加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。
双子座:9,574人
加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996… 加藤 治郎(かとう じろう、1910年6月1日 - 1996年11月3日)は昭和期の将棋棋士。名誉九段。棋士番号14。東京府東京市(現在の東京都港区)出身。山本樟郎八段門下。早稲田大学を卒業した、初の大学出身プロ棋士。
永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 200… 永宮 健夫(ながみや たけお、1910年6月1日 - 2006年6月3日)は、日本の物理学者。大阪大学名誉教授。専門は固体物理学で、特に反強磁性体の理論の仕事は名高い。
浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年… 浅野 清(あさの きよし、1910年6月1日 - 1989年3月24日)は、日本の古生物学者。愛知県名古屋市出身。 名古屋市内において、11人兄弟の末っ子として生を受ける。第八高等学校(名古屋大学教養部の前身)を卒業後、東北帝国大学理学部、東北帝国大学大学院に進んだ。大学院において、小型有孔虫に関する研究に精力的に取り組む。 1938年(昭和13年)、南洋庁熱帯研究所嘱託となり、当時日本の委任統治下にあったパラオに赴いた。翌年技師となりサンゴ礁の研究を開始したものの、その年の秋には太平洋石油株式会社に移ることとなった。同社ではメキシコの石油資源調査に携わる。1941年(昭和16年)夏には仙台に戻り、東北帝大において副手の職を得た。
福島 武二(ふくしま たけじ、1910年5月31日 - 19… 福島 武二(ふくしま たけじ、1910年5月31日 - 1971年12月1日)は、日本の銀行家。阿波銀行頭取を務めた。徳島県出身。 神戸商業大学を卒業し、1934年に阿波商業銀行(のちの阿波銀行)に入行した。 1947年に取締役に就任し、1948年に常務、1965年5月に専務を経て、1967年11月には頭取に就任。 1971年12月1日腹膜炎により死去。61歳没。
阿部保(あべ たもつ、1910年5月30日 - 2007年1… 阿部保(あべ たもつ、1910年5月30日 - 2007年1月10日)は、日本の詩人、美学者、英文学者である。北海道大学の名誉教授を務めた。 阿部保は山形県に生まれた。成蹊高等学校を経て、1933年に東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。その後、聖橋高等工学校講師、日本大学講師、成蹊高等学校教授、大倉経済専門学校教授、東京経済大学教授を歴任し、1951年に北海道大学文学部教授に就任、1974年に定年退官した。退官後は東京経済大学非常勤講師を務めた。 専門は美学である。旧制高校在学中より自ら詩作を行い、第3次『椎の木』同人として百田宗治に師事した。また、エドガー・アラン・ポー、ウィリアム・ブレイクなど英語詩人の研究、翻訳も行った。
北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年〈明治43年〉5月… 北島 義彦(きたじま よしひこ、1910年〈明治43年〉5月30日 - 1959年〈昭和34年〉1月7日)は、日本の政治家。元自由民主党都議会議員。1964年東京オリンピック大会招致実行委員長。位階は正六位。勲等は勲五等。 佐賀県小城郡小城町(現・小城市)生まれ。日本大学卒業。会社顧問、北区立赤羽小学校PTA会長などを歴任した。1943年(昭和18年)3月に東京府会議員となった。同年9月の東京都議会議員選挙に当時の王子区から立候補して初当選を果たした。柔道5段。 戦後の1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に東京1区から立候補したが落選した。落選後は翌1947年(昭和22年)から北区選挙区から民主党公認で都議に当選した。
沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - … 沖ツ海 福雄(おきつうみ ふくお、1910年5月28日 - 1933年9月30日)は、福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)出身で若藤部屋に所属した大相撲力士。本名は北城戸 福松(きたじょうと ふくまつ)。最高位は東関脇。 1910年5月28日に福岡県宗像郡(現:福岡県宗像市)で生まれる。千田川部屋(大坂相撲)に入門するが龍神事件で師匠が廃業したため、1924年5月場所から東京市内の若藤部屋に移籍した。当初は上ヶ汐の四股名だったが、1926年5月場所より沖ツ海と改名した。1931年1月場所で新入幕を果たすと、この年は1月と5月の東京場所で5勝6敗と負け越したが、3月場所は8勝3敗、10月場所は7勝4敗と勝ち越して番付を上げた。
