菊池 重三郎(きくち しげさぶろう、1901年7月3日-19… 菊池 重三郎(きくち しげさぶろう、1901年7月3日-1982年4月16日)は、日本の作家、編集者、翻訳家。「芸術新潮」初代編集長。 宮崎県臼杵郡北方村(現在の延岡市) で生まれる。1920年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業、1925年、立教大学文学部英文科を卒業。1925年から3年間、麻布中学校の英語教師を務め、1928年渡欧し、1930年帰国。 研究社、春秋社、新潮社に勤務し、傍ら文筆活動にも努める。 新潮社では、1950年「芸術新潮」初代編集長となり、創刊から62号まで携わり、1955年退職。 晩年の島崎藤村と交流があり、1947年の木曾馬籠の藤村記念館の設立に尽している。
今井 福治郎(いまい ふくじろう、1901年7月2日 - 1… 今井 福治郎(いまい ふくじろう、1901年7月2日 - 1968年1月23日)は、歌人、国文学者。 山梨県甲府市生まれ。号・白水。1927年ころから作歌。1935年に國學院大學文学部国文科を卒業。1961年「万葉集の地名と伝承」で國學院大學文学博士。和洋女子大学教授。
慎 重穆(シン・ジュンモク、朝鮮語: 신중목/愼重穆、190… 慎 重穆(シン・ジュンモク、朝鮮語: 신중목/愼重穆、1901年7月1日または1902年7月1日 - 1982年12月31日〈陰暦11月17日〉)は、大韓民国の政治家。昌原郡守、居昌郡守、第2代韓国国会議員、第7代農林部長官、初代農協中央会長を歴任した。 号は素岡(ソガン、소강)。本貫は居昌慎氏。 慶尚南道居昌郡南上面出身。1918年に早稲田大学政経科を修了した後は居昌郡庁で勤務していた。1932年に居昌郡書記として勤務する時には賄賂事件により懲役10か月の刑を宣告された。その後は1936年に創立された居昌薬酒合名会社の支配人を務め、1937年と1938年の朝鮮酒類品評会で優等賞を獲得した。1938年には居昌邑で郡内初の養魚場を開設し、養魚を行った。
山崎 恒(やまざき ひさし、1901年(明治34年)7月1日… 山崎 恒(やまざき ひさし、1901年(明治34年)7月1日 - 1983年(昭和58年)12月17日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。参議院議員(1期)。 千葉県匝瑳郡匝瑳村中台(八日市場町、八日市場市中台を経て現匝瑳市中台)出身。1919年(大正8年)茂原農学校(千葉県立茂原農業高等学校を経て現千葉県立茂原樟陽高等学校)を卒業した。 千葉県匝瑳村農業会長、同村産業組合長、千葉県農会議員、同県信用販売購買連合会専務理事、同食糧営団理事、同農業会会長、全国販売農業協同組合連合会長、中央蚕糸協会理事、全国乾繭協同組合連合会副会長、全国農業共済協会理事、農民教育協会理事、千葉県農業協同組合連合会理事、同農業共済保険組合連合会長、東邦海運取締役、共栄火災海上保険取締役、関東いすゞ自動車販売(現関東いすゞ自動車)取締役、いすゞ産業社長などを務めた。
明石 信道(あかし しんどう、1901年7月 - 1986年… 明石 信道(あかし しんどう、1901年7月 - 1986年)は昭和期に活動した日本の建築家。早稲田大学名誉教授。 函館市青柳町生まれ。生家は函館の名家堀川家で五男坊。同地の願乗寺川を掘削し、函館発展に尽力した真言本願寺派の僧侶・堀川乗経は祖父、英国人地震学者ジョン・ミルンと結婚したトネ・ミルンは伯母。 新川小学校を経て道立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業後に上京。23歳の時に母方の名跡で松前藩重臣であった旧家明石家の養子となって家を継ぎ明石姓となる。その後トネのアドバイスにより、信道は早稲田大学理工学部建築科に進学。1928年に卒業。 在学中に新宿の映画館・武蔵野館のオーナーの依頼を受け、設計を担当。
中山 高亮(明治34年(1901年)7月- 没年不明)は、日… 中山 高亮(明治34年(1901年)7月- 没年不明)は、日本の発明家。 福岡県甘木町出身。大正9年に福岡県立朝倉中学校(現在の福岡県立朝倉高等学校)を中途退学し、大阪に行き大正10年から鑿岩機の電化を研究する。大正14年に鑿岩機を完成させ、電力鑿岩機の特許を得て中山工業所を興す。
山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 198… 山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 1985年2月22日)は、日本の歯科医、画家、顔の研究家。 埼玉県越谷市生まれ。春日部中学校を経て、1923年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業。 1920年に風景画で二科展に入選。1924年から1930年にかけてフランスで歯科と絵画を学ぶ。 1937年に「日本人下顎骨の増齡殊に齒牙発生脱落に伴ふ形態変化の研究」で新潟医科大学より医学博士を授与される。 1931年日本歯科医学専門学校講師、助教授、教授、外科部長、1964年鶴見大学教授、1972年定年、名誉教授。
宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982… 宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982年10月11日)は、ドイツ文学者、翻訳家。 東京出身。1927年上智大学文学部独文科卒。上智大学講師、助教授、教授。外国語学部を創設し初代学部長。1972年定年、名誉教授。高村光太郎に師事した。次男は宇多文雄。
小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1… 小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1957年10月1日)は、日本の実業家、東宝、東洋製罐代表取締役社長。 小林一三の長男として山梨県に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1929年に東洋製罐入社。1936年に取締役に就任。その後常務を経て1946年に代表取締役社長に就任。1941年8月29日に東京宝塚劇場取締役、大阪電気軌道を経て、阪神急行電鉄取締役、帝国劇場代表取締役社長を経て1950年9月28日に東宝代表取締役社長に就任。それ以外に日経連常任理事を務めた。新東宝分裂後の東宝再建などに尽力した。1951年9月28日に社長の座を父・一三に譲り代表取締役に退く。
藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6… 藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6月27日 - 1977年 <昭和52年> 9月3日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。位階は正四位。 茨城県出身。1925年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1949年6月に三菱石油に転じ、195年11月に取締役に就任し、1955年11月に常務を経て、1961年5月には社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1974年5月には取締役相談役に退いた。1965年5月には石油連盟会長に就任。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1977年9月3日腎盂腎炎のために死去。76歳没。
山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 196… 山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 1961年8月27日)は、日本の小説家。徳田秋聲、竹久夢二などの愛人として知られる。 本名ユキ。秋田県由利郡本荘町(現由利本荘市)に廻船問屋の長女として生まれる。山田家は明治維新以前は本荘藩に仕える士族だったが、明治期に炭の商いから成功して金貸しなども手がけ、父親の代に廻船業に転じた。気丈で美貌の祖母を慕っていたが、順子が7歳のころにその祖母が投身自殺し、精神的に多大な影響を受ける。 秋田県立秋田高等女学校(現秋田県立秋田北高等学校)を卒業し、1920年に19歳で東京帝国大学出の弁護士増川才吉と結婚して小樽に住む。長女出産後、病で片方の乳房を失う。
高橋 敏雄(たかはし としお、1901年〈明治34年〉6月2… 高橋 敏雄(たかはし としお、1901年〈明治34年〉6月24日 - 1967年〈昭和42年〉11月15日)は、日本の内務・厚生官僚。官選群馬県知事。 長崎県東彼杵郡佐世保村(現佐世保市)で、父・高橋敏二郎、母・三九重の長男として生まれる。1909年(明治42年)1月、東京市に移り、府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格し、翌年12月、高等試験司法科試験にも合格した。1926年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方事務官、宮内書記官、厚生書記官、厚生大臣官房人事課長、厚生大臣秘書官、内務省大臣官房人事課長、内務大臣秘書官などを歴任。
小寺 駿吉(こでら しゅんきち、1901年〈明治34年〉6月… 小寺 駿吉(こでら しゅんきち、1901年〈明治34年〉6月23日 - 1975年〈昭和50年〉2月4日)は、日本の造園家・農学者。造園学分野で東京大学、千葉大学等で教鞭をとり、学究の途を一貫して歩む。位階は正四位。勲三等瑞宝章。 北海道小樽市に岐阜県士族の父、小寺芳次郎、母ただの五男として生まれる。二男は小寺健吉(画家)、三男は小寺廉吉(桃山学院大学教授等)、四男は小寺融吉(日本舞踊研究家)、七男は俳優の中村伸郎。 九州帝国大学に進学、永見健一に師事。1927年、農学部林学科卒業後、東京帝国大学大学院に進学、本多静六に師事し更に田村剛の指導をうける。この間1929年から東京大学農学部講師もつとめ造園学を担当。
