仲間 隼斗(なかま はやと、1992年5月16日 - )は、… 仲間 隼斗(なかま はやと、1992年5月16日 - )は、群馬県吾妻郡東吾妻町出身のプロサッカー選手。Jリーグ・柏レイソル所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)。 柏レイソルユース所属時は主にトップ下を務め、ドリブラーとして2010年のクラブユースサッカー選手権大会で準優勝に貢献した。柏ユース(柏日体高校)出身で、同じ年に熊本に期限付き移籍した武富孝介の後輩にあたる。 高校卒業と同時にロアッソ熊本へ入団。2011年のJリーグ開幕戦で、途中出場ながらプロデビューを果たした。開幕2日前に高校の卒業式がおこなわれたが、ベンチに入るということもあり、欠席した。初スタメンのFC岐阜戦でプロ初ゴールをあげた。
島村 幸大(しまむら ゆきひろ、1986年〈昭和61年〉3月… 島村 幸大(しまむら ゆきひろ、1986年〈昭和61年〉3月22日 - )は、日本のミュージカル俳優である。群馬県吾妻郡東吾妻町出身。劇団四季所属。 幼少時にピアノと日舞を始め、東吾妻町立原町中学時代は水泳部で活動し、高崎市立高崎経済大学附属高等学校ピアノ科に進学する。 高校3年時に劇団四季の『マンマ・ミーア!』を初めて観たのをきっかけに夢中になり、『ライオンキング』で四季のオーディションを受けることを志すようになる。高校のピアノ講師の夫で当時声楽家の種井静夫に師事した。のちに種井とは劇団四季で同僚となる。 大学では声楽科に進学し、2008年に声楽でオーディションを受けて合格。劇団四季に入団し、『ライオンキング』で初舞台。
桂 夏丸(かつら なつまる、本名:阿倍 清彦、1984年8月… 桂 夏丸(かつら なつまる、本名:阿倍 清彦、1984年8月15日 - )は、群馬県吾妻郡吾妻町(現・東吾妻町)出身、落語芸術協会所属の噺家、俳人。出囃子は『あゝそれなのに』。 父は根付作家、母は声楽家。小学生の頃から落語と俳句に熱中して東京まで寄席通いを続け、群馬県立渋川青翠高等学校2年生の時に桂幸丸に弟子入りを許され、自宅で稽古を付けて貰うようになる。 2003年(平成15年)3月、卒業と同時に正式入門、桂夏丸の名で前座。2007年(平成19年)9月1日二ツ目昇進。四代目桂米丸一門伝統の新作落語で研鑚中。 実力派の若手俳人としても評価が高く、高校在学中の2002年度上毛新聞社主催『上毛ジュニア俳壇』にて最優秀賞。
一場 靖弘(いちば やすひろ、1982年7月5日 - )は、… 一場 靖弘(いちば やすひろ、1982年7月5日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。元妻は元タレントの安田芽衣子。 桐生第一高等学校では2年の時に第81回全国高等学校野球選手権大会に2番手投手として出場。正田樹をエースとして群馬勢初の優勝に貢献した。甲子園のマウンドでは球速145 km/hを計測した。3年の時には背番号1を着け、再び第82回全国高等学校野球選手権大会への出場を果たしたが初戦敗退。 その後は明治大学に進学し、4年時の2004年春に六大学リーグ歴代2位(戦後最多)となるシーズン107奪三振を達成。また、同シーズンには六大学史上最速球速となる154 km/h(当時)を計測し、8勝3敗の成績で、1993年春以来11年ぶり22季ぶりとなる勝ち点5の完全優勝に貢献、ベストナインに選ばれた。
佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は… 佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は、元社会人野球選手である(投手、右投右打)。鷺宮製作所に所属していた。
青栁 博文(あおやぎ ひろふみ、1972年〈昭和47年〉6月… 青栁 博文(あおやぎ ひろふみ、1972年〈昭和47年〉6月1日 - )は、群馬県吾妻郡東吾妻町出身の高校野球指導者、社会科・福祉科教諭。 高崎健康福祉大学高崎高等学校社会科、福祉科教諭。 群馬県立前橋商業高等学校3年春には選抜大会に出場。 東北福祉大学に進学。大学では和田一浩と同期だった。 大学卒業後は一般就職し、日産系部品会社の軟式野球部で4年間プレー。その後は建設会社の総務職として働き、硬式野球クラブでプレー。 高校時代の恩師から群馬女子短期大学附属高等学校が校名変更と共学化し、野球部を創設する話を聞き、通信教育を利用し、教員免許を取得。2002年4月から前年に共学化された高崎健康福祉大学高崎高等学校に赴任し、創設された硬式野球部の監督に就任。
