斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。
土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6… 土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6月23日) - 昭和10年(1935年)4月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。高崎市長。医師。 出羽国平鹿郡睦合村(現在の秋田県横手市)出身。秋田医学校を卒業した。高崎市に医院を開業し、高崎市医会会長を務めた。高崎市会議員、同参事会員、群馬郡会議員、同参事会員、県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、1921年(大正10年)から高崎市長を務めた。
井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854… 井上 伝蔵(いのうえ でんぞう、安政元年6月26日(1854年7月20日) - 大正7年(1918年)6月23日)は、秩父事件の中心人物の一人。 井上類作の次男として武蔵国下吉田村(のちの埼玉県秩父郡吉田町、現秩父市)に生まれる。幼名は治作。長男が早くなくなったため、商家「丸井」を継ぎ、代々の「伝蔵」を名乗る。商用で上京するうち自由民権運動に共鳴し、自由党に入る。 1884年(明治17年)11月に起きた秩父事件では会計長を務めた。秩父事件敗北後、逃亡。欠席裁判で死刑の判決を受けたが、北海道に潜行していた。北海道石狩で代書屋を開業、1905年(明治38年)「代書人取締規則」の施行で規制が強化され、逃亡中の身であり身分証提出ができず代書業を廃業せざるを得なかった。
西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(… 西田 収三(收三、にしだ しゅうぞう、1854年7月19日(安政元年6月25日) - 1925年(大正14年)6月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越中国新川郡舌山新村(のち富山県下新川郡若栗村→桜井町、現・黒部市)出身。漢学と英語を学ぶ。生家は地主で酒造業を営んだ。学務委員、若栗村外二十三ヶ村戸長、同村会議員、下新川郡会議員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において富山2区から進歩党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政本党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1925年に死去した。
鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月… 鈴木 充美(すずき みつよし/すずき じゅうび、安政元年6月16日(1854年7月10日)- 昭和5年(1930年)5月23日)は、日本の政治家、外交官、弁護士。旧姓・木村。 伊勢国河曲郡神戸(現三重県鈴鹿市)で、神戸藩士・木村家の二男として生まれ、鈴木公充の養子となる。藩選抜により上京し、慶應義塾を経て、1881年(明治14年)、東京大学法学部を卒業。 学習院教授兼監事、外務省御用掛などを務める。1886年(明治19年)2月、朝鮮国仁川在勤領事に就任。1889年(明治22年)3月、香港在勤領事に転じ、1890年(明治23年)2月まで務めた。 第9代内務次官として1898年(明治31年)7月から10月まで勤める。
金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年… 金尾 稜厳(かなお りょうごん、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1921年(大正10年)3月23日[3])は、幕末から大正期の僧侶、政治家。衆議院議員(通算8期)、官選県知事。旧名・楞厳。
海山 太郎(かいざん たろう、1854年7月8日(嘉永7年6… 海山 太郎(かいざん たろう、1854年7月8日(嘉永7年6月14日) - 1926年(昭和元年)12月30日)は、高知県香南市香我美町岸本出身の大相撲力士。本名は河野 貞太郎(こうの(かわの) さだたろう)。 1854年(嘉永7年)7月8日(旧暦6月14日)に高知県香南市香我美町岸本の武士の家に生まれる。子供の時から板垣退助の相撲道場に入り、脇の磯と名乗って土地相撲で活躍する。あまりに強すぎて歯の立つ相手がいないので、「当たるもの皆散る」という意味の「皆散」というニックネームを同僚から呈上されていた。1877年(明治10年)に仲間と共に大坂相撲猪名川部屋へ加入して「皆散」を「海山」と書き換え、1879年9月場所に「海山貞吉」の四股名で新入幕を果たした。
柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日〈嘉永7年… 柿沼 谷蔵(かきぬま たにぞう、1854年7月5日〈嘉永7年6月11日〉- 1920年〈大正9年〉11月26日)は、上州出身の錦糸商。当主は代々柿沼谷蔵を襲名した。 柿沼家は代々上州館林で魚商を営んでいたが、先々代が江戸に出て上州屋と號し綿絲商を開業。当代谷蔵は旧姓を増山といい、上野館林藩領邑楽郡館林町(群馬県邑楽郡館林町を経て館林市)増山清蔵の二男として生まれた。1879年(明治12年)1月、先代・柿沼谷蔵の二女・はなと結婚。婿養子となり、1881年(明治14年)に家督を相続する。綿糸業を継ぎ、1887年(明治20年)には日本橋区堀江町にあった店舗を小網町に移転し業務を拡大。商業会議所特別議員を務め、東京瓦斯、金町製瓦(日本煉瓦製造の前身のひとつ)、下野紡績(東洋紡の前身のひとつ)、東京製糸、第一生命保険などの創設に関与した。
佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月… 佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月11日)- 1921年(大正10年)7月17日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡谷村長。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡谷村(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町)で、佐藤運喜の長男として生まれる。1867年(慶応3年)熊本藩英式練兵小隊長となる。1872年(明治5年9月)家督を相続した。農業を営む。 1873年(明治6年)保長、1876年(明治9年)戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により誕生した谷村の初代村長となり1893年(明治26年)まで在任。1901年(明治34年)4代谷村長に再任され1903年(明治36年)まで務めた。
井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(185… 井深 梶之助(いぶか かじのすけ、嘉永7年6月10日(1854年7月4日) - 昭和15年(1940年)6月24日)は、日本の牧師。日本基督教会の指導者。明治学院の2代目総理、日本基督教青年会同盟委員長を務めた。 会津藩士井深宅右衛門(禄高550石)の長男として生まれた。幼名は清佶である。代々小姓を出している家柄であった、井深は最後の会津藩主松平容保の小姓であった。慶応4年(1868年)15歳の時白虎隊年少組の斥候として会津戦争に加わる。また小姓として松平容保の側で、山川健次郎、高木盛之輔、高峰秀夫らと共に戦った。 敗戦後、会津藩士たちと共に猪苗代で謹慎生活を送る。1869年(明治2年)の年の初め、藩士は東京に護送されることになったが、井深は老幼女子に行くように命じられ、河沼郡水谷地村(現、喜多方市豊川町高堂太水谷地)に帰り、親族と共同生活をする。
初代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、嘉永7年6月9日(18… 初代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、嘉永7年6月9日(1854年7月3日)- 昭和8年(1933年)7月31日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員、町会議員、郡会議長を務めた。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 坂口合名会社・代表社員会長2代目坂口平兵衛の実父。 米子・尾高町に生まれた。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。米子の商家ではまず中堅クラスであった。 青少年時代についてはくわしいことはわからない。同家所蔵の『歴代伝記』によると、幼にして学に志ざし、今井芳斎、高嶋倫閑、樋野含斎などの門に入り漢学を修め、長ずるに及んで家業のため大いに妨げられたが、余暇常に書をひもとき竹馬の友と遊びごとはほとんどなかったと述べている。
大垣 平次(おおがき へいじ、1854年7月2日(安政元年6… 大垣 平次(おおがき へいじ、1854年7月2日(安政元年6月8日)- 1939年(昭和14年)2月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 加賀国石川郡徳光村(石川県石川郡徳光村、御手洗村、松任町、松任市を経て現白山市徳光町)で、豪農・大垣兵三郎の長男として生まれた。農業を営む。 1879年(明治12年)4月、石川県会議員に選出され、通算5期在任し、1888年(明治21年)10月まで務め、同常置委員にも選ばれた。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(石川県第1区、立憲改進党)では次点で落選し、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(石川県第1区、中央交渉会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
