岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - … 岡田 鯱彦(おかだ しゃちひこ、1907年12月28日 - 1993年8月4日)は、日本の国文学者、推理作家、小説家。本名は、岡田藤吉。 東京生まれ。東京物理学校(現 東京理科大学)を卒業した後、1935年第一高等学校卒、東京帝国大学文学部国文科に入学し、1938年卒業。1940-45年名古屋陸軍幼年学校の教官を務めた。第二次大戦後、東京青年師範学校教授[要出典]、1949年から東京学芸大学教授、1971年定年、聖徳学園短期大学教授、淑徳短期大学教授。 作家としての活動もあり、『源氏物語』や『雨月物語』といった古典に取材した作品がある。1949年、ユーモア小説「天の邪鬼」が懸賞に当選。同年に『宝石』誌の第3回懸賞募集に応募した「妖鬼の呪言」が短篇懸賞の選外佳作となり、また「噴火口上の殺人」が『ロック』誌の第2回懸賞募集に1席入選し、同誌に掲載された。
平井 嘉一郎(ひらい かいちろう、1907年12月24日 -… 平井 嘉一郎(ひらい かいちろう、1907年12月24日 - 2001年1月20日 )は、京都府中郡大宮町(現・京丹後市)出身の実業家。ニチコン社長・会長。 1940年(昭和15年)、立命館大学法学部を卒業。1951年(昭和26年)、経営難に陥っていた関西二井製作所に経営者として入り、1957年(昭和32年)に社長就任。1961年(昭和36年)に社名を日本コンデンサ工業株式会社に変更。その後会長に就任し、現在のニチコンの事実上の創業者として会社の礎を築いた。2001年(平成13年)1月20日に93歳で亡くなった。 2009年(平成21年)には故郷の京丹後市大宮町にある京丹後市立大宮図書室に、平井嘉一郎財団からの寄付によって平井嘉一郎文庫が設置された。
星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月… 星 冬四郎(ほし とうしろう、1907年(明治40年)12月23日 – 1989年(平成元年)8月7日 ) は、日本の農学者。家畜生理学を専門とした東京大学農学部教授、同名誉教授である。「馬の不妊症に関する内分泌学的研究」で東京帝大農学博士、「哺乳期における卵巣機能に関する研究」で日本農学賞を受賞。家畜繁殖研究会会長。 「ラットの卵巣静脈血中の黄体ホルモンの化学的測定法の確立に関する研究」は世界で最初の取り組みで、のちに体外受精、胚移植へと発展した。昭和38年度の日本農学賞を受賞した「ラットの哺乳期における内分泌機能に関する研究」(「哺乳期における卵巣機能に関する研究」)は低受胎症の改善に、「家畜不妊症に対する性腺刺激ホルモンの応用に関する研究」は家畜繁殖障害のホルモン療法に貢献した。
土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉… 土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉12月23日 - 1992年〈平成4年〉12月18日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。 鳥取県米子市出身。土井親男の三男。生家は米子東倉吉町、鉄砲火薬の土井親男商店。 1929年に青山学院高等部商科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1967年5月に副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年12月18日に急性心筋梗塞のために死去。84歳没。 長年テニスで身体をきたえた。
青井 政美(あおい まさみ、1907年〈明治40年〉12月2… 青井 政美(あおい まさみ、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1991年〈平成3年〉1月29日)は、日本の農業協同組合指導者、実業家、政治家。位階は正五位。参議院議員(1期)。 愛媛県越智郡、のちの今治市で生まれる。1927年(昭和2年)東洋商業学校(現東洋高等学校)を卒業。繊維関係の商業に従事した。 富田村農業会会長、愛媛県経済農業協同組合連合会会長を務める。1947年(昭和22年)愛媛県議会議員に選出され2期在任し、同副議長も務めた。愛媛県農協四連会長、全国農業協同組合連合会代表監事などを歴任した。1969年(昭和44年)に長年、農業関係団体要職に就いて育成指導に努め技術普及畜産振興を図り農業発展に寄与したとして藍綬褒章受章。
御子柴 博見(みこしば ひろみ、1907年12月22日 - … 御子柴 博見(みこしば ひろみ、1907年12月22日 - 2005年11月24日)は日本の地方公務員。元東京都副知事。 長野県生まれ。一家で上京し、旧制東京府立第一中学(東京都立日比谷高等学校)、旧制松本高校文科を経て、1930年東京帝国大学卒業。東京市役所入庁。東京都衛生局総務部長、総務局監査部長、人事部長、人事委員会事務局長、都東京五輪準備事務局長、総務局長を歴任。 東龍太郎都知事の下、1963年から1967年まで副知事を務め、1964年の東京五輪開催に関わる。退任後は首都高速道路公団副理事長、特別区人事委員会委員長、東京厚生信用組合理事長、虎ノ門コンサルタンツ監査役、東京都体育協会副会長、日本体育評議会評議員、東京都スポーツ振興審議会長、日本プロ野球選手会理事、社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会理事長などを歴任。
