板村 真央(いたむら まお、2006年8月6日 - )は、広… 板村 真央(いたむら まお、2006年8月6日 - )は、広島県広島市出身の女子サッカー選手。エールディヴィジ(オランダリーグ1部)のフェイエノールト(英語版)所属。ポジションはフォワード。JFAアカデミー福島14期生。 2019年からJFAアカデミー福島でプレー。 2022年にはなでしこリーグ2部で13得点を決めて得点王となり、新人賞も受賞した。 2025年1月3日、フラウエン・エールディヴィジのフェイエノールト(英語版)がカタールで実施するキャンプに板村をトライアル・プレーヤーとして参加させると発表した。その後同年1月16日に加入が発表された。背番号は23番、契約は2026-27シーズンまで(1年間の契約延長オプション付き)。
棚田 遼 (たなだ りょう、2003年6月19日 - ) は… 棚田 遼 (たなだ りょう、2003年6月19日 - ) は、広島県広島市出身のサッカー選手。ポジションは、フォワード。 サンフレッチェ広島F.Cの下部組織出身で、2021年4月にトップチームに2種登録されると、5月5日のルヴァンカップ第5節横浜F・マリノス戦にて初先発・初出場を果たす。 2022年シーズンよりトップチームに昇格する。 シーガル広島FCに所属、背番号10番としてサンフレッチェFCジュニアとの対戦経験もある。また、シーガル広島、ジュニアユース、ユースという経歴は、先輩である野津田岳人と全く同じ道である。 2024年、いわきFCに育成型期限付き移籍。 2025年、ガイナーレ鳥取に育成型期限付き移籍、同年シーズン終了後に鳥取への期限付き移籍期間終了並びに広島を契約期間満了により退団。
川﨑 咲耶(かわさき さや、1996年6月7日 - )は、広… 川﨑 咲耶(かわさき さや、1996年6月7日 - )は、広島県広島市出身の女子サッカー選手。ASハリマアルビオン所属。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 高校は宮城県の常盤木学園高等学校に入学する。2013年のチャレンジリーグ優勝に貢献した。 2015年、アルビレックス新潟レディースに入団する。 2019年、アンジュヴィオレ広島へ移籍。同年7月、オーストリア・女子ブンデスリーガ1部に属するFCヴァッカー・インスブルックへ移籍した。 2020年6月、アンジュヴィオレ広島に復帰。2021年シーズン限りで退団。 2022年、伊賀FCくノ一三重へ移籍。同年7月3日にリーグ通算150試合出場を達成した。
宮原 和也(みやはら かずや、1996年3月22日 - )は… 宮原 和也(みやはら かずや、1996年3月22日 - )は、広島県広島市安佐南区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・東京ヴェルディ所属。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。元立川市議会議員でネット配信者の横山緑の大ファンである。 2人の兄がおり、自身も含め3人ともサンフレッチェ広島ジュニアユース出身で、うち長兄も広島ユース出身。小学生の頃はFWあるいは攻撃的なMFとしてプレーしている。 2008年、サンフレッチェ広島ジュニアユースへ入団する。同期に川辺駿・大谷尚輝。攻撃的なミッドフィルダーとして活躍し、2010年クラブユース選手権(U-15)3位進出に貢献している。中学3年ではボランチとしてプレーした。
川辺 駿(かわべ はやお、1995年9月8日 - )は、広島… 川辺 駿(かわべ はやお、1995年9月8日 - )は、広島県広島市安佐北区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・サンフレッチェ広島所属。ポジションはミッドフィールダー(セントラル・ミッドフィールダー、攻撃的ミッドフィールダー)。日本代表。 4歳上の兄の影響で自身も幼少期からサッカーに親しみ、小学1年生の頃から地元強豪チームの広島高陽FCでプレーする。同クラブの2期上に渡大生、4期上に中山雄登、6期上に増田卓也、8期上に森重真人、9期上に高柳一誠、10期上に田坂祐介、11期上に木村允彦がいる。 2008年、サンフレッチェ広島ジュニアユースへ入団する。同期に宮原和也・大谷尚輝。ボランチとして活躍し、日本クラブユースサッカー選手権 (U-15)大会3位進出に貢献している。
元田 龍矢(もとだ りゅうや、1994年9月2日 - )は、… 元田 龍矢(もとだ りゅうや、1994年9月2日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションは、ミッドフィールダー(MF)。 広島高陽FC U-15、瀬戸内高校を経て、高知大学へ進学。2年次の2014年より四国リーグの高知UトラスターFCに登録され、2シーズンプレーした。高知UT所属時に全国地域リーグ決勝大会で対戦した、当時VONDS市原の監督を務めていた水戸ホーリーホックの西村卓朗強化部長に評価され、4年次の2016年8月に水戸の特別指定選手に承認された。 2017年より、水戸ホーリーホックへ正式に加入し、同年はアルビレックス新潟シンガポールに期限付き移籍。 2018年、水戸ホーリーホックへ復帰。
