小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日… 小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日〈文久2年5月2日〉- 1918年〈大正7年〉7月21日)は、日本の実業家、政治家、篤志家。小山家23代当主。諱は正友、幼名は邦太郎。信濃国佐久郡出身。政治家小山邦太郎・画家小山敬三の父。 出自には諸説あるが、源義光の曾孫である安田義定を祖とする説が小諸市内の小山姓において存在する。義定は甲斐源氏の一族であったため、その勢力を警戒した源頼朝により粛清されるが、子孫の安田義知が武田信虎に仕え、村上義清に備えて信濃国佐久郡に与良城を築城し、安田氏から与良氏へ改称したという。その後、その庶流の一族が同国高井郡小山郷を所領とし、与良氏から小山氏に改称したといわれている。
江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年… 江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年6月17日) - 昭和8年(1933年)5月31日)は、日本の弁護士、政治家。 1861年6月(文久元年五月)、遠江国磐田郡の東海道見附宿(現静岡県磐田市)の豪家山本幸七の子として生まれる。後に江間忠五郎の娘つねの入婿となる。1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、弁護士となり、東京弁護士会常議員、議長を歴任した。 1903年(明治36年)に明治大学雄弁会が発足した際に名誉会員となる。この雄弁会は一度活動休止状態となるが1908年(明治41年)に復活し、このとき会長に就任した。 政治家としては東京府会議員、東京市会議員・議長などを務め、1902年(明治35年)には第7回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬して当選し、その後も第10回衆議院議員総選挙(無所属)、第12回衆議院議員総選挙(立憲同志会)に当選した。
守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元… 守屋 此助 (もりや このすけ、1861年6月13日(文久元年5月6日) - 1931年(昭和6年)6月9日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、横浜市会議長、神中鉄道(現在の相模鉄道)社長。 1861年(文久1年5月6日)、備中国小田郡にて生まれる。東京法学校(現・法政大学)を卒業後、横浜市で弁護士を開業する。 1894年(明治27年)に第3回衆議院議員総選挙に当選する(以後当選8回、憲政会)。 1906年(明治39年)から横浜市子安町地先の海面埋め立て事業をおこない(後の守屋町)、1921年(大正10年)に横浜市会議長に就任する(-1922年(大正11年))。東京電車鉄道の監査役、京浜電気鉄道の取締役となり、また、興亜起業取締役会長、平沼製糸社長、神中鉄道、山東起業、満州製麻、青島電気、横浜桟橋倉庫の取締役、平沼製材の社長、日本火薬製造、火薬鉱業、東亜勧業の各監査役、膠奥電気股份有限公司の副董事長、法政大学理事などを歴任した。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久… 井上 豊太郎(いのうえ とよたろう、1861年6月6日(文久元年4月28日) - 1951年(昭和26年)1月13日)は、日本の医学者、眼科医。島根県生まれ。 島根県邇摩郡宅野村(現・大田市仁摩町)に井上柳葊の三男として生まれる。1880年、島根県医学校に入学。1884年に同校を卒業後、1887年、獨逸学協会学校入学。1889年からドイツへ留学し、ベルリン大学やミュンヘン大学などで研鑽を積む。1895年に医学博士の学位を取得。 1896年、帰国して東京眼科病院を開院。1909年、ミュンヘン大学の恩師であるアウグスト・フォン・ロートムントの処方箋を参考に目薬を処方し、信天堂山田安民薬房(現ロート製薬)の山田安民が「ロート目薬」として調製・発売。
玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4… 玉名 程三(たまな ていぞう、1861年6月5日(文久元年4月27日) - 1937年(昭和12年)11月6日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人。旧名は、名村 程三(なむら ていぞう)。
渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元… 渡部 芳造(わたなべ よしぞう、1861年5月27日(文久元年4月18日) - 1936年(昭和11年)3月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(鳥取県第3区選出、当選2回)。 伯耆国会見郡渡村(現鳥取県境港市渡町)の豪商「灘渡部」の渡部茂八郎の一人息子として生まれる。同村の医師渡辺恭平について漢学を学び、次いで備中高梁の山田方谷の塾、米子教員伝習所等で修行を積んだ。 第1回衆議院議員総選挙で支援当選させた松南宏雅の後を継いで、30歳にして第2回衆議院議員総選挙に出馬当選、連続二期国会議員を務めた。中国鉄道創立発起人となった。 一方、1892年(明治25年)の第2回総選挙で現職の門脇重雄を破って当選した渡部芳造(渡村) は吏党系で、以後2人は選挙の度に争い議席を分け合った。
