになった。 久保克彦は、1918年(大正7年)に山口県熊毛郡佐賀村佐合島(現平生町)の醤油醸造業を営む家で女4人男2人の6人兄弟の末っ子として生まれた。
小野 周(おの しゅう、1918年(大正7年)9月5日 - … 小野 周(おの しゅう、1918年(大正7年)9月5日 - 1995年(平成7年)4月24日)は、日本の物理学者。学位は、理学博士(九州大学、1951年)(学位論文「臨界現象及び表面現象の統計熱力学」)。東京大学名誉教授。元群馬大学学長。日本物理学会会長を3期3年間務めた。勲二等旭日重光章受章。福岡県福岡市生まれ。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
内田 芳郎(うちだ よしろう、1918年(大正7年)9月5日… 内田 芳郎(うちだ よしろう、1918年(大正7年)9月5日 - 2008年(平成20年)2月11日)は、日本の参議院議員。旧名・俊朗。 熊本県出身。1940年明治大学政治経済学部を卒業後、竹中工務店に勤務し、営業部長などを歴任。1965年に自由民主党から第7回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し当選。第3次佐藤内閣で通商産業政務次官に就任。日中協会役員などを務めた他、小金井カントリー倶楽部の理事を務め、愛好家として知られる内閣総理大臣・田中角栄にゴルフの手ほどきをした。
清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日… 清水 一郎(しみず いちろう、1918年〈大正7年〉9月4日 - 1991年〈平成3年〉6月12日)は、日本の政治家。 群馬県知事(公選第9・10・11・12代)、群馬県議会議員(4期)、第47代群馬県議会議長、群馬県議会副議長、前橋市議会議員(1期)を歴任した。 群馬県前橋市出身。1936年、群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)卒業。1939年、福島高等商業学校(現福島大学経済経営学類)卒業。同年、日立製作所東京本社勤務となる。1943年、青森県立商業学校(現青森県立青森商業高等学校)教諭となる。1944年、群馬県立前橋工業学校(現群馬県立前橋工業高等学校)教諭となる。1948年、群馬県立前橋商業高等学校講師となる。
南口 繁一(みなみぐち しげかず、1918年〈大正7年〉9月… 南口 繁一(みなみぐち しげかず、1918年〈大正7年〉9月4日 - 1995年〈平成7年〉9月20日)は、将棋棋士。棋士番号は37。京都府相楽郡木津町(現・木津川市)出身。村上真一八段門下。 1933年、初段で村上真一八段に入門。1935年の関西奨励会創設にあたって二段で参加。創設時の奨励会には他に大山康晴(1935年当時6級)などがいた。 大山は南口に飛車落ちで指してもらい、勝ったとはいえ大苦戦したため、「初段は強いなと子供心に思った」という[要出典]。 軍隊に行ったためブランクがあったが、1944年四段、1950年八段。1951年度の第2期九段戦で大山に挑戦するが3連敗で敗退。1984年九段、1985年4月引退。
伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 -… 伴 勝久(ばん かつひさ、1918年(大正7年)9月2日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇「甲標的」艇長としてシドニー湾攻撃に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍少佐。 伴は愛知県で材木店を営む家の三男として生まれた。父は日露戦争で個人感状、功六級を授けられた陸軍軍曹である。海辺に近く、家業のため馬が身近にいる環境で成長した伴は、活発な幼少期を過ごし、水泳、乗馬を得意としていた。進学した刈谷中学では、サッカー選手であった。中学5年での海兵受験には失敗したが、1年の浪人生活のすえ、海兵と陸士に合格し、海兵進学を選択した。伴は16年ぶりの300人クラスであった海兵68期生であったが、最上級生の海兵65期は鉄拳で68期を鍛え上げ、豊田穣によれば68期は「土方クラス」と呼ばれるようになった。
児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日… 児島 泰彦(こじま やすひこ、1918年(大正7年)9月1日 - 1945年(昭和20年)6月12日)は、日本の水泳選手。ベルリンオリンピック100メートル背泳ぎに出場。
