野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日… 野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日 - 1979年(昭和54年)1月22日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1958年)(学位論文「日本労働法の形成過程と理論」)。早稲田大学名誉教授。 千葉県出身。早稲田大学法学部卒。欧米に留学後早稲田大学法学部助教授、教授。1958年「日本労働法の形成過程と理論」で早稲田大学より法学博士の学位を取得。1973年定年退任、名誉教授、日本福祉大学教授、学監。労働法研究、戦後の労働運動を理論的に支えた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鳴山 草平(なるやま そうへい、1902年(明治35年)5月… 鳴山 草平(なるやま そうへい、1902年(明治35年)5月30日 - 1972年(昭和47年)3月7日)は、日本の小説家。本名は前田好照。昭和初期に時代小説を数多く手がけるほか、自身の教師体験をもとにしたを「きんぴら先生」シリーズで知られる。
酒詰 仲男(さかづめ なかお、1902年〈明治35年〉5月2… 酒詰 仲男(さかづめ なかお、1902年〈明治35年〉5月29日 - 1965年〈昭和40年〉5月31日)は、日本の考古学者、文学博士。 東京出身。東京開成中学校に入学し、3年時に両親の不仲から母の地縁で京都へ移り、京都府立京都第一中学校に転入。同志社大学文学部英文科卒。筆名は土岐仲雄。東京開成中学校教諭、大山史前学研究所所員、東京帝国大学助手、1954年同志社大学教授。 開成中学の英語教員時代、同僚石田外茂一と親交を結び、佐野学『日本歴史』をテキストとして日本史の共同研究を進める。社会主義シンパとなった酒詰は、1933年「6.15研究グループ」参加を理由に特別高等警察から検挙される。この時の拷問で酒詰は前歯が数本欠けている。
野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月… 野澤 隆一(のざわ りゅういち、1902年〈明治35年〉5月28日 - 1991年〈平成3年〉3月31日)は、日本のジャーナリスト、実業家。信越放送代表取締役社長、共同テレビジョンニュース社(現・共同テレビジョン)代表取締役社長を務めた。 長野県上伊那郡伊那富村(現・辰野町)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第二高等学校を経て、1927年東京帝国大学経済学部卒業。 毎日新聞社入社。東京大学総長小野塚喜平次に懇望され東京大学学生課に勤務し東京大学新聞社を創設、主幹を務めた。小平権一のもとで大政翼賛会企画部長を務め、日本出版会理事、日本印刷工業会専務理事を経て、1951年信越放送の設立に参画し東京支社長、1955年同社代表取締役社長。
荒木 源太郎(あらき げんたろう、1902年5月27日 - … 荒木 源太郎(あらき げんたろう、1902年5月27日 - 1980年8月6日)は、日本の物理学者。京都大学名誉教授、京都産業大学名誉教授。 1902年、京都府何鹿郡山家村和木で生まれた。京都府師範学校、東京高等師範学校を経て、東京文理科大学に入学。1932年3月に同大学を卒業。 卒業後は、三重師範学校、次いで鹿児島師範学校の教諭を務めたを経て、1934年3月に母校である文理科大学の副手に就いた。1936年3月に同大学講師、1941年5月に同大学助教授に昇格。この後、京都帝国大学の喜多源逸、児玉信次郎の後押しがあり、1943年2月に京都帝国大学助教授に転じた。1944年4月、同大学教授に昇格(1947年10月大学名変更のため京都大学教授)。
疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27… 疋田 敏男(ひきた としお、1902年(明治35年)5月27日 - 1989年(平成元年)6月2日)は、日本の政治家。 山口県下関市出身。明治大学専門部法律科卒業。実業界に進み、親和興産社長を務めた。また、政治家として、1946年4月の戦後1回目の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)に山口県から立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。早川崇(国家公安委員会委員長、労働大臣等)らと青壮クラブを発足させ、新政同志会と合流するなど、諸派・無所属議員を中心とした国民党の結成に参画し、党執行部役員(中央常任委員)などを務めた。
