石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 -… 石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 - 昭和62年(1987年))は、日本の商工官僚・実業家。通産省鉱山局長。 鳥取県米子市明治町出身。石田悦の長男。 大正14年(1925年)、文官高等試験行政科に合格。昭和2年(1927年)東京商科大学(現一橋大学)卒。商工省に入省。 昭和15年(1940年)博覧会主任官として渡米、昭和16年(1941年)より満州国政府招聘、昭和20年(1945年)商工省復帰、鉱山局長、大阪商工局長を歴任。 昭和24年(1949年)退官、同年平仙レース(株)顧問、大日実業(株)取締役、昭和28年(1953年)カナダ国トロント市国際見本市に参加、欧米各国を歴訪した。
大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 19… 大島 一郎(おおしま いちろう、1903年9月8日 - 1985年4月21日)は、日本の実業家。中日新聞社社主、東海テレビ放送会長、東海ラジオ放送会長を務めた。愛知県東春日井郡小幡村(守山町→守山市を経て現在の名古屋市守山区)出身。 東海テレビ放送、東海ラジオ放送の創業者。 1927年(昭和2年)に早稲田大学政治経済学部を卒業し、時事新報を経て1929年(昭和4年)に祖父の大島宇吉が興した新愛知新聞社へ入社。傘下の國民新聞総務局長を経て1935年(昭和10年)に伯父の大島慶治郎が死去した後を受けて新愛知支配人となり、1941年(昭和16年)より同社社長に就任。翌1942年(昭和17年)には戦時下の新聞統制を受けて競合紙の名古屋新聞との合併により発足した中部日本新聞社の初代社長に就任し、名古屋新聞総務局長の小山龍三(小山松寿の娘婿)を副社長に迎える。
島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 194… 島木 健作(しまき けんさく、1903年9月7日 - 1945年8月17日)は、日本の小説家。本名は朝倉 菊雄(あさくら きくお)。高見順・中野重治・徳永直・林房雄らとともに、転向文学を代表する作家の1人。 農民運動に加わり、投獄され転向。この体験を元にした『癩』(1934年)を発表して注目された。『生活の探求』(1937年)は、当時の若者たちに多大な影響を与えた。遺作に『黒猫』(1945年)、『赤蛙』(1946年)などがある。 現在の北海道札幌市中央区生まれ。2歳で父と死別、母に育てられる。家計を助けるために高等小学校を中退、銀行の給仕・玄関番などをしながら苦学した。 旧制北海中学校(現・北海高等学校)卒業。
西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月… 西山 磐(にしやま いわお、1903年 <明治36年> 9月7日 - 1999年 <平成11年> 9月9日)は、日本の実業家。大阪ガス元会長・社長。位階は従三位。 高知県南国市出身。東京帝国大学法学部卒業後、1928年に阪神電気鉄道へ入社。1944年に大阪ガスへ中途入社し、監査役、常務取締役、代表取締役副社長を経て、1969年に代表取締役社長に就任。その後1973年より代表取締役会長を務め、1983年に取締相談役へ退く。その他には大阪工業会会長、社団法人大阪府計量協会会長、帝塚山学院理事長、朝日放送取締役も務めた。1999年死去。死没日付をもって従三位に叙された。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 199… 平松 幹夫(ひらまつ みきお、1903年9月6日 - 1996年5月8日)は、日本の英文学者、翻訳家。 東京生まれ。慶應義塾大学英文科卒。1926年より『三田文学』に小説や評論を発表。1927年より『三田文学』の編輯に当たるが病気のため、1978年に和木清三郎に交代。 藤原工業大学助教授、慶大工学部教授、1971年定年となる。岩波書店の『水上滝太郎全集』の編纂に当たる。戦後日本ペンクラブ理事。1953年、国際ペンクラブ大会に出席。日本翻訳家協会会長。東洋一の筆名を使った。
野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981… 野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981年1月3日)は、日本の東洋史学者。専攻は中国近現代史。 1903年、北海道札幌市で生まれた。生家は札幌市内で勧工場(現在の百貨店の前身)を営んでいた。高輪中学、浦和高校文科丙類を経て、東京帝国大学東洋史学科に進学。同級には、江上波夫、増井経夫がいた。1930年、卒業論文『高蝶(中国古代の結びの神)について』を提出して卒業した。これは、フランスの東洋学者・マルセル・グラネの説を参照しつつ論じたものであった。 卒業後は史学会委員(有給)となった(1932年まで)。1930年、『史学雑誌』に郭沫若著『中国古代社会研究』の書評を発表。史学会幹部からは良い評価が得られなかったものの、翌1931年に偶然亡命中の郭沫若に東洋文庫で会い、同書について意見交換。
棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5… 棟方 志功(むなかた しこう、1903年〈明治36年〉9月5日 - 1975年〈昭和50年〉9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。 青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。 棟方は、昭和26(1951)年11月、疎開先の富山県福光町から鈴木信太郎の旧アトリエだった荻窪四丁目57番地(現・上荻一丁目)の家に移り、昭和50(1975)年9月13目、72歳で亡くなるまで杉並に住んでいた。
長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 19… 長谷川 保(はせがわ たもつ 、1903年9月3日 - 1994年4月29日)は、日本の福祉事業家・教育者・政治家。 衆議院議員(7期)、衆議院文教委員長、社会福祉法人聖隷福祉事業団理事長、学校法人聖隷学園理事長、聖隷学園浜松衛生短期大学学長などを歴任した。 福祉事業家として、結核療養所など医療施設の設立を推進し、多くの患者を救うことに尽力した。これらの医療施設は、のちに聖隷福祉事業団や聖隷学園などで構成される聖隷グループに発展した[要出典]。また、日本で初めて特別養護老人ホームやホスピスをつくった人物としても知られている[要出典]。なお、政治家としても活動しており、衆議院議員を7期務め、社会福祉の向上に力を注いだ[要出典]。
千々和 実(ちぢわ みのる、千々和實、1903年9月2日 -… 千々和 実(ちぢわ みのる、千々和實、1903年9月2日 - 1985年9月5日)は、日本史学者。東京学芸大学名誉教授。 福岡県鞍手郡木屋瀬町(現・北九州市八幡西区)生まれ。1927年広島高等師範学校卒業。1927年から1929年まで長崎県立長崎高等女学校教諭。1932年東京文理科大学卒業。卒業論文は「中世新宗教発展の過程と遁世者の意義」。 群馬県師範学校教諭を務めたのち、1942年東京府青山師範学校教諭、1949年東京学芸大学教授。在職中の1961年から1963年には同大学附属図書館長も務めた。1967年に定年退官し、名誉教授。同年に都留文科大学教授、1968年に上武大学教授となり、1972年に退職。
田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たば… 田畑 修一郎(たばた しゅういちろう、本名:田畑 修蔵(たばた しゅうぞう)、1903年(明治36年)9月2日 - 1943年(昭和18年)7月23日)は、島根県出身の作家。代表作は1933年に発表し、芥川賞候補にもなった『鳥羽家の子供』。 島根県美濃郡益田町(現益田市)に生まれる。3歳の時に母が病死、9歳の時に銀行支店長だった父も自殺し、旅館を営む田畑キクの養子になる。早稲田大学英文科に入学するも中退。その後、宇野浩二に師事する。また、火野葦平・寺崎浩・丹羽文雄らと「街の会」を作り、同人雑誌『街』を創刊する。 1933年に自伝的創作『鳥羽家の子供』を発表。『鳥羽家の子供』は、芥川賞の候補作となり、同じく候補作であった中山義秀の『厚物咲』と競うも落選する。
張 基永(チャン・ギヨン、朝鮮語: 장기영、1903年9月1… 張 基永(チャン・ギヨン、朝鮮語: 장기영、1903年9月1日または10月20日 - 1981年5月17日)は、大韓民国の独立運動家、政治家、実業家。制憲韓国国会議員、逓信部長官、ソウル特別市長を歴任した。 江原道寧越郡出身。寧越公立普通学校、春川農業学校、中東中学校高等科を経て、1924年に中央大学政治経済科卒、1930年にバトラー大学またはバークレー大学政治学部卒。インディアナ大学研究院国際法専攻。ロシア自由市にある全韓軍事委員会委員を経て、1932年より大韓民国臨時政府駐在ワシントン欧米委員部委員を務め、独立資金の募金や在外朝鮮人への独立思想の喚起などを行った。第二次世界大戦中に戦略情報局での情報・通信に関する特殊教育を受けた後、米軍の空軍中領として参戦しながら、重慶臨時政府の連絡員を務めた。
平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1… 平林 彪吾(ひらばやし ひょうご、1903年9月1日 - 1939年4月28日)は、日本の小説家。 長男の松元眞はジャーナリストでテレビ朝日元報道局長を務め、現在文筆家。著書に 『父、平林彪吾とその妻のこと』『父 平林彪吾とその仲間たち 私抄 文学・昭和十年前後』などがある。
三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 … 三原 スヱ(みはら スヱ、1903年〈明治36年〉9月1日 - 1986年〈昭和61年〉7月8日)は、日本の社会事業家。四国唯一の女子専門少年院「丸亀少女の家」(香川県丸亀市)の創設者にして初代院長である。終戦直後に戦災孤児の少女を引き取ったことを皮切りとして、私費を投じて更生施設として「少女の家」を開設、約800人の少女の保護と更生に尽くした。更生保護施設「和光園」により、出院後の少女たちのアフターケアにも努めた。晩年は研修宿泊施設「瀬戸青少年会館」を設立して、青少年育成のために尽力した。別表記は三原スエ、三原すゑ、三原寿恵など。 島根県益田町(現・益田市)で誕生した。幼少時に両親が離別して、母子家庭に育った。
後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1… 後藤 はつの(ごとう はつの、1903年〈明治36年〉9月1日 - 2017年〈平成29年〉5月15日)は、日本の画家。 1903年(明治36年)、新潟県中頸城郡名香山村の赤倉温泉で出生。14歳の時に上京し、20歳で結婚。2人の子供を育てた。 73歳の時に孫からの一言をきっかけにカルチャースクールで絵を習い始め、99歳までに19枚の絵を描いた。82歳で現代童画展新人賞を受賞し、96歳で同文部大臣奨励賞を受賞した。100歳を超えてからはかるたにも挑戦し、112歳の時に全国かるた協会より初段を授与された。生前は東京都墨田区在住で且つ同区の最高齢だった。 2017年5月15日午前1時36分、自宅で誤嚥性肺炎のため死去。
