高光 大船(たかみつ だいせん、1879年5月11日 - 1… 高光 大船(たかみつ だいせん、1879年5月11日 - 1951年9月15日)は、浄土真宗の僧侶。 石川県石川郡北間(現金沢市)の富豪高木家に生まれ、檀那寺の真宗大谷派専称寺に養子として入りのち住職。1908年真宗大学卒。七尾市で刑務所の教戒師を務め、清沢満之に師事。1916年藤原鉄乗、暁烏敏と並んで「加賀の三羽烏」と呼ばれ、一緒に金沢に愚禿社を設立し、雑誌『氾濫』を刊行。1926年から自坊で講習会を定期的に開いた。
中野 寅吉(なかの とらきち、1879年(明治12年)4月2… 中野 寅吉(なかの とらきち、1879年(明治12年)4月2日 - 1962年(昭和37年)7月5日)は、日本の政治家、警察官、実業家、僧侶。衆議院議員。旧姓は小林。 福島県大沼郡雀林村字古屋敷(赤沢村、会津高田町を経て現会津美里町雀林字古屋敷)で、小林清三郎の三男として生まれる。苦学して、1901年(明治34年)東京専門学校法学部を卒業した。1907年(明治40年)頃、北海道の小樽日報社に入社し石川啄木の同僚となった。事務長であった中野は記者の啄木とは反りが合わず、啄木が札幌に何度も出かけることを編集長(啄木とは懇意だった)に咎めたが逆にたしなめられ、編集長の帰宅後に啄木が戻ったところを殴打、それが原因で啄木は小樽日報を退社した。
山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - … 山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - 1957年3月21日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第13代駒澤大学学長、駒澤学園創立者。号は霊岳。別名、天川(てんせん)。 佐賀県藤津郡能古見村(現・鹿島市)大野生まれ。1889年嬉野市永寿寺で出家得度。曹洞宗第一中学林(現・世田谷学園)、1906年(明治39年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。同年11月曹洞宗海外研究生としてインド、セイロン(スリランカ)に留学。1907年よりインド・カルカッタ大学大学院で梵語(サンスクリット)、インド宗教、インド哲学、インド文学を研究。1910年同大学で仏教思想系統論を講じる。1913年(大正2年)帰国。
藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月1… 藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。 この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳
竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1… 竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1945年(昭和20年)9月9日)は、大正から昭和の終戦までを代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は加藤で、のち竹田。法諱は恵恂、道号は頴川。室号は古渡庵。愛知県葉栗郡北方村の出身。臨済宗建仁寺派管長(1931年-1945年) 1878年(明治11年)、現在の愛知県一宮市北方町に生まれる。1889年(明治22年)、一宮市木曽川町の寶光寺の速水精道和尚について得度。1906年(明治39年)、竹田黙雷が開単した建仁僧堂に掛搭。その後僧堂師家兼管長の黙雷に7年参禅した後、1912年(大正元年)に、頴川が得度した寶光寺の住職となった。さらに黙雷の建仁僧堂に通参精進して遂に、1921年(大正10年)黙雷より嗣法する。
来馬 琢道(くるま たくどう、1877年11月28日 - 1… 来馬 琢道(くるま たくどう、1877年11月28日 - 1964年7月10日)は、日本の僧侶、政治家。参議院議員(1期)。仏前結婚式の創始者ともされる。 東京出身。来馬立道、西有穆山に師事。1900年、浅草の曹洞宗万隆寺に晋山し、翌年曹洞宗大学を卒業。仏教青年伝道会に携わり、自坊で「仏前結婚式」の導師を務めるなど多彩な活動を行なう。1911年にはシャムの皇帝戴冠式に出席。曹洞宗宗議会議長、教学部長、庶務部長、顧問など宗内の重要ポストに就き、『曹洞宗全書』の編纂に尽力。1932年には大陸に渡り満洲、内蒙古の宗教事情を調査した。日朝親善協会会長なども務めた。晩年には大本山永平寺の西堂となった。1945年、紺綬褒章受章。
丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17… 丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17日 - 1953年10月14日)は、愛知県出身の日本の曹洞宗の僧侶。 明治10年(1877年)10月17日、愛知県碧海郡筒針村(現・岡崎市)山田栄助の三男として生まれる。1891年、静岡県磐田郡井通村(現・磐田市)の正医寺住職榑松賢童に就いて出家得度。可睡斎で修行し西有穆山・丘宗潭に師事して後を継ぐ。 1902年(明治35年)に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)を卒業、1915年(大正4年)に修禅寺38世住職・安泰寺住職を継ぐ。 曹洞宗大学林副学監、永平寺後堂、總持寺西堂、ソウル博文寺住職を歴任し、1947年(昭和22年)に帰国後、永平寺西堂、永平寺東京別院監院、永平寺副貫首となる。
暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12… 暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、日本の、真宗大谷派の僧侶・宗教家。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて、加賀の三羽烏という。 1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現:白山市北安田)の真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。 1887年(明治20年)、父依念と死別。
高階 瓏仙(たかしな ろうせん、1876年12月15日 - … 高階 瓏仙(たかしな ろうせん、1876年12月15日 - 1968年1月19日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学(現駒澤大学)教授。總持寺独住第12世貫首、永平寺第71世貫首、曹洞宗第18代管長、全日本仏教会長を歴任。道号は玉堂。 福岡県嘉穂郡臼井村生まれ。1890年永泉寺の高階黙仙住職について得度。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。同年より曹洞宗の内地留学生として京都で仏教研究。1903年福岡県の永泉寺住職。1904年可睡斎の日置黙仙に4年に渡り随待参禅し、1905年静岡県の崇信寺住職となる。1909年曹洞宗大学教授に就任。1910年曹洞宗特選議員となり、以後宗議会議長、宗務院総務を歴任。
千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? -… 千崎 如幻 (せんざき にょげん、1876年10月5日? - 1958年5月7日)は、サハリン出身の日本の臨済宗の僧侶、20世紀初期にアメリカに禅を広めた。義弟に彫刻家の工藤敬三(旧名:千崎敬蔵)がいる。
椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 19… 椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 1971年4月7日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶・政治家。大正大学学長・大本山増上寺法主などを歴任。三康文化研究所の初代所長。 1878年、名古屋円福寺住職椎尾順位の五男として生まれ、13歳で得度。東京帝国大学文学部を恩賜の銀時計組で卒業後、宗教大学(後の大正大学)・日本大学・早稲田大学などで仏教学の講義を担当。1913年に東海中学校校長となり、1922年に仏教運動として共生(ともいき)運動を始める(英語の呼称は1923年に考案した。英: the Philosophy of Symbiosis)。1915年(大正4年)、東京帝国大学に学位論文を提出して文学博士号を取得 1926年に大正大学教授に就任、同学学長を3度経験する(第6代・第9代・第14代)。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 … 多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 - 1937年(昭和12年)12月7日)は、日本の学僧、宗教家。愛知県出身。大谷派伝道講究院初代院長を務めた。院号及び法名は、「信斯院釋慶悟」。 愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)の常円寺で生まれる。 1896年(明治29年)に真宗大学へ進学、白川党(清沢満之らによる宗派変革活動)に加わったため、退校処分となる。(次年には復校が許可される) 1900年(明治33年)、清沢満之の仮宅浩々洞において暁烏敏、佐々木月樵などと「精神主義」に身を投じる。 また、浩々洞の機関誌『精神界』の刊行を1901年(明治34年)に始める。 1902年(明治35年)真宗大学の嘱託教授に就任する。
冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 19… 冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 1955年7月22日)は、明治〜昭和期の日本の僧侶。真言宗豊山派管長および教育者。 「斅」が特殊文字であることから、ウェブ上では「富田学純」という代用表記も見られる。 長野県水内郡水内村(現・長野市信州新町)に生まれる。1897年、哲学館(現・東洋大学)卒業。1882年、長野県更府村長勝寺の冨田容純の従弟となる。1902年、哲学館の卒論を「新義真言宗史綱」として出版。1911年、真言宗豊山派宗務長、同派集議などを経て、1932年、同派管長となり、大僧正。 1914年より東京中野宝仙寺住職。一方1920年豊山大学長となり、1926年同大と大正大学合同で、大正大学教授となった。
田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月… 田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月24日 - 1955年(昭和30年)2月20日)は、明治から昭和前期の教育者、僧侶、政治家。衆議院議員(7期)。 愛知県愛知郡、のちの篠原村(松葉村、常磐村大字篠原を経て現名古屋市中川区)で、豪農・田中平八、タキ夫妻の二男として生まれる。熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校(現名古屋大谷高等学校)に入学し、校長南条文雄の薫陶を受けた。1891年(明治24年)12月に上京し東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学し、1892年(明治25年)夏、哲学館(現東洋大学)に転じた。
伊藤 道海(いとう どうかい、1874年5月18日 - 19… 伊藤 道海(いとう どうかい、1874年5月18日 - 1940年7月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶。最乗寺住職、曹洞宗管長、總持寺独住9世貫首。別名、無辺光照禅師。号は天祐。 新潟県生まれ。幼少から肺肋膜を病む。1882年(明治15年)新潟広大寺の横木卍元(まんげん)に師事して得度。闘病と仏道修行に励む。1893年能登の総持寺僧堂に掛錫し、杉本道山に師事。1895年卍元に嗣法。一雲水として修行中の1898年、寺が全焼。猛火の中を宝物や重要文書を運び出し、優れた功績をあげた。1900年26歳のとき、選ばれて曹洞宗大学林(現駒澤大学)に入学。1904年同大学林卒業。同年7月、山形県宝鏡寺住職となる。
熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 19… 熊澤 泰禅(くまざわ たいぜん、1873年5月1日 - 1968年1月7日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学林(現駒澤大学)教授。曹洞宗總持寺独住16世貫首、永平寺73世貫首。道号は祖学。諡号は大光円心禅師。 明治6年愛知県丹羽郡丹陽村(現一宮市)生まれ。1880年郷里の文殊院石原泰豊師について出家、1886年滋賀県慈眼院諏訪周禅師につき得度、1891年同師より嗣法。1892年永平寺に転じる。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1902年宗門内地留学生となり、京都浄土宗専門学院(現学校法人佛教教育学園)に入り、唯識学を研究した。1905年師席を継ぎ慈眼院住職、1908年母校の曹洞宗大学林教授に就任。
佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20… 佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20日 - 1951年(昭和26年)1月25日)は、日本の宗教家、真言宗の僧侶。真言宗総本山醍醐寺第九十六世座主、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、京都専門学校校長(現・種智院大学学長)。 (西院流(にしのいんりゅう) * 保寿院流・仁和御流・西院流を仁和三流と称す 《前座主大僧正惠眼大和尚嘆德文》 [昭和二十六年二月十四日、眞言宗醍醐派管長佐伯恵眼大僧正の本葬儀に讀まれたもの。(漢文) ] 夫れ以るに、佛教は實相の門なり、固より寂滅の樂あり。人間は爲の境なり、豈に常住の想を作さむや。 伏して惟れば、故の醍醐派管長・醍醐寺座主・三寶院門跡・大僧正惠眼大和尚は、早く二親の撫育を辭して、西國の密室に入る。
古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(187… 古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(1872年12月8日) - 昭和36年(1961年))は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。島根県簸川郡出東村の生まれ。出家後しばらくは本名の古川慧訓を通す。号は尭道。室名は毒狼窟。