古林喜楽(こばやし よしもと、1902年5月26日 - 19… 古林喜楽(こばやし よしもと、1902年5月26日 - 1977年1月11日)は、日本の経営学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1953年)(学位論文「賃銀形態の研究」)。神戸大学名誉教授。第2代神戸大学学長。「経営労務論研究のパイオニア」と評される。 岩手県一関市出身。兵庫県立神戸商業学校、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1927年京都帝国大学経済学部を卒業した。 卒業後は和歌山高等商業学校講師となり、1928年に教授に昇進する。 1931年、神戸商業大学附属商学専門部教授に転じ、神戸商業大学助教授(1932年)を経て、1940年に教授に昇進した(1944年に大学名の変更で神戸経済大学教授)。
岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970… 岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)。 1902年(明治35年)5月25日(日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる。深川区で硝子腐食工場を営む中溝兵三郎の次男として生まれ、三十銀行の頭取兼支配人、中溝秀周の養子となった。祖父は佐賀藩の勘定方を務めていた。義父秀周は安政元年1月12日に生まれ、慶応2年12月に兄の権之助の後に家督を継いだ。維新後に実業家となり、千寿製紙破産後の整理委員も務めた。義母は同藩士で江藤新平の部下であった馬渡雅一の長女のうき。
笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日 - 1976… 笹本 寅(ささもと とら、1902年5月25日 - 1976年11月20日)は、日本の作家。 佐賀県唐津市生まれ。唐津中学中退後、1921年荏原中学を卒業し、1924年頃、東洋大学中退。唐津日日新聞社を経て、1925年に春秋社に入社、中里介山『大菩薩峠』の刊行(角川文庫版の巻末解説も担当)や、八住利雄を担当する。1931年、時事新報社入社、文芸部・社会部に在籍した後1934年退社、文芸主任だった。1936年、週刊朝日に「海舟と按摩」を発表し作家デビュー。1939年、海音寺潮五郎らと同人誌『文学建設』を創刊し、1941年「会津士魂」で第1回野間文芸奨励賞を受賞する。戦後は中里介山についての書籍を出版するなどした。
朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5… 朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5月25日戸籍上は7月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月29日)は、日本の部落解放運動家、会社経営者。元「解同」(部落解放同盟)中央執行委員長。 京都府愛宕郡田中村字西田中(現在の京都市左京区田中馬場町)で生まれた。朝田が生まれた西田中は被差別部落で、古くは川崎村といった。 父は滋賀県大津市出身の幾之助、母はみゑ、長兄は幾松、次兄は伊助といった。父は和鞋の製造、販売の早瀬円蔵商店勤務を経て肥屋、汲み取りをやって1907年頃から共同浴場の経営をしていた。 1908年、養正小学校へはいった。1914年、小学校を卒業して寺町五条下ルの篠本靴店へでっち奉公へ出た。
横溝 正史(よこみぞ せいし、本名:漢字同じ(よこみぞ まさ… 横溝 正史(よこみぞ せいし、本名:漢字同じ(よこみぞ まさし)、1902年〈明治35年〉5月24日 - 1981年〈昭和56年〉12月28日)は、日本の推理作家。兵庫県神戸市東川崎出身。 当初は筆名は本名読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。戦前にはロマン的な『鬼火』、名探偵・由利麟太郎が活躍する『真珠郎』、戦後には名探偵・金田一耕助を主人公とする『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』などの作品を著した。 姪は女優の由美かおる。 横溝は1902年(明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎(現:中央区東川崎町)に父・宜一郎(ぎいちろう)、母・波摩の次男として生まれた(三男とする説もある)。
齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 19… 齋藤 秀雄(さいとう ひでお、1902年5月23日 - 1974年9月18日)は、日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活動した音楽家。東京都出身。 英語学者として有名な斎藤秀三郎の次男として東京市京橋区築地明石町に生まれ、1906年から麹町区五番町(現:東京都千代田区一番町)に育つ。音楽に興味を示したのは12歳の頃からで、最初に演奏したのはマンドリンだった。後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している。 16歳からは宮内省にいたチェロ通の職員からチェロの手ほどきを受けはじめる。その後、暁星中学校を経て上智大学に入学したが、音楽に専念するため退学。
