清川 妙(きよかわ たえ、1921年3月20日 - 2014… 清川 妙(きよかわ たえ、1921年3月20日 - 2014年11月16日)は、昭和時代後期・平成時代日本の小説家、評論家、随筆家。 山口県防府市生まれ。下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)を経て奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)を卒業。教職を経たのち、30代半ばから文筆活動に入る。古典評論、エッセイ、手紙の書き方、映画評論など、多方面にわたる執筆や講演会で活躍した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1… 御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1965年7月10日)は、山口県防府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球史上2人目のシーズン無敗を達成した。 1916年1月16日に山口県防府市で生まれる。山口県立山口中学校在学時は1933年の第10回選抜中等学校野球大会に出場経験を持つ。進学先の関西大学体育会野球部では新人戦で完封勝利を記録するなど話題の投手となり1936年2月1日に設立されたばかりの大阪タイガースから誘われると僅か1年で大学を中退し、入団した。 入団当初から主戦投手として活躍し、同年5月27日の対阪急軍戦で初勝利を挙げると、1937年秋季には15試合に登板して11勝無敗、勝率1.000の大活躍でタイガースの初優勝に貢献した。
吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 1… 吉武 素二(よしたけ もとじ、1911年 <明治44年> 11月28日 - 1999年 <平成11年> 2月14日)は、日本の気象技官。気象庁長官を務めた。位階は従三位。 山口県防府市出身。1934年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、後に中央気象台に入庁。1966年に仙台管区気象台長を経て、1969年から1971年までに気象庁長官を務めた。 1981年に勲二等旭日重光章を受章 1999年2月14日に多臓器癌のために死去。87歳没。死没日付をもって従六位から従三位に進階した。
メイ牛山(メイうしやま、本名・牛山 マサコ、1911年1月2… メイ牛山(メイうしやま、本名・牛山 マサコ、1911年1月25日 - 2007年12月13日)は、日本の美容家、美容師。ハリウッド美容専門学校学長、ハリウッドビューティサロン社長、ハリウッド化粧品のハリウッド株式会社会長を歴任した。山口県防府市出身。牛山清人の後妻。 山口県防府市生まれ。実家は塩田を営んでいた。3歳のとき、父が腸チフスで亡くなり、母の実家に転居。防府市技芸女学校卒業。1929年、18歳で単身上京し、麻布森元町(現在の港区東麻布)に住む叔母の家で働く。 1932年、同郷の友人の紹介で、牛山清人(ハリー牛山)が1927年に東銀座に開業したハリウッド美容室の5階にあったハリウッド美容講習所(ハリウッド美容専門学校の前身)に内弟子として住み込みとなり、すぐ美容師として才能を開花。
今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月… 今川 正彦(いまがわ まさひこ、1911年(明治44年)1月4日 - 1996年(平成8年)12月7日)は、日本の官僚、都市計画家・ランドスケープアーキテクト、政治家。1981年から2期8年にわたり京都府京都市長も務める。 山口県防府市出身。岡山県第二岡山中学校(岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から再興旧制山口高等学校(山口大学の前身)を経て、1935年(昭和10年)東京帝国大学農学部(東京大学農学部の前身)を卒業。折下吉延に師事。卒業後内務省に入り都市計画千葉地方委員会技師。戦前は中国勤務、1939年に北京の華北政務委員会建設総省に派遣となるがそこで終戦を迎える。都市計画の専門家として暫くは北京に残り、1946年の夏に引き揚げ、翌1947年1月に戦災復興院の施設課長に就任する。
