三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化… 三浦 仙三郎(みうら せんざぶろう、1847年3月8日〈弘化4年1月22日〉 - 1908年〈明治41年〉8月15日)は、日本の酒造家。1887年(明治20年)創案した軟水による酒醸造法「三浦式醸造法」は、天下の名酒広島酒発展の基礎を築いた。「吟醸酒の父」ともいわれる。また酒造りの傍ら、村会議員、三津町長および町会議員としても活躍した。 1847年(弘化4年)雑貨問屋を営む清水屋忠兵衛の長男として広島県賀茂郡三津村(現東広島市安芸津町三津)に生まれる。雑貨問屋を営んでいたが家督を弟に譲り、1876年(明治9年)酒造場を譲り受け酒造業を始め、1878年(明治11年)創業した。1898年(明治31年)、軟水に適した改良醸造法を考案し、同年「改醸法実践録」を発刊してその普及をはかった。
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西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年… 西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年2月24日(弘化4年1月10日)- 1926年(大正15年)10月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 下総国海上郡成田村(千葉県海上郡成田村、旭町を経て現旭市)で、呉服商、醤油醸造業「成田屋」当主・西村醇治の二男として生まれた。鹿島の儒学者・吉川松浦に師事し漢学を修め、塾頭を務めた。 1879年(明治12年)3月、第1回千葉県会議員選挙で当選し、当時の議員半数改選の制度により再選されたが、日本の府県会は有名無実で自らの意思を貫徹することはできないとして、再任を辞退し1880年(明治13年)8月に議員を退任した。 その後、1881年(明治14年)同志と東京醤油会社を設立し、醤油の共同販売と品質向上を図り、また、1883年(明治16年)アムステルダムで開催された植民地博覧会(en:International Colonial and Export Exhibition)に出品するなど、醤油の海外への販路を開拓した。
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伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1… 伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、近江国出身の明治時代の実業家、第2代住友総理事である。 「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。 近江源氏佐々木氏支流伊庭氏の一族である。 1847年(弘化4年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に伯太藩代官伊庭正人の長男として、母、北脇田鶴子の実家で生まれ、7歳まで母方の実家で育つ。幼名は耕之助。 八幡町の児島一郎に剣道を、西川吉輔に国学を学んだ。
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松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(184… 松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(1847年1月26日) - 昭和10年(1935年)1月4日)は、日本の国学者、牧師。文語訳聖書の翻訳に関わった。日本における賛美歌事業の草分けである。 1846年(弘化3年)に越後国糸魚川で生まれ、国学者平田鐵胤に学ぶ。京都の白川家学館で国史律令を、江戸の黒川真頼の下で国文学を修めた。1872年(明治5年)、キリスト教排斥を志し、その実態を探るために神戸のアメリカンボード宣教師D.C.グリーンの日本語教師となったが、回心して1874年(明治7年)に洗礼を受けた。このとき受洗した松山ら11名は摂津第一基督教会(のちの神戸教会)を設立した。 組合教会系の信徒としては最も早くから新島譲と親交があり、新島がアメリカから帰国した際に「譲」は「ゆずる」と誤読される恐れがあるとして「襄」と改めるように忠告したといわれている。
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須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3… 須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3年12月10日) - 1927年(昭和2年)4月12日)は、日本の政治家。実業家。徳島県美馬市出身。 住友恵市の次男として美馬郡穴吹町舞中島(現在の美馬市穴吹町三島)で生まれる。後に麻植郡鴨島町敷地(現在の吉野川市鴨島町敷地)の素封家・須見徳平の養子となった。 その後、徳島県会議員を経て1902年(明治35年)に第7回衆議院議員総選挙に当選、1917年(大正6年)まで4回の当選を果たす。1926年(大正15年)、憲政会徳島県支部長に就任。他にも阿波紡績、徳島毎日新聞社監査役、第八十九銀行取締役会長を歴任。 1927年(昭和2年)4月12日、82歳で没する。
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折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年… 折田 平内(おりた へいない、1847年1月23日(弘化3年12月7日) - 1905年(明治38年)5月6日)は、明治時代の日本の政治家。薩摩藩士。開拓大書記官、内務書記官、警視総監を務め、山形県令、福島・栃木・広島・滋賀県知事など多くの官選知事を歴任。後に貴族院勅選議員となる。 薩摩国鹿児島城下山下町(現在の鹿児島県鹿児島市山下町)に生まれる。勤皇を志して、 諸国の名士と交流を持ち、黒田清隆の門下であった。1872年12月に開拓使八等出仕となる。1872年8月に開拓大主典、1873年10月に七等出仕となり、1875年8月8日に開拓幹事。1877年1月に開拓権少書記官となり、翌1878年11月に権大書記官となる。
