丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(… 丸山 嵯峨一郎(まるやま さがいちろう、慶応4年1月21日(1868年2月14日) - 昭和19年(1944年)2月5日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会→政友本党)、弁護士。 越後国魚沼郡馬場村(現在の新潟県十日町市)出身。1887年(明治20年)に第一高等中学校に入学し、1891年(明治24年)に卒業。同年、東京帝国大学法科大学に入学し、1894年(明治27年)に卒業した。卒業後は弁護士事務所を新潟市に開いた。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、第6回、第9回、第13回、第14回の計5回当選を果たした(第9回は補欠当選)。 その他、新潟商業会議所特別会員、新潟県弁護士会長、新潟県競馬倶楽部会長を務めた。
森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月… 森 邦武(もり くにたけ、慶応4年1月18日〈1868年2月11日〉 - 1924年〈大正13年〉1月14日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級。前名は平吉。 上野国山田郡桐生本町(現・群馬県桐生市本町)に、町会議員を務めた森卯平の子として生まれる。先代の長次郞の養子となり、1878年(明治11年)12月、家督を相続する。桐生学校、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶ。 1890年(明治23年)陸軍士官学校第1期卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科21番/103名で卒業している。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1894年(明治27年)中尉となり日清戦争に従軍。
狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月… 狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、日本の中国学者。中国文学、中国哲学、敦煌学に業績を残す。京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都学派東洋史学の創始者の一人。肥後国(現:熊本県)生まれ。 1868年(明治元年)狩野直恒の三男として熊本市京町に生まれる。竹馬の友に中国文学者の古城貞吉がいる。1879年(明治12年)、創設まもない同心学舎に入学し、明治17年に後身の済々黌を卒業。その後上京し、共立学校で英語・数学を学んだのち、大学予備門に入り1892年(明治25年)に卒業。東京帝国大学文科大学漢学科に入学。
樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年… 樋口 典常(ひぐち のりつね、慶応4年1月18日(1868年2月11日) - 昭和21年(1946年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、鉄道政務次官。 筑後国八女郡長峰村(現在の福岡県八女市)出身。1890年(明治23年)、東京法学院(現在の中央大学)法律科を卒業。福岡県会議員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、台湾総督府評議会員、台湾農林株式会社社長、台湾製塩株式会社取締役を務めた。 1923年(大正12年)、衆議院補欠選挙に当選。第17回衆議院議員総選挙と第18回衆議院議員総選挙で再選され、その間に岡田内閣で鉄道政務次官を務めた。
阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4… 阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1937年(昭和12年)5月12日)は、日本の実業家、政治家。族籍は滋賀県平民。 近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する。 1892年(明治25年)、慶應義塾正科を卒業。 1894年(明治27年)、近江銀行、1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙(王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。
安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応… 安藤 新太郎(あんどう しんたろう、1868年2月9日(慶応4年1月16日) - 1919年(大正8年)2月13日)は、日本の政治家、実業家。 播磨国明石郡、のちの兵庫県明石郡大久保村(大久保町を経て現明石市大久保町)出身。明治法律学校卒業。 庄屋橋本家から大久保宿本陣を務めた安藤家に養子入りし、当主となる。 1903年(明治36年)、衆議院議員に初当選した後、連続4期務め、第16回列国議会同盟会議などに参加した。 1905年に創設された辰馬本家汽船部に、辰馬本家と共に資金を出仕し取締役として経営に参画、1917年に辰馬本家酒造が創設された際には監査役を務めるなど、同族経営の辰馬財閥に於いて重きをなした。
堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) … 堀 維孝(ほり いこう、慶応4年2月(1868年2月8日) - 昭和29年(1954年)10月31日)は、日本の教育学者、教育者、国文学者。鶴岡鷹匠町(現・鶴岡市)出身。萩邨と号する。国語漢文教育の権威として知られる。 慶応4年(1868年)、庄内藩士堀平太夫重道の長子として鶴岡鷹匠町に生れた。父は戊辰戦争に出陣して羽後羽根川で戦死したため、母の手ひとつで育てられた。明治18年(1885年)、西田川郡中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業。山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に進み、1886年に卒業した。 同1886年、朝暘学校の授業生(代用教員)を命じられた。また、荘内英学会で子弟の教育に当たった。
田中 銀次郎(たなか ぎんじろう、1868年2月4日〈慶応4… 田中 銀次郎(たなか ぎんじろう、1868年2月4日〈慶応4年1月11日〉 - 1937年〈昭和12年〉2月16日)は、北海道において開拓使廃止後の明治時代から昭和初期にかけて活躍した日本の建築技術者であり実業家。島根県松江市寺町出身。北海道の建設業、株式会社田中組の創立者。同じく北海道の建設業、伊藤組土建の創始者伊藤亀太郎と共に伊藤組の創立に深くかかわると共に、北海道建設業協会、札幌建設業協会、旭川建設業協会それぞれの設立にも携わり、北海道の民間建設業黎明期において重要な役割を果たした。 島根県意宇郡寺町(現 松江市寺町)で田中佐兵衛とヒデとの間に誕生。六男だったこともあり生活の活路を求め北海道に渡り25歳、伊藤亀太郎と出会い協力関係となる。
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4… 水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日〈慶応4年1月10日〉- 1949年〈昭和24年〉11月25日)は、日本の内務官僚、政治家。勲等は勲一等。内務大臣、朝鮮総督府政務総監、文部大臣、貴族院議員などを歴任した。 江戸詰の秋田藩士水野立三郎の子として1868年2月3日(慶應4年1月10日)、江戸浅草鳥越町の秋田藩邸で生まれた。立三郎は秋田の出でなく埼玉の出で、江戸で取り立てられた武士である。立三郎は秋田藩主佐竹義堯の弟佐竹義諶(よしつま)に仕えた。佐竹義諶は秋田藩の支藩岩崎藩主で、1869年(明治2年)義諶(1870年死去)、13歳の佐竹義理(よしただ)が継いだ。 立三郎は戊辰戦争で官軍についた秋田藩のために、妻生後間もない水野と2人の姉を連れて現在の秋田県湯沢市岩崎に避難。
宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1… 宮尾 舜治(みやお しゅんじ、1868年2月1日〈慶応4年1月8日〉- 1937年〈昭和12年〉4月3日)は、日本の官僚、外地行政官、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。新潟県出身。 越後国頸城郡広島村の名主・宮尾権九郎の長男として生まれた。父はこののち同村の助役となるが、この村は宮尾家の祖先が開いた地として知られていた。1881年(明治14年)、小島荷裳塾に入塾。1886年(明治19年)、第一高等中学校予科に入学、1889年(明治22年)には本科に進学する。下宿の隣家に寄寓していた神戸の瓦煎餅の職人が店の出資者を探しているとの話に興味を持ち、実家の父を説得して資金を出してもらい翌年11月には両国でせんべい屋「紀文堂」を開業したところ、これが大当たりとなって多忙を極めるようになり、そのため学校の方は欠席がかさんで1891年(明治24年)に本科2年を落第の憂き目に遭う。
大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日… 大工原 銀太郎(だいくはら ぎんたろう、1868年1月27日〈慶応4年1月3日〉 - 1934年〈昭和9年〉3月9日)は、日本の農学者(農芸化学)。勲等は勲二等。学位は農学博士(1911年)。旧姓は鈴木(すずき)。 農事試験場や特許局で技師として勤務し、農芸化学に関する研究に従事したのち、九州帝国大学農学部で教鞭を執った。土壌酸性がアルミニウムに因ること(大工原酸度, Daikuhara acidity)を世界で初めて発見した。九州帝国大学や同志社大学で総長を務めた。 信濃国伊那郡南向村(現長野県上伊那郡中川村)の鈴木家に生まれ、のちに飯田の大工原孝吉の養子となる。松本中学校、東京農林学校を経て1894年、帝国大学農科大学農芸化学科を卒業。
山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1… 山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 明治33年(1900年)10月22日?)は、日本の革命運動家、大陸浪人である。熊本の宮崎滔天らと共に孫文の支援者となり辛亥革命に参加。実弟の山田純三郎も兄の遺志を継いで孫文を支援した。 陸奥国弘前(後の青森県弘前市)に津軽藩士の子として生まれる。山田家は思想家の陸羯南の実家と真向かいにあったこともあり、良政は少年時代から羯南の影響を受けていたとされる。伯父の菊池九郎が経営する東奥義塾で学んだ後に地元の青森師範学校へ進学したが、2年時に全寮制の寮内での賄経費を巡る騒動(賄征伐)が発生した際に、騒動の首謀者となった友人をかばう形で退学処分を受けた。
