岩井 重人(いわい しげと、1930年(昭和5年)4月25日… 岩井 重人(いわい しげと、1930年(昭和5年)4月25日 - 2018年(平成30年)1月6日)は、日本の実業家。住友不動産販売代表取締役社長、不動産流通経営協会理事長を歴任した。不動産協会不動産協会功労者表彰。 長野県佐久市出身。1949年長野県野沢北高等学校卒業、住友銀行(現三井住友銀行)入行。川崎支店長を経て、1982年代表取締役専務に昇格。1983年住友不動産取締役。1988年住友不動産代表取締役専務。1993年から14年間住友不動産販売代表取締役社長を務め、2000年には東京証券取引所市場第一部に上場を果たした。2003年不動産流通経営協会理事長、東日本不動産流通機構理事長、不動産協会理事。
小松 源助(こまつ げんすけ、1927年12月3日 - 20… 小松 源助(こまつ げんすけ、1927年12月3日 - 2006年9月24日)は、日本の社会福祉学者。 長野県北佐久郡(現・佐久市)生まれ。1950年日本社会事業専門学校研究科修了、1952年国立精神衛生研究所勤務、1953年熊本短期大学講師、助教授、1959年大阪府精神衛生相談所勤務、1963年日本社会事業大学助教授、教授、福祉学部長、1994年定年退任、名誉教授、東北福祉大学教授、大正大学人間学部教授、2004年聖隷クリストファー大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年〈昭和2年〉9月21… 高橋 信次(たかはし しんじ、1927年〈昭和2年〉9月21日 - 1976年〈昭和51年〉6月25日)は、日本の経営者、宗教法人GLAの創設者。 1927年、長野県南佐久郡の農家に10人兄弟の次男として生まれる。 1938年、原因不明の病気にかかって幾度か死線を超え、「もう一人の私」となっている自分に気がついたという。 1944年、陸軍士官学校に進学し、終戦 。 1946年、復員。敗戦のショックの中、廃墟となった東京に上京する。勉学を志し、大学入学資格試験を通過、日本大学旧工学部(現 日本大学理工学部)で、自然科学や理科学を学ぶ。 1952年、自営で電気関係の仕事を始め、コンピューター端末機器製造会社の高電工業株式会社を設立し、社長となる。
松井 康成(まつい こうせい、1927年(昭和2年)5月20… 松井 康成(まつい こうせい、1927年(昭和2年)5月20日 - 2003年(平成15年)4月11日)は、日本の陶芸家。国の重要無形文化財「練上手(ねりあげで)」保持者(人間国宝)。本名、美明。 練上手という技法を集大成し、伝統技術を基盤にした現代の個性豊かな陶芸のあり方を提示した。
神津 武士(こうづ ぶし、1927年〈昭和2年〉2月11日 … 神津 武士(こうづ ぶし、1927年〈昭和2年〉2月11日 - 2025年〈令和7年〉12月17日)は、日本の政治家。元長野県佐久市長(3期)、元佐久市議会議員(2期)。旭日小綬章。本名は「たけし」。 長野県北佐久郡岩村田町(同郡浅間町を経て、現在の佐久市浅間地区)生まれ。1944年(昭和19年)旧制岩村田町立岩村田中学校(現在の長野県岩村田高等学校)卒業。同年に県下の小学校助教となり、1946年(昭和21年)退職し、自営農家となる。1955年(昭和30年)小諸北佐久農業改良クラブ会長、1960年(昭和35年)農業改良委員、1969年(昭和44年)佐久市議会議員(2期)、1972年(昭和47年)長野地方裁判所佐久支部調停委員となる。
10代 式守 与太夫(しきもり よだゆう、1925年12月4… 10代 式守 与太夫(しきもり よだゆう、1925年12月4日-1983年5月25日)は大相撲の元三役格行司。三役格としての在位期間は1977年11月〜1983年5月。立浪部屋所属。 長野県佐久市出身。本名は関口清三郎。 ヒゲの19代式守伊之助の弟子。27代木村庄之助は兄弟子、31代木村庄之助は弟弟子にあたる。1936年小学5年生の時に行司見習いとして春日山部屋に入門。 1937年夏場所に式守政吉の名で初土俵。のち政臣と改名し、1952年1月に十両格昇格、式守清三郎と改名。1958年7月に幕内格昇格。1969年3月に10代式守与太夫襲名。1974年1月に行司抜擢制度にて、序列1つ上の木村筆之助と序列が入れ替わり幕内格筆頭に昇進したが、同時に与太夫をも抜いて先に三役格に昇格したのは、与太夫より序列が2つ下だった8代式守錦太夫である。
もろさわ ようこ(1925年2月13日 - 2024年2月2… もろさわ ようこ(1925年2月13日 - 2024年2月29日)は、日本の女性史研究家。本名は兩澤葉子。一般財団法人「志縁の苑」代表理事。 1925年、長野県北佐久郡本牧村(現・佐久市)生まれ。 生家が没落し、女中奉公をしながら小学校を卒業。旧制専門学校入学者検定合格。戦中、疎開してきた陸軍士官学校・生徒隊本部に勤める。戦後、北信毎日新聞の記者(1946年)、鐘淵紡績丸子工場にあった鐘紡丸子高等文化学院の教員(1947年)を経て、1949年に上京した。 1946年には、初めて選挙で一票を投じた。 1951年、日本婦人有権者同盟(会長:市川房枝)の本部事務局に入り、機関紙『婦人有権者』を編集。また、財団法人婦選会館が発行する『月刊婦人展望』の編集者をつとめた。
