多田 房之輔(ただ ふさのすけ、文久2年6月9日(1862年… 多田 房之輔(ただ ふさのすけ、文久2年6月9日(1862年7月5日) - 1940年(昭和15年)11月18日)は、日本の教育者。池袋幼稚園主。号は総南。 安房国望陀郡神納村(現在の千葉県袖ケ浦市)出身。1881年(明治14年)、千葉県師範学校を卒業。千葉県・栃木県・東京府の小学校長を歴任し、さらに千葉県師範学校・栃木県師範学校を務めた。1901年(明治34年)、東京高等師範学校研究科を修了。国民教育社を創設して、雑誌「日本之小学教師」を発行した。 また1888年(明治21年)、神田区に一橋幼稚園を創設し、1915年(大正4年)に池袋に移転した。 その他、神田区会議員、麹町区学務委員、千葉県教育会副会長、千葉師範学校校友会副会長、西巣鴨教育会副会長、帝国教育会主事、帝都教育会理事、東京保育協会監事長、全国聯合教育会常設委員を務めた。
箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862… 箕作 元八(みつくり げんぱち、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 大正8年〈1919年〉8月9日)は、日本の西洋史学者。文学博士、テュービンゲン大学哲学博士。岡山県士族。 1862年(文久2年)、湯島中坂下(現・東京都文京区)にあった祖父・箕作阮甫の家で生まれた。父・秋坪が開設した私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学。1885年(明治18年)、東京大学理学部動物学科を卒業。動物学研究のためドイツ・フライブルク大学に留学するも、近眼のため顕微鏡の使用に困難を感じ、西洋史学の研究に転向した。 ハイデルベルク大学・テュービンゲン大学などでトライチュケやランケの指導を受け、1891年(明治24年)テュービンゲン大学で哲学博士ドクトル、デル、フイロソヒー、マキスデルアルチユームを取得。
加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1… 加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月19日)は、明治後期から大正にかけての日本の弁護士・政治家である。 司法官を経て名古屋市で弁護士を開業したのち名古屋市会議員に選ばれ、市会議長や第6代名古屋市長(1906年-1911年)を歴任。その後衆議院議員にも当選した(当選1回)。 現在の名古屋市出身。文久2年5月29日(新暦:1862年6月26日)、高木鉄蔵の次男として生まれる。1880年(明治13年)に加藤成章の養子となり、1883年(明治16年)8月に加藤家を相続した。高木家・加藤家ともに尾張藩士の家である。明治維新後は一時巡査として働くが、上京して明治大学の前身である明治法律学校に学んだ。
豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年… 豊辺 新作(とよべ しんさく、1862年6月23日(文久2年5月26日) - 1927年(昭和2年)3月22日)は、日本の陸軍軍人。日清戦争で鳳凰城攻略一番乗りを果たし、日露戦争では沈旦堡を死守した騎兵将校である。最終階級は陸軍中将。 豊辺は長岡洋学校、陸軍幼年学校を経て1882年(明治15年)に陸軍士官学校を卒業した、旧5期生の一人である。騎兵第一大隊附、教導団騎兵中隊小隊長、三本木軍馬補充部勤務を経て騎兵第五大隊第一中隊長として日清戦争に出征する。平素の豊辺は周囲に無能と思われており、大尉に進級したものの、予備役入りは近いと考えられていた。しかし豊辺は実戦においてその評価を一変させる。 騎兵第五大隊第一中隊は大島義昌が率いる第九旅団に属したが、この旅団は日清の開戦に備えて最初に動員された部隊であり、仁川に上陸し1894年(明治27年)7月25日に行動を開始する。
白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月1… 白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日〈文久元年6月13日〉- 1946年〈昭和21年〉9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。 「白瀬中尉」と呼ばれることが多い。 文久元年(1861年)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)出身。浄蓮寺の住職、白瀬知道・マキエの長男、知教(ちきょう)として生まれた。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代は非常にわんぱくだったという。「金浦の浜辺に漁師が捨てた小魚を狙ってきた狐の尻尾をちぎった」「海に潜って300トンもある千石船の底を潜り抜けようとしたが、抜けられずに溺れて死にかけた」「本堂に引っかった凧を取ろうとして落っこちた」のほか、狼退治や150人と血闘を行ったなどと列挙している。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22… 飯島 正治(いいじま まさじ / しょうじ、文久元年5月22日〈1861年6月29日〉 - 1922年〈大正11年〉7月24日)は、明治から大正時代にかけての日本の政治家・実業家である。政治家としては長野県会議員(1期)や衆議院議員(2期)を歴任、実業家としては六十三銀行頭取を長く務めた。号は雪州。 子に六十三銀行の後身にあたる八十二銀行で頭取を務めた飯島正一がいる。 飯島正治は、文久元年5月22日(新暦:1861年6月29日)、飯島新左衛門の長男として生まれた。飯島家は信濃国更級郡今井村(後の長野県更級郡中津村、現・長野市)の素封家。300年を越える旧家であり、先祖は上野国館林から移り住んできたと伝わる。