渡辺 慧(わたなべ さとし、1910年5月26日 - 199… 渡辺 慧(わたなべ さとし、1910年5月26日 - 1993年10月15日)は、日本の物理学者(理論物理学)・情報科学者。 1910年、東京府生まれ。学習院中等科、東京高等学校を経て、1933年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業する。在学中に理化学研究所で寺田寅彦の指導を受ける。1933年、フランス政府留学生として渡仏、パリでド・ブロイに師事し、熱力学の第二法則と波動力学の研究を始める。1937年、ライプツィヒに移り、ハイゼンベルクに原子核理論を師事する。同年、後にドイツ文学者でハワイ大学教授となるドロテア・ダウアーと結婚する。 1939年、第二次世界大戦の勃発とともにドイツを離れ、コペンハーゲンのボーアの許にしばらく滞在した後、同年12月に家族とともに帰国する。
辻井 市太郎(つじい いちたろう、1910年(明治43年)5… 辻井 市太郎(つじい いちたろう、1910年(明治43年)5月25日 - 1986年(昭和61年)9月20日)は、クラリネット奏者、指揮者、作曲家、編曲家であり、日本吹奏楽指導者協会会長、日本マーチングバンド指導者協会(JMBDA)(現日本マーチングバンド協会)会長、大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)団長を務めた。 作曲家・音楽評論家・相愛大学名誉教授の辻井英世は長男、大阪音楽大学名誉教授で尼崎市吹奏楽団や近畿大学吹奏楽部など関西の著名なアマチュア吹奏楽団で指揮者をつとめた辻井清幸は次男。 明治43年(1910年)、京都府京都市に生まれる。京都両洋中学校でクラリネットと吹奏楽を学び、昭和3年(1928年)に卒業後、同年、大阪市音楽隊(昭和21年(1946年)大阪市音楽団に改称、現Osaka Shion Wind Orchestra)に入隊。
岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没… 岩本 政敏(いわもと まさとし、1910年5月25日 - 没年不明)は、日本の経営者。文化放送社長、会長を務めた。東京都出身。 1933年に早稲田大学商学部を卒業。 日本放送協会での勤務を経て、1957年11月に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に転じ、1960年11月に取締役に就任し、1965年に常務、1972年11月に専務を経て、1979年6月には文化放送社長に就任。1987年7月に会長を経て、1990年6月には相談役に就任。 1984年11月に勲三等旭日中綬章を受章。
吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 19… 吉永 孝雄(よしなが たかお、1910年5月24日 - 1992年10月17日)は日本の文楽研究家、教育者。大阪府出身。 旧制大阪府立生野中学校、大阪高等学校から東京帝国大学に進み、国文学を専攻。浄瑠璃の研究で文学博士。 大阪府立大手前高等学校などで国語科教諭として教壇に立ち、大阪府立勝山高等学校教頭、大阪府立清水谷高等学校校長を務めた。 その傍ら、文楽の研究に取り組み、番付、ちらしなど興行関係資料、ビデオテープ、レコード、新聞・雑誌の記事切抜、写真など多数の資料を収集。その一部は、園田学園女子大学近松研究所に「吉永孝雄文庫」として寄贈されている。 後年は羽衣学園短期大学教授、学長となり、文楽の教育に従事。
島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 19… 島田 賢一(しまだ けんいち、1910年5月24日 - 1978年2月20日)は、日本の実業家。チッソ代表取締役社長として、水俣病患者との交渉にあたった。 和歌山県田辺市出身。1934年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)入社。1949年、日本窒素肥料水俣工場総務部長。同年、日本窒素肥料営業部長。1950年、新日本窒素肥料営業部長。1952年、第二営業部長。1955年、繊維部長。1956年、ミナロン営業部長。1959年、取締役。1963年、常務取締役。1967年11月、副社長。 1971年5月26日に開かれた株主総会は一株運動との対決で大きな騒動となり、チッソは世論の厳しい批判を浴びた。
