加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 201… 加藤 克巳(かとう かつみ、1915年6月30日 - 2010年5月16日)は、昭和・平成期の歌人。 京都府綾部市生まれ。旧制埼玉県立浦和中学校在学中に短歌を作り始め、若山牧水系の歌誌「菁藻」(主宰:髙橋俊人)に入会。1933年、國學院大學予科入学、1935年、國學院大學国文科進学、折口信夫、武田祐吉らの薫陶を受ける。在学中に新芸術派短歌運動に加わり「短歌精神」を創刊。1936年、若手歌人の集まり「四月会」に参加。1937年、第一歌集『螺旋階段』を刊行。1938年、國學院大學卒業。 その後応召し、敗戦まで軍隊生活を経験する。戦後は浦和中学校の教諭に復帰。1946年、常見千香夫、大野誠夫らと「鶏苑」を創刊、近藤芳美、宮柊二らと「新歌人集団」を結成。
岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4… 岡部 桂一郎(おかべ けいいちろう、1915年(大正4年)4月3日 - 2012年(平成24年)11月28日)は歌人。 兵庫県神戸市生まれ。神戸尋常小学校、関西学院中等部を経て、熊本薬学専門学校(現熊本大学薬学部)卒業。 1937年(昭和12年)、山下陸奥の歌誌「一路」入会。1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけて、作歌を中断。1947年(昭和22年)、上京し国立習志野病院の薬局長として勤務。1948年(昭和23年)、「一路」を退会し、山形義雄、芝山永治らと「工人」を創刊。1950年(昭和25年)、金子一秋、葛原繁、三木あや、山崎一郎らとともに「泥の会」の活動を開始。1954年(昭和29年)、山崎方代らと同人誌「黄」を創刊。
東 明雅(ひがし あきまさ、1915年3月7日 - 2003… 東 明雅(ひがし あきまさ、1915年3月7日 - 2003年10月20日)は、日本の国文学者、俳人。専門は近世日本文学、特に井原西鶴。俳人としては「めいが」と読む。 熊本市生まれ。旧制第五高等学校を経て、1939年東京帝国大学文学部国文科卒業。同年、文部省宗教局勤務。1942年東京府立第一中学校(現・日比谷高校)教諭。1945年松本高等学校教授、1949年信州大学文理学部助教授、1959年同教授。1980年定年退官、名誉教授。1987年勲三等旭日中綬章を受章。 1961年から根津芦丈に師事し、信州大学連句会を結成した。その後、1982年に猫蓑会発足し、主宰となった。
臼田 甚五郎(うすだ じんごろう、1915年〈大正4年〉1月… 臼田 甚五郎(うすだ じんごろう、1915年〈大正4年〉1月25日 - 2006年〈平成18年〉10月26日)は、日本の国文学者・民俗学者・歌人(雅号:碧洋)。文学博士(國學院大学・論文博士・1961年)(学位論文「日本歌謡の文学史的民俗学的考察」)。國學院大學名誉教授。 東京都大田区生まれ。東京府立第一中学校を経て、1937年國學院大學文学部卒。柳田國男、折口信夫、河野省三らに師事[要出典]。1953年國學院大學文学部助教授、1957年同教授。1961年「日本歌謡の文学史的民俗学的考察」で國學院大学より文学博士の学位を取得。1985年定年退職、同大学名誉教授。1990年、勲三等瑞宝章受章。学外では日本学術会議会員や歌謡学会会長などを歴任した。
高木 晴子(たかぎ はるこ、1915年1月9日 - 2000… 高木 晴子(たかぎ はるこ、1915年1月9日 - 2000年10月22日)は、神奈川県出身の俳人。高浜虚子の五女で、高浜年尾、星野立子らの妹。 鎌倉生まれ。1932年フェリス女学院卒業。同年、虚子に京都の句会に連れて行かれ、初めて句会に出る。これ以降、虚子に師事する。1934年、日本銀行勤務の高木良一(餅花)と結婚、大森山王に居住。1944年、太平洋戦争中は虚子一家と長野県小諸に疎開した。1945年、秋田市に移住。初めて自分の句会「柿の花」を持つ。1947年「風荒き夜風に雁の帰るかな」「みちのくの帰雁に夜風悲しとも」の句が『ホトトギス』巻頭を飾る。1948年9月、夫が青森へ転勤、浦町字橋本日本銀行舎宅に居住。
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1… 芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者、詩人、歌人。 山形県白鷹町横田尻に生まれる。 1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた。 アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する。
香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 200… 香川 美人(かがわ よしと、1915年(大正4年)― 2008年(平成20年))は、愛媛県大三島出身の歌人。実兄の香川末光,甥の香川哲三も歌人。1930年(昭和5年)、「満州短歌」(後の「短歌中原」)に入会し八木沼丈夫に師事した。終戦後、郷里の愛媛県大三島に引き揚げ、1948年(昭和23年)に香川末光・藤原弘男らと「うづしほ短歌会」を結成した。1954年(昭和29年)に「歩道短歌会」に入会し佐藤佐太郎に師事した。「満州短歌」及び「短歌中原」時代の作品を纏めた歌集『碧落』、「歩道」入会後の作品を収めた歌集『風濤』、歌集『海光』がある。写生に立脚した精緻な対象描写と日常生活を柔軟な感性で捉えた歌風に特色がある。
