村上 一治(むらかみ かずはる、1917年3月22日 - 1… 村上 一治(むらかみ かずはる、1917年3月22日 - 1965年9月16日)は、愛知県出身の元プロ野球選手(一塁手)。 南海軍に在籍した。
職業が野球:7,475人
村上 一治(むらかみ かずはる、1917年3月22日 - 1… 村上 一治(むらかみ かずはる、1917年3月22日 - 1965年9月16日)は、愛知県出身の元プロ野球選手(一塁手)。 南海軍に在籍した。
内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 199… 内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 1997年1月30日)は、長崎県長崎市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
茅野 健一(かやの けんいち、1917年2月25日 - 没年… 茅野 健一(かやの けんいち、1917年2月25日 - 没年不明)は、神奈川県出身のプロ野球選手(外野手)。 台北州立台北工業学校(現:国立台北科技大学)時代は、1932年夏の甲子園に出場。チームメイトに漆原進、茅野秀三がいる。浅野中学校(現:浅野中学校・高等学校)、横浜高工、横浜金港クラブを経て、1950年に西日本パイレーツに入団。しかし全く活躍することはできず、同年シーズン終了後、チームの消滅と共に現役引退した。
沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年… 沢村 栄治(さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治、1917年2月1日 - 1944年12月2日)は、三重県出身のプロ野球選手(投手)。
中村 民雄(なかむら たみお、1917年1月16日 - 20… 中村 民雄(なかむら たみお、1917年1月16日 - 2003年5月20日)は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手。
牧野 潔(まきの きよし、1917年1月15日 - 没年不明… 牧野 潔(まきの きよし、1917年1月15日 - 没年不明)は、愛知県出身の元プロ野球選手。 旧名古屋第二商業学校(現名古屋市立西陵高等学校)卒業後、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に所属した。 1936年4月29日にプロ野球初めてリーグ戦の試合、名古屋軍対大東京軍が甲子園球場で行われ、その試合にて、先発を務めた投手である。しかし、1安打1四球1犠打で1点を失い、1死も取れないまま降板した(試合は8対5で名古屋軍が勝利している。牧野の後を投げたハーバート・ノースが勝利投手になっている。)およそ1年間の所属後、審判や社会人野球の監督などを務めた。また親戚に元近鉄バファローズの伊藤栄祐(現北海道日本ハムファイターズ打撃投手)と明治安田生命の鈴木亮がいる。
小田野 柏(おだの かしわ、1917年1月14日 - 201… 小田野 柏(おだの かしわ、1917年1月14日 - 2013年9月)は、岩手県二戸郡一戸町出身のプロ野球選手(外野手)。1938年から1942年まで投手も兼任した。 岩手県二戸郡一戸町の生まれ。小学校時代に少年野球の全国大会に出場し、その活躍が認められて福岡中学に進学。 福岡中学時代に第17回全国中等学校優勝野球大会に出場した。その後、青森営林局、仙台鉄道局を経て、1938年に阪急軍へ投手として入団。同年に応召され、1942年にプロに復帰し外野手へ転向。青森営林局時代に、東京ジャイアンツの沢村栄治と対戦した(三球三振)。肩を壊す前の全盛期の沢村と対戦した貴重な証人である。ちなみに川上哲治がプロ入りして最初に対戦した投手が小田野柏である(結果はライトフライ)。
上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉… 上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年〈大正6年〉1月13日 - 2002年〈平成14年〉2月8日)は、日本のプロ野球選手、政治家。 日大三中から明治大学へ進学。卒業後に満洲電電へ進み、1947年に中部日本ドラゴンズへ入団。 1949年に東急フライヤーズへ移籍。この年は93試合に出場し、翌年も73試合に出場した。東急時代にバッテリーを組んでいた白木義一郎(池田大作の妻・香峯子の従兄弟)に折伏されて創価学会に入信。 1952年に毎日オリオンズへ移籍し、1953年に現役引退。1954年から2年間、高橋ユニオンズでコーチを務めた。 1955年のシーズン中に創価学会を支持母体として船橋市市議会議員選挙に立候補して当選。
家村 相太郎(いえむら そうたろう、1917年1月5日 - … 家村 相太郎(いえむら そうたろう、1917年1月5日 - 2005年)は、朝鮮京南生まれ、埼玉県川越市出身のプロ野球選手。 小学3年生の時に野球を始め、川越中学校では2年次に一塁手、3年次にはエースピッチャーとなり北関東大会決勝まで進んだが甲子園には出場できなかった。 1936年に東京セネタースへ入団。 1940年に退団し、翌年から社会人野球の全京城でプレーする。 1946年にセネタースへ復帰し、同年引退した。 引退後は天理高校、母校の川越高校、天理大学で野球部コーチと監督、習志野高校でコーチを務めた。
酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月… 酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月) は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1936年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも投手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年2月、南方諸島(正確な死没地、没月日は不明)で戦死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の先輩である鶴崎俊篤と共に、彼の名前が刻まれている。