塚川 孝輝(つかがわ こうき、1994年7月16日 - )は… 塚川 孝輝(つかがわ こうき、1994年7月16日 - )は、広島県広島市出身のプロサッカー選手。タイ・リーグ1・PTプラチュワップFC所属。ポジションはミッドフィールダー(DMF)、ディフェンダー(CB)。 サンフレッチェ広島のジュニアユースチームから、広島県立広島観音高等学校を経て流通経済大学に進学。在学中は2014年に総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント、全日本大学サッカー選手権大会を制するなど、タイトル獲得に貢献。4年次には主将を務めるなど、チームの中心選手として活躍した。また、2014年から2016年に掛けて、3年連続でデンソーカップチャレンジ関東選抜の一員として選出。2016年度の同大会ではベストイレブンを受賞するなど、関東大学リーグを代表するディフェンダーとして名を馳せた。
渡 大生(わたり だいき、1993年6月25日 - ) は、… 渡 大生(わたり だいき、1993年6月25日 - ) は、広島県広島市安佐北区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・徳島ヴォルティス所属。ポジションはフォワード。 広島市安佐北区出身で、幼少時から隣り合わせに住んでいた森重真人を目標にサッカーに取り組んだ。森重と同じ広島皆実高校に進学し 2年次には早くも背番号10をつけ、攻撃的MFとして活躍。冬の全国選手権にも出場を果たす(2回戦で青森山田に敗退)。 2011年、高校3年次の夏頃からギラヴァンツ北九州の練習に参加し、練習試合にも出場。持ち前の馬力のあるドリブルをアピールし、首脳陣の高評価を集めた。 2012年、ギラヴァンツ北九州に入団した。3月11日の第2節ファジアーノ岡山戦にてJリーグ初出場を果たすと、同年3月20日の第4節水戸ホーリーホック戦でJリーグ初得点を決めた。
増田 卓也(ますだ たくや、1989年〈平成元年〉6月29日… 増田 卓也(ますだ たくや、1989年〈平成元年〉6月29日 - )は、広島県広島市安佐北区出身 の元プロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。 幼稚園時代からサッカーを始める。GKはこの頃から経験していたが、中学生まではフィールドプレーヤーであった。広島高陽フットボールクラブの4つ上に田坂祐介、3つ上に髙柳一誠、2つ上に森重真人、2つ下に中山雄登、4つ下に渡大生がいた。中学生時代はピジョンFCでプレー。 2005年、強豪の広島県立広島皆実高等学校へ進学。この頃から本格的にGKとしてプレーを始めた。2年生から正GKに定着し、高校サッカー選手権では第85回大会・第86回大会と2年連続でベスト8進出に貢献している。
三村 真(みむら まこと、1989年3月30日 - )は、広… 三村 真(みむら まこと、1989年3月30日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。中国リーグ・福山シティFC所属。ポジションは、MF。 山陽高校から拓殖大学を経て2011年、「チームに勢いを感じた」ファジアーノ岡山へ加入。同年はネクスト所属となる。2012年は左股関節肉離れの怪我もあり、ネクストに登録されたが、10試合9得点の活躍を見せ、7月にトップチームへ登録変更され、11試合に出場した。 2020年11月30日、契約満了による退団が発表された。 2021年1月23日にJ3に昇格したテゲバジャーロ宮崎に移籍。 2022年11月15日、テゲバジャーロ宮崎は契約期間の満了と来季に向けた契約更新を行わないことを発表。
代 健司(だい けんじ、1989年3月27日 - )は、広島… 代 健司(だい けんじ、1989年3月27日 - )は、広島県広島市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー。 広島市立大芝小学校でサッカーを始め、中学年代は名門広島大河FCでプレーする。 その後広島県立広島観音高等学校へ進学。高校3年ではキャプテンを務め、選手だけでゲームプランを決める観音独特のやり方の中で中心人物として活躍、同校のインターハイ初優勝に貢献した。 大学は福岡大学へ進学する。同期に永井謙佑。同校の2009年総理大臣杯初制覇および2009年インカレ準優勝に貢献した。大学4年では福岡大でキャプテンを務め、2010年デンソーチャレンジカップ九州選抜メンバーに選ばれている。
内藤 圭佑(ないとう けいすけ、1987年8月11日 - )… 内藤 圭佑(ないとう けいすけ、1987年8月11日 - )は、広島県広島市出身のサッカー選手。ポジションはGK。 広島・広陵高校の出身の選手としては初のJリーガーとなる。同級生にはプロ野球選手の藤川俊介がいる。 2008年に国士舘大学が天皇杯で4回戦進出した際のメンバーである(4回戦の鹿島アントラーズ戦はリザーブメンバー)。大学では柏好文と同期。 卒業後はカターレ富山に入団。2010年途中に安間貴義監督が就任すると起用され、第31節の札幌戦で初出場したが、ゴールエリアから大きく蹴り出す際に、詰めて来た相手FW内村圭宏に当ててしまい失点するという苦いデビューとなった。翌第32節の北九州戦で初勝利を経験。
