雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永… 雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永6年1月5日)- 1911年(明治44年)1月2日)は、明治期の政治家、教育者。衆議院議員、山形県山形市長(第2代)。 出羽国村山郡、現在の山形県山形市で山形藩士の家に生まれる。漢学、英学を修めた。 小学校教員、南村山郡学務委員、戸長などを歴任。山形市助役に就任。濱村勘太郎初代市長の辞職に伴い、1894年(明治27年)12月10日、第2代山形市長に就任し、1901年(明治34年)11月9日まで在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で山形県山形市選挙区より立憲政友会所属で立候補したが次点で落選。1903年(明治36年)3月の第8回総選挙では無所属で出馬して初当選。
田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853… 田中 源太郎(たなか げんたろう、嘉永6年1月3日(1853年2月10日) - 大正11年(1922年)4月3日)は、京都府旧桑田郡亀山北町生まれの政治家、実業家。1869年亀岡陸運を創業、のちに京都株式取引所、京都商工銀行、亀岡銀行の各頭取などを務めた。衆議院議員当選3回(1、2、3回総選挙)、貴族院多額納税者議員。 丹波国桑田郡亀山北町(現在の京都府亀岡市)に、田中蔵一の次男として生まれたが、兄が早くに亡くなったため田中家の家督を継ぐべく英才教育を受けて育った。北村龍象の私塾学半堂や横井忠直、山本覚馬らにも師事し、儒学、政治経済など幅広い分野を成績優秀で修めたとされる。田中家は代々亀山藩の御用商人として取り立てられた商家として栄え、父・蔵一は櫓奉行格に取り立てられ、会計方として亀山藩に仕えていた人物であったため、源太郎も経済界で活躍することを期待されて育った。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(… 大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(嘉永5年12月25日) - 1888年(明治21年)1月2日) は植林家・政治家。 1853年2月3日(嘉永5年12月25日)に近江国犬上郡(後の日夏村、現・滋賀県彦根市日夏町)に生まれる。1878年に日夏村の戸長となり、1881年には県会議員も務めた。1887年には日夏村から東海道本線が開通していた河瀬村南川瀬の区間に日夏街道を開通させるなど地域の交通面の整備を手がけた。 1872年当時の日夏村民たちは生活苦のために、荒神山の樹木を伐採し売却して生計を維持していた。乱伐のために荒神山はわずかな年月の間にはげ山となり治水機能が低下して土砂崩れがしばしば発生していた。
鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉… 鈴木 文三郎(すずき ぶんざぶろう、1853年1月30日(嘉永5年12月21日)- 1926年(大正15年)11月9日)は、明治から大正期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、岩手県東磐井郡生母村長。 陸奥国磐井郡赤生津村(岩手県岩井郡赤生津村、東磐井郡生母村大字赤生津、前沢町を経て現奥州市前沢生母)で肝入・鈴木兵之助の長男として生まれた。漢学を修めた。1886年(明治19年)3月、家督を相続した。 1873年(明治6年)水沢県地租改正掛勤務となる。1876年(明治9年)2月、磐井県15等出仕となり同年4月まで在任。同年8月、岩手県等外1等出仕となり、同県17等出仕、同10等警部を経て、1879年(明治12年)7月、新潟県9等属に転じ、1880年(明治13年)9月に退官した。
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈… 北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、嘉永5年12月20日〈1853年1月29日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。 貴族院議員、私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長・北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。 「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。
武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年1… 武谷 水城(たけや みずき、1853年1月25日(嘉永5年12月16日) - 1939年(昭和14年)8月15日)は、日本の陸軍軍医、郷土史研究家。 福岡藩士尾石信一(惣平)の二男尾石豊として、筑前国御笠郡水城村(現・福岡県太宰府市)に生まれる。藩校修猷館および文武館に学んだ後、1872年に金沢医学校(医学館)に入学し、オランダ人医学者スロイスに医学を学ぶ。1874年福岡藩医武谷祐之の養嫡子となり、1876年祐之の三女仲と結婚する。祐之は福岡藩主黒田長溥の侍医であり、九州大学の源流とされる藩医学校賛生館の創立に尽くしている。祐之の父は長崎でシーボルトに西洋医学を学んだ福岡藩御目見医武谷元立である。