風巻 景次郎(かざまき けいじろう、1902年〈明治35年〉… 風巻 景次郎(かざまき けいじろう、1902年〈明治35年〉5月22日 - 1960年〈昭和35年〉1月4日)は、日本の国文学者。 兵庫県川辺郡神崎村(のち尼崎市)に伊達藩士・平田景儀の子として生まれ、生後すぐ京都市上京区の風巻平の妻・舞免の養子となる。生母・里の祖母は林子平の妹にあたる。養父・風巻平は里の次弟にあたり、舞免は伊達藩家老の長女である。風巻平は中央大学を中退後、横浜火災保険会社の京都支店長であった。その後養父の転勤に従い、金沢市、大阪市、名古屋市と移る。小学校時代を過ごした大阪では幼友達に恵まれ、当時出会った四方山径とは長く旧交を温めた。 愛知県立第一中学校(のち愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て1926年東京帝国大学国文科卒業。
横山 不学(よこやま ふがく、1902年5月22日 - 19… 横山 不学(よこやま ふがく、1902年5月22日 - 1989年3月1日)は、日本の構造家、建築構造技術者。東京都出身。 旧制開成中学校、旧制水戸高等学校理科乙類を経て、1928年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業。当時の建築学科教室主任教授であった佐野利器の指導推挙で日本銀行臨時建築部に勤務する。その後内務省、戦災復興院技官などで建築の構造設計監理を一貫して担当。 1950年に横山建築構造設計事務所を開設。前川国男との東京文化会館、東京都美術館、国立西洋美術館など、その他東京海上本社ビルなど、数多くの構造設計を担当した。 1964年藍綬褒章受章、1971年勲三等瑞宝章受章。 著書に、『世界のランドマークを求めて―建築構造設計論』(彰国社)、『遙かなる身と心との遍歴―紀行と随想』(1982年、相模書房)、『理念の追求と展開―建築構造設計論』(1979年)など。
筒井 竹雄(つつい たけお、1902年〈明治35年〉5月20… 筒井 竹雄(つつい たけお、1902年〈明治35年〉5月20日 - 1968年〈昭和43年〉9月15日)は、日本の朝鮮総督府官僚、陸上自衛官。初代陸上幕僚長。 和歌山県出身。筒井熊吉の長男として生まれる。和歌山中学、第五高等学校を経て、東京帝国大学に入学。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格。1927年(昭和2年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月、拓務省に入省し、朝鮮総督府属となり内務局に配属。以後、専売局属、咸鏡南道地方課長、京畿道学務課長、咸鏡北道警察部長、警務局図書課長、内務局地方課長などを歴任し、終戦時は黄海道知事であった。たまたま京城に出張中であったが、総督府からソ連軍の情報を得て急遽、任地に戻った。
島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年… 島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年11月)は、日本の倫理学者、京都大学名誉教授。 福井県生まれ。1926年京都帝国大学文学部哲学科卒。1936年、同助教授、京大教授、1966年、定年退官、大谷大学教授。文学博士。
副島 民雄(そえじま たみお、1902年5月20日 - 19… 副島 民雄(そえじま たみお、1902年5月20日 - 1975年7月10日)は、日本の哲学者、歌人。妻・百合子は太田秀穂の長女。 佐賀県出身。1927年東京帝国大学文学部哲学科卒。1962年「プラトンの後期における生成について」で京都大学文学博士。熊本大学教授、1963年九州大学文学部教授。1967年定年退官、お茶の水女子大学教授、日本ルーテル神学大学教授を務めた。古代ギリシア哲学専門で、『水甕』所属で短歌を詠んだ。
橋本 石洲(はしもと せきしゅう、1902年5月19日 - … 橋本 石洲(はしもと せきしゅう、1902年5月19日 - 1986年1月21日)は、日本の伊勢派正風の俳諧師。本名、橋本 隆介(はしもと りゅうすけ)。 三重県伊勢市宮後西河原町に生まれる。生家は代々外宮祠官町年寄師職ならびに徳川幕府直轄伊勢山田奉行所御旗本支配組頭を務めた家柄であった。13歳の頃から漢学を父実幹に習い、郷土史を血族の松木時彦に学んだ。漢詩は久志本博石主幹の神都天南吟社に属し、服部擔風・本宮三香などと交渉があった。 三重県宇治山田商業学校(現宇治山田商業高等学校)を卒業。1年次在学中に剣道の試合の際、受け損なって鼓膜を破られ、以来耳が不自由であった。 早くから俳諧を早苗庵汀鷗に学んで雲夢園石洲と号した。
佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1… 佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、建国大学助教授などを務めた。 愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)。京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。 1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国の建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した。 終戦まで建国大学に在職。
六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月… 六角 英通(ろっかく ひでみち、1902年(明治35年)5月19日 - 1987年(昭和62年)12月19日)は、昭和期の電気工学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。工学博士。 京都市で子爵・六角玄通の長男として生まれる。1907年(明治40年)9月、父の死去に伴い家督を継承し、同年11月27日、子爵を襲爵した。 1924年(大正13年)学習院高等科を卒業し、1927年(昭和2年)東北帝国大学工学部電気学科を卒業。1930年(昭和5年)逓信省に入省し電気試験所技師に就任。東北大学講師、同教授などを経て、1963年(昭和38年)から1976年(昭和51年)まで相模工業大学(現湘南工科大学)学長を務めた。
吉野 一之助(よしの かずのすけ、1902年〈明治35年〉5… 吉野 一之助(よしの かずのすけ、1902年〈明治35年〉5月19日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県会議員。 埼玉県北埼玉郡南河原村(現・行田市)出身。吉野貞蔵の長男。1921年に熊谷中学校を卒業する。農業を営んだ。 1926年に南河原村青年団長に就任、同村長、北埼玉郡町村会理事を歴任して、1947年に埼玉県議に当選、総務常任委員長に就任する。 傍ら1946年に元荒川支派川普通水利組合会議員に選ばれ、1950年に羽生地区署管内西部交通安全協会長に推された。 趣味は剣道、庭球、読書。宗教は真宗。住所は埼玉県北埼玉郡南河原村。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
伊藤 正雄(いとう まさお、1902年(明治35年)5月17… 伊藤 正雄(いとう まさお、1902年(明治35年)5月17日 - 1978年(昭和53年)7月20日)は、国文学者。 大阪府大阪市東区(現中央区)北浜生まれ。弁護士山口房五郎の次男。弁護士伊藤徳三の養子となり東京四谷で育ち、のち大阪に移る。第三高等学校卒、1927年東京帝国大学文学部国文科卒。28年神宮皇學館教授、1941年神宮皇學館大學附属専門部教授。1946年京都女子専門学校教授、1947年兵庫県社会教育課嘱託、1948年兵庫県立社会研究所員、49年旧制甲南高等学校教授、51年甲南大学教授、1949-1957年天理大学教授を兼ねる。1972年甲南大学定年、名誉教授、神戸女子大学教授。近世文学および福沢諭吉を研究した。
野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 199… 野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 1996年4月4日)は、日本の化学者、理学博士。台北帝国大学教授を経て、戦後、東北大学理学部教授、同大学名誉教授。文化勲章受章者、日本学士院会員、仙台市名誉市民(本籍地は東京都新宿区)。 宮城県仙台市に生まれる。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年(大正15年)に東北帝国大学理学部化学科を卒業。同年7月当時日本領であった台湾に渡り台湾総督府専売局に勤務する。1927年(昭和2年)工業部に籍を置き、台湾総督府中央研究所助手となる。1929年(昭和4年)台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授に就任し、有機化合物の構造研究や大学の教育に尽力した。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16… 湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16日 - 1977年(昭和52年)12月17日)は、日本の牧師である。 湯浅治郎と湯浅初子の第13子として京都府に生まれる。1910年(明治43年)に東京府に移り、日本組合基督教会霊南坂教会に通う。1919年(大正8年)11月16日、霊南坂教会牧師小崎弘道から洗礼を受ける。その後、青山学院(旧制)高等学部を卒業して米国へ留学し、オーバリン大学神学部を卒業、1931年(昭和6年)に帰国する。1940年(昭和15年)、按手礼を受け牧師になる。佐久、沼田の教会の牧師をした後、初台教会に移った。墓所は多磨霊園。