後藤 文一郎(ごとう ぶんいちろう、1861年5月23日(文… 後藤 文一郎(ごとう ぶんいちろう、1861年5月23日(文久元年4月14日) - 1928年(昭和3年)9月29日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(4期)。 1861年(文久元年4月14日)、三河国碧海郡知立村(現・愛知県知立市)に生まれる。石川部平の青藍塾(漢学)に学んだ後、明法学社、茂松法学校、東京法学校(現・法政大学)で学ぶ。 1882年(明治15年)に代言人試験に合格し、愛知県岡崎町(現・愛知県岡崎市)で開業する。1890年(明治23年)に愛知県会議員に当選するも、衆議院議総選挙に出馬するため、1892年(明治25年)に県会議員を辞職する。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙に自由党候補として出馬するが、落選する。
柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3… 柴 五郎(しば ごろう、1860年6月21日〈万延元年5月3日〉 - 1945年〈昭和20年〉12月13日)は、日本の陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任した。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。陸士旧3期。柴四朗(東海散士)は兄。 1860年(万延元年)に会津藩の上士(280石)である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南(青森県むつ市)への移住を選ぶ。共に会津藩出身の森雅守少佐(イタリアにて自殺)は斗南時代から行動を共にした陸士旧3期同期生である。
根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2… 根津 一(ねづ はじめ、1860年6月20日(万延元年5月2日) - 1927年2月18日)は、日本の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。 甲斐国山梨郡一町田中村(のち山梨県東山梨郡日川村一町田中、現:山梨県山梨市一町田中)の富家根津勝七の次男として生まれる。幼少より武術だけでなく学問を好み経書に親しんだという。 西南戦争の際、下士官養成のための陸軍教導団に入る。従軍はしなかったものの、同団を首席で卒業する。
横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(18… 横山 又次郎(よこやま またじろう、万延元年4月25日(1860年6月14日) - 昭和17年(1942年)1月20日)は、日本の古生物学者。「dinosaur」を恐竜(恐龍)と和訳し、最初に日本で恐竜を紹介した人物でもある。 長崎県出身。オランダ通詞(通訳)横山家の分家、7代又次右衛門の次男として生まれる。幕末維新期の長崎の英語学校で学んだ。 1882年(明治15年)、東京大学理学部地質学科を卒業。農商務省御用掛となり、1886年(明治19年)からドイツに留学し、古生物学を専攻した。1889年(明治22年)に帰国し、東京帝国大学理科大学教授に任命された。1891年(明治24年)に理学博士の学位を得た。
6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日… 6代 徳差 藤兵衛(とくさし とうべえ、1860年6月14日(万延元年4月25日) - 1944年(昭和19年)10月19日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(3期)。青森県東津軽郡筒井村長。 陸奥弘前藩領津軽郡原別村(青森県東津軽郡原別村を経て現青森市原別)の小笠原家に生まれ、筒井村(筒井町を経て現青森市筒井)の徳差家の婿養子となる。小学校教員、戸長、村連合会議員、学区会議員、同議長、学務委員、村会議員、東津軽郡会議員などを経て、1890年(明治23年)より青森県会議員を3期務めたのち1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。第6回、第7回総選挙でも当選し衆議院議員を3期務めた。
玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9… 玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日) - 1900年(明治33年)10月28日)は、下野国那須郡(現:栃木県大田原市)出身の元大相撲力士。本名は玉野井 福治(たまのい ふくじ)。 1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日)に下野国那須郡(現:栃木県大田原市)で生まれる。入門以前は地元・栃木県の小学校で代用教員や役場の書記を務めていたが、相撲好きが高じて伊勢ノ海部屋に入門したと伝わる。1885年5月場所にて二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1889年1月場所で新十両昇進、1893年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は勝率が5割に僅かに届かない程度で推移しており、結果的に三役昇進は果たせなかったものの上位陣には善戦することもあり、1899年5月場所では小錦八十吉から金星を挙げている。