清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31… 清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31日 - 2008年3月30日)は、俳人、小説家。本名、清水基嘉(読み同じ)。 現在の東京都渋谷区の宇田川町・道玄坂、港区の青山かいわいに、生まれ育った。1925年(大正14年)、東京府青山師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)へ入った。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1934年16歳、正則英語学校(現:正則学園高等学校)へ転じた。 1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間の1940年横光利一を知り、翌年、句誌『鶴』の主宰者、石田波郷の門に入った。同人誌に参加し、北條誠、巖谷大四、村松定孝らを知った。
倉成 正(くらなり ただし、1918年〈大正7年〉8月31日… 倉成 正(くらなり ただし、1918年〈大正7年〉8月31日 - 1996年〈平成8年〉7月3日)は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(12期)。外務大臣(第109代)、経済企画庁長官(第25・28代)を歴任。位階は正三位。長男は元衆議院議員の倉成正和。 長崎県長崎市出身。父は衆議院議員を務めた倉成庄八郎。旧制五高を経て1941年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東洋高圧、長崎県農地農林部長などを経て、1958年の第28回衆議院議員総選挙に自民党公認で長崎1区より立候補し当選する。以後、当選回数12回。自民党では、河野派から中曽根派に所属する。 経済企画政務次官、大蔵政務次官、衆議院社会労働委員長などを経験し、1974年11月に第2次田中第2次改造内閣の経済企画庁長官として初入閣を果たす。
松下 三十郎(まつした さんじゅうろう、1918年8月31日… 松下 三十郎(まつした さんじゅうろう、1918年8月31日 - 2004年1月24日)は奈良県出身の北海道大学名誉教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
馬橋 隆二(まばし りゅうじ、1918年(大正7年)8月31… 馬橋 隆二(まばし りゅうじ、1918年(大正7年)8月31日 - 2000年(平成12年)5月16日)は、大宮市長(第13代 - 第15代)。弁護士。 埼玉県大宮町出身。1942年(昭和17年)明治大学法学部卒。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年(昭和18年)9月、海軍経理学校に入学し、1944年(昭和19年)3月に卒業して海軍主計中尉に任官。横須賀鎮守府付工廠勤務となる。1945年(昭和20年)3月、海軍主計大尉に昇進。同年9月、予備役に編入され解員(復員)となる。 戦後の1948年(昭和23年)二級事務官吏銓衡に合格し、運輸省に入る。一方で高等試験司法科試験にも合格した。
松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 199… 松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 1998年4月3日)は、日本の実業家。 元東急不動産社長、東急ハンズ社長、東京急行電鉄専務。 北海道札幌市出身。小学校卒業後、母親の再婚で東京に移る。1942年慶應義塾大学経済学部を卒業し、戦後の1946年に東京急行電鉄に入社。1953年に東急不動産に出向し、田園都市部長・常務・専務などを経て、1978年社長に就任し、のち会長となる。同社を総合ディベロッパーに育てあげ、「中興の祖」と呼ばれた。さらに1976年に東急ハンズの設立に関わり、初代社長を務める。また、この間東京急行電鉄取締役・専務なども歴任し、東急グループの重鎮として活躍した。
鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の実業家。松坂屋社長・会長。愛知県岡崎市出身。 1936年、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)卒業後、松坂屋に入社。 1972年、取締役名古屋店長に就任し、伊藤鈴三郎社長の片腕として頭角を現し、常務、専務を経て、1978年副社長となる。 1980年、会長の16代目・伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲)は、任期半ばの弟・鈴三郎に辞任を迫り、長男・伊藤洋太郎を社長の座に据える。鈴三郎は一族の序列をわきまえて沈黙を守ったが、彼の腹心たちはこの不条理な行為を許さなかった。 1984年12月、16代目が死去し、会長が空席になると、1985年1月に鈴木は会長に就任した。
関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)… 関根 長三郎(せきね ちょうざぶろう、1918年(大正7年)8月25日 - 2000年9月9日)は、日本の実業家。元よみうりランド代表取締役社長。祖父は政治家、実業家の小坂善之助。妻は正力松太郎の次女。 埼玉出身。大正7年(1918年)に関根善作(日本銀行行員、後に第百銀行頭取、合併により三菱銀行副頭取を歴任)と国(小坂善之助三女)の間に三男として生まれる。祖父の小坂善之助は衆議院議員を歴任した政治家であったが、信濃銀行を創業し、信濃毎日新聞社の経営基盤を確立するなど、実業家としても影響力を持っていた。長三郎の叔父で小坂善之助の長男の小坂順造は、父の関根善作と明治37年(1904年)に日本銀行に入社した同期であり、明治40年(1908年)に信濃銀行へ取締役として移籍し、安田銀行への合併処理の後に、信濃毎日新聞社長、衆議院議員を歴任していた。
川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日… 川西 清(かわにし きよし、1918年(大正7年)8月25日 - 没年不明)は、昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 兵庫県神戸市で生まれる。1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。弁護士となる。また東京朝日新聞政治部記者も務めた。 1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に兵庫県第1区から日本自由党公認で出馬して初当選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙に兵庫県第3区から出馬して次点で落選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党から出馬して再選され、その後自由党に所属して衆議院議員に通算2期在任した。この間、商工大臣秘書官、日本自由党幹事などを務めた。
大木 幸介(おおき こうすけ、1918年8月23日 - )は… 大木 幸介(おおき こうすけ、1918年8月23日 - )は、日本の化学・生理学者。 東京府(現東京都世田谷区[要出典])生まれ。1941年東京薬学専門学校卒、1944年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。1955年九州大学医学博士。九州大学木材研究所、生産科学研究所助手、九州大学医学部講師、信州大学繊維学部教授、江南女子短期大学教授を務めた。専門の分子生理学、生化学の立場から、幅広く研究、執筆活動を行った。
荘 英介(しょう えいすけ、1918年〈大正7年〉8月20日… 荘 英介(しょう えいすけ、1918年〈大正7年〉8月20日 - 2019年〈平成31年〉4月6日)は、日本の実業家。元スピードスケート選手。元日本スケート連盟名誉会長。元王子製紙専務。元王子製袋社長。 慶應義塾大学経済学部卒業。王子製紙所属のスピードスケート選手として活躍。現役を引退後は北海道苫小牧市にある王子製紙の苫小牧工場長に就任。監査役を経て1981年に王子製袋社長に就任。 また1992年には日本スケート連盟会長に就任。1998年に同連盟の会長を退任後は名誉会長となる。1999年、勲四等瑞宝章を受章。 2019年4月6日、東京都豊島区の自宅にて老衰のため死去。享年100歳。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
斎藤 純忠(さいとう じゅんちゅう、1918年(大正7年)8… 斎藤 純忠(さいとう じゅんちゅう、1918年(大正7年)8月18日 - 2010年(平成22年)10月21日)は、昭和から平成時代前期の政治家。埼玉県戸田市長。日蓮宗の僧。妙顕寺住職。 埼玉県北足立郡戸田村(戸田町を経て現戸田市)出身。1941年(昭和16年)立正大学文学部卒業。戸田市助役を経て、1974年(昭和49年)以来、戸田市長に6選した。市長在任中は、道路・下水道整備、公共施設建設、埼京線の駅の誘致などに取り組んだ。