小原 雲心(おはら うんしん、文久元年5月19日(1861年… 小原 雲心(おはら うんしん、文久元年5月19日(1861年6月26日) - 大正6年(1917年)1月1日)は、いけばな小原流の創始者。彫刻家。名は房五郎、号は六合軒。出雲国松江(現島根県松江市)出身。
荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5… 荒井 泰治(あらい たいじ、1861年6月23日〈文久元年5月16日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員(1911年 - 1918年)。日本統治時代の台湾で事業を興し財を成した。 仙台に町奉行であった荒井加右衛門の分家に生まれる。宮城県士族荒井盛行の長男。明治維新後、東京に出て法律とフランス語を学びながら新聞記者となる。1885年(明治18年)には大阪新報社編集長。中江兆民の門下となる。 日本銀行総裁で同郷の富田鉄之助に見い出されて日本銀行に入り、富田の秘書となったが、富田が日本銀行を去ると荒井も去った。その後、鐘淵紡績に入り、1890年(明治23年)には鐘淵紡績支配人となる。
澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(… 澤山 勇三郞(さわやま ゆうざぶろう、1860年7月17日(万延元年5月29日)- 1936年(昭和11年)10月23日)は日本の数学者、陸軍教授。澤山-テボーの定理やフォイエルバッハの定理について20通り以上の証明を与えたことで知られる。 1860年(万延元年)、酒造業の武安治平の五男として長州藩厚狭郡二俣瀬村(現・宇部市)に生まれる。家業を継ぐ予定であったが、本人の強い希望で16歳のとき山口県の鴻城学舎に入り、英語・数学を学ぶ。当時県内には優れた英語教育者が少なかったので、ハワイ帰りで地元の刑務所に服役していた者から英語を学んだというエピソードがある。24歳で萩中学校の準助教諭となり、29歳の時に数学の中等教員の免状を得た。
山田 一郎(やまだ いちろう、1860年7月16日(安政7年… 山田 一郎(やまだ いちろう、1860年7月16日(安政7年5月28日) - 1905年(明治38年)5月27日)は、明治時代の日本のジャーナリスト。号は愛川。 1860年(万延元年)、安芸国安芸郡府中村(現在の広島県府中町)に生まれる。藩校修道館(現・修道中学校・修道高等学校)、広島外国語学校で学ぶ。1876年(明治9年)に上京し、東京開成学校に入学。東京開成学校時代の同級生には、高田早苗・三宅雪嶺・有賀長雄・田中舘愛橘らがいる。1878年9月、東京大学文学部に入学。高田早苗・市島謙吉らとともに小野梓が主宰する鷗渡会に加わり、さらに立憲改進党の結党に参加。1882年7月、東京大学を卒業。同年10月、東京専門学校創立に参加し講師に就任、「政治学原論」の初代担当者を務める。
三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5… 三宅 雪嶺(みやけ せつれい、1860年7月7日(万延元年5月19日) - 1945年(昭和20年)11月26日)は、日本の哲学者、評論家。加賀国金沢(現・石川県金沢市)生まれ。本名は雄二郎
星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7… 星野 光多(ほしの みつた、万延元年5月18日〈1860年7月6日〉 - 1932年〈昭和7年〉7月7日)は、明治・大正時代に活動した牧師。フェリス女学院元教頭。 大蔵官僚、政治家、実業家の星野直樹は長男。参議院議員、ジャーナリストの星野芳樹は三男。津田塾大学名誉学長の星野あいは妹。 父・星野宗七は上野国沼田藩利根郡戸鹿野村の名主で、明治元年(1868年)に横浜の外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。光多は宗七の次男として万延元年(1860年)に戸鹿野村(現・群馬県沼田市)で生まれた。 明治3年(1870年)に光多は家族とともに横浜に移住した。横浜で外国人と商売をするためには英語が必要だと考え、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、J・H・バラのバラ塾に通うことになった。
鍋島 桂次郎(なべしま けいじろう、1860年6月29日(万… 鍋島 桂次郎(なべしま けいじろう、1860年6月29日(万延元年5月11日) - 1933年(昭和8年)1月30日)は、日本の外交官、貴族院勅選議員。神代鍋島家第16代当主。 神代鍋島家13代当主鍋島茂元(佐賀藩9代・鍋島斉直の26男)の次男として生まれる。1884年(明治17年)、外務省御用掛となり、外務属、交際官試補、外務書記官などを歴任。同年6月に兄茂文の後を継ぎ神代鍋島家当主となる。アメリカ、ドイツ、イギリスで公使館一等書記官として勤務した。1906年(明治39年)、統監府書記官兼外務省参事官に任じられ、統監府参与官、統監府外務総長、同外務部長を歴任した。1909年(明治42年)、駐ベルギー公使に任命され、1913年に後任の阿部守太郎が暗殺されたため、1914年(大正3年)まで務め、陸奥広吉と交代した。