森重 真人(もりしげ まさと、1987年5月21日 - )は… 森重 真人(もりしげ まさと、1987年5月21日 - )は、広島県広島市安佐北区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・FC東京所属。ポジションはミッドフィールダー(ディフェンシブハーフ)、ディフェンダー(センターバック)。元日本代表。 広島市西区三篠町生まれ。3人兄弟の次男。兄の影響により、8歳(小学校3年生)の時にサッカーを始める。当時は肩まで伸びた長髪をなびかせて周囲の目を引き、「三篠のロン毛」と呼ばれた。三篠小学校4年の時、同市安佐北区口田に引越す。隣家は渡大生の実家だった。少年サッカーの強豪広島高陽FCに所属し全国大会に出場した。中学時にはサンフレッチェ広島ジュニアユースに所属。同期には槙野智章、左山晋平らがおり、当初はFWで槙野と2トップを組んでいたが、3年生になる頃、監督の月岡利明と上野展裕によって守備的MF(ボランチ)にコンバートされ主力として活躍した。
槙野 智章(まきの ともあき、1987年5月11日 - )は… 槙野 智章(まきの ともあき、1987年5月11日 - )は、広島県広島市西区出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者・解説者、タレント・YouTuber。現役時代のポジションはディフェンダー、フォワード。元日本代表。サッカー指導者。 サッカーファンでサッカーをプレーした父と、すでにサッカーを始めていた2人の兄の影響で、小学1年生からサッカーを始めた。草津小学校のサッカー少年団員は4年生以上であるため、隣町井口の井口明神小学校のサッカークラブに入団し、小学6年次にFWとしてフジパンカップ広島県大会で3位入賞した。 2000年にサンフレッチェ広島ジュニアユースに入団。同期には森重真人、左山晋平などがいる。
左山 晋平(さやま しんぺい、1987年5月4日 - )は、… 左山 晋平(さやま しんぺい、1987年5月4日 - )は、広島県広島市出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。
長谷川 博一(はせがわ ひろかず、1986年10月20日 -… 長谷川 博一(はせがわ ひろかず、1986年10月20日 - )は、広島県広島市出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。 サンフレッチェ府中サッカースクール から、広島ジュニアユースへ昇格。ユースには昇格できずその後、広島観音高校へ入学、広島県内でもあまり強い高校ではなかった同校を強豪高にしたメンバーの一人である。2003年には高円宮杯初出場、翌2004年と連続出場を果たした。 その後、広島経済大学へ入学。2006年には広島県代表として天皇杯出場。2007年夏にサガン鳥栖と広島経済大が練習試合を組んだ際に、その活躍が目に留まりそのままチームの練習へ参加。2008年から特別指定選手として鳥栖へ登録。
田坂 祐介(たさか ゆうすけ、1985年7月8日 - )は、… 田坂 祐介(たさか ゆうすけ、1985年7月8日 - )は、広島県広島市出身 の元プロサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 広島高陽FC時代の一学年上に木村允彦、同期に横川・児玉、一学年下に髙柳一誠、二学年下に森重真人がいた。その後サンフレッチェ広島ジュニアユースへ入団、同期に前田和之・田村祐基、一学年上に沖本尚之ら。ジュニアユース時代に中村重和・小野剛らの指導を受けている。2001年に広島ユースに昇格、同期に児玉・前田・田村・西山貴永・馬屋原、一学年上に沖本尚之・木村龍朗らがいた。広島ユースは2003年の日本クラブユース選手権初優勝、高円宮杯全日本ユース選手権3位、Jユースカップ優勝、天皇杯ではJ2水戸ホーリーホック相手に健闘する。
木村 允彦(きむら まさひこ、1984年10月1日 - )は… 木村 允彦(きむら まさひこ、1984年10月1日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー (CB、右SB)。ロングフィードとカバーリングに長けている。 10歳でサッカーを始める。小学生時代は広島高陽フットボールクラブに、中学生時代はセントラル吉島に所属した。2000年広島県立広島皆実高等学校に入学し、在学中に全国高等学校サッカー選手権大会出場を3年連続で経験した。 卒業後大阪府に渡り桃山学院大学に入学、サッカー部に所属して関西学生サッカーリーグ・関西学生サッカー選手権大会などに出場した。4年次には同部主将も務めた。 卒業後の2007年、当時JFL所属のFC岐阜に入団し、3試合に出場した。
井上 裕文(いのうえ ひろふみ、1984年4月5日 - )は… 井上 裕文(いのうえ ひろふみ、1984年4月5日 - )は、広島県広島市出身のサッカー選手。
小林 優希(こばやし ゆうすけ、1983年10月16日 - … 小林 優希(こばやし ゆうすけ、1983年10月16日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。現役時代のポジションは、MF。 2012年7月10日、JFAの移籍リストから抹消され、現役引退。
