太田 敏兄(おおた びんけい、1890年(明治23年)1月1… 太田 敏兄(おおた びんけい、1890年(明治23年)1月14日 - 1972年(昭和47年)4月20日)は、日本の農学者、農民運動家、政治家。参議院議員(1期)。明治大学教授。 岡山県出身。明治大学法学部卒業後、東京帝国大学大学院にて農学博士を取得。大原農業研究所、大原社会問題研究所にて農業問題の研究に従事する傍ら、農民運動にも参加。1923年、岡山県農民組合連合会を結成。その後、日本農民組合に参加し、岡山労働学校校長に就任。1947年、日本社会党から第1回参議院議員通常選挙で岡山県選挙区に出馬し、当選。参議院懲罰委員長などを務めた。後に労働者農民党に移る。1948年に明治農業専門学校長、1949年に明治大学農学部教授に就任。
太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日… 太田 収(おおた おさむ、1890年〈明治23年〉1月12日 - 1938年〈昭和13年〉5月28日)は、日本の実業家。山一証券社長を務めた。投機に失敗し自殺した。証券業界における初の東京帝大出身者。 岡山県吉備郡庭瀬村(庭瀬町、吉備町を経て、現在の岡山市北区)出身。のちに家督を相続する。1916年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。 同郷の先輩野崎広太の勧めで、小池国三の小池合資会社(のちの山一證券)に入る。古荘四郎彦、河合良成らと、兜町で働く東京帝大法科出の遊会「十八日会」を作り親交した。1926年、山一証券常務に昇進。鐘紡株で巨利を得、社長の杉野喜精に「証券業の天才」と評された。1935年に社長就任。
新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943… 新井 淳(あらい じゅん、1890年1月10日 - 1943年2月28日)は、日本の俳優である[3]。本名は新井淳一(一説に本名同じ)。新派出身で、現代劇の映画を中心に出演した。
高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10… 高木 正夫(たかぎ まさお、1890年〈明治23年〉1月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月26日)は、大正から昭和期の鉄道官僚、政治家。参議院議員。 和歌山県和歌山市出身。広島高等師範学校を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学経済学部を卒業。同年鉄道省に入省し大臣官房書記に任じられ、1923年(大正12年)12月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、大阪鉄道局大阪運輸事務所長、門司鉄道局運輸部長、鉄道省陸運監理官、東京鉄道局事業部長などを歴任。その間、学習院助教授を務めた。1938年(昭和13年)4月に退官して日本通運理事に就任し、大阪支店長、常務取締役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月1… 酒井 忠孝(さかい ただもと、明治23年(1890年)1月10日 - 昭和31年(1956年)10月3日)は、出羽庄内藩11代藩主・酒井忠篤の3男。松ヶ岡開墾場2代総長。酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長。 庄内藩主11代酒井忠篤の3男として鶴岡市家中新町に生れ、酒井家内の学問所文会堂で学び、旧制中学の課程を家庭教師について終了した。明治44年(1911年)22歳のとき、松平親懐の後を受けて松ヶ岡開墾場2代総長となり、その後、酒田米穀取引所理事長。山居賃貸倉庫㈱社長。(財)北斗会会長。鶴岡市農業会長。鶴岡市農協組合長など数多くの役職を歴任した。