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渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化… 渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化3年12月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、幕末の武士(人吉藩士)、明治期の政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡一武村長。幼名・練助。 肥後国球磨郡人吉麓町(熊本県球磨郡人吉麓町、人吉町字麓を経て現人吉市麓)で、人吉藩家老・渋谷巴山の息子として生れた。藩校時習館で学び、田代自養に師事し朱子学を修めた。槍術も習った。1862年3月7日(文久2年2月7日)人吉で大火(寅助火事)が発生し、その後、犬童権左衛門とともに薩摩藩に復興資金5千両借財の依頼に赴き目的を果たした。また、薩摩藩士・中原尚介に西洋兵法、英国式砲術を学び、藩兵分隊長、小隊長を務めた。
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小田切 謙明(おたぎり けんめい、弘化3年12月1日(184… 小田切 謙明(おたぎり けんめい、弘化3年12月1日(1847年1月17日) - 1893年(明治26年)4月9日)は、明治時代の自由民権運動家、山梨県の名望家。 甲斐国西山梨郡飯沼村(甲府市新青沼)に生まれる。生家は青沼村の村役人を務め、謙明も明治5年には戸長を務めている。1876年(明治9年)には若尾逸平らと金融会社の補融社を設立する。 山梨県では県令藤村紫朗への反発から自由民権運動が起こるが、謙明も藤村を批判し、観風新聞を創刊する。1884年(明治17年)6月には龍泉社を設立し、甲府市桜町(丸の内一丁目)に海洲温泉を開始する。その功績が生前から顕彰され「海洲大権現」としても祀られた。 1880年(明治13年)2月26日、峡中新報社社主の林誾とともに峡中同進会を設立し、依田孝、薬袋義一、加賀美平八郎、佐野広乃らとともに理事委員となる。
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阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(… 阪井 重季(さかい しげすえ/しげき、1847年1月10日(弘化3年11月24日) - 1922年(大正11年)3月1日)は、明治から大正期の日本陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。旧名・元助(二川元助、二川元助重遠)。家紋は四つ星。 土佐国土佐郡(高知藩)高知城下の高知中島町において、土佐藩士(馬廻役、300石。)・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。生家の中島町は板垣退助、片岡健吉の出身地であり、家が近所であった。 戊辰戦争に従軍し、1870年、大坂兵営予備生徒となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
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2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月… 2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月8日(弘化3年11月22日) - 1916年(大正5年)5月20日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は吉次郎。 北前船主馬場九兵衛の二男として越中国新川郡東岩瀬村(富山県上新川郡東岩瀬村、東岩瀬町を経て現富山市)に生まれる。長男大次郎の病死により7代九兵衛(初代道久)の跡を継いだ。1881年(明治14年)北陸通船会社創設に資金援助し、北陸における小蒸気船、貨物蒸気船の導入を進めた。1885年(明治18年)上野から直江津間の鉄道が開通すると翌年、伏木の二上兵吉とともに直江津までの小蒸気船業の経営に当たる。
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奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月… 奥 保鞏(おく やすかた、1847年1月5日〈弘化3年11月19日〉- 1930年〈昭和5年〉7月19日)は、日本の陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵。皇族、薩長出身者以外で最初の元帥となった。 豊前(現在の福岡県)小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉(現在の北九州市)に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぐ。家系の詳細については奥家 (伯爵家)を参照。 馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務めた。 幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加。1869年(明治2年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。1871年(明治4年)5月、常備4番小隊長に就任。