山根 巌(やまね いわお、1976年7月31日 - )は、広… 山根 巌(やまね いわお、1976年7月31日 - )は、広島県広島市出身の元プロサッカー選手。サッカー選手の山根永遠は実子。 幼いころに小児喘息だったため体を鍛えるために小学5年からサッカーを始める 二葉中を経て広島皆実高校を卒業し 、1995年にサンフレッチェ広島に入団。1997年、エディ・トムソン監督によって攻撃的MFとして評価され主力になる。が、翌1998年、同ポジションにアウレリオ・ヴィドマー、皆本勝弘、山口敏弘、大久保誠が加入。外国人監督とのコミュニケーション不足もあって出場機会が激減。同年11月、当時広島と提携関係にあった旧JFL所属の大分トリニティへ期限付き移籍した。 翌1999年にJリーグ ディビジョン2 (J2)が発足し大分が「大分トリニータ」としてJ2に参入すると、後に「最良の理解者」と呼べる関係となる石崎信弘が監督に就任。
下田 崇(しもだ たかし、1975年11月28日 - )は、… 下田 崇(しもだ たかし、1975年11月28日 - )は、日本の元プロサッカー選手(GK)、指導者。広島市南区上東雲町出身。広島県立広島皆実高等学校卒業。元日本代表。 現サッカー日本代表・U-21サッカー日本代表のゴールキーパーコーチ。 実家は喫茶店を経営。小さいころは野球少年で、リトルリーグで外野手やキャッチャーとしてレギュラーだった。サッカーをやっていた兄の影響もあり、小学4年生からサッカーに転向しフォワードやミッドフィールダーとしてプレー、中学では攻撃的なミッドフィールダーとしてプレー。 1991年、高校に入学。監督の勧めで1年時から本格的にゴールキーパーを始めた。1993年3年生の時に香川・徳島国体選抜として出場したことが唯一の全国大会での成績。
皆本 勝弘(みなもと かつひろ、1972年7月2日 - )は… 皆本 勝弘(みなもと かつひろ、1972年7月2日 - )は、広島県広島市安芸区矢野出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはMF、中盤のあらゆるポジションを担当した。 広島市立矢野中学校出身で、先輩に佐藤康之、後輩に森崎和幸・浩司兄弟がいる。広島県立広島工業高等学校 では、1つ先輩に桑原裕義・梶山洋一がいる。桑原とはのちにサンフレッチェ広島で共にプレー経験がある。 1991年高校卒業後、ヤンマーディーゼルサッカー部(現セレッソ大阪)に入部する。1994年セレッソ大阪設立 後も主力メンバーとして活躍した。 1998年、地元のサンフレッチェ広島へ移籍。同年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、現役を引退した。
森島 寛晃(もりしま ひろあき、1972年4月30日 - )… 森島 寛晃(もりしま ひろあき、1972年4月30日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。元日本代表で、1998年・2002年のFIFAワールドカップメンバー。現在はセレッソ大阪運営会社「株式会社セレッソ大阪」代表取締役会長を務める。 Jリーグの開幕連続得点記録保持者(7試合連続)、オールスターゲーム最多得点記録保持者(通算6ゴール)。セレッソ大阪在籍時に最も得点を取った選手。セレッソ大阪の初代8番。 広島県の大河FCから、静岡県の東海大学第一高校(現:東海大学付属静岡翔洋高校)へ進学し、1991年に、当時JSL2部のヤンマーディーゼルサッカー部に入団。
桑原 裕義(くわばら ひろよし、1971年10月2日 - )… 桑原 裕義(くわばら ひろよし、1971年10月2日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはMF(守備的MF)。 広島県立広島工業高等学校出身。2つ先輩に棚田伸(元柏レイソル)、同級生に梶山洋一(元ヴィッセル神戸)、1つ後輩に皆本勝弘(元セレッソ大阪)。皆本とはのちにサンフレッチェ広島で共にプレー経験がある。 大阪体育大学2年の時に1991年ユニバーシアード・シェフィールド大会代表に選出、1993年バッファロー大会代表に選出され、バルセロナオリンピックアジア予選候補に選出される。この際にサンフレッチェ広島のチームドクターがスタッフとして入っており、そのドクターから広島入団へとリクルートされる。
田坂 和昭(たさか かずあき、1971年8月3日 - )は、… 田坂 和昭(たさか かずあき、1971年8月3日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションは主にミッドフィールダー(MF)。元日本代表。 1994年、ベルマーレ平塚がJリーグに昇格した年に入団。初年度からディフェンシブハーフ(ボランチ)のポジションを前年不動のレギュラーであった松山広淳から奪い、開幕戦から出場。平塚競技場のこけら落としとなった第2節では渡辺卓と激突し、顔面を骨折してその後1ヶ月を棒に振ったものの、復帰後は中心選手として活躍した。1stステージは岩本輝雄、名良橋晃の超攻撃的両サイドバックのフォローに追われたが、NICOSシリーズは優勝争いを演じ、田坂自身はJリーグ新人王を獲得した。
