木原 太郎(きはら たろう、1917年5月5日 - 2001… 木原 太郎(きはら たろう、1917年5月5日 - 2001年2月10日)は、日本の物理学者。仕事は電磁波論、気体論、プラズマ、宇宙論と多方面にわたるが、その研究には構成粒子の振舞いの物理的イメージからシステムの特性を考える気体論的思考が貫かれている。 出身はその頃の東京市京橋区で、現在の東京駅八重洲口前の地に生まれた。そして地元の小学校、旧制府立高等学校(7年制)を経て1937年に東京帝国大学理学部物理学科に入学。在学中に1年間を数学科の授業受講に費やして年限3年の(旧制)大学に4年をかけ、1941年3月に卒業した。 卒業後は大学院に残って小谷正雄教授の指導を受け、原子・分子の物理学を研究した。
中込 達雄(なかごめ たつお、1917年5月5日 - 没年不… 中込 達雄(なかごめ たつお、1917年5月5日 - 没年不明)は、日本の経営者、銀行家。泉州銀行頭取を務めた。 山梨県出身。1944年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に大蔵省に入省。1966年に大臣官房会計課長、1969年に関東財務局長、1970年に住宅公団理事を経て、1972年には泉州銀行副頭取に就任し、1974年11月には頭取に昇格。1993年5月に会長、1996年6月に取締役相談役名誉会長、1998年6月に相談役名誉会長、1999年6月に顧問を経て、2000年6月には名誉顧問に就任。 2004年4月に瑞宝中綬章を受章。
八方山 主計(やかたやま かずえ、1917年5月5日 - 1… 八方山 主計(やかたやま かずえ、1917年5月5日 - 1977年3月4日)は、熊本県菊池郡泗水町(現在の菊池市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は安武 計(やすたけ かずえ)。最高位は西前頭筆頭(1951年5月場所)。現役時代の体格は180cm、131kg。得意手は左四つ、寄り。 熊本県西合志村(現合志市)の剣道家緒方武の道場「護国殿」に通って剣道を学び、将来は剣術道に進むつもりだったが、師匠の緒方は彼の堂々たる体軀から将来力士として有望だと感じ、在京の徳永為次(吉田司家の故実門人)に紹介、当時横綱免許を授与していた吉田司家の斡旋で、16歳の時に出羽海部屋へ入門した。1934年5月場所で初土俵を踏み、四股名を本名の「安武」から「八方山」に改めて1940年5月場所にて十両昇進、1年後の1941年5月場所で入幕した。
反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 19… 反町 誠一(そりまち せいいち、1917年5月3日 - 1990年12月4日)は、日本の経営者。東京都出身。 1947年に京都大学経済学部を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1962年6月に取締役に就任し、1964年6月に常務、1966年4月に専務を経て、1970年6月に副社長に就任し、1976年7月には社長に昇格。1982年11月に会長に就任。 1979年11月に藍綬褒章を受章。 1990年12月4日急性心不全のために死去。73歳没。
石黒 進之助(いしぐろ しんのすけ、1917年(大正6年)5… 石黒 進之助(いしぐろ しんのすけ、1917年(大正6年)5月2日 - 1992年(平成4年)3月29日)は、日本の歯科医師、歯学士、開業歯科医、(社)鶴岡地区歯科医師会理事、山形県歯科医師政治連盟理事。
康 才良(カン・ジェリャン、朝鮮語: 강재량、1917年5月… 康 才良(カン・ジェリャン、朝鮮語: 강재량、1917年5月2日 - 1994年12月9日)は、大韓民国の実業家、政治家、教育者。初代・第2代済州道議会(現・済州特別自治道議会(朝鮮語版))議員、第2代済州道議会議長(1・2期)、第5代韓国国会議員(参議員)、第3代済州道体育会(現・済州特別自治道体育会(朝鮮語版))会長、第10代大韓卓球協会会長を歴任した。 済州島の現在の済州市地域出身。済州公立農業学校、大邱師範学校講習科(現・大邱教育大学校)、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)機械工学科卒。その後は東洋拓殖済州工場技手、済州酒精工業株式会社専務取締役、貨物船会社三洋企業株式会社社長、自由党所属の済州道議会議員、同議長(1956年9月3日〜1958年2月23日)、済州道汽船株式会社社長、第3代済州道体育会会長(1957年3月2日~1960年2月20日)、民主党所属の参議院議員、財団法人済州女子学院理事、新進工高校長、第10代大韓卓球協会会長(1975年1月~1976年1月)を務めた。