大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶… 大島 雅太郎(おおしま まさたろう、1868年1月25日(慶応4年/明治元年1月1日) - 1948年(昭和23年)6月9日)は、戦前の三井合名会社理事、蒐書家、慶應義塾評議員、日本書誌学会同人。 源氏物語の写本の収集家で知られるが、鎌倉時代からの古写本の収集に努め、その膨大なコレクションは青谿書屋(せいけいしょおく)と称した。戦後の財閥解体で公職追放となり、旧蔵書は散逸した。雅号は景雅。角田文衛は大島の人となりを、「恭謙温良」と評した。 大島の父で塚本長民の弟でもある大島景保は旧日向国延岡藩藩士で、北条流兵学指南役であり、西南戦争では西郷隆盛率いる西郷軍に呼応する党薩諸隊の一つの延岡隊の小隊長となる。
松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶… 松波 仁一郎(まつなみ にいちろう、1868年1月25日(慶応4年1月1日) - 1945年(昭和20年)11月3日)は、日本の法学者。専門は海商法。大阪府出身。民法典・商法典起草補助委員の一人。 1868年(慶応4年)岸和田藩士の松波仁右衛門と、妻・八重の長男として大阪岸和田並松町に生まれる。1881年(明治14年)同志社英学校普通科に入学。1886年(明治19年)卒業。キリスト教に対しては批判的だったが、新島襄はそういったことを理由に学生を差別するようなことは全くなく深い感銘を受けたという。同志社卒業後は帝国大学予備門に進学。東京帝国大法科大学に進み、卒業後は1893年(明治26年)に法典調査会起草委員補助に任命され梅謙次郎を補佐、日本民商法典成立に貢献した。
斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24… 斎藤 緑雨(さいとう りょくう 齋藤緑雨、1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1904年(明治37年)4月13日)は、明治時代の小説家、評論家。本名・賢(まさる)。「正直正太夫」をはじめ、「江東みどり」「登仙坊」など別名も多数ある。幸田露伴がつけたという戒名は「春暁院緑雨醒客」。
鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1868年1月21日(慶… 鈴木 三郎助(すずき さぶろうすけ、1868年1月21日(慶応3年12月27日) - 1931年3月29日)は、日本の実業家、味の素の創設者。神奈川県出身。従五位勲四等。
笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応… 笹森 卯一郎(ささもり うちろう、1867年2月18日〈慶応3年1月14日〉 - 1911年〈明治44年〉6月12日)は日本の牧師、教育者である。 津軽(弘前)藩士の家に生まれ、1885年(明治18年)に東奥義塾を卒業し、1885年8月に本多庸一より洗礼を受ける。同年9月からアメリカに渡り、デポー大学で学び哲学博士号を取得する。 1893年(明治26年)に帰国し、1894年(明治27年)より長崎市の出島メソジスト教会牧師に就任する。 そして、鎮西学館(のちの鎮西学院)の哲学講師を務めた。1904年(明治37年)鎮西学館の副館長になる。 そして、1906年(明治39年)日本人初の鎮西学館の館長に就任する。
上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867… 上田 萬年(うえだ かずとし / うえだ まんねん、1867年2月11日(慶応3年1月7日) - 1937年(昭和12年)10月26日)は、日本の国語学者、言語学者。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長、神宮皇學館館長、貴族院議員。国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めたほか、文部省専門学務局長や臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。小説家円地文子の父。 1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保(現在の東京都新宿区)の尾張藩下屋敷で生まれる。 東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎、狩野亨吉、岡田良平、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1… 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3… 藤瀬 政次郎(ふじせ まさじろう、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、日本の実業家。三井物産株式会社取締役、東洋綿花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)代表取締役社長。 長崎県出身。1885年に商法講習所(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産株式会社に入社した。同期に高柳豊三郎(のちに株式会社読売新聞社社長)がいた。香港支店を経て、上海支店長、綿花部長を歴任し、取締役に就任。東洋綿花株式会社の設立に関与(同社の設立は、三井物産綿花部が分離独立したもの)。代表取締役社長に就任する。 政財界に幅広い人脈を持ち、東亜同文書院教授で、南満州鉄道社員の山田純三郎を通じて、孫文の辛亥革命を支援したり、犬養毅、新渡戸稲造らとともに南洋協会の設立発起人、渋沢栄一、中島久万吉らとともに日米電信株式会社創立委員などもつとめた、晩年は、財団法人滝乃川学園の理事もつとめ、同学園創立者の石井亮一の事業を援けた。