小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月1… 小川 一平(おがわ いっぺい、1902年(明治35年)5月16日 - 1982年(昭和57年)8月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 政治家小川平吉の長男として長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)に生まれる。東京高等師範付属小学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学政治学科卒業。昭和4年(1929年)三菱銀行に入行、同17年(1942年)に退社、同年戦時生活相談所常任理事に就任し、岡谷市に支所を設けて、首都圏から諏訪地方への工場疎開を推進した。 同21年(1946年)第22回衆議院議員総選挙に長野県から出馬し当選。同26年(1951年)後楽園スタヂアム取締役、同32年(1957年)常務、同42年(1967年)副社長、同46年(1971年)花月園観光社長を歴任した。
鄭芝溶(チョン・ジヨン、1902年陰暦5月15日 - 195… 鄭芝溶(チョン・ジヨン、1902年陰暦5月15日 - 1950年)は朝鮮の詩人。1930年代を代表する詩人であり、同世代と後輩達に大きな影響を与えた。鄭の詩は異国情緒、伝統的郷土情緒、そしてカトリックに依拠する宗教性の3つの傾向を持つ。 1902年陰暦5月15日、忠清北道沃川郡沃川面下桂里40番地に生まれる。父は延日鄭氏の鄭泰国、母は河東鄭氏の鄭美河の間の1人息子である。家は、父の鄭泰国が薬局を経営していて裕福であったが、ある年に洪水に見舞われ、生活が傾いていく。幼い頃は池龍と呼ばれた。1913年、恩津宋氏の宋在淑と結婚する。 1918年、徽文高等普通学校に入学する。この頃から詩の創作活動を始め、この年の12月、『曙光』創刊号に小説「三人」を発表した。
長沢 規矩也(ながさわ きくや、1902年(明治35年)5月… 長沢 規矩也(ながさわ きくや、1902年(明治35年)5月14日 - 1980年(昭和55年)11月21日)は、日本の中国文学者、書誌学者。号は静あん。書斎号は学書言志軒。
金 声福(キム・ソンボク、朝鮮語: 김성복/金聲福、1902… 金 声福(キム・ソンボク、朝鮮語: 김성복/金聲福、1902年5月14日 - 1982年4月28日または4月29日)は、大韓民国の警察官僚(総警)、政治家。第3代韓国国会議員。 本貫は光山金氏。仏教徒。 全羅南道宝城郡出身。普成高等普通学校卒、東京正則学校英文科修了、日本大学法科専門部卒。大韓独立促成国民会宝城郡支部支部長、民統宝城郡事務局長、立法議院宝城郡代議員、治安局教育科兼警察専門学校勤務員、大同青年団・大韓青年団宝城郡団団長、宝城中学校後援会、宝城郡顧問、康津警察署・木浦警察署・大邱警察署署長、金泉地区・高霊地区戦闘司令官を務めた。1954年の第3代総選挙で無所属で当選し、まもなく自由党に入党した。
岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1… 岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1973年3月8日)は、ロシア文学者、評論家。 1902年、山口県生まれ。豊浦中学を卒業して、早稲田大学露文科に進んだ。在学中は早大童話会に所属。1940年、早稲田大学教授に就任。 太平洋戦争後の1946年、復活した露文科の再建にあたる。早稲田大学露文科に米川正夫を迎え、後進の育成に尽くした。研究者としてはスターリン体制の欠陥を指摘していた。
石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月… 石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月12日 - 1968年(昭和43年)12月12日)は、美術評論家。慶應義塾大学教授(法科)。 島根県出身。叔父に柳宗悦 。1915年(大正4年)、府立一中(現・都立日比谷高校)に入学したが半途(中途)退学。1927年(昭和2年)、慶應義塾大学英文科卒業。一中時代は小林秀雄や西竹一(バロン西、半途退学)、迫水久常、原奎一郎らと同期。また「青銅時代」を創刊するなど、この中学校の頃から評論に携わっていた。小林秀雄などとは、同人誌「山繭」を主宰し、また柳宗悦や吉田璋也、河井寛次郎らの民藝運動に初期には関わっている。 美術評論家として知られ、主な著作に『英国の工芸』(工政會出版部、1930年)、『英国教会本寺考』(好學社、1953年)。