沖本 辰也(おきもと たつや、1971年7月1日 - )は、… 沖本 辰也(おきもと たつや、1971年7月1日 - )は、日本のサッカー指導者(JFA 公認B級コーチ、公認B級GKコーチ)、元サッカー選手。広島県広島市東区中山出身。 兄の影響で小学校3年生からサッカーを始め、選手引退後もサッカー指導者としてサッカーに携わる。 選手としては無名だったが、小学校時代は広島県代表として全日本少年サッカー大会 に出場、中学時代も広島県代表として中国中学校サッカー大会に出場した。小学校時代は小沢通宏、高校時代は船本幸路、中国リーグ時代は小滝勇一 など全日本経験者の指導を受けている。 現役引退後、出身チームの中山サッカークラブで少年サッカーの指導者として、指導の道に進む。
野村 雅之(のむら まさゆき、1966年12月11日 - )… 野村 雅之(のむら まさゆき、1966年12月11日 - )は、東京都生まれ、広島県育ちの元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。岡山県作陽高等学校サッカー部総監督。 1983年広島国泰寺高校のゴールキーパーとして吉田安孝らとともに高校選手権出場。義田貴士は同級生である。1988年筑波大学に進学しサッカー部で活躍。中山雅史、井原正巳、森山佳郎らが大学の後輩。 1990年招かれて保健体育教諭として作陽高等学校に赴任しサッカー部コーチとなり、1999年監督就任。2007年、高校選手権で同校を岡山県勢初の決勝進出に導いた。2005年にJFA公認A級ライセンス、2008年に同S級ライセンスを取得している。
吉田 安孝(よしだ やすたか、1966年11月22日 - )… 吉田 安孝(よしだ やすたか、1966年11月22日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、現・サッカー解説者。 現役時代は、タイトなマークのディフェンダー として活躍、広島国泰寺高校時代の同期に野村雅之。 1988年東海大学卒業後、マツダSCの今西和男監督に誘われていたが、すでに入社を決めていた日本サッカーリーグ2部の田辺製薬サッカー部へ入団。田辺製薬がJリーグ参加を見送ることになり、再び今西に誘われ、1991年マツダSCに移籍。Jリーグ発足でサンフレッチェ広島になった1994年のサントリーシリーズのステージ優勝を経験した。1995年からコスモ石油四日市FCでプレーするも1996年のチームの解散で現役を引退。
佐藤 康之(さとう やすゆき、1966年4月12日 - )は… 佐藤 康之(さとう やすゆき、1966年4月12日 - )は、広島県広島市安芸区矢野出身の元サッカー選手。ポジションはDF。 スピードとフィジカルの強さが売り。パンチパーマがトレードマークで、広島のみならず、Jリーグ屈指の強面選手だったが、愛嬌がありおしゃべりだったため、当時人気選手の一人だった。 森崎和幸・浩司兄弟は矢野中学校の後輩。広島国泰寺高校の野村雅之、吉田安孝は同い年で高校時代のライバルであった。地元山陽高校からマツダ入り。1988年には日本代表のメンバーに選ばれ中東遠征に参加した。Jリーグ開幕の頃にはマンチェスター・ユナイテッドFCへ修行に出されていた。1994年にレギュラー獲得、柳本啓成とともにコンビを組み活躍、サントリーシリーズ制覇に貢献した。
沖野 等(おきの ひとし、1959年3月19日 - 2009… 沖野 等(おきの ひとし、1959年3月19日 - 2009年9月11日)は、日本の元サッカー選手、指導者(JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市出身。 広島市立似島中学校、広島市立広島工業高等学校、明治大学出身。1981年、フジタに入社、広島フジタSCに所属。 現役引退後は指導者として活躍。1994年から広島フジタサッカースクールのコーチとして、猿田浩得・柴村直弥などを育てた。その後フジタの子会社だった関係から、2001年から湘南ベルマーレに入社し育成部門の責任者に就任、2004年にJFA 公認S級コーチライセンス取得。2005年から川崎フロンターレ普及グループ長に就任した。 2006年、J1に復帰したアビスパ福岡にサテライト監督として入団。
崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は… 崎谷 誠一(さきや せいいち、1950年12月1日 - )は、広島県似島出身の元サッカー選手。 山陽高等学校でフォワード、あるいは攻撃的MFとして2年時の1967年、全国高等学校サッカー選手権で優勝(洛北と第二延長を含む120分0-0で両校優勝)、国体3位。2年生でユース日本代表に選出される。3年時の翌1968年には主将として全国高等選手権準優勝(0ー1初芝)。翌1969年第11回アジアユース選手権(AFCユース選手権)に出場した。この時の代表メンバーは18人中9人が広島出身者の同学年で、崎谷は八幡製鉄、山陽の同級・河野和久は日立、県立広島工業の荒井公三は古河電工、小原秀男は東洋工業、修道の大谷栄一は三菱重工、広島市商の河本博は八幡製鉄と、日本サッカーリーグ(JSL)に進み、いずれもチームの主力選手として活躍した。
