登坂 重次郎(とさか じゅうじろう、1913年4月3日 – … 登坂 重次郎(とさか じゅうじろう、1913年4月3日 – 1997年3月22日)は、日本の政治家。元衆議院議員(自由民主党所属)。現在の茨城県常総市出身。 会社員・登坂長吉の三男として生まれる。生後間もなく父母と死別し、父方の伯父・豊島重太郎に育てられる。1932年茨城県立水海道中学校(現在の茨城県立水海道第一高等学校)を卒業後、母校・水海道中学校の事務職員等を経て、1940年土浦税務署に入職する。1944年大蔵省本省に出向し、東京財務局(現在の関東財務局)長・池田勇人の秘書となる。以後池田に師事し、1948年池田の総選挙出馬を期に大蔵省を退官し、個人秘書となる。 1963年の第30回衆議院議員総選挙に、旧茨城3区から無所属で立候補し当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。
金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年〈大正2年〉4… 金田一 春彦(きんだいち はるひこ、1913年〈大正2年〉4月3日 - 2004年〈平成16年〉5月19日)は、日本の言語学者、国語学者、邦楽研究家。日本語の音韻が専門。国語辞典などの編纂、日本語の方言におけるアクセント研究で知られる。邦楽にも造詣が深く、平曲研究の第一人者。著書に『日本語の特質』(1980年)、『日本語(新版)』(1988年)、『平曲考』(1997年)など。文学博士。栄典は勲三等旭日中綬章、紫綬褒章、瑞宝重光章。 その他の表彰歴として文化功労者、東京都名誉都民など。 父の京助も文学博士で日本学士院会員。長男の真澄も文学博士で慶應義塾大学名誉教授、次男の秀穂は言語学者で杏林大学外国語学部教授、長女の美奈子はフリーライター。
金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3… 金 煥基(キム・ファンギ、朝鮮語: 김환기、1913年4月3日〈太陰暦: 1913年2月27日〉 - 1974年7月25日)は、大韓民国の洋画家。全羅南道新安郡の安佐島(朝鮮語版)出身。 本貫は金海金氏。号は樹話(スファ、수화)。金 煥其(読み、ハングル同じ)という表記も見られる。卞東琳の夫であった。 日本統治時代の全羅南道新安郡に生まれた。1936年に日本大学美術学部卒業。その後吉鎮燮などと白蛮会を組織する一方、東京で個展を開いた。1946年から1949年までソウル大学校美術大学で教授を務め、新写実派展に出品した。幾度となく国展審査委員を務め、1952年に弘益大学校美術大学教授、1954年に芸術院の会員となった。
猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年… 猪野 謙二(いの けんじ、1913年4月2日 - 1997年9月11日)は、文芸評論家、近代日本文学研究者。 宮城県仙台市生まれ。東京府立第六中(現都立新宿高等学校)を経て1937年東京帝国大学文学部国文科卒。在学中に立原道造らと『未成年』を創刊。戦後日本文学協会に属し、歴史社会学派の立場から日本近代文学の研究・評論を行った。1954年神戸大学助教授、1975年学習院大学教授。1984年定年退職。
鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939… 鈴木 聞多(すずき ぶんた、1913年4月1日 - 1939年7月10日)は、日本の陸上競技(短距離走)選手。 埼玉県比企郡三保谷村(現在の川島町)に生まれる。父は同村の村長も務めた鈴木庸三で、三人兄弟の末っ子。鈴木家は江戸時代には名主を務めた家で、生家(鈴木家住宅)は国登録有形文化財となっている。 1926年(大正15年)4月、旧制埼玉県立川越中学校(現在の埼玉県立川越高等学校)に入学し、陸上競技に取り組む。旧制中学5年次の1930年(昭和5年)、第16回全国中学校陸上競技選手権大会(インターハイの前身。神戸)に出場、100m(11秒7)と200m(22秒7)で優勝。 1931年(昭和6年)4月、旧制川越中学から慶應義塾大学予科に進学。
黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 … 黒田 正巳(くろだ まさみ、大正2年(1913年)4月1日 - 没年不詳)は日本の建築学者。熊本大学名誉教授。工学博士。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)栄町出身。 境尋常高等小学校(現・境港市立境小学校)、鳥取県立米子中学校(現・鳥取県立米子東高等学校)、旧制松江高等学校理科甲類を経て1938年(昭和13年)、東京工業大学工学部建築学科卒業。 1943年(昭和18年)、熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)教授。 1960年(昭和35年)、工学博士(東京工業大学)。論文は「建築における大きさと形の恒常視に関する実験的研究」。
鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日… 鈴木 治雄(すずき はるお、1913年(大正2年)3月31日 - 2004年(平成16年)7月3日)は、日本の実業家。昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事、東京商工会議所監事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。フンボルト大学ベルリン名誉博士。 神奈川県葉山村生まれ。東京に転居後、麹町の永田町小学校(現・麹町小学校)に入学するも、一家の転居に伴い、3年時に白金小学校に転入し卒業。卒業後は旧制東京高等学校に入学。1936年、東京大学法学部を卒業し野村合名会社(現・野村証券)へ入社するが、1939年に昭和電工創立に伴い同社へ入社した。軍需産業を推進した理由で戦後公職追放されたものの、1951年に同社に復帰し、1971年に社長、1981年には会長に就任。
大島 清(おおしま きよし、1913年3月31日 - 198… 大島 清(おおしま きよし、1913年3月31日 - 1984年5月15日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授、元法政大学大原社会問題研究所所長。マルクス経済学における農業経済学専攻。1941年、東北帝国大学卒業。1960年、法政大学経済学博士。 なお、同時期に同一大学でマルクス経済学を専攻していた金融論の大島清とは別人である。しかし、ともに傍系入学(旧制高等学校を卒業せずに入学すること)であり、しかも優秀だったことから、よく間違われた。
石川 徹(いしかわ とおる、1913年〈大正2年〉3月30日… 石川 徹(いしかわ とおる、1913年〈大正2年〉3月30日 - 1997年〈平成9年〉9月10日)は、日本の国文学者。専門は、源氏物語を中心とした中古文学研究。愛知教育大学名誉教授。東京市芝区高輪生まれ。 東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)、東京府立高等学校(現:首都大学東京)を卒業した。1936年(昭和11年)に東京帝国大学(現:東京大学)文学部国文学科を卒業した(卒業論文「古代小説の構想の展開」)。 旧制新潟県立新潟中学校(現:新潟県立新潟高等学校)・愛知一中・府立第六中学校教諭を務めた。1945年(昭和20年)9月に神戸女学院専門学校教授に就任し、関西学院大学講師を兼務した。
井本 農一(いもと のういち、1913年3月30日 - 19… 井本 農一(いもと のういち、1913年3月30日 - 1998年10月10日)は、日本の国文学者・俳人、お茶の水女子大学名誉教授。実践女子大学第8代学長で、勲二等瑞宝章受章者。 1913年、山口県新南陽市(現周南市)に生まれた。1933年、旧制成蹊高等学校文科甲類を卒業。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、お茶の水女子大学教授をつとめた。1961年、学位論文『蕉風を中心としたる俳諧史の問題的研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1976年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も聖心女子大学教授として教鞭をとり、1984年からは実践女子大学第8代学長をつとめた。
田中 清太郎(たなか せいたろう、1913年3月30日 - … 田中 清太郎(たなか せいたろう、1913年3月30日 - 2000年6月3日)は、日本の英文学者、翻訳家、詩人、俳人。 東京生まれ。1936年東京帝国大学文学部英文学科卒業。 武蔵大学助教授、学習院大学助教授、1951年教授。1983年定年退職、名誉教授。1970年「D・H・ロレンス詩集」の翻訳により日本翻訳文化賞受賞。 専門はイギリスの詩、特にディラン・トマス。 俳人でもあり、日本の近代詩についての評論もある。
林 克己(はやし かつみ、1913年3月30日 - 没年不詳… 林 克己(はやし かつみ、1913年3月30日 - 没年不詳)は、日本の翻訳家、医学博士。東京生まれ。東北大学医学部卒。小児科医のかたわら英米のSF、ミステリ、ファンタジーの翻訳を行った。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
飯田 新一(いいだ しんいち、1913年(大正2年)3月29… 飯田 新一(いいだ しんいち、1913年(大正2年)3月29日 - 1987年(昭和62年)8月12日)は、日本の実業家。髙島屋社長を務めた。 髙島屋3代目社長飯田直次郎の長男として、京都府に生まれる。 旧制甲陽中学(現・甲陽学院中学校・高等学校)を経て、早稲田大学専門部商科卒業後、1941年髙島屋へ入社。 1945年大阪支店総務部長、1948年理事、1951年5月にはアメリカに渡り、先進国の同業を視察。1952年8月取締役大阪支店長、1954年常務、1956年専務を歴任。 1960年10月に社長に就任。この間、1974年と1984年に日本百貨店協会会長に就任している。 1987年4月に日高啓に社長を譲り会長に退いた。