加藤 精神(かとう せいしん、明治5年9月29日〈1872年… 加藤 精神(かとう せいしん、明治5年9月29日〈1872年10月31日〉 - 昭和31年〈1956年〉10月18日)は、真言宗豊山派の学僧、仏教学者、文学博士、大正大学名誉教授。 愛媛県伊予郡北伊予村生まれ。1882年10月、石手寺に入り、翌年得度した。1887年精神と改名し、上京する。1891年、哲学館(現在の東洋大学)を卒業した後、さらに1893年に新義派大学林(後に大正大学に吸収合併)を卒業。奈良の長谷寺にて研鑽を積み、1897年権大僧都に任命される。1908年から豊山大学教授を務め、1918年より豊山大学第2代、1923年より第3代学長。大正大学創立とともに同大教授となり、1927年4月、東洋大学教授となる(仏教科主任)。
菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19… 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は、日本の僧侶、政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。 個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。
渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(187… 渡辺 海旭(わたなべ かいきょく、明治5年1月15日(1872年2月23日) - 昭和8年(1933年)1月26日)は、東京・浅草出身の学僧。浄土宗の僧侶。社会事業家。阿雷狂史・壺月と号す。 前田和男『紫雲の人、渡辺海旭』巻末の年表によると、以下の通りである。 明治5年(1872年)、東京の浅草の田原町にて、渡辺啓蔵、トナ夫妻の長男として生まれる。明治14年(1881年)に抜嫡届けが出され、翌明治15年(1882年)に抜嫡届けが受理され、浅草松清町の萬照寺に入る。 明治20年(1887年)、小石川区初音町の浄土宗源覚寺住職、端山海定のもとで得度。海定の一字をもらいうけて、海旭となる。同年9月、浄土宗学東京支校(のちの芝中学校・芝高等学校)に入学。
原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年… 原田 祖岳(はらだ そがく、1871年11月25日(明治4年10月13日) - 1961年(昭和36年)12月12日)は日本の曹洞宗の僧侶で、臨済宗の禅も兼修したことで知られる。号は大雲。駒澤大学教授。 1871年に福井県小浜市で生まれた。7歳の時に曹洞宗の寺院に小僧として入り、高校生まで過ごした。 20歳の時に臨済宗の正眼寺僧堂で修行し、1年半から2年で見性体験を得た。 1901年に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業した。 彼は曹洞宗、臨済宗の双方の高僧を歴参、原田祖道、丘宗潭、秋野孝道、安達達淳、星見天海、雲霧軒大義、高源室毒湛に師事した。 1911年から1923年の間、駒澤大学教授を務めた。
大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871… 大森 禅戒(おおもり ぜんかい、明治4年7月14日(1871年8月29日) - 昭和22年(1947年)2月4日)は、日本の曹洞宗の僧侶。旧姓は八木。号は活龍。山梨県慈照寺住職・駒澤大学教授・曹洞宗管長・永平寺70世貫首・總持寺独住11世貫首。 福井県坂井郡丸岡町出身。明治18年(1885年)に地元の台雲寺住職大森董戒の下で出家。明治29年(1896年)に曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業後、比叡山・高野山・東大寺に内地留学。29歳で曹洞宗大学林学監兼教授となった。 その後、明治37年(1904年)2月からアメリカ・イギリス・ドイツの大学に留学し、最後はインドに立ち寄って明治44年(1911年)8月に帰国。
釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年… 釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年1月5日) - 昭和29年(1954年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京市麹町の生まれ。出家前は入澤譲四郎。号は両忘庵、輟翁、石佛。
清水 龍山(清水竜山、しみず りゅうざん、1870年2月15… 清水 龍山(清水竜山、しみず りゅうざん、1870年2月15日〈明治3年1月15日〉 - 1943年〈昭和18年〉1月8日)は、日蓮宗の僧、立正大学の学長を務めた。 越前国(現・福井県越前市高木町)生まれ。幼名・才助、幼くして父母に死別、7歳の時鯖江一乗庵山本智光尼に引きとられ、武生市(現在の越前市)の聞法寺・藤岡日尊について得度した。和歌山感応寺南紀学林学頭・上木日令に師事。中山檀林、日蓮宗大檀林、祖山学院に入り、第1回の内地留学生として比叡山で天台を学ぶ。1904年東京大崎に日蓮宗大学林(現・立正大学)が移転すると教授に就任。本山日本寺晋山。1929年立正大学学長、1935年から1941年まで学長。
渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年… 渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年10月25日(1869年11月28日) - 昭和38年(1963年)12月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住17世貫首(円鑑不昧禅師)。号は本行。 曹洞宗の僧ながら、臨済宗円覚寺派宮路宗海の元に数年にわたり参禅し印可を得ている。近世以降、曹洞宗の僧で臨済宗の祖室を究めた人物は玄宗ただ一人とも言われている。 1869年(明治2年)、新潟県三島郡日吉村鳥越(現、長岡市)の農家青柳家の次男に生まれる。指物師の箕山家に養子に入るも、出家を望み、1892年に長野県松本市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて出家する。 1897年に富山市光厳寺に移って修行を重ね、哲学館仏教専修科にも通学する。
望月 信亨(もちづき しんこう、1869年10月28日〈明治… 望月 信亨(もちづき しんこう、1869年10月28日〈明治2年9月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉7月13日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗総本山知恩院第82世門跡。 1869年、福井県今立郡国高村(現:越前市)で生まれた。本名は松原勝次郎。小学校を卒業した12歳の時に坂井郡新保村の円海寺に入り、加納法宣師のもとで得度。名を信亨と改め、浄土宗の僧籍に加わった。 18歳の時、京都に出て浄土宗西部大学林に入学。20歳の時、大正大学の前身たる浄土宗学本校に入り、仏教学を学んだ。25歳の時に望月有成(兵庫県藤之寺住職)の養子となった。1896年、27歳の時に浄土宗学本校全科を卒業した。 その後は浄土宗高等学院教授となった。
荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869… 荻原 雲来(おぎわら うんらい、明治2年2月10日(1869年3月22日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、和歌山県生まれの浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者。日本のサンスクリット語研究、サンスクリット文献に基づいた仏教研究の先駆者であり、大成者である。 1869年(明治2年)、和歌山県に生まれ、当時浄土宗の重鎮であった荻原雲台の養子となる。1896年(明治29年)、浄土宗学本校(のち真言宗豊山・智山派、天台宗と合同し宗教大学を経て現・大正大学)を優秀な成績で卒業。1898年(明治31年)よりドイツのカイザー・ヴィルヘルム二世大学に留学、サンスクリット語研究の泰斗エルンスト・ロイマンに師事する。
谷内 清巌(たにうち せいがん、1868年11月19日(明治… 谷内 清巌(たにうち せいがん、1868年11月19日(明治元年10月6日) - 1953年(昭和28年)9月6日)は、日本の真言宗の僧、仏教学者。京都・高雄の神護寺の貫主を務めた。京都大学教授。 兵庫県淡路島生まれ。嵯峨大覚寺の宗務総長を務めた後、神護寺の貫主となる。 書道を能くし、号は白雪道人。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(186… 忽滑谷 快天(ぬかりや かいてん、慶応3年12月1日(1867年12月26日) - 1934年7月11日)は、戦前日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶、文学博士。道号は仏山。 古代禅学及び東洋禅学思想史を研究し、禅仏教を内省主観主義として捉えた「忽滑谷禅学(忽滑谷派)」と呼ばれる禅道思想を確立した。大正天皇の御大礼仏教雑誌『星華』、『達磨禅』創刊者。 曹洞宗大学が大学昇格時に駒澤大学に改まると、初代学長に就任。駒澤大学の建学の理念「行学一如」、その実践項目としての「信誠敬愛」を打ち立てた。 武蔵国入間郡古谷村(現・埼玉県川越市)の善長寺従弟、多摩郡東村山久米川(現・東京都東村山市)に遠藤太郎左衛門の4男として生まれる。
今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamu… 今村 恵猛(いまむら えみょう、英: Yemyo Imamura、慶応3年5月27日(1867年6月29日) - 昭和7年(1932年)12月22日)は、明治後半から昭和戦前期にかけてハワイで活動した浄土真宗本願寺派(本派、西本願寺)僧侶。本派本願寺ハワイ別院初代輪番(住職)。仏教青年会(YMBA)の設立者でもある。 1867年、越前国足羽郡東郷村(現在の福井県福井市東郷地区)の専徳寺に生まれる。1876年、10歳で得度。京都の西本願寺普通教校(龍谷大学の前身)で学んだ後、奨学金を得て東京の慶應義塾大学に学ぶ。1893年に卒業後は福井に戻り、中学校で英語教師を務める。 1899年、今村はハワイ在住の浄土真宗門徒に奉仕するため同地に移住した。