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田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月… 田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月2日〉 - 1909年〈明治42年〉7月6日)は、幕末の高田藩士、明治期の内務官僚。官選山梨県知事。名・利遂、通称・周太郎。 越後国頸城郡高田蓮池横町(現新潟県上越市)で、高田藩士・田沼善太夫(通称・恆)の長男として生まれる。藩儒・木村容斎に学んだ。明治2年9月(1869年)、高田藩史監となり、さらに同藩少属十四等出仕を務めた。 廃藩置県後、柏崎県に出仕。1873年8月、新潟県少属に就任し、楠本正隆県令に仕えた。楠本が東京府知事に転じると、1876年、同府少書記官に就任。1883年6月、神奈川県大書記官に転じた。 1893年(明治26年)3月21日、山梨県知事に就任。
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原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年… 原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年〉 - 1901年〈明治34年〉)は、日本の政治家、銀行家、歌人。雅号は寬岡。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、原川 孫九郎(はらがわ まごくろう)と表記されることもある。 静岡県城東郡小貫村戸長、静岡県城東郡佐束村村長(初代)、株式会社佐束銀行専務取締役などを歴任した。 遠江国出身の政治家である。小貫村においては戸長を務め、佐束村においては村長に選任されていた。佐束山への植林に尽力し、豊かな美林を育てた。また、銀行家としての一面も持っており、佐束銀行で取締役を務め、地域経済の振興に努めた。
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福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。
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石橋 孫八(いしばし まごはち、1847年〈弘化4年〉 - … 石橋 孫八(いしばし まごはち、1847年〈弘化4年〉 - 1915年〈大正4年〉5月7日)は、日本の政治家、島根県の地主。島根県会議員。衆議院議員(島根県第三区選出、当選1回)。族籍は島根県平民。 出雲国楯縫郡平田村(島根県楯縫郡平田町、簸川郡平田町、平田市を経て現出雲市)出身。家は代々農業を営む。漢学を修める。治水を以て大いに名がある。 1894年、第4回衆議院議員総選挙で島根県第3区より選ばれて衆議院議員となる。国民協会、大手倶楽部に所属。第11議会解散後候補を伊藤啓一郎に譲る。 住所は島根県簸川郡平田町(のちの平田市、現・出雲市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
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松尾 巳代治(まつお みよじ、1847年(弘化4年11月) … 松尾 巳代治(まつお みよじ、1847年(弘化4年11月) - 1904年(明治37年)7月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国長崎に生まれる。貿易商と綿花、肥料取引、穀物商を営む。長崎土木(株)社長兼専務取締役、(資)松尾精米所社員、長崎委託、長崎新報、東洋浚渫、長崎米穀株式石油取引所各(株)監査役、長崎商業会議所副会頭を務め、長崎市会議員、長崎県会議員に就任。また、1876年のフィラデルフィア万国博覧会特別会員、長崎港荷受問屋総代を務めた。 1899年、浅田次郎の死去による長崎1区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
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新田 甚左衛門(甚左衞門、にった じんざえもん、1847年(… 新田 甚左衛門(甚左衞門、にった じんざえもん、1847年(弘化4年3月)- 1908年(明治41年)10月12日)は、明治期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。北陸の繊維産業の振興に大きな貢献をした。 加賀国能美郡浜開発村(石川県能美郡江ノ島村、根上村字浜開発、根上町を経て現能美市浜開発町)で、代々農業の家に生まれた。 1877年(明治10年)長野県、群馬県から良質の桑苗を導入して桑園の改良を試みた。1879年(明治12年)から1881年(明治14年)にかけて私費で長野県から養蚕教師を招聘し、自宅を会場として近隣の農家に技術習得の機会を提供した。1884年(明治17年)5月、北陸繭改良本部小松出張所管内第11区総組長に就任。
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脇 栄太郎(脇 榮太郎、わき えいたろう、1847年(弘化4… 脇 栄太郎(脇 榮太郎、わき えいたろう、1847年(弘化4年10月) - 1908年(明治41年)12月7日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(当選4回)。 安芸広島藩領賀茂郡、のちの寺西村(広島県賀茂郡西条町、寺西村、寺西町、西条町を経て現東広島市)出身。12、3歳の時に京師、浪花に数年遊学する。漢籍および剣術を修めた。業成ると故郷に帰り、家業の農業、醸造業等に従事する。 農兵組頭、庄屋、戸長、第八大区書記、賀茂郡書記を経て、1882年(明治15年)、広島県会議員に当選。広島県会議員、同常置委員、同議長などを務めた。ほか、山陽鉄道、中国紡績各重役、私立関西中学校財団理事などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第5区から出馬し当選。