小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8… 小山田 政弘(こやまだ まさひろ、1903年〈明治36年〉8月30日 - 1990年〈平成2年〉1月23日)は、日本の政治家。鹿児島県姶良郡蒲生町長(第10代、3期)。元は旧制鹿児島二中教諭を長く務めた教育者。 鹿児島県姶良郡蒲生村(後の蒲生町、姶良市の一部)生まれ。1922年3月鹿児島県立加治木中学校(現鹿児島県立加治木高等学校)卒業。1926年3月東洋大学国文科卒業。鹿児島実業学校(現鹿児島実業高等学校)、鹿児島和洋裁縫女学校(現鹿児島城西高等学校)勤務を経て、鹿児島県立第二鹿児島中学校(鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)で国語・漢文の教諭を1927年8月31日から約20年間務める。1947年4月重富村立重富中学校初代校長に就任。
照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年… 照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ選手、ゴルフコース設計者、ゴルフ場支配人。九州初のプロゴルファー、学士プロゴルファー第2号(村上伝二に次ぐ)である。 福岡市出身。父が筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の会社の支配人をしていた関係で、伝右衛門の妻・伊藤白蓮(燁子)とともに、別府市の伊藤別荘(伝右衛門が白蓮のために建設したとされる)に一時滞在していたが、その間に、のちに白蓮事件を起こす宮崎龍介と白蓮が、1920年1月31日に初めて別府の楠港で出会った場に、ただ一人白蓮に連れられて立ち会っている。地域情報誌「月刊アドバンス大分」の1974年の記事において「その朝、別府桟橋まで宮崎を迎えに行く燁子(あきこ)に同行したが、黄八丈の袷に縫紋の羽織を着た燁子の姿をまぶしいまでに覚えている」と語っている。
野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29… 野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29日 - 平成9年(1997年)9月29日)は、日本の応用化学者。名古屋大学名誉教授、三重大学名誉教授(元学長)。 山梨県出身。1927年東京帝国大学応用化学科卒業。1929年東京工業大学講師、1930年助教授を経て、1941年名古屋帝国大学教授、1961年年名古屋大学工学部長、1967年三重大学学長。1953年年フルブライト・プログラム交換教授として渡米した。天然雲母の不足から合成雲母の研究と試作をおこない、透明大型の結晶の製造に成功し、その特性を解明した。1973年勲二等旭日重光章受章。 妻のうめは甲野棐の二女。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8… 岩本 常次(いわもと つねじ、1903年 <明治36年> 8月28日 - 1993年 <平成5年> 10月8日)は、日本の経営者。北海道電力社長を務めた。位階は従三位。 兵庫県出身。開成中学校や第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、同年に上毛電力に入社。片品川水系の丸沼発電所などの水力発電所の建設に携わる。 日本発送電への統合後は藤波収建設局長の下で九州や北海道での土木部長を務め、戦後は藤波の推薦を得て1951年9月に北海道電力に転じ理事・土木部長となり、1952年11月に取締役に就任。常務、副社長を経て、1966年5月に社長に就任した。1974年5月に会長に就任し、1983年6月に取締役相談役を経て、1985年6月から相談役を務めた。
八木 佐吉(やぎ さきち、1903年(明治36年)8月28日… 八木 佐吉(やぎ さきち、1903年(明治36年)8月28日 - 1983年(昭和58年)12月15日)は、昭和期の出版人、作家。丸善の歴史を代表する大番頭。 1903年(明治36年)東京府生まれ。1916年(大正5年)、麹町小学校を卒業し丸善に入社。洋書ストック係、出版企画課長、取締役洋書管理部長、丸善「本の図書館」館長などを歴任し、同社の“生き字引”と呼ばれた。また、自然科学書協会の目録や「学鐙」の編集のほか、和洋書籍の目録・編集を広く手掛け、洋古書の第一人者といわれる。
