小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月… 小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月 - 1959年(昭和34年))は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。岡山県倉敷市出身 1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学する。 その後、1909年(明治42年)6月に同校を卒業し、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し、一年志願兵として入営し陸軍二等計手になった後、1915年(大正4年)台湾銀行書記として入行した。
中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)… 中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう、1887年(明治20年)9月24日 - 1946年(昭和21年)12月31日)は、日本の俳人。本名・直三(なおぞう)。俳号は他に一碧(いっぺき)。 岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市玉島勇崎)の旧家で製塩業等を営む実業家・中塚銀太の四男に生まれる。 1900年(明治33年)岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高校)入学。1906年(明治39年)中学卒業の年に洗礼を受けクリスチャンとなる。翌、1907年(明治40年)早稲田大学商科に入学する。大学時代は飯田蛇笏に兄事し俳句を学ぶ。早稲田吟社にも一時参加。後に早大を中退し帰郷。 帰郷後の一碧楼は守旧的な『国民俳壇』の句風よりも、新傾向俳句運動を展開する河東碧梧桐の『日本俳句』に傾倒。
秋岡 保治(あきおか やすじ、 1886年〈明治19年〉6月… 秋岡 保治(あきおか やすじ、 1886年〈明治19年〉6月1日 - 1971年〈昭和46年〉3月7日 )は日本の教育者であり神官である。岡山県倉敷市出身。 1886年(明治19年)岡山県窪屋郡大島村(現:倉敷市)に生まれる。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後、國學院大學予科を経て、東京神官講習所である國學院大學へ入学する。1910年(明治43年)國學院大學国史科を卒業した。 卒業後、同年に旧制千葉中学(現:千葉県立千葉高等学校)へ教諭として赴任。1912年(明治45年)4月に埼玉県金鑚神社の宮司となり、1913年(大正2年)には、一年志願兵として大日本帝国陸軍歩兵第41連隊へ所属した。
犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3… 犬飼 恭平(いぬかい きょうへい、1886年(明治19年)3月15日 - 1954年(昭和29年))は、明治末期から昭和初期にかけてアメリカ合衆国で活動した日系人画家である。岡山県に生まれ、14歳の時に移民としてハワイに渡り、17歳でアメリカ本土へ移った後に、ジョン・ヴァンダーポールらに師事してシカゴ美術館附属美術大学を卒業し、画家としての制作活動を開始した。1926年(昭和元年)にはナショナル・アカデミー・オブ・デザインに自画像『制作中』を出品し、アイザーク・N.メイナード肖像画賞を受賞している。息子のアール・グデナウもまた犬飼の名を嗣ぎ、キョウヘイ・イヌカイ(英語版)という名義で画家として活動を行った。
林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6… 林 荘太郎(はやし しょうたろう、1885年(明治18年)6月16日 - 1947年(昭和22年)3月26日 )は、日本の実業家である。総合商社である兼松第4代(兼松社長としては初代)取締役統括を務め、海洋化学研究所設立に出資した。この他にも、東邦金属製線、日本絹共販の各取締役、商工省諮問委員、神戸商工会議所顧問も務めた。岡山県倉敷市出身。 1885年(明治18年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の父・林廣三郎と母よしの長男として出生する。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学、同期には、東京競馬場長・日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事の横屋潤、山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)の初代校長となる長野新十郎がいた。
田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月2… 田邊 隆二(たなべ りゅうじ、1884年(明治17年)1月23日 - 1945年(昭和20年)2月14日 )は日本の逓信官僚であり実業家でもある。東大を学業優秀で卒業し、国から恩賜の銀時計を授与されたいわゆる「銀時計組」であり、卒業後、逓信省入省を経て、事務次官候補となり、京都電燈社長を経て、初代関西配電(現:関西電力)社長となった。日本電信電話工事の社長も務めた。岡山県倉敷市出身。 1884年(明治17年)岡山県児島郡粒江村(現:倉敷市)の生まれ。生家である田邊家は、素封家で代々庄屋をつとめており、この家系の父・田邊彦太郎と母・歌の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1902年(明治35年)に同校を卒業、東京にある第一高等学校の文科イギリス法学科へ進学した。