長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12… 長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1981年〈昭和56年〉5月6日)は、日本の作曲家。 作曲を信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事。1931年東京音楽学校師範科卒業。1933年同研究科作曲聴講生修了、日本ビクターに所属。1937年、宝塚歌劇団作曲部に所属。1938年ドイツに渡り、ベルリン国立歌劇場でオペラを研究し、1940年帰国。1946年、東京音楽学校作曲科教授に就任。1949年、学制移行により東京芸術大学教授となる。1975年、同大学名誉教授となる。1979年、勲三等瑞宝章を受章。1981年、心不全のため死去。 音楽教育に力を注ぎ、著書に『作曲法教程』『大和声学教程』『対位法』などがある。
椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - … 椎名 時四郎(しいな ときしろう、1907年1月19日 - 2007年12月3日)は、日本の実業家。栃木県出身。元住友商事副会長。 1924年(大正13年)、旧制栃木県立栃木中学校(現 栃木県立栃木高等学校)修了。東京商科大学(現 一橋大学)卒業。元住友商事副会長。1973年(昭和48年)、(財)日本ラグビーフットボール協会会長に就任。1979年(昭和54年)、同 名誉会長に就任。1995年(平成7年)、同 名誉相談役に就任。 2007年12月3日、肺炎により100歳で死去。
江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日… 江藤 智(えとう あきら、1907年(明治40年)1月19日 - 1982年(昭和57年)6月26日)は、日本の鉄道官僚、政治家。工学博士。位階は従三位、勲等は勲一等。 山口県下関市貴船町で陸軍将校・江藤鋪の二男として生まれた。文関尋常小学校(現下関市立文関小学校)、豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)、旧制第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、京都帝国大学工学部土木工学科を卒業。同年4月、鉄道省に入省した。 函館保線事務所長、大臣官房幹線調査課勤務、広島鉄道局施設部長、本省施設局停車場課長、同施設局次長、札幌鉄道局長、兼北海道営業支配人、本省施設局長、日本国有鉄道理事などを歴任。 1952年(昭和27年)7月30日、『重力操車場の設計について』により京都大学から工学博士の学位を授与された。
菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 199… 菅野 矢一(すがの やいち、1907年1月19日 - 1991年6月15日)は、洋画家、日本芸術院会員。本名は彌一。 山形市生まれ。山形商業学校を中退した後、小学校代用教員や会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、1936年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。1939年から安井曾太郎に師事し、翌年一水会展に初入選。1953年に渡仏し、グラン・ショーミエールで、ゴエルグやクラヴェに師事する。1954年に帰国した後、日展への入選を重ね、日展評議員、同参事、日展顧問などを歴任した。1982年「くるゝ蔵王」で日本芸術院賞受賞、1986年日本芸術院会員。 『菅野矢一画集』(日動出版部 1990)がある。
和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18… 和田 耕作(わだ こうさく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 2006年〈平成18年〉7月4日)は、日本の政治家。元民社党衆議院議員。板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問 。高知県出身。1984年勲二等旭日重光章受章。 旧制高知高等学校を経て、1930年に京都帝国大学経済学部を卒業。1934年南満州鉄道に入社、調査部に勤務する。1937年企画院調査官となる。1941年の「企画院事件」では和田博雄・勝間田清一らとともに検挙される。翌1942年応召。 戦後はソ連に5年間抑留され、その経験から反共産主義の立場を取るようになる。日本フェビアン協会事務局長を務め、1960年に民主社会主義研究会議を創設して事務局長に就任、同時に民主社会党の結成に参画、1967年の衆議院議員選挙に民社党公認で旧東京4区から出馬し初当選。