美土路 達雄(みどろ たつお、1917年(大正6年)5月1日… 美土路 達雄(みどろ たつお、1917年(大正6年)5月1日 - 1992年(平成4年)11月29日)は、日本の農業経済学者・教育学者・家政学者。専門は農業経済学・農民教育論・農業家政学・農業協同組合経営論など。農産物市場論において市場構造分析の基礎を築き、農協の経営主義を批判するなど、研究領域は多岐に渡る。教育学博士(北海道大学)。名寄女子短期大学名誉教授。 岡山県津山市生まれ。1938年第一高等学校 (旧制)卒業。1942年東京帝国大学農学部卒業。同年、日本勧業銀行に入社。1945年東京帝國大学大学院(旧制)特別研究生修了。その後、病気療養。1955年協同組合短期大学協同組合科助教授に就任。
井野 正揮(いの まさき、1917年(大正6年)5月1日 -… 井野 正揮(いの まさき、1917年(大正6年)5月1日 - 1977年(昭和52年)6月7日)は、昭和期の国家公務員(厚生省)、政治家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)、登別開拓農業協同組合長。 広島県出身。牛馬商・井野京一の息子として生まれた。小学校入学直前に北海道上川郡に移住。1931年(昭和6年)美瑛尋常高等小学校卒。20歳で徴兵され野砲兵第7連隊に所属し、衛生兵として満洲、中国を転戦し、陸軍軍曹で終戦を迎えた。 戦後、厚生事務官となり、国立八雲病院勤務、国立登別病院庶務課長、同事務長を歴任。日本社会党に入党し、1951年(昭和26年)北海道議会議員となり4期在任した。 1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙において北海道4区から日本社会党公認で立候補したが落選。
川島 維知(かわしま これとも、1917年〈大正6年〉5月 … 川島 維知(かわしま これとも、1917年〈大正6年〉5月 - 2006年〈平成18年〉6月21日)は、昭和期に活躍した郷土史家。邑楽館林地方の郷土史、伝説を記録する多くの著作を残した。栃木県足利市出身。 1938年(昭和13年)9月群馬県館林町役場に就職、戦中は兵役に従事後、1958年(昭和33年)9月に館林市立図書館館長に就任。1973年(昭和48年)4月に同図書館参事、同7月に館林市教育委員会事務局参事。館林市史編集委員、邑楽町誌編纂委員会参与、群馬県百年史執筆委員などを歴任し、1975年(昭和50年)8月退職。その後1983年(昭和58年)3月まで嘱託として、群馬県史編さん室(1975年10月より)、邑楽町誌編纂室(1977年4月より)などに勤務し、群馬県史編さん調査委員もつとめた。
塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30… 塩谷 正雄(しおたに まさお、1917年〈大正6年〉4月30日 - 2005年〈平成17年〉9月15日)は、日本の運輸技官、気象学者。理学博士。元日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長、元日本大学生産工学部教授。日本風工学会名誉会員。 新潟県新潟市古町通12番町(現 新潟市中央区)出身。1934年(昭和9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1937年(昭和12年)3月に新潟高等学校を卒業、1940年(昭和15年)3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 逓信省中央航空研究所技手に就任、1944年(昭和19年)に応召、1945年(昭和20年)に復員、12月に運輸省鉄道技術研究所技師に就任、交通気象研究室に勤務、1949年(昭和24年)から日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室に勤務、1950年(昭和25年)5月に東北大学から理学博士の学位を取得、1954年(昭和29年)10月からアメリカのテキサス農工大学海洋学部で微気象について研究、1955年(昭和30年)11月からアメリカ各地の研究機関を視察、12月に帰国、1958年(昭和33年)5月に日本国有鉄道鉄道技術研究所防災研究室長に就任。
野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月3… 野見山 朱鳥(のみやま あすか、1917年(大正6年)4月30日 - 1970年(昭和45年)2月26日)は福岡県出身の俳人。高浜虚子に師事、「菜殻火」主宰。本名は正男(まさお)。
藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 -… 藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 - 没年不明)は、北海道出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
伊賀上 良平(いがうえ りょうへい、1917年4月29日 -… 伊賀上 良平(いがうえ りょうへい、1917年4月29日 - 2000年2月27日)は、プロ野球選手(内野手)。右投右打。1952年以降は「伊賀上 潤伍」(いがうえ じゅんご)と名乗った(「-良平」が本名)。
千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年… 千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年〈平成11年〉11月1日)は、日本の俳優。本名は佐々木勝治()。旧姓は森竹。 妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して舞台で活動後、映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得た。主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』などがある。俳優の佐々木孝丸は岳父にあたる。俳優の佐々木勝彦は息子(次男)。女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士であり、従兄弟の娘という関係性を説明するのが面倒との理由で宮本信子を姪と紹介していた。 1917年(大正6年)4月28日(土曜日)、北海道中川郡恩根内村(現在の美深町)に、呉服・洋品雑貨店を営む森竹家の3男として生まれる。
奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 201… 奈良 靖彦(なら やすひこ、1917年4月28日 - 2013年9月6日)は、日本の外交官。駐シンガポール特命全権大使や駐カナダ特命全権大使を務めた。位階は従三位。 大分県出身。旧制京北中学校を経て、1941年に旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。同期に西堀正弘(国連大使)、魚本藤吉郎(駐ソ連大使)、内田宏(駐仏大使)、吉野文六(駐独大使)、人見鉄三郎(駐コスタリカ大使)など。 1943年、外務省弘報部で勤務し、戦時体制下で、ジャパンタイムズの監督を行った。 1965年5月シカゴ総領事に就任。着任時に、総領事公邸が外交に使うにはあまりに貧弱なものだったため、筋向いの邸宅を購入しようと考え、東京銀行のシカゴ支店長と交渉し購入資金の融資を受け、また当時大蔵事務次官を務めていた石野信一も案内した末購入し、新しい公邸とした。
尾川 正二(おかわ まさつぐ、1917年(大正6年)4月28… 尾川 正二(おかわ まさつぐ、1917年(大正6年)4月28日 - 2009年(平成21年)3月5日)は、旧朝鮮生まれの国文学者である。
山口 健作(やまぐち けんさく、1917年4月28日 - 2… 山口 健作(やまぐち けんさく、1917年4月28日 - 2012年7月25日)は、昭和時代中期から平成時代日本の作曲家。長崎大学名誉教授。 長崎市出身。1938年(昭和13年)4月に東京音楽学校甲種師範科に入学。下総皖一、城多又兵衛、伊藤武雄、今井治郎らの師事を仰ぐ。1941年(昭和16年)3月に同校を卒業後、台湾に渡り台中師範学校に赴任。終戦後に帰郷し、長崎師範学校教諭に就く。 戦後は学制改革により長崎大学学芸学部助教授となり、1961年(昭和36年)制定の県民歌「南の風」を始め県内各地の校歌を作曲、教育学部名誉教授に至る。 2012年(平成24年)7月25日死去。享年96(満95歳没)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
後藤 憲一(ごとう けんいち、1917年4月27日 - 19… 後藤 憲一(ごとう けんいち、1917年4月27日 - 1993年7月30日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。理学博士。 島根県出身。1941年大阪帝国大学理学部物理学科卒、同助手、1954年大阪大学理学部助教授。1962年「磁場内プラズマの臨界安定性について」で理学博士。1966年教授、1981年定年退官、名誉教授、摂南大学工学部教授。88年退職。