若嵐 武(わかあらし たけし、1924年6月9日 - 没年不… 若嵐 武(わかあらし たけし、1924年6月9日 - 没年不明)は、長野県北佐久郡岩村田町(現・同県佐久市)大字長土呂出身で西岩部屋(入門時は若松部屋)に所属した大相撲力士。本名は東城 武(とうじょう たけし)。現役時代は、最高位は西前頭18枚目(1951年1月場所)。現役当時の体格は180cm、84kg。得意手は右四つ、吊り、上手投げ。 16歳の時に上京し、若松部屋(後、西岩部屋に改称)へ入門。1941年1月場所で初土俵(前相撲)翌5月場所で新序・翌1942年1月場所で序ノ口に昇進した。 生まれついての近視であり、それ故に相手から離れての取り口が困難であった。長身の割に細身で、右四つからの吊りや投げを得意とした。
滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年… 滝 謙太郎(たき けんたろう、1919年3月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優。長野県北佐久郡本牧村(現佐久市)出身。旧漢字表記は瀧 謙太郎。本名は笠原 敬三。 長野県北佐久農学校、帝国高等音楽学校研究科卒業。関屋敏子、古関裕而、下八川圭祐、原信子らに師事し声楽を学ぶ。原信子歌劇団、日本劇場、創作座、芸術座小劇場を経て、1941年に日活多摩川撮影所に入社。大映、松竹大船撮影所を経て、東映に入社。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年… 小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年不明)は、長野県佐久市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 岩村田中学校ではエースピッチャーとして活躍。東京鉄道局で外野手に転向した。1937年に名古屋金鯱軍へ入団。同姓の小林利蔵と共にクリーンアップを担い、チームを牽引している。また、1937年春季リーグと1938年秋季リーグには規定打席に到達しながら、死球の数が四球の数を上回るという珍記録を残した(2007年に大村直之が記録するまで史上唯一の達成者だった)。1940年には翼軍へ移籍。そこでもチームの主軸を担い、キャリアハイである4本塁打49打点を記録するも同年に応召された。 戦後は藤倉電線で4番打者として活躍し、都市対抗野球では1試合7打点の記録も残している。
竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2… 竹内 好(たけうち よしみ、1910年(明治43年)10月2日 - 1977年(昭和52年)3月3日)は、日本の中国文学者。文芸評論家。魯迅の研究・翻訳や、日中関係論、日本文化などの問題をめぐり言論界で、多くの評論発言を行った。
油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 199… 油井 一二(ゆい いちじ、1909年10月30日 - 1992年7月21日)は日本の実業家(美術商)。 長野県北佐久郡三井村香坂(現佐久市香坂)出身。小学校高等科卒業後に上京し、昭和6年(1931年)東亜美術協会の絵画出張販売員となる。同9年(1934年)共同出資により日東美術協会を創立するが、同12年(1937年)から14年(1939年)まで、日中戦争に従軍した。同16年(1941年)、上野広小路に美術店を開いたが、東京大空襲で焼失した。戦後は武者小路実篤の知遇を経て、その作品を扱った。同40年(1965年)「美術年鑑」の権利を創刊者の山田正道から買い取り、「美術年鑑社」として株式会社を設立し、代表取締役社長となった。
丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 199… 丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 1990年5月25日)は、日本の社会評論家。婦人問題評論家。 生年については、1904年説があるが、没後の集いで井出孫六が「1903年に生まれ」と言っている。 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。生まれ。本名・石井ひで。政治家の井出一太郎、医学者の井出源四郎、作家の井出孫六、共同通信社論説委員長の井出武三郎は異母弟。生母が幼くして死去したため養女に出され、のち生母の実家で祖父母に育てられた。 長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務、組織拡充のため全国の農村を回り、1937年、『日本農村婦人問題』を刊行。
柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年… 柳澤 蔵之助(やなぎさわ くらのすけ、1898年(明治31年)2月20日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。海兵46期、海大29期(首席)。最終階級は海軍少将。長野県佐久市出身。 旧制長野県野沢中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第30期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第46期入校。入校時成績順位は131名中第6位、卒業時成績順位は124名中第16位。 柳澤は、海軍通信学校高等科課程を修了しているが、当時の日本海軍で通信関係に進むものに、成績優秀かつ健康に恵まれた者は比較的少なく、このことが海軍の情報軽視の背景の一つであったとされる。柳澤は首席で卒業している。
本間 隆(ほんま たかし、1896年7月31日 - 1992… 本間 隆(ほんま たかし、1896年7月31日 - 1992年6月6日)は、日本の経営者。北海道放送社長を務めた。 長野県南佐久郡前山村(現佐久市)出身。1911年に地元の高等小学校を卒業すると、1912年に国民新聞社に入社。静岡民友新聞社を経て、1936年に北海タイムズ社(のちの北海道新聞社)に転じ、1951年に北海道放送取締役に就任し、1957年に代表取締役を経て、1972年には社長に就任。1973年に会長に就任し、1974年に相談役を経て、1987年から名誉顧問に就任した。 1973年に勲三等瑞宝章を受章。 1992年6月6日心不全のために死去。95歳没。
川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月1… 川村 吾蔵(かわむら ごぞう、明治17年(1884年)8月17日 - 昭和25年(1950年)3月11日)は、日本の美術家。海外で活躍した国際的彫塑家であり、ニューヨークに多くのモニュメント彫刻を完成させたほか、乳牛像、著名人の胸像製作で高い評価を得た。 長野県臼田町(現:佐久市)に川村兵次郎・せむの三男として生まれる。遠縁である水彩画家・丸山晩霞などの影響により芸術家を志し、明治37年(1904年)渡米して彫刻の勉強をする。明治42年(1910年)フランスへ渡り、仏国立美術学校(エコール・デ・ボザール)へ入学。成績優秀で特待生となる。この間、オーギュスト・ロダンに助手の勧誘を受けるが、考え方の相違でこれを断りアメリカ人彫刻家フレデリック・マクモニスの助手となる。
神津 猛(こうづ たけし、1882年 - 1946年6月21… 神津 猛(こうづ たけし、1882年 - 1946年6月21日)は、日本の実業家、考古学研究者。 長野県北佐久郡志賀村(現佐久市)生まれ。生家は信州で指折りの豪農であった神津家の「赤壁家」である。明治32年(1899年)慶應義塾幼稚舎を卒業して帰郷。祖父の包重が始めた報徳会(のち農業会)を中興して、農村指導や地方自治にあたる。明治40年(1907年)から村政に関与し、大正6年(1917年)志賀村長に就任、その他、北佐久郡会議員、上田の中信銀行頭取、佐久鉄道の重役を務めた。昭和5年(1930年)信濃銀行破綻に際しては私財を投じて支払いに当たった。 島崎藤村、田山花袋、高浜虚子らと交流があり、藤村の『破戒』の自費出版費用を提供し、その後も支援を続けた。
木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2… 木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2日 - 1935年〈昭和10年〉1月1日)は、明治後期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、銀行家。八十二銀行の初代常務取締役を務めた。 1879年(明治12年)12月2日、長野県南佐久郡大沢村(現・佐久市大沢)の醸造業・木内儀三郎の長男として生まれる。木内家は武田信玄にゆかりのある旧家であり、代々大沢村(当時は田口藩領)の庄屋を務めた家柄であった。祖父・清兵衛が安政2年(1855年)に酒造業を創業し、栄司は二代目儀三郎の長男として家督を継いだ。 実業界では、1906年(明治39年)8月に南佐久郡臼田町(現・佐久市)に合資会社千曲銀行を設立し、頭取に就任。