鈴木 鴻一郎(すずき こういちろう、1910年(明治43年)… 鈴木 鴻一郎(すずき こういちろう、1910年(明治43年)5月23日 - 1983年(昭和58年)4月22日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授、元金沢経済大学・帝京大学教授。専攻はマルクス経済学の経済理論。 宇野弘蔵の後継者。彼が宇野から継承した宇野経済学は伊藤誠によって引き継がれることになる。山口県山口町出身。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月… 小岩井 光夫(こいわい みつお、1910年(明治43年)5月22日 - 1959年(昭和34年)2月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍少佐。 長野県出身。農業・小岩井鈴弥の三男として生れる。松本中学校から陸軍士官学校予科を経て、1934年(昭和9年)6月、陸軍士官学校(46期)を卒業し、同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付となる。 その後、支那駐屯歩兵第1連隊付から、同連隊中隊長、第27師団参謀部付などを経て、1942年(昭和17年)3月、シンガポール攻略後の歩兵第41連隊第2大隊の大隊長となり、同年8月陸軍少佐に昇進した。 歩兵第41連隊第2大隊の大隊長としてポートモレスビー作戦に参戦し、ニューギニア戦線から帰還後参謀本部付を経て、1945年(昭和20年)6月、第96師団参謀となり終戦を迎えた。
守屋 時郎(もりや ときろう、1910年5月21日 - 20… 守屋 時郎(もりや ときろう、1910年5月21日 - 2001年6月4日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。東京都出身。 1930年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1956年6月に取締役に就任し、1957年6月に常務を経て、1960年6月に副社長に就任し、1962年6月には社長に昇格。1970年6月に会長に就任し、1975年6月から1979年7月までに常任監査役を務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2001年6月4日胃癌のために死去。91歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 19… 大杉 久雄(おおすぎ ひさお、1909年6月21日 - 1995年6月20日)は、日本の編集者。講談社の編集者として戦前〜戦後へと活躍した。主な編集誌に幼年クラブ、少年倶楽部などがある。のらくろの作者である、田河水泡と交流があった。 孫に大杉正人(オーストラリアシドニー在住)がいる。 本来大杉家は、地元の大地主であり大きな山林を所有していたが、大正恐慌のあおりを受け没落する。久雄は父より大杉家再興の為医者になることを命じられ、京都大学の受験の為の旅費を渡されるが、幼いころからの夢である文学への思いが立ちきれず京都へ向かう汽車で京都では下車せずそのまま東京へ向かう。 久雄は早稲田大学第一文学部への入学を決めるが、父は立腹しその年の正月の餅を久雄に送らなかったというエピソードが残されている。
田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月2… 田杉 競(たすぎ きそう、1909年 <明治42年> 6月20日 - 1989年 <平成元年> 11月13日)は、日本の経営学者。京都大学名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章。 長野県木曽郡楢川村(現塩尻市)出身。旧制京都府立第一中学、旧制第三高等学校を経て、1932年京都帝国大学経済学部卒業。1938年京都帝国大学助手、1939年講師、1946年助教授、1949年京都大学経済学部教授。1958年経済学部長、1972年定年退官、名誉教授。同年より京都学園大学教授を務め、1981年同大学学長に就任。1983年からは開学に尽力した京都文化短期大学学長も兼ねた。1987年「下請制工業論 經濟發展過程における中小工業」で、経済学博士(京都大学)。
水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 198… 水上 武(みなかみ たけし、1909年6月20日 - 1985年9月8日)は、日本の火山学者。理学博士。東京大学名誉教授。 富山県高岡市出身。高岡信用金庫理事長を務めた水上良作の子として生まれる。東京帝国大学理学部地震学科を1934年に卒業。火山噴火予知研究等において世界的な業績を残した火山学者であり、火山物理学の権威である。中でも、東京大学地震研究所の浅間火山観測所に勤め始めて以来、浅間山の噴火予知の業績は世界的に知られる。1967年4月より東京大学地震研究所の所長を務めたが、東大紛争のため翌年に辞任。1981年日本学士院会員となった。