横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 19… 横田 豊秋(よこた とよあき、1903年8月27日 - 1936年8月28日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優である。本名同じ。撮影助手、撮影技師、助監督、監督、脚本家を経て、映画スターになった稀有な人材である。脚本家・俳優としての名は宇留木 浩(うるき ひろし)である。 1903年(明治36年)8月27日、東京市麹町区内幸町1-5(現在の千代田区内幸町1-5、現在の千代田区立内幸町ホールのあたり)に生まれる。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子(本名・横田冬)である。 当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校(現在の正則高等学校)在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年(大正9年)に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年(大正10年)、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる。
中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1… 中内 正利(なかうち まさとし、1903年8月25日 - 1985年10月15日)は、英語学者。 大阪市生まれ。1925年大阪市立高等商業学校(現大阪公立大学)卒業、横浜正金銀行入行、大阪支店勤務。36-45年マニラ、ニューヨーク、リオデジャネイロ、青島の各支店に勤務。39年ニューヨーク市立大学で英語学を学ぶ。46年横浜正金銀行大阪支店、47年東京銀行に移行し、48年東京本店勤務。58年定年退職、60年早稲田大学専任講師、66年教授、74年定年退職。75―84年日本実用英語学会会長。84年名誉会長。墓所は小平霊園(13区2側)。
辰巳 佐太郎(たつみ さたろう、1903年〈明治36年〉8月… 辰巳 佐太郎(たつみ さたろう、1903年〈明治36年〉8月25日 - 1990年〈平成2年〉1月25日)は、日本の政治家。大阪府東大阪市の初代の市長(1期)。合併前の布施市の最後の市長(第8代、1期)。大阪府議会議長(第52代、第55代) 大阪府出身。1931年(昭和6年)、中央大学卒業。1937年(昭和12年)、布施市の発足により、市会議員となる。太平洋戦争後の1951年、大阪府議会議員に転じる。以後、連続3期。1963年、布施市長に就任した。この間、布施商業会議所会頭、自由民主党布施支部長や、自民党大阪府連選対副委員長も務めた。 1967年、布施市は河内市と枚岡市と合併し、東大阪市が発足。
青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25… 青木 秀夫(あおき ひでお、1903年(明治36年)8月25日 - 2001年(平成13年)1月27日)は、日本の内務・厚生官僚。最後の官選新潟県知事。 栃木県出身。水戸高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し山口県属兼社会局属、地方事務官となる。 以後、内務省社会局勤務、鹿児島県社会課長、三重県教育課長、同工場課長、地方警視、岡山県警察部保安課長兼工場課長、神奈川県警察部保安課長、奈良県書記官・警察部長、厚生省傷兵保護院補導課長、同省生活課長、同母子課長、軍事保護院総務課長、東北総監府官房主幹、内務省調査官、同大臣官房調査課長などを歴任。
芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1… 芳川 周二(よしかわ しゅうじ、1903年8月25日 - 1992年3月3日)は、日本の銀行家。関西相互銀行(現在の関西アーバン銀行)社長を務めた。広島県広島市出身。 1926年に山口高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1958年10月に関西相互銀行専務に就任し、1968年4月には社長に就任。1973年11月に取締役相談役と明光証券社長に就任し、1978年12月に会長を経て、1982年3月から取締役相談役を務めた。 1970年10月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲五等双光旭日章を受章した。 1992年3月3日急性心筋梗塞のために死去。88歳没。
矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年… 矢野 登(やの のぼる、1903年8月25日 - 1993年4月17日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(2期、自由民主党)。 栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)出身。1921年栃木県立小瀬農学校卒。1938年三共日産自動車(株)を創立。ほか三共物産(株)、(株)東武宇都宮百貨店、日産プリンス栃木販売(株)を創立。代表取締役などに就任した。この他宇都宮商工会議所副会頭や栃木県石油協同組合理事長を歴任。1968年の第8回参議院議員通常選挙に栃木県選挙区から自由民主党公認で立候補して初当選。第2次田中内閣で通商産業政務次官を務めた。1974年7月の第10回参議院議員通常選挙で落選。同年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903… 金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903年8月24日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の評論家、随筆家、詩人、作家、ドイツ文学者、アナウンサー。 号は聴川(チョンチョン、청천/聽川)。 全羅南道木浦に生まれ。幼少期いっとき慶尚南道安東で過ごす。1927年に法政大学文学部独文科卒。1925年に文学評論家として登壇、以後随筆の大家として名を鳴らした。 解放後は京城放送局員、ソウル大学校中央図書館長、ソウル大学校・成均館大学校教授を歴任したが、自宅にいた際に北朝鮮に拉致され、以後消息不明。