大畑 純次(おおはた じゅんじ、1854年6月30日(安政元… 大畑 純次(おおはた じゅんじ、1854年6月30日(安政元年6月6日)- 1936年(昭和11年)5月24日)は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員、熊本県会議長。 肥後国、現在の熊本県熊本市で生まれた。漢学、法律学を修めた。 弁護士を開業し、熊本県弁護士会長、熊本商業会議所特別議員などを務めた。 政界では、熊本市会議員、同参事会員、熊本県会議員、同参事会員、同議長などに在任。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(熊本県熊本市、帝国党)で当選し、その後、大同倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した。
梶野 敬三(かじの けいぞう、1854年6月26日(嘉永7年… 梶野 敬三(かじの けいぞう、1854年6月26日(嘉永7年6月2日) - 1900年(明治33年)2月27日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 相模国津久井郡太井村(神奈川県津久井郡中野町、津久井町を経て現相模原市緑区)の豪農に生まれる。漢学を修めた。1880年(明治13年)国会開設請願運動に総代として故郷を代表した。翌年からは中野村(神奈川県津久井郡中野町、津久井町を経て現相模原市緑区)にて定期法律研究会を開催し自由民権運動の啓蒙に努めた。1882年(明治15年)9月、自由党に入党し、1884年(明治17年)4月には神奈川県会議員に当選し1890年(明治23年)まで4期連続務めた。
8代 木佐 徳三郎(きさ とくさぶろう、旧姓・勝部、雅号・平… 8代 木佐 徳三郎(きさ とくさぶろう、旧姓・勝部、雅号・平疇、1853年7月11日(嘉永6年6月6日)- 1941年(昭和16年)10月23日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員。木佐家8代当主。平田銀行頭取。族籍は島根県平民。 出雲国出雲郡坂田村(島根県簸川郡斐川町を経て現出雲市)で、地主、7代・勝部本右衛門栄忠の六男として生まれ、楯縫郡平田村(現出雲市)の7代・木佐徳三郎の養子となり、後に家督を継承し徳三郎を襲名した。幕末には最後の楯縫郡下郡役(したごおりやく)を務めた。 明治維新後、楯縫郡仮郷校取締、島根県第五十三・五十四両区戸長、兼学区取締心得、平田町会議員などを務め、1892年2月の第2回衆議院議員総選挙で島根県第三区から出馬して当選し、弥生倶楽部に所属して衆議院議員を一期務めた。
飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日… 飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日(嘉永6年5月24日) - 1927年(昭和2年)8月13日)は、日本の政治家、実業家、教育者。幼名は縫三郎 1853年(嘉永6年)5月24日[要出典]、東海道常陸国の真壁郡上妻村黒駒(旧下妻藩内、現在の茨城県下妻市黒駒)の豪農の子供として誕生した。飯村家はこの地方の豪農として知られ、名主を努めていた。 幼い頃は病弱だったが、1864年(元治元年)に[要出典]天台宗東叡山千妙寺の亮天僧正に預けられる。亮天から「衆生の恩」という教えを受け、一時は僧侶を志すが、両親に連れ戻される。 1865年(慶応元年)大病を患い回復。幼名「縫三郎」を「丈三郎」に改名する。
竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852… 竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852年7月15日〉 - 1900年〈明治33年〉7月26日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議員。幼名・伴吉。 上野国勢多郡新川村(群馬県勢多郡新川村、南勢多郡新川村、新里村、勢多郡新里村を経て現桐生市新里町新川)で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した。学問を好み、村塾で儒学を修め、渡辺真楫から治水造林を学んだ。 15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた。学務委員、村吏となり、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた。
山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月… 山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月13日〈嘉永5年5月26日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、明治期の官僚。内務省初代県治局長、山梨県知事(官選第6代)、三重県知事(官選第4代)、宮内省調度局長、錦鶏間祗候。旧名・賢吾。 豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身。山崎直高の長男として生まれる。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官。 明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める。