宮入 庄太(みやいり しょうた、1917年 <大正6年> 4… 宮入 庄太(みやいり しょうた、1917年 <大正6年> 4月25日 - 1999年 <平成11年> 2月19日)は、日本の電気工学者。東京工業大学名誉教授。元東京電機大学総合研究所長。元電気学会会長。位階は正四位。 長野県埴科郡戸倉村(現千曲市)生まれ。旧制屋代中学(長野県屋代高等学校)を経て、1945年東京工業大学電気工学科卒業。1957年工学博士。信州大学助教授、東京工業大学助教授を経て、1960年東京工業大学教授。1966年電気学術振興賞著作賞受賞。1978年東京工業大学定年退官、東京工業大学名誉教授。1981年電気学会会長。1982年東京電機大学総合研究所長。1984年東京電機大学工学部長。
鬼頭 数雄(きとう かずお、1917年4月25日 - 194… 鬼頭 数雄(きとう かずお、1917年4月25日 - 1944年7月)は、愛知県出身のプロ野球選手。
岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 19… 岡田 福吉(おかだ ふくよし、1917年4月25日 - 1944年12月21日)は、愛知県出身のプロ野球選手(二塁手、三塁手)。
今津 晃(いまづ あきら、1917年4月24日 - 2003… 今津 晃(いまづ あきら、1917年4月24日 - 2003年6月18日)は、日本の歴史学者である。日本におけるアメリカ合衆国史研究の開拓者。 静岡県浜名郡吉津村(鷲津町、湖西町を経て現湖西市)に生まれる。1938年第三高等学校卒業、1941年12月京都帝国大学文学部史学科卒業、1948年9月京都帝国大学大学院退学。1962年「アメリカ革命史序説」で文学博士(京都大学)の学位取得。1942-43年文学部部副手嘱託。1946年9月関西大学予科講師、1947年4月大谷大学学部及予科教授、1948年同志社大学専任講師、48年助教授、1950年9月大阪大学教養部助教授、1953年文学部助教授、1959年京都大学文学部助教授。
後藤 比奈夫(ごとう ひなお、1917年〈大正6年〉4月23… 後藤 比奈夫(ごとう ひなお、1917年〈大正6年〉4月23日 - 2020年〈令和2年〉6月5日)は、大阪府出身の俳人。本名は日奈夫(読み同じ)。「諷詠」名誉主宰。父は後藤夜半。 大阪府西成郡今宮村に生まれる。神戸一中、旧制一高を経て、1941年に大阪大学物理学科を卒業。戦時中は陸軍の技術研究所に勤務。1947年、大阪市にボン電気会社を設立。1951年、父・夜半について俳句の道に入り、夜半の主宰誌「花鳥集」に拠る。「ホトトギス」「玉藻」にも投句し高濱年尾、星野立子に師事。1954年、「花鳥集」が「諷詠」に改題され、その編集兼発行人となる。1955年、波電子工業所を創業、1960年に株式会社となり代表取締役に就任。
田代 喜久雄(たしろ きくお、1917年〈大正6年〉4月22… 田代 喜久雄(たしろ きくお、1917年〈大正6年〉4月22日 - 1993年〈平成5年〉5月14日)は、日本の新聞記者・実業家。朝日新聞社専務を経て、全国朝日放送(テレビ朝日)社長を務めた。熊本県出身。 早稲田大学第一文学部仏文学科卒業。1940年(昭和15年)満州経済社を経て、朝日新聞社に入社。翌年9月応召され、南方で左肩貫通銃創を負い、内地に移送。回復後は鹿児島で本土決戦に備えていて、陸軍中尉で敗戦を迎えた。1945年晩秋、「ただいま、帰りました」と兵隊そのままの挨拶をして、編集局に復帰した。 1954年(昭和29年)に社会部次長に就き、読解力の正しさ、判断力の正しさ、決断の速さ、よく部員の話に耳を傾けることで、このデスクは一躍人気を集め、1959年6月、社会部長に任じられた。
辻井 弘(つじい ひろし、1917年4月21日 - 1993… 辻井 弘(つじい ひろし、1917年4月21日 - 1993年3月17日)は、京都府出身の野球選手。ポジションは一塁手、捕手。
横山 正彦(よこやま まさひこ、1917年〈大正6年〉4月2… 横山 正彦(よこやま まさひこ、1917年〈大正6年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉3月8日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。旧姓は伊藤。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)出身。旧制伊那中学(現長野県伊那北高等学校)、松本高等学校文科乙類を経て、1941年東京帝国大学経済学部卒。 大河内一男にマルクス主義経済学を学ぶ。社団法人銀行調査会事務局調査課、全国金融調査会調査部調査課勤務、1946年東大経済学部助教授、1955年教授、1961年「重農主義分析」で経済学博士。1978年定年退官、名誉教授、1982年駒澤大学教授。日本科学者会議の設立に参加した。