神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年… 神津 藤平(こうづ とうへい、1872年1月15日〈明治4年12月6日〉 - 1960年〈昭和35年〉10月11日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の実業家である。長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)の豪農神津家の一族に生まれ、志賀村長や長野県会議員、六十三銀行(八十二長野銀行の前身)常務取締役を務めたのち1920年(大正9年)に河東鉄道、後の長野電鉄の初代社長に就任。以後40年にわたり長野電鉄社長を務め、その間志賀高原開発を主導した。 弟は地質学者の神津俶祐。孫に第80代内閣総理大臣の羽田孜がいる。 明治4年12月6日(新暦:1872年1月15日)、神津清三郎の次男として生まれた。出身地は長野県北佐久郡志賀村(現・佐久市)。
佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(186… 佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(1866年1月21日) - 昭和18年(1943年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。教育者。 信濃国佐久郡長土呂村(現在の長野県佐久市)出身。長野県師範学校を卒業。同級生に河野齢蔵や矢澤米三郎がいた。師範卒業後、北佐久郡で教職につき、他府県出身者の勢力を駆逐し、小諸小学校長時代には、学校を 一村教化の中心にすえることを主唱し、全校生徒の浅間山登山や職員による浅間山研究を行った。さらに郡長が会長の官製教育会のあり方を改め、みずから北佐久郡教育会長に当選するなど、後半の教育官僚・政治家としての地歩を築いた。 明治43年(1910年)に長野県視学に就任し、同理事官、同視学官、大正6年(1917年)同学務課長を歴任したが、「天下の公選によって学務の府に立った」と折にふれ称したという。
神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶… 神津 邦太郎(こうづ くにたろう、1865年12月11日(慶応元年10月24日) - 1930年(昭和5年)12月2日)は、日本の酪農家、銀行家、政治家。日本で最初の西洋式牧場の開設者。長野県平民。牧畜業。神津宗家20代。子孫には東京税理士会会長の神津信一税理士がいる。 信濃国佐久郡志賀村(現在の長野県佐久市志賀)の豪農の家に生まれた。信州で指折りの豪農であった神津家は、代々九郎兵衛を名乗る「黒壁家」と、17世紀後半に分かれた「赤壁家」がある。邦太郎は「黒壁家」の出身である。神津家は先代九郎兵衛より家道大に振るう。 邦太郎は村の小学校である志仁学校を卒業すると、1881年東京へ出て慶應義塾に入った。
木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15… 木内 信(きうち しん、文久3年(1863年) - 大正15年(1926年)8月18日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は澄堂、晩翠。 信濃国佐久郡岸野村(現長野県佐久市)生まれ。長野県師範学校卒業後、明治10年(1877年)同郡八幡村の彰蔵学校教員となり、自由民権運動家として活動する。同18年(1885年)には早川権弥、立川雲平らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に上京して条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出した。 同22年(1889年)に岸野村会議員から長野県会議員に当選、同26年(1893年)には岸野村長に就任。翌年(1874年)第3回衆議院議員総選挙に初当選し、予算委員を務める。
早川 権弥(はやかわ ごんや、文久元年6月18日(1861年… 早川 権弥(はやかわ ごんや、文久元年6月18日(1861年7月25日) - 大正10年(1921年)8月10日)は、日本の政治家。衆議院議員、本名は早川義親。 信濃国佐久郡前山村(現長野県佐久市)生まれ。父親の早川重衛門は後に第十九国立銀行初代頭取を務めた。長野県師範学校を卒業後、明治14年(1881年)自由党に加盟し、党勢の拡張に奔走する。同17年(1884年)の飯田事件に関係したとして検挙されたが証拠不十分として免訴となった。同18年(1885年)には立川雲平、木内信らと東信友誼会を結成し、同20年(1887年)に長野県下の有志を代表して上京し、条約改正反対、地租軽減、言論集会の自由を求めた三大建白書を元老院に提出したが、保安条例によって東京から追放される。
