石橋 彦三郎(いしばし ひこさぶろう、1855年〈安政2年5… 石橋 彦三郎(いしばし ひこさぶろう、1855年〈安政2年5月〉または1862年8月11日(文久2年7月16日) - 1938年または1939年)は、日本の実業家。滋賀県出身であるが、北海道に渡って「丸ヨ石橋彦三郎商店」の屋号で醤油醸造を手がけ、道内でトップ、日本でも「醤油御三家」に数えられる生産高の事業に育てた。 後の滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)に生まれる。出生当時の名前は「捨治郎」もしくは「捨次郎」。彦治の五男であった。 兄の先代・彦三郎は彦根藩が幕末に北海道日高国沙流に藩士を駐在させる際に御用商人として箱館で米穀荒物商を開き、1871年(明治4年)に小樽に店舗を移した。先代・彦三郎は海産物を江戸に運ぶ事業もおこなったとされる。
曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年… 曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年) - 1917年(大正6年)1月29日)は、明治時代に活動した浄土真宗本願寺派の僧侶。1889年(明治22年)にハワイに渡航し、在留日本人への開教(布教)活動を行った最初の僧侶として知られている。この活動は、本願寺派のハワイ開教の初期の例であり、また日本仏教の英語圏での開教の先駆でもあった。別号に点紅。 江戸時代幕末期の安政2年(1855年)、豊後国国東郡にある光徳寺(現在の大分県豊後高田市臼野)の長男として生まれ、西光寺(豊後高田市水崎)の住職東陽円月が開いていた「東陽学寮」に学ぶ。蒼龍と円月は縁戚関係にあり、円月は蒼龍の伯父(円月の弟の子が蒼龍)であり、さらに蒼龍は円月の娘「すず」を妻に迎えた。
清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月… 清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月) - 1928年(昭和3年)9月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥前島原藩領国東郡高田村(大分県西国東郡高田町、豊後高田町を経て現豊後高田市)に生まれる。1880年(明治13年)高田村会議員に就任したのを皮切りに、西国東郡会議員、同参事会員、同高田郵便電信局長、大分県木蝋業組合長、西国東郡農会長などを歴任する。ほか、実業家として共立高田銀行頭取、豊州製蝋社長、宇佐参宮鉄道取締役などを務めた。 1918年(大正7年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年7月20日から同年9月28日まで在任した。
手代木 茂篤(てしろぎ しげあつ、1855年 - 1928年… 手代木 茂篤(てしろぎ しげあつ、1855年 - 1928年1月6日)は、日本の政治家。明治時代の北海道胆振地方で行政首長を務めた。 仙台藩領亘理支藩(現在の宮城県亘理郡亘理町)出身。亘理伊達家家臣の手代木順造の長男。幼名は虎一郎だった。亘理伊達家の北海道移住にともない、1871年(明治4年)に15歳で渡道する[出典無効]。開拓に従事しながら1885年(明治18年)7月に有珠郡各村戸長役場用係に雇用される。 茂篤は長く伊達地方に住み、一時苫小牧の戸長を務め厚真村分村などを手掛けた後、再び伊達に戻り虻田戸長、伊達村助役、同村長を経て苫小牧村長となり、王子製紙建設時代の膨れ上がる苫小牧の行財政を担当した。
小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7… 小池 正直(こいけ まさなお、1854年12月23日(嘉永7年11月4日) - 1914年1月1日)は、日本の陸軍軍人。貴族院議員。陸軍軍医総監・正四位・勲一等・功二級・医学博士・男爵。山形県鶴岡市出身。 鶴岡藩医・小池正敏の長男として生まれる。大学東校に入り、陸軍軍医生徒となり、1881年3月、東京大学医学部を卒業。同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、佐藤佐、賀古鶴所であった。 同年6月、陸軍軍医副に任官し、東京陸軍病院に配属。大阪陸軍病院、軍医本部付(釜山駐在)、近衛付、軍医学舎教官、兼陸軍省医務局副課員、医務局第1課長心得などをへて、1888年3月からドイツに官費留学し、ミュンヘン大学で学んだ。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政… 遠藤 秀景(えんどう ひでかげ、1854年12月20日(安政元年11月1日)- 1911年(明治44年)5月16日)は、明治時代の政治家、漁業家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は岩太郎。 加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる。幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに付き剣術や槍術を学んだ。ついで島田定静の門に入り文学を修め、同門の塾長となった。18歳の時、仏学校に入るが退学し、県立中学に転じた。 1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した。
浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年1… 浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年10月28日) - 1920年(大正9年)2月11日)は、日本の医師、政治家。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安… 重野 謙次郎(しげの けんじろう、1854年12月16日〈安政元年10月27日〉 - 1930年〈昭和5年〉11月5日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→無所属)。 出羽国天童に天童藩士重野謙次郎の子として生まれる。戊辰戦争では藩主に従い奔走した。1869年(明治2年)、藩命により東京に遊学。一度は郷里に戻るも再び上京し、講学法社で法学を学んだ。1880年(明治13年)に山形で「法律学社」を創設し、自由民権運動を推進した。また集会条例改正を建白したことで衆望を集め、翌1881年(明治14年)7月、山形県会議員に選出された。1886年(明治19年)2月26日から1887年(明治20年)12月7日まで同副議長を務めた。
松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政… 松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政元年10月18日) - 1927年(昭和2年)10月7日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。茨城県結城郡宗道村長。 下総国、のちの茨城県結城郡宗道村(千代川村を経て現下妻市)出身。小川八郎の弟として生まれ、1874年(明治7年)松村新造の養子となり家督を相続したのち、更に養子直四郎に譲り、1912年(大正元年)11月分家する。 1889年(明治22年)以降、宗道村会議員、同村長、茨城県会議員、結城郡会議員などのほか、石下銀行取締役を歴任した。 1897年(明治30年)9月には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1898年(明治31年)7月5日まで務めた。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) -… 金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) - 1924年2月17日)は、明治期の官僚、満州開拓者、実業家。興亜会や黒龍会といったアジア主義団体に幅広く通じたナショナリストの魁的な存在。正式名は金子弥兵衛。 弥平はペリー来航の翌年、安政元年12月(1854年)に現在の岩手県花巻市で生まれる。金子家は近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる人物である。明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。
田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永… 田村 怡与造(たむら いよぞう、1854年11月30日(嘉永7年10月11日) - 1903年(明治36年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将、位階・勲等・功級は従四位・勲二等・功三級。 甲斐国東山梨郡相興村中尾(現山梨県笛吹市一宮町)に田村義事の長男として生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代に武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。1872年(明治5年)に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。早川七良の娘・伝子を妻に迎えて養子となり早川姓を名乗る。 1875年(明治8年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。
図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年1… 図師 民嘉(ずし たみよし、安政元年10月4日〈1854年11月23日〉 - 1922年〈大正11年〉7月1日)は、明治期日本の鉄道官僚。鉄道院計理部長などを歴任し、鉄道経理の確立を行った。 鹿児島市潮見町で生まれ、商法講習所(現一橋大学)で学んだ。1873年外務省入省。1876年から1878年までアメリカ合衆国で経理を学び、帰国後第五国立銀行入行。 1879年に工部省権少書記官任官以来、会計事務に従事し、日本における鉄道経理の確立を行った。 1884年鉄道局少書記官。1885年逓信省鉄道事務官。1890年鉄道局会計課長。1893年鉄道庁第三部長心得。同年逓信省計理課長。 1897年鉄道作業局計理部長。
伊藤 淳(いとう あつし、1854年11月22日(安政元年1… 伊藤 淳(いとう あつし、1854年11月22日(安政元年10月3日)- 1903年(明治36年)5月29日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越前国大野郡御領村(福井県大野郡阪谷村を経て現大野市御領)で、豪農・伊藤三郎左衛門の長男として生まれた。普通学を修めた。1874年(明治7年)8月に家督を相続した。 大区副区長、阪谷村五箇村組合長、大野郡会議員(2期)、同参事会員などを務め、明治初期に永昌社(金融機関)を創立して農家の便宜を図った。1885年(明治18年)11月、福井県会議員に選出され、1902年(明治35年)8月まで5期在任。この間、同常置委員、同参事会員などにも在任し、道路の整備などに尽力した。