合田 福太郎(ごうだ ふくたろう、1860年6月23日(万延… 合田 福太郎(ごうだ ふくたろう、1860年6月23日(万延元年5月5日)‐ 1921年(大正10年)5月29日) は、明治から大正期の日本の政治家。衆議院議員、愛媛県宇摩郡土居村長。 伊予国宇摩郡、のちの愛媛県宇摩郡土居村(土居町を経て現四国中央市) で、精米・瓦製造業、会田基次郎の長男として生まれた。小学校卒業後、尾崎山人(星山)の松菊舎に入り漢学を修めた。1882年(明治15年)愛媛県師範学校高等師範科を卒業した。 郷里の小学校で訓導兼校長を務めた。1889年(明治22年)町村制の施行に伴い土居村が発足すると初代村長に就任した。1891年(明治24年)11月、愛媛県会議員に選出され1898年(明治31年)まで在任。
小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年… 小河 源一(おがわ げんいち、安政6年6月19日(1859年7月18日) - 大正5年(1916年)12月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→立憲同志会)、弁護士。 豊前国宇佐郡長洲村(現在の大分県宇佐市)出身。法学を学び、1886年(明治19年)に代言人試験に合格し、山口県で開業した。1893年(明治26年)、弁護士法が施行され、代言人が弁護士と改められるとともに、山口弁護士会会長に選出された。1895年(明治28年)には李鴻章狙撃犯の小山豊太郎の弁護を担当した。 それより先、1887年(明治20年)に山口県内の革新派で防長同士会を組織し、幹事となった。
弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月… 弘田 長(ひろた つかさ、1859年7月14日(安政6年6月15日) - 1928年(昭和3年)11月27日)は、日本の医師。東京大学小児学教室の初代教授。幼少時の昭和天皇の侍医を務めた。国内で初めて小児科を作った人物であり、国産初のベビーパウダーとなるシッカロールを東京帝国大学薬学科の丹波敬三とともに作った人物でもある。また、日本で最初の小児科学の教科書『児科必携』を出版している。 1859年(安政6年)6月15日、土佐国幡多郡中村町にて、弘田親厚の長男として出生。1871年、13歳で土佐藩の貢進生に選ばれて上京。この貢進生の制度は終わったが、勉強を続け、1880年7月に東京大学医学部を卒業して医学士の学位を得、助手としてユリウス・スクリバ教授のもとで外科を修業した。
榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政… 榊 順次郎(さかき じゅんじろう、1859年7月12日(安政6年6月13日) - 1939年11月16日)は、日本の産婦人科医。 沼津藩蘭方医・榊令輔の次男。兄は榊俶、弟は榊保三郎。1883年東京大学(のち東京帝国大学)医学部別科卒業、ドイツに留学、産科婦人科を研究し、帰国後医学博士。榊産婦人科病院を設立、日本産婆看護学校を設立し校長となる。墓所は染井霊園(1イ-5-5)。妻は陸軍獣医監・桑島景連の娘みの子、息子に医師の榊邦彦、女婿・養子に榊忠三がいる。 1892年に、脚気の原因を白米中に含まれる毒素に求めた。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安… 井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安政6年6月13日〕 - 1948年〔昭和23年〕11月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。現在の京王電鉄の前身・京王電気軌道の事実上の創業者である。 明治法律学校(現在の明治大学の前身)を経て、愛甲郡役所の書記を務めた後、村会議員、神奈川県会議員を務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(神奈川郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、富士瓦斯紡績(現・富士紡ホールディングス)に入社し、社長の和田豊治の知遇を得る。その縁で、玉川電気鉄道(現・東急電鉄世田谷線など)や王子電気軌道(現・都電荒川線)の取締役に招聘され、それぞれの経営の安定化に貢献。
狭布里 錦太夫(きょうのさと きんだゆう、1859年7月11… 狭布里 錦太夫(きょうのさと きんだゆう、1859年7月11日(安政6年6月12日) - 1926年6月28日)は、現在の茨城県筑西市(旧真壁郡)出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は関 喜市(旧姓本橋)。170cm、81kg。最高位は東前頭3枚目。 1883年1月初土俵、1890年5月十両昇進。四股名の狭布里錦太夫とは、部屋の先輩である柏戸宗五郎 (1810年生)が若い時分に名乗っていたもの。1896年1月に入幕。翌5月にこの場所横綱に昇進した小錦を破り金星を獲得。幕内を連続17場所務め、44歳まで幕内に在位したが、1904年5月に十両に陥落。1905年1月に廃業した。 海老ノ海→狭布里錦太夫 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