高柳 真三(たかやなぎ しんぞう、1902年(明治35年)5… 高柳 真三(たかやなぎ しんぞう、1902年(明治35年)5月12日 - 1990年(平成2年)1月4日)は、日本の法制史学者、東北大学名誉教授。「高柳眞三」とも表記される。 石川県金沢市出身。1919年石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業。1922年旧制第四高等学校、1925年東京帝国大学法学部卒業(恩師:中田薫 )。1925年東北帝国大学法文学部助手、1927年同助教授、1941年、東北帝国大学法文学部教授。1949年宮城県女子専門学校 (旧制)校長。1951年東北大学教養部長。1952年9月「明治家族法史」にて東北大学にて法学博士受く。1958年、東北大学法学部長。1966年、定年退官、名誉教授、岩手県立大学盛岡短期大学部学長。
佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 19… 佐藤 信彦(さとう のぶひこ、1902年5月11日 - 1977年2月3日)は、慶應義塾大学文学部教授などを務めた、日本の国文学者。 彦根藩出身の軍人であった父の任地だった島根県那賀郡浜田町(後の浜田市の中心部)で生まれ、宮城県立仙台第一中学校(宮城県仙台第一高等学校の前身)を経て、東京の私立日本中学校(日本学園中学校・高等学校の前身)に転じ、校長だった杉浦重剛の薫陶を受けた。1920年に卒業して、慶應義塾大学文学部予科に入学し、1924年には本科国文学科に進んで、折口信夫の指導を受け、川合貞一や田中豊蔵に学ぶ。1927年に大学を卒業して予科の国語教師に採用され、その後、1943年に藤山工業図書館の事務監督・主事、1945年から1947年にかけて工学部事務監督を兼任となり、戦中戦後の混乱期に、大学行政の一翼を担った。
荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)… 荒谷 直之介(あらたに なおのすけ、明治35年(1902年)5月11日 - 平成6年(1994年)2月18日)は、日本の水彩画家。本名、直之助。[要出典]日展評議員、参与を勤めた。 水彩では困難とされていた人物表現にこだわった昭和を代表する水彩画家。 明治35年(1902年)5月11日、富山県富山市南田町に父鶴次郎、母コトの次男として[要出典]生まれる。 早くから画家を志し、赤城泰舒に師事する。その後、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学ぶ。 昭和11年(1936年)に日本水彩画会の第一賞を受賞、昭和15年(1940年)には昭和洋画奨励賞を受賞し、水彩画家としての頭角を現す。1940年には小堀進や春日部たすくらとともに「水彩連盟」を結成する。
岡 次郎(おか じろう、1902年 <明治35年> 5月10… 岡 次郎(おか じろう、1902年 <明治35年> 5月10日 - 1986年 <昭和61年> 5月4日)は、日本の経営者。富士石油社長、会長を務めた。位階は従四位。 佐賀県出身。1925年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に東京電灯に入社。 1942年に関東配電(のちの東京電力)に転じ、1951年5月に取締役に就任し、1952年9月に常務、1959年1月にアラビア石油顧問1960年2月に常務を経て、1964年4月に富士石油社長に就任。1975年5月に会長、1981年6月に取締役相談役を経て、1984年6月には相談役に就任。1978年6月には共同石油会長に就任し、1979年5月から同年10月までに社長も兼任し、1980年6月には相談役に就任。
津屋 弘逵(つや ひろみち、1902年5月10日 - 198… 津屋 弘逵(つや ひろみち、1902年5月10日 - 1988年12月25日)は、日本の地質学者。 岐阜県出身。1926年東京帝国大学理学部地質学科を卒業。1937年理学博士の学位を取得。1930年、東京帝国大学地震研究所助教授に就任し、1940年に教授に昇格。1945年に研究所所長となる。1963年に定年退官し、東京大学名誉教授となる。 地質学的・岩石学的研究から富士山が3つの火山体からなることを解明した。1973年勲二等旭日重光章受勲、1978年度秩父宮記念学術賞受賞。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7… 江川 宇礼雄(えがわ うれお、1902年〈明治35年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉5月20日)は、日本の俳優、映画監督、脚本家。本名はウィリー・メラー(後に江川 ウレオ)。愛称は「ウレシュウ」。 1902年(明治35年)、ドイツ極東艦隊海軍病院薬局長として来日したドイツ人のフリードリッヒ・ウィルヘルム・メラーと河内出身の日本女性ゑいの次男として神奈川県横浜市山下町(現在の同県同市中区同町)に生まれる。幼い時に、両親が離婚。父は長男を連れてドイツに帰国、母にひきとられた江川は本名を「ウィリー」から「ウレオ」に改名した。 1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業、同級生に青柳信雄、中田晴康(脚本家)、国木田虎雄、高橋英一がいた。