神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永… 神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永5年12月16日)– 1917年(大正6年)5月4日)は、明治・大正期の地主、政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・堀内。 紀伊国名草郡神前村(和歌山県名草郡岡崎村、海草郡岡崎村を経て現和歌山市)で堀内伊兵衛の長男として生まれ、豪農・神前吉次郎の養子となる。漢学を修めた。 1888年(明治21年)1月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選。1889年(明治22年)、1894年(明治27年)、1898年(明治31年)に再選され、1899年(明治32年)9月に退任。1901年(明治34年)5月に補欠選挙で当選し、1902年(明治35年)8月に衆議院議員に当選のため辞職した。
硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉… 硲 俊聡(俊聰、はざま しゅんそう、1853年1月24日(嘉永5年12月15日) - 1931年(昭和6年)8月30日)は、明治から昭和初期の教育者、政治家。衆議院議員、第5代・10代山口県会議長、山口県玖珂郡伊陸村長、同郡神代村長。旧姓・村岡、旧名・米村平之進。 周防国玖珂郡神代村原(山口県玖珂郡神代村、由宇町を経て現岩国市)で、村岡伝左衛門の三男として生まれる。兄に村岡柳太郎。 米村家の養子となるが、その後、伊陸村の硲家の養子となる。幼くして学問を好み、藩儒の東沢瀉に学び、和漢学を修めた。戊辰戦争では精義隊に入隊し中央隊長として奥羽に出征した。 大阪開成所(のち大阪英語学校)で仏蘭西学を学び、1878年(明治11年)官立大阪師範学校を卒業した。
石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年… 石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年12月15日)- 1929年(昭和4年)11月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・元満。 筑前国福岡城下(現福岡市)で、福岡藩陪臣・元満元二の長男として生まれる。漢学を修めた。 維新後に商売を営むが成功せず、1874年(明治7年)博多に移転し回漕業を営む。郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎と面談して同社保有船の博多寄港の約束を取り付けた。1877年(明治10年)10月、先代石田平吉の養子となり家督を相続し旅人宿業を営む。西南戦争では陸軍物資の輸送に従事。1889年(明治22年)九州鉄道の敷設に際して建築資材の運搬を担った。
斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉… 斎藤 卯八(齋藤、さいとう うはち、1853年1月17日(嘉永5年12月8日)- 1912年(明治45年)2月9日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 甲斐国巨摩郡上今諏訪村(山梨県中巨摩郡今諏訪村、白根町を経て現南アルプス市上今諏訪)で、名主の家に生まれる。巨摩郡西野村の宮浦東谷から普通学を学び、徽典館で漢学を修め、さらに甲府育英舎で学んだ。農業を営む。 1873年(明治6年)10月、上今諏訪村副戸長に就任。以後、同戸長、巨摩郡第13区戸長、今諏訪村会議員、中巨摩郡豊村外三ケ村連合村会議員、同郡御影村外三十八ケ村組合村会議員、同郡在家塚村外二ケ村連合村会議員などを務めた。1890年(明治23年)末、立憲自由党に入党した。
牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5… 牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日)- 1899年(明治32年)12月20日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎。 越後国刈羽郡荒浜村(新潟県刈羽郡荒浜村を経て現柏崎市荒浜)で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき、柏崎県立学校で学んだ。 海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた。 1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた。