山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月1… 山縣 有信(やまがた ありのぶ、1918年〈大正7年〉8月15日 - 1974年〈昭和49年〉7月22日)は、日本の政治家。栃木県矢板市長を務めた。 明治の元勲山縣有朋の曾孫(山縣有道の長男)として東京府で生まれる。学習院高等科を経て、九州帝国大学法文科を卒業。卒業後の1942年(昭和17年)、日本興業銀行に入るが、同年、第1期海軍兵科予備学生として海軍に入った。終戦直後の1945年(昭和20年)11月1日、父の死去に伴い、公爵を襲爵する。1946年(昭和21年)復員し、日本興業銀行に復職する。翌1947年(昭和22年)、同行を退職し、栃木県矢板町の山縣農場の経営に取り組む。 1963年(昭和38年)、矢板市長選挙に立候補し、初当選、以来連続3期務める。
油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 19… 油井 正一(ゆい しょういち、1918年8月15日 - 1998年6月8日)は、日本のジャズ評論家。1950年代から晩年まで、日本のジャズ評論の第一人者と評される活躍をした。 横浜市生まれ。1924年、神戸市へ移り、同地で育つ。兵庫県立第三神戸中学校を経て、慶應義塾大学法学部に学び1941年に卒業した。ジャズへの関心は学生時代からのもので、当時から既にレコードの収集、ジャズ評論の執筆を始めていた。戦時中は兵役に就き、前橋陸軍予備士官学校から東部22部隊へ配属され、将校として高射砲部隊にいた。戦後は評論活動を再開し、神戸で朝比奈次郎と名乗り、1952年に開局したラジオ神戸(現・ラジオ関西)で「ジャズ・アメリカーナ」という番組を担当し、選曲にもあたった1955年に神戸から上京し、評論家としての本格的な活動に入った。
西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 … 西脇 教二郎(にしわき きょうじろう、1918年8月15日 - 没年不明)は、日本の経営者。太陽生命保険社長を務めた。東京都出身。 1941年に東京帝国大学経済学部を卒業。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年(昭和17年)1月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。同年5月、経理学校を卒業。1943年(昭和18年)11月、主計大尉に進み終戦を迎えた。 1962年5月に太陽生命保険に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年5月に常務、1971年5月に専務、1972年5月に副社長を経て、1978年4月に社長に就任。1990年7月に取締役相談役に就任。 1982年11月に藍綬褒章を受章。
金 東祚(김동조、キム・ドンジョ、1918年8月14日 - … 金 東祚(김동조、キム・ドンジョ、1918年8月14日 - 2004年12月9日)は、韓国の政治家。1965年から1967年にかけて初代駐日大使を務め、1973年から1975年にかけては大韓民国外務部の長官(外相)を務めた。 日本名は宗山 秀隆(むねやま ひでたか)。実業家で元国会議員の鄭夢準は末娘の夫。また、次女は元国防部長官の孫元一の息子、三女は実業家の許鼎九の息子とそれぞれ結婚した。元ヘラルドメディア会長の洪政旭(朝鮮語版)は孫娘婿。 1918年に釜山府で生まれる。釜山中学校を経て、1940年京城高等商業学校を卒業。1943年九州帝国大学法文学部法科を卒業。李東煥元内務次官は高等商業学校の同期。
渡辺 茂(わたなべ しげる、1918年〈大正7年〉8月12日… 渡辺 茂(わたなべ しげる、1918年〈大正7年〉8月12日 - 1992年〈平成4年〉3月10日)は、日本のシステム工学者。 兵庫県姫路市出身。1941年(昭和16年)、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。海軍に入り、技術大尉で終戦を迎える。東京大学工学部に復帰し、1947年(昭和22年)に助教授となる。1950年(昭和25年)、「歯車に関する研究」で東京大学工学博士。1953年(昭和28年)、東京大学工学部教授となる。1979年(昭和54年)、定年退官し名誉教授となり、同年、東京都立工科短期大学学長となる。 コンピューターの工学と社会への適用で新分野をひらいた。1983年(昭和58年)、世界コミュニケーション年で功労者として内閣総理大臣個人表彰を受ける。