国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶… 国谷 亨(國谷 亨、くにたに とおる、1860年6月8日〈慶応3年8月18日〉 - 1932年〈昭和7年〉9月1日)は、日本の政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選1回)。旧姓・船田。幼名・今吉。 伯耆国汗入郡御来屋村(のち鳥取県西伯郡名和町御来屋、現・大山町御来屋)出身。船田専蔵の三男。8歳の時に生母の実家富長村国谷家の養子となった。 神田共立学舎に入り英語、漢学、数学を修めた。1886年に東京専門学校に入学許可され、政治科と英語科を兼修した。1888年に養父国谷礼蔵が病気となったため故郷から帰郷して家務を見るよう督促があったのでやむなく学業半ばにして帰郷した。農業を営む。 庄内村会議員、西伯郡会議員となる。
浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月… 浅川 敏靖(あさかわ としのぶ / としやす、1860年6月7日(万延元年4月18日)- 1933年(昭和8年)6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。馬政局長官を務め、馬政の権威として知られた。 甲斐国巨摩郡西井出村(のち山梨県北巨摩郡大泉村、現北杜市大泉町西井出)で、酒醸造業・浅川周蔵の四男として生まれる。甲府徽典館で学び、小学校訓導、校長を務めたが視学官と対立して免職となり、1881年、陸軍教導団に入団。1886年6月25日、陸軍騎兵少尉に任官し、同月28日、陸軍士官学校(旧8期)を優等で卒業し、騎兵第1大隊小隊長に任じられた。1889年5月、陸軍留学生としてドイツ帝国へ留学を命ぜられ、1892年5月に帰国した。
萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年… 萩野 由之(はぎの よしゆき、万延元年4月17日(1860年6月6日) - 大正13年(1924年)1月31日)は、日本の歴史学者・国文学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。 ※日付は明治5年まで旧暦
浦 敬一(うら けいいち、万延元年4月4日(1860年5月2… 浦 敬一(うら けいいち、万延元年4月4日(1860年5月24日) - 1889年(明治22年)失踪)は明治時代の政治活動家、スパイ、大陸浪人。平戸藩出身。専修学校を卒業、大阪内外新報、長崎鎮西日報等で記者を務めた後、清に渡り、清国改造を唱える漢口楽善堂に参加、ロシア帝国の南下を防ぐため新疆偵察に向かい、消息を絶った。 万延元年(1860年)4月4日、平戸藩士坂本琢左衛門と澄子の次男として平戸島西ノ久保の母の実家に生まれ、事前の約束通り浦貞元の養子に出された。貞元の京都、壱岐赴任中は養母道子一人に育てられ、藩儒片山尚絅に学業の監督を受けた。 井上寅之助に読書習字を学んだ後、藩校維新館に入学、藩学寮値賀亘塾にも学び、明治5年(1872年)の廃校後は山県勇三郎等と楠本瑞山に学んだ。
猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日(万… 猪子 止戈之助(いのこ しかのすけ、1860年5月24日(万延元年4月4日) - 1944年(昭和19年)1月31日)は、明治期から昭和初期における外科医。京都帝国大学医科大学名誉教授、同附属病院初代院長、日本で最初の喉頭癌手術を行った。但馬国豊岡藩出身。 1860年6月(万延元年4月)但馬豊岡藩(現:兵庫県豊岡市)の家老猪子清の長男として誕生した。藩校、稽古堂を経て1873年(明治6年)東京外国語学校に入り、翌年東京医学校に転じ、1882年(明治15年)3月東京大学医学部を卒業した。同期には青山胤通・西郷吉義・佐藤三吉・田代正等がいる。 卒業した年の5月京都府立医学校教諭になり、1887年(明治20年)には医学校校長に就任、翌年には日本で初の喉頭癌全剔出摘出手術を成功させた。
