青井 忠治(あおい ちゅうじ、1904年〈明治37年〉3月3… 青井 忠治(あおい ちゅうじ、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1975年〈昭和50年〉8月18日)は、日本の実業家。株式会社丸井 (OIOI)の創業者。 丸井グループ名誉会長青井忠雄は長男。元NHKアナウンサーの青井実は孫。 生家は富山県小杉の旧家の分家で、一人息子として生まれる。1歳の時に父の事業破綻により母と引き離され、2歳ではしかのため左眼を失明。10歳で他家に嫁した母を、11歳で結核を病んで床に臥していた父を失う。 1922年(大正11年)富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高校)を卒業して上京、月賦販売商・丸二商会に入社。瞬く間に頭角を現し、1924年(大正13年)大塚店長、1925年(大正14年)本店の集金部長、1928年(昭和3年)中野店長、1930年(昭和5年)1月浅草店長、7月九段店長を歴任。
三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010… 三神 美和(みかみ みわ、1904年3月30日 - 2010年12月21日)は、日本の医師、東京女子医科大学名誉教授・相談役。山梨県甲府市出身。 山梨県立高等女学校(現・山梨県立甲府西高等学校)を経て、1924年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)を卒業。1940年に「不飽和脂肪酸の動物栄養に及ぼす影響について」で慶應義塾大学より医学博士の学位を取得。1951年より東京女子医科大学教授、同大学理事。1965年からは東京女子医科大学病院に勤め、教授職のかたわら病院長職も務めた。 東京女子医科大学を退職後は名誉教授となり、同大学医学部同窓会である至誠会が運営する至誠会第二病院の院長に就任。
城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月3… 城多 又兵衛(きた またべえ、1904年(明治37年)3月30日 - 1979年(昭和54年)3月30日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、音楽学者、作曲家。 三重県出身。三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)卒業。1929年(昭和4年)東京音楽学校卒業。1931年(昭和6年)東京音楽学校研究科修了。同年イタリアにわたり、1934年(昭和9年)までローマのサンタ・チェチーリア音楽院に学ぶ。船橋栄吉、スコラーリに師事。 1936年(昭和11年)ヴェルディ『レクイエム』で歌手デビュー。同年演奏会形式でヴェルディ『椿姫』アルフレードを歌い、のちベルリオーズ『ファウストの劫罰』や、オペラにも出演。
上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - … 上田 吉二郎(うえだ きちじろう、1904年3月30日 - 1972年11月3日)は、日本の俳優。本名は上田 貞夫(うえだ さだお)。 アクの強めな演技で知られ、300本以上の映画に出演。愛称は「上吉(うえきち)」。 悪役・敵役を得意とし、弱者を痛めつけ、自分より強いものには平身低頭するような悪役が多く、独特なダミ声は、よしもと新喜劇の島田一の介や林家木久扇らによって度々声帯模写で取り上げられた。 1904年(明治37年)3月30日、兵庫県神戸市三宮に生まれる。旧制第一神戸中学校(現・兵庫県立神戸高等学校)在学中の1918年(大正7年)、神戸中央劇場で観た新国劇の舞台『新朝顔日記』での澤田正二郎の演技に感動し、彼に弟子入りを頼んで新国劇に入団する。
瀬木 博政(せき ひろまさ、1904年3月30日 - 200… 瀬木 博政(せき ひろまさ、1904年3月30日 - 2002年9月18日)は日本の実業家、博報堂代表取締役名誉会長。東京都出身。
荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3… 荒木 三郎(あらき さぶろう、1904年 <明治37年> 3月30日 - 1981年 <昭和56年> 10月16日)は、日本の経営者である。呉羽化学工業 (現在のクレハ) 社長を務めた。位階は正四位。 兵庫県出身。1930年に京都帝国大学法学部を卒業し、同年5月に呉羽紡績に入社。1946年2月に呉羽化学工業常務に就任し、1948年2月に専務を経て、1949年3月に社長に就任。1973年11月に会長に就任。 1965年5月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等旭日重光章を受章した。 1981年10月16日、脳血栓のために死去。77歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年〈明治37年〉3… 丹羽 喬四郎(にわ きょうしろう、1904年〈明治37年〉3月30日 - 1978年〈昭和53年〉3月30日)は、日本の内務官僚、政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。 運輸大臣、衆議院議員(9期)を歴任。三男は丹羽雄哉。 東京府東京市赤坂区生まれ。敬三の四男。 旧制麻布中学校、旧制水戸高等学校を経て、1930年、東京帝国大学経済学部卒業。同年高文行政科合格。昭和6年(1931年)内務省に入り、大阪府警部補、長野県、満州国、埼玉県、厚生省、京都府などの勤務を経て、1942年、千葉県官房長、群馬県警察部長、警視庁官房主事、情報局情報官を歴任、1947年退職。 1947年から1950年まで公職追放となる。