太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ… 太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家。 太宰治はペンネームであり、1933年(昭和8年)に短編小説『列車』で初めて太宰治の名が使われた。弘前高等学校(現:弘前大学)の学生時代に始めた左翼活動は3年程で挫折し、その後は自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に『走れメロス』『津軽』『人間失格』がある。没落した華族の女を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。 戦後はその作風から、坂口安吾、織田作之助、石川淳、檀一雄らとともに新戯作派、無頼派と称された。
大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 20… 大石 武一(おおいし ぶいち、1909年6月19日 - 2003年10月19日)は、日本の医師、政治家。位階は正三位。医学博士。 衆議院議員(10期)、参議院議員(1期)。環境庁長官(第2代)、農林大臣(第47代)。 仙台市元常磐町1番地(現在の仙台市民会館付近)に 、後に衆議院議員を務めた大石倫治の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の宮城県仙台第二高等学校)、旧制第二高等学校理科乙類に進学し、中学校ではテニス、高等学校では野球に熱中した。高校時代には結核性の肋膜炎に罹患して留年、翌年には腹膜炎を患った。1935年(昭和10年)に東北帝国大学医学部を卒業、1940年(昭和15年)に同大学大学院医学博士課程を修了した。
仲 みどり(なか みどり、1909年〈明治42年〉6月19日… 仲 みどり(なか みどり、1909年〈明治42年〉6月19日 - 1945年〈昭和20年〉8月24日)は、昭和時代の新劇女優。太平洋戦争中、移動演劇桜隊に所属し公演先の広島県広島市で原爆投下の被害を受けた。医学的に認定された原爆という核兵器による攻撃の被害を受けた人類史上初の原爆症認定患者としても知られる。 東京府東京市日本橋区区本町(現・東京都中央区日本橋本町)の塗料問屋で近衛騎兵中尉・仲万次郎の三女として生まれる。 仏英和高女(現・白百合学園中学校・高等学校)に進学するが中退。大阪のウヰルミナ女学校(現・大阪女学院中学校・高等学校)を卒業後、浅草の剣劇団「明石潮一座」を経て1931年(昭和6年)、築地小劇場内に設立されたプロット(プロレタリア演劇同盟)研究所に入所。
村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1… 村山 古郷(むらやま こきょう、1909年6月19日 - 1986年8月1日)は、昭和期の俳人。京都府京都市下京区仏具屋町出身。本名・正三。兄の村山葵郷、姉のたかも俳人。 1939年、國學院大學国文科卒。 保善商業教諭を経て、1941年、日本郵船に入社。内田百閒に師事。 俳句は少年時代、兄・葵郷の手ほどきを受ける。「草上」同人を経て、1932年「東炎」同人となる。戦後、1946年「べんがら」を、1952年「たちばな」を創刊したが、1955年石田波郷の知遇をえて「鶴」同人となる。1978年山路閑古のあとを継いで鴫立庵第二十世庵主。 俳誌『嵯峨野』を主宰、俳人協会理事を務めた。1978年、『明治俳壇史』で芸術選奨文部大臣賞受賞。
星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日… 星野 愷(ほしの やすし、1909年〈明治42年〉6月18日 - 1986年〈昭和61年〉7月25日)は、日本の電気化学者。東京工業大学名誉教授。 群馬県勢多郡黒保根村(現・桐生市黒保根町)に、群馬県会議員・黒保根村長をつとめた星野元治の長男として生まれる。黒保根尋常高等小学校、旧制前橋中学校を経て、1934年(昭和9年)に東京工業大学電気化学科を卒業。 東京工業大学助手を経て、1940年(昭和15年)助教授、1953年(昭和28年)教授に就任。1945年(昭和20年)11月工学博士の学位を授与されている。 人造偏光板・磁気録音読書機の発明者。数々の特許を申請し、特許数は日本国内で58件、海外(アメリカ、イギリス、ドイツ各国)で59件。
天野 忠(あまの ただし、1909年6月18日 - 1993… 天野 忠(あまの ただし、1909年6月18日 - 1993年10月28日)は、日本の詩人。 京都府京都市出身。京都第一商業学校卒。職を転々としつつ詩を書き、1935年5月に山前実治、北川桃雄、田中忠雄らと同人誌「リアル」を創刊。1937年8月に「リアル」同人の一部が治安維持法違反で検挙され、その後は逼塞。戦後は出版社勤務、古書店経営等を経て、奈良女子大学付属図書館に職を得る。コルボウ詩話会、近江詩人会等を拠点に活動、1954年の「重たい手」で注目される。1974年の『天野忠詩集』で無限賞、1982年には『私有地』で読売文学賞、1986年には『続天野忠詩集』で毎日出版文化賞を受賞した。1993年10月28日、京都の自宅において多臓器不全のため死去。