北原 昇(きたはら のぼる、1917年 - 没年不明)は、長… 北原 昇(きたはら のぼる、1917年 - 没年不明)は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手。
保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広… 保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広島県出身の元プロ野球選手。
岡本 敏男(おかもと としお、1917年 - 没年不明〈20… 岡本 敏男(おかもと としお、1917年 - 没年不明〈2004年以前〉)は、熊本県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。
嘉藤栄吉(かとう えいきち、1917年 - 2008年6月2… 嘉藤栄吉(かとう えいきち、1917年 - 2008年6月28日)は、兵庫県出身の元アマチュア野球選手。高校野球にて活躍した。
岡野 八郎(おかの はちろう、1916年12月8日 - 没年… 岡野 八郎(おかの はちろう、1916年12月8日 - 没年不明)は、滋賀県出身のプロ野球選手。 膳所中学校から関西大学を経て1938年に名古屋金鯱軍へ入団。
大沢 清(おおさわ きよし、1916年12月1日 - 200… 大沢 清(おおさわ きよし、1916年12月1日 - 2005年7月14日)は、神奈川県鎌倉郡川口村大字片瀬(現:藤沢市片瀬海岸)出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。プロ野球選手の大沢紀三男、大沢啓二は弟。タレントの大沢あかねは従孫娘。 神奈川県立商工実習学校、國學院大學を経て、1937年に名古屋軍へ入団しプロ入り。1年目から内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1939年には川上哲治に次ぐ打率.310を記録する。第二次世界大戦終戦後、1946年に後身である中部日本軍へ復帰し、1949年に東急フライヤーズへ移籍。 1950年には新球団として発足した大洋ホエールズへ移籍し、一塁手に定着。
岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - … 岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - 1969年12月30日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手、高校野球・社会人野球監督。右投右打で、ポジションは捕手、内野手、投手。 父は米子中学校野球部長を務めた岡本速水。 米子中では4年次の1932年に、夏の甲子園に二塁手として出場した(初戦で石川師範に敗れる)。翌1933年は主将・主戦として活躍したが、山陰大会1回戦で敗れ、甲子園出場を逃した。 卒業後は関西大学に進学し、野球部で好打、堅守の内野手として名を馳せた。1939年には職業野球・ライオン軍に入団。弱小チームでユーティリティープレイヤーとして捕手をはじめ、さまざまなポジションをこなした。
片岡 博国(かたおか ひろくに、1916年11月24日 - … 片岡 博国(かたおか ひろくに、1916年11月24日 - )は、元プロ野球選手。
山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - … 山本 尚敏(やまもと ひさとし、1916年11月15日 - 生死不明 )は、神奈川県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 関東中学校では、1934年の夏の甲子園に出場。卒業後は日本大学に入学するが、中退して簡易保険局でプレーした。 1936年の大東京軍結成に参加する。1937年は兵役に就いていたが、復帰後の1938年秋になると大友一明に代わって正二塁手に入り、1939年には松岡甲二との併用であったが遊撃手としてチーム最多の61試合に起用され、打率.189ながら規定打席に到達した(リーグ55位)。この年の10月20日の対阪急軍戦では日本プロ野球記録となる同一守備位置(遊撃手)での5失策を犯している。
佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1916年10月21日 - 1962年4月18日)は、愛知県岡崎市出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。 旧制岡崎中学校では、投手の高塚誠治とバッテリーを組む一方、4番打者も務める。1935年の夏の甲子園愛知大会では決勝で愛知商業に2-0で敗退。1936年に卒業し、大阪タイガースに入団。 同年12月に後楽園イーグルスが新たに設立されると移籍し、1937年春季からレギュラー捕手となり36試合にマスクを被る。しかし、6月下旬にバッキー・ハリスが入団すると出番が大きく減少。秋季は9試合の出場に終わる。 1938年には東京セネタースに移籍。1939年から北浦三男に代わって正捕手となると、長打力があり、1940年には3本塁打で6位タイ、1942年にも4本塁打を放ち4位タイであった。
藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 198… 藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 1986年2月7日)は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
重松 通雄(しげまつ みちお、1916年9月16日 - 19… 重松 通雄(しげまつ みちお、1916年9月16日 - 1979年12月16日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 NPBにおけるアンダースロー第1号ともいわれる。 越智中学校から広島県呉市の呉海軍工廠電気部に所属し、11チームあった同社の硬式野球部の電気部エースとして「オール呉」が編成されるといつも選抜された。また、1936年に創設された現行プロ野球に名乗りを上げたが、加盟は認められなかった名古屋市の球団「セントラル・シティ」に偽名で登録し、数試合投げていた。しかし、試合後に酒を飲んで警察に拘留された件で呉工廠への復帰が閉ざされ、先に阪急入りしていた倉本信護から阪急入団テストの話を聞いてテストに合格し、1936年に創立したばかりの阪急軍に入団すると、三宅大輔監督からアンダースローへの変更を言い渡される。