上宮山 勇市(うえみややま ゆういち、1904年3月30日 … 上宮山 勇市(うえみややま ゆういち、1904年3月30日 - 没年不明)は、鹿児島県薩摩郡宮之城町(現さつま町)出身で井筒部屋に所属した元大相撲力士。本名は中間 勇一。最高位は十両11枚目(ただし、後述のように十両力士として土俵に上がらなかった)。 井筒部屋に入門し、1923年1月、初土俵を踏む。1932年1月、十両に昇進したが、番付発表直後に起きた春秋園事件で脱退し、革新力士団に加わった。その後は相撲協会に復帰することはなかった。
高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月2… 高杉 年雄(たかすぎ としお、1904年(明治37年)3月29日-1984年(昭和59年)1月6日)は、日本の医学者、学校経営者。医学博士(北海道帝国大学)。 青森県弘前市で出生後、北海道札幌に移住。1921年北海道庁立札幌第二中学校卒業。1928年(昭和3年)北海道帝國大学医学部卒業。1930年同医学部助手。1933年北海道帝国大学にて論題「沃度代謝と消化器との関係」にて医学博士受く。1933年北海道帝国大学医学部第二内科講師。1934年同医学部第二内科助教授。1947年北海道大学医学部内科学第三講座初代教授及び北海道大学病院医科第三内科長に任命される。1955年(昭和30年)北海道大学医学部附属病院院長。
小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1… 小森田 一記(こもりだ かずき、1904年3月29日 - 1988年9月25日)は、日本の雑誌編集者、事業家。 1904年に熊本県菊水町(現和水町)に生まれる。最初農業に従事しようと親戚の家で馬肥づくりをするが、途中で日本の文化界に尽くしたいと、独学で旧制中学四年の編入試験に合格、新聞配達等をして苦学しながら、1930年に早稲田大学政経学部経済学科を卒業。同郷である朝日新聞編集主幹・牧野輝智の庇護と推薦を受けて中央公論社に入社、28歳で婦人公論の編集長を務める。1937年から1940年の間は編集長を務めた。 1944年に横浜事件が発生すると事件の舞台となった雑誌『改造』とともに編集が左翼的であったとして『中央公論』も弾圧対象となり、小森田を含む8人の編集者らが逮捕、勾留された。
村井 順(むらい じゅん、1904年3月28日 - 1985… 村井 順(むらい じゅん、1904年3月28日 - 1985年3月5日)は、日本の国文学者。愛知淑徳短期大学教授を務めた。岐阜県出身。 岐阜県高富町生まれ。1929年、早稲田大学文学部国文科を卒業。1960年に『源氏物語論』で早稲田大学から文学博士を授与される。高等学校教諭を経て、1964年に愛知淑徳短期大学教授に着任。1974年に定年退職し、以後は非常勤講師として勤めた。愛知淑徳短期大学国文学科の創設期の指導者と評された。 「国文学教育は既存の文学を教えるだけでは片手落ちではないか?」との信念から、愛知淑徳短期大学国文学科の女子学生らに小説を書かせ、『女子大生小説集』(中部日本教育文化会、1973年)として刊行。
金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳… 金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名同じ。旧芸名は金村 春夫(かねむら はるお)など。日活大将軍撮影所や日活太秦撮影所などで長く活躍した、伊藤大輔監督映画の常連である。特技は乗馬、水泳、ビリヤード。 1904年(明治37年)3月27日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる。 1915年(大正4年)、11歳の時に養父である若月一郎の新歌劇の一座で初舞台を踏む。正則中学校(現在の正則高等学校)に進学し、学業の傍ら西野薫一座の芝居に参加する。 1922年(大正11年)、同中学校を卒業して日活向島撮影所に入社。金村春夫名義で数本の作品に出演。
香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3… 香川 英史(かがわ ひでふみ、1904年 <明治37年> 3月27日 - 1985年 <昭和60年> 6月7日)は、日本の経営者。広島県出身。位階は正四位。 1928年に東亜同文書院大学を卒業し、同年に東洋綿花(のちのトーメン)に入社した。1955年11月に取締役に就任し、1957年11月に常務、1960年5月に専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1962年6月から1971年6月までに社長を務めた。 1974年に勲三等瑞宝章を受章。 1985年6月7日肺炎のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、190… 厳 敬燮(オム・ギョンソプ、朝鮮語: 엄경섭/嚴敬燮、1904年3月27日または1906年3月27日 - 1979年9月6日)は、大韓民国の教育者、政治家。第9代韓国国会議員。 本貫は寧越厳氏。儒教の信者。元養正高等学校校長の厳圭白は長男。 ソウル出身。1925年養正高等普通学校卒、1931年法政大学経済学部商科卒。養正中学校・高等学校で長く勤め、教諭・教務主任・校長を歴任した。その他にソウル私立中等学校長会会長、中央教育委員会委員、大韓私立中等学校長会連合会長、国民教育憲章制定審議会委員、長期総合教育計画審議会委員、教育政策審議会委員、維新政友会所属の第9代前半期国会議員、養正義塾理事長を務めた。
曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月2… 曺 奎甲(チョ・ギュガプ、朝鮮語: 조규갑、1904年3月27日 - 1994年10月3日)は、大韓民国の政治家。昌原郡亀山面長、制憲韓国国会議員などを歴任した。 本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。漢字表記は曺圭甲とも。独立運動家の曺正煥は父、曺誠煥は叔父。 慶尚南道金海郡菉山面(現・釜山広域市江西区美音洞)出身。同郡進礼面の講習所での漢文修学を経て、明治大学政経科卒、早稲田大学卒業または中退、北京大学聴講・東洋哲学科中退。営農を経て、亀山面長、慶尚南道政治工作隊隊長、鎮海中学校父兄会長、鎮海漁業組合長、鎮海金融組合長、大韓独立促成国民会鎮海支部長・昌原郡支部長、昌原郡農会評議員、無所属の制憲国会議員、反民族行為特別調査委員会調査委員などを務めた。
木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月… 木山 捷平(きやま しょうへい、1904年(明治37年)3月26日 - 1968年(昭和43年)8月23日)は、岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)出身の小説家、詩人。東洋大学文科中退。詩人として出発し、のち小説に転じた。「海豹」同人。満州で敗戦を迎え、帰国後、その体験をもとに長編『大陸の細道』『長春五馬路』などを発表。私小説的な短編小説やエッセイを得意とした。作家として目立たない存在であるが、庶民性に徹した飄逸と洒脱な表現で没後も根強い愛読者を持つ[独自研究?]。 矢掛中学校(現岡山県立矢掛高等学校)在籍時より詩・短歌・俳句を作り始める。1923年(大正12年)に姫路師範学校(現・神戸大学)を卒業。
大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 198… 大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 1982年8月21日)は、昭和期の俳人。本名は大野正(おおの まさし)。 神奈川県横浜市生まれ。旧制県立横浜第一中学校、旧制第四高等学校を経て、1927年東京帝國大学経済学部を卒業。大学卒業後は日本光機工業に入社。1930年に会社を辞めて神奈川県立商工実習学校(現・神奈川県立商工高等学校)教諭となる。当時の教え子に、後に高弟となる宮津昭彦がいる。中学時代より鈴木三重吉や佐藤春夫の抒情詩に傾倒。俳句は中学時代の1920年、親友の荻野清(のち俳文学者となる)の父から手ほどきを受け、1921年、荻野の勧めをうけて「石楠」に入会、臼田亞浪に師事する。
栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 19… 栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 1981年)は昭和時代日本の作曲家、教育者。静岡大学教育学部教授。 1904年(明治37年)、静岡県磐田郡山香村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。静岡師範学校を経て東京音楽学校第四臨時教員養成所で沢崎定之、下総皖一、貫名美名彦らの師事を仰ぐ。愛知県の知多郡立高等女学校教諭を経て愛媛師範学校教諭となり、1938年(昭和13年)11月に愛媛県庁が提唱した「国民精神作興週間」の一環として初代「愛媛県民歌」を作曲する。1944年(昭和19年)、静岡第一師範学校教諭兼教授。1949年(昭和24年)の新制静岡大学発足に伴い助教授となり、附属幼稚園長を経て1960年(昭和35年)より教授に至る。
小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3… 小田 栄(小田 榮、おだ さかえ、1904年〈明治37年〉3月24日 - 1994年〈平成6年〉7月11日)は、日本の社会主義者、政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。別名・天界。 広島県賀茂郡川尻村(川尻町を経て現呉市)で菓子製造業の家に生まれる。父の事業が失敗し、叔父からの勧めで1912年に一家で沖縄に移住。一家で飴屋を始め、小田も行商を行う。1918年、沖縄県立第一中学校に入学。4年次の学芸会で社会批判の演説を行い放校となった。 沖縄出身の先輩、アナキストで労働運動社にいた泉正重を頼り上京。同志と雑誌創刊を計画するも当局に検挙された。1922年、中浜哲、古田大次郎らのギロチン社に加わったが、1923年の関東大震災により沖縄に戻った。