脇屋 真一(わきや しんいち、1925年 - 2013年)は… 脇屋 真一(わきや しんいち、1925年 - 2013年)は昭和時代の日本の郷土史家。 1925年、群馬県吾妻郡岩島村(現東吾妻町)の農家に生まれる。中之条農業学校(現中之条高校)卒業。郷土の歴史に造詣が深く、特に方言・イントネーション論に関しては群馬県の第一人者。岩島村誌の編纂に当たっては中心メンバーの一人として活躍。吾妻地方における方言の研究成果をまとめ上げた。吾妻町文化財調査委員を43年間、「古文書に親しむ会」の講師を20年程勤める。その間、免毒斎講話としての蕪雑租を町報に執筆する。ほかの著書に「あちゃがら漫筆」「吾妻の伝説」などがある。長男は脇屋精一。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29… 丸茂 重貞(まるも しげさだ、1916年〈大正5年〉5月29日 - 1982年〈昭和57年〉7月23日)は、日本の医師、政治家。位階は従三位、勲等は勲一等。参議院議員(4期)。環境庁長官(第7代)を歴任した。所属派閥は福田派。青嵐会の結成にも参加した。陸軍軍医大尉。 1916年(大正5年)、群馬県吾妻郡坂上村(現・東吾妻町)の出身。出生地は坂上村とも長野県とも。高崎市に移り住み、1934年(昭和9年)旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)を卒業、1940年(昭和15年)東京医学専門学校卒業。医師免許取得後日本鋼管病院に勤務するが、同年10月軍医として応召。最終階級は陸軍軍医大尉。 1946年(昭和21年)7月に復員、群馬県群馬郡滝川村で内科医として開業。
福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日… 福田 三枝(ふくだ みえ、1912年〈明治45年〉2月14日 - 2013年〈平成25年〉9月16日)は、日本の第67代内閣総理大臣である福田赳夫の妻。第91代内閣総理大臣である福田康夫の母。孫は衆議院議員の福田達夫。 群馬県吾妻郡原町(現:東吾妻町)出身。元大審院判事の新井善教の孫娘で、裁判官であった新井文雄の三女として生まれる。1933年(昭和8年)に大蔵省で勤務していた福田赳夫と結婚。ふたりの馴初めのエピソードは公にはされていないが、一説には赳夫が東京帝国大学時代に出会ったとされる。 1976年(昭和51年)12月24日から1978年(昭和53年)12月7日までのおよそ2年間、赳夫が内閣総理大臣に就任したため、ファーストレディとして活動を行った。
近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9… 近藤 宏二(こんどう こうじ 1910年〈明治43年〉9月9日 - 1990年〈平成2年〉3月19日)は、日本の医師。群馬県吾妻郡原町(吾妻町を経て現・東吾妻町)出身。 群馬県立高崎中学校に入学後、東京府立第四中学校に転入し4年修了。第一高等学校を経て、1936年に東京帝国大学医学部を卒業。1937年内務省衛生局に入り、1938年厚生省(現・厚生労働省)が設立されると技官として結核予防施策に取り組んだ。戦後母子衛生課長を務め、その後退官。 1947年に東京大学より医学博士の学位を取得。学位論文の題は「本邦における潜在結核死亡推計に関する統計的研究」。 1952年よりNHKのラジオドクター・テレビドクターを務め、「皆さんの健康」「療養の時間」を担当する。
一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日… 一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の政治家(群馬県吾妻郡吾妻町長・岩島村長ほか)・軍人。藍綬褒章(1963年)。 吾妻町(現・東吾妻町)生まれ。岩島高等小学校卒業。高崎歩兵第15連隊に入営。1921年(大正10年)、岩島村軍人分会会長に就任。1924年(大正13年)、岩島村消防組頭に就任。 1929年(昭和4年)、岩島村会議員に当選した。1933年(昭和8年)同村助役となった。1937年(昭和12年)助役に再任された。同年3月、村会議員の再選を果たした。1941年(昭和16年)8月に助役を辞職した。1942年(昭和17年)7月、村会議員に3選。
菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉… 菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉1月2日 - 1953年〈昭和28年〉4月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家。群馬県議会議員(1期)、群馬県会議員(6期)、第27代群馬県会議長、吾妻郡岩島村長などを務めた。幼名は善之(よしゆき)。 1886年(明治19年)、群馬県吾妻郡郷原村(岩島村を経て現・東吾妻町)の旧家に、村会議員などを務めた先代勘三郎とやいの次男として生まれる。先祖は菅谷勘右衛門の名を世襲し苗字帯刀を許された豪農・名主であった。1892年(明治25年)に父が死去したため勘三郎を襲名し、後に村長を務める叔父・慎三郎の後見を受ける。1903年(明治36年)に群馬県立農学校を卒業した後は、家業の農業に従事した。
大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日〈1871… 大塚 榛山(おおつか しんざん、明治4年4月15日〈1871年6月2日〉 - 昭和19年〈1944年〉2月5日)は、明治から昭和戦前期に活動した日本画家。本名・文治郎。 群馬県吾妻郡荻生村(現・東吾妻町荻生)に生まれる。生家は農業のかたわら酒造業を営んでいた。地元の荻生尋常小学校を経て、中之条の吾妻高等小学校を卒業。その後は実家で農業に従事する。 父の反対を周囲が説得し、上京して南画の大家だった滝和亭に弟子入りする。1889年(明治22年)に榛山の雅号を与えられた。奈良・京都の神社仏閣を巡り、古画の研究に取り組む。法隆寺金堂壁画の修復を手がけたことで名前を知られた。この名声が広がり、吉野神宮、高野山などから招かれ、壁画の修復にあたった。