阿部 喜三男(あべ きみお、1909年6月16日 - 197… 阿部 喜三男(あべ きみお、1909年6月16日 - 1970年11月22日)は、日本の国文学者。近世俳諧が専門。 1933年、東京帝国大学文学部国文科卒。台北第一中学校教諭、東京府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)教諭、海軍教授。戦後は明治大学政治経済学部助教授、教授。在職中に61歳で死去。小躯斗酒も辞さないほどの酒好きだった。
堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 19… 堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 1996年6月3日)は、兵庫県芦屋市出身 のサッカー選手、会社役員。 幼少期は兵庫県神戸市で過ごした。関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学 して、サッカー部に所属。関学クラブの一員として1929年10月および1930年2月に開催された2度のア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会および第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で後藤靱雄らと共に2大会連続で優勝した。そのプレースタイルは地味ながらもシュート力は正確無比であった。 1932年3月に卒業 して、湯浅蓄電池製造(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)に入社。
吉沢 忠(よしざわ ちゅう、1909年6月15日 - 198… 吉沢 忠(よしざわ ちゅう、1909年6月15日 - 1988年1月12日)は、日本の美術史学者。東京藝術大学名誉教授。日本南画研究が専門。 東京府出身。東京帝国大学卒業。東京国立博物館勤務、多摩美術大学講師、東京芸大助教授、1967年教授。1973年定年退官、名誉教授。
大野 和男(おおの かずお、1909年6月13日 -1983… 大野 和男(おおの かずお、1909年6月13日 -1983年6月2日)は、日本の建築学者・教育者で北海道大学名誉教授。北海道大学建築学科の創設に尽力、教育者として貢献するとともに、10年にわたり工学部校舎全7万平方メートルを全面増改築の設計も担当。退官後は北海道建築センターの基盤を確立し、寒冷地建築の水準向上を図るとともに、道内の建築界を主導した。 一方で1939年から1945年まで、飛行機設計技師として中島飛行機勤務した。
中島征帆(なかじまゆきほ、1909年6月13日 - 1979… 中島征帆(なかじまゆきほ、1909年6月13日 - 1979年4月1日)は日本の通産官僚。 佐賀県佐賀郡新北村寺井津(現在の佐賀市諸富町寺井津)生まれ。佐賀県立佐賀中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。 1932年、東京帝国大学経済学部卒業後、商工省工務局に入省。化学局合成課、軍需省整備局整備課長、燃料局石油課長、経済安定本部動力局次長、福岡商工局商工部長、石炭庁開発局長、資源庁石炭管理局長、大阪通商産業局長などを務めた。
市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年… 市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー審判員。 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の蹴球部に所属し、1927年に神戸一中を卒業。 慶應義塾大学に入学後はソッカー部に入部。在学中の1930年5月に第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、フィリピン代表戦で初出場し、得点も決めた。1931年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に慶應BRBのメンバーとして出場して準優勝に貢献した。 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後の1936年3月、大日本蹴球協会の理事会でベルリン五輪の日本代表候補に選出された(最終メンバーからは落選、ベルリンの奇跡を参照)。
内山 敏(うちやま つとむ、1909年6月9日 - 1982… 内山 敏(うちやま つとむ、1909年6月9日 - 1982年?)は、日本の翻訳家。本名・山内俊雄。 国際政治について多くの翻訳をおこなった。 福島県生まれ。父の親友の息子が本多修郎。第二高等学校卒、1932年東京帝国大学哲学科卒業。 早川書房で『悲劇喜劇』編集長のほか、読売新聞外報部に勤務。 遺産全額を読売光と愛の事業団に寄付し、「山内基金」として盲学校などに寄付されている。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
