山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)… 山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)は、日本の技術者、実業家。 長野県岡谷市出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京帝国大学工科大学冶金学科卒業、官営八幡製鐵所(現・日本製鉄八幡製鉄所)入所。第2製銑課長、日本製鐵(現・日本製鉄)本店技術部長、広畑製鉄所製銑部長兼化工部長、同所技師長、同社常務取締役、同社代表精算人、同社監査役、日本鉄鋼協会会長を歴任。 官営八幡製鐵所、日本製鐵在職中は、製銑設備の拡充、改良に努めた。1981年日本鉄鋼協会共同研究賞(山岡賞)が設けられ、鉄鋼の学術技術における共同研究に多大な功績のあったグループに授与されている。
上林 大韶(かんばやし だいしょう、1891年 - 1979… 上林 大韶(かんばやし だいしょう、1891年 - 1979年?)は、日本画家、レタリング作家。本名、上林重徳。 日本の近代デザイン史において、杉浦非水と山名文夫の端境期に活躍した。 1908年4月、東京美術学校日本画科専科入学。本郷千駄木林町に住み、同年5月末に斜め向かいに引っ越してきた東京美術学校の教師鶴田機水の家に通ううちに門人となる。千駄木林町の上林の家は四軒続きの二階長屋で、二階東側に小出楢重、一軒おいて同じ二階に熊谷守一も下宿していた。この長屋の周囲には、小出の友人の信時潔をはじめ、高村光雲、中條精一郎、高村光太郎、結城素明、蔦谷龍岬、石井柏亭などが住んでおり、芸術家が多く集まっていた。
巌本 荘民(いわもと まさひと、1891年 - 没年不詳)は… 巌本 荘民(いわもと まさひと、1891年 - 没年不詳)は、日本の教育者、外交官。立教大学元教授。 1891年(明治24年)12月、父・巌本善治と母・若松賤子の長男として生まれる。 早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカに留学し、ハーバード大学に修学。 帰国後、外交官として在日米国大使館で務めたのち、立教大学教授に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は… 山岸 主計(やまぎし かずえ、1891年 - 1984年)は、日本の木版画家。 1891年、長野県上伊那郡美篶村(現・伊那市)に生まれ、15歳で上京し木版彫刻家、武藤李吉に師事。やがて師匠に代わり読売新聞社に勤めるようになり、挿画を彫り木版の腕を磨くと同時に、黒田清輝率いる葵橋洋画研究所で美術を学んだ。 1926年には、文部省より欧米における版画についての調査を託され渡航。各国で視察と版画の実技を行いながら、後に着手するシリーズ『世界百景』の写生を進める。帰国後は、絵を描き、版を彫り、紙に刷るまでを単独で行う"創作版画"に取り組むいっぽう、横山大観や石川寅治ら画家の作品を版画にするなど精力的に活動した。
安倍 豊造(あべ とよぞう、1891年 - 1979年)は日… 安倍 豊造(あべ とよぞう、1891年 - 1979年)は日本ホーリネス教会の牧師、戦後は日本基督教団ホーリネスの群の牧師。 秋田県鹿角郡宮川村に生まれた。幼少の頃は、医師になることを目指した。秋田県小坂町の東洋宣教会の伝道館で大沢豊助によって入信した。 後に、柏木聖書学院に入学して、卒業後に日本ホーリネス教会の伝道者として、福島、青森、千葉、仙台、東京で働いた。1933年のホーリネス分裂事件の際には委員側に加わり、1936年の和協分離後は日本聖教会の牧師になった。 1937年6月に日本聖教会の東京都中野区の更生教会の牧師に就任した。1941年日本基督教団第6部の牧師になる。1942年6月ホーリネス弾圧事件の時には、2年間拘禁された。
妹尾 知之(せのお ともゆき、明治24年〈1891年〉 - … 妹尾 知之(せのお ともゆき、明治24年〈1891年〉 - 昭和59年〈1984年〉)は、日本の海軍軍人。海軍中将。海軍兵学校40期生。海軍大学校22期生。
戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10… 戸野 琢磨(との たくま、1891年 - 1985年5月10日)は、日本の造園家、作庭家、ランドスケープアーキテクト。造園分野では日本人で初めてアメリカの大学で学位を取得し、帰国後日本ではじめての造園設計事務所・ランドスケープコンサルタントを設立して設計活動した。 戦後はアメリカで日本庭園の作庭活動や講演などをとおして日米間のランドスケープアーキテクチェア分野での国際交流にも貢献した。 1959年に造園家アメリカ協会 (ASLA) メンバー・名誉会員に推挙され、米国の庭園デザイン界でも広く名を知られていた。米国大使館などの外国大使館庭園の作品も多く、日本とアメリカ両国でかなりの数の作品を残している。