野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安… 野崎 廣太(のざき こうた/ひろた、1859年6月19日(安政6年5月19日) - 1941年(昭和16年)12月2日)は、日本の実業家。岡山市北区平野出身。幼名・兵三。諱・通礼。筆名・汲古庵主。号・幻庵(げんあん)。 茶道への造詣が深く、1906年から1927年まで茶会の記事を新聞に書き続け、『茶会漫録』12冊を発刊。茶道に影響を与えた。近代小田原三茶人の1人。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年… 青木 宣純(あおき のぶずみ、安政6年5月19日(1859年6月19日) - 大正13年(1924年)12月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最も初期の「支那通軍人」[要出典]。通算13年の中国生活を送った。 佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に入学。明治12年(1879年)12月、砲兵少尉に任官し、翌年12月、陸士(旧3期)を卒業。 明治14年(1881年)4月、山砲兵第2大隊付となり、陸士教官、参謀本部出仕などを経て、明治17年(1884年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在。
高井 利一郎(たかい りいちろう、1859年6月17日〈安政… 高井 利一郎(たかい りいちろう、1859年6月17日〈安政6年5月17日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(姫路市会議員)、名望家、実業家。高井織物取締役社長。高井綿ネル工場主。万里銀行取締役。姫路足袋相談役。中播織物同業組合長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・中山治三郎の弟。1883年6月、先代高井つねの入夫となり、家督を相続した。初め県立師範学校を卒業し教鞭を執ったが、のち染木綿染手拭製造を創めた。経営は思うようにならなかったので方法を改め新たに海外より諸機械を購入し、原料を精選し製品が精良になるように努めた結果声価が高まった。 年産額32万円に達し直接国税954余円を納める盛況を見た。1916年、株式組織に変更し社長となった。
青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859… 青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859年6月15日) - 大正6年(1917年)12月23日)は、日本の医学者。専門は内科学。医学博士。1906年、帝国学士院会員・勲三等瑞宝章、1916年、勲一等瑞宝章、1917年12月14日、男爵叙爵。 江戸の麻布広尾の苗木藩下屋敷で藩士・青山景通の三男として生まれ、美濃国恵那郡苗木(現在の岐阜県中津川市苗木)にて育つ。幼名は捨松、助松。 1869年、平田信胤(平田鐵胤の子)の養子となり胤道と改名するが、1871年に養父の信胤が亡くなったため青山家へ戻る。 1882年(明治15年) 東京大学医学部卒業後、東京大学医学部病理学教室助手に就任。
浅野 吉次郎(あさの きちじろう、1859年6月14日(安政… 浅野 吉次郎(あさの きちじろう、1859年6月14日(安政6年5月14日) - 1926年(大正15年)2月26日)は、尾張国名古屋出身の発明家。 尾張藩の御用桶業者の浅野文六の次男として、1859年上畠町において生まれる。次男ではあったが、家業を13歳で継ぐこととなる。イギリス製の茶箱に着想し、木材板の製造を志す。1907年(明治40年)、マッチの軸木製造機を元にロータリー式ベニヤ板(浅野式合板)の製造に成功する。この発明に成功した日は11月3日とされており、この日は合板の業界団体である日本合板工業組合連合会とNPO法人木材・合板博物館が共同で「合板の日」として制定している。1910年(明治43年)に特許を取得した。
片倉 景光(かたくら かげみつ、安政6年5月13日(1859… 片倉 景光(かたくら かげみつ、安政6年5月13日(1859年6月13日)-1911年(明治44年)9月3日)は、旧仙台藩家老・白石片倉家第14代当主。キリスト教徒(日本基督一致教会の信徒)。父は13代景範。妻は赤城信一の長女・タケ(竹子)。娘婿は青葉神社宮司である健吉。 安政6年(1859年)5月13日、陸奥国刈田郡白石城にて生まれる。1870年(明治3年)5月、胆振国幌別郡に移住する。1880年(明治13年)10月7日、片倉家の家督を相続する。同年10月27日、会津藩洋医師赤城信一の長女で、聖公会の信徒であるタケ(竹子)と結婚する。1886年(明治19年)、押川方義から洗礼を受け、日本基督一致教会の信徒となる。
和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859… 和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859年6月10日) - 昭和14年(1939年)7月12日)は、日本の衆議院議員、農商務官僚、貴族院勅選議員。正三位、勲一等。墓所は永平寺東京別院長谷寺。旧姓・世良。 備後国双三郡三良坂村(現在の広島県三次市)で、世良都平の二男として生まれた。明治3年(1870年)、和田村の豪農・和田良二郎の養子となった。広島の遷喬舎という英語学校で学んだ後、神戸に出て英米人について学んだ。明治13年(1880年)、大阪で中島信行・古沢滋・河津祐之・草間時福らとともに国会期成同盟結成に参加し、『日本立憲政党新聞』の発行にあたった。 明治25年(1892年)、第2回衆議院議員総選挙に国民協会から出馬し、当選。