桑田 藤十郎(くわだ とうじゅうろう、1852年7月12日(… 桑田 藤十郎(くわだ とうじゅうろう、1852年7月12日(嘉永5年5月25日)- 1905年(明治38年)8月25日)は、幕末から明治時代の素封家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・安之助。 伯耆国久米郡倉吉宿魚町(鳥取県東伯郡倉吉町字魚町を経て現倉吉市魚町)で、先代・桑田藤十郎の子として生まれる。生家の当主は代々藤十郎を通称し、父の死去に伴い15歳で家督を相続し藤十郎を襲名した。 1881年(明治14年)学務委員に就任し、町立成徳小学校校舎の新築に当たり資金を提供した。1882年(明治15年)久米郡会議員に就任し、さらに、鳥取県会議員、所得税調査委員などを務めた。 中等教育機関・山陰義塾の設立に係わった。
上代知新(かじろ ともよし、1852年(嘉永5年)7月5日-… 上代知新(かじろ ともよし、1852年(嘉永5年)7月5日-1920年)は明治時代から昭和初期にかけて活躍した日本組合基督教会の牧師。山陽高等女学校(創設時:山陽英和女学校、現:山陽学園中学校・高等学校)の校長を51年間つとめた上代淑の実父である。 1852年伊予松山藩士・菅五郎左衛門とミマの三男として生まれる。1869年(明治2年)上代さい子と結婚して上代家の婿養子になり上代家を受け継ぐ。1871年(明治4年)長女、上代淑を授かる。1875年(明治8年)7月4日大阪梅本町公会で新島襄から洗礼を受けて、伝道者になる決心をする。同志社で学び新島襄から薫陶を受ける。1876年(明治9年)1878年に大阪梅本町公会の牧会を担当し、1881年按手礼を受けて、大阪教会牧師に就任した。
矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ… 矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ暦1852年8月19日) - 昭和2年(1927年)9月21日)は、日本画家・教育者。 1852年、良吉の三男として備中国賀陽郡服部村(現岡山県総社市)金井戸に生まれた。本名は熊治(くまじ)。改号前は雲岳。字は紫竹園である。 矢吹家は屋号を「天満屋」と称し、この地方では家柄が良く名家であったが、故あって長男竹次郎は分家して、明治22年(1889年)8月18日に熊治が家督を相続し、尾張藩士族、西村竹八郎の二女たきを娶った。 若い頃から画を好み、三好雲仙に学び雲岳と号して、同門の中島雲哉らと親しく交わった。 後年、子息と共に愛知県名古屋市に移住。
石川 清(いしかわ きよし、1852年6月29日(嘉永5年5… 石川 清(いしかわ きよし、1852年6月29日(嘉永5年5月12日)- 1930年(昭和3年)2月25日)は、明治から大正期の酒造家、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県東臼杵郡富高村長。 日向国臼杵郡、のちの宮崎県東臼杵郡富高村(富高町、富島町を経て現日向市)で、酒造業・石川源五郎の長男として生まれる。漢学を修めた。酒造業を営む。 椎葉向山村副戸長に就任。1880年(明治13年)鹿児島県会議員に選出された。宮崎県会議員に選出され7期18年9カ月在任した。この間、同常置委員、同議長、富高村長、宮崎県農会議員なども務めた。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(宮崎県全県区、立憲政友会)で初当選し、第9回総選挙でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
都崎 秀太郎(つざき ひでたろう、1852年6月25日(嘉永… 都崎 秀太郎(つざき ひでたろう、1852年6月25日(嘉永5年5月8日)- 1926年(大正15年)11月4日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・梧庵。 讃岐国阿野郡福江村(香川県阿野郡金山村、綾歌郡金山村、坂出町を経て現坂出市福江町)で、糖業、富農・都崎光蔵の三男として生まれる。高松藩校・講道館で学んだ。1885年(明治18年)11月、家督相続した。 小学校訓導、福江村戸長などを務めた。1882年(明治15年)愛媛県会議員に選出され、同常置委員、同勧業諮問会員に在任。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員、所得調査委員、地方衛生会員、香川県育英会評議員なども務めた。
大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉… 大綱 銀之助(おおつな ぎんのすけ、1852年6月24日(嘉永5年5月7日) - 1911年)は、明治時代の大相撲力士。本名:沼波銀之助。 現在の岐阜県大垣市出身。京都相撲から高砂の門下となり1879年5月に序ノ口。1885年の新聞記事では阿武松和介門弟となっている。その後高砂部屋所属となった。 1884年5月には幕下に昇進したが幕下中位で10年一進一退だった。1891年5月最高位の幕下15枚目。1896年頃からは三段目が定位置となっている。 1893年頃からは3日ほど出場し残り2日を休場しており、若者頭を兼務していたようである。1905年頃からは常に三段目中位から下位に位置しており、若者頭を兼務しているためと思われる(同時期ののちに若者頭となった若梅も同様に三段目中位から下位に記されている)。