渡辺 泰助(わたなべ たいすけ、1918年8月10日 - 1… 渡辺 泰助(わたなべ たいすけ、1918年8月10日 - 1985年5月3日)は、日本の経営者。 青森県出身。1939年に小樽高等商業学校を卒業。第五十九銀行での勤務を経て、1945年10月に家業の味噌醸造業に従事し、1951年1月に丸谷醸造を設立し、1955年3月には社長に就任。1971年11月に青森銀行監査役に就任し、1974年5月には頭取に就任した。1982年10月から1983年6月までに非常勤取締役を務めた。 1985年5月3日、心不全のために死去。66歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9… 佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9日 - 2009年(平成21年)11月8日、旧姓:前田喜美子)は、日本の植物生理学、植物分子生物学者、教育者。北海道大学教授を務めた。 北海道庁立旭川高等女学校(現・北海道旭川西高等学校)を卒業後、北海道帝国大学農学部水産学科の白浜潔教授の副手となる[要出典]。1943年(昭和18年)に北海道帝国大学農学部水産学科(化学専攻)に入学した山西貞(てい)(お茶の水女子大学名誉教授)の研究への情熱に触発され研究生活への夢がふくらみ、1944年(昭和19年)10月に北海道帝国大学理学部植物学科に入学した。同学科植物第1講座(植物生理学)の坂村徹教授の指導で卒業研究「ハンゼヌラ・アノマーラの硝酸代謝とモリブデンの役割」に取り組む。
斉藤 滋与史(齊藤 滋与史、さいとう しげよし、1918年〈… 斉藤 滋与史(齊藤 滋与史、さいとう しげよし、1918年〈大正7年〉8月9日 - 2018年〈平成30年〉8月9日)は、日本の実業家・政治家。富士市名誉市民。静岡県知事(第47・48代)、建設大臣(第44代)、衆議院議員(6期)、富士市長、吉原市長、大昭和製紙社長などを歴任した。 大昭和製紙の創業者、斉藤知一郎の次男。防衛庁長官を務めた元衆議院議員の斉藤斗志二は甥で養子。 静岡県出身。五年制男子校・静岡県立沼津中学校(現:静岡県立沼津東高等学校 共学)を経て、早稲田大学商学部卒業。大学卒業後の1940年、父・斉藤知一郎が創業した大昭和製紙に入社した。1961年より大昭和製紙副社長。 1964年、吉原市長に初当選し1966年の市町村合併により初代富士市長。
沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6… 沖 克已(おき かつみ、1918年8月9日 - 1993年6月15日)は、香川県坂出市出身のプロ野球選手(捕手)・プロ野球審判員。 香川県立坂出商業学校を卒業後、社会人の朝鮮竜山鉄道局でプレー。1937年に阪急軍に入団するが、その年限りで退団した。 太平洋戦争ではレイテ島の戦いに参加。捕虜収容所で、アメリカ軍の通訳にバッキー・ハリスがいるのに気づいて声をかけると、捕虜の雰囲気が一挙に好転、ハリスも再会を大変喜んだという逸話がある。 阪急軍退団後はプロ野球界との関わりを絶っていたが、1955年にパシフィック・リーグの東京審判部に入部し、プロ野球審判として再出発。以降、1988年に引退するまで一筋の道を往く。
河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 … 河合 斌人(かわい あやと、1918年〈大正7年〉8月8日 - 2005年〈平成17年〉9月6日)は、日本の実業家、教育者。河合塾理事長、山一證券副社長。 河合逸治の長男。東京商大を経て日本勧業銀行に入行し、経済安定本部や名古屋造船、山一證券にも出向した。後に実家の河合塾を継ぎ、弟の河合邦人と共に愛知県のローカル予備校から三大予備校の一角にまで育て上げた。1992年、フランス教育功労章オフィシエ受章。 静岡県生まれ。愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校、59回卒業)、名古屋高商(現・名古屋大学経済学部)を経て、1941年12月、東京商科大学(現・一橋大学)繰り上げ卒業(井藤半彌ゼミ)。卒業論文は「国際租税論の基本問題」。
吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 201… 吉野 文六(よしの ぶんろく、1918年8月8日 - 2015年3月29日)は、日本の外交官。
大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 … 大橋 秀一郎(おおはし しゅういちろう、1918年8月7日 - 2006年1月20日)は、日本の経営者。蝶理社長を務めた。 京都府京都市出身。1941年に大阪商科大学を卒業し、同年に蝶理に入社。1948年に取締役に就任し、1958年に常務、1964年に専務を経て、1969年3月に副社長に就任し、1970年5月には社長に昇格。1975年5月から相談役を務めた。1983年6月には家政学園理事長に就任。 2006年1月20日心不全のために死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
熊谷 清(くまがい きよし、1918年 <大正7年> 8月5… 熊谷 清(くまがい きよし、1918年 <大正7年> 8月5日 - 2010年 <平成22年> 2月20日)は、日本の経営者。川崎汽船社長、会長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1941年に京都帝国大学経済学部を卒業し、1942年に川崎汽船に入社。1967年5月に取締役に就任し、1970年11月に常務、1979年6月に専務を経て、1979年12月に副社長に就任し、1980年6月には社長に昇格。1985年6月に会長に就任し、1988年6月に相談役に就任。 1980年11月に藍綬褒章を受章し、1988年11月に勲二等旭日重光章を受章。 2010年2月20日に死去。91歳没。叙正四位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
御木本 美隆(みきもと よしたか、1918年(大正7年)8月… 御木本 美隆(みきもと よしたか、1918年(大正7年)8月5日 - 1996年(平成8年)1月15日)は、日本の実業家。御木本真珠店(現ミキモト)会長。日本真珠振興会会長、全国真珠養殖漁業協同組合連合会会長。ミキモトの創業者御木本幸吉の孫。 三重県出身。御木本隆三の長男。1941年、慶應義塾大学経済学部卒業。家業を継承する。住所は東京都港区。著書には『御木本幸吉の思い出』がある。 政治家の森清、洋画家の脇田和、月光荘画材店創業者の橋本兵蔵、作曲家の服部良一、広告代理店の宣弘社社長・小林利雄、建築家の谷口吉郎らと猪熊弦一郎を囲む日曜画家の会を作り、猪熊が飼っていた猫の名から「シャグリ会」と称して家族ぐるみの交流を楽しみ、1955年には、その仲間とともに、軽井沢に長屋形式の別荘「画架の森」を谷口の設計で建設した。
原田 義人(はらだ よしと、1918年〈大正7年〉8月5日 … 原田 義人(はらだ よしと、1918年〈大正7年〉8月5日 - 1960年〈昭和35年〉8月1日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。元東京大学教養学部教授。 東京生れ。1942年、東京帝国大学独文科卒業。在学中から新演劇研究会に参加、『亭主学校』では自らも舞台に立った。卒業後、応召。 戦後、俳優としてNHKに出演したこともある。復員して東大独文科助手ののち、1950年、東大教養学部助教授。1954年、ハンブルク大学日本語講師として渡独、ヨーロッパ各地を回り1956年帰国。同人雑誌「方舟」の編集長を務め、評論家・ドイツ文学者として翻訳にも健筆を振るい、将来を嘱望されたが1960年7月、教授昇任の後の8月、42歳の誕生日直前に死去。
松岡 久人(まつおか ひさと、1918年8月5日 - 200… 松岡 久人(まつおか ひさと、1918年8月5日 - 2009年2月12日)は日本の歴史家。広島大学名誉教授。専攻は日本中世史。 大分県出身。広島高等師範学校を経て1942年10月に廣島文理科大学史学科国史学専攻を卒業。1949年の広島大学発足時から国史学教室助手となり、1954年に講師、1958年に助教授、1972年に教授となった。広島史学研究会理事長、日本学術会議会員も歴任した。 中世史研究者として厳島神社や大内氏の研究をすすめ、史料編集を行った。1972年に「大内氏領国制の展開」により広島大学から文学博士の学位を授与される[要出典]。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年8月5日 - 199… 宇治谷 孟(うじたに つとむ、1918年8月5日 - 1992年11月5日)は、日本の歴史学者・国文学者。はじめて『日本書紀』の現代語訳を行ったほか、『続日本紀』の現代語訳も担当した。 1918年京都府生まれ。1941年に法政大学国漢科を、1943年に早稲田大学文学部を、1952年に立命館大学経済学部をそれぞれ卒業。清風高校等、幾つかの高校で教師を務めた後、最終的に滋賀文教短期大学教授および奈良芸術短期大学講師に就任。 早稲田大学在学中、歌人・国文学者の窪田空穂の授業を受けていた際、師の「日本の歴史を普通の人にも正しく理解してもらうために、『日本書紀』や『続日本記』を易しい現代語訳に訳したいが、自分にはその時間がない。