小沢 国治(小澤 國治、おざわ くにじ、1890年1月8日 … 小沢 国治(小澤 國治、おざわ くにじ、1890年1月8日 - 1959年4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1916年東京帝国大学政治科、1921年同大学独法科卒。新潟商工会議所議員、新潟市議、新潟県商工経済会副会長、第一銀行、大阪商船各(株)社員、新潟県硫酸(株)専務取締役となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において大選挙区制の新潟1区から日本自由党公認で立候補して当選する。党内では幹事となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1959年死去。
多久 安信(たく やすのぶ、1890年(明治23年)1月7日… 多久 安信(たく やすのぶ、1890年(明治23年)1月7日 - 1959年(昭和34年)3月2日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、東京市助役。 佐賀県出身。多久綱一郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 1917年、三重県名賀郡長に就任。以後、京都府加佐郡長、京都府理事官・産業部農林課長、京都市助役、地方事務官・愛知県勤務、富山県書記官・学務部長、徳島県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、警視庁書記官・官房主事、長崎県書記官・内務部長などを歴任。
入間野 武雄(いるまの たけお、1890年〈明治23年〉1月… 入間野 武雄(いるまの たけお、1890年〈明治23年〉1月6日 - 1958年〈昭和33年〉7月3日)は、日本の大蔵官僚。帝国銀行2代目頭取、日本専売公社総裁。 岩手県胆沢郡水沢町(のち水沢市、現在の奥州市)出身。1904年、水沢で小学校を終えると上京し東京市赤坂区霊南坂町十七番地の従兄弟にあたる斎藤実方に単身寄留。東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)、旧制一高を経て、1914年高等文官試験に合格。同年東京帝国大学法学部政治学科卒。 大蔵省入省後、横須賀・厩橋各税務署長、名古屋税務監督局経理部長、神戸税関総務課長、東京税務監督局経理部長、同局間税部長、大蔵事務官、主税局勤務、銀行検査官、営繕管財局総務部長、1932年内閣総理大臣秘書官兼大蔵書記官、1934年銀行検査官兼営繕管財局理事、大臣官房会計課長、専売局販売部長、造幣局長、預金部長、1937年銀行局長、1940年退官。
杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 19… 杉山 六蔵(すぎやま ろくぞう、1890年1月4日 - 1947年6月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 農商務省官吏・杉山栄蔵の五男として東京で生れる。鳥取中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を次席で卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。1917年(大正6年)11月、海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、「天津風」乗組、オランダ駐在、「矢矧」水雷長、「夕暮」駆逐艦長、「春風」駆逐艦長を経て、1924年(大正13年)11月、海軍大学校(甲種22期)を卒業した。 「第6号駆逐艦」(早苗)艦長、海軍省軍務局(第1課)局員、第2艦隊参謀、軍令部出仕、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海大教官、「由良」艦長、「青葉」艦長、「八雲」艦長、「日向」艦長、第3艦隊参謀長などを歴任し、1936年(昭和11年)12月、海軍少将に進級。
岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1… 岩田 愛之助(いわた あいのすけ、1890年1月3日 - 1950年3月15日)は、日本の右翼活動家。兵庫県姫路市出身。 右翼団体・愛国社(1928年)、国体擁護連合会(1932年)等の創設者。 陸軍幼年学校を中退後、神戸の乾行義塾で中国語を学ぶ。1910年、中国に渡り、大陸浪人として武漢革命に参加する。しかし後になって川島浪速・佐々木安五郎と知り合い、清朝復辟運動に転じた。 1913年に帰国し、頭山満・内田良平・田中弘之(舎身)らに接近し、対支外交問題を論じる。同年9月に発生した外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件で自首し、1914年5月、殺人教唆の罪で無期懲役の判決を受ける。 1925年、恩赦を受け釈放され再び中国に渡ったが、1927年に帰国。
大岩 復一郎(おおいわ またいちろう、1890年〈明治23年… 大岩 復一郎(おおいわ またいちろう、1890年〈明治23年〉1月1日 - 1956年〈昭和31年〉2月27日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野電気取締役兼支配人、中部配電第2代社長、信越放送初代会長などを務めた。 大岩復一郎は、1890年(明治23年)1月1日、愛媛県士族大岩甚太郎の長男として生まれた。出身は愛媛県周桑郡小松町(現・西条市)。愛媛県立西条中学校を経て1913年(大正2年)7月に第五高等学校(熊本)の大学予科工科を卒業したのち、東京帝国大学工学部電気工学科を1919年(大正8年)7月に卒業した。大学卒業後は一旦陸軍に入り中野電信隊の工兵伍長に任ぜられる。
岡野 清豪(岡野淸豪、おかの きよひで/せいごう、1890年… 岡野 清豪(岡野淸豪、おかの きよひで/せいごう、1890年1月1日 – 1981年5月14日)は、昭和期の政治家、銀行家。第2代三和銀行頭取(1945年〜1947年)。数次にわたる吉田茂政権において、地方自治庁長官(第3代)、行政管理庁長官(第5代)、文部大臣(第68・69代)、通商産業大臣(第8代)、経済審議庁長官(第6代)に起用された。 岡山県賀陽郡上足代村(現岡山市北区)に生まれる。第六高等学校を経て、1915年、東京帝国大学法学部を卒業し、日本銀行に入行する。総裁秘書役、神戸支店長を経て、1937年三和銀行に転じ常務取締役となる。1941年副頭取、1945年頭取に就任。戦後の1946年、GHQによって三和は財閥銀行として公職追放A項指定を受けるが、岡野は「三和は一般大衆を基盤とする “ピープルズ・バンク”である」との主張の下、GHQや政府当局者との交渉を粘り強く進め、程なくして指定は解除された。
木村 正義(きむら まさよし、1890年(明治23年)1月1… 木村 正義(きむら まさよし、1890年(明治23年)1月1日 - 1952年(昭和27年)9月28日)は、日本の文部官僚、政治家。衆議院議員(4期)。 東京出身。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。官界に入り、京都府久世郡長、文部書記官兼文部大臣秘書官、文部省学生部長、同省実業学務局長などを歴任。 1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に熊本県第1区で立憲政友会から出馬し当選。以後、第19回、第20回、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛政治体制協議会候補)まで連続4回の当選を果した。この間、立憲政友会総務、第1次近衛内閣の内務参与官、米内内閣の大蔵政務次官を歴任した。
蔵重 久(くらしげ ひさし、1890年(明治23年)1月1日… 蔵重 久(くらしげ ひさし、1890年(明治23年)1月1日 - 1962年(昭和37年)3月11日)は、日本の検察官、内務・警察官僚。官選県知事、姫路市長。 山口県出身。蔵重梅吉の長男として生まれる。1914年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、司法官試補となる。 以後、大阪地方裁判所検事、松江地方裁判所検事、津山区裁判所検事、三重県警視、新潟県理事官・農務課長、福島県書記官・警察部長、奈良県書記官・警察部長、岐阜県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、兵庫県書記官・総務部長などを歴任。 1935年6月、沖縄県知事に就任。政府の指示に従い、国民精神総動員を推進。1938年6月、鹿児島県知事に転任。