美川 秀信(みかわ ひでのぶ、1891年?(明治24年?) … 美川 秀信(みかわ ひでのぶ、1891年?(明治24年?) - 1940年(昭和15年)1月11日)とは、戦前の日本及び日本統治時代の朝鮮の水産業技師である。 また「日本マラソンの父」金栗四三と共に東京高等師範学校に入学した、金栗四三の熊本県の同郷の同級生として有名である。 熊本県玉名郡南関町の士族・美川家に生まれる。 玉名北高等小学校(現在の南関町立南関第三小学校)、旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校)を通して金栗四三の同級生であった。 そして1909年(明治42年)、美川は両親の勧めもあったが「東京へ行きたい」がために金栗を誘い、熊本県で行われた東京高等師範学校の出張入学試験を共に受け、熊本県からは4人の、そして玉名中学校から金栗四三と共に「たった2人の合格者」として東京高師に合格した。
佐藤 正典(さとう まさのり、1891年(明治24年) - … 佐藤 正典(さとう まさのり、1891年(明治24年) - 1985年(昭和60年)1月1日)は、日本の教育者、化学工学者。南満州鉄道中央試験場所長、大阪府工業奨励館館長、(株)科学研究所(現・理化学研究所)社長、千葉工業大学第4代学長、日本国政府人事院人事官、日本化学会会長、理化学研究所相談役などを歴任。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋康順(たかはし こうじゅん、1891年〈明治24年〉- … 高橋康順(たかはし こうじゅん、1891年〈明治24年〉- 没年不明)は、日本の農商務・商工官僚、満州国官僚。 1891年、秋田県仙北郡金沢村で平民・高橋兵蔵の長男として誕生。第一高等学校を経て、1914年、高等文官試験に合格・1916年に帝国大学仏法科を卒業。 農商務省に入省し、商工局に配属される。臨時産業調査局事務官 農商務事務官、鉱山監督局書記官、特許局事務官、抗告審判官、商工書記官、鉱山局鉱政課長、臨時産業合理局事務官、大臣官房文書課長、東京鉱山監督局長、特許局事務官審判部長を歴任し、1933年退官。 満州国に招かれ、実業部理事官、総務司長兼特許発明局長兼臨時産業調査局長、1933年6月21日から1936年8月25日まで実業部総務司長を務め、1936年8月25日から10月まで次官に相当する実業部次長と総務司長を兼ねた。
都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1… 都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1981年(昭和56年)6月20日)は、日本の彫刻家である。 石川県金沢市の生まれ。中学時代は素行不良により数回転校を繰り返し、多くの中学校にて学んだ。後に青木外吉からの推薦により、石川県立工業高等学校に入学し彫刻家としての活動を始める。卒業後は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学し、卒業後は帝展出品のために動物や歴史上の人物、仏像等幅広い分野の彫刻像の製作にあたった。 しかし帝展への出品までには7度出品されたもののいずれも落選し、1920年(大正9年)に開催された第8回帝展でようやく入選されるという苦戦の人生を送る。入選後は朝倉文夫の門人となり、師匠の技法を元に彫刻を学んだ。
梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初,… 梁 扶初(りょう ふしょ、リャン・フチュ、中国語: 梁扶初, 拼音: Liáng Fúchū, 粤拼: loeng4 fu4 co1; 1891年 - 1968年12月26日)は、中華民国、中華人民共和国の野球選手、野球指導者。 戦前、戦後中国において各地で野球の普及活動を行い、中国野球の父と呼ばれる。 広東省香山県(現・中山市東昇鎮、後に小欖鎮に合併)で生まれる。幼名は梁澄樹。1901年、10歳時に一家で来日、横浜で暮らしていたが、そこで野球に出会う。1905年、14歳のときに兄弟や近所の華僑少年と共に「中華野球団」を結成した。明治大学でも野球を続け、捕手、一塁手としてプレーしたのち、本牧十二天のグラウンドで中華野球団を指導した。