東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉… 東海 散士(とうかい さんし、本名:柴 四朗〈しば しろう〉、1853年1月11日〈嘉永5年12月2日〉 - 1922年〈大正11年)9月25日〉)は、旧会津藩臣(白虎隊士)で、明治から大正にかけての小説家・新聞記者・政治家。財務学士。陸軍大将柴五郎は実弟。代表作は政治小説『佳人之奇遇』。 会津藩士で御物頭格役黒紐(280石)であった柴佐多蔵繁吉(1812–1882)と妻フジの四男(第8子)として、上総国君津郡富津村の会津藩陣屋(弘化4年から嘉永7年まで会津藩が富津台場の警備を担当)に生まれる。幼名は茂四朗。幼少期より病弱であったが文才に恵まれていたという。 藩士子弟の通例に従い、数え10歳より藩校日新館にて小笠原午橋・南摩綱紀に就いて漢学を修め、大学部を経たのち上洛。
十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉… 十文字 信介(じゅうもんじ しんすけ、1853年1月8日(嘉永5年11月29日) - 1908年(明治41年)8月12日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。号に海山猟夫、尊農子。 涌谷伊達家家臣・十文字秀雄の長男として陸奥仙台藩領遠田郡涌谷(現涌谷町)に生まれる。家は代々亘理氏に仕え砲術を能くした。8歳にして小姓となり、のち砲術を習った。その後、1871年(明治4年)上京し箕作麟祥の塾に入り英学を修め、ついで海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)に学んだ。津田仙の学農社編集長、広島県、宮城県各勧業課長、宮城郡長を歴任したのち、雑誌『農事新報』を発刊した。ほか仙台区長を務め、鉄砲販売業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮城県第3区から大成会所属で出馬し当選。
曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11… 曽禰 達蔵(そね たつぞう、1853年1月3日(嘉永5年11月24日) - 1937年(昭和12年)12月6日)は日本の建築家。
井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 … 井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 - 没年不詳)は、日本の編集者である。 1853年(嘉永6年)近江国大津(現滋賀県大津市)に生まれた。 初め京都で書肆をやっていた須磨勘兵衛に雇われた後、京都の福井源次郎の書肆に転職した。その後、名古屋の紙久の養子となった。 1881年(明治14年)に上京した。 1886年(明治19年)に氷業を営んだが廃業し、同年10月に東京の京橋区南大工町で「魁眞棲」という社名で書籍業を始めた。 1889年(明治22年)同業者を勧誘して図書の競り市の第一回を挙行し、井口自身は販売人の振手を務めた。 1891年(明治24年)東京の神田錦町に移り書籍小売行を開始した。
高橋 亦助(たかはし またすけ、1853年 - 1918年)… 高橋 亦助(たかはし またすけ、1853年 - 1918年)は、明治から大正にかけての高炉技師。西洋式の製鉄所として我が国で初めての事業的な成功例となった釜石鉱山田中製鉄所の創立に寄与した。 陸奥国(岩手県)釜石村東前、上の沢の旧家で肝煎を務めた父・岩間宇右衛門と母・トメ(高橋は母の旧姓)の三男として1853年(嘉永6年)に生まれる。1857年(安政4年)5歳の時に父と死別し、その翌年より当時生家の近くにあった石応禅寺の学僕となったが、2年で寺を飛び出して遠野の商家や釜石の漁師の手伝いなどをしていた。 1875年(明治8年)亦助22歳の時に工部省鉱山局釜石出張所の求人に応募し採用される。5年越しの建設工事が終わり、1880年(明治13年)より日本で最初の官営製鉄所が操業開始。
植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 19… 植田 治作(うえだ じさく、1853年(嘉永6年) - 1925年(大正14年))は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡会議員、同郡彦島村会議員)、実業家。 長門国彦島西山(現・山口県下関市)出身。植田甚之丞の嫡子。1889年、町村制が実施されると推されて村会議員となり30余年間その公職にあって村政に参与し、その間には郡会議員となり信用組合・漁業組合の理事及び各種の名誉職に挙げられた。 1915年11月、彦島村長より、1919年10月、山口県知事より村治功労者として同年10月には彦島町長より1922年4月、豊浦郡長より自治功労者として表彰され、里人の手によって頌徳碑が建設された。 貧困な家を復興すると同時に全身熱血を注いで部落の青年を薫陶し、常に誠意をもって不言実行した。
高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しん… 高瀬 羽皐(たかせ うこう、本名: 高瀬 真卿(たかせ しんきょう)、嘉永6年(1853年)-大正13年(1924年)11月17日)は、明治時代から大正時代にかけてのジャーナリスト、社会事業家、刀剣研究家。幼名・政吉。号は羽皐隠史、往生庵、菊亭静、茂顕、茂卿など。ほかに、高瀬真之助(介)、高瀬松吉、高瀬恭助、高真卿、高瀬鉄窓、高瀬紫峯、鉄窓学人、天賜苑、東台隠士、柳窓外史、茂湿、春雨、春雨静、藤原静、藤原茂、藤の舎茂、高瀬真藁、高瀬巳之吉、佐野尚、近藤東之助、春秋堂、萩村など、約30もの筆名を使った。 茨城県水戸市下市に米穀炭商・高瀬儀平次の長男・政吉として生まれ、水戸学派の川崎巌雄、庄司春村の塾で漢籍を学ぶ。