高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 … 高木 卓(たかぎ たく、1907年〈明治40年〉1月18日 - 1974年〈昭和49年〉12月28日)は、日本の小説家、ドイツ文学者、音楽評論家。本名は安藤 煕(あんどう ひろし)。 ヴァイオリニストで、女性初の文化功労者に選ばれた安藤幸と、英文学者・安藤勝一郎の子として東京市本郷区西片町に生まれる。東京帝国大学独文科卒。 水戸高等学校や第一高等学校教授などをつとめながら、同人雑誌『作家精神』に小説を書いた。1936年「遣唐船」で芥川賞候補、1940年(昭和15年)、大伴家持を描いた歴史短篇「歌と門の盾」で芥川賞を授与されるが辞退する。菊池寛は「恥を掻かされた」と言って怒っている。高木は、自分が辞退すれば『作家精神』の桜田常久がくりあげ受賞すると誤認したという説もある(桜田は次回受賞)。
諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 20… 諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 2002年4月16日)は、日本の政治家。元長崎市長(在任1967年 - 1979年)。 熊本県出身。長崎高等商業学校卒業後、長崎市内で底引き網の網元の支配人となる。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市内の自宅で原爆投下に遭遇。水を求めながら亡くなった被爆者を多数目撃した体験から、市長就任後に平和公園内に「平和の泉」を造らせている。1947年(昭和22年)より長崎市議会議員を2期、1955年(昭和30年)より長崎県議会議員を3期務め、この間1963年5月~1964年12月まで副議長になった。1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で執行された長崎市長選に出馬し当選、以後1979年(昭和54年)4月の市長選で本島等に敗れるまで3期12年間長崎市長を務めた。
吉河 光貞(よしかわ みつさだ、1907年1月16日 - 1… 吉河 光貞(よしかわ みつさだ、1907年1月16日 - 1988年4月17日)は、日本の検察官、司法・法務官僚。 東京府生まれ。京華中学、第一高等学校 (旧制)(一高)を経て、東京帝国大学法学部に入学。在学中は新人会に属し田中清玄らと並び称され、日本共産党にも入党した。1930年(昭和5年)大学卒業、直後に離党。 1932年司法官試補となり、各地の裁判所で検事を務める。東京地方裁判所時代には主任検事(思想検事)として1941年のゾルゲ事件の捜査に参加、リヒャルト・ゾルゲを取り調べた。 戦後は公職追放を免れ、法務庁事務官を経て1948年(昭和23年)に設置された法務庁特別審査局(後の公安調査庁)の初代局長、翌1949年に改称された法務府でも局長などを務めた。
藤島 達朗(ふじしま たつろう、1907年1月16日 - 1… 藤島 達朗(ふじしま たつろう、1907年1月16日 - 1985年1月24日)は、日本の仏教史学者。大谷大学名誉教授。浄土真宗大谷派講師。 1907年、島根県美保関町で生まれた。1929年、大谷大学文学部国史学科を卒業。大谷大学文学部助教授となり、後に教授昇格。1962年に学位論文『我国古代に於ける浄土教思想の研究』で大谷大学より文学博士の学位を取得。1978年に大谷大学を定年退職し、名誉教授となった。また、奈良大学教授、真宗大谷派講師も務めた。
三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月… 三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月16日 - 1990年 <平成2年> 10月20日)は、日本の経営者、バスケットボール選手。全国農業協同組合連合会会長を務めた。位階は従四位。 鳥取県鳥取市出身。1933年に京都帝国大学農業経済科を卒業。山陰日日新聞社取締役などを経て、1955年に鳥取県議員となり、後に副議長も務めた。1957年6月に全国購買農業協同組合連合会会長に就任し、1972年3月には全国農業協同組合連合会会長に就任。 バスケットボール選手としても活躍し、1934年には極東大会に出場し、1936年のベルリン・オリンピックでは、日本代表チームのヘッドコーチを務め、1967年11月には日本バスケットボール協会理事長に就任。
福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 -… 福島 慎太郎(ふくしま しんたろう、1907年1月15日 - 1987年4月2日)は、日本の外交官、内閣官房次長、調達庁長官。 東京都出身。礫川小学校、旧制府立五中、旧制一高を経て、東京帝国大学法学部卒。1930年に外務省入りし、英語研修(米国)、フィリピン在勤などを経て1947年から内閣総理大臣秘書官、同年終戦連絡大阪事務局長、1948年の大阪連絡大阪事務局長。同年芦田内閣では内閣官房次長(現在の内閣官房副長官)に就任。 1949年9月に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の球団社長となり、1951年からはパシフィック・リーグ会長も兼ねて日本プロフェッショナル野球協約制定の中心役となった。