渡邊 魁(わたなべ かい、安政6年5月6日〈1859年6月6… 渡邊 魁(わたなべ かい、安政6年5月6日〈1859年6月6日〉- 大正11年〈1922年〉12月26日)は、明治中期の日本の裁判官。脱獄囚であったが、戸籍を偽って別人になりすまし、裁判官となったという特異な経歴で知られる。 安政6年(1859年)5月6日、島原藩士渡邊平丁の長男として江戸に生まれる。 商法講習所(一橋大学の前身)で学んだ後、三井物産長崎支店に勤務した。同支店では金銭出納を担当していたが、明治12年(1879年)2月以来、支店長の検印を盗み、会社の切符を偽造して三井銀行から金を盗み、出納簿を改竄し、460余円を横領。これが発覚し、同年7月2日、改定律例の「雇人盗家長財物律」により、終身懲役の有罪判決を受ける。
鳥海 哲四郎(とりうみ/とりのうみ てつしろう、1859年6… 鳥海 哲四郎(とりうみ/とりのうみ てつしろう、1859年6月6日(安政6年5月6日) - 1914年(大正3年)4月6日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 松沢与五郎の四男として出羽鶴岡藩領飽海郡牧曽根村(山形県飽海郡北平田村を経て現酒田市)に生まれ、1877年(明治10年)同郡上蕨岡村上寺(蕨岡村を経て現遊佐町)の鳥海午治郎の養子となる。蕨岡村会議員を経て、1896年(明治29年)飽海郡会議員、1899年(明治32年)より山形県会議員を務めた。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では山形県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 1907年(明治40年)蕨岡村長となり、1913年(大正2年)再選した。
安藤 亀太郎(あんどう かめたろう、1859年6月6日(安政… 安藤 亀太郎(あんどう かめたろう、1859年6月6日(安政6年5月6日) - 1905年(明治38年)2月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 相模小田原藩領足柄上郡沼田村(神奈川県足柄上郡岡本村、南足柄町を経て現南足柄市)で、名主・安藤為之助の息子として生まれる。1896年(明治29年)7月、東京法学院卒業。1876年(明治9年)8月、第二十一大区七小区足柄上郡沼田村御用掛を拝命し、学務委員を経て、1885年(明治18年)11月、神奈川県会議員に当選する。ほか、足柄上郡連合町村会議員、同郡塚原村外八箇村戸長、徴兵参事員を経て、1889年(明治22年)5月、岡本村長に就任した。1890年(明治23年)2月には神奈川県会議員に再選し、1892年(明治25年)4月、岡本村会議員となった。
高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5… 高橋 金治(たかはし きんじ、1859年6月4日(安政6年5月4日)- 1917年(大正6年)8月22日)は、明治から大正期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国胆沢郡、のちの岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て現奥州市)で、大地主、仙台藩水沢伊達家家臣・高橋万右衛門の二男として生れ、1893年(明治26年)1月、兄・敬章の跡を継承した。藩校立生館で学んだ。1875年(明治8年)水沢県に出仕したが廃県後に辞職した。 その後、商業に従事したが事業に失敗して各地を放浪した。宮城県下で教師をしていたフランス人と出会い、日本語教授、翻訳助手となり、仏学を学んだ。 1895年(明治28年)同志と水沢銀行の設立に参画した。
大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5… 大島 健一(おおしま けんいち、1858年6月19日〈安政5年5月9日〉- 1947年〈昭和22年〉3月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。陸軍大臣、貴族院勅選議員、大東文化学院総長(第3代)などを歴任した。 1858年(安政5年)、美濃国岩村藩(現在の岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)生まれ。岩村藩士・大島桂之進の次男。兄は3歳の時に病死したので、健一は一人息子として育つ。10歳の春を迎えると同時に文武所に入所する。文武所は1871年、廃藩置県と共に廃止され、知新館と改称されたので健一もここへ移った。 明治初年に岩村を離れる。奥三河・稲武の豪農・篤志家古橋家にて初期教育を受ける。