長津 義司(ながつ よしじ、1904年(明治37年)3月24… 長津 義司(ながつ よしじ、1904年(明治37年)3月24日 - 1986年(昭和61年)1月10日)は昭和期の作曲家。 静岡県出身。保険会社勤務後、作曲活動を始め、1936年(昭和11年)ポリドール専属となる。1939年(昭和14年)11月発売の「大利根月夜」が大ヒット。1941年(昭和16年)にテイチクへ移籍し、「十三夜」「君忘れじのブルース」「ふるさとの燈台」「玄海ブルース」「連絡船の唄」「チャンチキおけさ」「大利根無情」「元禄名槍譜 俵星玄蕃」などの作品を作曲。菅原都々子の「月がとっても青いから」では編曲を担当。 『チャンチキおけさ』では『お客様は神様です』というフレーズが生まれ、三波春夫が最後の紅白で歌った曲は「元禄名槍譜 俵星玄蕃」であった。
上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2… 上原 清吉(うえはら せいきち、1904年3月24日 - 2004年4月3日)は、日本の武術家。本部朝勇の高弟の一人であり、本部御殿手古武術の第12代宗家。 1904年(明治37年)、沖縄県島尻郡小禄村(現・那覇市小禄)に上原蒲戸の五男として生まれた。上原家は農業と味噌・醤油の醸造を生業とする比較的裕福な家庭であったが、清吉が小学生の頃、兄の事業の失敗で一家は一転苦しい生活に追い込まれた。これが原因で、清吉も進学を断念し家業を手伝うことになった。 1916年(大正5年)に本部朝勇の道場に入門した。本部朝勇は、旧琉球王族である本部御殿の直系当主であり、弟には当時沖縄最強の唐手(現・空手)家として知られた本部朝基をもつ著名な武術家であった。
川崎 竹一(かわさき たけいち、1904年〈明治37年〉3月… 川崎 竹一(かわさき たけいち、1904年〈明治37年〉3月23日 - 1982年〈昭和57年〉4月28日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、編集者。文藝春秋社「文學界」第3代編集長。九州帝国大学仏文学科卒。 『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞の様な権威のある文学賞を我が国にも設立するべきだと書いた文章を菊池寛が読んだことが芥川龍之介賞や直木三十五賞の設立の動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。 同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。
山川 幸世(やまかわ ゆきよ、1904年3月23日 - 19… 山川 幸世(やまかわ ゆきよ、1904年3月23日 - 1974年12月23日)は、日本の演出家。 京都生まれ。ドイツ文学者・山川幸雄の長男。妹に山川彌千枝。2歳の時、父の転勤のため、東京に転居。同志社大学英文科卒。舞台演出家として知られるばかりでなく、俳優の養成にも携わり、実演者の立場から音声学にもアプローチした。モンゴル音楽祭などに取り組んできた山川泉は実子。
寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 198… 寺崎 浩(てらざき ひろし、1904年3月22日 - 1980年12月10日)は、日本の小説家、詩人。 岩手県盛岡市生まれ。父は検事。早稲田大学仏文科中退。1926年、同級の田畑修一郎、火野葦平らと同人誌『街』を創刊。西條八十に師事し、佐伯孝夫らと詩誌『棕櫚の葉』を創刊。のち横光利一に師事。 1935年、文壇デビューを果たし以後は小説を中心に執筆。1936年、徳田秋声の娘喜代と結婚。1941年、報道班員としてマレーに赴く。 戦後は中間小説を多く書いた。代表作に短編集『祝典』、長編『情熱』、詩集『落葉に描いた組曲』など。『からたちの花』は山田耕筰の伝記小説である。墓所はさいたま市思い出の里市営霊園。
浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、19… 浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、1904年(明治37年)3月22日 - 1991年(平成3年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。民謡歌手で秋田県出身の浅野千鶴子は同姓同名の別人。 高知県高知市出身。1927年(昭和2年)東京音楽学校研究科修了。永井郁子に師事し、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、長坂好子の指導も受けた。1920年代から文化学院の教壇に立つ。1929年(昭和4年)4月 京城で「山田耕筰作品発表会」に出演(ピアノ:山田耕筰、ヴァイオリン:黒柳守綱、ソプラノ:浅野千鶴子)。1930年(昭和5年)東京でリサイタル・デビュー。1935年(昭和10年)東京音楽学校第75回定期演奏会(於:日比谷公会堂)でバッハ『聖母讃歌』ソリスト(指揮:クラウス・プリングスハイム、ソプラノ:浅野千鶴子、メゾソプラノ:田中伸枝、アルト:齋藤英子、テノール:木下保、バス:伊藤武雄)。