指田 義雄(さしだ よしお、慶応3年1月3日(1867年2月… 指田 義雄(さしだ よしお、慶応3年1月3日(1867年2月7日) - 大正15年(1926年)9月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。東京米穀取引所理事長。 武蔵国埼玉郡袋村(埼玉県北埼玉郡下忍村、吹上町を経て現在の鴻巣市袋)にて指田泰助の長男として出生。北埼玉郡役所に勤務した後、1887年(明治20年)に英吉利法律学校(現在の中央大学)に入学した。1890年(明治30年)、東京法学院(英吉利法律学校が改称)を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。弁護士として担当した事件のうち、馬車に轢かれた子どもが小指を損傷した事故では千円の損害賠償を勝ち取った。この判決は身体損害賠償の最初の判例となった。
堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1… 堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1月3日)- 1944年(昭和19年)10月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。大阪商船社長、阪神電気鉄道社長、貴族院勅選議員。 加賀国石川郡金沢(現在の石川県金沢市)で加賀藩士・堀五平の長男として生まれ、親族・堀霞の養子となる。1890年(明治23年)第一高等中学校を卒業し、1893年(明治26年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した。官界に進むことを好まず、郷里の先輩早川千吉郎に民間企業への紹介を依頼し、中橋和之の推薦で1893年7月、大阪露油合資会社に入社し手代格となる。 大阪露油での働きが認められ、1895年(明治28年)12月、系列の大阪商船に転じ試験雇を務めた。
兼松 寅太郎(かねまつ とらたろう、1867年2月4日(慶応… 兼松 寅太郎(かねまつ とらたろう、1867年2月4日(慶応2年12月30日)- 1941年(昭和16年)5月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 近江国犬上郡、のちの滋賀県犬上郡彦根町(現彦根市)出身。(株)近江米取引所監査役、同理事長、彦根米穀取引所仲買人、長浜製氷冷蔵(株)社長、大津商業会議所会頭、近江絹糸紡績(株)取締役、近畿バラスト(株)監査役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において滋賀1区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1964年死去。
矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2… 矢野 鉉吉(やの げんきち、慶應3年1月10日〈1867年2月3日〉 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 群馬県高崎市龍見町出身。1893年、群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒。アメリカに留学し、帰国後は東京機器標本(株)取締役、多摩川水力電気(株)監査役となる。また、下谷区議、同議長、東京府議、同議長、東京市会議員を務めた。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において東京8区から立憲政友会公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では東京2区から立候補して当選した。衆議院議員を2期務めた。
益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12… 益田 古峯(ますだ こほう、1867年2月3日(慶応2年12月29日) - 1944年(昭和19年)4月10日)は戦前日本の教育者。名は祐之。筑前秋月藩出身で、号は故郷の古処山に因る。大橋陶庵、栗本義喬、楠本碩水等に漢学を学び、『福陵新報』記者、東筑中学校雇教師を経て、福岡県中学修猷館で約30年間漢文を教えた。