田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日… 田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1938年(昭和13年)2月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。ミツウロコ創業者。衆議院議員。 上野国緑野郡神田村(群馬県緑野郡美九里村、多野郡美九里村を経て現藤岡市神田)で、田島長十郎の二男として生まれた。東京小石川の芳野塾、塩谷塾で学ぶ。1883年(明治16年)専修学校(現専修大学)を卒業。同年3月、家督を相続した。 1886年(明治19年)多野郡新町駅前に運送店を開業。明治運送取締役、日本逓業取締役に就任。また、三鱗運送、三鱗石炭、群馬電力などを設立して取締役社長に就任した。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月1… 赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1942年(昭和17年)12月12日)は、明治から昭和前期の出版人、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国菊多郡、のちの福島県菊多郡上遠野村(石城郡上遠野村、遠野町を経て現いわき市遠野町上遠野)で、赤坂吉忠の息子として生まれる。村儒・小沢政美に師事し漢籍を学び、1873年(明治6年)磐前県立英学校・惜陰舎に入学。1875年(明治9年)5月に上京して慶應義塾に入塾し、成績優秀で1878年(明治11年)12月に卒業した。 福澤諭吉の勧めで横浜丸善商店に入店し、輸出入業に従事して一年余り在勤し、東京丸善本店(現丸善雄松堂)に転じ支配人となる。
織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6… 織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6月13日〉- 昭和11年〈1936年〉10月6日)は、金沢出身の官僚、蔵書家。初名は小太郎。字は斌叔。号は確斎、古仏、帯秋草盧。司法省、内務省勤務を経て、前田侯爵家学事顧問を務めた。無窮会調査主任。 1872年(明治5年)、小橋小学校(金沢市立馬場小学校)に入学し、習字算盤、『国史略』、『十八史略』、四書五経の素読を学んだ。1873年(明治6年)、変則中学に進み、入学者100名の成績上位10人程が属する甲類に入り、従来の学問に加え、洋算、英語を学んだ。成績優秀者は年俸25円で小学校教師に採用されたため、小覚も寄宿舎から小学校へ通った。 1874年(明治7年)、変則中学校が英語専門と法律産業専門に分かれたため、法律産業専門学校に入学し、箕作麟祥のフランス法翻訳書を学んだ。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(185… 堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(1858年6月10日) - 大正4年(1915年)12月20日)は、日本の衆議院議員(進歩党→憲政党→憲政本党)。農商務官僚。 信濃国埴科郡松代(現在の長野県長野市)出身。開拓使学校を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部採鉱冶金学科を卒業。1882年(明治15年)、三菱会社に入り、1896年(明治29年)に退社するまで鉱山長、支配人を務めた。1897年(明治30年)、農商務省に入って鉱山技監となり、足尾鉱毒事件に対する予防工事の設計・監督を担当した。その後、製鉄所長官心得、鉱山局長心得を歴任した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙(東京府第10区)で当選。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4月25日) - 1909年(明治42年)6月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(6期)。醤油醸造家、実業家。諱・尚正。 三河国宝飯郡前芝村(現・愛知県豊橋市前芝町)で、豪商にして代々郷士の加藤家当主・加藤六蔵正文の長男として生まれる。豊橋で漢籍を修めた後、1875年(明治8年)東京に出て慶應義塾に学び、愛知県第二中学校、宝飯郡教育会議長、尾三農工銀行、宝飯銀行各取締役、豊橋米麦取引所理事長、豊橋商業会議所会頭、ほか鉄道等の設立に関わる。 政治面では宝飯郡連合村会議員、同郡会議員、同郡農会長、所得税調査委員、愛知県会議員を経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙において愛知県第10区から大成会で立候補して当選する。
宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政… 宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政5年4月20日) - 1896年(明治29年)12月23日)は、明治時代の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 薩摩国伊佐郡宮之城郷(鹿児島県南伊佐郡宮之城村、薩摩郡宮之城町を経て現さつま町)に生まれる。藩校ついで私学校で学び、西南戦争への従軍を経て上京し、中村敬宇の門に入って英学を修める。盈進館にて教鞭を執ったのち、上海亜細亜学館教頭兼学生監、埼玉県発陽学舎教授、第一高等中学校、東京英語学校、官立農林学校予備校各教授などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第4区から出馬し、当選。弥生倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた。