三宅 徳嘉(みやけ のりよし、1917年4月20日 - 20… 三宅 徳嘉(みやけ のりよし、1917年4月20日 - 2003年11月16日)は、日本のフランス語学者・フランス文学者。東京都立大学、学習院大学教授を務めた。父は裁判官の三宅徳業。
田原 尚(たはら ひさし、1917年4月19日 - 2004… 田原 尚(たはら ひさし、1917年4月19日 - 2004年2月10日)は、日本の経営者。本州製紙社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年8月に本州製紙に転じ、1968年11月に取締役に就任し、1972年11月に常務、1976年6月に専務、1980年6月に副社長を経て、1982年6月から1988年6月までに社長を務めた。1990年6月から1994年6月までに会長を務めた。 1992年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2004年2月10日肺炎のために死去。86歳没。
島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日… 島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。 大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」という概念を考案したことでも知られる。 作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの、戦争中の体験を描いた作品群、『出発は遂に訪れず』などの作品群、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの作品群に大別される。また、小説作品との決定的な差異はないとされる日記や、紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども多く書き続けた。
槇野 勇(まきの いさむ、1917年(大正6年)4月18日 … 槇野 勇(まきの いさむ、1917年(大正6年)4月18日 - 1994年(平成6年)11月2日)は、日本の警察官僚。警視総監。位階は正四位。 奈良県、現在の五條市出身。1935年奈良県立五條中学校(現奈良県立五條高等学校)を経て、[要出典]第一高等学校を卒業。1941年10月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に復員。 内務省に復帰し内務省調査局調査課に配属。1953年、国家地方警察滋賀県本部警察隊長に就任。
小市 巳世司(こいち みよし、1917年(大正6年)4月18… 小市 巳世司(こいち みよし、1917年(大正6年)4月18日 - 2009年(平成21年)11月23日)は、日本の歌人。『アララギ』最後の編集発行人。中学教師、出版社編集部員、定時制高校教師、大学講師などを務めた。 東京府出身。1937年にアララギへ入会し、土屋文明に師事。第一高等学校を経て、1940年に東京帝国大学文学部を卒業後、岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)へ勤務。1946年5月から中等学校教科書株式会社(中教出版)編集部へ勤務。1950年3月に退職後、東京書籍株式会社編集部へ勤務。1953年4月に東京書籍退社後、東京都立小石川高等学校定時制へ勤務。1972年に中断していた作歌へ復帰し、アララギ編集委員・選者を務める。
南村 侑広(みなみむら ゆうこう、1917年4月17日 - … 南村 侑広(みなみむら ゆうこう、1917年4月17日 - 1990年4月17日)は、日本のプロ野球選手(外野手)、野球指導者、野球解説者。旧名は不可止(ふかし)。大阪府出身。