太田 晶二郎(おおた しょうじろう、1913年(大正2年)3… 太田 晶二郎(おおた しょうじろう、1913年(大正2年)3月29日 - 1987年(昭和62年)2月20日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所教授。財団法人前田育徳会常務理事。専門は漢籍史。 研究人生のほとんどを史料編纂所で費やし、大日本史料第1篇・第2篇、大日本近世史料の『幕府書物方日記』の編纂を担当した。漢籍等の典籍の考証を主にしていたが、その研究は豊かな学識に基づいた堅牢かつ緻密なもので、太田の前では、ほとんどの歴史学者が物も言えないくらい緊張したという逸話がある。また生前は論文の執筆のみで、一冊の著書も残さなかった。没後、飯田瑞穂等を中心に、著作集5巻が編まれた。
扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - … 扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - 1992年4月10日)は日本の文筆家、編集者、ジャーナリスト。 "週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 宮城県遠田郡涌谷町出身。旧制石巻中学、旧制二高を経て、1935年に東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、朝日新聞社に入社。青森支局、仙台支局を経て、1937年に社会部記者、1938年に従軍記者として第101師団に配属され、武漢作戦に参加。1941年12月、再度従軍記者となり、フィリピンのリンガエン湾に上陸。 1944年(昭和19年)3月に補充兵として召集され、歩兵第4連隊に入営。朝鮮の羅南で三カ月の訓練を受け、通信兵となる。湘桂作戦(ト号作戦)に参加。
篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年… 篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲子、1913年〈大正2年〉3月28日 - 2021年〈令和3年〉3月1日)は、日本の美術家、版画家、エッセイスト。 映画監督の篠田正浩は従弟、建築家の若山滋は甥にあたる。 日本の租借地だった関東州大連に生まれる。父の篠田頼治郎は東亜煙草の大連支社長で、職場と自宅があったジョサイヤ・コンドル設計の元ロシア帝国の3階建洋館で三男四女の第五子として生まれ、満洲子と命名された。 2歳で東京に戻り、5歳頃から父に書の手ほどきを受ける。その後、女学校時代以外はほとんど独学で書を学ぶ。 1950年から数年、書道芸術院に所属して前衛書の作家たちと交流を持つが、1956年に渡米。
保田 克己(やすだ かつみ、1913年3月28日 - 201… 保田 克己(やすだ かつみ、1913年3月28日 - 2015年8月23日)は、日本の経営者。住友林業社長を務めた。 山口県出身。1936年に東京帝国大学林学科を卒業し、同年に住友本社に入社。 のちに住友林業に転じ、常務を経て、1966年6月に社長に就任し、1974年11月には会長に就任。1976年4月には取締役相談役に就任し、1978年12月からは相談役を務めた。 1981年11月に藍綬褒章を受章。 2015年8月23日、老衰のために死去。102歳没。
高橋 義孝(たかはし よしたか、1913年3月27日 - 1… 高橋 義孝(たかはし よしたか、1913年3月27日 - 1995年7月21日)は、日本のドイツ文学者・評論家・随筆家。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1961年)(学位論文「文学研究の諸問題」)。九州大学教授、名古屋大学教授などを歴任。 1913年、東京府東京市神田区生まれ。錦華尋常小学校、第二東京市立中学校(現東京都立上野高等学校)で学び、その際には福田恆存と同級であった。旧制高知高等学校を経て、東京帝国大学独文科に進んだ。1935年、東京帝国大学を卒業。その後は同大学大学院に進学し、1936年に卒業。翌1937年よりフンボルト財団給費生としてベルリン大学へ留学。1938年、ケルン大学へ移りドイツ文学を学んだ。
植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 20… 植田 正治(うえだ しょうじ、1913年3月27日 - 2000年7月4日)は、日本の写真家。 出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動。前衛的な演出写真は「植田調」として知られ、写真誕生の地であるフランスでも日本語表記そのままに「Ueda-cho」として紹介されている。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)に生まれる。生家は履物店(商号は「下駄屋」)である。 小学生の頃に写真をはじめ、米子写友会、日本光画協会、中国写真家集団、銀龍社などに参加。写真雑誌のコンテストでも、多数の入選を得るなど、戦前、戦中、戦後にかけて活躍。特に1980年代以降、多数の展覧会開催や写真集出版を行った。数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよく知られている。