平田 生雄(ひらた いくお、1950年6月17日 - 200… 平田 生雄(ひらた いくお、1950年6月17日 - 2009年4月3日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手(MF/DF)、元サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 幼少期は長嶋茂雄に憧れた野球少年であったが、小学6年時の1962年に似島へ戻った事が転機となる。当時実家の2階には広島市立似島中学校サッカー部を創部した渡部定彦が下宿していたほか、似島は当時「サッカーの島」と言われたほどサッカーの盛んな所で、進学した似島中で渡部の指導の下サッカーを始めることになる。似島は第1次世界大戦で中国・青島にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広… 野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF)、指導者。 現高知大学教育学部教授、サッカー部監督。 中1からサッカーを始める。広島大学附属高時代に福原黎三から指導を受けた。同世代に高田豊治がいる。 東京教育大学(現筑波大学) 体育学部体育学科に進み、蹴球部では主にセンターバックとして活躍、成田十次郎から指導を受け、高田や木之本興三らとプレーした。在学中に関東大学サッカーリーグ戦や第20回全国大学サッカー選手権大会で優勝した。1972年には成田が監督を兼務していた日本サッカーリーグ2部の読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)の選手として7試合に出場した。
高田 豊治(たかた とよはる、1948年2月12日 - )は… 高田 豊治(たかた とよはる、1948年2月12日 - )は広島県広島市出身の元サッカー選手(MF・DF)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。 実父は、高校物理の教師で、母校広島大学附属高校で教壇に立っていった高田平八郎。 サッカーを本格的に始めたのは中学1年から。広島大学附属高校卒業。高校時代は福原黎三から指導を受けた。東京教育大学(現:筑波大学)に入学後は蹴球部に入部し成田十次郎から指導を受け、関東大学サッカーリーグ戦1968年および1969年2連覇、1968年インカレ優勝、全日本学生選抜代表に選出される。 1971年に東洋工業(現マツダ)に入社。以降JSL1部所属の東洋工業サッカー部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)でミッドフィルダーあるいはディフェンダーとして活躍し、1978年に引退する。
水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 20… 水口 洋次(みずぐち ようじ、1944年7月20日 - 2022年4月10日)は、広島県広島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。 選手時代は、後のセレッソ大阪であるヤンマーディーゼルサッカー部の主力選手として活躍した。ガンバ大阪の前身・松下電器産業サッカー部の創設者で、ガンバ大阪の発足に向けた立ち上げに携わり、同クラブの基礎作りに尽力した。 広島県広島市出身。広島国泰寺高校から、中央大学法学部政治学科を経て1967年、ヤンマーディーゼル株式会社入社。小柄ながらボール扱いのうまさは日本最高ともいわれ、同社サッカー部の主力選手として活躍した。同い年で同期就職で親友の釜本邦茂のデビュー初得点のアシストを決めている。
桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - … 桑原 楽之(くわはら やすゆき、1942年12月22日 - 2017年3月1日)は、広島県広島市白島(現中区)出身 のサッカー選手。実兄は桑原弘之。1968年メキシコシティオリンピック銅メダリスト。 8人兄弟で男は弘之と楽之の二人だけ。1960年代の日本サッカーのメッカ・広島に生まれ、幼少期からサッカーに親しむ。広大付属小、広大付属中学の抽選をいずれも落ちて白島小、幟町中学に進む。白島小の隣りに広島市立基町高等学校があり、5年生の時に渡辺正と佐伯博司がプレーしていて、楽之はいのまにか同校でボール拾いを始める。入学した幟町中学にはサッカー部がなかったが、桑原を中心に創部。実兄の弘之がコーチを勤めた。
小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は… 小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は、広島県広島市千田町(現・中区)出身の元サッカー選手(FW、MF、DF)・コーチ・監督。 昭和40年代を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀と共に当時のスタープレイヤーの一人。現役時代はフォワードもミッドフィルダーもディフェンダーもこなしたオールラウンドプレーヤーで、日本代表として東京五輪およびメキシコ五輪でフル出場を果たし、メキシコでは銅メダル獲得に貢献。 前広島県サッカー協会会長。 実家は材木店を営んでいたが、2歳の夏に爆心地に近い千田町で被爆。倒れた柱と柱が隙間を作り、母と姉と共に助かる。広島大学附属小学校時代はサッカーを楽しむ程度であり、ちょうど広島カープが誕生したため野球が大好きになり、体もひ弱であったため野球に興じる。