鈴木 茂(すずき しげる、1917年4月17日 - 2014… 鈴木 茂(すずき しげる、1917年4月17日 - 2014年10月29日)は日本の実業家。北海道拓殖銀行代表取締役頭取・会長、JR北海道代表取締役会長、札幌商工会議所会頭等を務めた。 北海道後志支庁管内岩内郡岩内町の雑貨屋「鈴木商店」の長男として生まれる。旧制小樽高等商業学校を経て、1941年12月に旧制東京商科大学(のちの一橋大学)を繰り上げ卒業。大学では中山伊知郎ゼミナールに所属。卒業論文は「不完全競争の理論」。澁澤倉庫、芝浦工作機械を経て、1946年北海道拓殖銀行入行。1963年総務部長、1966年取締役函館支店長、1972年常務東京支店長、1976年専務、1977年副頭取。 歴代頭取に大蔵省OBが多いなか、1983年歴代3人目の生え抜きの北海道拓殖銀行代表取締役頭取に就任。
宮崎 善吾(みやざき ぜんご、1917年(大正6年)4月17… 宮崎 善吾(みやざき ぜんご、1917年(大正6年)4月17日 - 2006年(平成18年)12月13日)は、日本の政治家、会社役員。元・佐賀県副知事。 宮崎林三郎(2代目)の長男として佐賀県に生まれる。 九州大学卒業後、佐賀県職員となる。同県副知事まで登りつめ、1978年(昭和53年)6月から1979年(昭和54年)5月までその地位にあった。ほかに佐賀清和学園理事長、エフエム佐賀社長、財団法人佐賀経済調査協会理事長などを歴任。佐賀の顔役の1人であった。1987年、勲三等瑞宝章を受章。 第一勧業銀行頭取を務めた宮崎邦次は実弟。邦次は『第一勧業銀行総会屋利益供与事件』の発覚によって非業の死を遂げるが、善吾はその死について多くを語らず、香典やおくやみの言葉を贈ろうとする者はかなりの数にのぼったが、一切、断った。
三村 庸平(みむら ようへい、大正6年(1917年)4月17… 三村 庸平(みむら ようへい、大正6年(1917年)4月17日 - 平成18年(2006年)5月22日)は、日本の実業家。三菱商事社長、「三菱金曜会」世話人。勲一等瑞宝章。阪急電鉄元社長・会長の小林公平は実弟。 東京出身。実家は大分県臼杵市。昭和15年(1940年)に慶應義塾大学経済学部卒業。三菱商事に入社し、南方に派遣。敗戦後、財閥解体で立ち上がった明光商事に入社。昭和29年(1954年)に統合で復活した三菱商事の水産部長、ソウル支店長、米国三菱商事社長、本社副社長を経て1980年に社長に就任。中国事務所の設置等に尽力し、1986年の会長就任後には三菱グループの「金曜会」世話人となる。1987年に刊行された三菱商事社史の題字は三村の揮毫である。
河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉… 河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉3月30日)は、日本の整形外科医、詩人。元札幌医科大学教授。 北海道小樽市出身。小樽中学、北海道帝国大学医学部を卒業。その後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学整形外科教授となる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。 1950年12月、東北大学より「項中隔石灰症の研究」で医学博士を取得した。 1952年には北海道整肢学院(現北海道立子ども総合医療・療育センター)の初代院長となり、北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。北海道内でのポリオ流行後、同疾患による下肢短縮に対する河邨式脚延長術式を開発した。
千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15… 千明 武久(ちぎら たけひさ、1917年(大正6年)4月15日 - 1944年(昭和19年)9月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。ペリリューの戦いにおける千明大隊の奮戦で知られる。 群馬県利根郡片品村鎌田に近衛騎兵少尉、千明林蔵の次男として生まれる。旧制沼田中学校を経て、1935年(昭和10年)4月、陸軍士官学校に第53期生として入校。剣道の達人であり、在学中天覧試合にも出場した。1940年(昭和15年)3月の士官学校卒業と同時に歩兵第15連隊付中隊長教育主任に任官。1944年(昭和19年)2月、満州国チチハルより南方へ出陣、同連隊第3大隊長としてペリリュー島の守備に就いていた歩兵第2連隊に分遣され同島南部「高崎湾」近くに布陣する。