束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)… 束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)は、明治時代の武士(薩摩藩士)、軍人。 現在の宮崎県都城市出身。1877年(明治10年)、15歳で薩摩軍に参加し、西南戦争で戦死した。 熊本市北区(旧植木町)の荻迫薩軍台場跡に墓碑が建立されており、墓碑銘は「東野」と刻まれているが誤記とされている。没後55年を経た1932年(昭和7年)に、当時の陸軍大臣である荒木貞夫による慰霊碑が建立されている。 『田原坂甚句』に歌われる「美少年」のモデルとされるが、モデルは束野一人ではないともされる。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
佐藤 百太郎(さとう ももたろう、1853年(嘉永6年) -… 佐藤 百太郎(さとう ももたろう、1853年(嘉永6年) - 1910年(明治43年)12月24日)は、日本の実業家(貿易商)。日本における百貨店の創始者であり、日本領事をも務めた。明治4年(1871年)岩倉使節団一行の通訳としても活躍した。藍綬褒章受章。義兄に日米貿易の先駆者である8代目・大野伝兵衛(大野秀頴 1829年 - 1876年 7月29日)。 1853年(嘉永6年)、下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市の本町)に順天堂2代目佐藤尚中の長男として生まれる。成徳館(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)を経て、元治元年には横浜のヘボン塾(現在の明治学院高校の前身)で米国長老派教会系医療伝道の宣教師、ヘボン夫人から英語を学ぶ。
美濃部 貞亮(みのべ ていりょう、1853年(嘉永6年5月)… 美濃部 貞亮(みのべ ていりょう、1853年(嘉永6年5月) - 1904年(明治37年)8月19日)は、日本の弁護士、政治家。 尾張国出身。山田松斎の門下にて学んだ後、明治法律学校(現明治大学)で磯部四郎から学び、1882年に仁杉英(のちの衆議院議員)らと共に、「治罪法詳解」を著した。名古屋にて弁護士を開業した後、1888年愛知県会議員となり、愛知県会副議長に就任。1890年の第1回衆議院議員総選挙で愛知県第11区から出馬し、当選した。 曾孫がイオングループ創業者の岡田卓也。玄孫にはイオングループ経営者の岡田元也と政治家の岡田克也(外務大臣、元民主党党首)などがいる。
赤川 霊巌(あかがわ れいがん、1853年(嘉永6年1月)-… 赤川 霊巌(あかがわ れいがん、1853年(嘉永6年1月)- 1925年(大正14年)5月18日)は、明治時代の政治家。浄土真宗本願寺派の僧侶。衆議院議員(1期)。 安芸広島藩領高田郡、のちの可愛村(広島県高田郡吉田村、吉田町を経て現安芸高田市)出身。慶應義塾に学ぶ。私財を投じて私立学校洗心館を設立し、館長兼講師となった。のち還俗し、1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第4区から出馬し当選。大成会に所属し衆議院議員を1期務めた。
小野 吉彦(おの よしひこ、1853年(嘉永5年12月)- … 小野 吉彦(おの よしひこ、1853年(嘉永5年12月)- 1908年(明治41年)3月3日)は、明治期の銀行家、政治家。衆議院議員。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡豊府村(大分町を経て現大分市南大分)で、小野吉郎の長男として生まれた。 大分郡会議員、同参事会員を務める。1880年(明治13年)大分県会議員に選出され、衆議院議員在任中を除き、1895年(明治28年)まで務め、この間、副議長に2度在任した。1882年(明治15年)立憲改進党の結党に設立準備委員として参画。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(大分県第1区、無所属)では落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(大分県第1区、弥生倶楽部(自由党))では元田肇に競り勝って当選し、その後、同志倶楽部(同志政社)に所属し衆議院議員に1期在任した。
清水 文二郎(淸水、しみず ぶんじろう、1853年(嘉永6年… 清水 文二郎(淸水、しみず ぶんじろう、1853年(嘉永6年1月) - 1920年(大正9年)3月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 石見国邇摩郡大国村(のち島根県邇摩郡明治村→大国村→仁摩町、現・大田市)生まれ。漢学を学ぶ。日貫村(のち石見町、現・邑南町)連合会議員、同村学務委員、徴兵参事員、市木村(のちに瑞穂町(現・邑南町)と那賀郡旭村(のち旭町、現・浜田市)に分割)戸長、勧業諮問会員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において島根4区から無所属で立候補したが落選。1892年の第2回衆議院議員総選挙では弥生倶楽部所属で再び立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲改進党で立候補したが落選。
阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は… 阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は幕末から明治・大正期の滋賀県の実業家。 1853年(嘉永5年)、近江国甲賀郡水口宿本陣の鵜飼家に生まれる。幼時巖谷一六・小波等の知遇を得、白峰と号して書・詩を嗜む。近江国能登川の近江商人の老舗阿部市郎兵衛家分家阿部利兵衛家の養子となり第2代利兵衛娘なをと結婚し家督を継ぐ。その後金巾製織(現在の東洋紡の前身のひとつ)、近江銀行、関西鉄道などを発起人のひとりとして創業。金巾製織専務、大和紡績(やまとぼうせき、現在のユニチカの前身のひとつ)社長、能登川村長などを歴任。1927年(昭和2年)2月18日74歳で死去。 長女はつは膳所藩筆頭家老戸田資慶長男元寿と結婚。
中山 丹治郎(なかやま たんじろう、1853年(嘉永6年1月… 中山 丹治郎(なかやま たんじろう、1853年(嘉永6年1月)- 1900年(明治33年)12月4日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員、栃木県会議長、宇都宮市会議長。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)で、松兵衛の長男として生まれる。法律学を修めた。17歳で家督を相続し、戸長、土地実地測量委員などを務めた。1879年(明治12年)代言人(弁護士)免許状を取得し、宇都宮江野町で開業した。 自由民権運動に加わり、新井章吾、塩田奥造らと国会開設運動、反三島闘争などを進めた。1884年(明治17年)加波山事件では関係者として一時拘引されたが、釈放後、容疑者の弁護人となった。1887年(明治20年)条約改正反対運動に加わり、保安条例違反で皇居三里外に退去を命じられた。
中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(… 中村 克昌(なかむら かつまさ / こくしょう、1853年(嘉永6年4月)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 武蔵国多摩郡上石原宿(布田五宿)(神奈川県北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、上石原宿名主・中村勘六の長男として生まれた。呉服雑貨商を営む。 1872年(明治5年)初代戸長に就任。1873年(明治6年)新治県に出仕し庶務課の業務に従事。1879年(明治12年)民権政社「融貫社」が設立されると加入して自由民権運動に加わる。1881年(明治14年)10月、自由党の創立に三多摩壮士の一人として参画した。
八田 謹二郎(はった きんじろう、1853年(嘉永6年9月)… 八田 謹二郎(はった きんじろう、1853年(嘉永6年9月) - 1928年(昭和3年)6月22日)は、明治時代の政治家、銀行家、林業家。衆議院議員(2期)。 安芸広島藩領佐伯郡玖島村(広島県佐伯郡佐伯町を経て現廿日市市)で、酒醤油醸造業・先代新七の長男として生まれる。漢学を修め、広島県下の多額納税者に列した。広島県農工銀行監査役、同頭取、八田貯蓄銀行頭取などを歴任した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第2区から無所属で出馬し当選。つづく第2回選挙でも当選した。在任中は中央交渉会に属した。 林業家としては、1万余町に数万株の諸苗を増植、灌漑に努めるなど郷里の農林業に貢献し、その功を賞して1900年(明治33年)緑綬褒章を下賜された。
双木 八郎(なみき はちろう、1853年 - 1923年12… 双木 八郎(なみき はちろう、1853年 - 1923年12月8日)は、日本の政治家、銀行家。 名栗村の柏木家で生まれ、利八郎の養子になった。真能寺村戸長、飯能・久下分・真能寺の三村が合併した連合村の筆生を経て、1889年、飯能町(現・飯能市)の初代町長に就任した。1897年、自治行政の功により藍綬褒章を受けた。1903年頃から、第三十六銀行の監査役、取締役を務める。 1907年、日露戦争銃後の功により勲七等に叙せられた。1908年から2期8年、町長と兼任して埼玉県会議員を務めた。1910年から4年間は小山八郎平と交替したが、1922年に健康上の問題で退任するまで前後あわせて30年にわたり町長を務めた。
池谷 繁太郎(いけたに しげたろう、1853年(嘉永6年6月… 池谷 繁太郎(いけたに しげたろう、1853年(嘉永6年6月) - 1908年(明治41年)3月3日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。諱は茂時、号は岳雲。 池谷七郎平の長男として駿河国富士郡大宮東町(静岡県富士郡大宮町を経て現富士宮市)に生まれる。幕末、韮山の江川塾に入り漢籍、砲術を学んだ。1872年(明治5年)副戸長となり、学区取締、医務取締、地租改正調、第二大区長、町村連合会議長を経て、1876年(明治9年)静岡県民会議員となり、1880年(明治13年)静岡県会議員に当選した。国会開設請願運動の建白総代に名を連ね、1881年(明治14年)の静岡県改進党の結成に加わり、翌年結成された岳南自由党にも参加した。