船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は… 船本 幸路(ふなもと こうじ、1942年8月12日 - )は、広島県広島市草津出身の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。 広大付属高校2年の時、ゴールキーパーとして桑田隆幸や野村尊敬、同級の小城得達、桑原楽之、溝手顕正らと全国高校サッカー選手権大会に出場して準優勝、国体も準優勝、3年時はベスト8。 高校を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ入団。同チームの監督となった下村幸男の後を受け正ゴールキーパーとなる。石井義信、小沢通宏、今西和男、丹羽洋介、桑原弘之、大野毅、川野淳次、国枝強らとゴールを守り、日本サッカーリーグ(JSL)4連覇と3度の天皇杯制覇に貢献した。
上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島… 上 久雄(かみ ひさお、1941年6月28日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF、MF)・監督。 広島市立国泰寺中学校を経て、広島山陽高校では渡部英麿監督の指導を受けた。卒業後は寺西忠成監督に誘われ、1960年に八幡製鉄サッカー部へ入部。身体能力に優れ、ハードタックルと空中戦に強さを発揮。渡辺正・宮本輝紀らと共に主力選手として活躍し、ストッパーとして相手チームのエースのマークを任され、1966年と1967年には2年連続で「年間優秀11人賞」に選出される。日本代表では主にハーフバックとして活躍し、東京五輪では代表初のベスト8進出に貢献。メキシコシティ五輪は予選こそレギュラーとして出場したが、本戦では登録メンバーから外れた。
桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は… 桑田 隆幸(くわた たかゆき、1941年6月26日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者(JFA公認C級コーチ)。日本サッカーリーグ(JSL)初代アシスト王。 父親がハルビンの商社に勤務していたため満洲で生まれた。1945年終戦に伴い帰国、母の郷里・広島市で育つ。父もサッカー選手、母もバレーボールの選手で、父は後に広島サッカー友の会理事長を務め、当地の小学生のサッカー普及に尽力した。1947年、戦後復活第一回の全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)で、広島高等師範学校附属中学(現・広島大学附属高校)が超中学級の長沼健、木村現、樽谷恵三の三羽烏を擁して圧倒的な強さをみせ初優勝した。
宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2… 宮本 輝紀(みやもと てるき、1940年12月26日 - 2000年2月2日)は、広島県広島市宇品(現・南区宇品)出身(広島市段原山崎町生まれ)の元サッカー選手(MF)・コーチ・監督。日本代表の攻撃的ミッドフィールダーとしてメキシコ五輪銅メダル獲得に貢献し、日本最初のゲームメーカーとも呼ばれる。 1945年8月6日、4歳の夏に爆心地から約2kmの段原山崎町で被爆し、一緒に遊んでいた弟を亡くした。張本勲も近所で被爆している。終戦後は宇品に引越して広島市立千田小学校に入学し、千田小の同期に岡光龍三、一学年上に後に山陽高→八幡→新日鐵と同じ道を歩む大石信幸がいた。広島市立国泰寺中学校時代に大学生にサッカーを教えてもらったことがきっかけでサッカー部に転部し、国泰寺中の一学年上に野村六彦、同期に今西和男がいた。
丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は… 丹羽 洋介(にわ ようすけ、1940年10月10日 - )は、中国上海市生まれ、広島県広島市出身の元サッカー日本代表選手・指導者。 3人兄弟の末っ子。父親は上水道技師で、上海で、のち広島で水道事業に関わっている。そのため上海で生まれ、1944年4歳の時から広島で生活し、太平洋戦争末期に愛知県江南市に疎開していた。そのため広島市への原子爆弾投下からは逃れている。ただ父親は当時広島で働いており、被爆者となってしまった。 広島に戻り広島大学附属小学校へ進学するとサッカーを始める。小学校の1学年上が鬼武健二、1学年下が桑田隆幸と野村尊敬、2学年下が小城得達になる。その後広島大学附属中学校・高等学校と上がる。