天野 潔(あまの きよし、1901年(明治34年)6月23日… 天野 潔(あまの きよし、1901年(明治34年)6月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。 島根県能義郡広瀬町(現在の安来市)出身。神山昌毅の弟、天野蓮夫の養子。大正15年(1926年)東京帝国大学英法科卒業。安田保全社、昭栄製糸専務、日本蚕糸製造常務取締役等を歴任したが、戦後は健康上の理由から退職し静養した。その後は不明。 妻光枝は大日本麦酒(現在のサッポロビール)の元常務橋本卯太郎の次女。橋本卯太郎の孫に橋本龍太郎(第82代・第83代内閣総理大臣)、橋本大二郎(元高知県知事)などがいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古田 重二良 (ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年… 古田 重二良 (ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年)6月23日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の教育者。昭和時代戦後期の日本大学第四代理事長および会頭を歴任し、日大のマンモス化を達成した。私立大学の経営者(教育者)として昭和戦後期の高等教育機関が少なかったころに、マスプロ大学(マスプロ教育)のシステムを導入して大学進学率上昇に貢献し、理系学部を重視した政策をとった。また、戦後期に財界から期待されてサラリーマン育成機関となった私立大学のなかで、日大におけるビジネス教育の推進といった日本の大学経営における手法を確立した。大学闘争では最大規模となる日大紛争(日大闘争)を招いた当事者になる。
倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19… 倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の政治家。長野県長野市長(2期)。 長男はジャーナリストの倉嶋康、弟は気象学者の倉嶋厚。 長野市生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1925年朝鮮総督府に奉職。終戦時は慶尚北道内務部長、1946年引揚げ。1947年法政大学工業専門学校の教授から長野市助役となる。1951年長野県地方労働委員会事務局長。 1954年の長野市長選挙に立候補して初当選し、2期務めた。 在任中は飯綱高原の観光開発に乗り出し、スキー場やキャンプ場などを開設。
瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 -… 瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 - 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の軟体動物学者、分類学者。表記揺れにより、瀧巌や滝巌と表記されることもある。兄である滝庸や波部忠重、黒田徳米らと共に、多板類、頭足類や腹足類など、多くの軟体動物を記載した。 1901年(明治34年)6月19日に愛媛県松山市に生まれる。兄に勧められ、1920年(大正9年)広島高等師範学校理科第3部(博物・地理)に入学し、1924年(大正13年)卒業し福岡県立中学伝習館教諭となる。1925年(大正14年)京都帝国大学理学部動物学科に入学し、1928年(昭和3年)に卒業とともに嘱託として瀬戸臨海実験所で働く。
野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月1… 野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月17日 - 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県出身。 1901年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。
本間 嘉平(ほんま かへい、1901年 <明治34年> 6月… 本間 嘉平(ほんま かへい、1901年 <明治34年> 6月17日 - 1993年 <平成5年> 1月16日)は、日本の経営者。大成建設社長を務めた。位階は従四位。 福島県出身。1922年に東京高等工業学校建築学科を卒業し、同年に大成建設に入社。1947年3月に取締役に就任し、1950年6月に常務、1957年5月に専務を経て、1960年12月に副社長に就任し、1963年5月に社長に昇格。1969年5月に会長に就任し、1973年5月から相談役を務めた。 1971年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年1月16日心不全のために死去。91歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14… 小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14日 - 大正11年(1922年)7月7日)は、日本の教育者。水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職し、全国的な反響を呼んだ。 宮城県刈田郡福岡村(現・白石市)出身。5人兄弟(兄3人・姉)の末っ子で二女。中岡小学校へ入学。3年生の終わり頃に中岡小学校が福岡小学校との合併に伴い福岡小学校に転校する。白石実科高等女学校(現・宮城県白石高等学校)から1918年(大正7年)宮城県女子師範学校(現・宮城教育大学)へ進学。宮城県女子師範学校在学中は3度も級長に選出された。1922年(大正11年)師範学校を卒業し、同年4月4日に宮城県刈田郡宮尋常高等小学校(現・蔵王町立宮小学校)へ訓導として赴任。