木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15… 木下 昇(きのした のぼる、1907年〈明治40年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の政治家。初代名和町長。 鳥取県出身。木下鶴吉の養嗣子となった。米子中学校(現・米子東高校)卒業後、農耕に精励する。民生委員、農業会常務理事、農業委員、県郡養蚕連副会長監事、小学校PTA会長、村会議員、鳥取県町村長会副会長等を歴任した。 1950年(昭和25年)11月から1954年(昭和29年)3月まで光徳村長を務めた。その後、合併で発足した名和町長を同年4月から1966年(昭和41年)4月まで務めた。 住所は鳥取県西伯郡名和町大字東坪(現・大山町東坪)。
竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-199… 竪山 利忠(たてやま としただ、1907年1月15日-1993年12月6日)は、日本の労働運動家・社会学者(労働社会学)。創価大学名誉教授・拓殖大学元教授。戦前は社会主義運動から日本共産党で活動し、転向後は寧ろ反共・右派の労働運動の理論家となった。電機労連委員長から民間連合会長になった竪山利文は弟。 鹿児島県谷山村(現・鹿児島市の一部)松崎に生まれる。1924年3月、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を卒業。1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)文科を卒業し、同4月に東京帝国大学経済学部経済学科入学。帝大入学と同時に新人会に入り、浜松日本楽器大争議に派遣される。新人会幹事長を経て日本共産青年同盟に加盟。
真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 20… 真下 三郎(ましも さぶろう、1907年1月15日 - 2007年3月7日)は、日本の国語学者、広島大学名誉教授。専攻は近世文学・国語学。女性語について研究した。 京都府京都市出身。1933年、東京帝国大学国語国文学科卒。広島文理科大学助教授、広島大学教授。1971年、定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。 2007年3月7日、慢性腎不全のため死去。100歳没。 真下は多彩な文献から多くの用例を収集し、そこから言語体系を抽出するよりも、個々の用例そのものを検討した。言語体系の抽出が現代言語学の要件だとすれば、一見すると真下は古いタイプの国語学者のように思えるが、そもそも真下が研究活動に従事していた当時は、ソシュールを批判した時枝誠記の言語過程説が強い影響力を持っていた時期でもあることから、真下が体系の抽出ではなく個々の用例に目を向けたのは、差異や体系に言語の本質を求めるソシュールへの批判が込められていたとされる。
渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年… 渡辺 惣蔵(惣藏、わたなべ そうぞう、1907年(明治40年)1月15日 - 1985年(昭和60年)1月25日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員。 北海道札幌郡札幌村大字苗穂村(現:札幌市東区苗穂町)で生まれる。小学校卒業後、農業をしながら通信教育で学び、1929年、日本大学専門部政治科を卒業。 日大在学中から無産政党運動に加わる。1932年、武蔵野館争議など多くの映画争議を指導した。全国大衆党中央委員、労農大衆党中央委員、社会大衆党中央委員、同中央青年隊長、全国労働組合同盟中央委員・出版部長、全国映画劇場従業員組合書記長、豊島区会議員などを歴任。1938年、人民戦線事件で検挙され一年半にわたり拘留された。
陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(… 陸奥 イアン 陽之助(むつ イアン ようのすけ、1907年(明治40年)1月14日 - 2002年(平成14年)10月30日)は、日本のジャーナリスト、映画監督・プロデューサー、実業家、華族(伯爵)。インタナシヨナル映画社の創業者。身長180cm。 勲功華族の陸奥家に生まれる。父は陸奥宗光の長男で2代伯爵の陸奥廣吉。母はイギリス出身のイソ(ガートルード・エセル・パッシングハム)。日本名の陽之助は祖父・宗光の通称でもあった。廣吉が外交官としてロンドンに赴任していた時のアパートで午後11時20分に誕生した。誕生の際には2人の医者ブラントとアディルセンが付き添った。3歳の時に初来日する。家のあった鎌倉の小学校や学習院初等科への入学を考えたが「アイノコ」といじめられていたため断念、家庭教師に学んだ。
鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日… 鈴木 壽(すずき ひとし、1907年(明治40年)1月14日 – 1970年(昭和45年)8月30日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。 秋田県南秋田郡北浦町(現男鹿市北浦)で生まれる。1926年(大正15年)秋田県師範学校を卒業し、さらに同校専攻科を1933年(昭和8年)に卒業した。1926年に小学校教員となり、1946年(昭和21年)高清水小学校長、1947年(昭和22年)高清水中学校長に就任。1946年、秋田県教職員組合が結成され初代委員長に就任し4期在任した。 1947年、秋田県議会議員に当選して連続3期在任した。1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙に秋田県地方区から日本社会党公認で出馬して初当選。
山田 久就(やまだ ひさなり、1907年1月13日 - 19… 山田 久就(やまだ ひさなり、1907年1月13日 - 1987年12月15日)は、日本の外交官、政治家。位階は正三位。 第9代環境庁長官。衆議院議員(4期)。 父は高岡新報(現在の北日本新聞)元社長の山田久太郎。 1907年京都市生まれ。富山県東礪波郡広塚村(後の福野町、現在の南砺市)出身。旅順中学校、第四高等学校卒業。1929年に東京帝国大学法学部を卒業した後、外務省に入る。同期に朝海浩一郎(駐米大使)や大野勝巳(駐英大使)など。外務事務次官や駐ソ連特命全権大使等を務めた後、1967年の第31回衆議院議員総選挙に旧東京8区から立候補し当選する。 1973年に外務政務次官となり、1977年発足の福田赳夫改造内閣において環境庁長官となる。
田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月1… 田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月12日 - 1991年(平成3年)10月21日 )は、日本の法学者。一橋大学名誉教授。法学博士。専門は公法学(憲法・比較憲法・行政法)。キリスト教徒であったが、キリスト教徒の殉職自衛官の訴訟では国側の証人として、宗教上の人格権を否定した。美濃部達吉門下。弟子に長谷川正安、杉原泰雄、山内敏弘など。 1907年(明治40年)1月12日、静岡県三島市に生まれる。1923年(大正12年)、徳島県立徳島中学校卒業。1927年(昭和2年)、第一高等学校文科乙類卒業。1929年(昭和4年)12月、高等試験司法科合格。1930年(昭和5年)、東京帝国大学法学部法律学科卒業。
真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明… 真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明)は、京都府出身のプロ野球選手(二塁手,遊撃手)、パシフィック・リーグ審判員。
田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月1… 田上 穰治(たがみ じょうじ、1907年(明治40年)1月12日 - 1991年(平成3年)10月21日 )は日本の法学者。専門は公法学(憲法・比較憲法・行政法)。一橋大学名誉教授。美濃部達吉の弟子。クリスチャン。
山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月… 山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月11日 - 1978年(昭和53年)9月30日)は、日本の小説家。位階は従四位。 歴史小説を中心に活躍。本名は藤野庄蔵(ふじの しょうぞう)。『徳川家康』により第2回吉川英治文学賞を受賞。日本を守る会の代表委員を務めた。 自由党元衆議院議員の山岡賢次は養子。立憲民主党衆議院議員の山岡達丸は孫。 新潟県北魚沼郡小出町大字佐梨(現:魚沼市佐梨)の山内家に生まれる。1920年11月3日、高等小学校2年次に中退し上京。神田区中猿楽町(現・千代田区神田猿楽町)の平賀印刷所で働き始める。その後、母方の親戚である博文館印刷所に移り、文選工として働きつつ逓信省の研修所に学ぶ。
畠中 敏郎(はたけなか としお、1907年1月10日 - 1… 畠中 敏郎(はたけなか としお、1907年1月10日 - 1998年6月25日)は、フランス文学・比較文学者。 高知県香美郡岸本町(現香南市香我美町)出身。1927年大阪外国語学校仏語科卒、京都帝国大学助手、1931年大阪外語専任講師、1936年助教授、1938年教授、1944年陸軍教授となりサイゴンに勤務、1946年復員、1947年天理語学専門学校教授、1949年天理大学教授、1951年大阪外国語大学教授、1955年初めての渡仏、1971年定年退官、名誉教授、琉球大学教授を務めた。フランス政府より数次にわたりシュヴァリエに叙勲される。南仏について研究、プロヴァンス語も研究し、のち琉球の芸能についても論をなした。
藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10… 藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10日 - 1990年(平成2年)3月16日)は、朝日新聞記者、関西学院大学社会学部教授などを務めた、日本のジャーナリスト、新聞学研究者。 愛媛県新居郡氷見町(後の西条市)に生まれる。1924年に愛媛県立西条中学校を卒業して、4年生の専門学校であった関西学院文学部社会学科に進み、1928年に卒業した。在学中は、河上丈太郎に師事した。 同年、大阪時事新報社に入り、1931年に大阪朝日新聞社へ転じた。1944年に出版局編集部次長兼『週刊朝日』副編集長となり、その後は在阪の出版局、整理部関係の役職を歴任して1962年に定年退職し、客員となった。この間、1945年には、収集していた新聞関係文献資料を大阪朝日新聞社に寄贈し、その目録が『藤原恵文庫目録』として出版された。
稲垣 昌子(いながき まさこ、1907年1月10日 - 19… 稲垣 昌子(いながき まさこ、1907年1月10日 - 1981年10月6日)は、日本の児童文学作家。 東京生まれ。旧姓・藤原。東京高等女学校卒、大阪の梅花女子専門学校(現梅花女子大学)卒、早稲田大学英文科卒。早大図書館に四年間勤め、稲垣達郎と結婚。1955年前後から児童文学同人誌『だ・かぽ』に作品を発表。 1965年、『マアおばさんはネコがすき』でNHK児童文学賞奨励賞、日本児童文学者協会賞受賞。
飛嶋 繁(とびしま しげし、1907年1月10日 - 198… 飛嶋 繁(とびしま しげし、1907年1月10日 - 1986年2月1日)は、日本の政治家および実業家。衆議院議員、藤沢市長および飛島組社長を務めた。父親は、飛島組の実質創業者である貴族院議員の飛嶋文吉。
北 猛夫(きた たけお、1907年〈明治40年〉1月9日 -… 北 猛夫(きた たけお、1907年〈明治40年〉1月9日 - 1979年〈昭和54年〉9月1日)は、日本映画の美術監督、プロデューサー、東宝ビルト代表取締役社長。日本映画・テレビ美術監督協会初代理事長。大阪府出身。 弟の北辰雄も映画美術監督。 初期は久保一雄を助手として活躍し、前紀は青柳信雄監督や実写版サザエさんシリーズを中心に、後期は本多猪四郎監督作品やゴジラシリーズ、特撮映画の本編美術監督として活躍する。現代劇、時代劇を問わず、リアリティのある美術設計を得意とした。
蘆原 英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1… 蘆原 英了(あしはら えいりょう、1907年1月9日 - 1981年3月2日)は、日本の音楽・舞踊評論家。本名は敏信。 昭和20年代から40年代にかけて、バレエ評論家の第一人者として活躍した。藤田嗣治の甥。 滋賀県大津市で軍医の四男として生れ、1931年慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。1932年、フランスに留学し、バレエ、シャンソン、演劇を学ぶ。 帰国後、中央公論社に入社。戦後は雑誌「婦人公論」の編集長となる。また、バレエ、シャンソン、演劇の評論家となる。1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加する。 1957年『巴里のシャンソン』で毎日出版文化賞受賞。1962年にフランス政府から芸術文化勲章をうける。
林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日… 林 敬三(はやし けいぞう、1907年(明治40年)1月8日 - 1991年(平成3年)11月12日)は、日本の内務官僚、陸上自衛官。東京帝国大学卒業(法学部卒)。初代統合幕僚会議議長。第11代日本赤十字社社長。陸軍中将林弥三吉の息子である。正三位勲一等旭日大綬章。
森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月… 森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月8日 - 1982年〈昭和57年〉11月18日)は、戦時中から戦後にかけて日本における農業実習を説いた人物である。 福岡県田川郡香春町生まれ、福岡県立田川農林高等学校を経て鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)、農林省(現・農林水産省)を経て、秋田県農業試験場で研究員として勤務していたが、第二次世界大戦で森友三治(満州国副参事官、満州国にて死亡)、森友一(日本海軍、戦死)が亡くなり森友家の跡継ぎ不在となったため、福岡県へ帰郷。帰郷後も農業研究の経験を活かし、農業実習の指導や農村における副業についても研究・指導、また国連職員としてモンゴルでの農業普及にも貢献した。
徳田 進(とくだ すすむ、1907年〈明治40年〉1月7日 … 徳田 進(とくだ すすむ、1907年〈明治40年〉1月7日 - 1998年〈平成10年〉4月23日)は、日本の国文学者。高崎経済大学第4代学長、同名誉教授。 群馬県高崎市宮元町生まれ。高崎中学校(群馬県立高崎高等学校の前身)卒、群馬師範学校専攻科卒。 1939年(昭和14年)東京女子高等師範学校助教授。1941年(昭和16年)、東京文理科大学国文科選科修了。1945年(昭和20年)9月、群馬師範学校教授。1953年(昭和28年)、高崎市立短期大学教授。 1956年(昭和31年)、「二十四孝の研究 特に近古近世の日本文学との交渉を中心として」で、東洋大学より文学博士。1957年(昭和32年)、高崎市立短期大学からの改組により高崎経済大学教授。