林 泰輔(はやし たいすけ、1854年11月16日(嘉永7年… 林 泰輔(はやし たいすけ、1854年11月16日(嘉永7年9月26日) - 1922年(大正11年)4月7日)は、日本の漢学者。下総の人。号は進斎、字は浩卿、名は直巻。 儒学者・島田篁村の影響を受け経学を修める。はじめ朝鮮史の研究に従事し、明治時代の朝鮮史研究の開拓者となった。その後、中国の古代史の研究に転じ、1903年(明治36年)、中国で甲骨文字の拓本である『鉄雲蔵亀』が刊行されると(背景は中国の書道史#甲骨文を参照)、林はその古代文字を一見して非常な興味を覚え、『鉄雲蔵亀』をもとに未知の文字の解読を開始した。東京高等師範学校教授を務め、著書『周公と其時代』で学士院恩賜賞を受賞、『亀甲獣骨文字』の刊行で日本の甲骨学の先駆者となる。
梅津 清中(うめつ せいちゅう、1854年11月5日(安政元… 梅津 清中(うめつ せいちゅう、1854年11月5日(安政元年9月25日)- 1940年(昭和15年)7月27日)は、日本の政治家。元山形県南村山郡上山町長。 山形県南村山郡上山町(現上山市)出身。上山藩医の梅津清明の三男として生まれる。幼少の頃、上山藩の漢学者浅野普平から漢学を学ぶ。1870年(明治3年)から、東京帝国大学東校に学ぶ。 1880年(明治13年)8月に山形県議会議員改選に初当選、1884年(明治17年)5月満期退任。1899年(明治42年)3月に山形県議会議員補欠選挙に当選、1901年(明治44年)9月満期退任。1923年(大正12年)6月8日から1926年(大正15年)7月22日まで上山町長を務めた。
稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854… 稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854年10月30日〉 - 昭和15年8月31日〈1940年8月31日〉)は、日本の政治家、実業家。地主。 伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町)出身。元米子町会議員。酒・醤油醸造業合名会社稲田本店代表社員。稲田家の六代目。鳥取県平民。米子銀行監査役。元衆議院議員、稲田家の七代目稲田藤治郎の兄。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。10000円〜15000円の部に稲田秀太郎の名前がみえる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
黒瀬 與重郎(くろせ よじゅうろう、旧姓・高田、1854年1… 黒瀬 與重郎(くろせ よじゅうろう、旧姓・高田、1854年10月24日〈安政元年9月3日〉 - 没年不明)は、香川県多額納税者、香川県の大地主・家主、資産家。族籍は香川県平民。 香川県仲多度郡生野村(後の麻野村、善通寺町、現・善通寺市)、平民・高田恵八郎の四男。黒瀬與吉郎の養子となり、家督を相続する。商業を営む。1926年、退隠する。 諱は憲直、柳渚と号して書を好み、終生これを楽しむ。貝原益軒に私淑し、常にその著書を愛読する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。同地方屈指の大地主、資産家で、香川県下の多額納税者である。 與重郎の人柄は「社交界に出ることを好まず、政治を談ずることを欲せず、只詩文に親しんだ」という。
辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7… 辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本の建築家である。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(… 団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日)- 1923年(大正12年)12月3日)は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。 丹波国多紀郡八上内村(兵庫県多紀郡八上内村、八上村、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた。漢学、数学を修めた。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり、農業・酒造業を営む。 酒造組合長、城南村農会長を務め、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した。 政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた。
高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年… 高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7年/安政元年8月15日)- 1910年(明治43年)2月22日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。 会津藩上士(150石)の長男。幼時より英才を発揮し、1868年(明治元年)には数え14歳で会津藩小姓に抜擢され、戊辰戦争を戦った。 慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉… 下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉、1854年9月29日〈嘉永7/安政元年8月8日 - 1936年〈昭和11年〉10月8日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。 美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる。実弟は平尾鍗蔵。 祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818–1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。
佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉… 佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉永7年8月8日) - 1943年(昭和18年)12月28日)は、東京(江戸)出身の銀行家、実業家。号は茗香。 嘉永7年8月8日、武蔵国江戸本所六間堀(現 江東区新大橋)で生まれる。幼名清松。父は旗本浅野伊賀守の家臣佐々木直右衛門。 幼くして藤沢次謙に算術の手ほどきを受け、のち幕府講武所傘下で築地にあった軍艦操練所で数学始め西洋実学を修得。さらに青木松次郎福軒の塾で漢学を習い、余暇に剣術を学ぶといった当時の武士の子弟の教育を受けて育つ。 明治維新後、三井小野組の為替方に入り1873年(明治6年)に三井小野組を中心とする第一国立銀行が創立されると、それに伴い同行へ移籍。
斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(… 斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(1854年9月20日) - 1925年(大正14年)7月25日) は、戦前宮城県の資産家、政治家、実業家。石巻市黒沢斎藤家9代目。名は有成。前谷地村二等戸長、斎藤株式会社社長、財団法人斎藤報恩会理事長、仙台信託取締役社長。 安政元年閏7月28日(1854年9月)、黒沢斎藤家の8代斎藤善次右衛門の長男として陸奥国桃生郡前谷地村黒沢に生まれた。幼名は養之助。黒沢斎藤家は東北三大地主と称される大地主の近代資産家であった。 地元で増田小五郎に四書五経の句読を受け、慶応3年(1867年)仙台に出て叔母すゑの白幡嘉膳宅に住み、藩校養賢堂に通い、秋保太輔に経史、桜田景輔に剣道を学んだ。
山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月… 山川 健次郎(やまかわ けんじろう、嘉永7年/安政元年閏7月17日〈1854年9月9日〉- 昭和6年〈1931年〉6月26日)は、明治から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者。男爵、理学博士。東京帝国大学総長の在任期間は計11年11か月に及び歴代最長。 会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦った後、アメリカへの官費留学を経て東京開成学校・東京大学(日本人初の物理学教授)に登用された。その後、東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵高等学校中学校および武蔵大学の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。
古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854… 古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月12日〈1854年9月4日〉- 昭和9年〈1934年〉1月28日)は、日本の学者。工学博士。帝国大学工科大学初代学長。東京仏学校(法政大学の前身の一つ)初代校長。土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理化学研究所第2代所長。東京帝国大学名誉教授。男爵。 帝国大学工科大学長・土木学会長・工学会(日本工学会)理事長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を創った。 古市公威は、大和武士古市氏の末裔である姫路藩士古市孝の長男として旧暦嘉永7年(1854年)に江戸の藩屋敷で生まれた。明治2年(1869年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学、明治3年(1870年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。
菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7… 菊池 武夫(きくち たけお、1854年8月21日(嘉永7年7月28日) - 1912年(明治45年)7月6日)は、日本の法学者。法学博士。陸奥国岩手郡外加賀野村(南岩手郡を経て岩手県盛岡市加賀野)出身。司法省民事局長、東京弁護士会会長、中央大学初代学長、貴族院勅選議員等を務めた。 1854年(嘉永7年)7月28日、岩手郡外加賀野村(後の盛岡市加賀野)にて、盛岡藩士の菊池長閑と茂の長男として生まれた。武夫の名は元服の際に作人館の教授であった江幡五郎(後の那珂通高)によって名付けられた。 1875年(明治8年)大学南校(後の東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリカボストン大学法学校へ留学した。