平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(18… 平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(1851年7月21日) - 明治39年(1906年)10月24日) は、日本の政治団体玄洋社初代社長、自由民権運動家。
加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4… 加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4年6月19日) - 1915年(大正4年)4月15日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 工藤重助の二男として鶴岡に生まれ、幼くして田川郡松尾村(山形県東田川郡広瀬村、羽黒町を経て現鶴岡市羽黒町松尾)の加藤三七の養子となる。後田村の岡部宥盈につき和漢学を、父に算学や珠算を学ぶ。諸国を遊学したのち、1879年(明治12年)後田村外8箇村戸長を経て、1889年(明治22年)山形県会議員に当選する。県議会では議長を歴任した。この間、村会議員、東田川郡会議員を歴任した。1893年(明治26年)から1897年(明治30年)まで広瀬村長を務め、私立庄内中学校商議員会会頭を務め、乾田馬耕の普及に尽くした。
内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4… 内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日)- 1911年(明治44年)1月8日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国婦負郡石坂村(富山県婦負郡石坂村、桜谷村を経て現富山市)で、十村役を務めた内山吉治の息子として生まれた。1864年(元治元年)富山藩の高島流兵式練修を命じられ、さらに仏式兵法を修めた。農業を営む。 1876年(明治9年)石川県越中第11大区戸長に就任。石坂村外11カ村戸長、田刈屋外23カ村戸長を歴任。その他、学務委員、村会議員、町村組合会議員、所得税調査委員、用水組合会議員なども務めた。 1888年(明治21年)富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任。
杉田 定一(すぎた ていいち、1851年6月30日〈嘉永4年… 杉田 定一(すぎた ていいち、1851年6月30日〈嘉永4年6月2日〉- 1929年〈昭和4年〉3月23日)は、日本の政治家。衆議院議長などを務めた。号は鶉山(じゅんざん)。越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市波寄町)出身。 豪農の杉田仙十郎(1820-1893)・隆(りう、-1855)夫妻の長男として生まれる。1868年(明治元年)ごろ大阪に出て外国語や理化学を学び、その後東京の三崎嘯輔の塾でドイツ語・理化学を学んだ。1873年(明治6年)にいったん波寄村にもどり、再び各地を放浪したのち、1875年(明治8年)、東京で『采風新聞』を創刊するが、筆禍事件により収監を経験した(1876年3月禁獄6か月)。
松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年… 松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年6月29日) - 明治45年(1912年)2月18日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。幼名・山平。 熊本藩士、郡吏・松永和吉の二男として山鹿郡中富村に生まれる。明治4年(1871年)、伏見青年学舎を経て伏見教導隊に入る。二等伍長、二等軍曹、権曹長、曹長と昇進し、明治6年(1873年)5月、陸軍少尉に任官し歩兵第19大隊付となる。明治7年(1874年)5月から10月まで台湾出兵に従軍。歩兵第14連隊付、近衛歩兵第2連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学んだ。明治10年(1877年)3月から10月まで西南戦争に出征した。 近衛局参謀、東部監軍部参謀、歩兵第4連隊大隊長、広島鎮台参謀、監軍部参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長、対馬警備隊司令官、広島大本営付等を歴任し、日清戦争には歩兵第2連隊長として出征し、田庄台や営口での戦闘に参加した。
磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5… 磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5月26日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の法学者。大審院検事・判事。弁護士。法典調査会委員。衆議院議員。貴族院勅選議員。 娘婿は政治家の磯部尚、孫は歌舞伎役者の二代目坂東市太郎。 花札賭博が大好きで、大審院検事のとき、大審院長や同僚を誘い、柳橋で芸者をあげて遊興三昧のあげく、辞職に追い込まれた。それでも花札は終生止められず、明治天皇にまで教え、いたく興味をもたれたという。 1892年(明治25年)の弄花事件は、前年の大津事件の報復とも、大審院内部の判事対検事の抗争とも言われるが、磯部の免官は、この事件で訴追側の検察内部に疑惑の中心人物がいては不都合だったためとも考えられる。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