長谷川 正男(はせがわ まさお、1913年 <大正2年> 3… 長谷川 正男(はせがわ まさお、1913年 <大正2年> 3月27日 - 1990年 <平成2年> 2月16日)は、日本の経営者。日本精工社長、会長を務めた。位階は正四位。 愛知県出身。1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に安田銀行に入行。1961年に日本精工取締役に就任し、1973年12月には社長に就任。1984年7月に会長に就任。 1981年に藍綬褒章を受章し、1986年に勲三等旭日中綬章を受章。 1990年2月16日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって正四位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
井上 正蔵(いのうえ しょうぞう、1913年3月27日 - … 井上 正蔵(いのうえ しょうぞう、1913年3月27日 - 1989年11月2日)は、日本のドイツ文学者。旧・東京都立大学名誉教授。東京出身。 東京市京橋区(現中央区)新富町生まれ[要出典]。東京府立高等学校卒、1935年東京帝国大学文学部独文科卒業。在学中、滝川事件が起こり、滝川シンパとして戦う[要出典]。第11次『新思潮』に参加して小説を書く[要出典]。卒業後は東京帝国大学大学院に残り、1938年専修大学講師、1942年興亜工業大学教授、1945年成蹊高等学校講師、1946年旧制東京高等学校専任講師、1947年教授、1949年東京工業大学助教授、1955年旧・東京都立大学助教授、1963年教授。
高田 秀二(たかだ ひでじ、1913年3月27日 - 199… 高田 秀二(たかだ ひでじ、1913年3月27日 - 1992年2月15日)は、日本のジャーナリスト。 福島県郡山市生まれ。1936年東京帝国大学文学部仏文科卒。同盟通信社、共同通信社の社会部長、パリ支局長、編集局長、筆頭常務理事。日本記者クラブ理事長、電通取締役、財団法人草月会館館長、財団法人科学技術振興財団理事。1972年、1977年の二度、郡山市長選に立候補するが二位落選。 1992年2月15日、胃癌のため死去。 息子は実業家の高田茂行。
戸塚 文子(とつか あやこ、1913年〈大正2年〉3月25日… 戸塚 文子(とつか あやこ、1913年〈大正2年〉3月25日 - 1997年〈平成9年〉11月7日)は、日本の紀行文作家、編集者。1983年(昭和58年)に第1回日本旅行作家協会賞を受賞した。 東京府(後の東京都)日本橋浜町生まれ。父の仕事の関係で、5歳の頃から小学4年までを横浜市神奈川区で過ごし、日本国外への憧れを抱いて育った後に、東京への転居を経て兵庫県神戸市に移った。 1934年(昭和9年)に日本女子大学英文科卒業後、女性として初めてジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)に入社した。東京駅案内所の案内係を経て、同社発行の雑誌『旅』編集部に移り、世界各国の数々の旅行情報を読者へ紹介した。
五代 夏夫(ごだい なつお、1913年3月25日- 2016… 五代 夏夫(ごだい なつお、1913年3月25日- 2016年9月30日)は、日本の作家。 宮崎県(現日向市)生まれ。本名・松尾強。満州建国大学研究院修了。満州国政府に勤務、戦後文筆家となり、1964年「那覇の木馬」で文学界新人賞受賞、芥川賞候補。鹿児島を拠点に地方文化人として活動を続ける。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
永沢 幸七(ながさわ こうしち、1913年3月24日 - 2… 永沢 幸七(ながさわ こうしち、1913年3月24日 - 2010年9月17日 )は、日本の心理学者、東京家政学院大学名誉教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)生まれ。宮城県古川高等学校卒業。東京文理科大学心理学科卒。(筑波大学卒。)同研究科修了。同大助手、非常勤講師をへて東京家政学院大学教授。1984年定年退任、国士舘大学教授。
渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1… 渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1969年1月30日)は、東京出身の俳人。本名威徳(たけのり)。 昭和初期の新興俳句運動において無季派(超季派)の俳人として活躍。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」など、戦争の本質を鋭く突いた「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句が特に知られる。 東京市赤坂区青山(現・港区)生。本籍地は山梨県で、父は同地の地主の息子であったが青山で呉服店を営んでいた。白泉は長男で一人っ子だった。青南尋常小学校、慶應義塾普通部を経て、1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 16歳のとき正岡子規の『子規俳話』を読んで俳句に興味を持つ。大学時代の1933年、水原秋桜子の『俳句の本質』に啓発されて「馬酔木」に投句、翌年より「句と評論」にも投句。
村岡 美枝(むらおか みえ、1913年3月23日 - 没年不… 村岡 美枝(むらおか みえ、1913年3月23日 - 没年不明)は、日本の陸上競技選手。専門は短距離走。 愛知県生まれ。愛知県第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身校の一つ)在学中の1930年にチェコスロヴァキアのプラハで開かれた第3回国際女子競技大会に代表選手として参加する(参加選手は6人で、人見絹枝、本城ハツ、中西みち、村岡美枝、渡辺すみ子、浜崎千代。人見以外は学生選手)。このとき代表の中心としてチームを引率した人見が翌1931年に死去した際に、葬儀で「お姉さんは女子スポーツに貢献されました。その大きな足跡はけっして消えることがないでしょう。私たちは非力ですが、遺志をつぐよう全力を尽くして頑張るつもりです」と弔辞を読んだ。
志摩 靖彦(しま やすひこ、1913年〈大正2年〉3月23日… 志摩 靖彦(しま やすひこ、1913年〈大正2年〉3月23日 - 1991年〈平成3年〉3月16日)は、日本の俳優。本名は嶋 正朶(しま まさえだ)。旧名は島 泰彦。東京府東京市本所区(現・東京都墨田区本所)出身。 1941年に鉄嶺実業学校を卒業。1942年7月に青少年劇場に入団。1943年4月に関西移動演劇隊に移籍。その後1944年10月にNHK大阪放送劇団を経て、1951年2月に獅子座を結成。1964年に大阪音楽大学演劇科講師。1977年に大阪芸術大学演劇科講師を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23… 麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23日 - 2000年(平成12年)4月5日 )は、東京都生まれの洋画家である。 武蔵野美術大学名誉教授。戦中戦後を通して焼けただれ、焦げ付いたような暗褐色に彩られた家族を中心とした人物像や自己の内面を解体デフォルメし、闇の中から浮かび上がるように描き出す作風で知られる。彫刻家の麻生マユは実娘。 1913年(大正2年)3月23日、東京市京橋区本湊町(現在の東京都中央区湊)に麻生惣兵衛、喜代の三男(3男3女の4番目)として生まれる。麻生家は100年以上の歴史をもつ炭問屋、屋号は「山惣」。実家は当時築地の居留区があった明石町にほど近く、洋館が立ち並ぶその場所に麻生は毎日通い、お小遣いでラスクやレーズンなどを買っていた。
金 東進(キム・ドンジン、김동진、日本名:金森東振、1913… 金 東進(キム・ドンジン、김동진、日本名:金森東振、1913年3月22日 - 2009年7月31日)は、韓国の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。現在の北朝鮮平安南道安州市出身で日本の日本音楽高等学校への留学経験もある。日本統治下時代にはハルピンで日本人演奏家を中心として1937年に結成された「新京交響楽団」に参加し、第一バイオリン奏者を務めた。 2008年に親日人名辞典編纂委員会より発表された親日人名辞典に名前が掲載された。2009年7月31日、ソウル特別市にて老衰で亡くなった。96歳。
松崎 芳伸'(まつざき よしのぶ、1913年3月22日 - … 松崎 芳伸'(まつざき よしのぶ、1913年3月22日 - 1997年11月6日 )は、日本の厚生労働官僚。日経連専務理事。 福井県小浜市出身。東京帝国大学卒業。昭和13年厚生省入省。のち労働省、中央労働委員会事務局長など経て、36年退官。厚労省在職中は、児童福祉法を起草した。その後、富士製鉄(現・新日本製鉄)に入社。40年子会社の東海製鉄常務。45年桜田武に雇われて、日経連専務理事に就任。第1次石油危機の際に賃上げガイドラインをまとめるなど、労使交渉の調整にあたった。84歳没。
松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - … 松本 竣介(まつもと しゅんすけ、1912年4月19日 - 1948年6月8日)は、日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。 1912年(明治45年)に東京府渋谷に生まれ、その後、岩手県で育った。17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けた。一方、文筆活動の活発だった画家でもある。中学にあがった時に聴力を失った。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を、本名の「俊介」から「竣介」に改めた。