平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月… 平井 繁男(ひらい しげお、慶応3年2月3日〔1867年3月8日〕- 大正14年〔1925年〕9月10日)は、日本の実業家、官吏、特許辨理士。推理作家・江戸川乱歩の父。 三重県津市出身。武士の家柄で津藩の藤堂家に仕えていた七代目平井杢右衛門(陳就)・後妻の和佐との間に生れた。関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生として卒業後、青年官吏として三重県名賀郡右名張町(名張市)役所に奉じた。この頃、津藩家臣の長女のきくと結婚し、1894年 (明治27年)第一子を儲け、太郎と命名。これが後の江戸川乱歩である。間もなく、鈴鹿郡へ転勤。1897年に東海紡績同盟会の職員となり、名古屋に移った。東海紡織同盟会書記長を歴任。
金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月… 金子 角之助(かねこ かくのすけ、旧姓・武藤、1867年1月30日〈慶應2年12月25日〉 - 1937年〈昭和12年〉9月24日)は、日本の政治家、自由民権運動家、会社重役。神奈川県高座郡藤沢町長(第2代)。関東興信銀行、神奈川県農工銀行各取締役。高座郡農会長。全国町村長会会長。中央報徳会理事。 相模国(のち神奈川県高座郡綾瀬村本蓼川、現・綾瀬市)出身。農民・武藤卯左衛門の三男。大庭の金子小左衛門の嗣子となる。耕余塾に学んだ。 横浜中学校卒業後は一時教職に就いた。1885年、有一館の館長・磯山清兵衛の誘いで大井憲太郎らの大阪事件に加わり、投獄され、軽懲役2年の刑をうける。1890年、保安条例に触れて東京を逐われ、同志と共に神奈川県倶楽部同青年会等を組織する。
二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年… 二階堂 三郎左衛門(にかいどう さぶろうざえもん、1867年1月28日(慶応2年12月23日) - 1944年(昭和19年)4月16日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は熊七郎。 安芸広島藩領佐伯郡大竹村(現・大竹市)出身。望戸清四郎の長男として生まれ、先代二階堂三郎左衛門寿光の養嗣子となり、襲名する。1890年(明治23年)25歳にして大竹郵便局長となる。ついで大竹町油見村組合会議員、大竹貯蓄銀行頭取、芸防抄紙社長、広島県農工銀行、日本紙業各取締役などを経て、広島県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1918年(大正7年)5月3日から1925年(大正14年)9月28日まで務めた。
後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2… 後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日(慶応2年12月22日) - 1938年(昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家、評論家。本名寅之助。 後藤三郎右衛門、斎藤サダ(花館村の斎藤勘左衛門の妹)の次男として生まれる。宙外の家家は後藤家の惣家とされる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している。後藤家は元豪族の旧家であったが、父の代に没落していた。1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷。1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。
永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応… 永田 泰次郎(ながた やすじろう、1867年1月26日(慶応2年12月21日) - 1923年(大正12年)1月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将 正四位 勲二等 功三級に至る。 永田健助の長男として江戸に生まれる。攻玉社から慶應義塾幼稚舎に移り、大人部に移る。海軍兵学校(15期)に転じ少尉候補生として登用される。その後海軍兵学校教官となり南清各地を視察。1903年(明治36年)、常備艦隊の幕僚となり日露戦争中は東郷平八郎大将の幕僚副官となり参謀部にあり。戦争終結ののち海軍省出仕となり勲三等に叙す。出雲艦、石見艦の副長となり、第一、第二駆逐艦隊司令官として横須賀に滞在。神戸高等商船学校長に在職中に死去。
井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2… 井上 通泰(いのうえ みちやす、1867年1月26日(慶応2年旧暦12月21日) - 1941年(昭和16年)8月15日)は、主に明治時代に活躍した桂園派の歌人・国文学者、また眼科を専門とする医師でもあった。名は音読みで「つうたい」ともいう。幼名は松岡泰蔵。雅号に南天荘。 実弟の一人に民俗学を大成した柳田國男がいる。 1866年(慶応2年)、儒者(医者)松岡操の三男として、姫路元塩町に生れる。松岡家は播磨国の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家で、父・操は姫路藩の儒者・角田心蔵の女婿・田島某の弟として一時期田島家に籍を入れ、田島賢次の名で私塾の仁寿山黌や好古堂で修学し、のちに医者となった。