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吉田 三右衛門(よしだ さんえもん、1847年(弘化4年9月… 吉田 三右衛門(よしだ さんえもん、1847年(弘化4年9月) - 1943年(昭和18年)8月23日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。京都府天田郡福知山町長。 丹波国天田郡福知山菱屋町(現京都府福知山市菱屋)に生まれる。先代の兄三右衛門の早逝により家督を相続する。1886年(明治19年)福知山銀行頭取に就任。ほか、福知山町会議員、同町長、京都府会議員を歴任した。 1890年(明治23年)京都府多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
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光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847… 光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847年) - 明治26年(1893年)9月26日)は、日本の外務官・検事・衆議院議員である。旧姓・末松。 周防国佐波郡三田尻村(現山口県防府市東三田尻)に浄土真宗本願寺派の惠日山光妙寺の和尚・半雲の三男として生まれた。 1865年、長州藩諸隊の一つ鴻城隊に入隊した。このころは三田、光田姓を名乗った。井上馨の書記役を務めた。1869年に横浜フランス語伝習所に入学し、1871年に長州藩藩費留学生としてフランスとベルギーに留学した。この間、同じくフランス留学した西園寺公望とパリで親友となった。1878年2月、日本人として初めてパリ大学から法学士証書を授与された。
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杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈184… 杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈1846年12月31日〉 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、幕末の館林藩士、明治期の内務官僚・実業家。大分県知事。従四位勲四等。幼名、太郎吉。 弘化3年(1846年)、江戸浜町の館林藩中屋敷に生まれる。父は杉本重好。3歳の時に父とともに館林へ移った。館林藩主・秋元志朝が創設した藩校・求道館(のち造士書院)に学び、表小姓として出仕した。また藩外交官補助、国事外交係を務める。 明治維新後は鎮将府に召し出された。明治2年(1869年)館林藩権少参事となり、権少検事、大警部などを歴任する。1884年(明治17年)には欧米を歴訪。徳島県書記官、警視庁警務局長、新潟県書記官などを歴任する。
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屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de J… 屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de Jesús Yas / 1846年〈弘化3年〉12月27日 - 1917年〈大正6年〉11月29日)は、岩手県(陸奥国)で生まれ、アンティグア・グアテマラへと移住した日本人写真家である。日本の写真創成期の写真家達(上野彦馬や下岡蓮杖など)とは無縁に、グアテマラで写真術を習得した。 1846年、岩手県一関市藤沢町藤沢に生まれた。父は蘭学医の尚安。幼少期より父から蘭学を学び、1863年、15歳で上京し叔父より漢学を学ぶ。その後医学や天文学などを修学し、1868年に帰郷。3年ほど医業に携わり、再び上京。 1874年に神奈川県横浜市で通訳として金星観測を行った著名なメキシコン人天文学者コバルビアス率いるメキシコ科学調査隊との出会いをきっかけとして、メキシコへ渡った。
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山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
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野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12… 野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12日(弘化3年5月30日) - 1925年(大正14年)11月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国方県郡、のちの岐阜県本巣郡西郷村(現岐阜市)出身。野々村佐太郎の子として生まれ、のち叔父佐兵衛の養子となり1887年(明治20年)4月、家督を相続する。 1879年(明治12年)以降、下西郷村戸長、同衛生委員、本巣郡会議員のほか、第九十五国立銀行取締役、野々村銀行頭取を歴任した。 1918年(大正7年)9月には岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1921年(大正10年)7月6日まで務めた。
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正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846… 正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846年12月12日) - 1896年(明治29年)4月5日)は、明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。 弘化3年(1846年)10月24日、長門国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。 安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