城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年… 城 夏子(じょう なつこ、1902年5月5日 - 1995年1月13日)は、日本の作家。 和歌山県西牟婁郡周参見町(現・すさみ町)出身。本名・福島静。和歌山県立和歌山高等女学校(現・和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)卒。在学中から少女小説を書き、1924年『薔薇の小径』を刊行。『女人藝術』『婦人戦線』などに小説を発表。戦後は少女小説や童話を書く。
栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 … 栃ノ花 善治郎(とちのはな ぜんじろう、1902年5月4日 - 1992年4月23日)は昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は原→秋山善治郎。最高位は十両2枚目。 現在の東京都渋谷区出身。旧制錦城中学に入り、相撲部で主将をつとめ、1919年の全国大会で活躍した。翌1920年卒業後に春日野部屋に入門し、5月に初土俵を踏む。1927年1月十両昇進。十両を4場所連続在位したが、幕下に落ちた。1928年3月再十両を果たしたが、全休してそのまま25歳で廃業した。1992年に満89歳で死去した。
鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 -… 鏡岩 善四郎(かがみいわ ぜんしろう、1902年5月4日 - 1950年8月6日)は、青森県上北郡四和村(現:青森県十和田市)出身で粂川部屋に所属した大相撲力士。本名は佐々木 善四郎(ささき ぜんしろう)。最高位は西大関。 1902年5月4日に青森県三戸郡猿辺村(現:三戸町)に生まれる。幼いころに父親と死別し、母親の再婚に伴い上北郡四和村に移り住む。 子供の時から草相撲に出場し、怪力として鳴らした。そんな善四郎少年を見つけた粂川から勧誘されて粂川部屋に入門、1922年1月場所で初土俵を踏んだ。入門が遅かったために昇進も遅く、1927年10月場所で新十両昇進、1928年3月場所で新入幕を果たしたが、入幕時で既に25歳と決して速くなかった。
多屋 頼俊(たや らいしゅん、1902年5月3日 - 199… 多屋 頼俊(たや らいしゅん、1902年5月3日 - 1990年7月13日)は、日本の国文学者。仏教文学会主宰。大谷大学研究科修了、京都大学委託研究生。 仏教的な見地から『源氏物語』を研究し、「源氏物語の思想」として世に問う。和讃の定義を初めてした学者で、現在までこの定義は生きている[要出典]。真宗の僧として最高の学階講師に任じられた。 ※< >は研究誌・専門雑誌を示す 『源氏物語』の解釈として定説になっていた光源氏の須磨への引退は、《「朧月夜尚侍との関係の露見」と「藤壺中宮との密通による自責の念》であるということに対し、「宿世の因縁」と「もののけ」が主原因とした。テキストを正確に読むという手法を尊重し、現代の倫理観で全て処理するというのではなく、『源氏物語』制作時代の思想を先に解明するという多屋博士独特の研究法が高く評価された。
有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 19… 有竹 修二(ありたけ しゅうじ、1902年5月2日 - 1976年6月3日)は、日本のジャーナリスト。 兵庫県出身。慶應義塾大学卒。1926年朝日新聞社に入社。1942年論説委員となり「神風賦」(「天声人語」の前身)を担当。1946年時事新報に移り、編集局長などをへて常務。のち産業経済新聞論説委員。政治家伝記を書いたほか、講談にも造詣が深かった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)… 岩崎 與八郎(いわさき よはちろう、1902年(明治35年)5月1日 - 1993年(平成5年)12月28日)は、鹿児島県の実業家で、岩崎産業グループの創業者である。岩崎与八郎と表記されている場合もある。 1902年(明治35年)5月1日、当時の鹿児島県囎唹郡岩川村(岩川町、大隅町を経て現在の曽於市の一部)に、父斎藤斉(さいとうひとし)と母岩崎たねの間に生まれる。父は宮崎県西諸県郡小林村(現在の小林市)出身の人物で、岩川の種畜場に来て働いているうちに岩崎たねと結婚したが、酒飲みであることをたねの両親に嫌われて與八郎誕生後まもなく離縁され、與八郎は岩崎姓で育つことになった。父親は、與八郎が小学生のうちに死去している。
中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984… 中村 栄孝(なかむら ひでたか、1902年5月1日-1984年1月4日)は、大正・昭和期の歴史学者。