山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 - 1… 山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 - 1975年3月16日)は第20代日本銀行総裁。大蔵次官。東京出身。
秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月… 秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月12日 - 1981年〈昭和56年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 奈良県出身。1926年(大正15年)東京農業大学を卒業した。 東洋製糖取締役、東和醸造監査役、全国農業共済協会顧問、奈良県花卉園芸組合連合会長、奈良県至誠会顧問、奈良県農地解放者同盟会長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から立候補して当選した。その後、26回、28回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員に通算4期在任した。自由民主党に所属して、自民党奈良連合会顧問、第1次池田内閣大蔵政務次官などを務めた。
内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977… 内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977年7月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 広島県御調郡御調町(現尾道市)生まれ。1921年(大正10年)に広島師範学校を卒業し広島県内で教員として勤務の後、1939年(昭和14年)に日立造船向島工場に入社。日立造船では因島工場総務部長などを務める。1953年(昭和28年)には因島市議会議員に当選。 1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙で広島3区から出馬するも落選。1958年(昭和33年)第28回衆議院議員総選挙にて初当選を果たし民主社会党の結党に加わる。1968年(昭和43年)衆議院交通安全対策特別委員長。1971年(昭和46年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。
松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)… 松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)6月10日 - 没年不明)は、昭和期の医師、政治家。長野県須坂市長。号は秋嶺。 長野県上高井郡高甫村(現須坂市)で、松沢新太郎、なわ の長男として生まれた。1916年(大正7年)3月、長野県上高井農学校(現長野県須坂園芸高等学校)を卒業。さらに、1941年(昭和16年)12月、哈爾濱医科大学(現ハルビン医科大学)開拓学院卒業、1952年(昭和27年)10月、東京医科大学専門部を卒業した。この間、1926年(大正15年)陸軍一等看護長となり、1942年(昭和17年)拓務省嘱託の医師として満州に派遣された。 1947年(昭和22年)上高井郡高甫村で医院を開業。
潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9… 潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9日 - 1969年(昭和44年)5月9日)は日本の政治学者。慶應義塾創立者福澤諭吉の孫で慶應義塾長、日本政治学会初代理事、第3代理事長を歴任。「政治概念論争」の口火をきったことで知られる。 1901年(明治34年)東京で、芝浦製作所技師・潮田伝五郎の次男として生まれる。福澤諭吉の五女光を母とする。つまり、福澤の孫にあたる。 慶應義塾幼稚舎から普通部を経て、1922年(大正11年)3月法学部政治学科第2学年を修了したのち、アメリカのコーネル大学に留学し、1923年(大正12年)7月帰国、1924年(大正13年)4月から法学部で教鞭をとった。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。
比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7… 比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7日 - 1956年(昭和31年)10月25日)は、沖縄県の官僚、教育者、琉球政府の政治家。1952年4月から1956年10月まで琉球政府行政主席を務めた。琉球民主党初代総裁。 沖縄県中頭郡読谷村に生まれる。小学校時代に事故で右腕を失うも、勉学に励み、1925年(大正14年)早稲田大学文学部英文学科を卒業する。 和歌山県の高野山中学に勤務後、約20年間の教員生活を送り、母校である沖縄県立第二中学校の教諭および沖縄県立第三中学校の教頭を務める。 沖縄戦では県立第三中学校の学徒隊を率いたが生還し、終戦後、沖縄民政府に採用されて、翻訳課長や官房長などを歴任した。