西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安… 西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日)は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった。
秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年… 秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年4月18日) - 1934年(昭和9年)2月20日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。總持寺貫首、曹洞宗管長。別号・大忍。黙照円通禅師。 1858年(安政5年)、遠江国相良(現・静岡県牧之原市)に秋野新七の三男として生まれる。静岡・長興寺で出家し、1872年(明治5年)伊藤慶道について得度。曹洞宗大学専門本校(のち駒澤大学)卒業。 1880年兄弟子の加藤玄裔に嗣法。西有穆山に師事し「正法眼蔵」を研究。總持寺、天徳寺、大洞院を経て、1892年(明治25年)曹洞宗大学林学監、1900年教頭、1902年総監となる。
玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安… 玉田 金三郎(たまだ きんさぶろう、1858年5月29日(安政5年4月17日) - 1915年(大正4年)6月27日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(1期)。 大和国添上郡奈良町(現・奈良県奈良市)生まれ。弁護士試験に合格し、その業務に従事する。奈良市会議員、同参事会員、同議長、奈良県会議員、宅地貸借価格調査委員、大阪電気軌道(株)取締役となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において奈良1区から自由党所属で立候補するが次点で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で独立倶楽部から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年の第3回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して落選した。
須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4… 須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4月15日)- 1925年(大正14年)12月11日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡嶺村(群馬県碓氷郡嶺村、原市町大字嶺村、安中町を経て現安中市嶺)で、名主、養蚕・蚕種農家、須藤仲造、たに の長男として生まれた。安中藩士・池田豊與知重に師事して漢籍を修めた。1889年(明治22年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)の在外生として法律学を研究した。同年9月、家督を相続。農業、製糸業を営んだ。 嶺村副戸長、碓氷郡書記、群馬県収税属を歴任。原市町会議員を務め、1892年(明治25年)3月、群馬県会議員に選出され連続4期在任し、同常置委員、同副議長、同参事会員も務めた。
大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月… 大関 和(おおぜき ちか、1858年5月23日〈安政5年4月11日〉- 1932年〈昭和7年〉5月22日)は、日本の看護師である。 下野の黒羽藩の国家老であった大関増虎(弾右衛門)とその妻のテツの次女として生まれる。明治維新後、父は辞職し帰農を試みるがかなわず、一家あげて東京へ移り住み、そこで和は成長する。年頃を迎えると国元から縁談話が舞い込むようになり、1876年(明治9年)、和が19歳のとき、黒羽藩の次席家老であった渡辺家の次男、渡辺福之進(豊綱)と結婚し、やがて一男一女をもうけた。しかし、福之進と妾()の関係が清算されなかったことから離婚にいたって東京の実家へ戻る(上京は1881年〈明治14年〉のこと)。
岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857… 岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857年6月19日) - 昭和3年(1928年)3月19日)は、実業家。銀行家としてベンチャー企業への積極的な融資を行った。息子は、カトリック司祭で哲学者の岩下壮一、清周本人も聖公会に所属したクリスチャンであった。
山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日〈… 山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日〈1857年6月16日〉- 1939年〈昭和14年〉1月26日)は、日本の画家である。女性。常陸国茨城郡笠間(幕藩体制下の常州笠間藩領、現在の茨城県笠間市)の出身。正教徒で、聖名はイリナ。そのため、しばしばイリナ山下りんとも呼ばれる。 日本人初のイコン画家として知られる。日本で最も早期の女性洋画家の一人。 1873年(明治6年)に東京府に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。
笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月1… 笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月16日-1935年9月25日) は、日本の土木技師。明治時代の鉄道や電力などの近代化に大きく貢献した。私立鉄道学校創立者、利根発電社長、特殊合金社長、帝国鉄道協会理事、大日本国防義会監事。 岐阜県瑞浪市にて江戸の銅版絵師・笠井大五郎の二子に生まれ、1860-61年頃父とともに上京、神原精二、大沼枕山に漢学を、佐瀬得所に書を、福沢諭吉の学友・千本五郎(千邑五郎?)に英学を学ぶ。 1882年に工部大学校土木科卒業後、徳島県庁に出仕し、南海四県国道貫通工事を担当ののち、海軍省に移り、佐世保・呉の鎮守府 (日本海軍)建設工事を担当、九州鉄道、日本土木会社を経て、1892年小石川に「笠井染工場」と設計事務所「工業事務所」を開業、1897年私財を投じて私立鉄道学校を設立、1898年鉄道協会(帝国鉄道協会前身)設立、1900年京釜鉄道技術長、1909年利根発電社長(大株主)、1912年常総鉄道専務を務め、1915年工学博士号取得。
福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857… 福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857年6月14日) - 大正10年(1921年)9月2日)は、日本のジャーナリスト、政治家、史論家。
山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年… 山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年5月16日〉 - 1924年〈大正13年〉5月7日)は、日本の政治家。 山本郡富根村(後に二ツ井町となり現在は能代市の一部)出身。1873年(明治6年)に秋田市の白土塾で学んだ。家督を受け継いでおり、妻や子もいたが、妻や妻の兄(瀬谷長治)の理解を得て、1879年(明治12年)3月16日に上京した。東京では二松学舎に入学し秋田県出身の狩野良知の元に1週間に1度「不可解のカ処質問」をしに赴く勉学に励み、自由民権思想を吸収した。およそ4か月半東京に滞在した後、暑気に当たったことと流行のコレラの心配から帰郷した。1880年(明治13年)に遐迩新聞に「国会開設建議有志団結案」を発表。
魚住 逸治(うおずみ いつじ、1857年6月6日(安政4年5… 魚住 逸治(うおずみ いつじ、1857年6月6日(安政4年5月15日)- 1899年(明治32年)12月25日)は、明治時代の政治家、水利功労者。衆議院議員(3期)。 播磨姫路藩領加古郡、のちの兵庫県加古郡母里村(現稲美町)の農家・魚住逸平の子として生まれる。漢学を修める。1876年(明治9年)戸長、1879年(明治12年)郡書記を経て、1883年(明治16年)兵庫県会議員に当選する。1888年(明治21年)互選により常置委員となり、1890年(明治23年)3月、郡部会副議長に就任した。ほか、加古郡会議員を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では兵庫県第5区から出馬し当選。
三浦 守治(みうら もりはる、安政4年5月11日〈1857年… 三浦 守治(みうら もりはる、安政4年5月11日〈1857年6月2日〉 - 大正5年〈1916年〉2月2日)は明治・大正期の病理学者。帝国大学医科大学の初代病理学教授、帝国学士院会員などをつとめた。東京帝国大学名誉教授、従二位勲二等瑞宝章受章。 磐城国田村郡御木沢村(現福島県田村郡三春町)に、三春藩士・村田七郎兵衛の次男として生まれ、幼いとき三浦義純の養子となった。 明治2年(1869年)藩校の講文堂に入る。寄宿舎の同期に加藤木重教がいる。明治5年(1872年)東京に出て岡千仭の門に入り漢学を修めた。明治6年(1873年)大学東校に入り、明治14年(1881年)東京大学医学部を首席で卒業し、内科助手となった。
伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5… 伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5月29日〉- 昭和9年〈1934年〉2月19日)は、明治から昭和の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位勲一等伯爵。 安政4年(1857年)、長崎町年寄・伊東善平の三男として長崎酒屋町で誕生。早くから長崎英語伝習所でグイド・フルベッキに師事して英語を修め語学を修得。明治4年(1871年)に明治政府の工部省の試験に合格して上京、電信技師となったが退職、明治6年(1873年)に兵庫県に六等訳官として登用され、県令神田孝平から目をかけられた。明治9年(1876年)に神田が元老院議官として上京する際に、伊東も再び上京することを決意。