野出 鋿三郎(のいで しょうざぶろう、1859年7月10日(… 野出 鋿三郎(のいで しょうざぶろう、1859年7月10日(安政6年6月11日) - 1915年(大正4年)2月23日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(2期、立憲革新党)。 1859年(安政6年)、出羽国由利郡本荘町(現由利本荘市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだのち、代言人業に従事する。1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(連続2期当選)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山田 喜之助(やまだ きのすけ、1859年6月30日〈安政6… 山田 喜之助(やまだ きのすけ、1859年6月30日〈安政6年6月1日〉 - 1913年〈大正2年〉2月20日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(東京府第3区選出、当選2回)。衆議院書記官長。司法次官。東京代言人組合(東京弁護士会の前身)会長。号は奠南(てんなん)。東京専門学校、英吉利法律学校創立に関与した。 大坂・船場の商家に生まれた。八郎兵衛の二男。生家は家号を「桜井屋」といい、江戸時代から代々続いた富裕な薬種砂糖商として有名だった。母・志ようは喜之助が4歳の時に死去した。父は、6歳になった喜之助を、船場淡路町にあった儒者・藤沢南岳の泊園書院(泊園塾、現在の関西大学)に通わせた。漢学、特に漢詩の素養を身につけた。
石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政… 石橋 健蔵 (いしばし けんぞう、1859年6月30日〈安政6年6月1日〉 - 1927年〈昭和2年〉5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 丹波国多紀郡篠山町(現・兵庫県丹波篠山市)に生まれる。陸軍士官学校(旧3期)及び陸軍大学校(1期)を卒業した。以降、大阪鎮台参謀(中尉)、陸軍士官学校教官、第4師団参謀(大尉)、第1師団参謀(少佐)、中部都督部参謀、第5師団参謀長、歩兵第11連隊長(中佐)、第2師団参謀長(大佐)等を歴任し、明治38年(1905年)には、陸軍少将となり歩兵第3旅団長を拝命する。その後、歩兵第7旅団、歩兵第8旅団の各旅団長を経て、明治45年(1912年)2月27日に、陸軍中将に昇進したが同日付で予備役編入となった。
多木 久米次郎(多木 粂次郎、たき くめじろう、1859年6… 多木 久米次郎(多木 粂次郎、たき くめじろう、1859年6月28日〈安政6年5月28日〉 - 1943年3月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(6期)。株式会社多木製肥所(現在の多木化学)の創業者。そのほか、県農会長、兵庫県会議員、加古郡会議員などを務めた。 安政6年、播磨国加古郡別府村(現在の兵庫県加古川市別府町)に多木勝市郎の三男として生まれる。多木家は江戸中期より干鰯業を営み、天保年間には海運業にも進出して事業を拡大していた。分家を経て、父・勝市郎は醤油・酢の醸造や魚肥の販売、農業経営を家業としていた。1887年(明治20年)、父の死去により家業を継いだ。 当時主要肥料だった鰯粕の高騰により困窮する農家のため、多木家は1885年(明治18年)に獣骨を使った日本初の蒸製骨粉製造を始め、1890年(明治23年)には骨粉を原料とした過燐酸石灰の化学肥料製造を開始した。
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859… 坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体:坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名は坪内 雄蔵(つぼうち ゆうぞう)。別号に「朧ろ月夜に敷くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。
納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭… 納富 教雄(安政5年6月11日(1858年7月21日)- 昭和9年(1934年)2月)は、日本の剣術家。流派は戸田流。称号は大日本武徳会剣道範士。 肥前国小城郡西川(現在の佐賀県小城市)に生まれる。納富家は小城藩の武術師範の家系で、代々五郎太夫を名乗った。教雄が明治30年(1897年)7月に建碑した石碑によれば、五郎太夫(父と祖父のどちらを指しているか不明)は「真之乱流組打・真之乱流棒縄術・戸田流剣術・真之乱流二刀・根岸流長刀」9代師範とある。納富家の道場での他流試合や道場での修行中に無念にも亡くなった人々を葬ったという「鬼塚」が現在も残る。 「鬼塚」は、納富道場へ来訪した諸国を廻る武者修行の剣士や道場破り、他流試合などの中で亡くなった人々のみを葬ったと言われているが、道場の稽古中に無念ながら亡くなった身寄りの無い門下生や、諸国巡礼中に病気や怪我により亡くなった方々を弔うための塚である。
飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5… 飯島 信明(いいじま しんめい、1858年7月18日(安政5年6月8日)- 1933年(昭和8年)12月21日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、山梨県東山梨郡八幡村長。 甲斐国山梨郡、のちの八幡村(山梨県東山梨郡八幡村を経て現山梨市南)で、飯島兵右衛門の長男として生まれた。漢学を修め、1869年(明治2年3月)家督を相続した。 1890年(明治23年)6月に製糸業を創業し、飯島製糸工場主に就任。その他、甲州金鳳社長、峡製糸取締役、七里銀行取締役、丸十繭糸商会重役、甲信石炭商会社長なども務め、蚕糸業など経済界の発展に尽力した。 政界では、1889年(明治22年)八幡村会議員に当選し1910年(明治43年)7月まで在任。
9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月… 9代 秋元 三左衛門(あきもと さんざえもん、1858年7月7日(安政5年5月27日)- 1910年(明治43年)1月16日)は、明治期の醸造家、実業家、政治家。衆議院議員。通称・三左衛門桃渓。 下総国葛飾郡流山村(千葉県東葛飾郡流山町流山、江戸川町、流山町を経て現流山市流山)で、味醂(みりん)醸造業・8代秋元三左衛門の息子として生まれる。伊藤長有などから和漢学を学び、小学校普通小学科を卒業。1875年(明治8年)7月に上京し、亀田保、島田重礼などに漢学を学んで、1880年(明治13年)3月に帰郷した。家業の「天晴味醂」(あっぱれみりん)として知られた味醂醸造業を継承した。その他、八十四銀行頭取、宝酒造監査役などを務めた。
志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月… 志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月27日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 日向国都城(現在の宮崎県都城市)に生まれた。父・清雄は宮崎県士族。弟の山地通信は陸軍将校、志摩猛は戦艦「霧島」艦長等を務めた海軍少将である。志摩は9歳のときに小姓として出仕した経験がある。 海兵士官学校予科生徒在学中に同校は廃校となり、1877年(明治10年)9月、海軍兵学校へ転入。1880年(明治13年)9月「龍驤」乗組みとして実地訓練を受け、豪州へ回航。1881年9月少尉補となる。兵学校8期生であり、同期に八代六郎がいる。1885年(明治18年)6月海軍少尉任官。
望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5… 望月 右内(もちづき うない、1858年7月2日(安政5年5月22日)– 1917年(大正6年)1月28日)は、明治・大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 紀伊国伊都郡、のちの和歌山県伊都郡見好村(現かつらぎ町)で、豪農・望月嘉八郎の長男として生まれる。上田釆女の塾で学んだ。 1873年(明治6年)第四大区五小区役場書記に就任。その後、兄井村総代、兄井・三谷・寺尾・平沼田・皮張五カ村戸長、伊都郡書記を歴任。1883年(明治16年)6月、補欠選挙で和歌山県会議員に選出され、1884年(明治17年)寺尾村外十三カ村戸長に就任したため県会議員を退任。1886年(明治19年)補欠選挙で県会議員に再選され、その後1888年(明治21年)、1892年(明治25年)に再選され、1894年(明治27年)3月に辞任するまで在任。
長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年… 長岡 外史(ながおか がいし、1858年6月23日〈安政5年5月13日〉- 1933年〈昭和8年〉4月21日)は、明治、大正期の陸軍軍人、政治家。陸士旧2期・陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将。 周防国都濃郡末武村(現:山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、1878年(明治11年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。1885年(明治18年)に陸軍大学校を一期生として卒業。 日清戦争では大島混成旅団の参謀、1897年(明治30年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。1902年(明治35年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
