土井 正博(どい まさひろ、1943年12月8日 - )は、… 土井 正博(どい まさひろ、1943年12月8日 - )は、大阪府柏原市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、野球指導者、野球解説者、野球評論家。
職業が野球:7,475人
土井 正博(どい まさひろ、1943年12月8日 - )は、… 土井 正博(どい まさひろ、1943年12月8日 - )は、大阪府柏原市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、野球指導者、野球解説者、野球評論家。
鈴木 義信(すずき よしのぶ、1943年11月2日 - )は… 鈴木 義信(すずき よしのぶ、1943年11月2日 - )は、日本の野球選手(外野手)、野球指導者、実業家。 東芝メディカルの元社長。野球が公開競技であったソウルオリンピック野球日本代表の監督を務め、銀メダルに導いた。2004年からは日本野球連盟の副会長を務めている。 長生一高では、右翼手、一番打者として2年時の1960年に春季関東大会決勝に進出、桐生高を降し優勝を飾る。しかし同年の夏は東関東大会県予選準決勝で、関根知雄のいた銚子商に敗れる。翌1961年夏は県予選3回戦で本塁打を放つも、市原高に敗れ、3年間を通じて甲子園出場はならなかった。1年上のチームメートに外野手の宮原秀明がいた。 1962年に慶應義塾大学法学部に進学。
広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、… 広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。実兄は元プロ野球選手の広野翼。 徳島商業では2年次の1960年に左翼手として甲子園に春夏連続出場し、春の選抜では2回戦で滝川高に敗退。夏の選手権では2回戦で米子東高のエース・宮本洋二郎を打ち崩すなど順調に勝ち進むが、準決勝で静岡高に敗れた。3年次の1961年夏はエースの妹尾幸一(南海)を擁し南四国大会決勝に進むが、高知商の高橋善正に抑えられ、9回裏0-1のサヨナラ負けで甲子園には届かなかった。他のチームメイトに二塁手の多田勉(広島)がいた。 高校卒業後は1962年に慶應義塾大学へ入学し、同期外野手の鈴木義信と共に東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。
冨士井 金雪(ふじい かねゆき、1943年10月10日 - … 冨士井 金雪(ふじい かねゆき、1943年10月10日 - 1990年6月13日)は、三重県度会郡二見町(現・伊勢市)出身の元ボクサー、ボクシング指導者、高校野球指導者。 中学卒業後に神鋼電機に勤めながら定時制の伊勢実業高等学校(現・三重県立伊勢まなび高等学校)に通ったが、2年の時に中退し、名古屋市のボクシングジムに入る。だが、わずか2年で伊勢実業に復学し6年かけて高校を卒業した。その後、国士舘大学に進み、元来はボクシング選手であるにもかかわらず陸上競技部にも在籍した。 26歳で大学を卒業後、三重県内の小学校や中学校で教員経験を積み、1974年、三重県内でボクシング部のあった三重県立明野高等学校のボクシング部監督に就任。
多田 勉(ただ つとむ、1943年10月9日 - )は、徳島… 多田 勉(ただ つとむ、1943年10月9日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
大石 弥太郎(おおいし やたろう、1943年10月6日 - … 大石 弥太郎(おおいし やたろう、1943年10月6日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
与田 順欣(よだ よりのぶ、1943年10月3日 - )は、… 与田 順欣(よだ よりのぶ、1943年10月3日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
政山 恵一(まさやま けいいち、1943年9月30日 - )… 政山 恵一(まさやま けいいち、1943年9月30日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。 藤沢商業高から神奈川大学に進学するも中退。社会人野球のリッカーミシンに入団し、その後林建設へ移籍。 1967年オフ、サンケイアトムズの入団テストを受け合格しドラフト外で入団する。しかし、わずか1年間で退団した。
柴田 晃(しばた あきら、1943年9月22日 - )は、福… 柴田 晃(しばた あきら、1943年9月22日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。 豊国高校から1962年に東映フライヤーズへ入団。1965年に退団した。