久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月2… 久保田 円次(くぼた えんじ、1903年〈明治36年〉8月23日 - 1998年〈平成10年〉2月1日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(8期)、防衛庁長官、群馬県議会議員、伊勢崎市議会議員・同議長を務めた。群馬県出身。伊勢崎市名誉市民。 1903年(明治36年)、群馬県新田郡笠懸村大字阿左美(現・みどり市笠懸町阿左美)に、和三郎・ひでの三男として生まれる。生家は果樹の栽培などを行う農家だった。兄・茂一郎は後に伊勢崎商工会議所会頭を務めた。 笠懸村尋常高等小学校を経て、1923年(大正12年)栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高等学校)を卒業。同年兄・茂一郎とともに久保田兄弟鉄工所を設立し、副社長に就任。
長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23… 長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23日 - 1977年(昭和52年)12月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 石川県出身。1926年東京高等工業学校電気化学科卒。司法官試補となり、検察官となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙で石川1区から立候補して当選する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦で立候補して落選した。戦後第1回の1946年の第22回衆議院議員総選挙で石川県(全県1区)から立候補したが、次点で落選。翌1947年の第1回北海道知事選挙(1947年北海道庁長官選挙)で無所属で立候補したが落選した。1949年の総選挙と1950年の参院選に北海道から立候補したが、いずれも落選。
楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1… 楠田 匡介(くすだ きょうすけ、1903年8月23日 - 1966年9月23日)は、日本の推理作家、時代小説家。 1903年8月23日、北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)に生まれる。本名は小松保爾(こまつ やすじ)。 高等小学校卒業後、中学校の代用教員や札幌郵便局の電信係を経て、1924年に樺太の恵須取町(現・ウグレゴルスク)に渡り、パルプ工場に勤務。1927年、北海道に戻る。1934年に上京し、さまざまな職業を転々とする。職も30件以上変えた経験があるという。 1938年に結婚し、能率研究所につとめ、明治大学などの講師をつとめる。1943年、千葉県市川市に転居(1941年頃から市川市真間に住んだとする文献もある)。
本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8… 本多 嘉一郎(ほんだ かいちろう、1903年(明治36年)8月23日 - 1980年(昭和55年)5月15日)は、日本の映画人、地方政治家。第4代調布市長を1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)までの4期16年にわたり務めた。 1903年(明治36年)、大分県(現在の杵築市)に生まれる。 20代の頃の本多は、東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)の撮影部に在籍し、1930年(昭和5年)久保義郎監督、岡田静江主演の無声映画『一度はすべての女に』の撮影技師などを務めた。 1931年、東亜キネマの経営不振から同社の業務を代行するために発足した東活映画社に移籍した。京都の映画会社である東活映画社が、1932年(昭和7年)に東京地区に撮影所を新設しようとした際、東京へ調査に派遣したのが本多であった。
河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月… 河原 喜久恵(かわはら きくえ、1902年(明治35年)9月21日 - 1997年(平成9年))は昭和期の声楽家(ソプラノ)。 東京府芝区田村町(現在の東京都港区)出身。士官である河原喜久蔵の二女として生まれる。1920年(大正9年)に日本高等女学校(現・相模女子大学)を卒業。1923年(大正12年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に入学して長坂好子とマルガレーテ・ネトケ=レーヴェに師事し、1927年(昭和2年)3月に同校本科声楽部を卒業。1929年(昭和4年)3月に同校研究科声楽部を修了。山田耕筰の推薦によりコロムビアに入社。 1930年(昭和5年)「ザッツ・オーケー」「麗人の唄」、1931年(昭和6年)「月の浜辺」が大ヒット。