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内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年… 内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年11月24日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権運動家。衆議院議員(立憲政友会)。東海地方の民権運動の嚆矢として知られる。 弘化3年10月6日(1846年11月24日)、陸奥国福島(現在の福島県福島市)に生まれた。内藤家は福島藩藩士の家であり、代々譜代大名板倉氏の家老職を務めた家柄だった。 慶応4年 (1868年)の戊辰戦争の際、福島藩は奥羽越列藩同盟に参加したが、内藤はこれに反対して孤立したが、福島藩が敗北すると事態の収拾に尽くした。その後、三河国の重原藩(現在の愛知県刈谷市)に転封されたものの、執政大参事として藩政の立て直しに参画し、廃藩置県後も藩士の授産活動に尽くした。
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5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘… 5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘化3年9月23日) - 1923年(大正12年)7月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。幼名・清作。 陸奥国津軽郡青森(現青森県青森市)で、淡路島を祖とする呉服商「大世」の家に生まれる。成人となり家業に従事し、安方町組頭となる。1889年(明治22年)5月22日に清蔵と改名した。同年、青森町会議員に当選した。1891年(明治24年)、銀行に類似した「盛融会」(ため講)を創立。1892年(明治25年)にも町会議員に当選したが、1895年(明治28年)4月に辞職した。その後、商業会議所会頭、農工銀行取締役、青森電燈会社取締役、青森倉庫会社社長、青森貯蓄銀行専務取締役、青森銀行頭取、第五十九銀行取締役などを務めた。
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飯淵 七三郎(飯渕、いいぶち しちさぶろう、1846年11月… 飯淵 七三郎(飯渕、いいぶち しちさぶろう、1846年11月8日(弘化3年9月20日)- 1926年(大正15年)4月20日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・飯淵藤七の長男として陸奥仙台藩領柴田郡船岡村(船岡町を経て現柴田町)に生まれる。1874年(明治7年)11月、家督を相続した。1879年(明治12年)船岡村会議員に当選。翌年、宮城県会議員となる。1893年(明治26年)久保寺豊太郎から仙台の日進学舎を買収し、同校の改革に努めた。ほか、柴田郡会議員、同議長代理などを歴任した。また、農家の指導啓発に尽力するとともに、船岡村農会を設立して肥料購入、資金融資の便宜を図った。
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田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月… 田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月17日)- 1895年(明治28年)11月13日)は、明治期の農業経営者・政治家。衆議院議員。幼名・千太郎。号・松雨。 山城国綴喜郡上村(京都府綴喜郡普賢寺村大字上小字小田垣内、田辺町大字普賢寺を経て現京田辺市普賢寺)で、南山郷士、組頭、農業・田宮喜平次の長男として生まれる。相楽郡木津町の沢井石芸に師事し漢学を修めた。 1872年(明治5年9月)大区小区制の設置に伴い副区長に就任し1874年(明治7年)まで在任。1876年(明治9年)6月、西川義延の後任として地租改正事件郡総代人となり、事業終了の1877年(明治10年)7月まで務めた。
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雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、… 雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、弘化3年9月5日〈1846年10月24日〉 - 1911年〈明治44年〉1月20日)は日本の実業家・投資家。「天下の雨敬」「投機界の魔王」「明治の鉄道王」などの異名をとった。 結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人であり、「政治の伊藤博文、金の安田善次郎」とともに「事業の雨宮敬次郎」とまで謳われた。最も知られる功績として、現在の長野県軽井沢町の基礎となる植林事業や、日本製粉の設立、東京市街鉄道や大日本軌道といった鉄道分野での事業などがある。 甲斐国山梨郡牛奥村(現・山梨県甲州市塩山牛奥)に名主・雨宮總右衛門の三男として生まれる。
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今村 和郎(いまむら わろう / かずろう、弘化3年9月3日… 今村 和郎(いまむら わろう / かずろう、弘化3年9月3日〈1846年10月22日〉 - 1891年〈明治24年〉5月4日)は、明治時代の日本の法制官僚・教育者。 土佐国出身。大学南校(東京大学の前身の1つ)教員を経て岩倉使節団の随員としてフランスに渡り、パリ東洋語学校(フランス国立東洋言語文化学院の前身)に勤務。帰国後は内務省取調局長、法制局(内閣法制局の前身)部長、明治法律学校(明治大学の前身)講師、貴族院議員、行政裁判所評定官を歴任し、法律取調委員会の報告委員として旧民法のうち日本政府法律顧問ボアソナードが起草した財産法部分(ボアソナード民法典)の制定に尽力した。 弘化3年9月3日(1846年10月22日)、土佐国高岡郡高岡村に商家の長男として生まれる。