源氏 鶏太(げんじ けいた、1912年〈明治45年〉4月19… 源氏 鶏太(げんじ けいた、1912年〈明治45年〉4月19日 - 1985年〈昭和60年〉9月12日)は、日本の小説家。富山市出身。旧制富山商業学校(現・富山県立富山商業高等学校)卒。本名、田中富雄。 住友合資会社勤務の傍ら小説を書き始め、『英語屋さん』ほか2編で直木賞受賞。『三等重役』『停年退職』『天上大風』など、長いサラリーマン生活からの体験に基づいたユーモア小説で人気を博した。戦後の昭和を代表するベストセラー作家の一人である。映画化された作品も多い。晩年は幽霊物を多く書いた。 ペンネームの由来は「平家より源氏が好きなこと」と「『鶏』という字が好きで、『鶏太』とすると、昔の武士の名前のようになる」という理由。
白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - … 白井 富次郎(しろい とみじろう、1912年4月18日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。静岡県湖西市出身。愛知製鋼の元社長。湖西市長も務めた。 1930年に静岡県立浜松商業学校を卒業し、1932年12月に豊田自動織機製作所に入社。 1949年11月に取締役に就任し、常務を経て、1963年2月に愛知製鋼専務に就任した。1969年12月に社長に就任し、1980年3月に会長を経て、1985年3月から相談役を務めた。1987年から1992年までに湖西市長も務めた。 1979年5月に藍綬褒章を受章し、1984年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日心不全のために死去。81歳没。
西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - … 西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本のサッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。 選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄や堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。 早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた。 西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された が、本大会での出場機会は無かった。
山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1… 山下 好一(やました こういち、1912年4月17日 - 1997年1月7日)は、和歌山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 20… 水島 廣雄(みずしま ひろお、1912年4月15日 - 2014年7月28日)は、京都府舞鶴市出身の実業家、民法学者。日本興業銀行勤務を経て、そごうの会長、社長を務めた。東洋大学名誉教授、法学博士。担保法の権威としても知られた。
古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月1… 古谷 綱正(ふるや つなまさ、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1989年〈平成元年〉5月11日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。毎日新聞社論説委員、JNNニュースコープメインキャスター。 東京出身。旧制成城高等学校卒業。同校の尋常科(旧制成城第二中学校)時代から非行に走り、喫煙に始まり学校をサボって映画館に入り浸るなどの行為を繰り返し、尋常科4年の際には落第一歩手前の状況となるが、同校のダルトン・プランなどのシステムをフル活用してなんとか落第を免れた。高等科では左翼運動に走り警察に検挙され、事実上停学処分となり3年次の2学期と3学期は期末試験すら受けていない状態だったが、どういうわけか落第にもならず卒業できた。
薦田 国雄(こもだ くにお、1912年4月15日 - 19… 薦田 国雄(こもだ くにお、1912年4月15日 - 1997年10月2日)は、日本の経営者。 香川県三豊郡豊浜町出身。1936年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に東邦ガスに入社。1962年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1975年3月に社長に就任し、1984年6月には会長に就任。テレビ愛知監査役、中部日本放送取締役、東海旅客鉄道取締役なども歴任。 1973年10月に藍綬褒章を受章し、1986年5月に勲二等旭日重光章を受章。 1997年10月2日急性心不全のために死去。85歳没。
戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15… 戸川 幸夫(とがわ ゆきお、1912年〈明治41年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉5月1日)は、日本の小説家、児童文学作家。動物に関する正しい観察・知識を元にして動物文学を確立させ、日本においては椋鳩十と並ぶ第一人者(特に闘犬に関する作品が多い)。 それまでは噂のみの存在だったイリオモテヤマネコの標本を今泉吉典にもたらし、新種発見に大きく貢献したことでも知られる。ルポルタージュ、戦記物語などの作品もあり、漫画原作も手がけた。 佐賀市に生まれ、1歳の時に、医師で、またハンターでもあった戸川益勇の養子となる。10歳までは福岡県若松市及び八幡市(いずれも現・北九州市)で育つ。幼少から動物好きで、動物学者になることを志し、動物に関する本を耽読した。
古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 19… 古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 1995年8月29日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史・農業史。東京大学名誉教授。 1912年、長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で生まれた。飯田中学校を経て、1932年3月第八高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。1936年3月に同大学を卒業。 1939年10月、東京帝国大学農学部講師に就任。 1948年10月、東京大学農学部助教授となった。1949年、学位論文『元禄時代に於ける農学の発達とその地盤』を東京大学に提出して農学博士号を取得。 1959年、東京大学農学部教授に昇格。翌1960年から日本経済史講座の担当者が戦死したため空席になっていた一橋大学経済学部教授を併任し、永原慶二とともに中村政則、西田美昭ら多くの後継者を育てた。
澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 … 澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の政治家。初代阿南市長。早稲田大学法学部中退。徳島県阿南市日開野町出身。 早稲田大学法学部を中退後、旧富岡町収入役・町長を歴任。 1958年(昭和33年)5月に阿南市が発足し、初代市長に就任。1970年(昭和45年)まで12年間に渡り阿南市長を務めた。市長在任中は旧神崎製紙、阿南工業高等専門学校、徳島県立阿南工業高等学校等の誘致や各産業の振興に努めた。市長退任後は社会福祉協議会会長、四国治水期成同盟会会長、阿南信用金庫理事長等を歴任した。 1986年(昭和61年)の没日をもって阿南市名誉市民に選定される。
杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006… 杉江 清(すぎえ きよし、1912年4月13日 - 2006年8月1日)は、日本の文部官僚。文部省大学学術局長、国立科学博物館長、公立学校共済組合理事長などを歴任した。 愛知県出身。東京商科大学付属商業教員養成所を経て、1941年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。大学では米谷隆三ゼミナールに参加。 東京明治工業専門学校(現明治大学理工学部)教授、文部省初等中等教育局職業教育課長、文部省初等中等教育局中等教育課長、文部省大臣官房人事課長、文部省調査局長を経て、文部省体育局長として東京オリンピックの準備にあたった。 1962年1月から文部省管理局長を務めたのち、1964年から文部省大学学術局長として大学の学部学科増設や大学闘争への対応などにあたった。
小室 栄一(こむろ えいいち、1912年4月12日 - 没年… 小室 栄一(こむろ えいいち、1912年4月12日 - 没年不詳)は、日本の歴史学者。 東京生まれ。1934年に成城高等学校文科甲類を卒業し、東京帝国大学文学部言語学科に入学。その後、西洋史学科に転科し、大類伸に学び、卒業論文「中世英國城廓形式の研究」をまとめ、1937年に卒業。同年、同大学大学院に入学し、1941年修了。この間、1939年に日本大学予科講師となり、1942年4月に日本女子大学教授、1949年4月に東洋大学文学部史学科助教授、1951年同大学教授。1954年4月に明治大学文学部歴史地理学科教授となり、1983年に定年退職。 専門は西洋史であるが、1958年から関東地方の中世城郭の調査研究を行った。