大友 一明(おおとも かずあき、1916年9月16日 - 没… 大友 一明(おおとも かずあき、1916年9月16日 - 没年不明)は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、投手。
橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )… 橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死… 松下 繁二(まつした しげじ、1916年8月16日 - 戦死(年月不明))は、昭和時代前期に活躍したプロ野球選手。
藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1… 藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 199… 長谷川 治(はせがわ おさむ、1916年6月9日 - 1993年5月10日[1])は、和歌山県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。ポジションは投手。
筒井 良武(つつい よしたけ、1916年5月27日 - 没年… 筒井 良武(つつい よしたけ、1916年5月27日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手、内野手)。
三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 19… 三浦 敏一(みうら としかず、1916年5月18日 - 1997年)は、長野県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手、一塁手。 諏訪蚕糸学校では1930年に春のセンバツと夏の選手権に出場。 1937年に名古屋軍へ入団。前年大活躍した正捕手のバッキー・ハリスがイーグルスへ移籍し、捕手不足の中で頭角を現した。強肩でキャッチングが上手く、また俊足でもあったためレギュラーを張っていた。ただ打撃に難があり、1939年に服部受弘が入団すると一塁手に回る機会も多かった。中日球団でエースの象徴とされる背番号20を、初めて付けた人物として知られる。 1941年に軍に応召され、退団。戦後はプロ野球に復帰せず、社会人野球の小口製作所でプレイングマネージャーとして活躍した。
中山 武(なかやま たけし、1916年5月17日 - 197… 中山 武(なかやま たけし、1916年5月17日 - 1975年8月18日)は、静岡県出身のプロ野球選手(捕手)。
山口 政信(やまぐち まさのぶ、1916年5月5日 - 19… 山口 政信(やまぐち まさのぶ、1916年5月5日 - 1976年3月22日)は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 196… 宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 1965年6月17日)は、佐賀県出身のプロ野球選手(内野手)、(監督)。
西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 194… 西郷 準(さいごう ひとし、1916年4月25日 - 1945年5月28日)は、鹿児島県鹿児島市出身の元アマチュア野球選手。 西郷菊次郎(元・京都市長)の7男7女のうち六男として出生する。西郷隆盛の孫にあたる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(現鹿児島県立甲南高、28回卒)を経て立教大学へ進学、東京六大学野球で活躍し神宮球場を沸かせた。 二中に進学すると野球部へ入った。準が1年次の1930年、二中野球部は当時の全国中等学校優勝野球大会に出場し、全盛期を迎えていた。当時は九州から南北それぞれ1校のみ出場でき、全国(甲子園)大会出場は難関だった。1932年には準の2年先輩かつ立教大学野球部でも先輩で、大洋ホエールズ投手・コーチとなる有村家斉がエースとして活躍したが、当時準は遊撃手であった。
笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 197… 笠松 実(かさまつ みのる、1916年4月13日 - 1970年9月16日)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手)。
菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)… 菅 利雄(かん としお、1916年4月12日 - 没年不明)は、愛媛県出身のプロ野球選手(一塁手、三塁手、外野手)。
浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 198… 浅原 直人(あさはら なおと、1916年4月8日 - 1987年2月1日)は、愛知県出身のプロ野球選手(内野手、外野手)。 愛知一中時代は陸上選手として活躍。卒業後はアマチュア野球の大連実業団でプレーし、愛知県警を経て1936年に名古屋軍へ入団。秋季リーグ途中に大東京軍へ移籍し、翌年は4番打者として活躍した。途中、満州化学工業へ移籍するが、のち朝日軍(大東京から名称変更)でプロに復帰。1943年途中で応召された。戦後の1946年7月に外地から引き上げ社会人野球の強豪チーム熊谷組で選手兼任監督に就任し、2年連続で都市対抗野球にも出場した。1952年に35歳という年齢で東急フライヤーズでプロに復帰し、5番打者として活躍。
小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年… 小林 茂太(こばやし しげた、1916年3月29日 - 没年不明)は、長野県佐久市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 岩村田中学校ではエースピッチャーとして活躍。東京鉄道局で外野手に転向した。1937年に名古屋金鯱軍へ入団。同姓の小林利蔵と共にクリーンアップを担い、チームを牽引している。また、1937年春季リーグと1938年秋季リーグには規定打席に到達しながら、死球の数が四球の数を上回るという珍記録を残した(2007年に大村直之が記録するまで史上唯一の達成者だった)。1940年には翼軍へ移籍。そこでもチームの主軸を担い、キャリアハイである4本塁打49打点を記録するも同年に応召された。 戦後は藤倉電線で4番打者として活躍し、都市対抗野球では1試合7打点の記録も残している。