仙石 貢(せんごく みつぎ/せんごく みつぐ、1857年7月… 仙石 貢(せんごく みつぎ/せんごく みつぐ、1857年7月22日〈安政4年6月2日〉- 1931年〈昭和6年〉10月30日)は、日本の鉄道官僚、実業家、政治家。工学博士。 没後勲一等旭日大綬章追贈(昭和6年10月30日付)。 土佐国高知出身。1872年(明治5年)、高知藩病院附属吸江学校に入学し、英語を学ぶ。1878年(明治11年)7月、東京大学理学部土木工学科卒業。同年9月、東京府土木掛。1884年(明治17年)、工部省鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道工事を担当した。1891年(明治24年)8月、工学博士学位を取得している。 1896年(明治29年)10月、逓信省鉄道技監を最後に退官し、実業界に転じ筑豊鉄道社長となる。
波多野 喜右衛門(はたの きえもん、1857年7月21日(安… 波多野 喜右衛門(はたの きえもん、1857年7月21日(安政4年6月1日)- 1937年(昭和12年)3月1日)は、明治時代後期から大正時代の政治家。衆議院議員。 尾張国東春日井郡、のちの篠岡村、現在の小牧市篠岡に生まれる。神谷梅峰に儒学を学ぶ。戸長、大草村長、篠岡村長、愛知県会議員、同参事会員を経て、1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙で愛知県第5区から立憲政友会所属で出馬して当選し、1期務める。1921年(大正10年)12月15日、選挙法違反の判決により議員を辞した。
島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈18… 島津 啓次郎(しまづ けいじろう、安政4年閏5月25日〈1857年7月16日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)は、幕末から明治時代初頭の士族。旧佐土原藩出身。旧藩主家出身でありながら西南戦争では薩軍側に加わり、戦死した。 安政4年(1857年)、佐土原にて誕生する。第11代佐土原藩主・島津忠寛の三男で、母は側室。3歳の時に家老家に当たる町田氏に養子に出される。10歳の時、鹿児島に遊学、翌年さらに東京に移り、勝海舟門下生となる。啓次郎の才能を見抜いた海舟により推薦され、明治3年(1870年)、薩摩藩藩費留学生として兄・大村純雄らと共に渡米、アナポリス、ニューヘイブン (コネチカット州)、グリンブルドなどで英語、フランス語、文学、数学等を学ぶ。
仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3… 仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3年1月2日(1928年))は青森県生まれの津軽三味線奏者。本名・秋元仁太郎。津軽三味線の始祖。 1857年(安政4年)に金木新田(かなぎしんでん)の神原村(現・青森県五所川原市金木町神原)に生まれる。本名は仁太郎(にたろう)。父・三太郎は岩木川の河原の舟小屋に住み、渡し守を務めていた。母は出産後しばらくして体を壊し、亡くなっている。 仁太郎は8歳で天然痘にかかり失明。当時の幕藩体制下では、目の不自由な男性が経済的に身を立てるため琵琶や三味線、そして按摩や鍼灸の技能を習得する職能ギルドのような組織として「当道座」があった。しかし、当道座は封建体制の中の身分制組織であり、「筋目悪しき者」とされていた渡し守の子である仁太郎は当道座に入ることが許されなかった。
浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月… 浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年… 足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月10日)は、日本の実業家、篤農家、教育家、政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第7代)。族籍は鳥取県平民。 現在の鳥取県境港市出身。製糸業を営む。1906年3月から1907年8月まで外江村長をつとめる。高等科設置、校地拡張、校舎増築等教育面で尽力する。また外江村会議員、外江村学務委員、小学校長をつとめる。 第4代外江村長足立長重の弟である。住所は鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)。 『西伯之資力 大正11年10月調』によれば、地価所有高は588円5銭である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年… 柴田 榮吉(しばた えいきち、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉- 1950年〈昭和25年〉)は、明治から昭和時代の政治家(6代・10代八王子町長、初代八王子市長、ほか)、実業家。柴田家に入婿して以降は生涯にわたって八王子を拠点とした。 武蔵国多摩郡芋窪村(旧・東京府北多摩郡大和村芋窪、現・東京都東大和市芋窪)で、農業・竹松善右衛門の四男として生を受ける。1875年(明治8年)八王子南新で笠屋を営む柴田家に入婿した。 1894年(明治27年)7月、八王子繭糸取引所常務理事に就任。1896年(明治29年)八王子撚糸製造組合を創設し頭取となり、1898年(明治31年)撚糸製造業組合を創設。 1901年(明治34年)第4代八王子町長・関谷源兵衛(在任期間:1901年3月7日-1902年3月5日)によって八王子町助役に任命される。