石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 197… 石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 1972年10月1日)は、日本の映画監督。 秋田県平鹿郡増田町(現・横手市)生まれ。1926年に『愛傷』で監督デビュー。東亜キネマでは主に剣戟映画を手がけていたが、帝キネ、新興キネマ時代に鈴木澄子主演の女性映画、明治もので頭角を現し、東宝京都時代には花街映画の傑作を立て続けに発表した。浪曲映画から戦後は観光映画まで、生涯に手がけた映画は約90本。戦後は京都の花街・上七軒で妻とお茶屋を営みながら北野をどりの作・演出を行った。 新東宝に在籍していた映画監督の加戸野五郎は実弟。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - … 中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - 1986年9月28日)は日本の数学者。専攻は数学基礎論、数学史。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授、兵庫医科大学名誉教授、文学博士。従四位勲三等旭日中綬章。
風間 道太郎(かざま みちたろう、1901年6月6日 - 1… 風間 道太郎(かざま みちたろう、1901年6月6日 - 1988年8月25日)は、日本の平和運動家、伝記作家。 東京出身。暁星中学、第一高等学校、1928年東京帝国大学法学部法律学科卒業。太陽生命保険株式会社、谷村製鉄鉄工所、東京商工会議所、大政翼賛会、長野県鉄商工経済会などで勤めた。戦時中は大政翼賛会文化部副部長を務めるが、ほどなく退き農村生活を送る。戦後は、世界画報社や志摩書房の編集者、日本学園高等学校教諭などを歴任した。 大学で尾崎秀実と親しく、1946年尾崎の『愛情はふる星のごとく』を出版。新日本文学会に属し、平和運動家として活動しつつ、伝記などを書いた。
笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 -… 笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉11月6日)は、日本の国文学者。号は葵園。 静岡県志太郡藤枝町出身。静岡県立静岡中学校を経て、1927年、早稲田大学文学部国文科卒業。東京帝国大学文学部国文学研究室藤村作のもとで学び、1929年、同文学部副手、1930年、東京女子大学教授を兼任。北京師範大学、善隣大学教授を歴任した。 広島市で缶詰製造・精米業を営み広島市会議員や広島女子商業初代理事長等をつとめた笹野雄太郎の長男である。 狂言研究の先駆者として知られ、天正狂言本を初めとする狂言の諸資料を発掘、調査、紹介し、文献資料に基づく狂言研究の基礎を築いた。
安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年… 安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年)6月5日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争で潜水艦輸送を23回成功させた伊38潜水艦長である。最終階級は海軍少将。 安久は福井県出身の海兵50期生である。海軍兵学校時代の校長は鈴木貫太郎、千坂智次郎で、安久は272名中95番で卒業した。練習艦隊は谷口尚真司令官に率いられ、片桐英吉、岸本鹿子治、田中頼三らの幹部に指導を受けた。術科学校で初級士官教育を受け、中尉進級後に呂59(駒沢克己艦長)に乗組んだのが潜水艦歴のはじまりである。水雷学校高等科、潜水学校乙種を履修し、安久は潜水艦専攻士官となる。 潜水学校乙種は潜水艦水雷長を養成する課程である。
北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951… 北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。 愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。 1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。
益富 壽之助(ますとみ かずのすけ、1901年6月3日 - … 益富 壽之助(ますとみ かずのすけ、1901年6月3日 - 1993年3月10日)は、日本の薬学者・鉱物学者。薬学博士(京都大学)。京都府生まれ。 1901年6月3日、益富豊松・常尾夫妻の三男として生まれる。 1920年、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)卒業。薬局経営とともに、京都薬科大学、立命館大学、大阪大学の講師を務めた。1932年、日本鉱物趣味の会(現日本地学研究会)を創設し、その代表となる。 1973年、日本地学研究会館を設立、1993年には財団法人益富地学会館となる。正倉院の石薬の調査・研究でも知られる。 1974年、滋賀県で発見された新鉱物が益富雲母 (masutomilite) と命名された。
岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 -… 岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 - 1990年代頃?)は、日本の古生物(化石)研究者、医師。愛知医科大学(名古屋大学の前身)卒。 市井の化石研究家であり、岡村化石研究所を主宰していた。本業は内科医師。病院と研究所は名古屋市にあった。 岩手県大船渡市から出土した石灰岩より、4億年前の1mmに満たないミニ人類、あらゆる種類の動物及び工芸品等の微化石を発見し、独自の進化論に昇華させた。1970年代から1980年代には古生物学会において数度の発表を行うとともに、国内外の多数の大学に論文を寄贈した(B5判の薄い研究論文の冊子。地質学研究室が設置されている大学の研究室・図書館に保存されていることがある)。
山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 19… 山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 1996年7月8日)は、日本の歌人、出版者、実業家。 兵庫県赤穂郡上郡町の酒造家に生まれる。早稲田大学文学部国文科卒。窪田空穂のもとで作歌、1926年『槻の木』を創刊、尾崎一雄らと同人誌を出し、1935年砂子屋書房を創業。43年には廃業し、実家の山崎酒造の社長を務めた。砂子屋ははじめ「まなごや」と読ませるつもりだったが、人々が「すなこや」と呼ぶためこれに任せた。
青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1… 青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1日 - 昭和54年(1979年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。
高橋 敏雄(たかはし としお、1901年(明治34年)6月 … 高橋 敏雄(たかはし としお、1901年(明治34年)6月 - 1967年(昭和42年)11月15日)は、日本の内務・厚生官僚。官選群馬県知事。
高 権三(コ・グォンサム、朝鮮語: 고권삼/高權三、1901… 高 権三(コ・グォンサム、朝鮮語: 고권삼/高權三、1901年5月31日 - 没年不詳)は、大韓民国の歴史学者であり政治学者である。済州島出身。『大阪と半島人』(1938年)著者。 祖先は世宗時代最後の87代漢城府尹であった済州高氏の高得宗。祖父は李氏朝鮮王朝末期の官吏であり、旌義、高敞の県監を歴任した高啓正。兄は独立運動家で初代済州道城山面長の高殷三。 1921年5月1日、城山青年会(旌義面城山里)創立。『消費組合設立の件」「労働夜学開設の件」をここで決議するなど早くから無産階級を視野においた政治活動を行っていた。その後日本に渡り、1927年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業。卒業後も同大学院研究室に残り歴史研究を続けた。
堤 経長(つつみ つねなが、1901年(明治34年)5月30… 堤 経長(つつみ つねなが、1901年(明治34年)5月30日 - 1992年(平成4年)1月16日)は、日本の子爵。堤家の第15代当主。東京帝国大学法学部卒業。東京都出身。伯母は明治天皇の典侍で大正天皇の生母である柳原愛子。 東京都出身。子爵・堤雄長とその妻である柳原浜の長男として生まれる。母である浜の姉が明治天皇の権典侍の柳原愛子で、大正天皇の従弟に当たる。1940年(昭和15年)から1947年(昭和22年)まで子爵であった。。 1914年(大正3年)から1921年(大正10年)宮内省東宮職出士。東京帝国大学農学部、法学部を卒業し、鉄道局参事、仙台鉄道局職員、運輸省鉄道総局食糧増産本部次長、興亞火災海上保険(現、日本興亜損害保険)取締役、東海開発社長、歌会始読師、霞会館評議員、監事などを歴任した。
坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5… 坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる。
森 諦圓(もり たいえん、1901年5月27日 - 1990… 森 諦圓(もり たいえん、1901年5月27日 - 1990年7月30日)は、日本の僧侶、教育者。真言宗御室派管長。総本山仁和寺第41世門跡。本名(出家するまでの名)森調四郎。 香川県三豊郡比地二村(現 三豊市高瀬町)出身。旧制香川県立三豊中学校、真言宗京都大学(現・種智院大学)卒業。 貧しい大工の家に生まれ、8歳の時「米のメシが食べたい、学問がしたい」という動機で仏門に入った。覚城院での厳しい修行を経て、三豊中学、真言宗京都大学を卒業する。卒業論文は、『児童の宗教教育の理論と実践』。大学卒業後、覚城院第57世住職となる。戦時中は、陸軍第十一師団付従軍布教師として上海ウーマンに敵前上陸を共に行動した。
佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 199… 佐藤 通次(さとう つうじ、1901年5月26日 - 1990年7月3日)は、日本の独文学者、哲学者。学位は文学博士(九州帝国大学・1944年)。皇學館大学学長。皇學館大学名誉教授。 山形県川西町生まれ。旧制山形高等学校を経て、1926年に京都帝国大学文学部独文科卒。九州帝国大学法文学部助教授、文部省教学錬成所員、大日本言論報国会理事。1944年に「ゲーテノ生命体験」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。 戦後は、『皇道哲学』を著したことから公職適否審査会の調査対象となり、言論報国会理事であったことで公職追放となり、追放解除後の1955年に亜細亜大学教授、1965年に皇學館大學教授、1973年から1980年まで同学長、名誉教授。