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田村 宗立(たむら そうりゅう、弘化3年8月20日(1846… 田村 宗立(たむら そうりゅう、弘化3年8月20日(1846年10月10日) - 大正7年(1918年)7月10日)は、明治期の洋画家、画僧。別号に月樵、十方明。京都において浅井忠に先立って洋画普及の礎を築いた。 丹波国船井郡上河内村(現在の京都府南丹市園部町船岡)に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女尚子との間に生まれる。宗立は僧名とする説もあるが、師・憲海は弟子に法諱を授ける際に「憲」の字を与えるのが基本で、父の名が宗貫な事や遺族の証言から戸籍名で、本名を法諱に転用した可能性が高い。公卿中山家に仕えた父に従い、幼時を京都、亀岡で過ごした。3歳ではじめて絵筆を持ち、9歳の時百人一首を模写して周囲を驚かせたという。
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中島 信行(なかじま のぶゆき、旧名:中島 作太郎〈なかじま… 中島 信行(なかじま のぶゆき、旧名:中島 作太郎〈なかじま さくたろう〉、1846年10月5日〈弘化3年8月15日〉 - 1899年〈明治32年〉3月27日)は、明治時代の官僚、政治家。号は長城。元土佐脱藩浪士(海援隊士)。初代衆議院議長。先妻は陸奥宗光の妹初穂で長男は中島久万吉。後妻は男女同権論者の岸田俊子(中島湘煙)。 明治維新後、外国官及び兵庫県に徴され、通商正・出納正、紙幣権頭、横浜税関長、神奈川県令、元老院議官(国憲取調委員)を歴任後、野に下って民選議院開設・自由民権運動に加わり自由党副総理・立憲政党総理を兼任。民権派の大同団結の立場を堅持し、第1回衆議院議員選挙で当選、初代衆議院議長を務めた。
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山本 梅荘(やまもと ばいそう、弘化3年8月13日(1846… 山本 梅荘(やまもと ばいそう、弘化3年8月13日(1846年10月3日) - 大正10年(1921年)2月24日)は、明治・大正期の南画家。「梅荘」は雅号で、名は倉蔵、字は子埜。また、最初の号は「半邨」だった。 碧海郡新川鶴ヶ崎村(現・碧南市新川町鶴ヶ崎地区)で出生。幼少の頃、書画骨董商山本滄洲堂(名は公平)の養嗣子となり、知多郡半田村(現・愛知県半田市)に移住する。 その後、京都に出て貫名菘翁、三谷雪崦に師事して南画を学んだ。 明治15年(1882年)の内国絵画共進会で褒状を授与されたほか、各種の博覧会共進会で受賞を重ね、明治45年(1912年)には文部省美術展覧会審査員に任命された。作品は山水画が多い。
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飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年… 飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。長州藩家老福原家家臣・飯田直規(勘右衛門)の四男として生まれる。幼名は益雄。幼少期に両親を失う。豊後国の広瀬青邨に漢学を学ぶが、下関戦争の報を聞き直ちに帰国、福原越後に従って国事に奔走。その後奇兵隊に入隊し第二次長州戦争・戊辰戦争に従軍した。 1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官。1874年(明治7年)9月、歩兵中尉となり、西南戦争では歩兵第2連隊第一中隊長として田原坂の戦いに参加した。
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法貴 発(ほうき はつ / たかし、1846年9月29日〈弘… 法貴 発(ほうき はつ / たかし、1846年9月29日〈弘化3年8月9日〉 - 1890年〈明治23年〉12月23日)は、明治時代の政治家、官吏、裁判官。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は篤介、信保。 丹波篠山藩士・法貴新治の二男として丹波国多紀郡篠山山内町(兵庫県多紀郡篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市)として生まれた。のち上京し昌平黌に入り塩谷宕陰、中井履軒、芳野金陵などに漢籍を学んだ。長州征討、戊辰戦争に従軍したのち開国論および佐幕主義に目覚め、各地を転々としたのち鹿児島の兵学寮に入校した。1871年(明治4年)の廃藩置県を機に篠山へ帰郷し、間もなく上京し大蔵省地租改正局に出仕し同職を5年間に渡り務めた。
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12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろう… 12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろうえもん、1846年9月14日(弘化3年7月24日)- 1915年(大正4年)7月8日)は、丹後国熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の地主・銀行家・政治家。衆議院議員。幼名・正吉、元服後は新一郎。稲葉市郎右衛門英裕(いなば いちろうえもんひでひろ)とも呼ばれる。 弘化3年7月24日(1846年9月14日)、丹後国熊野郡久美浜村(京都府熊野郡久美浜村、久美浜町を経て現京丹後市)に生まれた。父は地主である11代稲葉市郎右衛門太訓(餘庵)、母はりうであり、二男だった。稲葉家は糀屋を屋号とし、廻船業や金融業で富を成した豪商である。幼少期から出石藩の儒学者である島村弘輔と土岐新之丞に漢学を学んだ。