原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日… 原田 三夫(はらだ みつお、1890年(明治23年)1月1日 - 1977年(昭和52年)6月13日)は、日本の科学ジャーナリスト、教員。科学雑誌や科学の啓蒙書の編集者・作家。『子供の科学』初代編集長。漫画家前谷惟光の父。 1890年(明治23年)1月1日、名古屋に生まれる。1907年東北帝国大学予科入学、1910年中退。第八高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理科大学(後の東京大学理学部)を卒業。東京府立第一中学校で教員を務めるかたわら翻訳に携わる。教職を辞めた後、科学雑誌『子供と科学』(1917年)、『少年科学』(1917年)、『科学画報』(1923年)、『子供の科学』(1924年)を次々と創刊。
若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1… 若松 虎雄(わかまつ とらお、1890年(明治23年)1月1日 - 1949年(昭和24年)9月24日)は、大正から昭和前期の外交官、実業家、政治家。衆議院議員。カトリック教徒。 長崎県南高来郡、のちの島原市で、若松長次郎の四男として生まれ、1921年(大正10年)に分家した。第五高等学校を経て、1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学経済学科を卒業した。 大蔵省に入省し専売局書記に任官。1917年(大正6年)久原鉱業に転じ、久原商事副支配人、同ロンドン支店長代理を歴任。1921年(大正10年)外務省に転じ、ロンドン在勤で副商務官、在英国大使館商務書記官を務めた。
数原 三郎(すはら さぶろう、明治23年(1890年)1月1… 数原 三郎(すはら さぶろう、明治23年(1890年)1月1日 - 昭和43年(1968年)5月24日)は、日本の実業家。三菱鉛筆会長。経済団体連合会、東京都商工信用金庫各理事。日本中小企業連盟、東京貿易会各会長。資産再評価審議会委員。日本関税協会常任理事。東京貿易会副会長、東京国際見本市協会理事。三菱鉛筆社長数原英一郎の祖父。 静岡県榛原郡初倉村に生まれた。数原国蔵の四男。 明治44年(1911年)東京高工応用化学科卒業。島根県日本夏帽各勤務を経て大正11年(1922年)大和鉛筆工場長となり真崎大和鉛筆創立に際し取締役に就任。昭和20年(1945年)7月社長に選ばれ三菱鉛筆と改称後も引続き在任す。
大内 有恒(おおうち ありつね、1890年〈明治23年〉 -… 大内 有恒(おおうち ありつね、1890年〈明治23年〉 - 1954年〈昭和29年〉)は、昭和時代前期の政治家。弁護士。山形県山形市長(第11代)。 山形県東置賜郡小松町(現・川西町)生まれ。福島中学校から2年時に山形中学校へ移り、旧制第二高等学校、東京帝国大学を経て、山形市内に弁護士を開業する。1925年(大正14年)山形市会議員に当選以来市会の実権を握り、のちに蔭の市長と呼ばれた。市議会議員を5期務め、議長に就任した時期もある。 太平洋戦争末期と終戦後の混乱期の2年間市政を担当し、分散疎開や外地引揚者の受入に苦心した。その後、公職追放となった。
齋藤 明堯(さいとう あきたか、明治23年(1890年) -… 齋藤 明堯(さいとう あきたか、明治23年(1890年) - 没年不明)は、日本の医学者。 長野県出身。長野県立上田中学校卒業後、札幌農科大学に入学し、3か月で医学に転じ、府立大阪医科大学を卒業した(第1回生)。 その後、3年間助手となり、昭和7年3月まで研究を行い、「骨髄の細胞学的研究」を主論文とする「骨髄エキストラクトの血液凝固促進作用に就て」により医学博士の学位を取得した。 下記特許は薬品名を「メヅラン」といい、温血動物(主に鳥類)の骨髄及び骨組織中にある血液凝固促進物質であるトロンボキナーゼを抽出して精製濃縮したものである。
黒田 正利(くろだ まさとし、1890年 - 1973年)は… 黒田 正利(くろだ まさとし、1890年 - 1973年)は、イタリア文学者。 京都帝国大学英文科卒。1949年「Dante(ダンテ)の詩に関するManifesto(マニフエスト)」で京都大学文学博士。戦後、京都学芸大学教授、龍谷大学教授を務めた。