小林 實(こばやし みのる、1901年 <明治34年> 5月… 小林 實(こばやし みのる、1901年 <明治34年> 5月25日 - 1982年 <昭和57年> 11月28日)は、日本の経営者。位階は従四位。 京都府出身。1922年に京都府立城丹農事講習所を卒業し、郡是製絲(現在のグンゼ)に入社。1955年1月に取締役に就任し、1961年1月に常務を経て、1969年1月に専務に就任し、1970年1月に社長に昇格した。1975年1月に会長を経て、1977年2月から相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1982年11月28日消化管出血のために死去。81歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日… 扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日 - 2004年(平成16年)1月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大佐。海兵51期、海大32期。広島県旧世羅郡三川村出身。
本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - … 本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - 1994年8月27日)は、日本の劇作家、演出家、フランス演劇研究者。筆名に高島慶三。 東京麹町生まれ。本名・桂介。1926年立教大学文学部英文科卒。在学中より同人誌に戯曲を発表。岸田国士に認められ、1928年から1931年パリでジョルジュ・ピトエフ(フランス語版)に演劇研究を学ぶ。帰国後は立教大学教授。1944年三菱重工業に入社。1951年より丸善発行の『学鐙(學鐙)』編集長となり、長年務めた。演出、ユーモア小説の執筆なども行った。
伴 俊男(ばん としお、1901年(明治34年)5月23日 … 伴 俊男(ばん としお、1901年(明治34年)5月23日 - 1962年(昭和37年)7月22日)は、日本の病理学者。医学博士。1947年(昭和22年)順天堂大学病理学教室教授就任。専門は、主に乳腺症・機能性子宮出血・未熟児の病理学的研究。
福井 道二(ふくい みちじ、1901年(明治34年)5月22… 福井 道二(ふくい みちじ、1901年(明治34年)5月22日 - 1991年(平成3年)4月4日)は、昭和期の実業家。南満州鉄道株式会社の社員(参事)。 愛知県渥美郡高松村(現在の田原市)において、父作蔵と母とも(旧姓:中藪)の十三人兄弟姉妹の四男として生をうける。作蔵は福井作蔵商店を興し明治42年(1909年)、渥美半島の片浜(太平洋岸)十三里(約50km)の地引き網100ヵ統への資材の供給する網元であった。 高松尋常高等小学校を卒業し、田原にあった成章中学校(旧藩校:成章館)に進んだ。その後、両親は親戚が東京神田で鉄鋼の商いをしているので一橋商大(東京商科大学、現:一橋大学)を勧め、兄からは名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)の紡織科を勧められている。
松岡 平市(まつおか へいいち、1901年 (明治34年)5… 松岡 平市(まつおか へいいち、1901年 (明治34年)5月21日 - 1980年(昭和55年)3月25日)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 佐賀県東松浦郡相知村(現唐津市)で松岡久左衛門の三男として生まれ、松岡廉太郎の養子となる。佐賀県立唐津中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学へ進む。上杉慎吉の指導を受け、1925年2月、七生社の結成に参画。1924年11月、高等試験行政科試験に合格し、1925年3月、東京帝大法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、内務省に入省し、東京市事務員として庶務課に配属された。同年10月、警視庁に転じ同属兼警部として保安部工場課に配属。
島 秀雄(しま ひでお、1901年(明治34年)5月20日 … 島 秀雄(しま ひでお、1901年(明治34年)5月20日 - 1998年(平成10年)3月18日)は、昭和初期 - 中期の鉄道技術者。元日本国有鉄道(国鉄)技師長(1955年 - 1963年)。宇宙開発事業団(NASDA)初代理事長(1969年 - 1977年)。大阪府出身。島安次郎の子。 「デゴイチ」の愛称で知られる貨物用蒸気機関車D51形の設計に関与。また新幹線計画では、国鉄総裁の十河信二や新幹線総局長の大石重成らと共にその実現に大きく貢献し、「新幹線の生みの親」と称される。国鉄退職後は、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わった。 1969年(昭和44年)に英国機械学会のジェームズ・ワット賞を日本人として初めて受賞。