水野 一夫(みずの かずお、1900年4月11日 - 199… 水野 一夫(みずの かずお、1900年4月11日 - 1994年8月28日)は、日本の経営者。宇部興産(現・UBE)社長、会長を務めた。山口県防府市出身。 1938年に東京帝国大学法学部を卒業。 1942年に宇部興産(現・UBE)取締役に就任し、取締役、総務部長、常務、専務を経て、1961年11月に副社長に就任し、1977年12月から1983年6月までに社長を務め、1983年6月から取締役相談役を務めた。 経団連常任理事なども歴任した。 1966年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲三等旭日中綬章を受章し、1980年に勲二等旭日重光章を受章した。 1994年8月28日、心不全のために死去。94歳没。
賀谷 與吉 / 与吉(かや よきち、1899年(明治32年)… 賀谷 與吉 / 与吉(かや よきち、1899年(明治32年)5月20日 - 1945年(昭和20年)6月25日)は、日本の陸軍軍人。生前の最終階級は中佐(戦死後、特進により少将)。沖縄戦において第62師団歩兵第63旅団独立歩兵第12大隊(通称:賀谷支隊)を率いた事跡で知られる。 山口県佐波郡牟礼村(現・防府市)生まれ。広島幼年学校を卒業。陸軍士官学校第33期生。1942年6月26日第3軍第1国境守備隊第4地区隊長。1944年1月13日第62師団独立歩兵第12大隊長。同年8月、沖縄県中頭郡北中城村の島袋地区で陣地構築に携わる。 1945年(昭和20年)4月1日、アイスバーグ作戦により嘉手納海岸に上陸した第7師団、第96師団を相手に独立歩兵第12大隊(総員1,233名)で4日間の遅滞戦闘を行い、日本軍が待ち構える嘉数陣地まで米軍を誘導することに成功した。
秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治2… 秋田 三一(あきた さんいち、旧姓・武光、1895年〈明治28年〉3月22日 - 1987年〈昭和62年〉9月18日)は、日本の政治家(貴族院議員)、山口県多額納税者、実業家。神戸近海汽船代表取締役。 山口県防府市出身。生家の武光家は防府天満宮で代々大宮司を務めた。武光信雄の三男で、下関の秋田寅之介の養子となる。山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)、第五高等学校を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法科)卒業。 三井銀行横浜支店に入り、彦島船渠常務取締役を経て秋田汽船に転じ、代表取締役となる。材木商海運貿易鉱業を営む。山口県多額納税者に列し、1939年(昭和14年)貴族院議員に互選され、同年9月29日から研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 19… 田中 秀作(たなか しゅうさく、1885年3月6日 - 1963年11月23日)は、日本の地理学者。 山口県防府市生まれ。1906年山口県師範学校卒、1910年東京高等師範学校地理歴史部卒、鹿児島県女子師範学校教諭、1915年京都帝国大学文科大学史学科地理学卒、大学院をへて1916年同助手、1917年京都府立第三中学校講師、12月満鉄に入社、1923年彦根高等商業学校教授、27 - 29年文部省在外研究員としてドイツ国、米国、英国に滞在。32年文部省視学委員、1943年華北綜合調査研究所研究員、46年引き揚げ、1947年北海道第三師範学校講師、1949年北海道学芸大学教授、1952年大阪学芸大学教授。
哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19… 哥川 スエ(うたがわ スエ、1884年〈明治17年〉1月19日 - 1997年〈平成9年〉5月4日)は、長寿日本一だった山口県の女性。 山口県吉敷郡大道村(現・防府市大道)に生まれ、1910年に結婚。農業をしながら1男3女を育て、1995年7月12日に長寿日本一となる。 1984年、宇部温泉病院に入院。食事や風呂など身の回りのことは自分でやり、時には民謡を歌ったり踊ったりするなど元気に過ごしていたが、1996年11月に急性心不全を起こし、4人部屋からベッドの2人部屋に移り、看護を受けていた。 1997年5月4日、老衰のため山口県宇部市の宇部温泉病院で死去。113歳105日没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ … 種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。 山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝()と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年… 上田 実(實、うえだ みのる、1857年1月27日(安政4年1月2日) - 1929年(昭和4年)4月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)出身。漢学と政治経済学を学ぶ。戸長、協同会社赤間関支店長、大道村会議員、同村長、吉敷郡会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員、所得税調査委員、学務委員、破産管財人、地方森林会議員となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙では政友倶楽部から出馬して再選。衆議院議員を2期務め、1904年の第9回衆議院議員総選挙は不出馬。
柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年… 柏木 幸助(かしわぎ こうすけ、1857年1月9日(安政3年12月14日) - 1923年(大正12年)2月7日)は、山口県防府市三田尻出身の発明家。日本で初めて安全マッチを発明し、国産唯一の体温計やジアスターゼの製造にも成功した。 1856年(安政3年)、薬舗柏木治助の次男として生まれる。1872年(明治5年)、16歳の時、防府市牟礼の桂権吾に化学を学び始める(1874年(明治7年)まで)。1875年(明治8年)、発火薬に赤燐を用いたマッチの製造に成功。1877年には安全マッチの製造に成功し、生産を始める。1878年(明治11年)6月、華浦医学校で理化学を学ぶ。このあと、三田尻港の水深が浅く、大型汽船が寄港できないことから、その浚渫を計画するも、浚渫船を入手できず、周陽丸を建造して広島、下関に運行させたり、大阪道修町の薬種商白井治兵衛に体温計製造を相談、宇部のガラス職人惣兵衛とガラス瓶の製造を試みたりする。
光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847… 光妙寺 三郎(こうみょうじ さぶろう、弘化4年8月(1847年) - 明治26年(1893年)9月26日)は、日本の外務官・検事・衆議院議員である。旧姓・末松。 周防国佐波郡三田尻村(現山口県防府市東三田尻)に浄土真宗本願寺派の惠日山光妙寺の和尚・半雲の三男として生まれた。 1865年、長州藩諸隊の一つ鴻城隊に入隊した。このころは三田、光田姓を名乗った。井上馨の書記役を務めた。1869年に横浜フランス語伝習所に入学し、1871年に長州藩藩費留学生としてフランスとベルギーに留学した。この間、同じくフランス留学した西園寺公望とパリで親友となった。1878年2月、日本人として初めてパリ大学から法学士証書を授与された。
青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)… 青木 住真(あおき すみね/すみまさ、弘化3年(1846年)– 昭和3年(1928年)3月17日)は、長州藩出身の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。海軍の水路(測量)事業の草創期に参加し、水路部初期の功労者として知られる。春日丸の艦長を務めた。名は住眞とも。 周防国佐波郡、のちの山口県佐波郡佐波村(現防府市)に安政2年(または弘化3年(1846年))に生まれる。長州藩の船舶・水軍を管理運用し海上警備や輸送を担った船手組の出身である。父は長州藩士・青木住衛(三郎兵衛)。 維新後は海軍に入り、明治3年(1870年)5月の日英共同測量の一員となった。水路事業の拡充が進む中、明治5年(1872年)に水路局が廃止され水路寮が置かれると、創設期の中核要員として青木(ほか中村雄飛・五藤国幹ら)が挙げられ、長州藩から推薦され長崎で研修を受けた伝習生であり、北海道測量にも参加した有能の士である青木は明治6年9月から測量課長を務めた。
古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14… 古谷 新作(ふるや しんさく、1843年10月8日(天保14年9月15日) - 1921年(大正10年)5月1日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。 周防国佐波郡植松村(のち華城村、現・防府市)に生まれる。漢籍を学ぶ。剣術と砲術を修め、さらに西洋兵学を学ぶ。1868年藩の砲兵隊長、花陽丸砲艦司令として乗り組み、蝦夷地に派遣される。1869年藩の砲兵塾舎長、兵学寮助教を命じられ、1871年山口県一番砲隊少尉となるが、翌年、解散となる。1974年陸軍武庫司十等出仕となり、翌年陸軍十等出仕となる。1876年陸軍上等監護となるが、病気のため辞職する。 陸軍を辞職した後は佐波郡大区代議人、山口県会議員、同副議長、同常置委員、同議長となる。