大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3… 大熊 氏廣(おおくま うじひろ、1856年7月14日(安政3年6月13日) - 1934年(昭和9年)3月20日)は、日本の彫刻家。日本初の西洋式銅像とされる靖国神社の大村益次郎像で知られる。 鳩ヶ谷宿近くの武蔵国足立郡中居村八幡木(現埼玉県川口市八幡木)で農家の次男として生まれた。兄・徳太郎は後に篤農家として知られた人物である。 幼少時から絵が得意で、後に洋画を学んだ。1876年(明治9年)に開校した工部美術学校の彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザのもとで学んだ。1882年に首席で卒業し、翌年、有栖川宮邸(J.コンドル設計)の建築彫刻を担当、1884年に工部省に入り、皇居(明治宮殿)造営などに関わった。
北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年… 北川 貞彦(きたがわ さだひこ、1856年7月6日(安政3年6月5日)- 1903年(明治36年)11月8日)は、代言人(弁護士)、自由民権運動家、民権結社「発陽社」社長。憲法草案『日本憲法見込案』の起草者。 安政3年6月5日(1856年7月6日)、土佐藩士(四人扶持切符15石)・北川貞詮(忠蔵)の次男として、高知城下に生まれる。幼名は「熊治」。 初め藩校・致道館、廃藩置県以降は共立学舎英学校に学ぶ。東京に遊学して、明治9年(1876年)、代言人(弁護士)の免許を取得した。 自由民権運動に身を投じ、明治10年(1877年)、「立志社」の下部組織として民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)を興す。
大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年… 大岡 育造(おおおか いくぞう、1856年7月4日〈安政3年6月3日〉- 1928年〈昭和3年〉1月26日)は、明治・大正期の弁護士・政治家。号は硯海。 医師大岡尚斎の長男として、長門国豊浦郡小串村(現:山口県下関市)に生まれた。1873年(明治6年)、長崎医学校(現:長崎大学医学部)に入ったが、翌年廃校となった為、上京して大井憲太郎らの講法学舎で法律を学んだ。司法省法学校に通ったとの記事は、裏付けを欠くとも言う。 1880年(明治13年)12月、代言人(現在の弁護士)の資格を取り、講法学舎の幹事になった。沼間守一に兄事して、1881年(明治14年)、板垣退助らの自由党に入党した。また、共立学校の幹事に転じ、1882年(明治15年)、校長になった。
大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年… 大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年5月26日)– 1918年(大正7年)11月18日)は、明治・大正期の地主、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡巽村長。 紀伊国名草郡重根村(和歌山県名草郡巽村、海草郡巽村を経て現海南市)で素封家・大田善之助の長男として生まれた。 1888年(明治21年)2月、和歌山県会議員に当選し、1890年(明治23年)9月に退職。1889年(明治22年)初代巽村会議員に選出された。1893年(明治26年)5月、巽村長に就任し、1894年(明治27年)6月に辞職。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で和歌山県第一区から出馬して当選。1898年(明治31年)3月の第5回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
藤野 政高(ふじの まさたか、1856年6月27日(安政3年… 藤野 政高(ふじの まさたか、1856年6月27日(安政3年5月25日) - 1915年(大正4年)6月30日)は日本の政治家。衆議院議員、海南新聞社長。 1856年(安政3年5月25日)、伊予松山藩士の子として生まれる。藩校明教館に学び、のち上京して法律学舎で法律を修め、代言人の資格を取得する。1878年(明治11年)に帰郷し、長屋忠明らが主宰する自由民権結社・公共社に加入、愛媛県下における民権運動の中心として活躍する。1886年(明治19年)に愛媛県会議員に当選し、1887年(明治20年)に三大事件建白者の総代として上京するが、保安条例に抵触して東京から強制退去させられる。1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選、以後3期に渡って代議士を務めるが、資金難のため1894年(明治27年)9月の総選挙には出馬しなかった。