4代 高橋 喜惣治(たかはし きそうじ、1850年7月21日… 4代 高橋 喜惣治(たかはし きそうじ、1850年7月21日(嘉永3年6月13日)- 1918年(大正7年)4月15日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。のち左京(さきょう)と改名した。名・猷、諱・種健、字・伯応、号・鶴洲、通称・喜惣治。 上総国埴生郡立木村(千葉県上埴生郡鶴枝村立木、長生郡鶴枝村を経て現茂原市)で、豪農、大庄屋・高橋千満太の長男として生まれる。高橋家は曽祖父・信重以来、通称を喜惣治と称した。富津の織本東岳(履道)から漢学を学び、さらに江戸の島田重礼に入門し、小野湖山に詩文を学んだ。帰郷して大庄屋となった。 1872年(明治5年)第三十九区戸長に就任。第七大区地租改正惣代人、第七大区区会議員、第七大区四小区戸長などを歴任。
笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日… 笹治 元(ささじ げん、嘉永3年6月1日〈1850年7月9日〉- 1941年〈昭和16年〉1月7日)は、幕末の前橋藩士、明治期の政治家。衆議院議員、前橋市長。幼名・鏘吉。 武蔵国入間郡川越で川越藩士、侍医・笹治玄碩の息子として生まれる。居城の移転に伴い上野国勢多郡前橋に転居。家業を継ぐことを好まず、儒学を修めるため江戸に出て紀州藩儒・渡辺曽輔に入門した。紀州藩が長州征討に参加することに伴い渡辺が帰藩の命を受けたため、幕臣林靏梁に師事した。慶応3年(1867年)時勢の変遷に伴い前橋に戻り、親幕尊王攘夷の立場で活動したが、その意思を貫くことが困難となり脱藩。江戸で捕縛され前橋に送還され、明治元年11月6日(1868年12月19日)死一等を減じ廃嫡のうえ自宅禁錮を命ぜられた。
橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永… 橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永3年9月25日)- 1928年(昭和3年)5月30日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田。 越中国礪波郡中田町(富山県東礪波郡中田町を経て現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる。射水郡、のちの守山村(現:高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った。 米の仲買人として成功して一代で財産を築いた。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた。
岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6… 岡田 只治(おかだ ただじ、嘉永3年5月19日〈1850年6月28日〉 - 大正3年〈1914年〉9月10日)は、日本の実業家・発明家。 嘉永3年(1850年)5月、美濃国山県郡保戸島村大字戸田16(現在の岐阜県関市戸田267)の庄屋の家に生まれた。 故郷は長良川と今川に挟まれており、古くから水害の多い場所だった。1933年(昭和8年)に保戸島橋が架かるまで、渡し舟を用いないと対岸との行き来ができない土地だった。 岡田は自費で用水の開削と堤防の築造を計画し、1880年(明治13年)8月に両者が竣工した。さらに各務用水の開削にも着手し、1891年(明治24年)5月にはほとんど完成に至ったが、同年10月28日の濃尾地震で水路が崩壊した。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保
久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3… 久保田 貫一(くぼた かんいち、1850年6月26日(嘉永3年5月17日)- 1942年(昭和17年)6月13日)は、明治期の官僚。県知事、錦鶏間祗候。 但馬豊岡藩士・久保田周輔の三男として豊岡に生まれる。 1879年、外務省に入り書記生となりロンドンに在勤。以後、農商務省・参事院・内務省などの各書記官、兼内務大臣秘書官などを歴任。 1891年4月、埼玉県知事に就任。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行った。このため民党から反発が起こり、同年11月、県会において知事不信任案が可決された。久保田は県会の解散を命じて選挙が行われたが、不信任案に賛同した議員のほとんどが再選され、同年12月に久保田は知事を非職となった。