松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年… 松本 鼎(まつもと かなえ、1839年5月27日(天保10年4月15日) - 1907年(明治40年)10月20日)は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・政治家。和歌山県知事、衆議院議員、貴族院議員、元老院議官、男爵。通称・鼎造。 周防国、現在の山口県防府市三田尻出身。生家は農家で仏門に入る。松下村塾に入り吉田松陰に学んだ。還俗し長州藩士となり、禁門の変に従軍し、敗戦後、御楯隊に加わった。第二次長州征伐、戊辰戦争に従軍。明治元年12月(1869年1 - 2月)、箱館府監事に就任。 明治4年2月28日(1871年4月17日)、大阪府大属となり、権典事、典事、権参事、小書記官、大書記官と昇進した。1878年8月、熊本県大書記官に転じ、さらに和歌山県大書記官を務めた。
近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年… 近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年7月5日〉 - 1880年〈明治13年〉2月29日)は、幕末から明治時代の国学者、歌人、長州藩士である。本姓は田中、初名は裕。通称は源吾後に晋一郎。字は子潜、真蔭。号は寄居子庵、風月史生等。 周防国吉敷郡岩淵(現・山口県防府市)の百姓・田中源吉の長男として生まれる。猪飼敬所や原古処が周防を訪れた際に教えを受ける。文政6年()上方へ赴き、村田春門に歌学を、本居大平に国学を、山田以文に有職故実を学んだ。その後広島に居住。 天保10年()長州藩主・毛利敬親に召されて萩へ移る。翌年長州藩士近藤家を継承し近藤芳樹と改める。萩で家塾・抄宗寮を開いて弟子を育てる。
中村 めぐみ(なかむら めぐみ)は、山口県生まれのフルート奏… 中村 めぐみ(なかむら めぐみ)は、山口県生まれのフルート奏者、広島市在住。広島交響楽団在籍。エリザベト音楽大学の非常勤講師。 山口県防府市生まれ。9歳から、小学校 ブラスバンド部にてフルートを始め、その後、国府中学校、防府高校、国立音楽大学を卒業。 国立音楽大学卒業時、武岡賞受賞し、首席で卒業。 ドイツ ロベルト・シューマン大学デュッセルドルフ大学院、卒業試験において最高得点を得て卒業。 1997年ドイツ演奏家国家試験において審査員全員一致の最高得点で合格。日本帰国。 1997年 神戸国際コンベンションコンクールのソロ部門にて2位入賞。 1998年 広島交響楽団入団。 2000年よりエリザベト音楽大学にて 非常勤講師として後進の指導にあたる。
高木 理江 は、日本の元女子バレーボール選手。
1951年2月28日生まれ。画家。全日本DM大賞日本郵便特別… 1951年2月28日生まれ。画家。全日本DM大賞日本郵便特別賞、同郵務局長賞、同金賞各一回受賞。POPクリエイティブアワードコンテスト金賞2回、銀賞7回。日本パッケージデザイン展銀賞。NHK放映「山頭火今週の一句」3年間描く。ルーブル分館アートポスター収蔵。他多数。
原田 英代(はらだ ひでよ)は、山口県防府市出身の日本のピア… 原田 英代(はらだ ひでよ)は、山口県防府市出身の日本のピアニストである。ドイツと日本を拠点に活動する。 東京芸術大学音楽学部、同大学院で松浦豊明に師事した後渡欧した。シュトゥットガルト音楽演劇大学、ウィーン国立音楽大学で学び、その後モスクワ音楽院のヴィクトル・メルジャーノフ教授のもとで研鑚を積んだ。 1984年にジュネーヴ国際音楽コンクール・ピアノ部門で最高位を、1991年にシューベルト国際ピアノコンクールで第1位を、同年にウィーン現代音楽コンクールで第2位を獲得した。1993年の第1回ラフマニノフ国際ピアノコンクールでは、旧西側参加者の中で唯一入賞し、2つの特別賞を受賞した。1999年に第5回エネルギア音楽賞(中国電力協賛)を、2001年に山口県芸術文化振興奨励賞を受賞した。
松岡 方祗(まつおか ほうし/かたまさ、天保14年(1843… 松岡 方祗(まつおか ほうし/かたまさ、天保14年(1843年) – 明治42年(1909年)11月8日)は山口県(周防国)出身の大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍大佐、叙位は正五位、勲六等。子に海軍少将・松岡修蔵。 周防国吉敷郡、のちの山口県吉敷郡大道村(現防府市)の出身で、元長州藩士。明治5年には成松明賢とともに少佐に任じられ正七位に叙された。翌6年には万年千秋らとともに従六位に叙し、肇敏員外乗組などの任にあたった。 明治17年5月8日、練習艦龍驤副長に補され、同年9月4日には第二丁卯艦長へ転じた。明治18年4月3日、三重県志摩国安乗崎灯台内湾で暗礁に乗り上げ第二丁卯は破損沈没したが、松岡ら八十余名は全員救助された。