野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は… 野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は、広島県広島市出身の元日本代表サッカー選手。元日立(現柏レイソル)所属。日本サッカーリーグ(JSL)初代得点王。ポジションはFW又はMF。 実家は老舗の文具店。広島市立袋町小学校を経て、広島市立国泰寺中学校へ進む。小学校6年までは野球をやっていたが、周りから、せっかくサッカーの名門国泰寺に入ったんだから男らしいサッカーをやろうと誘われ、サッカー部に入部。一年生は30数人いたが、基礎練習の反復が面白くなく3日で8人に減った。野村もその1人だったが、負けたようで悔しく再入部する。宮本輝紀、今西和男らも同中学出身。卒業後は、当時"広島三強"といわれた国泰寺高、広大附属、修道に負けないサッカー部をと強化していた広島舟入高校の校長に誘われ同校に進学。
岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - … 岡光 龍三(岡光竜三、おかみつ りゅうぞう、1940年 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(FW)・指導者。 広島市立千田小学校時代の同級に宮本輝紀、一学年上に大石信幸がいる。 高校は宮本や大石とともに広島山陽高等学校に進学し、渡部英麿から指導を受ける。1957年、1958年国体準優勝に貢献。特に1958年大会決勝は杉山隆一がいた静岡県立清水東高等学校との対戦で、当時話題となった。 大学は中央大学に進学した。サッカー部に在籍し、同郷の野村六彦・小城得達・桑原楽之らと活躍した。第42回天皇杯全日本サッカー選手権大会で決勝進出、決勝の相手は長沼健・平木隆三・川淵三郎・宮本征勝・鎌田光夫・保坂司と日本代表を揃え三連覇を狙った古河電工で、岡光は決勝点を決め中大優勝に貢献した。
鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は… 鬼武 健二(おにたけ けんじ、1939年9月19日 - )は、広島市西区天満町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)専務理事、同第3代目理事長(Jリーグチェアマン)。 ヤンマーディーゼルサッカー部の攻撃サッカーを築いた名将で、日本サッカーリーグ(JSL)で通算93勝を挙げたJSL最多勝監督。 また、セレッソ大阪の創設、Jリーグ入りを総責任者として尽力した。 広島大学附属高等学校、早稲田大学政治経済学部卒業。 現役時代は162センチの俊足フォワードとして活躍、主にウィンガーとしてプレーした。高校時代の同級生は高重清純、一つ下は丹羽洋介、2つ下は桑田隆幸、野村尊敬がいた(ちなみに鬼武をサッカー部へ誘ったのが高重と野村である。
大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )… 大石 信幸(おおいし のぶゆき、1939年9月12日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 広島市立千田小学校の一学年下の宮本輝紀、岡光龍三らと山陽高等学校に進学し1957年、主将として国体準優勝。八幡製鉄サッカー部でも1963年、1964年度全日本実業団サッカー選手権大会2連覇、1964年度の天皇杯優勝に貢献。1965年創設された日本サッカーリーグ(JSL)一年目は桑田隆幸(東洋工業)と並んで11得点を挙げ、得点王・野村六彦(日立)に次ぐ得点2位と、初年度の得点王争いは全員広島出身者だった。
下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は… 下村 幸男(しもむら さちお、1932年1月25日 - )は、広島県広島市中区十日市町(旧・鷹匠町)出身 の元サッカー日本代表選手(GK)・指導者。
木村 現(きむら あらわ、1931年7月8日 - 2007年… 木村 現(きむら あらわ、1931年7月8日 - 2007年2月21日)は、広島県広島市出身のサッカー選手、サッカー指導者。名前の読みを「げん」とする資料もある。 長沼健、樽谷恵三は広島大学附属小学校からの幼馴染み。1945年被爆。広島高等師範学校附属中学(現広島大学附属高校)では、長沼・樽谷との超強力スリートップの高速右ウイングとして全国中等学校選手権(現・全国高等学校サッカー選手権大会)の戦後初優勝に貢献。3人のスピードは、当時の中学生レベルでは止められなかったと言われ、4試合で計21得点をたたき出した。決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残っている。翌年国体も制覇。
寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1… 寺西 忠成(てらにし ただしげ、1926年4月25日 - 1999年1月14日)は、広島県広島市出身の元サッカー選手・サッカー指導者。元八幡製鉄サッカー部監督、東福岡高等学校コーチ。 広島一中(現広島県立国泰寺高校)から広島高等師範学校(現広島大学)を経て1949年、当時サッカー不毛の地といわれていた九州の八幡製鉄サッカー部に入団。まだ発足二年目の八幡製鉄サッカー部は同好会レベルで、企業内スポーツ部がまだレクリエーションとしか見られていなかった時代、引き抜きや本社転勤話を断り、無名だったチームの主力フォワード(FW)として活躍した。入社二年目の1951年監督就任。同年日本代表候補となるが、社用が忙しくなり合宿に参加できず、この年インド・ニューデリーで第1回が行われたアジア競技大会には出場出来なかった。