大野 連治(おおの れんじ、1904年(明治37年)3月21… 大野 連治(おおの れんじ、1904年(明治37年)3月21日 - 1991年(平成3年)11月16日)は、日本の内務官僚。官選青森県知事。湯沢三千男の娘婿。 千葉県東葛飾郡船橋町九日市で生まれる。第一高等学校を卒業。1927年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。横浜正金銀行を経て、1929年、内務省に入省し社会局属となる。 1946年1月、内務省文書課長から青森県知事に就任。同年11月24日、仮県庁が全焼した。1947年3月、引揚援護院次長に転じた。その後、全国市長会事務局長、人事院参与、地方公務員災害補償基金理事長を務めた。
三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4… 三岸 好太郎(みぎし こうたろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1934年(昭和9年)7月1日)は、日本の洋画家。戦前のモダニズムを代表する洋画家の1人。妻は同じく洋画家の三岸節子(旧姓:吉田)、異父兄は作家の子母澤寛(本名:梅谷松太郎)。 祖父の梅谷十次郎は元御家人で、石狩国の漁村厚田村(現:石狩市厚田区厚田)の網元だった(子母澤寛を参照)。父は橘巌松、母は三岸イシ。父の巌松は旧加賀藩前田氏に仕えた御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊廓通いで身を持ち崩して石狩へ流れ着き、十次郎の営む料理店で働いていたと伝わる。また、薄野の大妓楼「高砂楼」の番頭だったとも伝わる。祖父が両親の結婚を許さなかったため、三岸家の戸主である母の姓を名乗る。
芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日… 芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。愛媛県出身。 愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの四男。父は教員や村長を歴任し俳句も作った。「不器男」の命名は『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)による。1920年(大正9年)、宇和島中学校(一級上に富澤赤黄男がいた)を卒業し、松山高等学校に入学。 高校では山岳部に所属、日本アルプスを踏破した。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科に入学。
大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月… 大内 三郎(おおうち さぶろう、1903年(明治36年)4月18日 - 1988年(昭和63年)8月27日)は日本の実業家、元四国電力社長・会長。福島県出身。
葛西 泰二郎(かさい たいじろう、1903年4月17日 - … 葛西 泰二郎(かさい たいじろう、1903年4月17日 - 1974年2月9日)は、日本の機械工学者。工学博士。九州大学名誉教授。ラグビー日本代表監督。 福岡市大名町(現・福岡市中央区大名)に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1924年第五高等学校理科甲類を経て、1927年九州帝国大学工学部を卒業する。 1930年九州帝国大学助教授、1936年工学博士、1941年同教授と進み、流体機械、ポンプ、水車などを研究、送風機、圧縮機に主力を注いだが、太平洋戦争とともにその才能を買われ軍に奉仕させられることになる。1942年広海軍工廠における研究業務を委嘱され、1944年3月第2陸軍航空技術研究所に配属。
山崎 宏(やまざき ひろし、1903年4月16日 - 199… 山崎 宏(やまざき ひろし、1903年4月16日 - 1992年11月12日)は、日本の東洋史学者。東京教育大学名誉教授。宏の字はムの部分がヒとなる。 1903年、新潟県で生まれた。新潟師範学校、東京高等師範学校を経て、東京文理科大学を卒業。 修了後は、東京高等師範学校に勤務。後に東京文理科大学、1949年に同大学が新制大学として東京教育大学となると、同大学教授として教鞭をとった。1950年、学位論文『隋朝仏教政策の研究』を東京文理科大学に提出して文学博士号を取得。1967年に東京教育大学を定年退官して名誉教授となった。その後は立正大学の教授を務めた。1976年に同大学を退職。1992年に死去。
関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 … 関牧翁(せき ぼくおう、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1991年〈平成3年〉2月13日)は、日本臨済宗の僧侶。 臨済宗天龍寺派管長。天龍寺二百四十一世。俗姓は岩井のち関。諱は巍宗。号は叱咤室また集瑞軒。天龍寺規則・宗制の改正を断行し、自由奔放な禅者として知られた。主な弟子には大森曹玄、加藤隆芳、平田精耕、荒金天倫がいる。 群馬県甘楽郡下仁田町に生まれる。初名は岩井 敏夫。旧制富岡中学校を卒業し、慶応義塾大学医学部予科に進学するが、中退。武者小路実篤の提唱した「新しき村」の思想に感化され、伊吹山麗の「愛の村」で青年を指導。 1928年(昭和3年)岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞巌寺の岡部洪宗和尚について得度。
諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年… 諸田 幸一(もろだ/もろた こういち、1903年〈明治36年〉4月15日 - 1986年〈昭和61年〉7月30日 )は、日本の経営者。群馬銀行頭取、群馬テレビ社長を務めた。位階は従四位。 群馬県勢多郡横野村(現・渋川市)出身。1923年に刀川実業補習学校を卒業し、1929年に上毛銀行(現・群馬銀行)に入行した。1953年10月に取締役に就任し、1959年に常務、1968年10月に専務を経て、1970年11月に副頭取に就任し、1971年5月には頭取に昇格した。1977年に会長、1981年5月に取締役相談役を経て、1984年5月には相談役に就任。群馬テレビ社長、全国地方銀行協会会長なども歴任。全国銀行協会連合会理事、日本経済団体連合会常任理事。
佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日 - 1978… 佐藤 武(さとう たけし、1903年4月13日 - 1978年12月8日)は、日本の映画監督である。松竹蒲田撮影所から東宝映画、戦後の新東宝へと転身した。 1903年(明治36年)4月13日、東京府荏原郡目黒村(現在の東京都目黒区)に生まれる。 1932年(昭和7年)ころに、松竹キネマの松竹蒲田撮影所演出部に入社、清水宏、島津保次郎に師事する。同年、詳細不明の映画『かくて田園は輝く』で監督としてクレジットされているが、このころの佐藤は、サード助監督程度のランクにいた。 1938年(昭和13年)、東宝映画の東宝映画東京撮影所に入社、『チョコレートと兵隊』で監督に昇進する。 第二次世界大戦終了後の1947年(昭和22年)、新東宝映画製作所(のちの新東宝)設立に参加、同社の初年度に『九十九人目の花嫁』を監督する。
友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 196… 友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 1964年12月9日)は、日本の機械工学・物理学者。理学博士(東京帝国大学)。京都大学元理学部部長および大阪帝国大学理学部元教授。日本物理学会第14代会長。日本学術会議会員(1期)。国際理論応用力学連合日本代表。流体力学・航空物理学の第一人者の一人。 専門は、流体力学・流体機械、航空物理学。 愛媛県松山市生まれ。1926年東京帝国大学理学部物理学科卒業(指導教授は、理論物理学者の第一人者の一人で東京帝国大学航空研究所所長を務めた寺沢寛一)。同大学助手を経て、1929年同大学理学部助教授。1932年理学博士(東京帝国大学)。同大学航空研究所所員も務める。
大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月… 大村 純毅(おおむら すみたけ、1903年(明治36年)4月11日 - 1974年(昭和49年)4月17日)は、日本の昭和時代の華族、陸軍軍人、政治家(第5代〜第8代大村市長)。大村家第33代当主。大村市名誉市民。 父大村純英が陸軍軍人として赴任中の静岡県静岡市で誕生、ほどなく東京へ移る。 学習院初等科で院長であった乃木希典の薫陶を受け、学習院中等科を経て陸軍中央幼年学校へ入り、1924年(大正13年)7月に陸軍士官学校本科卒業(第36期)。同年10月に砲兵少尉任官。以後、砲兵部隊中心に軍歴を重ねる。最終的には野戦重砲第八連隊付を経て中佐に昇進した。1933年(昭和8年)6月、父の死没に伴い伯爵を襲爵。
立汐 唯五郎(たてしお ただごろう、1903年4月11日 -… 立汐 唯五郎(たてしお ただごろう、1903年4月11日 - 1935年4月28日)は、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)出身で振分部屋に所属した元大相撲力士。本名は藤本 唯五郎(旧姓長谷川)。最高位は西十両5枚目。兄は幕内力士の立汐祐治郎。 浪ノ音の振分部屋に入門。1918年5月場所で「鷹城山」の四股名で初土俵を踏む。1920年1月場所「鷹ヶ汐」に改名。1924年5月場所から兄の四股名の「立汐」を名乗った。1927年5月場所新十両。10月場所では幕下のままのため、東京場所と地方場所では番付の地位が異なるという珍現象を起こした。十両で勝ち越すことはなく、1930年3月場所限り廃業した。十両在位は4場所に終わり、兄に続く入幕は果たせなかった。