環 昌一(たまき しょういち、1912年4月12日 - 19… 環 昌一(たまき しょういち、1912年4月12日 - 1993年3月8日)は、日本の裁判官、司法官僚、弁護士。最高裁判所判事。徳島県出身。 1936年に東京帝国大学法科卒業。司法官試補から1937年12月裁判官となり横浜地裁や甲府地裁、東京地裁などに勤務。1943年10月に司法省民事局へ、終戦の1945年8月に再び裁判官に返り咲き、高松控訴院判事、徳島地裁判事、最高裁調査官などを歴任した。 1948年1月に司法省調査課(のちに調査部、秘書課)に転じ、1949年1月に検事となり、法務庁調査意見第一局長補佐、行政訴訟局第一課長などを務めた。会社法の改正作業に携わったが、占領軍との折衝の仕事が多く「ばかばかしくなって」1950年7月に退職して弁護士に転身。
石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10… 石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10日 - 2001年(平成13年)1月12日)は、日本の造船技師(専門は舶用内燃機関、造船の生産技術・品質管理などの生産管理全般)、海軍軍人(予備将校)、実業家である。最終階級は海軍中尉。従七位。とくに、戦時急造された海防艦の専門家であり、戦時中、御蔵型など40隻の海防艦を竣工させた。戦後は、南極観測船の建造にも関わった。ブロック工法(ブロック建造方式)による艦船建造の先駆者の一人。 佐賀県神埼市出身。生家は佐賀藩主鍋島家の藩祖以来の外戚家門石井家。初代藩主鍋島勝茂の従兄石井茂成の8代目の子孫という。 神埼市立神埼小学校を経て、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀西高等学校)に進学。
西 忠雄(にし ただお、1912年4月10日 - 1998年… 西 忠雄(にし ただお、1912年4月10日 - 1998年1月25日)は、日本の建築構造工学者。専門は建築材料。東京大学名誉教授。第32代東洋大学学長(1982年9月 - 1985年9月)。工学博士。東京都生まれ。 1937年(昭和12年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、同年に大阪窯業セメント株式会社に就職。1942年(昭和17年)に内務省技師を経て、1947年(昭和22年)建設省建築研究所第二研究部(材料)勤務。1948年(昭和23年)、北海道大学助教授に就任。1951年(昭和26年)、同大学の教授に就任。1962年(昭和37年)、東京大学教授に転任。1973年(昭和48年)、定年退官。
東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)… 東井 義雄(とうい よしお/ぎゆう、1912年(明治45年)4月9日 - 1991年(平成3年)4月18日)は、「いのちの教育」の探求に尽くした日本の教育者、浄土真宗僧侶。 兵庫県出石郡合橋村佐々木(現・豊岡市)にある浄土真宗の東光寺に生まれる。1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業した。卒業後、豊岡小学校赴任を皮切りに小学校教師として奉職、多くの著作を著す。1972年(昭和47年)に八鹿小学校校長を最後に定年退職。翌年4月より姫路学院女子短期大学、兵庫教育大学の講師を務め、1987年(昭和62年)辞任。55年間の教員生活に終止符を打つ。1991年(平成3年)急性硬膜下出血で逝去。東光寺住職。
末広 義一(末廣、すえひろ よしかず、1912年 <明治45… 末広 義一(末廣、すえひろ よしかず、1912年 <明治45年> 4月7日 - 1999年 <平成11年> 11月7日)は日本の大蔵官僚。位階は正五位。 愛媛県三間町出身。若いころに大阪の税務署に入り、苦学して関西大学専門部法科を卒業。1951年4月 主計局大蔵第一係主査。1953年4月1日 主計局主計官(給与課)。1954年5月15日 主計局主計官(総務課(予算総括係担当))。1958年4月26日 主計局司計課長。1961年 東北財務局長。1963年5月 退官。同年 金属鉱物探鉱融資事業団監事。1964年 金属鉱物探鉱促進事業団理事。1971年 海外鉱物資源開発監査。1972年 同取締役。1974年 常務。
塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001… 塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001年3月20日)は昭和-平成時代の日本画家。 明治45年(1912年)4月6日、広島県福山市生まれ。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科に入学。主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事し、昭和12年(1937年)より院展で活躍。