杉山 博(すぎやま ひろし、1918年8月4日 - 1988… 杉山 博(すぎやま ひろし、1918年8月4日 - 1988年10月20日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門は日本中世史。 神奈川県小田原市出身。國學院大學文学部で高柳光寿、渡辺世祐の指導を受け日本中世史を学び、1941年に卒業。卒業論文は「中世末期に於ける夫役に就て」。その後、兵役につき、戦後、1946年國學院大學図書館司書、翌1947年から東京大学史料編纂所に勤務し、1966年に助教授、1972年4月から1976年4月まで教授。1976年から駒澤大学文学部教授。 地方史研究協議会の創立にも加わっており、史料・文書や自治体史の編修に尽力した。
花山院 親忠(かさんのいん ちかただ、1918年〈大正7年〉… 花山院 親忠(かさんのいん ちかただ、1918年〈大正7年〉8月3日 - 1994年〈平成6年〉2月28日)は、日本の華族、神職。花山院家36代目当主。佐賀県立三養基高等学校校長、春日大社宮司を歴任した。 1986年当時、奈良県神社庁常任理事、神社本庁評議員、奈良県教育委員会委員であった。 大正7年(1918年)8月3日、花山院親家の長男として、東京府に生まれる。 大正13年(1924年)3月11日に父の親家が薨去すると、7月15日、6歳で家督を継承し襲爵した。第二開成中学校を経て、昭和12年(1937年)、國學院大學国文学科に入学。武田祐吉や折口信夫に学び、『御湯殿上日記』を研究した。 昭和16年(1941年)、國學院大學国文学科を卒業。
今井 則義(いまい のりよし、1918年8月2日 - 199… 今井 則義(いまい のりよし、1918年8月2日 - 1997年4月15日)は、マルクス経済学者。法政大学経営学部名誉教授。元東京交通短期大学学長。専攻は産業論、景気変動論。筆名・西原文夫。 広島県生まれ。1935年広島高等師範付属中学校卒業。1938年広島高等学校文科乙類卒業。1941年東京帝国大学経済学部経済学科卒業。石油統制会社調査課勤務(1946年石油公団に改組)。1951年運輸調査局経済調査部勤務。1957年法政大学経営学部助教授。1960年「戦後循環の分析」で経済学博士(法政大学)。1961年法政大学経営学部教授。1967-68年法政大学経営学部長。1968-72年法政大学常務理事。
河毛 一郎(かわけ いちろう、1918年8月2日 - 198… 河毛 一郎(かわけ いちろう、1918年8月2日 - 1988年6月20日)は、日本の官僚。海上保安庁長官を務めた。石川県出身。双子の弟に王子製紙社長を務めた河毛二郎がいる。 1953年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に運輸省に入省した。大臣官房審議官、船員局長などを経て、1968年に海上保安庁長官に就任。1978年には日本海員掖済会会長に就任。 1988年6月20日肝臓癌のために死去。69歳没。
河毛 二郎(かわけ じろう、1918年8月2日 - 2004… 河毛 二郎(かわけ じろう、1918年8月2日 - 2004年5月24日)は、日本の経営者。王子製紙社長、会長を務めた。 石川県出身。幼くして父を亡くし、母とともに祖父のもとで育つ。旧制四高を経て1941年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1968年11月に取締役に就任し、1971年11月に常務、1976年6月に専務を経て、1979年6月に副社長に就任し、1982年12月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1993年10月に名誉会長を経て、1995年6月から相談役を務めた。 1990年から1995年までに日本経営者団体連盟副会長を務めた 1984年11月に藍綬褒章を受章し、1993年11月に勲一等瑞宝章を受章。