黒沼 健(くろぬま けん1902年(明治35年)5月1日 -… 黒沼 健(くろぬま けん1902年(明治35年)5月1日 - 1985年(昭和60年)7月5日)は、日本の超常現象、超古代文明研究・執筆者で、SF作家・翻訳家としても活動した。本名は左右田 道雄(そうだ みちお)。 父の左右田信二郎は銀行家の左右田金作の弟で、経済学者で銀行家の左右田喜一郎は道雄からみて従兄弟にあたる。 神奈川県横浜市に生まれる。東京帝国大学法学部ドイツ法学科卒業。 1931年より海外探偵小説の翻訳を始める。戦前は雑誌『新青年』を中心に活躍したほか、日本文藝家協会や日本児童文芸家協会などに所属し、日本推理作家協会では理事を務めた。 東宝映画『空の大怪獣 ラドン』の原作、同『大怪獣バラン』の原案、大映テレビ室(大映テレビの前身)制作のテレビドラマ『海底人8823』の原作・脚本・主題歌作詞なども手がけた。
古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月… 古川 正彦(ふるかわ まさひこ、1902年〈明治35年〉5月1日 - 1942年〈昭和17年〉9月19日)は、日本の醸造家、実業家、地家主、広島県多額納税者。 山口県出身。男爵・毛利祥久の五男。古川久吉の養子となる。1926年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。1929年、法学部英法科を卒業。 醤油醸造業を営む。藝備鉄道取締役、梅田機械製作所監査役などをつとめる。また地主・家主である。 趣味は碁、釣り。宗教は真宗。住所は広島市舟入幸町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山本 長市(やまもと ちょういち、1902年(明治35年)5… 山本 長市(やまもと ちょういち、1902年(明治35年)5月 - 1966年(昭和42年)2月24日)は、日本の政治家。広島県松永市(現・福山市)長(2期)。位階は従五位。勲五等瑞宝章。旧姓「柳本」。 広島県深安郡手城村(現福山市手城町・東手城町・南手城町)生まれ。1921年(大正10年)旧制広島県立福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1922年(大正11年)広島師範学校第二部卒業。広島県内の小学校に勤務し、沼隈町立常石小学校、高須小学校、今津小学校、組合立大成館中学校の各校長となり、 沼隈郡校長会会長に就任する。その後、退職し、松永市教育長、松永塩業組合常務理事を経て、1959年(昭和34年)12月松永市長石井謙三の辞職による市長選挙に立候補し、当選する。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 19… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 1993年6月23日)は、明治期から昭和期にかけての歌人、実業家。 福井県福井市出身。旧制福井中学校(現福井県立藤島高等学校)、東京帝国大学法学部卒業。石川島造船所自動車部門に入社し、のちにいすゞ自動車専務取締役や相談役を務めた。1974年、勲三等瑞宝章受章。東京都杉並区天沼に居を構えた。 歌人としては1925年「アララギ」に入会、土屋文明に師事し、のち選者、発行人。歌誌「柊」選者。高度経済成長期を背景に写実主義を貫いた。1965年『くさぐさの歌』で第11回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)、1976年『流るる雲』で第27回読売文学賞、1988年『朝の霧』で第23回迢空賞受賞。
竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 19… 竹中 恒夫(たけなか つねお、1902年4月30日 - 1971年2月4日)は、日本の政治家、参議院議員(1期)、歯科医師。日本歯科医政連盟会長、日本歯科医師会会長。 兵庫県洲本市出身。大阪歯科医学専門学校卒業、歯学博士。1956年7月、第4回参議院議員通常選挙に出馬し、初当選。1963年10月、参議院地方行政委員長に就任。1965年6月、第1次佐藤第1次改造内閣で大蔵政務次官に就任。 1971年2月4日死去、70歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙される。
武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4… 武安 千春(たけやす ちはる、1902年 <明治35年> 4月29日 - 1991年 <平成3年> 2月13日)は、日本の経営者。日本セメント社長、会長を務めた。山口県出身。位階は正四位。 1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年4月に浅野セメント(のちの日本セメント)に入社。1949年12月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1964年12月に副社長を経て、1966年12月には社長に就任。1974年12月に会長に就任し、1982年7月には相談役に就任。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年2月13日呼吸不全のために死去。88歳没。死没日付をもって正八位から正四位に進階した。