狩野 揆一郎(かのう / かの きいちろう、1850年6月2… 狩野 揆一郎(かのう / かの きいちろう、1850年6月24日(嘉永3年5月15日)- 1893年(明治26年)3月5日)は、明治期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。名・順、名・天佑、号・尚堂、通称・揆一郎。 下総国印旛郡山田村(千葉県印旛郡山田村、六合村、印旛村を経て現印西市)で、豪農、酒醸造業を営む狩野家に生まれた。佐倉の郷儒・島田から学び、さらに江戸の安井海保に師事して漢学を修めた。 廃藩置県後、印旛県から里正、戸長に任じられ、1873年(明治6年)10月、印旛・南相馬郡学区取締に就任。 1876年(明治9年)内務省に出仕し、図書局、戸籍局で勤務した。1880年(明治13年)千葉県に転じ、庶務、学務を担当。
佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月2… 佐藤 正(さとう ただし、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 大正9年(1920年)4月27日)は、明治時代の陸軍軍人。階級は陸軍少将、位階は従二位功四級。広島県広島市出身。広島県平民。歩兵第18連隊長、第3代広島市長、宮中顧問官等を歴任する。
栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849… 栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 昭和4年(1929年)5月17日)は、日本メソジスト教会の最初の日本人伝道者の一人、後に同教団の牧師。会津藩士。1878年(明治11年)6月12日日本最初のキリスト教式結婚式を挙げた人物として知られる。 会津藩士荒木進三郎の次男として会津若松に生まれる。1864年(元治元年)に栗村家を継ぐ。1868年(慶応4年)会津戦争に従軍する。東京で謹慎処分を受けた会津藩士の一人として名前が載っている。 1873年(明治6年)の廃藩置県の後で、横浜に行き蓮卒(警察官)になる。横浜で教会に行き、キリスト教に回心する。 1875年(明治8年)にロバート・S・マクレイに就いて神学を治める。
松本 正友(まつもと まさとも、1849年7月19日(嘉永2… 松本 正友(まつもと まさとも、1849年7月19日(嘉永2年5月30日) - 1916年(大正5年)8月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 石見国美濃郡虫追村(のち島根県美濃郡中西村、現・益田市)生まれ。漢学を学ぶ。1868年、津和野藩より庄屋に任ぜられ、のち、戸長となる。島根県会議員、虫追村会議員、村連合会議員、郡所得税調査委員、日本赤十字社地方委員、同島根支部幹事、徴兵参事員、所得税調査委員、島根県会副議長、中西村農会長、同村会議員、日本赤十字社正社員となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において島根5区から自由党公認で立候補して落選した。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙で自由党から立候補したが落選。
各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年… 各務 平七(かがみ へいしち、1849年7月13日(嘉永2年5月24日) - 1916年(大正5年)11月16日)は、明治から大正時代の政治家。衆議院議員。 美濃国土岐郡笠原村(岐阜県土岐郡笠原村、笠原町を経て現多治見市)に生まれる。岐阜県会議員を歴任した。 1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では岐阜県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日(1849年… 加太 邦憲(かぶと くにのり、嘉永2年5月19日(1849年7月8日)- 昭和4年(1929年)12月4日)は戦前日本の司法官僚、政治家。桑名藩士、大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長、貴族院勅選議員。初名は三治郎、後に縫殿介。実名は孝基。号は吉甫、白鷹。 幕末に桑名藩士として生まれた。禁門の変後、桑名藩の京都警備に当たったが、この時フランス兵学を学んだことを契機として、洋学を志した。東京に遊学し、村上英俊私塾、大学南校等を経て司法省明法寮に入学し、ボアソナード等に最新のフランス法を学び、第1期生として卒業した。 卒業後しばらく東京法学校に留まった後、フランス、ドイツに留学し、帰国後大津始審裁判所長、京都始審裁判所長、大阪控訴院長を歴任した。
戸村 義得(とむら よしあり、1849年7月7日〈嘉永2年5… 戸村 義得(とむら よしあり、1849年7月7日〈嘉永2年5月18日〉 - 1906年〈明治39年〉3月26日)は、戸村家16代、幕末の出羽久保田藩の横手所預(横手城代 第12代)、第四十八国立銀行初代頭取。通称は秀雄、大学。号は棠堂、茶顚、静学軒。 佐竹氏一門・戸村家の宗家で、父は戸村義效。1849年(嘉永2年)、横手に生まれる。父が久保田藩家老となるにあたり、1868年(明治元年)8月3日に横手所預(城代)を譲られる。戊辰戦争(秋田戦争)では横手城に攻め寄せる奥羽越列藩同盟軍に対し、本藩や奥羽鎮撫総督府からの援軍がない中、19歳にして籠城し戦うが、力及ばず落城した(横手の戦い)。 1879年(明治12年)、第四十八国立銀行(のちの秋田銀行)創立にともない、発起人の一人として頭取に就任した(翌年退任し取締役に)。