若緑(わかみどり、1917年4月15日 - 1977年)は、… 若緑(わかみどり、1917年4月15日 - 1977年)は、日本の昭和初期に活躍した女相撲の力士。興行女相撲の最高位である大関を務めた。 大正6年(1917年)、山形県東置賜郡宮内町(山形県南陽市)で生まれた。本名は遠藤志げの。 昭和9年(1934年)、志げのが17歳のとき、石山兵四郎を荷主とする石山興行の女相撲の興行が菊祭りにあわせて宮内町に来た。志げのの実家は遠藤商店という食品や雑貨を扱う店を営んでおり、志げのが軽々と石山興行へ米俵を配達しているのを女力士が見てその力に驚いた。その後、玉椿と若桜の取り組みを見たことで感銘を受け、志げの自身も石山興行に入り、しこ名を若緑とした。 入門から3年で大関となり、東の大関玉椿と並び、西の大関として人気を誇った。
鶴岡 義雄(つるおか よしお、1917年 <大正6年> 4月… 鶴岡 義雄(つるおか よしお、1917年 <大正6年> 4月13日 - 2007年 <平成19年> 10月27日)は、茨城県土浦市出身の洋画家。代表作に「マドモアゼル・シリーズ」がある。日本芸術院会員。サロン・ドートンヌ会員。二科会常務理事。位階は従四位。 旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。日本美術学校卒業。1941年、二科展初入選、1947年、二科賞、1950年、二科会員。1974年、二科展総理大臣賞、日本赤十字社銀色有功章。1980年、二科会常務理事、1981年、インターナショナルアメリカ展グランプリ、1990年、二科展で日本芸術院賞受賞、1993年、勲四等旭日小綬章受章。
安西 愛子(あんざい あいこ、本名:志村 愛子(しむら あい… 安西 愛子(あんざい あいこ、本名:志村 愛子(しむら あいこ)、1917年4月13日 - 2017年7月6日)は、日本の童謡歌手、声楽家、政治家。参議院議員(3期、自由民主党)、安西音楽研究所名誉会長、杉の子こども会名誉会長、日本会議副会長などを歴任。 東京府出身。杉並第七小学校、府立第五高等女学校(現東京都立富士高等学校)卒業後、東京音楽学校声楽科に入学。在学中には浅野千鶴子、長坂好子、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 1942年、同校研究科卒業。コロムビアレコード専属の歌手となる。 1949年には松田トシと共にラジオ番組『うたのおばさん』(NHKラジオ第1放送)に出演、1964年まで番組を担当する。
稲葉 誠治(いなば せいじ、1917年4月13日 - 200… 稲葉 誠治(いなば せいじ、1917年4月13日 - 2001年11月20日)は、静岡県出身の元野球選手(投手)・監督。 静岡の少年野球の強豪・掛川第一尋常高等小学校時代は全国大会に出場し、小学校の一学年上には享栄商業~巨人軍の名捕手・中山武がいた。 旧制岡崎中学校では捕手の佐藤武夫とのバッテリーで黄金期を作り上げ、1935年の夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。 慶應義塾大学に進学後は、1939年秋季と1940年春季のリーグ優勝に貢献し、1941年には東大戦でノーヒットノーランを達成するなど戦前の東京六大学リーグで活躍。 戦時中はニューギニアで陸軍伍長として兵役に就き、終戦後に帰国。
村井 七郎(むらい しちろう、1917年4月13日 - 19… 村井 七郎(むらい しちろう、1917年4月13日 - 1993年2月21日)は、日本の官僚(大蔵省)。大阪府出身。
豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13… 豊瀬 禎一(とよせ ていいち、1917年(大正6年)4月13日 - 2007年(平成19年)2月9日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。筆名は冬欅。 福岡県筑紫郡席田村下月隈(現福岡市博多区下月隈)で生まれる。1937年(昭和12年)福岡師範学校本科第二部を卒業。その後、九州大学教育学部を修了した。 1937年、福岡市吉塚小学校教諭に就任。以後、東住吉国民学校、東光国民学校、馬出国民学校で勤務。戦後、福岡市立東光中学校教諭に就任した。また労働運動に加わり、福岡県教職員組合連合会長(1948-1949)、福岡県中学校教職員組合委員長(1949-1951)、第2代福岡県教職員組合委員長(1951-1953)を歴任した。
富永 嘉郎(とみなが よしろう、1917年4月12日 - 2… 富永 嘉郎(とみなが よしろう、1917年4月12日 - 2010年3月25日)は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手(プロ野球では、左翼手,右翼手としての出場がある)。