石丸 一(いしまる はじめ、1890年 – 1990年)は、… 石丸 一(いしまる はじめ、1890年 – 1990年)は、日本の画家。 現在の徳島県小松島市立江町出身。父は漢方医であった。徳島県立徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)を経て京都帝国大学医学部を卒業し、大阪市内で医院を開業し、さらに信濃橋洋画研究所で洋画を学んだ。全関西洋画展会に1927年の第1回から1943年の第30回までほぼ毎回作品を出品した。1929年の第3回展においては朝日賞を受賞した。同時期に1928年から1943年までほぼ毎年二科展にも作品を出品しており、1942年には会員に推挙された。1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画部門に絵画を出品した。1931年のロボット洋画協会や1938年の九室会の創立に参加している。
小林 正紹(こばやし まさつぐ、1890年 - 1980年)… 小林 正紹(こばやし まさつぐ、1890年 - 1980年)は、明治末期から昭和初期にかけて官庁営繕で活躍した建築家。聖徳記念絵画館(原案)の設計者として知られる。 1890年(明治23年)、東京市麹町区紀尾井町に生まれる。1909年(明治42年)に工手学校(現在の工学院大学)建築科を卒業。 在学中から大蔵省臨時建築部に勤務。その後、内務省、文部省と生涯の大半を官庁営繕に捧げた建築家である。副業として、堀商店のほか、若槻礼次郎邸や円地文子邸なども手がけている。 1980年(昭和55年)に死去。
榧木 寛之(かやのき ひろゆき、1890年 - 1956年)… 榧木 寛之(かやのき ひろゆき、1890年 - 1956年)は、日本の都市計画家。土木技術者。内務官僚。教育者。 1890年、旧東京市下谷区(東京都台東区)生まれ。第一高等学校を経て1916年、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。卒業後は官営八幡製鉄所に勤務。 1919年、都市計画法制定に伴って内務省に都市計画課が創設されたが、1920年、招かれて内務省に入り都市計画技師として東京地方委員会に所属。1922年に都市計画調査のため東南アジアへ出張。 1923年に発生した関東大地震により、その復興事業を管轄する帝都復興院が設置され、復興事業に全力を傾注したために内務省の機構も縮小されたが、植木は本省に留まって揺籃期の全国の都市計画の指導と啓慶にあたった。
波多野 福太郎(はたの ふくたろう、1890年(明治23年)… 波多野 福太郎(はたの ふくたろう、1890年(明治23年) - 1974年(昭和49年)12月)は、日本のジャズ・オーケストラ指揮者、ヴァイオリニスト。 東京芝中門出身。東洋音楽学校(現東京音楽大学)ヴァイオリン科卒業。在学中はヴァイオリンをアウグスト・ユンケルに、チェロをウエルク・マイステル、コルネットを西郷直袈裟に習う。 1912年より東洋汽船サンフランシスコ航路の豪華貨客船地洋丸(天洋丸級貨客船)に乗り組んで、一等船客用食堂で食事時に演奏し、土曜のダンスパーティではダンス曲を演奏した。サンフランシスコに着くと流行している曲の楽譜を購入したのだが、店員が偶々サンフランシスコ交響楽団のメンバーだったので、ディナー用の曲やダンス用の曲を選び出して、演奏法まで教えてくれた。
木村 得三郎(きむら とくさぶろう、1890年 - 1958… 木村 得三郎(きむら とくさぶろう、1890年 - 1958年)は、日本の建築家。大阪松竹座、東京劇場など著名な劇場建築を多く手掛けた。 宮城県仙台市出身。1914年(大正3年)に東京美術学校を卒業し、同年4月に大林組に入社した。1930年(昭和5年)には木村が設計した東京劇場が竣工し、歌舞伎座とともに「東都歓楽街の華」と謳われた。 東京劇場竣工後の1930年(昭和5年)10月、欧米各国へ建築視察のために日本を離れた。1931年(昭和6年)8月に帰国した。1938年(昭和13年)には東京府麹町区一番町の串田萬蔵邸(三菱銀行会長)を設計した。木村は大学生だった串田孫一にヨーロッパについて聞かせ、ローマのカタコンベにある古い彫刻のトレース画を贈った。