津野 常(つの じょう、1848年7月12日(嘉永元年6月1… 津野 常(つの じょう、1848年7月12日(嘉永元年6月12日)- 1902年(明治35年)7月18日)は、幕末の高鍋藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。 日向国児湯郡上江村(高鍋県、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県児湯郡上江村、現高鍋町)で生まれる。藩校・明倫堂で漢学を修め、稽古所で剣術、柔術を錬磨した。その後、美々津県英式楽隊を講習して高鍋藩楽隊長に就任し、さらに同藩民政局出仕を務めた。廃藩置県後、美々津県、宮崎県、鹿児島県で勤務した。 1881年(明治14年)3月、鹿児島県会議員に選出され、分県運動に加わり、1883年(明治16年)7月、宮崎県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。
桜井 規矩之左右(さくらい きくのぞう、嘉永元年6月6日(1… 桜井 規矩之左右(さくらい きくのぞう、嘉永元年6月6日(1848年7月6日) - 大正元年(1912年)11月27日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校3期。最終階級は海軍少将。海軍砲術学校長、巡洋艦「比叡」「松島」「千歳」「橋立」の艦長を歴任。
倉田 準五郎(くらた じゅんごろう、1848年7月4日(嘉永… 倉田 準五郎(くらた じゅんごろう、1848年7月4日(嘉永元年6月4日)- 1922年(大正11年)8月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。旧姓・石井。「順五郎」の表記がある。 備後福山藩領深津郡深津村(広島県深安郡深津村を経て現福山市)で、石井武右衛門の二男として生まれ、水呑村(現:福山市)倉田彦太郎の養子となり家督を継いだ。 1872年(明治5年)沼隈郡水呑村・田尻村の戸長に就任。1878年(明治11年)深津・沼隈・安那郡書記に転じ、1883年(明治16年)まで務めた。その後、東京専門学校に入学し政治経済を学んだのち、1888年(明治21年)郡長試験に合格した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では広島県第8区から立憲改進党所属で出馬し当選。
永峯 秀樹(ながみね ひでき、嘉永元年6月1日(1848年7… 永峯 秀樹(ながみね ひでき、嘉永元年6月1日(1848年7月1日) - 昭和2年(1927年)12月3日)は、英文学者、翻訳家。 甲斐国巨摩郡浅尾新田(山梨県北杜市明野町)出身。本姓は小野で、父は蘭方医の小野通仙。永峰家の養子となる。父に従い甲府に居住し、甲府徽典館を卒業後、沼津兵学校で英語を学ぶ。1871年(明治4年)、東京築地の海軍兵学寮(海軍兵学校)で英語、数学教師。ギゾーの『欧羅巴文明史』の翻訳で、福地源一郎がソサエティの訳語として作った「社会」の語を広めた。ほか、『アラビアン・ナイト』を「暴夜物語」として初めて邦訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
上田 農夫(うえだ のうふ、1848年6月30日(嘉永元年5… 上田 農夫(うえだ のうふ、1848年6月30日(嘉永元年5月30日)- 1895年(明治28年)8月29日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。幼名は馬太郎。 陸奥国岩手郡、のちの岩手県南岩手郡東中野村(現盛岡市)で盛岡藩士・上田長次の二男として生まれる。藩校作人館を経て1872年(明治5年)東京で遊学し、帰郷後の1876年(明治9年)岩手県に奉職する。聴訟課権少属、警部を経て、久慈警察署長、一関警察署長を歴任。1877年(明治10年)の西南戦争では官軍の新撰旅団小警部心得として出征する。自由民権運動に加わり、政治結社・求我社に加わった。1879年(明治12年)には岩手県会議員に当選し、議長を歴任した。
武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元… 武弘 宜路(たけひろ のぶみち、1848年6月25日(嘉永元年5月25日) - 1917年(大正6年)8月23日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 周防国都濃郡末武北村(のち山口県都濃郡花岡村、現・下松市)生まれ。長州藩士で農業を営む。漢、英、数、兵学を修め、1868年、陸軍に入り、1874年、大尉に進み、正七位に叙せられる。1877年、徴兵副使となり、西南戦争に参加する。翌年勲五等双光旭日章を授けられる。1881年、軍を退役し、村会議員、山口県会議員、所得税調査委員、徴兵参事員を務め、防長農工銀行、防長米同業組合各創立委員となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において山口4区から中央交渉会公認で立候補して初当選する。