金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル… 金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、1903年〈明治36年〉4月11日 - 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。約500編の詩を遺した。没後半世紀はほぼ忘却されていたが、1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進んだ。 西條八十に激賞された幻の童謡詩人とされている。遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られた。代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。 山口県大津郡仙崎村(現:長門市仙崎)で、父・金子庄之助、母・ミチとの間に生まれる。郡立深川高等女学校(現:山口県立大津緑洋高等学校)卒業。
瓦林 潔(かわらばらし きよし、1903年4月10日 - 1… 瓦林 潔(かわらばらし きよし、1903年4月10日 - 1990年2月7日 )は、日本の経営者。 福岡県浮羽郡田主丸町出身。1927年に中央大学法学部を卒業し、同年に筑後電力に入社。1937年7月に九州水力電気を経て、1942年4月に九州配電(のちの九州電力)に転じる。1954年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1967年5月に社長に就任。1974年6月に会長に就任し、1983年7月から相談役を務めた。 1968年から1974年までに福岡放送社長も務め、福岡野球(太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ)取締役、日本商工会議所副会頭、福岡商工会議所会頭、福岡大学理事長なども歴任。
堀江 実蔵(實藏、ほりえ じつぞう、1903年(明治36年)… 堀江 実蔵(實藏、ほりえ じつぞう、1903年(明治36年)4月10日 - 1986年(昭和61年)1月9日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 鳥取県東伯郡八橋町(のち東伯町、現・琴浦町)出身。農業を営む。 八橋町会議員、同町農地委員会長、同町農業会理事、鳥取県果実協会副会長、日本園芸農協連理事会長などを務めた。また、日本農民組合東伯郡協議会長、日本労働農民党鳥取県支部常任執行委員、日本労働党鳥取県支部常任執行委員、日本農民組合鳥取県支部連合会副会長、鳥取県農民総同盟常任執行委員中部協議会長なども務めた。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で鳥取県全県区から鳥取県農民総同盟公認で出馬して当選し、労働者農民党に所属して衆議院議員に1期在任した。
篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 199… 篠原 卯吉(しのはら うきち、1903年4月9日 - 1993年3月3日)は、日本の電気工学者。第5代名古屋大学総長。第58代電気学会会長。 名古屋市生まれ。愛知県第一中学校(現愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校を経て、1926年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、九州帝国大学講師。1927年北海道帝国大学講師。同年北海道帝国大学助教授。1930年照明学会評議員。1935年九州帝国大学工学博士。1940年名古屋帝国大学理工学部教授。1953年名古屋大学工学部長。1958年郵政省電波技術審議会委員。1960年電気通信学会東海支部長。1961年電気学会浅野賞受賞。1963年名古屋大学教養学部長。同年名古屋大学総長、電気学会副会長、第6期日本学術会議会員、文部省大学設置審議会委員。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日 … 奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日 - 1965年(昭和40年)7月19日)は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・成田。 青森県北津軽郡六郷村胡桃館(現鶴田町)で、成田治の二男として生まれる。1923年(大正12年)青森県立弘前中学校(現青森県立弘前高等学校)を卒業した。 中津軽郡新和村(現・弘前市)種市の奈良家の養子となる。新和村農業会長、(有) 北隆造船鉄工所取締役社長、北日本化学工業取締役社長、新和村農業協同組合長、同村農業共済組合長、青森県農業共済保険組合理事、同県利用農業協同組合連合会長などを務めた。 政界では1930年(昭和5年)新和村会議員に選出された。
河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 19… 河口 商次(かわぐち あきつぐ、1903年4月8日 - 1984年7月30日)は、日本の数学者。北海道大学名誉教授。専門は微分幾何学、特にフィンスラー幾何学。日本の微分幾何のパイオニアの一人。師は窪田忠彦、弟子に桂田芳枝がいる。 1903年4月東京に生まれ、母河口愛子の独自の教育方針の下に高校検定試験に合格し、1922年 東北帝国大学数学科に入学、1925年 卒業後、同大学院に進む。1927年 東北帝国大学大学院在学中に1930年開講が決まった北海道帝国大学理学部数学科の教授候補に内定。準備期間中2年間の留学が定められていたため、文部省在外研究員となり1928年から1930年にかけて、ドイツ(ベルリン、ハンブルグ)に留学。