山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日 - 19… 山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日 - 1958年1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 静岡県駿東郡御厨町(現:御殿場市)出身。1915年御殿場実業学校卒。卒業後は満洲に渡り、満鉄に入るが、社会主義に関心を寄せ、満鉄を退職し、帰国した。帰国後は東京帝国大学に聴講生として通い、帰郷。以後、農民運動の指導者になる。この間、看護婦の藤原道子と結婚した。 その後、労働農民党、社会大衆党に入り。沼津市議、静岡県議を経て。1936年の第19回衆議院議員総選挙において静岡2区(当時)から社会大衆党で立候補して初当選する。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
高橋 健二(たかはし けんじ、1902年9月18日 - 19… 高橋 健二(たかはし けんじ、1902年9月18日 - 1998年3月2日)は、日本のドイツ文学者、翻訳家。中央大学名誉教授。ヘルマン・ヘッセやエーリッヒ・ケストナー作品の翻訳者として知られる。 東京・京橋生まれ。第一高等学校在籍時代は尾崎秀実と親しかった。1925年東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業、成蹊高等学校のドイツ語教師となる。1931年ドイツに留学し、スイスでヘルマン・ヘッセに会った。ヘッセやエーリッヒ・ケストナーの翻訳・紹介につとめたほか、ゲーテやグリム兄弟やハンス・カロッサなどドイツ文学に関する著書・翻訳多数。 大日本帝国がナチスドイツと1936年に日独防共協定、1937年に日独伊防共協定、1940年に日独伊三国同盟を締結し、枢軸国を形成していくなか、高橋は大政翼賛会宣伝部長に就任し、1942年に『文学と文化 評論と随筆』、 1943年に日独文化協会からヘルマン・シエーファー共編『大独逸に関する優良日本図書短評付撰集 第1』、『戦争生活と文化』(大政翼賛会宣伝部) 、1945年には 『美しい日本への道 反省と発足』(大日本飛行協会)などを刊行し、ナチ文学紹介も行った。
富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1… 富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1980年6月4日)は、日本の美術史家、美術評論家。男爵・安場末喜の孫。 東京市生まれ。学習院初等科、中等科、高等科を経て、1923年東京帝国大学文学部フランス文学科に進学する。翌年美学美術史学科に転科し、1926年同学科を卒業。1927年学習院講師、1929年学習院教授。1931年から1933年にかけて、宮内省在外研究員として欧米に留学。1949年、学習院大学文学部教授。1954年、美術評論家連盟会長。1959年、国立西洋美術館初代館長に就任するが、1968年に購入作品の真贋問題が追及された責任をとって辞任した。1968年大阪万国博覧会美術館館長、共立女子大学教授。
宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 19… 宮森 和夫(みやもり かずお、1902年9月17日 - 1988年1月9日)は、日本の実業家。元丸善石油(現コスモ石油)社長、会長。広島県三原市出身。1971年、藍綬褒章受章。
馬上 義太郎(まがみ ぎたろう、まがみ よしたろう、1902… 馬上 義太郎(まがみ ぎたろう、まがみ よしたろう、1902年9月15日 - 1971年1月6日)は、日本のロシア・ソビエト文学研究者、翻訳家。 東京府東京市浅草区浅草千束町(現・東京都台東区千束または同区浅草)のうなぎ料理屋の家に長男として生まれる。生家跡で「エロス堂書店」を営む一方、1928年、松竹キネマ蒲田撮影所に開設された「脚本養成所」(後に「松竹映画脚本研究所」と改称)の研究生(第1期生)を経て、脚本部の客員として従事。1931年3月、東京外国語学校専修科(露語)卒業。ナウカ社に勤務。兵役で中国北部に出征、帰国後は東亜研究所員(または嘱託)としてソ連の新聞、放送の翻訳に従事。戦後は東京都千代田区役所に定年まで勤務。
山本 空外(やまもと くうがい、1902年9月13日 - 2… 山本 空外(やまもと くうがい、1902年9月13日 - 2001年8月7日)は、哲学者、浄土宗の僧。 1902年、広島市南区金屋町生まれ。旧名・幹夫。1926年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 1927年より(旧制)山形高等学校教授、1929年より広島文理科大学助教授。1929から1931年まで欧米に留学して学ぶ。1935年「哲学体系構成の二途 プローティーノス解釈試論」を提出して文学博士号を取得。1936年より広島文理科大学教授。1945年に被爆し、同年望月信亨のもとで出家する。1947年、広島文理科大学を退官する。1952年より愛媛大学文理学部教授をつとめた。1953年、法蓮寺住職となり、また広島大学文学部教授となった。