高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(… 高山 真平(眞平、たかやま しんぺい、1854年8月18日(安政元年7月25日)- 1933年(昭和8年)9月3日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員。 日向国那珂郡板敷村(宮崎県南那珂郡飫肥村、飫肥町字板敷を経て現日南市板敷)で、飫肥藩士・高山伝蔵、のぶ の長男として生まれ、1881年(明治14年)2月に家督を相続した。藩校で学び、その後上京して岡松甕谷に師事した。 1883年(明治16年)7月、宮崎県御用掛となり庶務課に配属。以後、8等属、7等属・地理課勤務、町村制施行順序取調委員、判任官6等・学務課勤務などを歴任し、1892年(明治25年)4月、南那珂郡長に就任。1895年(明治28年)5月、高等官7等に進み、同年8月、病のため退官した。
赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月… 赤土 亮(あかど りょう、1854年8月14日(安政元年7月21日) - 1906年(明治39年)6月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国石川郡宮腰町(金石本町、石川県石川郡上金石町、金石町を経て現金沢市)出身。金沢師範学校で学ぶ。小学校訓導、石川郡金石町戸長、同町助役、同町長、同町会議員、石川郡会議員、石川県会議員、加能合同汽船(株)支配人となる。 1898年3月(明治31年)第5回衆議院議員総選挙において石川1区から自由党公認で立候補して初当選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して再選する。1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1906年に死去した。
右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7… 右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7月19日)- 1933年(昭和8年)12月12日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 石見国那賀郡田野原村(島根県那賀郡杵束村、弥栄村を経て現浜田市弥栄町田野原)で、豪農・右田常十郞の長男として生れ、右田古信の養子となった。津和野の福羽美静に師事し漢学を修めた。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1874年(明治7年)木束部副戸長に就任。以後、田野原村会議員、町村浦連合会議員、杵束村会議員、町村組合会議員、田野原区会議員などを務めた。1885年(明治18年)島根県会議員に選出され、1894年(明治27年)同議長に就任。
中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、… 中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、嘉永7(安政元)年7月18日(1854年8月11日)- 大正2年(1913年)11月14日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→憲政本党→立憲国民党)。 上野国佐位郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)出身。豪農・先代中島祐八(2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子)の長男として生まれ、1874年(明治7年)に副区長、1877年(明治10年)に学区取締、1881年(明治14年)に県会議員に就任した。1883年、「上野新聞」を発刊。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した。
加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(185… 加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(1854年8月11日) - 昭和16年(1941年)8月2日)は、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任した。 武蔵国足立郡滝馬室村(現・埼玉県鴻巣市)加藤唯右衛門の長男として生まれる。1869年、英漢私塾を開く。16歳で父を亡くす。。馬室村の村長に就任した。糠田学校の教員時代に白根多助埼玉県令に見出され、県の学務課に就職したが、友人の桐原捨三の誘いで、1875年(明治8年)11月、慶應義塾に入学。在学中より、東京日日新聞や東京曙新聞に寄稿していた。福沢諭吉の紹介で五代友厚が経営する大阪新報記者となり、同紙にて、福沢が提唱していた商業学校設立の啓蒙キャンペーンを行い、大阪での商業講習所設立に尽力する。
鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7… 鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7年7月12日)- 1945年(昭和20年)8月20日)は、明治時代から昭和時代の医師、軍医。 三河国田原藩士の鈴木方舊の三男として生まれる。1879年家督を継ぐ。東京医学校を卒業。1883年、愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)の校長に就任。後に海軍に入り、軍医となって軍医学校長などを歴任。1900年、海軍軍医総監となる。横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府の医務部長を歴任した。海軍軍医中将となり、1902年に医学博士となる。1906年、予備役に編入となる。 1907年、東京市麻布区飯倉にて肺結核専門の鈴木医院を開業する。1911年には鎌倉七里ヶ浜に鈴木結核療養所を設立した。