明石虎雄(あかし とらお、1890年(明治23年)頃 - 1… 明石虎雄(あかし とらお、1890年(明治23年)頃 - 1923年(大正12年)3月)は、日本の建築家。元鉄道院技手。明石虎夫とする資料もある。 生年は諸説あるが、1890年頃に愛媛県北宇和郡宇和島町(現在の宇和島市)で生まれた。地元の旧制中学卒業後、1907年(明治40年)9月に東京高等工業学校建築部に入学。1910年(明治43年)7月に同校を卒業し、鉄道院に入省。在職中の1912年(明治45年、大正元年)に、日光駅第2代駅舎の設計監督者として建築に携わった。1915年(大正4年)6月、鉄道院を辞職して宇和島に帰郷。父が営んでいた建築業を継ぎ、明石工務店を開いた。その後、株式合資会社正卯組を設立し、代表取締役に就任。
石田 武太郎(いしだ たけたろう、1890年 - 1934年… 石田 武太郎(いしだ たけたろう、1890年 - 1934年)は、日本の新聞記者、政治家。 中外商業新報政治部長、編集局長、参事、東京府荏原郡碑衾町会議員・同議長などをつとめた。子にNHKアナウンサーの石田武、孫に音楽家の石田桃子や俳優の石田純一、曽孫に俳優のいしだ壱成がいる。 大阪府南河内郡富田林町(現在の富田林市)出身。石田家の分家に生まれた。1915年、早稲田大学大学部政治経済学科を卒業し、中外商業新報(現・日本経済新聞)に入社した。政治部の記者として働き、まもなく電話交換手の女性と結婚した。 31歳の時、ワシントン会議の特派員に抜擢され、会議の後もアメリカ合衆国に残り2年間の特派員生活を送った。
文 英吉(かざり えいきち、1890年 - 1957年)は、… 文 英吉(かざり えいきち、1890年 - 1957年)は、日本の郷土史家、奄美民俗研究家。号は潮光。奄美大島三方村大熊(現在の奄美市名瀬大熊)生まれ。 1928年12月(昭和3年)地方無産党の奄美新興同志会を結成、委員長となる。「大島朝日新聞」編集長を務め、雑誌「南島」を創刊。奄美博物館主事、奄美図書館長、奄美大島復帰協議会副議長、奄美日米文化会館長を歴任。のちに奄美史談会を設立。メンバーには文英吉の他、大山麟五郎、田畑英勝、平和人、島尾敏雄がいた。「野茶坊物語」「神父さん群像」を南日本新聞に連載。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
多賀之丞(たがのじょう、1890年 - ?)は、大相撲の元呼… 多賀之丞(たがのじょう、1890年 - ?)は、大相撲の元呼出し。本名:小西多賀之丞。三重県一志郡一志町(現津市)出身。 元々、保険外交員のかたわら消防団長を務め、義太夫語りや素人相撲の呼出しをしていたが、1934年より大相撲の高砂一門の巡業の手伝いをするようになり、1938年には高砂親方(元大関・朝潮)から呼出しの免状が与えられた。高砂部屋の呼出し初太郎とも親しくなり、1940年6月に愛知での巡業の際、呼出し不足のため電報が入り呼出しとして加入。1940年10月に病身だった呼出し初太郎が急死して、高砂一門の呼出しが不足したため呼出しとして正式採用された。 渋みのある美声で評判であり、50歳で入門しながらも呼び出し小鉄と交代で結びの一番を呼び上げていた。
井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭… 井江 耕宗(いえ こうそう、明治23年〈1890年〉 - 昭和42年〈1967年〉)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 尾形月耕の門人で本名は宗市。耕宗と号す。鳥取県勝谷村今市(現在の鳥取市鹿野町今市)に井江藤三郎の子として生まれる。明治36年(1903年)、14歳のときに上京し月耕の内弟子となり、美人画や人物画を学んだ。月耕から風景、花木、鳥獣の写生をするよう勧められ、西日本各地を回る。昭和2年(1927年)から昭和5年にかけては朝鮮京城(現ソウル)に滞在し画家としての生活を送った。その後東京に帰ったが、再び朝鮮や中国、九州、鹿野など各地を漫遊しながら絵を描く。昭和30年(1955年)ごろ鹿野町に滞在し、絵筆を振るったのが画家生活の終わりであったといわれる。