本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3… 本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)は、日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1867年(慶応3年)、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)に、姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれる(幼名・長二)。幼くして母方の菩提寺である妙善寺の本多日境に師事し、本多姓を継いだ。小学校卒業後、妙立寺の池田日昌のもとで得度し、日昌亡き後は岡山県津山の本蓮寺で児玉日容のもと、日什教学を学ぶ。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1887年(明治20年)、上京後に私立哲学館(現・東洋大学)の第一期生として入学する。
木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月… 木津 無庵(きづ むあん、慶応3年2月18日(1867年3月23日) - 昭和18年(1943年)9月12日)は、大正・昭和期の真宗大谷派の僧侶。『新訳仏教聖典』の翻訳者。本名は祐精。
浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月… 浅野 斧山(あさの ふざん、1866年6月7日<慶応2年4月24日> - 1912年6月1日)は、日本の僧侶、仏教学者。名古屋市天年寺第16世、曹洞宗大学林教授などを歴任。号は打睡庵。 名古屋南鍛冶屋町の浅野束穂の三男に生まれる。1879年、洗月院三世の天珠について得度。それ以来、白鳥鼎三、鷹林冷生に12年間にわたり随侍。1885年、法持寺の天珠の下で立身。1889年、天珠の室に入って嗣法。1891年、永平寺で転衣出世。1893年、天年寺に首先住職した。 1899年、曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。内地留学生となり、京都・浄土宗専門学院長の大鹿感成に倶舎論、唯識、因明などを学ぶ。その後、東大寺戒壇院長老の上田照遍に華厳、天台の講義を受ける。
佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4… 佐川 玄彝(さがわ げんい、1866年5月18日(慶応2年4月4日) - 1944年(昭和19年)5月13日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第15世貫首、永平寺第72世貫首。道号は訓山玄彝。 1866年(慶応2年)周防国大島郡(後の山口県大島郡蒲野村、現・周防大島町)生まれ。1882年3月3日屋代村の龍心寺大村玄英について得度。1891年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業(卒業証書授与は1892年春)。同年、曹洞宗管長より山形県米沢市の曹洞宗中学林の教授に任命される。1892年師匠の病気のため辞職し看病に務める。1893年2月、龍心寺住職。1894年山口県曹洞宗中学林の教授。1913年曹洞宗第四中学林の第3代学林長に就任。
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866… 山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日〈1866年3月14日〉 - 昭和36年〈1961年〉6月3日)は、日本の禅僧。道号は玄峰、法諱は宜詮、宜雄。室号は般若窟。俗姓は岡本、後に山本。和歌山県本宮町生まれ。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する(年代順)。 生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。遺言により葬儀はなかった。世寿96歳。 1866年(慶応2年)3月14日和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の湯の峰温泉の旅館・芳野屋(現・あづまや旅館)で生まれた。
岸沢 惟安(きしざわ いあん、1865年9月12日(慶応元年… 岸沢 惟安(きしざわ いあん、1865年9月12日(慶応元年7月23日) - 1955年(昭和30年)3月26日)は、曹洞宗の僧、仏教学者。 武蔵国埼玉郡上池守(現・埼玉県行田市)の木元要吉の四男として生まれる。幼名は計之助。埼玉県師範学校卒業。開新小学校(現・熊谷市立成田星宮小学校)の訓導・校長を務めたあと、1897年西有穆山に就いて得度。丘宗潭にも師事、生涯を『正法眼蔵』の解明に尽くした。埼玉県の清法寺、兵庫県の永源寺、京都府の安泰寺、青森県の法光寺を歴住し、静岡県志太郡豊田村(現焼津市)に旭伝院を開創した。号に眠芳など。