牧野 菊之助(まきの きくのすけ、慶応2年12月21日(18… 牧野 菊之助(まきの きくのすけ、慶応2年12月21日(1867年1月26日) - 昭和11年(1936年)12月24日)は、日本の判事(大審院長)。帝国弁護士会名誉会員。 東京府出身。1891年(明治24年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1893年(明治26年)、前橋区裁判所判事となり、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、東京地方裁判所所長を歴任。1918年(大正7年)には法学博士号を取得している。1920年(大正9年)には名古屋控訴院院長となり、さらに東京控訴院長、大審院部長を歴任した。 1927年(昭和2年)に大審院長に就任した。
小野 寅吉(おの とらきち、1867年1月25日(慶應2年1… 小野 寅吉(おの とらきち、1867年1月25日(慶應2年12月10日) - 1947年〈昭和22年〉3月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、愛媛県会議長、愛媛県新居郡高津村長。 愛媛県新居郡沢津村(高津村を経て現新居浜市沢津町)で、篤農家・小野嘉平の長男として生まれる。1879年(明治12年)泉川の遠藤石山の稽崇館に入り漢学を修めた。家督を相続して農業を営む。 1893年(明治26年)高津村会議員となり、1897年(明治30年)高津村助役に就任。1908年(明治41年)高津村長となり1928年(昭和3年)まで在任。水資源確保のため吉岡泉を掘削し、西条農業学校(現・愛媛県立西条農業高等学校)の設立に尽力した。
杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年… 杉野 孫七(すぎの まごしち、1867年1月24日(慶応2年12月19日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人。日露戦争での広瀬武夫とのエピソードで知られる。 1867年に三重県奄芸郡磯山村(後の河芸郡栄村大字磯山、現在の鈴鹿市磯山町)で農業・杉野孫太夫の長男として生まれる。小学校卒業後、代用教員・巡査・監守を経て1886年3月に海軍水兵を志願し、二等水兵として[要出典]浦賀屯営に入営した。「日進」「筑波」と転乗し、1891年から「松島」回航委員付としてフランスへ渡った。 日清戦争では第五号水雷艇に乗り組み、威海衛防材排除の功によって勲八等白色桐葉章および年金36円を支給される。
田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日… 田島 竹之助(田嶋、たじま たけのすけ、1867年1月21日〈慶応2年12月16日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月14日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。族籍は埼玉県士族。 武蔵国埼玉郡小針村(のち埼玉県北埼玉郡太田村大字小針、現:行田市)で、豪農・田島新之助、いよ夫妻の長男として生まれる。1879年6月、祖父・新六から家督を相続した。農業を営む。 農事改良に熱心に取組み、小針沼の浚渫事業を実施して良田に変え、1910年、耕作組合を組織して農民の意識と技術の向上に努めた。また、教育の充実を図り、設備整備、貧困家庭への教育援助を実施した。その他、青年文庫の設立、青年会の組織を行い風紀の改善に努め、家庭会を組織して会長に就任し、講習会を実施するなど太田村民の意識の向上に寄与した。
金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1… 金成 太郎(かんなり たろう、アイヌ名:ペテロ、1867年1月20日〈慶応2年12月15日〉 - 1897年〈明治30年〉1月20日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ。アイヌ学校愛隣学校の教師。アイヌで最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物で、アイヌ初の伝道者である。 幌別アイヌの長老である金成喜蔵(アイヌ名:カンナリキ)の長男で、金成マツ(同名:イメカヌ)・ナミ(同名:ノカアンテ)姉妹の従兄で、知里幸恵・高央・真志保姉弟の従伯父である。 1877年(明治10年)5月に常盤小学校に入学し、ただ一人アイヌ生徒として教育を受けた。聖公会の宣教師のジョン・バチェラーにアイヌ語を教えていく中で、キリスト教に入信して、1885年(明治18年)にバチェラーより、アイヌとして最初の洗礼を受けた。
中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(… 中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(慶応2年1月4日) - 1944年(昭和19年)10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。 官僚 教育者 実業家
荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、慶応2年1月4日〈18… 荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、慶応2年1月4日〈1866年2月18日〉- 1935年〈昭和10年〉12月23日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、群馬県邑楽郡三野谷村長。旧姓・島田。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 下野国足利郡村上村(栃木県足利郡村上村、吾妻村を経て現佐野市村上町)で島田次郎次の三男として生れ、群馬県邑楽郡三野谷村上三林(現館林市上三林)の豪農・荒川家の養子となる。漢学、国学を修めた。 1889年(明治22年)三野谷村収入役に就任。以後、三野谷村会議員、学務委員などを務めた。1896年(明治29年)群馬県会議員に選出され、1907年(明治40年)9月まで在任。
遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日(慶応元年1… 遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日(慶応元年12月28日) - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。 信濃国筑摩郡福島(現・長野県木曽郡木曽町)生まれ。東京大学予備門・第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、1894年卒業。野口孫市・大澤三之助・矢橋賢吉と同期生。 卒業後、神奈川県技師に就任、また横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。1898年、横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事した(1904年竣工)。以降、鉄筋コンクリートの本格的研究を開始。
内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13… 内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13日(慶応元年12月28日)- 1936年(昭和11年)9月28日)は、明治から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。本名・末太郎。 武蔵国多摩郡五日市村(神奈川県西多摩郡五日市町、東京府西多摩郡五日市町、東京都西多摩郡五日市町を経て現あきる野市)で、豪農・内山善右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)家督を相続。同人社で学んだ。林業を営む。 1880年(明治13年)深沢権八らと五日市学芸講談会を設け、自由民権運動の学習活動を行う。その後、キリスト教に入信。1892年(明治25年)神奈川県会議員に選出。三多摩の東京府編入後は東京府会議員、同郡部会副議長などを務めた。
渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶… 渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶応元年12月26日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月9日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。新潟市長。 越後国蒲原郡一ノ木戸村(現新潟県三条市)で渡辺正友の二男として生まれる。1885年12月、陸軍教導団砲兵科に入団。1890年7月26日、陸軍士官学校(1期)を卒業、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を工兵科1番/8名で卒業している。1891年3月26日、陸軍工兵少尉に任官し工兵第1大隊附となる。 日清戦争に工兵第1大隊第2中隊小隊長として出征。1895年11月、陸軍砲工学校(3期)を優等で卒業。
関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25… 関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25日〈1866年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉7月11日)は、明治期の畜産業者、実業家、政治家(衆議院議員、群馬県会議員)。 上野国勢多郡下大島村(群馬県南勢多郡木瀬村、勢多郡木瀬村を経て現前橋市下大島町)で、代々前橋藩の御蔵番を務めた関口家当主・仲次郎、りせ の長男として生まれた。大島梨の栽培で知られる関口長左衛門は祖父の兄にあたる。その後、前橋曲輪町(現:前橋市大手町)に転居した。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)を卒業。 1894年(明治27年)群馬県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任。
大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元… 大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元年12月24日) - 1944年(昭和19年)5月29日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育学者。文学博士。号は金城。 近代日本における体系的な教育学の樹立者、西洋教育史学の開拓者として評価されている。 現在の石川県金沢市生まれ。加賀藩士族・大瀬直温の長男。上京後、進文学舎、東京大学予備門を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科に入学。 文科大学の同級生には大西祝、渡部董之介、三上参次(国文学科)、谷本富(選科生)がいる。卒業後、同大学院に進学し心理学を専攻する。1891年に第五高等中学校に赴任、嘉納治五郎が同校の校長だった時期と重なっている。