田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6… 田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6年4月)- 1895年(明治28年)5月8日)は、明治期の農業経営者・教育者・政治家。衆議院議員。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、代々大庄屋を務めた田江家に生まれた。大庄屋を務め農業を営む。自邸内に家塾・択善学舎を設け子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)10月、第64区戸長となり、同年12月、第16区第7小区長に就任。広正社を創立して社長となり地域の金融の便を図った。また、田江製糸の設立、ブドウ園の経営など、地域産業の振興に尽力した。 1884年(明治17年)3月、補欠選挙で鳥取県会議員に当選し、同年7月まで在任した。
林 小一郎(はやし こいちろう、1853年(嘉永6年4月)-… 林 小一郎(はやし こいちろう、1853年(嘉永6年4月)- 1926年(大正15年)8月10日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員(2期)。 美濃国加茂郡太田村(岐阜県加茂郡太田町を経て現美濃加茂市)で素封家・林市郎兵衛の長男として生まれる。16歳の時、名古屋藩の隊伍に加わったのち、笠松の儒者角田欽江につき漢籍を修めた。その後、1869年(明治2年)愛知県丹羽郡丹羽村の鷲津毅堂の塾に学んだ。 農業を営む傍ら、岐阜県会議員に当選し、同常置委員を歴任。地方産業の発展や鉄道敷設などに尽力した。1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第6区から出馬し当選。1904年(明治37年)3月の第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算2期務めた。
安田 愉逸(やすだ ゆいつ、1853年(嘉永6年11月)- … 安田 愉逸(やすだ ゆいつ、1853年(嘉永6年11月)- 1904年(明治37年)8月23日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 日向国諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)出身。農業を営んだ。1878年(明治11年)英国の測量船「シルビア」が日本近海にて測量をした際、これに従う。その数年後、鹿児島県の山鹿野鉱山嘱託となり、1886年(明治19年)長崎県属に転じ、外交事務に従事する。1889年(明治22年)オーストリアの皇族ハンリート・バルジー来朝の際は通訳として随行し全国を巡遊した。ほか、教師、造兵局通訳官、外務省訳官などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では宮崎県第2区から無所属で出馬し当選。
佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) … 佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) - 1924年(大正13年)2月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国岩船郡村上城下(のち新潟県岩船郡村上本町→村上町、現・村上市)生まれ。岩船郡会議員、新潟県会議員、村上鮭産育養所長、大日本水産会評議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟2区から自由党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。衆議院議員は1期務め、1924年に死去した。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18… 岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18日(嘉永5年11月8日) - 1912年(明治45年)4月4日)は、日本の法学者。明治大学の創設者。 因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校尚徳館で蘭式兵法を修める。 戊辰戦争に従軍後、1869年(明治2年)、箕作麟祥の共学塾に入門。翌年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年(明治5年)、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学び1876年(明治9年)卒業。