秋元 良尚(あきもと よしひさ、1890年(明治23年) -… 秋元 良尚(あきもと よしひさ、1890年(明治23年) - 1955年(昭和30年))は、明治から昭和にかけて活躍した実業家(醸造業家)。「天晴味醂」の醸造元として広く知られた秋元家の第10代目三左衛門。 千葉県東葛飾郡流山町(現:流山市)に生まれる。流山小学校、開成中学を経て慶應義塾大学文科に入学するが、父秋元梧郎(9代目三左衛門)の死去により中退し家業を受け継ぐ。秋元家が醸造するみりんは1873年(明治6年)の先代当主の時、オーストリアの首都ウィーンで開かれた万国博に出品した際、栄誉ある賞牌が贈られるなど、その名を不動のものとしていた。良尚も先祖から受けつがれてきた良質のみりんにさらに改良を加え、天晴味醂の醸造に尽力した。
窪田 文治郎(くぼた ぶんじろう、1890年(明治23年)-… 窪田 文治郎(くぼた ぶんじろう、1890年(明治23年)- 1975年(昭和50年))は、社寺建築棟梁、宮大工。 1890年(明治23年)、愛媛県(伊予国)久米郡久米村大字鷹子村(現在の愛媛県松山市鷹子町)に生まれる。先祖代々、社寺建築棟梁の家柄であった。明治末期より父親や、京都の名匠奥谷熊之輔に師事し、多くの設計工法を学んだ。1922年(大正11年)、4年の歳月をかけて四国八十八箇所の49番札所である浄土寺の仁王門を完成。このとき32歳であった。のち、50番札所である繁多寺の本堂・大師堂・山門、45番札所である岩屋寺の本堂・大師堂・山門、南久米町日尾八幡神社の神門・拝殿、また、道後湯神社の拝殿など、数多くの作品を残した。
赤城 正蔵(あかぎ しょうぞう、赤城 正藏、1890年〈明治… 赤城 正蔵(あかぎ しょうぞう、赤城 正藏、1890年〈明治23年〉 - 1915年〈大正4年〉3月11日)は日本の出版人。個人事業として菊半裁判(現在の一般的な文庫本サイズであるA6判よりやや大きい)の『アカギ叢書』を刊行した。日本における文庫本出版の先駆者として知られている。 1890年(明治23年)、東京市麹町区三番町(現在の東京都千代田区九段南)の和菓子屋「雪華堂」の次男として生まれる。番町小学校を経て東京府立第一中学校を卒業、出版社・同文館に就職する。 6年間の同文館勤務を経て、1914年(大正3年)1月に出版業者として独立、3月に個人事業として菊半裁判の『アカギ叢書』を創刊した。第1編はヘンリック・イブセン『人形の家』(村上静人訳、1914年3月30日発行)であった。
筒井 省二(つつい せいじ、1890年(明治23年)- 19… 筒井 省二(つつい せいじ、1890年(明治23年)- 1943年(昭和18年)9月11日)は、日本の医師、医学博士、専門は消化器外科、鶴岡市立荘内病院第5代院長。埼玉県出身。盲腸炎(虫垂炎)手術の戦後普及の礎を築いた。 埼玉県北葛飾郡富多村(現・春日部市)生まれ。後に東京へ転居し、麹町小学校、府立一中(現・都立日比谷高校)、第一高等学校を経て、1913年に九州帝国大学医学部を卒業。卒業後は九州帝国大学助手を経て、南満州鉄道の病院に勤務し、再び同大に戻り医局員となる。1926年6月には鶴岡市立荘内病院に副院長兼外科部長として招かれる。1927年に医学博士学位号を取得し、1931年5月には鶴岡市立荘内病院院長に就任した。
文 元模(ぶん げんも、1890年〈清光緒16年〉 - 19… 文 元模(ぶん げんも、1890年〈清光緒16年〉 - 1946年〈民国35年〉10月8日)は、中華民国の物理学者・政治家・官僚。 字は範邨、範臣。南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会において、教育部門のトップである教育総署督弁に就任した人物。 日本に留学して、東京帝国大学物理学科で学ぶ。1920年(民国9年/大正9年)7月、同学科を卒業して理学士の称号を取得した。続いてドイツに渡り、ベルリン大学で学業を継続した。 帰国後は、国立北京医科大学数学講師、東方文化事業委員会委員、国立中央大学理学院物理系副教授、国立北平師範大学物理学系主任兼教授、国立北京大学物理学系教授などを歴任する。日中戦争(抗日戦争)勃発後も華北にとどまり、中華民国臨時政府教育総長・湯爾和の招聘を受けて北京大学理学院院長兼物理学系主任教授に就任。