矢島 勝彦(やじま かつひこ、1943年9月12日 - )は… 矢島 勝彦(やじま かつひこ、1943年9月12日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。 法政大一高では、2年生の時に三塁手として1960年春の選抜に出場。2回戦(初戦)でエース木原義隆を擁する海南高を延長11回裏サヨナラで降すが、続く準々決勝では北海高の佐藤進に完封負けを喫する。翌1961年は遊撃手に回り、夏の甲子園にも出場するが、1回戦で関根知雄のいた銚子商に延長12回裏サヨナラ負け。 高校卒業後は、社会人野球の日産自動車に入団。1965年の都市対抗に出場、1966年の産別大会でもダイハツに補強され、本塁打を放つなど活躍。 1966年のドラフト外で近鉄バファローズへ入団。小柄ながら好打攻守、ベース1周を13秒8で走る俊足もあって即戦力として期待された。
大熊 忠義(おおくま ただよし、1943年9月8日 - )は… 大熊 忠義(おおくま ただよし、1943年9月8日 - )は、大阪府羽曳野市出身(出生は現在の中国東北部)の日本の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 生まれたのは現在の中国東北部で、父は出征先から戻らず、終戦後に母、妹と三人で引き揚げた。引き揚げ後の家族は親類を頼って大阪府羽曳野市で暮らし、小学生の頃から新聞配達をした。これが足腰の鍛錬になったという。その頃に野球を始め、中学時代は捕手だった。しかし野球よりは伝書鳩の飼育に熱中する少年時代を過ごし、中学卒業後は旋盤工になるつもりでいたところ、浪商高校からスカウトされた部の同僚が家庭事情から断ったため代わりに立候補して進学した。 高校野球部に入部後は連日走らされ、270人いたという同期が脱落していく中、足には自信のあった大熊は残ってやがてベンチ入りメンバーとなる。
門岡 信行(かどおか のぶゆき、1943年9月3日 - )は… 門岡 信行(かどおか のぶゆき、1943年9月3日 - )は、大分県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 大分高田高校では2年生でエースとなり、1960年の夏の甲子園中九州予選決勝に進出するが、熊本商に敗退。翌1961年夏には中九州大会決勝で熊本工を降し、夏の甲子園に初出場。結果は1回戦で高橋善正を擁する高知商に5-0で敗れる。敗戦後に帰路で乗っていたフェリーの中で門岡は中日ドラゴンズへの入団表明をしたが、プロスカウトとの接触・交渉は退部届提出後と規則で決まっており、これを破ったとして高野連は高田高校に対して1962年8月まで約1年間の対外試合禁止処分を下した(門岡事件)。 中日へ入団した門岡は1年目に53試合に登板し、スライダーやフォークを武器に10勝10敗と2桁勝利を記録、規定投球回(16位、防御率3.00)にも達する。
是久 幸彦(これひさ ゆきひこ、1943年9月2日 - )は… 是久 幸彦(これひさ ゆきひこ、1943年9月2日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは内野手。
佐々木 宏一郎(ささき こういちろう、1943年8月30日 … 佐々木 宏一郎(ささき こういちろう、1943年8月30日 - 1989年5月22日)は、岐阜県揖斐郡池田町出身のプロ野球選手(投手)・解説者。 史上11人目の完全試合達成者。 1960年代後半から1970年代前半にかけての近鉄バファローズにおいて、アンダースローの技巧派として鈴木啓示・清俊彦と共に主力投手の1人として活躍した。 岐阜短大付属岐阜では、1960年秋季中部大会県予選準決勝に進むが、県岐阜商に敗退。 1961年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、またも県岐阜商に敗れた。 1962年、大洋ホエールズにテスト入団。120人の応募者の中で唯一のテスト合格者であり、1年目から早速一軍での登板機会があった。