池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年1… 池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年12月24日〉- 1909年〈明治42年〉6月1日)は、侯爵・貴族院議員。旧岡山藩池田家第13代当主。 1866年(慶応元年)、備前国岡山城下鴨方藩邸(現在の岡山県岡山市)生まれ。幼名銀三郎。明治維新後に鴨方藩池田家から池田宗家を継承し、備前岡山藩の最後の藩主となった池田章政(政詮)の三男(名前は父の初名を逆にしたようなものになっている)。母は大垣藩主戸田氏正の娘鑑子。 1882年(明治15年)、フランスに留学。公爵島津忠義の次女充子と結婚したが、1889年(明治22年)に離婚し、翌1890年(明治23年)に久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王と再婚している。
大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(… 大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(1866年2月8日)- 1931年(昭和6年)11月7日)は、日本の台湾総督府官僚、外交官。貴族院男爵議員。 江戸で幕臣・大鳥圭介の長男として生まれる。父の死去に伴い、1911年(明治44年)7日10日に男爵を襲爵した。 1890年(明治23年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科第一部を卒業。同年、外務省試補となるが、1896年(明治29年)台湾総督府に転じ台北県書記官となり、台湾総督府民政局参事官・台北県支庁長、総督秘書官を務めた。1901年(明治34年)外交官及領事官試験に合格。外交官に転じ、大韓帝国公使館勤務、オランダ公使館勤務、ウラジオストク総領事、外務書記官、フランス大使館参事官、駐メキシコ公使を歴任した。
名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元… 名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元年12月22日) - 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の聖職者、教育者。元田作之進とともに日本人として聖公会初の監督(主教)を務めた。日本聖公会大阪教区初代主教。築地・聖三一教会(立教教会)初代牧師。 紀伊国那賀郡名手村(現・和歌山県紀の川市)で庄屋の家に生まれる。和歌山の小学校で教員を務める。 その後、大阪に出て、テオドシウス・ティング(米国聖公会宣教師)の大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、ティングのもとで聖職者としての道に進む。 1879年(明治12年)、日本の聖公会として初代の日本人牧師に就任。聖公会としては横山錦柵が1877年(明治10年)に米国で按手を受け日本人初の聖職者となっている。
松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応… 松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応元年12月16日) - 1919年(大正8年)11月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。
橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(… 橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(慶応元年12月15日) - 1928年(昭和3年)6月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。現在の広島県出身。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866… 沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866年1月31日) - 大正11年(1922年)3月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲政友会)。 宮城県栗原郡沢辺村(現在の宮城県栗原市)出身。自由民権運動に加わり、1881年(明治14年)に公愛会という政社を結成した。1894年(明治27年)、県下の自由党員を糾合して血誠義団を組織し、その会長となった。さらに雑誌「新東北」や仙台新聞を発刊して自由党の勢力拡大に貢献したが、1897年(明治30年)に河野広中が自由党を離党すると、それに従い、東北同盟会を組織した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。