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小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7… 小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7月12日)- 1904年(明治37年)4月20日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。幼名・律五郎、のちに清、義明。号・篠州(じょうしゅう)。 肥後国天草郡大浦村(熊本県天草郡大浦村、有明村、有明町を経て現天草市有明町)で、大庄屋・小崎武一郎重謙(しげかね)、清の息子として生まれる。漢籍を値賀盛純、高尾道一郎に、書を城野静軒に学び、広瀬淡窓の咸宜園にも入塾した。 1858(安政5年2月)職務見習勤務を命ぜられ、1864年(文久3年12月)父の死去に伴い天草郡栖本組大庄屋を世襲した。1865年(慶応元年)九品寺閻魔堂に寺子屋を開設。1869年11月(明治2年10月)から1870年1月(明治2年12月)まで長崎県掌郡方刑法掛勤務を務めた。
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栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1… 栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1846年9月1日) - 明治17年(1884年)2月11日)は新潟県の豪農。第七大区第二小区戸長、第十大区長、南蒲原郡書記を歴任した。子に栗林五朔。 弘化3年(1846年)7月11日、越後国蒲原郡三条町に六代目栗林七郎治の五男三女の長男として生まれた。安政3年(1856年)父が西大崎村名主を命じられたため、同村に移り、安政6年(1859年)14歳で家督を継いだ。 幼少より帯織村岩崎塾に学び、江戸に出て蒲生重章に入門し、片桐省介、岩崎幸太郎等と交わったが、明治元年(1868年)戊辰戦争勃発に伴い帰郷した。 明治2年(1869年)御徒士取扱として新潟県商館御取立取締役を命じられ、明治5年(1872年)9月第七大区第二小区戸長となった。
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松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化… 松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化3年6月23日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。位階・勲等・爵位は贈従一位勲一等男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。 検事総長や農相を歴任。学問的遺業の中には拷問制度の廃止と裁判所構成法を中心とする訴訟制度近代化の提唱が特筆されている。 山田顕義の死後、廃校決議まであった日本法律学校を立て直し、30年間にわたり日本大学の発展に寄与し、同学の礎を築いた。
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森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月1… 森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月16日〉 - 1908年〈明治41年〉12月31日)は、日本の政治家。山形県南村山郡東村長。山形県会議員。 現在の上山市菖蒲出身。森作右衛門の長男として出生。1891年(明治24年)5月18日に南村山郡会議員選挙に東村選挙区から立候補して、当選。その後、1893年(明治26年)、1897年(明治30年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)、1907年(明治40年)の選挙でも当選した。 1899年(明治32年)9月25日に山形県会議員総選挙に南村山郡選挙区から憲政党公認で立候補して、当選を果たした。1903年(明治36年)は立憲政友会公認で立候補して、再選を果たした。
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池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘… 池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日)- 1921年(大正10年)9月13日)は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。 肥後国玉名郡上小田村(熊本県玉名郡上小田村、小田村を経て現玉名市上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた。 明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった。
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山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年… 山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年5月15日〉- 1904年〈明治37年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵。 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。
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佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化… 佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化3年5月14日)- 1929年(昭和4年)2月5日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。徳清の9代目、貴族院多額納税者議員。幼名は種次郎。 盛岡出身。佐藤徳次郎の長男として生まれる。幼少期に小野組の銭店で丁稚奉公する。1879年(明治12年)10月、祖父清右衛門から家督を相続した。ほか、北上回漕会社、交話会、第九十国立銀行重役などを歴任した。1896年(明治29年)には盛岡銀行の創立に参画し、岩手農工銀行の重役も務めた。 1892年(明治25年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任。