里見 進(さとみ すすむ、1943年8月21日 - )は、群… 里見 進(さとみ すすむ、1943年8月21日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手。現姓は夏目。 群馬県立富岡高等学校から1962年に毎日大映オリオンズへ入団。戦力としては「4番手捕手」と扱われていたが、実際には当時の主力投手(小山正明、木樽正明、成田文男)の投球をブルペンで受けることが多く、練習では強打で鳴らした主力打者(江藤慎一、山崎裕之、有藤通世、ジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなど)を相手に打撃投手も務めていた。 NPBが1970年のシーズン終了後に(「加盟全12球団の戦力の均等化」を目的にドラフト会議と同じ要領で)プロ野球選抜会議(トレード会議)を始めるに際して、1球団が保有する支配下登録選手の20%に当たる指名対象選手リストへ掲載されたところ、第1回選抜会議の3巡目で南海ホークスから指名された。
五明 公男(ごみょう・きみお、1943年〈昭和18年〉8月2… 五明 公男(ごみょう・きみお、1943年〈昭和18年〉8月21日 - 2019年〈平成31年〉3月1日)は、日本の体育学者、アマチュア野球指導者。 1943年(昭和18年)に東京都で生まれるが、太平洋戦争激化の影響により一家で長野県更級郡篠ノ井町(現在の長野市篠ノ井地区)へ疎開し、幼年時代を過ごす。小学校入学の際に東京へ戻り、大田区立羽田小学校へ入学。小学校・中学校と野球に熱中する。 中学校3年時に進学先を決める際に、東京都と神奈川県の高等学校をリサーチし、「高校で野球をやるんなら甲子園へ行きたい」と思い、「法政二高の田丸仁監督は素晴らしい指導者であると言うので、ここへ行こう」と思い法政大学第二高等学校への進学を決めたという。
鎌田 豊(かまた ゆたか、1943年8月4日 - )は、岡山… 鎌田 豊(かまた ゆたか、1943年8月4日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
岩郷 泰博(いわごう やすひろ、1943年8月3日 - )は… 岩郷 泰博(いわごう やすひろ、1943年8月3日 - )は、高知県土佐市出身の元プロ野球選手(内野手)。
岡村 晃(おかむら あきら、1943年7月18日 - )は、… 岡村 晃(おかむら あきら、1943年7月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(内野手)。 桃山学院高校では外野手、関西大学へ進学し三塁手に転向。関西六大学野球リーグでは1962年春季リーグで優勝を経験。同年の秋季リーグからレギュラーとして活躍。翌1963年秋季リーグでも首位に立つが、「西川事件」により優勝取り消し、1964年春季リーグ出場辞退の処分を受ける。同年の秋季リーグでは8打席連続安打のリーグ新記録を作る。4年生時には主将を任された。リーグ通算68試合出場、227打数58安打、打率.256、2本塁打。 1965年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから6位指名を受けるも拒否し、社会人野球の河合楽器へ入社。
伊藤 勝利(いとう かつとし、1943年7月15日 - )は… 伊藤 勝利(いとう かつとし、1943年7月15日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。 日田高校から1962年に西鉄ライオンズへ入団。1966年に引退。
阪本 敏三(さかもと としぞう、1943年7月13日 - )… 阪本 敏三(さかもと としぞう、1943年7月13日 - )は、京都府京都市伏見区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。
篠原 良昭(しのはら よしあき、1943年6月30日 - )… 篠原 良昭(しのはら よしあき、1943年6月30日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手。 鹿児島商業では2年生の時、1960年の春の選抜に三番打者、遊撃手として出場している。1回戦でエース渡辺泰輔を擁する慶應高に大敗。同年夏の甲子園県予選では準決勝で出水商に敗れる。翌年夏も2年生エース浜崎正人の好投で県予選決勝に進出するが、東条文博のいた鹿児島実に敗退、夏の選手権には出られなかった。 1962年に大毎オリオンズへ入団。俊足好守の内野手と期待され、1964年には一軍に定着する。控え選手の時期が長かったが、1966年に主に遊撃手として82試合に先発出場、石黒和弘とレギュラーを争う。
千田 啓介 (せんだ けいすけ、1943年6月28日 - )… 千田 啓介 (せんだ けいすけ、1943年6月28日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは遊撃手。
作道 烝(さくどう すすむ、1943年6月28日 - )は、… 作道 烝(さくどう すすむ、1943年6月28日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)。