陳 群(ちん ぐん、1890年〈光緒16年〉 - 1945年… 陳 群(ちん ぐん、1890年〈光緒16年〉 - 1945年〈民国34年〉8月17日)は、中華民国の政治家。字は人鶴。孫文ら革命派や南方政府(護法軍政府)に与し、後に中国国民党や国民政府で活動した。日中戦争期には、中華民国維新政府や南京国民政府の要職を歴任した。 日本へ留学して、明治大学で法学士、東洋大学で文学士の称号をそれぞれ取得した。孫文が護法運動を開始すると、1917年(民国6年)9月、陳群は広州の大元帥府秘書に就任した。1923年(民国12年)5月、大元帥府宣伝委員となる。後に大本営中国国民党党務準備委員に就任した。 孫文死後の1926年(民国15年)以後は、国民党上海政治分会委員、国民革命軍東路総指揮部政治部主任、上海警備総司令部軍法処処長、国民党宣伝部駐滬弁事処主任、第26軍政治部主任、上海法政学院総務長などを歴任した。
石角 春之助(いしずみ はるのすけ、1890年 - 1939… 石角 春之助(いしずみ はるのすけ、1890年 - 1939年7月31日)は、日本のルポルタージュ作家。別名を春洋。 京都府何鹿郡東八田村(現・綾部市)生まれ。1912年明治大学法学部卒業、報知新聞社入社、その後、横田千之助の秘書。法律の通俗書などを執筆、1923年の関東大震災後は浅草などの盛り場の話や底辺で生活する人たちを記録した。斎藤昌三、梅原北明など性風俗研究家と交際があった。
趙 欣伯(ちょう きんはく、1890年〈清光緒16年〉 - … 趙 欣伯(ちょう きんはく、1890年〈清光緒16年〉 - 1951年7月20日)は、中華民国・満洲国の政治家・法学博士(刑法)。北京政府では奉天派と目され、後に満洲国や南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。 清末、禁衛軍で衛兵となる。その後、省立天津北洋大学で学んだ。辛亥革命後は北京文明新劇団で旦角(女形)を演じている。また、この頃に国民党に加入した。1913年(民国2年)に二次革命(第二革命)に参加したが、敗北したために大連に逃れる。劉笑痴と改名して、日本人への中国語教師をつとめた。 1915年(民国4年)、日本に留学する。1920年(民国9年/大正9年)、明治大学法科を卒業し、併せて法学士の称号を取得している。
沢 東洋男(さわ とよお、1890年 - 1971年3月11… 沢 東洋男(さわ とよお、1890年 - 1971年3月11日)は、東京都出身のプロ野球審判員・監督。 旧制東京中学から早稲田大学、國學院大學監督を経て、1936年より始まったプロ野球(当時は日本職業野球連盟)の審判員となり、初代の審判部長に就任した。この年は審判員は3人しかおらず、沢はその貴重な一人であった。 1940年シーズン途中からイーグルス・黒鷲軍の監督を山脇正治より引き継ぎ、シーズン終了まで務めた。監督としての通算成績は67試合で26勝38敗3分、勝率.406である。戦後、再び、審判員に復帰、昭和21年、22年と2年間、務めていた。 1971年3月11日に死去。享年81。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。
辺 光鎬(ピョン・グァンホ、朝鮮語: 변광호/邊光鎬、189… 辺 光鎬(ピョン・グァンホ、朝鮮語: 변광호/邊光鎬、1890年 - 1958年5月13日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、教育者、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 本貫は原州辺氏。号は晩軒(マノン、만헌)。 現在の全羅北道群山市出身。現在の中央高等学校、早稲田大学経済科卒。最初の民族資本で作られた京城紡織株式会社の発起人であった。 1921年に群山教育後援会役員、1922年1月に群山庚申倶楽部で設立された庚申商業夜学院経済学科の教授に着任した。1923年6月には群山府に設立された民立大学地方部設立執行委員を務め、同年10月には群山地域で黎明会の研究部役員として活動した。1927年に群山第2公立普通学校期成会準備会規則草案委員、1928年3月に群山府議員資格で群山公設市場改善研究委員を務め、同年5月に群山懇和会の創立に参加し、副評議長を務めた。