石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年… 石坂 荘作(いしざか そうさく、1870年4月6日(明治3年3月6日) - 1940年(昭和15年))は、日本の実業家・教育家・慈善家・社会事業家。台湾で活躍。台湾初となる私立の図書館「石坂文庫」を創設し、台北州議會議員、基隆夜學會の校長を務めた。「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれる。自著『臺灣古代文化の謎』では「圖南」(読みは「となん」であろう)と号した。 石坂荘作は、1870年(明治3年)に日本の群馬県吾妻郡原町(現東吾妻町)で生まれた。原町小学校を卒業後、同地や水戸で漢学を学ぶ。原町小学校教員、近衛工兵中隊隊員を経験する。1896年(明治29年)3月にフィリピンへ向かう途中に立ち寄った台湾で、創刊間もない『台湾日日新報』の記者になった。
木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868… 木檜 三四郎(こぐれ さんしろう、明治元年8月4日〈1868年9月19日〉 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本の政治家。初代参議院仮議長、参議院議員(1期)、衆議院議員(7期)、群馬県会議員、吾妻郡会議員、原町長を歴任した。位階・勲等は正四位勲二等(旭日重光章)[要出典]。号に吾川。 明治元年(1868年)、群馬県吾妻郡岩島村(現・東吾妻町)の片貝家に生まれる。幼少期に原町の木檜家の養子となった。群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 1894年(明治27年)に群馬県会議員に当選し、6期務める。1896年(明治29年)から1907年(明治40年)まで吾妻郡会議員、1903年(明治36年)から1907年(明治40年)まで同議長。
新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年… 新井 洞巌(あらい どうがん、慶応2年4月10日〈1866年5月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉5月2日)は、明治から昭和前期に活躍した南画家。本名は信吉。号は白雲、後に洞巌。養子は住友生命保険社長・会長を務めた新井正明。「洞厳」は誤記。 上野国吾妻郡原町須郷沢(現・群馬県吾妻郡東吾妻町)に、新井半重郎の次男として生まれた。6歳の時に母、13歳の時に兄、19歳の時に父を亡くし、継母は異母妹を連れて郷里へ帰ったため天涯孤独となる。 長井雲坪、四谷延陵、菅原白龍、高森砕巌に南画を、漢学を貫名海雲に学んだ。1896年(明治29年)から18年に渡って日本全国や中国の洞庭湖、台湾などを旅した。その絵は吉川英治や安岡正篤らに評価され、吉川からは「最後の南画人」と評された。
高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3… 高山 昇(たかやま のぼる、元治元年1月28日〈1864年3月6日〉 - 1950年〈昭和25年〉10月20日)は、日本の神職。官幣大社稲荷神社(現・伏見稲荷大社)外の元宮司。 元治元年(1864年)、群馬県吾妻郡原町(現・東吾妻町)で高山茂樹(大宮巌鼓神社の神職)の長男として出生。原町小学校を経て、群馬県中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退。1886年(明治19年)に皇典講究所師範科を卒業。1890年(明治23年)、長崎県皇典講究所分所教授となる。この傍らでキリスト教実情研究や西海神職連合会との交流を行ない、長崎諏訪神社宮司の立花照夫など盟友を得る。また、筥崎宮宮司の葦津磯夫に師事し神祇官興復運動の一翼を担う。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
水出子雲(みずいで しゅうん)は、日本の書道家。本名は保。子… 水出子雲(みずいで しゅうん)は、日本の書道家。本名は保。子雲塾主宰。
加部 安左衛門(かべ やすざえもん)は、江戸時代、上野国吾妻… 加部 安左衛門(かべ やすざえもん)は、江戸時代、上野国吾妻郡大戸村(現・群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)の豪農・加部家の当主が世襲した名跡。加部家は戦国時代後期の富沢掃部介常久を初代として、江戸時代には商業・金融・酒造・鉱山といった多角経営で財をなし、「一加部、二佐羽、三鈴木」として上州第一の分限者と言われた。特に幕末・明治時代の12代・加部安左衛門嘉重は俳人・加部琴堂として著名。通称加部安(かべやす)。 加部家の先祖は平広常であると伝わる。初代・富沢掃部が永禄元年(1558年)に大戸に住んだことに始まると伝わり、4代目・小右衛門重常の時に大戸関所が設置されるにあたって関所役人に任じられたという。加部安左衛門重則は重常の次男であり、兄が関所役人を継いだのに対して農業を継いだが、その子孫は大戸村が関所が設けられるような信州街道・草津街道の要所であるという地理的利点を生かし、多様な業種に進出して上野国でも有数の富豪となった。