中井 悦雄(なかい えつお、1943年6月24日 - 197… 中井 悦雄(なかい えつお、1943年6月24日 - 1979年8月23日)は大阪府出身の元プロ野球選手。
竹野 吉郎(たけの よしろう、1943年6月18日 - )は… 竹野 吉郎(たけの よしろう、1943年6月18日 - )は、島根県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手、内野手。1967年から1971年までの登録名は竹野 充曠。
槌田 誠(つちだ まこと、1943年6月12日 - 1999… 槌田 誠(つちだ まこと、1943年6月12日 - 1999年1月7日)は、岡山県出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)。
押田 令三(おしだ れいぞう、1943年6月4日 - )は、… 押田 令三(おしだ れいぞう、1943年6月4日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。 篠山鳳鳴高校から1962年に毎日大映オリオンズへ入団。1963年に中継ぎで4試合に登板、同年のジュニアオールスターにも出場する。しかし1964年には登板機会がなく同年限りで引退した。
林 健造(はやし けんぞう、1943年5月21日 - )は、… 林 健造(はやし けんぞう、1943年5月21日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。
久野 剛司(ひさの たかし、1943年5月21日 - )は大… 久野 剛司(ひさの たかし、1943年5月21日 - )は大阪府出身の元プロ野球選手。
大庭 清(おおば きよし、1943年5月14日 - )は、長… 大庭 清(おおば きよし、1943年5月14日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。 佐世保北高校から1962年に西鉄ライオンズへ入団。 武末コーチの指導でサブマリン投手を志したが、未完成のまま、1965年に引退。 兄は元高橋ユニオンズ投手の大庭宏である。
鬼頭 洋(きとう ひろし、1943年4月18日 - )は、元… 鬼頭 洋(きとう ひろし、1943年4月18日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは投手。三重県出身。
宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )… 宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )は、佐賀県鹿島市出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿島高校では2年次の1960年に投手として夏の甲子園に出場し、熊本商、平安高、明石高を降して勝ち進む。準決勝ではこの大会に優勝した法政二高と対戦するが、同じ2年生エースの柴田勲らに抑えられ完封負けするが、佐賀県勢初のベスト4入りの原動力となった。同年の熊本国体にも出場するが、1回戦で秋田商の今川敬三(早大-秋田商監督)に完封を喫する。3年次の1961年夏には西九州大会準決勝に進出するが、海星高のエース池辺巌を崩せず惜敗、夏の選手権への連続出場はならなかった。 卒業後の1962年に東映フライヤーズへ入団し、1年目の同年から一軍に上がる。
屏 道夫(へい みちお、1943年4月5日 - )は、福岡県… 屏 道夫(へい みちお、1943年4月5日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 福岡県立京都高等学校卒業後、1962年に読売ジャイアンツに入団。しかし、1964年に1試合出場しただけで、同年末に自由契約になった。シーズン終了後、東映フライヤーズの入団テストを受けたが、不合格になり、そのまま現役引退した。
大宮 健資(おおみや けんじ、1943年4月3日 - )は、… 大宮 健資(おおみや けんじ、1943年4月3日 - )は、宮城県出身の元プロ野球選手。
神部 年男(かんべ としお、1943年3月24日 - )は、… 神部 年男(かんべ としお、1943年3月24日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ、野球解説者。 播磨町立播磨中学校→兵庫県立高砂高等学校から三菱製紙に入社し、準硬式野球の選手として活躍。 1965年に富士製鐵広畑に移籍し、1966年の都市対抗に住友金属の補強選手として出場。準決勝では大昭和製紙を完封、決勝に進みリリーフで登板するが、熊谷組に延長10回裏サヨナラ負けを喫する。 1966年の第1次ドラフト3位で読売ジャイアンツに指名されるが拒否し残留すると、1968年の都市対抗では松下電器から補強された岡田光雄との二本柱で勝ち進む。河合楽器との決勝では先発を任され、岡田へ継投し1-0で勝利。