本多 修郎(ほんだ しゅうろう、1909年6月8日 ‐ 19… 本多 修郎(ほんだ しゅうろう、1909年6月8日 ‐ 1990年12月11日)は、日本の哲学者・科学史家。東北大学名誉教授。科学史・技術史を研究。 福島県耶麻郡長瀬村(現猪苗代町)出身。喜多方中学、二高理科を経て東北帝国大学哲学科卒。次いで東京帝国大学大学院に学ぶ。高橋里美、三宅剛一に師事。東北大学助教授、1950年教授。1962年「ヘーゲル弁証法と数学・自然科学」で文学博士の学位を取得。1973年定年退官、名誉教授。東北福祉大学教授。父寅多、母クラ、次男。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1987年〈昭和62年〉4月19日)は、日本の小説家、翻訳家。 北海道函館市出身。函館中学卒業。1926年に上京、松本泰のもとに寄宿する。1933年、立教大学予科を経て、法政大学文学部独文科に入学する。関口存男・片山敏彦にドイツ語・ドイツ文学を学び、豊島与志雄からフランス文学を学ぶ。 同学科を卒業後、1936年、南満州鉄道株式会社に入社。1942年、満鉄を退社し、満洲国協和会調査部に入る。1945年、ソ連侵攻により捕虜収容所に収容され、5年に及ぶシベリア抑留となった。 1951年、抑留経験をもとに雑誌『近代文学』に「シベリヤ物語」を発表した。
上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 … 上野 誠(うえの まこと、1909年〈明治42年〉6月7日 - 1980年〈昭和55年〉4月13日)は、日本の版画家。1950年代初めには「魚沼六郎」という名でも作品を発表していた。プロレタリア芸術を探求して原爆も多く題材とし、海外でも高く評価された。 長野県更級郡今里村(現・長野市川中島町今里)に内村家に生まれ、長野中学校(現・長野高等学校)を卒業後、1929年に東京美術学校に進む。しかし、共産主義運動に影響を受けて学内改革運動に関わり、1932年に検挙・拘留を経て、1933年に放校処分となる。 その後、東京や郷里で綿製品仕上げ工や鉄道工夫、土工などの労働に従事し、その傍ら須坂の版画家・小林朝治に感化されて木版画を始め、1935年に川中島で木版画の頒布会を開いた。
真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 198… 真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 1984年7月28日)は、日本の舞台美術家、衣裳デザイナーである。日本舞台テレビ美術家協会会長を歴任した。 1909年(明治42年)6月4日、茨城県に生まれる。1927年に水戸中学卒業。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。 1935年(昭和10年)、東京宝塚劇場(現在の東宝)に入社、1936年(昭和11年)に同社が合併した日本劇場では、衣裳も装置も手がけている。1944年に妻との間に息子・マイク真木をもうける。 第二次世界大戦後、東宝を退社してフリーランスとなった。1958年(昭和33年)、大映東京撮影所が製作した増村保造監督の『巨人と玩具』や、1959年(昭和34年)、東宝が製作・配給した山本嘉次郎監督の『孫悟空』等の衣裳をデザイン・構成を手がけた。
申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4… 申 石艸(シン・ソクチョ、朝鮮語: 신석초、1909年6月4日 - 1975年3月8日)は、大韓民国の詩人、ジャーナリスト、ソラボル芸術大学校(現・中央大学校)の教授。 本名は申 応植(シン・ウンシク、신응식/申應植)。本貫は高霊申氏。 大韓帝国忠清南道舒川で下級郷班の家に1男3女の中の末子として生まれた。1929年に京城府で詩人として文壇に登場し、1931年には渡日し留学生として法政大学哲学科で学んだが、1935年に病気により中退し帰国した。鄭寅普の紹介で李陸史と知り合い、『翡翠断章』、『パラチュム序詞』、『ヘビ』、『剣舞娘』、『芭蕉』などの詩を李陸史を通して子午線、詩学、文章などに発表した。
村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日 - 2000年… 村田 勉(むらた つとむ、1909年6月3日 - 2000年1月30日)は、日本の軍人(技術士官)、技術者、実業家。軍における最終階級は大日本帝国海軍技術少佐。 火薬の専門家として知られ、海軍では艦砲の火薬や固体燃料ロケットの研究をおこない、戦後は日本油脂に勤務し、糸川英夫のペンシルロケットに推進剤を提供した。のちに日本油脂の社長・会長を務める。 熊本県に生まれる。旧制玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校・附属中学校)から第一高等学校を経て東京帝国大学に進む。旧制中学校時代に読んだ三上於菟吉の小説『春は蘇れり(地獄の彼方の天国)』に影響を受け、火薬に興味を持つ。東京帝国大学工学部卒業後、海軍技術士官となる。