木村 寅太郎(きむら とらたろう、1902年(明治35年)9… 木村 寅太郎(きむら とらたろう、1902年(明治35年)9月13日 - 1972年(昭和47年)4月13日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。 木村吉三郎の長男として、群馬県新田郡笠懸村(笠懸町を経て現みどり市)に生まれる。旧制群馬県立太田中学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学農学部実科卒業。 県農会技師、大日本青年団組織課長、群馬県会議員、大政翼賛会群馬県支部常務委員、同臨時中央協力会議員、県翼賛少年団副団長、大政翼賛会県支部錬成本部長、県翼賛壮年団副団長、文部省委員などを歴任した。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では群馬県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 -… 島袋 俊一(しまぶくろ しゅんいち、1902年9月11日 - 1965年9月17日)は、日本の植物病理学者・菌学者・教育者。歌人としても活躍し、小林 寂鳥(こばやし じゃくちょう)と号した。 1902年、沖縄県国頭郡伊江村出身。 1924年に旧制鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学農学部)を卒業後、名瀬実科高等女学校(鹿児島県立奄美高等学校の前身の一つ)、鹿児島県第二師範学校の教員を務める。1937年に帰郷して沖縄県立八重山農学校(現在の沖縄県立八重山農林高等学校)の初代校長を務め、1944年からは沖縄青年師範学校の校長を歴任した。 1950年に琉球大学が開学すると同大学の教授に就任、1959年に農学部長、学部改組により農家政学部長、農家政工学部長を歴任した。
久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - … 久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - 1971年11月5日)は、アイヌ文化およびアイヌ語の研究者。金田一京助の薫陶を受け、知里真志保、山田秀三と交友関係を持ち、ユーカラなどの口承文芸や宗教儀礼(儀式参照)の記録に多大な貢献を残した。墓所は多磨霊園。
大和田 弥一(おおわだ やいち、1902年(明治35年)9月… 大和田 弥一(おおわだ やいち、1902年(明治35年)9月10日 - 1999年(平成11年)3月13日)は、日本の政治家。初代福島県いわき市長。旧平市(現・いわき市)長。 福島県出身。弘前高校を経て、1927年、高等文官試験(行政科)に合格。1928年、京都帝国大学法律学科卒。卒業後は関東庁に勤務する。1936年、関東庁警察部長となり、1939年、帰国。帰国後は岩手、鳥取、茨城、京都、福島の各府県に勤務する。この間、司政官としてシンガポールに派遣される予定だったが、出発直前に終戦となり、派遣は取りやめになった。 終戦後は福島県総務部長となり、1947年、福島県副知事に就任。1953年の第3回参議院議員通常選挙において福島地方区から自由党公認で立候補したが落選した。
小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 - 19… 小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 - 1960年4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。第3次吉田内閣で賠償政務次官を務めた。 大阪府泉大津市出身。貧家の生まれであり、小学校を中途退学せざるを得なくなり、自由労働者の中に身を投じたという。 1945年、土建業の寅林組を設立。1946年、第22回衆議院議員総選挙で当選(以後第28回まで当選7回)。自由民主党大阪府連合会会長、大阪府漁港協会会長、大阪府土木建築協同組合理事長、大阪府消防協会長など要職を歴任する。 1954年11月、日興連汚職事件により福田繁芳と共に収賄罪の容疑で逮捕され、後に懲役6か月・執行猶予1年の判決を受けた。
赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 197… 赤羽 善治(あかばね ぜんじ、1902年9月9日 - 1973年12月4日)は、日本の経営者。長野県出身。 旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。東邦電力での勤務を経て、1951年6月に九州電力理事に就任し、取締役、常務、副社長を経て、1960年5月に社長に就任。1967年5月には会長に就任。福岡商工会議所会頭、福岡証券取引所理事長、日本放送協会経営委員、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。 1961年10月に藍綬褒章を受章し、1965年12月に紺綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1973年12月4日に急性肺炎のために死去。
坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9… 坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9日 - 1982年(昭和57年)11月19日)は日本の男性地球物理学者、随筆家。東京大学名誉教授。理学博士で、寺田寅彦の弟子として知られている。