渡辺 直治郎(わたなべ なおじろう、1917年4月11日 -… 渡辺 直治郎(わたなべ なおじろう、1917年4月11日 - 2003年8月9日 )は、日本の経営者。三菱製紙の社長・会長を務めた。 埼玉県出身。1940年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業し、同年に三菱銀行に入行した。1968年11月に取締役に就任し、1971年5月に三菱製紙に転じ、常務に就任し、1973年11月に専務、1977年6月に副社長を経て、1978年6月に社長に就任。1985年6月に会長に就任し、1992年6月に取締役相談役を経て、1997年6月に相談役に就任。 1989年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2003年8月9日、心不全のために死去。86歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
宇野 光雄(うの みつお、1917年4月10日 - 1994… 宇野 光雄(うの みつお、1917年4月10日 - 1994年4月17日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 旧制和歌山中学では春の選抜に4年連続出場し、1933年はベスト4、1934年はベスト8まで進出。1936年には優秀選手賞になるなど、走攻守揃った三塁手として名を馳せた。このように和歌山中学は強豪校であったが、宇野の学年7人が卒業を前に引退すると部員が5人だけになってしまい、その状況で入部した4年生の一人が西本幸雄であった。 中学卒業後の1937年に慶應義塾大学へ進学すると、戦前の黄金期に中心選手として活躍。飯島滋弥・宮崎要・大館盈六と共に「100万ドルの内野陣」と謳われた。
大館 勲(おおだて いさお、1917年4月9日 - 2000… 大館 勲(おおだて いさお、1917年4月9日 - 2000年6月8日)はアメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手(一塁手)。1950年から1955年の登録名は「大館 勲夫」(読みは同じ)。
市川 正巳(いちかわ まさみ、1917年4月7日 - 199… 市川 正巳(いちかわ まさみ、1917年4月7日 - 1999年2月1日)は、日本の地理学者、水文学研究者、筑波大学名誉教授、兵庫教育大学名誉教授。位階は従四位。 秋田県に生まれ、秋田県師範学校から東京高等師範学校文科第4部に進み、1941年に卒業して滋賀県師範学校教諭となった。 1942年に二等兵として陸軍に召集され、終戦時には陸軍中尉となっていた。 戦後ただちに東京文理科大学理学部地学科地理学専攻に進んで、石川与吉に師事して自然地理学を学び、1949年に卒業し、大学院特別研究生として4年間在籍した後、1953年に東京教育大学理学部助手となった。 1961年5月には、「山地斜面の形態とその発達に関する地形学的研究」により、東京教育大学から理学博士を取得した。
貫 達人(ぬき たつと、1917年4月6日 - 2009年1… 貫 達人(ぬき たつと、1917年4月6日 - 2009年11月17日)は、日本の歴史学者。青山学院大学文学部名誉教授。 1917年、東京小石川区(現・東京都文京区)で中国哲学者・宇野哲人の三男として生まれた。その後、貫正雄の養子となった。東京帝国大学文学部国史学科で学び、1941年に卒業。 東京大学史料編纂所所員として勤務。鎌倉市史編纂員を務めた後、東洋大学助教授に就いた。その後、文部省教科書調査官、神奈川県立博物館(現・神奈川県立歴史博物館)学芸部長。1968年に青山学院大学文学部教授となり、1976年からは文学部長を務めた。1982年より副学長。1987年に青山学院大学を定年退職し、名誉教授となった。
福田 定良(ふくだ さだよし、1917年(大正6年)4月6日… 福田 定良(ふくだ さだよし、1917年(大正6年)4月6日-2002年(平成14年)12月11日)は、日本の哲学者。元法政大学教授。本名は瀬川行有(せがわゆきあり)。 1917年(大正6年)4月6日、東京に生まれる。1940年(昭和15年)に法政大学法文学部哲学科を卒業する。 戦時中は徴用労働者として南方戦線(ハルマヘラ島)に投入され、その体験記『めもらびりあ―戦争と哲学と私』を1948年(昭和23年)に発表する。 1948年(昭和23年)、法政大学教授に就任する。 1959年、加太こうじ、柳田邦夫、タカクラ・テル、佐藤忠男らと「大衆芸術研究会」を創設。 1970年(昭和45年)に学園闘争で法政大学を辞職、その後、だれもができる哲学を主張し、生活者の感覚に根ざした哲学を追求した。