吉岡 隆徳(よしおか たかよし(または「たかのり」)、190… 吉岡 隆徳(よしおか たかよし(または「たかのり」)、1909年(明治42年)6月2日 - 1984年(昭和59年)5月5日)は、昭和初期に活躍した日本の陸上短距離選手。東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業、元東京女子体育大学教授。名前は「たかよし(たかのり)」のほか、通称で「りゅうとく」とも呼ばれた。身長165cm、体重61kg。 1909年6月、島根県簸川郡西浜村(後の湖陵町、現・出雲市湖陵町大池)にある彌久賀神社の宮司、春日千代主の四男(春日隆徳)として生まれ、小学校卒業後に斐川町(現・出雲市)の吉岡家の養子となる。自宅と学校(尋常小学校と中学校)との間には砂丘があり、そこを歩いたり遊んだりすることで足腰が鍛えられたという。
荻野 凖平(おぎの じゅんぺい、1909年(明治42年)6月… 荻野 凖平(おぎの じゅんぺい、1909年(明治42年)6月1日 - 2001年(平成13年)1月22日)は、日本の政治家。(旧)静岡市長。位階は従四位。
八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993… 八幡 次郎(やわた じろう、1909年6月1日 - 1993年12月15日)は、日本の実業家。九州朝日放送の社長を務めた。 岩手県出身(一部の文献では東京都出身との記載有り)。1944年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年に朝日新聞社に入社し、政治部長、論説委員副主幹、西部本社編集局長、大阪本社編集局長を歴任した。 1971年5月に九州朝日放送に転じ、専務に就任し、1973年5月には社長に昇格。1981年6月には会長に就任。1978年から1980年までは日本民間放送連盟副会長も務めた。 1982年4月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年12月15日、脳梗塞により死去。84歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
飛田 勇(とびた いさむ、1909年6月1日 - 1975年… 飛田 勇(とびた いさむ、1909年6月1日 - 1975年11月17日)は、日本の経営者。千葉興業銀行頭取を務めた。愛知県出身。 1935年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。 輸出入銀行、日本銀行での勤務を経て、1962年10月に千葉興業銀行専務に就任し、1965年5月に副頭取を経て、1969年4月には頭取に昇格。 1975年11月17日脳出血のために死去。66歳没。
小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 200… 小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 2003年3月10日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。長崎県出身。 1934年3月に早稲田大学文学部を卒業し、1935年10月に朝日新聞社に入社。 1964年11月に長崎新聞社専務を経て、1968年11月から1976年12月までに社長を務めた。 2003年3月10日肺気腫のために死去。93歳没。
久曾神 昇(きゅうそじん ひたく、1909年5月31日 - … 久曾神 昇(きゅうそじん ひたく、1909年5月31日 - 2012年9月23日)は、日本の国文学者。学位は文学博士(東北大学・1962年)(学位論文「古今和歌集成立論」)。愛知大学第9代学長。勲二等瑞宝章。 愛知県渥美郡牟呂吉田村高州(現・愛知県豊橋市高洲町)生まれ。第一高等学校を経て、1934年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。1938年に同大学院を退学。福岡女子専門学校教授。応召先のシンガポールで捕虜となる。 1946年に復員し、愛知大学予科教授、1949年に愛知大学教授、1970年に文学部長、愛知大学理事、1972年に学長および理事長を歴任。1984年に退任、名誉教授、勲二等瑞宝章、1985年に中華人民共和国南開大学名誉教授。