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緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5… 緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5月10日〉 - 1925年〈大正14年〉7月23日)は、明治時代の日本の山林官僚。オーストリアで山林学を修めた。次男は医学者の緒方大象、三男はジャーナリスト・国会議員の緒方竹虎、四男は医師の緒方龍。 備中国下道郡矢田村(現・岡山県倉敷市)において郷士であった父妹尾康信の三男として生まれた。 1866年(慶応2年)、摂津国名塩村の蘭医伊藤慎蔵に師事し、次いで伊藤の師である大阪の緒方洪庵について蘭学を学んだ。ここで蘭学者緒方研堂から子弟を託され、研堂の養子となって緒方姓を名乗ることとなる。1872年(明治5年)、緒方は上京し、ドイツ語通訳としてウィーン万国博覧会で日本館を出展する田中芳男、津田仙、佐野常民らに随行してオーストリアに渡航した。
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新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年… 新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年5月5日) - 1922年(大正11年)6月16日)は、元仙台藩士で、「有神無我」を唱え、自らを「クライストの志願奴隷」と定義した明治後期から大正時代の特異なキリスト教思想人。 戊辰戦争後に森有礼に認められ、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡る。アメリカでキリスト教系新興宗教団体教祖トマス・レイク・ハリスの弟子となり、労働と冥想の日々を送る。 1899年(明治32年)、53歳のとき、英語の自著Inward Prayer and Fragments(『内観祈祷録』)一冊を携えて帰国する。 1904年(明治37年)、巣鴨に「謙和舎」を開き、奥邃独特の伝道生活に入る。
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白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年… 白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年4月29日)- 1927年(昭和2年)10月9日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・佐藤、幼名・常松。 父・佐藤愛之助(幸助)は三春藩領陸奥国田村郡菅谷村(現田村市)の名主を務めていたが、天保の大飢饉の際に藩主の許可を得ずに蔵米の放出を行ったため一家で他国に逃れた。その後、下野国芳賀郡真岡(現栃木県真岡市)の円林寺の寺代官となり、その地で遠平は誕生した。その後一家は水戸藩の西丸帯刀の食客となり、遠平は松霜塾で学問を修めた。1856年(安政3年)陸奥国磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村、小川町を経て現いわき市)の名主、酒造業・白井佐平太の死跡を継いで一家養子となり白井に改名した。
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松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4… 松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4月11日〉- 1914年〈大正3年〉3月4日)は、日本の政治家、男爵(依勲功特授)。幼名は又之輔(又之助)、大之助。号は牛州・江村など。 肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において[要出典]、小城藩士横尾唯七(岡氏より婿入り)と妻・まちの次男として生まれた。12–13歳頃におじである松田勇七の養子となるが、実際に松田家へ移る前に勇七とその妻ルイが亡くなったため、そのまま実の父母のもとで養育された。松田家が副業として営んでいた酒造業は廃業し、財産分与ののち、二町余歩が松田のもとに残った。その後、14歳で小城藩の藩校・興譲館へ入学する。
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海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3… 海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3年4月7日)- 1913年(大正2年)10月16日)は、幕末から明治期の大庄屋・銀行家・政治家。衆議院議員、三重県会議長。 伊勢国安濃郡粟加村(三重県安濃郡明合村大字粟加村、協和村、安濃村、安芸郡安濃村、安濃町を経て現津市安濃町粟加)で生まれる。津藩士・野田竹渓に師事し漢学を修めた。大庄屋役を務める。 廃藩置県後、小区戸長に就任。安濃郡書記、明合村会議員、所得税調査委員、所得税審査委員などを務める。1880年(明治13年)11月、三重県会議員に選出され1900年(明治33年)3月まで在任し、この間、同常置委員、同副議長、同議長(4期)なども務めた。
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荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
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