神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政… 神津 善之助(こうづ ぜんのすけ、1858年5月19日(安政5年4月7日) - 没年不明)は、日本の実業家。志賀銀行頭取。北佐久肥料社長。佐久鉄道取締役。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡志賀村(現・長野県佐久市志賀)出身。神津重三郎の長男。1883年、家督を相続する。銀行会社の重役である。住所は長野県北佐久郡志賀村。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈185… 依田 仙右衛門(よだ せんえもん、安政2年6月27日〈1855年8月9日〉 - 1923年〈大正12年〉)は、明治から大正時代の政治家、貴族院多額納税者議員。長野県北佐久郡南御牧村長。幼名は亀太郎直温。 中山道八幡宿の大地主・依田七郎兵衛の長男として生まれ、1874年(明治7年)1月、家督を相続する。御牧原の開発を進め、1889年(明治22年)町村制の施行に伴い、八幡村・蓬田村・桑山村・矢島村が合併し南御牧村が成立すると初代村長に就任し、1893年(明治26年)3月まで務めた。 1911年(明治44年)長野県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1918年(大正7年)9月28日まで1期在任した。
箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - … 箕輪 鼎(みのわ かなえ、天保10年1月(1839年) - 明治27年(1894年)1月2日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名は睦助、通称は勘三郎。 信濃国佐久郡三塚村(現長野県佐久市)に生まれる。生家は代々酒造業を営み、田野口藩の御用達を務めた。長じて寺子屋師匠となり、村の庄屋となる。龍岡城築城の際には普請奉行に任命された。明治維新後は村の戸長、南佐久郡書記などを歴任し、明治14年(1881年)には長野県会議員となる。同19年(1886年)下高井郡長となり、同23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に当選した。コレラ防疫や、水害罹災者の救助などに活躍した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年… 角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は、日本の国学者・神官。通称は由三郎。 信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の近津神社の神主角田忠守と母小林氏の二男として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。弟(父忠守の四男)に同じく神官となった角田信道がいる。 安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田銕胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷の松尾多勢子邸に潜伏。
湖華 詩(こはな うた、11月12日 - )は、宝塚歌劇団花… 湖華 詩(こはな うた、11月12日 - )は、宝塚歌劇団花組に所属する娘役。 長野県佐久市、佐久長聖高校出身。身長161cm。愛称は「よっちゃん」、「よしこ」、「よしの」。 2017年4月、宝塚音楽学校入学。 2019年3月、宝塚音楽学校を卒業し、第105期生として宝塚歌劇団に入団。入団時の成績は21番。4月、宙組宝塚大劇場公演「オーシャンズ11」で初舞台。公演終了後、花組に配属。 2024年、「エンジェリックライ」併演のショー「Jubilee」で、初のエトワールに抜擢。翌2025年の博多座公演の同作でもエトワールを務めた。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
大森 日雅 は、日本の女性声優。長野県佐久市出身、アクロスエ… 大森 日雅 は、日本の女性声優。長野県佐久市出身、アクロスエンタテインメント所属。
稲山 文男(いなやま ふみお)は、日本の総務官僚。内閣府官民… 稲山 文男(いなやま ふみお)は、日本の総務官僚。内閣府官民人材交流センター副センター長や、内閣官房行政改革推進本部事務局長、総務省行政管理局長を歴任した。 長野県佐久市出身。長野県野沢北高等学校在学中に父が病没し、母もがんで大学進学後に死去した。1987年一橋大学法学部卒業、総務庁入庁。国際労働機関総会日本政府代表顧問等を経て、2006年総務省人事・恩給局参事官兼内閣官房内閣参事官(内閣官房副長官補付)。 2007年総務省大臣官房参事官(任用担当)。2008年総務省人事・恩給局人事政策課長。2009年総務省人事・恩給局参事官兼内閣官房内閣参事官(内閣官房副長官補付)。2013年総務省人事・恩給局総務課長兼内閣府地方分権改革推進室参事官。