和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日… 和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日 - 1995年(平成7年1月5日))は、日本の地球物理学者・歌人。専門は、気象学・地震学。理学博士(東京帝國大学・1932年)。初代気象庁長官。深発地震の存在を証明し、分布を指摘してプレートテクトニクスに先鞭をつけた。 愛知県名古屋市生まれ。息子に物理学者・和達三樹がいる。 西須諸次(さいす もろじ)の名でエッセーを執筆した。 天王寺中学、東京開成中学、一高を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝國大学理学部物理学科を卒業。中央気象台に入り、1932年、東京帝國大学から理学博士の学位を取得する。 1947年(昭和22年)第6代中央気象台台長につき、1956年(昭和31年)に組織改変により初代気象庁長官に就任。
大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985… 大谷 一雄(おおや かずお、1902年9月8日 - 1985年6月28日)は、日本の実業家。住友化学元社長。富山県出身。 1928年に京都帝国大学法学部を卒業し、住友合資本社に入社した。 1935年に住友化学工業に転職、1944年から1946年まで住友金属工業で勤務したのち、1946年に住友化学工業に復帰し、1956年から専務を務め、1963年2月から1965年2月まで社長を務めた。 関西経済同友会幹事や全日本剣道連盟顧問、副会長なども務めた。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1985年6月28日心筋梗塞のために大阪市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
伊波 南哲(いば なんてつ、1902年9月8日 - 1976… 伊波 南哲(いば なんてつ、1902年9月8日 - 1976年12月28日)は日本の詩人・作家。 八重山諸島石垣島出身。本名・興英。高等小学校卒。1923年近衛兵として上京。除隊後警視庁に入り、丸の内警察に勤務。佐藤惣之助に師事し詩之家同人となる。27年詩集『南国の白百合』を出版。41年警視庁を退職、敗戦時には福岡にいて火野葦平らと交わっていた。火野の『革命前後』に「志波春哲」として登場する。 東京練馬区の自宅にて肺炎のため死亡(享年74)。 代表作は1500年に石垣島で起こったオヤケアカハチの乱を題材にした長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』。沖縄地方の民話・怪談を多数書き残している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年… 国井 淳一(國井、くにい じゅんいち、1902年(明治35年)9月7日 – 1974年(昭和49年)10月29日)は、昭和期の詩人、農民運動家、政治家。参議院議員、栃木県那須郡親園村長。 栃木県那須郡親園村(現大田原市親園)出身。1924年(大正13年)東洋大学文化学科を卒業した。その後、上智大学哲学科を中退。 1925年(大正14年)本所キリスト教産業青年会内産業学院主事に就任。この頃、白鳥省吾に師事し、『日本詩人』、『地上楽園』、『詩神』、『北方詩人』などに農民詩を発表した。1934年(昭和9年)親園村長に就任し1期在任した。また、農民青年運動を指導し全国農村青年連盟委員長となった。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して次点であったが、膳桂之助が公職追放で当選を辞退したため当選者となり(補欠、任期3年)、国民民主党に所属し参議院議員に1期在任した。
滝沢 英輔(瀧澤 - 、たきざわ えいすけ、1902年9月6… 滝沢 英輔(瀧澤 - 、たきざわ えいすけ、1902年9月6日 - 1965年11月29日)は、日本の映画監督、脚本家である。本名瀧澤 憲( - けん)名義で大正末期に脚本家としてスタート、俳優兼助監督として脚本も手がけ、「英輔」名義で監督となった。第二次世界大戦前の京都にかつて存在した脚本家集団「鳴滝組」に参加、映画史に名を残す。マキノ正博、山中貞雄との共同作業、戦後の女性映画・青春映画でも知られる。 1902年(明治35年)9月6日、東京市芝区三崎町(現在の港区三田4丁目)の葉茶屋の家に生まれる。3歳上の兄は映画監督の二川文太郎(本名・瀧澤吉之助)である。旧制東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)卒業後、新劇の研究をすべく劇研究会を組織した。
金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 199… 金子 文六(かねこ ぶんろく、1902年9月6日 - 1991年5月25日)は、日本の法学者・元裁判官・元外交官。専門は、民事手続法(民事訴訟法・民事執行法・民事保全法)。法学博士(中央大学)。中央大学名誉教授。 山梨県甲府市出身。山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)卒業。1926年高等文官試験司法科合格。1927年中央大学法学部卒業。司法官試補。1928年東京地方裁判所判事に就任。その後、福島地方裁判所判事、仙台地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を経て、1936年中華民国南京日本総領事館領事に就任。1942年中華民国天津日本総領事館領事。1946年東京控訴院判事。1948年中央大学法学部教授。