松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 19… 松本 照夫(まつもと てるお、1943年3月23日 - 1992年7月1日)は栃木県出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 栃木商業高等学校では甲子園には出場できなかった。高校同期に宮下陽吾投手(国鉄)がいる。卒業後は立教大学へ進学。エースとして活躍するが、東京六大学野球リーグでは当時法大、慶大が二強として争い、優勝には届かなかった。リーグ通算43試合登板、20勝12敗、防御率1.27、99奪三振。大学同期に土井正三、山口富士雄(中退)、森本潔(中退)がいる。 大学を中退し1964年に阪急に入団。大型右腕投手として期待され、1965年には6試合に先発するが結果を残せず、その後は中継ぎとして起用される。
立花 照人(たちばな てるひと、1943年3月4日 - 20… 立花 照人(たちばな てるひと、1943年3月4日 - 2015年3月19日[要出典])は、岩手県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。 遠野高校から1961年に阪急ブレーブスに入団。1試合しか出場できず(捕手登録だが一塁手として出場)、1962年に引退。引退後は地元岩手で食堂を経営。また、野球活動も務めており岩手プロ野球OB振興会の会長や岩手21赤べこ野球軍団の設立にも関わった。
伊藤 幸男(いとう ゆきお、1943年2月17日 - )は、… 伊藤 幸男(いとう ゆきお、1943年2月17日 - )は、大阪府大阪市生野区出身の元プロ野球選手。妻は歌手の花村菊江。
松岡 功祐(まつおか こうすけ、1943年2月9日 - )は… 松岡 功祐(まつおか こうすけ、1943年2月9日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
安井 智規(やすい としのり、1943年1月25日 - )は… 安井 智規(やすい としのり、1943年1月25日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。
上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は… 上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は、北海道函館市出身の元アマチュア野球選手・元アマチュア野球指導者。 北海道函館市で育ち、函館有斗高等学校では1番打者で遊撃手を務めた。 卒業後、富士製鉄室蘭に入団すると1年間プレーした。 1963年4月に東洋大学に入学したのと同時に20歳で函館大学付属有斗高等学校の監督に就任し、1998年3月に定年を迎えるまで35年間指導した。就任10年目の1972年、第4回明治神宮野球大会で監督として初の明治神宮野球大会出場を果たした(通算5度の出場で1勝5敗)。就任11年目の1973年、第45回選抜高等学校野球大会で監督として初の選抜高等学校野球大会出場を果たした(通算6度の出場で4勝6敗)。
望月 彦男(もちづき ひこお、1943年1月15日 - )は… 望月 彦男(もちづき ひこお、1943年1月15日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
米田 慶三郎(よねだ けいざぶろう、1943年1月13日 -… 米田 慶三郎(よねだ けいざぶろう、1943年1月13日 - )は、大阪府大阪市阿倍野区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 桃山学院高卒業後の1962年からPL教団でプレーし、土井垣武コーチの指導を受ける。当時のチームメイトには野田征稔がいたが、同年の都市対抗近畿予選敗退の後にチームが休部。1964年には電気化学工業へ移籍し、久保山誠監督の指導を受け、1967年の都市対抗野球に出場。 1967年のドラフト3位で大洋ホエールズに入団。 「年齢的にも最後のチャンス」の25歳でプロ入りし、1年目の1968年は二軍で藤井勇監督の指導を受け、イースタン・リーグで本塁打王と打点王の二冠を獲得。開幕早々から長打力に一目置かれ、開幕後は不動の4番打者となり、3月30日の開幕戦の東京戦で西三雄から放った左翼席への第1号を皮切りに、4月1日にも西から9回二死後に初球を左中間へ豪快なサヨナラ本塁打にした。