八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14… 八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14日(嘉永5年11月4日)- 1929年(昭和4年)4月1日)は、明治から昭和初期の大地主、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。号・水竹漁史。幼名は熊太郎。 甲斐国巨摩郡箕輪村(山梨県北巨摩郡安都那村箕輪、高根村、高根町を経て現北杜市高根町箕輪)で、大地主の家に生まれる。父は勘弥、母はちゑ子。徽典館で学び、その後も学業を続けたいとの希望がかなえられず出奔し、上京して慶應義塾で学んだ。父の病の知らせにより帰郷して看病に手を尽くしたが死去し、家督を相続して東京に戻り、学業を終えて帰郷した。 戸長、区長総代理、学区総取締などを歴任。1879年(明治12年)山梨県会議員に選出され、同議長も務めた。
広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永… 広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永5年10月26日) - 1910年(明治43年)2月5日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(5期)。 遠江掛川藩領志太郡阿知ヶ谷村(静岡県志太郡六合村を経て現島田市)に生まれる。斎藤拝石に漢学を学び、15歳にして阿知ヶ谷村の名主になる。1871年(明治4年)同村に栄昌舎を創立し、後進の教育に尽くした。国会開設請願運動にも関わり、郷里の有志惣代として奔走した。1882年(明治15年)静岡県会議員に当選し、同年立憲改進党が組織されると静岡県改進党に入党した。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から出馬し当選。
大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年… 大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年10月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月18日, Ōe Shikei Masaji, 17th head of the Musō Jikiden Eishin-ryū)は、日本の武道家。無双直伝英信流居合術第17代宗家。大日本武徳会居合術範士、剣道教士。号は「蘆洲」。字は「子敬」と称した。 無双直伝英信流居合術第17代宗家で、英信流は土佐藩において長谷川流、英信流、長谷川英信流、無雙直傳流、無雙神傳流などとも呼ばれており、大江はこれを無双直伝英信流に統一し、あわせて業の形の統一を図った。江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出だった英信流を、明治の世になり全国に広く伝えた。
柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年… 柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年11月17日(嘉永5年10月6日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国磐城郡赤井村(現福島県いわき市平赤井)の旧家に生まれた。磐城平藩儒・大須賀筠軒に学び漢学を修めた。 自由民権運動に参加し興風社に加盟。赤井村長、福島県会議員を歴任。三島通庸県令への反対運動に加わるが福島事件での逮捕は避けられた。 その後、立憲政友会に加わり福島支部の発起人となる。1908年5月の第10回衆議院議員総選挙に福島県郡部区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。その他、三星炭鉱 (株) 取締役、平銀行 (株) 取締役、赤井軌道 (株) 常務取締役などを務めた。
佐々木 鉄太郎(鐵太郎、ささき てつたろう、1852年11月… 佐々木 鉄太郎(鐵太郎、ささき てつたろう、1852年11月17日(万延元年8月26日) - 1919年(大正8年)11月15日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国田村郡徳定村(福島県田村郡守山村、守山町、田村町を経て現郡山市田村町)で、地主、醤油類醸造家・佐々木一二の長男として生まれた。1890年(明治23年)3月、家督を相続した。 家業の醸造業、製糸業を営み、郡山真製合資会社取締役、須賀川銀行監査役、三星炭鉱監査役、勿来炭鉱取締役、本宮製糸合資会社代表社員、製糸販売組合東北社理事長などを務めた。 1882年(明治15年)田村郡徳定正直組合戸長に就任し、守山町会議員、田村郡会議員、福島県会議員、同参事会員、地方森林会議員などを務めた。
瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年1… 瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年11月17日〉 - 1939年〈昭和14年〉1月22日)は博報堂の創業者。富山県富山市桃井町出身。 富山藩士の瀬木博重の長男として生まれる。 富山の役人を経て、明治27年(1884年)に上京し、星亨の「めさまし新聞」に入社。 明治28年(1895年)10月に東京都日本橋本銀町に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を開業。明治30年(1897年)、神田区末広町に移転。明治43年(1910年)、日刊『内外通信』を発刊、社名を「内外通信社」と改称する。なお、広告部門には「広告部博報堂」の名称を継続使用した。大正3年(1914年)、神田区錦町に移転。大正13年(1924年)、株式会社化し、初代取締役社長に就任。
大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5… 大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5年10月3日)- 1924年(大正13年)10月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。号・瑟菅村。 常陸国筑波郡高道祖村(新治県筑波郡高道祖村、茨城県筑波郡高道祖村を経て現下妻市高道祖)で生まれた。鈴木竹湾に師事し漢学を修めた。のち上京して益盛舎を設立して、史学、地理検田、測地、製図の学科を設け教育に当たった。 戸長、区長、郡書記を歴任。1878年(明治11年)下妻に政治結社・絹水社(のち同舟社に改称)を設けて自由民権運動を推進した。1882年(明治15年)茨城県会議員に選出され1890年(明治23年)まで在任。1898年(明治31年)県会議員に再選され1903年(明治36年)まで務めた。
横山 勇喜(よこやま ゆうき、1852年11月13日(嘉永5… 横山 勇喜(よこやま ゆうき、1852年11月13日(嘉永5年10月2日)- 1897年(明治30年)11月7日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。 出羽国秋田郡東大館町長倉(秋田県北秋田郡大館町を経て現大館市長倉)で、久保田藩士・横山運之助の長男として生まれた。藩校・明徳館で学んだ。 1874年(明治7年)10月、父の死去に伴い家督を相続。農業を営む。 1879年(明治12年)3月、秋田県会議員に選出された。通算6期在任し、1891年(明治24年)4月から4か月間、同議長を務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、立憲革新党)で当選したが、同年9月の第4回総選挙で落選し、衆議院議員に1期在任した。
伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(18… 伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(1852年11月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功一級男爵。
高野瀬 宗則(たかのせ むねのり、1852年11月3日(嘉永… 高野瀬 宗則(たかのせ むねのり、1852年11月3日(嘉永5年9月22日) - 1915年(大正4年)4月3日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5… 横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5年9月15日)- 1914年(大正3年)3月24日)は、明治時代の政治家、台湾総督府官僚。自由民権運動家。衆議院議員(4期)。旧姓は土屋で諱は龍、字は雲卿。号は鉄研。通称名は三子。 下野国那須郡黒羽(黒羽県、栃木県那須郡黒羽町を経て現大田原市)で、黒羽藩士土屋新二郎の二男として生まれ、のち同国大田原藩領芳賀郡祖母井村(祖母井町を経て現芳賀町)に移り住む。幼くして大田原藩の儒臣・金枝柳村の門に入り漢籍を修める。1874年(明治7年)横堀源平の養子となり、1876年(明治9年)3月1日家督を相続した。1878年(明治11年)芳賀郡書記を経て、1879年(明治12年) 栃木県会議員に当選し、同議長を務め、常置委員、地方勧業諮問会員、地方衛生会員などを歴任した。
2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、185… 2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、1852年10月22日(嘉永5年9月10日) - 1926年(大正15年)4月26日)は、日本の実業家、秋田県多額納税者。秋田銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。秋田農工銀行取締役。族籍は秋田県平民。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の五男。本間金之助の弟。辻兵吉の養子となった。1880年、家督を相続し、先代の名を襲名した。商業を営んだ。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。1925年6月1日現在の直接国税総額金は「14648円65銭」である。住所は秋田市大町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。