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月2… 山川 均(やまかわ ひとし、1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日)は、日本の社会主義者、社会運動家、思想家、評論家。労農派マルクス主義の指導的理論家であった。山川菊栄は2番目の妻。 岡山県窪屋郡倉敷村字城ノ内に生まれる。小学校時代の友人に大原孫三郎がいた。同志社尋常中学部に学び、柏木義円らから影響を受ける。在学中に教育勅語や教会のキリスト教に対して反感と不信を抱き、同志社教師森田久萬人としばしば論争した。 同志社を中退して上京。1900年(明治33年)、守田有秋らの友人と語らって発行していた雑誌『青年の福音』に掲載した皇太子の結婚事情について書いた論説「人生の大惨劇」が不敬罪に問われ、重禁固刑を受ける。
木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1… 木見 金治郎(きみ きんじろう、1878年6月24日 - 1951年1月7日)は、将棋棋士。追贈九段。関根金次郎十三世名人門下。岡山県児島郡木見村(現・倉敷市)出身。 古鉄商の子として生まれる。明治19年、数えで9歳のころ、家族と神戸に移る。 二十歳頃までは実家にいて、家業のかたわら、賭け将棋をしていたらしい。数えの19歳の頃、後の十三世名人関根金次郎に四枚落ちで一ひねりされ、将棋の勉強を始める。1914年、家業を捨て東京に出て、関根金次郎門下に入門。プロ棋士となる。 第一次世界大戦後に古鉄の相場が再び上昇したため、大阪に戻り古鉄商を再開する。しかし将棋と力仕事の両立が難しい事から、古鉄商をやめて棋士の道を歩む。
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1… 古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月10日)は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。 1878年1月1日、都窪郡豊洲村に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ。旧制同志社中学、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学法学部へ進学する。 京都帝大卒業後は貿易業へ就き、その後アメリカへ渡る。17年間滞在し、1922年に帰国する。 1923年、万寿村長となり、その後、岡山県議会議員に3回当選する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力した。 合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり、その後、市議会議長となる。
内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月… 内藤 馬藏(ないとう うまぞう、1873年(明治6年)11月17日 - 1940年(昭和15年)1月10日)は、日本の教育者。岡山県倉敷市出身。 1873年(明治6年)岡山県倉敷市に住む内藤永吉の次男として出生する。1899年(明治32年)、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、大学院に入った。1901年(明治34年)、第六高等学校教授となり、20年余り勤務した。1924年(大正13年)から1927年(昭和2年)まで高知高等学校校長を務めた。
白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治… 白神 源次郎(しらがみ げんじろう/しらが げんじろう、明治元年12月19日(1869年1月31日) - 明治27年(1894年)7月29日)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身。 貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた。1894年(明治27年)、広島の歩兵第21連隊に入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く、21連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが満期除隊した。日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征。7月29日、成歓の戦いにおいて武田秀山中佐率いる右翼隊第21連隊第9中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり溺死した。
田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 -… 田辺 又右衛門(たなべ またえもん、1869年1月15日 - 1946年1月20日)は日本の柔術家(不遷流4世・宗家)、柔道家(大日本武徳会範士)。社団法人兵庫県柔道整復師会初代会長。 1886年・翌87年の警視庁武術大会での大勝を機に日の出の勢いとなった新興の講道館柔道が各地に根付く柔術各派を圧倒し、在京の各派の多くが講道館の軍門に下る中、それでも一部の流派が講道館に挑み続けてその急先鋒と云われたのが不遷流出身の田辺であった。得意の寝技を以って講道館四天王の山下義韶や大豪・戸張滝三郎を破るなどし、富田常次郎、横山作次郎、西郷四郎など並居る講道館の重鎮たちが田辺との試合を避けてきた史実から、“講道館が最も恐れた男”として伝説的な存在となっている。