南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政… 南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政3年5月25日〉 - 1893年〈明治26年〉9月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(3代)。鳥取県会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。高松村庄屋・南直四郎の息子。1879年から親に代わって戸長をつとめる。また県会議員、郡役所書記もつとめる。1892年2月、余子村長に就任、1893年9月に退任する。 村長在任中には竹内村の荒山黎斎宅に役場を移す。竹内教場焼失を機に新校舎建築を果たし、竹内・中野二教場を統一する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年… 井阪 光暉(いさか みつあき、1855年7月20日(安政2年6月7日) - 1920年(大正9年)2月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 和泉国南郡、のちの大阪府泉南郡八木村(春木町を経て現岸和田市)出身。大阪府会議員、同常置委員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において大阪府郡部から無所属で立候補したが25票差で次点で落選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙では立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙でも再選。1915年の第12回衆議院議員総選挙は不出馬。1917年の第13回衆議院議員総選挙では次点で落選。しかし、7月に本出保太郎の死去により、繰上当選となった。
小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年… 小林 有也(こばやし うなり、1855年7月14日(安政2年6月1日) - 1914年(大正3年)6月9日)は、大阪府士族で教育者。幼名は小林 卯之助(こばやし うのすけ)。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月2… 岡 五郎(おか ごろう、1855年7月12日(安政2年5月29日) - 1928年(昭和3年)10月31日)は、日本の教育者・文部官僚。 越前藩出身。岡源太夫の五男。藩校で漢学を学ぶ。福井県師範学校変則生を経て、1877年(明治10年)に官立愛知師範学校を卒業。東京麹町清水小学校訓導、千葉県鶴舞小学校校長、茂原町中学校教諭を歴任した。1882年(明治15年)、東京師範学校(後の東京高等師範学校)を卒業。その後、徳島県師範学校一等教諭・学務課勤務、徳島県中学校一等教諭、高等師範学校助教諭・附属小学校主任、同教諭、女子師範学校教諭・同高等女学校主任、同教授・文部省普通学務局勤務、高等師範学校書記・教授、文部省普通学務局第一課長、宮城県尋常師範学校校長、東京府視学官・文部省視学官を歴任した。
川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年… 川上 親晴(かわかみ ちかはる、1855年7月6日(安政2年5月23日) - 1944年(昭和19年)5月12日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、京都市長、警視総監、貴族院議員。 大隅国姶良郡、のちの鹿児島県姶良郡加治木村(加治木町を経て現姶良市)において、加治木島津家家臣で書役を務める川上正兵衛の長男として生まれる。 私学校に入学したが軍事教練一辺倒とその閉鎖性に嫌気がさし退学する。その際に生徒の自主性を理解しない西郷隆盛に罵倒され、故郷で村八分となった。 西南戦争時の1877年4月、警視庁警部補に任官した。沖縄県十等警部、大阪府十等警部を経て、1882年8月、石川県に転じ、警部補・高岡警察署詰となる。
中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2… 中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日(安政2年5月21日) - 1934年(昭和9年)1月21日)は、教育者。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人で、東京物理学校第3代校長。
宮崎 栄治(みやざき えいじ、1855年7月4日(安政2年5… 宮崎 栄治(みやざき えいじ、1855年7月4日(安政2年5月21日)- 1915年(大正4年)1月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(8期)。 宮崎広茂の長男として、肥前福江藩領松浦郡福江村(長崎県南松浦郡福江村、福江町、福江市を経て現五島市)に生まれる。1882年(明治15年)12月、家督を相続する。福江藩校に入り和漢学を修めたのち上京し英学を学ぶ。本業は農業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第5区から出馬し当選。第2回総選挙では候補を大坪利晋に譲り、つづく第3回総選挙で再び衆議院議員となる。その後、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算8期務めた。