内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2… 内藤 幸三(ないとう こうぞう、1916年3月25日 - 2002年1月31日)は、三重県出身のプロ野球選手・審判員。日本プロ野球最初の大型左腕投手である。
瀬井 清(せい きよし、本名:薛 永順、1916年3月10日… 瀬井 清(せい きよし、本名:薛 永順、1916年3月10日 - 1973年2月26日)は、中華民国・福建省福州市出身のプロ野球選手(内野手)。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1… 御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1965年7月10日)は、山口県防府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球史上2人目のシーズン無敗を達成した。 1916年1月16日に山口県防府市で生まれる。山口県立山口中学校在学時は1933年の第10回選抜中等学校野球大会に出場経験を持つ。進学先の関西大学体育会野球部では新人戦で完封勝利を記録するなど話題の投手となり1936年2月1日に設立されたばかりの大阪タイガースから誘われると僅か1年で大学を中退し、入団した。 入団当初から主戦投手として活躍し、同年5月27日の対阪急軍戦で初勝利を挙げると、1937年秋季には15試合に登板して11勝無敗、勝率1.000の大活躍でタイガースの初優勝に貢献した。
宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 19… 宮下 義雄(みやした よしお、1916年1月13日 - 1984年6月16日)は、東京都出身のプロ野球選手、プロ野球審判員。
赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日… 赤根谷 飛雄太郎(あかねや ひゅうたろう、1916年1月5日 - 1969年8月22日)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(投手)、野球指導者(秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部監督)。プロ野球史上、最も漢字名の長い(7文字)選手として知られる。 なお、「ヒユウタロウ」は誤読である。巨人の星の星飛雄馬風に「ヒュウタロウ」である。 秋田商業を経て、法政大学に進学すると、東京六大学野球で活躍を見せる。その後、社会人野球の秋田コンマーシャルクラブ・帝国石油でプレー。 1948年に32歳にして急映フライヤーズに入団。新人ながら加藤正二(35歳)に次ぐ高齢の選手だった。1年目は二軍の急映チックフライヤーズの監督を兼任しながらドロップを武器に一軍で12試合に登板し2勝を挙げるが、9月28日に行われた対金星戦(後楽園球場)で坪内道則に史上初の1000本安打を打たれてしまう。
梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944… 梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944年12月)は、日本の元アマチュア野球選手。秋田県出身。ポジションは投手。 1916年、秋田市に生まれた。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)在学中は、甲子園に4回出場。夏のみ。4回(1931年~1934年まで4年連続)出場し、最後の出場となった1934年夏の大会ではベスト4に入る健闘を見せた(準決勝で、藤村富美男らを擁した優勝候補筆頭の呉港中学〈現・呉港高等学校〉と当たり0-9で大敗)。梅崎、赤根谷飛雄太郎(梅崎のライバルで、秋田商出身。後に急映・東急でプレー)、渡辺誠太郎(土崎商出身。後に阪神等でプレー)の三人を称して、「戦前秋田の三大投手」と呼ばれた。
佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、… 佐山 昌義(さやま まさよし、1916年 - 没年不明)は、大分県出身のプロ野球選手。 中津中学から門司鉄道局を経て1937年に大東京軍へ入団。1938年に退団。
山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は… 山本 博愛(やまもと ひろちか、1916年 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(三塁手、遊撃手)。
大宮 清(おおみや きよし、1916年 - 1944年)は、… 大宮 清(おおみや きよし、1916年 - 1944年)は、愛知県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、捕手。
新井 一(あらい はじめ、1916年 - )は、愛知県出身の… 新井 一(あらい はじめ、1916年 - )は、愛知県出身のプロ野球選手。
近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月… 近藤 鉄己(こんどう てつみ、1916年 - 1945年8月3日)は、日本のアマチュア野球選手。愛知県出身。ポジションは捕手。 愛知商業(現・愛知県立愛知商業高等学校)在学中は、甲子園に2回出場(内訳は春1回〔1935年〕。夏1回〔1935年〕。)出場した大会でどちらもベスト4まで進出し、自身は1935年春の大会で優秀選手賞を受賞した。 愛知商業卒業後、1936年に慶應義塾大学に進学。六大学野球でも活躍し、1939年秋季リーグで高木正雄とバッテリーを組み、慶大の13季ぶりの優勝の立役者となった。 しかし慶大を卒業後応召され、終戦12日前の1945年8月3日にフィリピンルソン島イフガオ州キャンガンにて、胸部貫通銃創により戦死した。
高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月1… 高木 正雄(たかぎ まさお 1916年 - 1944年6月18日)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。ポジションは投手。