露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4… 露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日(1866年4月3日) - 昭和16年(1941年)2月22日)は日本組合基督教会の牧師である。 1866年(慶応2年)備中国倉敷天城に久次郎、せん子の子として生まれる。1882年(明治15年)岡山市に出て原泉学舎で漢学を学び、オティス・ケーリや金森通倫によりキリスト教に接する。 新聞で新島襄の経歴を読んで渡米することを志すが、天城教会の亀山昇から同志社に行くように勧められ、同志社英学校に入学した。在学中に、京都第二公会(現・日本基督教団同志社教会)でアメリカンボードのJ・D・デイヴィスから洗礼を受ける。 在学中、同志社英学校で開催された第1回夏季学校の記録を編集して、『学生之大会』を刊行する。
田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年… 田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1931年(昭和6年)4月18日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家・漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂。 備中国浅口郡長尾村(岡山県浅口郡長尾村、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた。7歳で父を失い、母に養育され虚弱のため学校に通わず、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた。1879年(明治12年)3月、家督を相続した。 1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し、1896年(明治29年)同社取締役に就任。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え、同家の塩業事業の発展に寄与した。
小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年… 小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年)- 1902年(明治35年)11月12日)は、日本の実業家。岡山県倉敷市出身。諱は、義直。 雄弁家として知られた。 小松原芳太郎の長男として倉敷村に生まれる。1866年(慶応2年)、倉敷浅尾騒動で父を失う。早くから両親を失い祖父小松原義平(善右衛門義忠、1817-1904)に養育された。終生祖父の恩を忘れず八十過ぎて足の不自由な祖父を背負って浴室に入れていた。1883年(明治16年)、21歳のときに村会議員、1888年(明治21年)、倉敷紡績所株式会社を設立。1891年(明治24年)、倉敷銀行(現中国銀行)を設立。 大日本紡績協会副会長。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5… 立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5月13日)- 1929年(昭和4年)4月4日)は、明治時代の政治家、養蚕家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。旧姓は小野。 備中国浅口郡船穂村(現・倉敷市船穂町船穂)の豪農・小野市太夫の4男として生まれる。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ。1866年(慶応2年)10月、19歳の時に美作国津山藩領西西条郡二宮村(苫田郡二宮村を経て、現在の津山市二宮)の大庄屋・立石正介の養嗣子となった。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した。 1878年(明治11年)4月、中島衛らと共に共之社を結成。
緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5… 緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5月10日〉 - 1925年〈大正14年〉7月23日)は、明治時代の日本の山林官僚。オーストリアで山林学を修めた。次男は医学者の緒方大象、三男はジャーナリスト・国会議員の緒方竹虎、四男は医師の緒方龍。 備中国下道郡矢田村(現・岡山県倉敷市)において郷士であった父妹尾康信の三男として生まれた。 1866年(慶応2年)、摂津国名塩村の蘭医伊藤慎蔵に師事し、次いで伊藤の師である大阪の緒方洪庵について蘭学を学んだ。ここで蘭学者緒方研堂から子弟を託され、研堂の養子となって緒方姓を名乗ることとなる。1872年(明治5年)、緒方は上京し、ドイツ語通訳としてウィーン万国博覧会で日本館を出展する田中芳男、津田仙、佐野常民らに随行してオーストリアに渡航した。
秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) -… 秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) - 1915年(大正4年)10月27日)は、岡山県倉敷市出身の実業家。 1845年、備中国倉敷で秋山文三郎の二男として生まれた。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた。 14歳で家業を手伝い、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営した。 1865年(慶応元年)大坂堂島で仲買を始める。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む。 1870年(明治3年)再び堂島で開業する。1884年(明治17年)堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された。 1892年(明治25年)堂島より引退する。
浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年… 浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年11月22日)は、岡山県窪屋郡子位庄(現・倉敷市)出身の実業家。 1843年、窪屋郡小位庄で生まれる。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいたが成功しなかった。 1876年、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の再掘を始める。出費がかさむ事から、採掘事業は解散したが、和七郎一人踏みとどまり、新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功した。 また、早島村金田山廃坑の再掘を開始。多くの銅鉱を採掘し、巨額の富を得た。 巨額の利益を得たことから、数十町の田畑を買い、更に船舶を買い、海運業を始めた。 1883年11月22日、病で死去。
戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日(1835年1… 戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日(1835年10月24日) - 明治34年(1901年)9月9日)は、日本海軍の軍人、医師。茶人。最終階級は海軍軍医総監。海軍軍医制度創設に貢献した。 備中国浅口郡玉島村(現在の倉敷市)出身。中桐幸右衛門の息子として生まれ、幕府奥医師・戸塚静海の養子となる。適塾、シーボルトに学び、将軍侍医となる。 明治維新後、静岡病院頭となる。明治5年(1872年)、海軍省5等出仕となり、軍医寮学舎長、海軍省医務局長兼本病院長、本病院長などを歴任し、明治9年(1876年)12月、海軍軍医総監(少将相当)に進級した。 明治10年(1877年)1月から同16年(1883年)10月まで医務局長に在任。
大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(… 大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(天保4年11月2日) - 1910年(明治43年)7月6日)は、日本の実業家。大原孫三郎の父。 岡山藩士藤田傳吉の三男として生まれる。1858年(安政5年)に備中国窪屋郡倉敷村の庄屋・豪商大原壮平の養嗣子となり、幼名幸三郎を孝四郎と改名。儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学んだ。呉服、繰綿、米、金融を手広く営むとともに大地主であり、学問、絵、書を好む文化人でもあった。 1888年(明治21年)に倉敷紡績所(クラボウ)の初代社長に就任すると、養父壮平が森田節斎から学んだ謙受説を社訓とした。これは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持ちで、より高いものを求めて努力すべし、という内容であった。
川田 甕江(かわた/かわだ おうこう、文政13年6月13日〈… 川田 甕江(かわた/かわだ おうこう、文政13年6月13日〈1830年8月1日〉- 明治29年〈1896年〉2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。本名は剛()であるが、これは師である山田方谷の命名であり、それ以前は竹次郎と名乗っていた。字は毅卿()。錦鶏間祗候。 備中国浅口郡玉島(現・倉敷市玉島中央町)の回船問屋「大国屋」に生まれる。幼いうちに両親に先立たれ伯父惟德の家で少年時代を過ごす。玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。江戸では古賀茶渓、大橋訥庵、佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられることとなった。
中島 千晶(なかしま ちあき、12月28日 - )は、岡山県… 中島 千晶(なかしま ちあき、12月28日 - )は、岡山県倉敷市出身のグループ トーキング・アイに所属するフリーアナウンサー。川崎医療福祉大学卒業。 歌手、モデル、女優の中島ちあきの本名(ただし、こちらは「なかじま」と読む)と一緒であるが、同姓同名の別人であり、まったく関係がない。 度々間違われるが中島の読みは「なかじま」ではなく、濁らずに「なかしま」である。この読み方を珍しがる人が多いが、彼女の出身地である岡山県を始め、中国地方・九州地方では多い姓である。同じく岡山県出身のテレビせとうちのアナウンサーの中島有香、鹿児島県出身の歌手の中島美嘉、福岡県出身のカンニングの中島忠幸、福岡県出身の野球選手の中島俊哉も同じく「なかしま」と読む。
岩城 泰司 は、日本の男性声優。岡山県倉敷市出身。アクセント… 岩城 泰司 は、日本の男性声優。岡山県倉敷市出身。アクセント所属。