矢島 せい子(やじま せいこ、1903年4月6日 - 198… 矢島 せい子(やじま せいこ、1903年4月6日 - 1988年1月24日)は、日本の社会福祉運動家・民俗学者。障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会初代会長、ヘレン・ケラー賞受賞者。 東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に歌舞伎作者・竹芝伝蔵(本名・加藤伝太郎)の娘として生まれる。弟に俳優の四代目澤村國太郎、加東大介、妹に女優の沢村貞子がいる。幼くして叔母の石井家に養女に出され、弟妹たちとは異なる生活を送る。 旧制・佐藤高等女学校(現在の女子美術大学付属高等学校)を卒業し、日本女子大学家政科に入学する。1922年(大正11年)、同学を中退。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災に被災し、栃木県に疎開する。
栗山 久治(くりやま ひさじ、1903年4月6日 - 198… 栗山 久治(くりやま ひさじ、1903年4月6日 - 1985年9月17日)は、日本の経営者。兵庫県出身。 1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、1928年に関東配電に入社。後に藤倉電線に転じ、1955年に取締役に就任し、1959年に常務、1964年に専務を経て、1965年に副社長に就任し、同年11月には社長に昇格。1973年11月に会長に就任し、1976年に相談役に就任。 1985年9月17日腎不全のために死去。82歳没。
八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日… 八住 利雄(やすみ としお、1903年〈明治36年〉4月6日 - 1991年〈平成3年〉5月22日)は、日本の脚本家。元日本シナリオ作家協会理事長(1965年 - 1968年、1982年 - 1991年)。脚本家の白坂依志夫は長男。 大阪市出身。早稲田大学露文学科卒業。卒業後、しばらくはロシア文学の翻訳家、築地小劇場などの新劇運動を経て。 1928年、春秋社から人生読本というタイトルでトルストイの翻訳書を出版、笹本寅が携わった。 1936年、PCL入社。脚本第一作は『武士道朗らかなりし頃』を発表、1939年(昭和14年)『樋口一葉』で注目され、その後シナリオライターに専念する。 。1947年(昭和22年)、ラジオドラマ『向う三軒両隣』の脚本を伊馬春部、北条誠、北村寿夫とともに交代で執筆。
赤岩 栄(あかいわ さかえ、1903年4月6日 - 1966… 赤岩 栄(あかいわ さかえ、1903年4月6日 - 1966年11月28日)は、日本基督教団の牧師。牧師をしながら共産党入党宣言をしたことが教団内の大きな問題になった。椎名麟三に洗礼を授けた牧師としても知られる。 愛媛県喜多郡肱川村の牧師の家に生まれた。広陵中学中退後、神戸神学校に入学する。その後、大阪神学院に転校したが、キリスト教に懐疑を抱き中退する。 さらに、東京神学社で学び校長高倉徳太郎の神学に傾倒し、回心を経験する。卒業後、日本基督教会佐渡伝道所に赴任する。 高倉の要請で『福音と現代』の編集のために上京する。1931年(昭和6年)中原伝道所を開き、翌1932年に上原教会(現:日本基督教団代々木上原教会)を設立する。
川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5… 川﨑 千春(かわさき ちはる、1903年〈明治36年〉4月5日 ‐ 1991年〈平成3年〉6月6日)は、日本の実業家。京成電鉄第5代代表取締役社長、京成百貨店代表取締役社長、オリエンタルランド初代代表取締役社長、北総開発鉄道代表取締役社長、成田空港交通代表取締役社長、日本民営鉄道協会会長を務めた。また、日本大学第一学園の第6代同窓会長も歴任した。茨城県出身。趣味はゴルフ、邦楽、古いヴァイオリンの修理。 日本にディズニーパークを誘致する構想を提案した人物であり、東京ディズニーランドの建設計画にも中心的に関わった。京成電鉄では21年間にわたり社長を務め、京成グループの発展に尽力した。 尾張徳川家に仕えた絵師の家系の出身で、従兄に川﨑小虎、小虎の長女・川﨑すみの夫に東山魁夷がいる。
片野 一郎(かたの いちろう、1903年4月4日 - 198… 片野 一郎(かたの いちろう、1903年4月4日 - 1983年6月2日)は会計学者。一橋大学名誉教授、商学博士。高瀬荘太郎門下で貨幣価値変動会計などを研究テーマとした。第7期日本学術会議会員等も務めた。 1903年、東京府東京市小石川区白山前町(現東京都文京区白山)生まれ。京華商業学校(現京華商業高等学校)、京北実業学校(後の京北学園白山高等学校)を経て、1928年東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部を卒業。1931年、同大学学部を卒業。在学中は高瀬荘太郎ゼミで学ぶ。 卒業後は、京北実業学校教諭を経て、1938年鹿児島高等商業学校(現鹿児島国際大学)教授。1940年善隣高等商業学校(のちの日本商科大学)教授。