池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1… 池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1907年1月7日-1989年5月24日)は、日本のジャーナリスト、元琉球新報社社長。
西郷 隆秀(さいごう たかひで、1907年1月7日 - 19… 西郷 隆秀(さいごう たかひで、1907年1月7日 - 1985年4月24日)は、日本の学校経営者。学校法人拓殖大学理事長、顧問。 鹿児島県鹿児島市出身。西郷菊次郎の三男。1931年3月拓殖大学商学部卒業。1954年から拓殖大学評議員、理事。1955年3月から1964年6月まで拓殖大学理事長を3期務める。矢部貞治拓殖大学総長と戦後の学園復興を進めた。拓殖大学顧問や国際協力技術研修財団理事長なども務めた。1985年4月24日心肺不全で死去(78歳没)。 拓殖大学では同大学の『西郷隆秀顕彰記念外国人留学生奨学金』の創設者として知られる。また八王子キャンパスの購入仮契約の際の理事長でもある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
天坊 裕彦(てんぼう ひろひこ、1907年(明治40年)1月… 天坊 裕彦(てんぼう ひろひこ、1907年(明治40年)1月7日 - 1984年(昭和59年)8月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。日本国有鉄道副総裁、参議院議員(2期)。 京都府で天坊幸彦の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年4月、鉄道省に入省して鉄道属に任官し大臣官房に配属された。 以後、松阪駅長、大阪鉄道局庶務課文書掛長、鉄道省事務官、中支那派遣軍特務部附、興亜院事務官、鉄道局参事、鉄道調査部書記官・鉄道調査部第一課長、業務局事業課長、運輸通信省自動車局業務部監理第三課長、華中鉄道参事、運輸省鉄道総局勤務、北海海運局長、運輸省大臣官房長、大阪鉄道局長などを歴任。
荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年… 荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年12月30日)は、小説家、思想家、文化運動家、地方雑誌「日本談義」を発行、熊本地方の文化に貢献した。 阿蘇郡長陽小学校校長荒木民次郎の長男として生まれる。母富香も同じ小学校に勤務していた。5歳時、母はなくなり父は後妻を娶る。小学校卒業後、熊本市船場町の逓信講習所に入る。郵便局の推薦でないので熊本郵便局の臨時事務員や福岡県大川の郵便局に勤務する。同僚のものが軽微な過失で懲戒免職になったので、憤慨して辞表を提出した。「懲戒免職」は彼の最初の小説である。父は現菊池市で隈府女子技芸学校を設立したので加勢をした。父の死後は義母荒木スヱヲが続けた。
田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992… 田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992年1月18日)は、日本の映画監督、演出家。 1926年、松竹蒲田撮影所に入所。以後、帝国キネマ、阪東妻三郎プロダクション、タカマツ・アズマプロダクション、東亜キネマなどでスタッフとして転々とした後、1931年に河合映画で監督デビュー、翌1932年に新興キネマへ移籍した。 松竹、東宝との三社競作だった『美しき鷹』や『亜細亜の娘』などの作品を残すも、やがて新興キネマは国策統合により大日本映画製作株式会社となり、田中はそこへ移籍。その第一作『香港攻略 英國崩るゝの日』はその年のキネマ旬報ベスト・テン入りを果たす。 戦中・戦後にかけて多くのプログラムピクチャーを監督。
片岡 美智(かたおか みち、1907年1月6日 - 2012… 片岡 美智(かたおか みち、1907年1月6日 - 2012年10月30日)は、日本のフランス文学者。京都外国語大学名誉教授。 福井県生まれ。法政大学仏文科卒、1939年 - 1952年フランスに留学、1950年日本女性として初めてフランスで文学博士号取得、1955年南山大学教授、のち京都外国語大学教授を務め、定年後名誉教授。夫は片岡がその著作を邦訳しているロジェ・ヴァン・エック。2010年から日本最高齢の文学研究者であったが、2012年10月30日満105歳にて死去。 谷崎潤一郎の『細雪』の仏訳者に決まったこともあったが、実現しなかった(『中央公論社の80年』)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