河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年… 河井 重藏(かわい じゅうぞう、1854年8月5日(安政元年7月12日) - 1925年(大正14年)1月26日)は、日本の政治家。河井 重蔵(かわい じゅうぞう)と表記されることもある。 静岡県会議員(2期)、衆議院議員(3期)などを歴任した。 1854年、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。父である河井重高は上張村の庄屋であった。 静岡県会議員選挙に立候補し当選を果たし、2期に渡って務めた。在任中は、静岡県磐田郡佐久間村(のちの浜松市)にて発生した久根鉱山の鉱毒事件の解決に取り組んだ。この頃、足尾銅山にて同じく鉱毒事件の解決に取り組んでいた、政治家の田中正造と知り合う。1897年に足尾銅山を視察に訪れた際には、田中が案内役を買って出ている。
岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日(嘉永7… 岡山 兼吉(おかやま けんきち、1854年7月31日(嘉永7年7月7日) - 1894年(明治27年)5月28日)は、明治時代の弁護士、衆議院議員(当選1回)。東京専門学校(早稲田大学の前身)および英吉利法律学校(中央大学の前身)の創設に参画したことでも知られる。号は梧堂。 遠江国城東郡横須賀(現在の静岡県掛川市)生まれ。初名重吉。父の定基は横須賀藩の元締役。1865年(慶応元年)に同藩の三好左衛の養子となり、このとき兼吉と改名。維新後いったん実家に戻り、横須賀藩は安房国の花房藩に転封となったため、1869年移住する。同藩士の赤岩亀六の養子となるが、勉学で身を立てるに伴い解消している。藩の家老であった永富謙八の助けで、新潟英語学校に入学し、東京開成学校を経て、1882年に東京大学を卒業。
岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月2… 岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月29日〉 - 1903年〈明治36年〉9月30日、ローマ字表記: Oka Tokita)は、日本の政治家。群馬県勢多郡荒砥村(現・前橋市二之宮町)出身で、同村の初代村長を務めた。群馬県会議員、勢多郡会議員としても活動したほか、地域の寺子屋教育に関与した記録が残る。 安政元年(1854年)、上野国勢多郡二之宮村に、父・岡孝十郎、母・かくの長男として生まれる。 明治維新により大区小区制が施行されると、戸長に就任した。 1889年(明治22年)3月4日、町村制施行により荒砥村が発足し、初代村長に就任した。1901年(明治34年)まで在職。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に選出された。
小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6… 小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6月30日〉 - 1920年〈大正9年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家。 陸奥国盛岡呉服町にて、豪商小野組の支流である芳野屋の子として生まれた。藩校作人舘に学び,1872年(明治5年)、18歳で京都に出て商業の修業をした。帰郷後に金銀・株売買業で産を成し、盛岡の経済界に頭角を現すようになる。盛岡に市制が施行された1889年(明治22年)に35歳で市会議員となり、1912年(明治45年)まで23年間務めた。 1890年(明治23年)第九十国立銀行取締役に就任以来、同行株式を集め、筆頭株主でありながら1907年(明治40年)に(旧)岩手銀行を設立し、これ以来、“盛岡経済界の風雲児”と呼ばれるようになる。
井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854… 井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854年7月20日) - 大正7年(1918年)6月23日)は、秩父事件の中心人物の一人。 井上類作の次男として武蔵国下吉田村(のちの埼玉県秩父郡吉田町、現秩父市)に生まれる。幼名は治作。長男が早くなくなったため、商家「丸井」を継ぎ、代々の「伝蔵」を名乗る。商用で上京するうち自由民権運動に共鳴し、自由党に入る。 1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件では会計長を務めた。秩父事件敗北後、逃亡。欠席裁判で死刑の判決を受けたが、北海道に潜行していた。北海道石狩で代書屋を開業、1905年(明治38年)「代書人取締規則」の施行で規制が強化され、逃亡中の身であり身分証提出ができず代書業を廃業せざるを得なかった。
西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(… 西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(安政元年6月25日) - 1925年(大正14年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越中国新川郡舌山新村(のち富山県下新川郡若栗村→桜井町、現・黒部市)出身。漢学と英語を学ぶ。生家は地主で酒造業を営んだ。学務委員、若栗村外二十三ヶ村戸長、同村会議員、下新川郡会議員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において富山2区から進歩党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1925年に死去した。
鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月… 鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月16日(1854年7月10日)- 昭和5年(1930年)5月23日)は、日本の政治家、外交官、弁護士。旧姓・木村。 伊勢国河曲郡神戸(現三重県鈴鹿市)で、神戸藩士・木村家の二男として生まれ、鈴木公充の養子となる。藩選抜により上京し、慶應義塾を経て、1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。 学習院教授兼監事、外務省御用掛などを務める。1886年(明治19年)2月、朝鮮国仁川在勤領事に就任。1889年(明治22年)3月、香港在勤領事に転じ、1890年(明治23年)2月まで務めた。 第9代内務次官として1898年(明治31年)7月から10月まで勤める。
金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年… 金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1921年(大正10年)3月23日[3])は、幕末から大正期の僧侶、政治家。衆議院議員(通算8期)、官選県知事。旧名・楞厳。
海山 太郎(かいざん たろう、1854年7月8日(嘉永7年6… 海山 太郎(かいざん たろう、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1926年(昭和元年)12月30日)は、高知県香南市香我美町岸本出身の大相撲力士。本名は河野 貞太郎(こうの(かわの) さだたろう)。 1854年(嘉永7年)7月8日(旧暦6月14日)に高知県香南市香我美町岸本の武士の家に生まれる。子供の時から板垣退助の相撲道場に入り、脇の磯と名乗って土地相撲で活躍する。あまりに強すぎて歯の立つ相手がいないので、「当たるもの皆散る」という意味の「皆散」というニックネームを同僚から呈上されていた。1877年(明治10年)に仲間と共に大坂相撲猪名川部屋へ加入して「皆散」を「海山」と書き換え、1879年9月場所に「海山貞吉」の四股名で新入幕を果たした。
柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日〈嘉永7年… 柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日〈嘉永7年6月11日〉- 1920年〈大正9年〉11月26日)は、上州出身の錦糸商。当主は代々柿沼谷蔵を襲名した。 柿沼家は代々上州館林で魚商を営んでいたが、先々代が江戸に出て上州屋と號し綿絲商を開業。当代谷蔵は旧姓を増山といい、上野館林藩領邑楽郡館林町(群馬県邑楽郡館林町を経て館林市)増山清蔵の二男として生まれた。1879年(明治12年)1月、先代・柿沼谷蔵の二女・はなと結婚。婿養子となり、1881年(明治14年)に家督を相続する。綿糸業を継ぎ、1887年(明治20年)には日本橋区堀江町にあった店舗を小網町に移転し業務を拡大。商業会議所特別議員を務め、東京瓦斯、金町製瓦(日本煉瓦製造の前身のひとつ)、下野紡績(東洋紡の前身のひとつ)、東京製糸、第一生命保険などの創設に関与した。
佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月… 佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月11日)- 1921年(大正10年)7月17日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡谷村長。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡谷村(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町)で、佐藤運喜の長男として生まれる。1867年(慶応3年)熊本藩英式練兵小隊長となる。1872年(明治5年9月)家督を相続した。農業を営む。 1873年(明治6年)保長、1876年(明治9年)戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により誕生した谷村の初代村長となり1893年(明治26年)まで在任。1901年(明治34年)4代谷村長に再任され1903年(明治36年)まで務めた。
井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(185… 井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(1854年7月4日) - 昭和15年(1940年)6月24日)は、日本の牧師。日本基督教会の指導者。明治学院の2代目総理、日本基督教青年会同盟委員長を務めた。 会津藩士井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主松平容保の小姓であった。慶応4年(1868年)15歳の時白虎隊年少組の斥候として会津戦争に加わる。また小姓として松平容保の側で、山川健次郎、高木盛之輔、高峰秀夫らと共に戦った。 敗戦後、会津藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送る。1869年(明治2年)の年の初め、藩士は東京に護送されることになったが、井深は老幼女子に行くように命じられ、河沼郡水谷地村(現、喜多方市豊川町高堂太水谷地)に帰り、親族と共同生活をする。