出川 雄二郎(でがわ ゆうじろう、1909年(明治42年)5… 出川 雄二郎(でがわ ゆうじろう、1909年(明治42年)5月31日 - 1997年(平成9年)4月24日)は、昭和から平成時代の日本の計算機科学者、通信技術者。 1933年(昭和8年)東京工業大学電気工学科を卒業後、同大学助手を経て、1934年(昭和9年)日本電気(NEC)に入社し、通信技術の研究開発に従事する。多重通信における非直線ひずみの研究や二重平衡変調器の発明などに尽力し、これら研究により1943年(昭和18年)東京工業大学より工学博士の学位を授与される。ほか、同軸ケーブルによる広帯域通信技術の研究なども行った。1957年(昭和32年)日本電気にてコンピュータの製品化・事業化を目指し新組織を編成。
米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月3… 米沢 英雄(よねざわ ひでお、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1991年〈平成3年〉3月3日)は、日本の医師、浄土真宗の伝道者。 福井県福井市生まれ。旧制第四高等学校文科を経て、日本医科大学を卒業。医学博士。開業医のかたわら、親鸞聖人の教えに深く帰依し、多数の著作、全国各地での法話・講演などで、多くの念仏者を生み出した。著述、講演による伝道者・実践者としての功績で1989年<平成元年>第23回仏教伝道文化賞を受賞。
三神 良三(みかみ りょうぞう、1909年〈明治42年〉5月… 三神 良三(みかみ りょうぞう、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の実業家、経営評論家。 山梨県生まれ。1933年早稲田大学経済学科卒。東宝劇場に入り、日劇支配人、大東亜会館支配人。1947年東京會舘取締役総支配人、50年常務、61年社長、70年取締役、73年顧問。1966年世界貿易会館社長。有楽書房社長。俳句も詠んだ。
池田 三四郎(いけだ さんしろう、1909年(明治42年)5… 池田 三四郎(いけだ さんしろう、1909年(明治42年)5月30日 - 1999年(平成11年)12月15日)は、日本の木工家。 1909年、長野県松本市に生まれる。旧制松本中学校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1932年、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)写真科卒業。 1938年、東京で建築写真業「三六工房」を始める。1944年、中央構材工業会社(後の松本民芸家具)設立に参加。 1948年、柳宗悦に師事し、民藝運動に参加。柳の「用の美」の思想を実践。飛騨山脈に自生するミズメ桜、欅などを用いて、松本で指物師に受け継がれていた技術を生かす。その丈夫さは、「スクラップアンドビルド」の風潮に抵抗するもので、和家具にヨーロッパや李朝の家具の技術を取り入れた作品で知られる。
海江田 進(かいえだ すすむ、1909年〈明治42年〉5月3… 海江田 進(かいえだ すすむ、1909年〈明治42年〉5月30日 - 1984年〈昭和59年〉9月16日)は、日本の英文学・英語学者。海江田信義の子孫。 東京生まれ。1931年東京外国語学校英語科卒。1952年東京外国語大学助教授、教授、73年定年退官、名誉教授、明星大学教授。大学入試英語の教科書などを多く執筆した。
戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月2… 戸村 一作(とむら いっさく、1909年(明治42年)5月29日 - 1979年(昭和54年)11月2日)は、市民運動・農民運動活動家、政治家(元成田市議会議員)。特に三里塚芝山連合空港反対同盟委員長を務めた三里塚闘争(成田闘争)での活動で知られ、画家・彫刻家でもあった。 1909年5月29日、千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)三里塚に生まれる。 1925年に私立成田中学校に入学し、教員であった中野好夫や中山義秀の薫陶を受けた。 成田中学卒業後、父が三里塚で営んでいた鍬・鋤・鎌などの販売店「戸村農機」で働き、25歳の時に結婚した。夫人が健康を害して北海道に帰郷すると、戸村もその後を追って北海道で暮らした。
金 来成(キム・ネソン、1909年旧暦5月29日 - 195… 金 来成(キム・ネソン、1909年旧暦5月29日 - 1957年2月19日)は、大韓民国の小説家。平安南道(ピョンアンナムド)生まれ。 1935年に日本の探偵小説専門誌『ぷろふいる』でデビューし、のちに朝鮮半島で探偵作家、大衆文学作家として活躍した。韓国推理小説の創始者とされる。 大韓帝国末期の1909年旧暦5月29日、平壌(ピョンヤン)近郊の平安南道(ピョンアンナムド)大同郡(テドンぐん)に生まれる。1925年、平壌公立高等普通学校(ko)に入学。当時この学校では、のちに翻訳家となる龍口直太郎が英語教師をしており、金来成はその授業でアーサー・コナン・ドイルやエドガー・アラン・ポー、江戸川乱歩についての話を聞き、探偵小説の魅力を知った。