門田 ゆたか(かどた ゆたか、1907年(明治40年)1月6… 門田 ゆたか(かどた ゆたか、1907年(明治40年)1月6日-1975年(昭和50年)6月25日)は昭和期の作詞家。本名門田 穣。 福島県信夫郡福島町(現・福島市)出身。早稲田大学文学部仏蘭西文学科中退。 西條八十に師事、後に作詞家となり、1933年(昭和8年)、ビクターレコードより「東京祭」でデビュー。1936年(昭和11年)、藤山一郎の「東京ラプソディ」が大ヒット。その他の代表作には、灰田勝彦・大谷冽子「ジャバのマンゴ売り」、岡晴夫「東京の花売娘」(佐々詩生名義)、藤山一郎「ニコライの鐘」、美空ひばり「私のボーイフレンド」、「ひばりが唄えば」、コロムビア・ローズ「プリンセス・ワルツ」、「ロマンスガイド」などを作詞。
金 素雲(きん そうん、キム ソウン、1907年1月5日 -… 金 素雲(きん そうん、キム ソウン、1907年1月5日 - 1981年11月2日)は、韓国釜山出身の詩人。本名は金 教煥、筆名は鉄 甚平(てつ・じんぺい)。号は巣雲、三誤堂。詩人・作家の北原綴は息子。歌手の沢知恵は孫。
佐藤 寛子(さとう ひろこ、1907年〈明治40年〉1月5日… 佐藤 寛子(さとう ひろこ、1907年〈明治40年〉1月5日 - 1987年〈昭和62年〉4月16日)は、日本の首相・佐藤栄作の妻(内閣総理大臣夫人)。日本の歴代首相夫人の中では三木睦子と並んで著名な人物であると見る向きもある。 山口県熊毛郡田布施町に旧長州藩士の士族・佐藤家当主の松介と妻・藤枝の長女として生まれる。父・松介は明治の中頃に東京帝国大学医科大学を出て、岡山医学専門学校教授を務めた。母・藤枝はのちに外相を務めた松岡洋右の妹である。松介は1911年(明治44年)に34歳で急逝し、一家はその後、松岡に引き取られて三田尻で暮らした。また、松介の世話で岡山中学校に進学していた甥(寛子の従兄)の岸信介(当時は旧姓の佐藤信介)は、松介の死後に同じく山口へ戻った。
奥野 煕(おくの ひろし、1907年1月5日 - 1966年… 奥野 煕(おくの ひろし、1907年1月5日 - 1966年7月20日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。 東京都出身。1930年に東京帝国大学法律科を卒業し、同年に三菱製紙に入社。 1951年6月に取締役に就任し、1957年12月に常務、1960年11月に専務、1962年5月に副社長を経て、1963年5月から1965年5月までに社長を務めた。 1966年7月20日、食道がんで死去した。59歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高光 一也(たかみつ かずや、1907年1月4日 - 198… 高光 一也(たかみつ かずや、1907年1月4日 - 1986年11月12日)は、日本の洋画家。石川県石川郡潟津村(現・金沢市北間町)出身。中村研一に師事。金沢美術工芸大学名誉教授。日展文部大臣賞、日本芸術院賞受賞。日本芸術院会員、文化功労者。真宗大谷派専称寺住職。 真宗大谷派専称寺住職・高光大船の長男として生まれる。大正14年、石川県立工業学校(現・石川県立工業高等学校)図案絵画科を卒業。小学校教師を経て、昭和4年の第16回二科展に「卓上静物」を出品し、初入選。同年より中村研一に師事する。昭和7年、第13回帝展に「兎の静物」を出品し、初入選。画業に専念する。昭和12年、第1回新文展に「藁積む頃」を出品し、特選。
越田 覚造(こしだ かくぞう、1907年〈明治40年〉1月4… 越田 覚造(こしだ かくぞう、1907年〈明治40年〉1月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。日本端子元社長。ラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)元社長。富士観光元社長。農林大臣を務めた河野一郎や参議院議長を務めた河野謙三は義兄にあたる。 富山県出身。越田覚二の長男として生まれる。1930年(昭和5年)東京商科大学を卒業後、昭和肥料に入社。1945年(昭和20年)日本肥料四日市工場総務部長となり、1948年(昭和23年)東海硫安工業取締役四日市工場長に就任。 1951年(昭和26年)本社営業部長に転じ、1958年(昭和33年)7月監査員を兼任し、1962年(昭和37年)10月日本端子社長、1963年(昭和38年)6月ラジオ関東副社長に選任される。
椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年… 椿 三四郎(つばき さんしろう、1907年1月3日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名間瀬 松太郎(ませ まつたろう)、別芸名津島 慶一郎(つしま けいいちろう)。 1907年(明治40年)1月3日、東京府東京市日本橋区のうち、のちの江戸橋地域(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。 1924年(大正13年)3月、東京・神田錦町の旧制・錦城商業学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業し、西巣鴨町の国際活映(国活)に入社する。しかしながら当時の国活は経営が悪く、減産体制となっており、翌1925年(大正14年)には同社は倒産、椿は同年12月、兵庫県西宮市甲陽園にある東亜キネマ甲陽撮影所に移籍する。