江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は、茨… 江尻 亮(えじり あきら、1943年1月10日 - )は、茨城県高萩市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督。 実家は旅館。日立一高では1年次の1958年、秋季関東大会県予選の準々決勝で結城一高からノーヒットノーランを達成。準決勝で土浦三高に敗退するが、好投手として話題になる。3年次の1960年には夏の甲子園東関東大会県予選決勝に進出するが、0-1で水戸商に惜敗。 高校卒業後は一般入試で早稲田大学2部政治経済学部に進学。最上級生であった安藤元博の後継として期待され、東京六大学野球リーグでは1年次の1961年春季リーグから登板機会を得る。しかし同年秋季リーグでは1死も取れずに5失点を喫して降板、2年次の1962年春季リーグでも3度先発のチャンスを貰うも結果を残せず、同期のエース・宮本洋二郎の後塵を拝す。
牧 勝彦(まき かつひこ、1943年1月3日 - )は、愛知… 牧 勝彦(まき かつひこ、1943年1月3日 - )は、愛知県豊橋市出身の元プロ野球選手(投手)。 豊橋工業高校では、エースとして1960年夏の甲子園県予選決勝に進むが、吉山智久(中日)、辻恭彦のバッテリーを擁する享栄商に敗れ甲子園出場を逸する。高校同期に右翼手、控え投手の鈴木宇成(広島カープ)がいた。 1961年に阪神タイガースに入団。同年は速球とスライダー、ドロップ、シュートを武器に、ルーキーながら23試合に登板し防御率2.00を記録、5月には初先発を果たした。1962年の東映フライヤーズとの日本シリーズでも2試合に登板。1963年には36試合に登板し8勝、防御率2.33を記録。しかし翌1964年は成績が落ち、オフに谷本稔とのトレードで東京オリオンズに移籍。
鈴木 春祥(すずき はるよし、1943年1月1日 - )は高… 鈴木 春祥(すずき はるよし、1943年1月1日 - )は高校野球指導者。中越高等学校硬式野球部監督を務めた。
飯島 秀雄(いいじま ひでお、1943年1月1日 - )は、… 飯島 秀雄(いいじま ひでお、1943年1月1日 - )は、日本の陸上短距離選手、元プロ野球選手・コーチ。 1964年、100メートルの日本記録を29年ぶりに更新した。1964年東京オリンピックおよび1968年メキシコシティーオリンピックでは日本代表選手となる。 メキシコシティーオリンピック後に俊足を買われ、代走専門選手として1969年にプロ野球・ロッテオリオンズに入団し、実働3年間で通算盗塁数は23を記録した。 その後は指導者・審判員・スターターとして陸上界に復帰した。 茨城県水戸市出身。父は郵便局員で、7人きょうだいの三男だった。父は町内運動会で俊足を披露しており、少年時代の飯島も運動会では負け知らずだった。
佐藤 元彦(さとう もとひこ、1943年1月1日 - )は、… 佐藤 元彦(さとう もとひこ、1943年1月1日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(投手)。 熊本高校では、1960年の夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、熊本商に敗退。高校時代はオーバースローだったが、慶應義塾大学への進学と同時にサイドスローに転向。しかし入学当時の慶大は、最上級生に早慶六連戦で名を馳せた角谷隆、清沢忠彦ら、3年生に1962年秋季リーグベストナインの藤悟郎がいる投手王国であった。同期でも渡辺泰輔が台頭し、佐藤にはなかなか東京六大学野球リーグでの登板機会がなかった。しかし大学最後のシーズンである1964年秋季リーグでは、渡辺の調子が上がらない中で、慶大を3季ぶりの優勝に導く活躍を見せる。
大輪 弘之(おおわ ひろゆき、1943年 - 2024年6月… 大輪 弘之(おおわ ひろゆき、1943年 - 2024年6月)は、東京都出身の高校野球指導者。 高校は専修大学附属京王高等学校でプレー。 大学は東都大学野球の亜細亜大学に進学。 大学卒業後は長野県の武蔵工業大学付属信州工業高等学校(後の武蔵工業大学第二高等学校で現在の東京都市大学塩尻高等学校)に赴任。野球部の監督として菊池涼介ら数多くのプロ野球選手を育てた。 監督退任後の2008年から2018年までは長野朝日放送の解説者を務めた。その後はボーイズリーグの「諏訪ドリーム」のコーチを務めていた。 2024年6月に死去。80歳没。