新井 石禅(あらい せきぜん、俗名:石井仙太郎、元治元年12… 新井 石禅(あらい せきぜん、俗名:石井仙太郎、元治元年12月19日(1865年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月7日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住5世、第11代管長(大陽真鑑禅師)。号は穆英。 陸奥国伊達郡梁川村(現福島県伊達市)の石井家の三男に生まれ、12歳の時に出家、菩提寺の興国寺住職新井如禅の弟子となる。曹洞宗専門本校(現、駒澤大学)に学び、わずか3年で卒業。畔上楳仙、森田悟由らに参禅した。 善徳寺、浄春院、大栄寺、雲洞庵、護国院、最乗寺などに歴住し、曹洞宗大学林学監兼教授、教学部長、永平寺副監院となり、總持寺西堂を経て大正9年(1920年)に独住5世、曹洞宗第11代管長となる。
若生 国栄(わこう こくえい、1865年 - 1943年7月… 若生 国栄(わこう こくえい、1865年 - 1943年7月26日)は、日本の僧侶。高等中学林教授、曹洞宗円通寺第43世、永平寺監院などを歴任。号は形山。 慶応元年、摂津国川辺郡(現兵庫県)生まれ。加古川曹洞宗専門支学校、曹洞宗大学(現: 駒澤大学)卒業。漢学を三島中洲に学ぶ。高等中学林教授、台湾軍隊慰問使兼従軍布教使、韓国布教総監、丹波円通寺第43世、1915年に永平寺監院などを務める。 著書に『寒山詩講義』『禅学正門単刀直入』『活禅談: 通俗平易』など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元… 高木 顕明(たかぎ けんみょう、1864年6月24日(元治元年5月21日) - 1914年(大正3年)6月24日)は、真宗大谷派の僧侶。幸徳事件(大逆事件)の被告の一人である。 尾張国西春日井郡下小田井村(現・愛知県清須市)生まれ。尾張小教校(のちの旧制尾張中学、現在の名古屋大谷高等学校)修了。和歌山県新宮市浄泉寺12代住職。旧姓は山田、幼名は妻二郎。 日露戦争では日本でも数少ない非戦論者の一人であり、公娼制度にも反対し、次第に社会主義に接近していった。 1910年(明治43年)、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したことから幸徳事件(大逆事件)の関与を疑われ逮捕される。当初、死刑判決に処されたが、後に無期懲役に減刑された。
薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7… 薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7月27日〉 - 1922年〈大正11年〉1月3日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶。 和泉国出身。旧姓は浅井。号は確堂。帝国大学文科大学卒。和歌山妙慶寺薗田香潤の養子。本山の文学寮の教授となり、のち寮長。明治32年(1899年)本山の命で最初の北米開教師としてサンフランシスコで布教。帰国後、明治38年(1905年)仏教大学(現・龍谷大学)学長、1912年勧学、1915年再び学長に任ぜられる。長男は独文学者の薗田香勲。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年… 清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。
山田 孝道(やまだ こうどう、1863年8月1日 - 192… 山田 孝道(やまだ こうどう、1863年8月1日 - 1928年1月7日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学林(現・駒澤大学)教頭。地福寺住職、大龍寺住職、大慈寺住職。道号は哲巌、湖南と号することも。世寿満64才、数66歳。 1863年(文久3年)8月1日、島根縣能義郡廣瀨町(現・島根県安来市)、広瀬藩士山田央(益之)の三男として生れる。幼名は恭三郎。明治11年5月27日、同縣能義郡澤村地福︀寺の住職影山虚巖について得度。明治9年9月から11年8月まで廣瀨町修文館にて漢学を修める。明治11年9月から兵庫県三田村心月院の住職蘆浦黙應に随侍し、明治14年8月、島根県曹洞宗専門支校を卒業、同年冬、島根県山中村(伯耆)の退休寺太田有典の常恒会にて長老を勤める。
久我 篤立(くが とくりゅう、1861年9月5日(文久元年8… 久我 篤立(くが とくりゅう、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第14世貫首。大僧正、龍拈寺管長。 三河国(愛知県)生まれ。8歳で出家、のち良洞巨介の法をつぐ。1885年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。同年、法尺寺住職、1887年豊橋の竜拈寺管長。のち曹洞宗師家竜拈寺認可僧堂専門、僧堂開単、愛知県第二曹洞宗宗務所長を務めた。また私立豊橋幼稚園長、愛知県社会教育委員、豊橋連合市会副議長、豊橋市仏教連合会顧問などを兼務。軍人布教師や自治団体、社会事業の公職を務め、豊橋育児院をつくるなど社会事業にも尽力した。1943年總持寺独住第15世貫首に就任。
秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年… 秋野 孝道(あきの こうどう、1858年5月30日(安政5年4月18日) - 1934年(昭和9年)2月20日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。曹洞宗大学(現・駒澤大学)学長。總持寺貫首、曹洞宗管長。別号・大忍。黙照円通禅師。 1858年(安政5年)、遠江国相良(現・静岡県牧之原市)に秋野新七の三男として生まれる。静岡・長興寺で出家し、1872年(明治5年)伊藤慶道について得度。曹洞宗大学専門本校(のち駒澤大学)卒業。 1880年兄弟子の加藤玄裔に嗣法。西有穆山に師事し「正法眼蔵」を研究。總持寺、天徳寺、大洞院を経て、1892年(明治25年)曹洞宗大学林学監、1900年教頭、1902年総監となる。
道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3… 道重 信教(みちしげ しんきょう、1856年4月8日(安政3年3月4日) - 1934年(昭和9年)1月29日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗学本校(佛教大学の前身)教授や大本山増上寺法主などを歴任した。 安政3年(1856年)3月4日、長門国厚狭郡宇部村(現在の山口県宇部市)の農家、道重十次郎の五男として生まれる。 1879年に京都知恩院内の浄土宗大教校に入学。1885年に宇部松月庵の住職となる。 1896年に上京して浄土宗学本校教授となる傍ら、曹洞宗大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京女子高等師範学校などで仏教学を講じた。 1900年、増上寺山内に仏学院を創設して仏教を講じ、徳富蘇峰・寺内正毅らもその門を叩いた。
陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937… 陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937年2月24日)は、日本の僧侶。名古屋市円通寺第28世、両本山布教師、曹洞宗大学林総監などを歴任。別名、鉞巌沙門。号は仙雄。 安政2年2月8日、尾張国名古屋生まれ。1886年(明治19年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。研究生に特選され、1887年から1890年まで哲学館に在学。1885年(明治18年)9月、曹洞宗大学林寮監。明治23年11月より曹洞宗東京中学林教授。曹洞宗台湾布教師。1900年(明治33年)9月、曹洞宗大学林総監。 著書に「修道用心偈六百首布皷」「正法眼蔵布皷」「永平正法眼蔵知津布皷」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(185… 前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(1855年3月2日) - 昭和5年(1930年)4月29日)は、伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身の浄土真宗本願寺派の学僧。第2代東洋大学長、龍谷大学学長。「含潤」、「止舟斎」とも号した。 1855年(安政2年)、桑名の西福寺に生まれた。漢文を大賀旭川、佐藤牧山の下で学び、また仏教学を西山教校、比叡山で修めた。松島善譲にも学んでいる。 1888年に上京して大内青巒と共に尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となった。東京大学講師として教鞭を執り、1904年からは高輪仏教大学学長を務めた。1906年、井上円了の意志を継いで哲学館大学を東洋大学と改称し、第2代学長に就任(1914年に退任)。
曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年… 曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年) - 1917年(大正6年)1月29日)は、明治時代に活動した浄土真宗本願寺派の僧侶。1889年(明治22年)にハワイに渡航し、在留日本人への開教(布教)活動を行った最初の僧侶として知られている。この活動は、本願寺派のハワイ開教の初期の例であり、また日本仏教の英語圏での開教の先駆でもあった。別号に点紅。 江戸時代幕末期の安政2年(1855年)、豊後国国東郡にある光徳寺(現在の大分県豊後高田市臼野)の長男として生まれ、西光寺(豊後高田市水崎)の住職東陽円月が開いていた「東陽学寮」に学ぶ。蒼龍と円月は縁戚関係にあり、円月は蒼龍の伯父(円月の弟の子が蒼龍)であり、さらに蒼龍は円月の娘「すず」を妻に迎えた。