荒井 輝年 は、岡山県出身の競艇選手。登録番号3685。身長… 荒井 輝年 は、岡山県出身の競艇選手。登録番号3685。身長170cm。血液型O型。73期。岡山支部所属。同期に、岸恵子、鈴木賢一、飯島昌弘、柳瀬興志らがいる。
荒木 絵里香 は、日本の元女子バレーボール選手、スポーツ科学… 荒木 絵里香 は、日本の元女子バレーボール選手、スポーツ科学者。学位は修士(スポーツ科学)(早稲田大学・2023年)。
平田 彩子(ひらた あやこ)は日本の法社会学者。東京大学大学… 平田 彩子(ひらた あやこ)は日本の法社会学者。東京大学大学院法学政治学研究科教授。 岡山県倉敷市生まれ。岡山県立岡山朝日高等学校から東京大学に入学。2007年 東京大学法学部を「卓越」で卒業。2009年 東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻修士課程修了。2015年9月 京都大学大学院地球環境学堂特定准教授。2016年8月 カリフォルニア大学バークレー校ロースクール修了。2017年3月 岡山大学大学院社会文化科学研究科准教授。2021年8月 東京大学大学院法学政治学研究科准教授。
石井 優希 は、日本の元女子バレーボール選手。
大本 眞基子 は、日本の女性声優。岡山県倉敷市出身。フリー。… 大本 眞基子 は、日本の女性声優。岡山県倉敷市出身。フリー。國學院大學大学院在学中。
多田 勤(ただ つとむ、1959年 - ) は 日本の実業家… 多田 勤(ただ つとむ、1959年 - ) は 日本の実業家。岡山県倉敷市出身 株式会社サノテック代表取締役社長。サノヤスホールディングス(株)常務執行役員。
井上 寛治(いのうえ かんじ)は、日本の医学者。京都大学医学… 井上 寛治(いのうえ かんじ)は、日本の医学者。京都大学医学部附属病院・臨床教授[リンク切れ]。 岡山県倉敷市生まれ、1970年京都大学医学部を卒業。大学病院の研修医時代にFogartyのバルーンカテーテルによる血栓除去術を見て、「簡単な1本のバルーンカテーテルが外科医の熟練した技量に勝り, しかも患者に与える侵襲もはるかに少ないという事実は, これから技量を磨き外科医として大成したいと強い希望を抱いていた自分に強い衝撃を与え, 以後バルーンカテーテルに興味を抱くようになった」と述べている。また井上が胸部外科での研修を始めた1973年当時は開胸による非直視下僧帽弁交連裂開術が盛んに行われていたがバルーンカテーテルを用いれば同等の成果が得られるのではないかと考え、1975年よりイノウエバルーンの開発に着手した。
泉 杏香(いずみ きょうか)は、日本のシンガーソングライター… 泉 杏香(いずみ きょうか)は、日本のシンガーソングライター・女優である。岡山県倉敷市出身、明治大学政治経済学部政治学科卒業。名前の由来は文学作家の泉鏡花。文学的な歌詞と妖艶な独特の世界観を持つアーティストである。母もアーティスト活動をしている。趣味はねこじゃらし。温泉旅行。当初は大手芸能プロダクションで女優をしていたが、ソニー・ミュージック主催のオーディションをきっかけに音楽に転向した。
加藤 貞則(かとう さだのり、1957年(昭和32年)8月2… 加藤 貞則(かとう さだのり、1957年(昭和32年)8月23日は、日本の銀行家、実業家。岡山市に本店を置く中国銀行の頭取、ちゅうぎんフィナンシャルグループ社長。 1957年、岡山県倉敷市生まれ。岡山県立総社高等学校を経て、1981年、早稲田大学政治経済学部卒業、中国銀行入行。1993年、米国シカゴ大学経営大学院修了。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
磯崎 眠亀(いそざき みんき)は、花筵製造業の実業家、発明家… 磯崎 眠亀(いそざき みんき)は、花筵製造業の実業家、発明家である。 都宇郡帯江新田村(現、倉敷市茶屋町)生まれ。父は児島郡田之口村(現、倉敷市児島田の口)出身の小倉織を扱う商人で織元。 梯型筬(ていけいおさ)を発明、広組縮織(ひろぐみちぢみおり)を考案した。これにより、緻密な花筵を織ることに成功、錦莞筵(きんかんえん)と名付けた。この錦莞筵が海外に輸出され、これをきっかけに、花筵が明治後期の日本の重要な輸出品の一つとなった。 天保5年10月(1834年11月ごろ)、備中国都宇郡帯江新田村(現、岡山県倉敷市茶屋町)にて誕生する。幼名を興三郎、後家をついで什三郎、そして、明治5年(1872年)、眠亀と改名した。
宇田 学(うだ まなぶ)は、日本の劇作家、演出家、俳優。岡山… 宇田 学(うだ まなぶ)は、日本の劇作家、演出家、俳優。岡山県倉敷市出身。 2000年、劇団PEOPLEPURPLE(現:theatre PEOPLE PURPLE)旗揚げ、主宰。全作品の脚本・演出を手掛け、自らも役者として活躍。大阪府を拠点に演劇活動を行う。阪神・淡路大震災の消防士の活動を描いた舞台「ORANGE」を見たプロデューサーに誘われテレビドラマの脚本を手がけるようになる。 2015年、『悪夢』で第3回市川森一脚本賞の奨励賞を受賞。 LETTER〜変わり続けるベクトルの障壁 - RECOVER〜描き続けるもう一つの結論 - FEVER〜眺め続けた展望の行方 - 再演DOOR〜在り続けるためのプロセス - ESCAPER〜探し続けていた場所 - FOUR〜求め続けた奴等の革命 - LOVER〜想い続けたキミへの贈り物 - WAR〜戦い続けた兵たちの誇り - ミハル - LOOSER〜失い続けてしまうアルバム - COMPOSER〜響き続ける旋律の調べ - HONOR〜守り続けた痛みと共に - 下荒井兄弟のスプリング、ハズ、カム。
戸川 貴行(とがわ たかゆき)は、日本の歴史学者。専門は中国… 戸川 貴行(とがわ たかゆき)は、日本の歴史学者。専門は中国史(魏晋南北朝史)、お茶の水女子大学准教授。岡山県倉敷市生まれ。