里井 陸郎(さとい ろくろう、1914年12月21日 - 1… 里井 陸郎(さとい ろくろう、1914年12月21日 - 1980年4月10日)は、日本の歌人。日本文学研究者。 1914年(大正3年)大阪府泉佐野市に生まれる。高知高等学校文科乙類を卒業後、京都帝国大学文学部に進学。在学中、吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』の会員となり、交流を深めた。1938年(昭和13年)京都大学国語国文学専攻を卒業、同年、同志社中学校教諭。1942年(昭和17年)同志社大学予科講師、翌年同予科教授を経て、1948年に同志社大学教授。1975年(昭和50年)に『謡曲百番 観世流名曲選』を著した縁で、1979年(昭和54年)観世流名誉師範を授与される[要出典]。1980年(昭和55年)4月10日、胆嚢癌のため死去。
阿部 青鞋(あべ せいあい、1914年11月7日 - 198… 阿部 青鞋(あべ せいあい、1914年11月7日 - 1989年2月5日)は、俳人。本名は麗正(よしまさ)。 現在の東京都渋谷区に生まれる。1933年高輪学園卒業。1936年、新興俳句系の「句帖」に参加。1937年渡辺白泉らの同人誌「風」に参加。「螺旋」「動線」を創刊。1940年住谷栄子と結婚。1941年8月に召集を受けるが、大陸で戦病となり11月に解除。1945年岡山県英田郡巨勢村(現・美作市)に疎開、以後33年間同地に居住した。1957年「花実」参加。1958年「俳句評論」参加。1959年受洗。1963年「瓶」(のち「壜」)創刊。「八幡船」参加。同年公務を退き林野協会牧師となる。1969年永田耕衣の初期句集『真風』を編集発行。
桂 信子(かつら のぶこ、1914年11月1日 - 2004… 桂 信子(かつら のぶこ、1914年11月1日 - 2004年12月16日)は、日本の俳人。日野草城に師事。「旗艦」「青玄」などを経て「草苑」を創刊・主宰。本名は丹羽信子(にわのぶこ)。大阪市出身。1980年代以降は箕面市の自宅で過ごした。 大阪府大阪市東区八軒家に生まれる。大阪府立大手前高等女学校卒業。1934年、日野草城の「ミヤコ・ホテル」連作に感銘を受け、翌年より句作を開始。どこにも投句しなかったが、1938年、草城主宰の「旗艦」を知り投句。1939年、桂七十七郎と結婚。1941年、「旗艦」同人。同年、夫が喘息の発作のため急逝、以後会社員として自活する。 1946年「太陽系」創刊に参加、草城主宰の「アカシヤ」同人。
木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月2… 木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月27日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の詩人、俳人。本名・優二。 広島県福山市御幸町に生まれる。広島県立府中中学(現・広島県立府中高等学校)を卒業後、1933年にいったんは第一早稲田高等学院文科(仏文科)に入学するが、養父の結核発病に伴い家業を継ぐために転学した。1938年に名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大学)を卒業し、広島県福山市の実家で薬局を営む。以後、終生郷里を離れなかった。この間堀口大学に傾倒し影響を受けており、13歳のときには堀口の詩誌「若草」で特選を取っている。1940年、第一詩集『田舎の食卓』を刊行、第6回文芸汎論賞を受賞。
前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 … 前田 透(まえだ とおる、大正3年(1914年)9月16日 - 昭和59年(1984年)1月13日)は、歌人。 東京府豊多摩郡大久保町(現新宿区)に、歌人前田夕暮の長男として生まれる。昭和10年(1935年)旧制成蹊高等学校文科乙類卒業。昭和13年(1938年)東京帝国大学経済学部卒業、扶桑海上(現三井住友海上)入社。翌年1月、台湾歩兵第2連隊補充隊に入隊。9月、経理部幹部候補生となり東京陸軍経理学校に入学。昭和15年(1940年)9月、同校卒業。のち中国、フィリピン、ジャワ、ポルトガル領チモール島に派遣される。チモール島では、宣撫を名目に現地王族の独立運動に協力した。昭和21年(1946年)帰国。
田川 飛旅子(たがわ ひりょし、1914年8月28日 - 1… 田川 飛旅子(たがわ ひりょし、1914年8月28日 - 1999年4月25日)は、日本の俳人・工学者。本名・博。東京出身。 東京府豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)生まれ。1933年に日本メソジスト協会中央会堂にて洗礼を受けた。府立六中(現東京都立新宿高等学校)、一高を経て1940年に東京帝国大学工学部卒。卒業と同時に古河電池に入社し電池製作所に配属。戦後に同技師長、役員として勤務。工学者としては『電池及蓄電池』(1953年)の著書があり、1961年に東京大学から博士号を受けている。 一高在学中に短歌に興味を持ち「アララギ」に入会、土屋文明に師事。また中学の時より画家耳野卯三郎に油絵を習い、1938年「妹の像」で光風会に入選している。
斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980… 斎藤 玄(さいとう げん、1914年8月22日 - 1980年5月8日)は、北海道出身の俳人。本名・俊彦。 北海道函館市春日町(現青柳町)に生まれる。祖父斎藤又右衛門は末広町で呉服屋を営み、函館銀行初代頭取や函館商工会議所初代会長などを務めた地元財界の大物だった。父俊三は咀華と号した画家で、二科展に属し川端龍子や斎藤五百枝らと交流があったが、4歳のときに死別した。親類に上田敏がいる(祖父の妹の夫)。 函館中学校、早稲田大学商科卒。大学在学中、新興俳句に惹かれたことから従兄の杉村聖林子に誘われて「京大俳句」に参加し西東三鬼に師事。当初は三樹雄と号した。1938年、旧北海道銀行に入社。1940年、郷里で「壷」を創刊するが、4年後に休刊。
林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年… 林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年11月9日)は、日本の俳人。本名は林 昭(はやし しょう)。 長野県長野市生まれ。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郎と知り合い、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務。1940年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選。この頃から「翔」を俳号に用いた。1950年「馬酔木」同人となる。1962年、現代俳句協会を脱会し、俳人協会に加入する。1970年、登四郎が「沖」を創刊すると編集主幹に就く。
文挾 夫佐恵(ふばさみ ふさえ、1914年1月23日 - 2… 文挾 夫佐恵(ふばさみ ふさえ、1914年1月23日 - 2014年5月19日)は、日本の俳人。 東京都生まれ、東京府立第五高等女学校卒。小学校時代より作句、1934年に上川井梨葉主宰の「愛吟」に入会。1944年に飯田蛇笏の「雲母」に入会。のちに同門の石原八束の家での三好達治を囲む文章会に参加した。1961年、八束とともに「秋」の創刊に参加、同人となる。1998年、八束の逝去により「秋」主宰。2006年まで務めたのち佐怒賀正美に主宰を譲り同誌の名誉主宰となる。1965年に第12回現代俳句協会賞、2007年に句集『青愛鷹』により第7回俳句四季大賞、2011年に第2回桂信子賞を受賞。2013年には句集『白駒』(はくく)により、史上最高齢となる99歳で第47回蛇笏賞を受賞した。
村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月1… 村崎 凡人(むらさき ただひと、1914年(大正3年)1月12日 - 1989年(平成1年)5月10日)は、日本の国文学者・歌人・教育者。徳島文理大学等を経営する村崎学園の理事長。徳島県徳島市出身。息子は村崎学園理事長村崎正人、孫は村崎文彦。 徳島県徳島市出身。旧制徳島中学校、早稲田大学文学部卒業。窪田空穂に師事し、歌誌「槻の木」同人となる。大学卒業後は早稲田図書出版社で勤めた。 村崎学園の創業者であり祖母である村崎サイの「自立協同」の遺志を継ぎ、1949年に同学園の理事長に就任する。1961年に徳島女子短期大学(現・徳島文理大学短期大学部)、1966年に徳島女子大学(現・徳島文理大学)を創設するなど、村崎学園を幼稚園から大学院までを一貫する総合学園に成長させるなどの実績をあげた。
福沢 武一(ふくざわ ぶいち、1914年1月12日 - 20… 福沢 武一(ふくざわ ぶいち、1914年1月12日 - 2003年5月15日)は、日本の歌人、万葉学者、日本語学者。専門は万葉集、方言。 長野県上伊那郡伊那町(現伊那市)生まれ。東京大学文学部を卒業後、1941年から1973年まで長野県下各地の高等学校に勤務した。北信地方に赴任した際、言葉が奇異に感ぜられ方言に興味を抱くようになったという。1951年「万葉集」の研究に端を発して短歌の製作を始める。 1975年長野大学教授、1983年上田女子短期大学教授に就任。 2003年5月15日死去、89歳没。 詠風は独特であり、素材にも表現形式にも特異な趣があったという。 万葉集研究で知られた。 また戦後長野県方言の語彙研究をリードし、大橋敦夫からは「丹念に方言を収集し、方言語彙研究に独自の境地を開いた」と評されている。
戸枝 弘(とえだ ひろし、1914年 - 1992年1月25… 戸枝 弘(とえだ ひろし、1914年 - 1992年1月25日)は、昭和時代日本の詩人、歌人、作詞家。長野県出身。別名義に戸枝 ひろしや並木 ひろし、野中 ゆきみがある。 1914年(大正3年)、長野県上伊那郡南向村(現在の中川村)に生まれる。旧制伊那中学校在学中は万葉集やアララギ叢書を愛読していた。横浜専門学校を卒業、帰郷した後は会社嘱託の傍ら著述業に入り1951年(昭和26年)の歌会始で入選を果たす。 1960年(昭和35年)より、中川村から伊那市へ転居した。 1963年(昭和38年)1月、同年の歌会始で岡山県から応募のあった入選作が前年に「野中ゆきみ」名義で雑誌に掲載された短歌の盗作であると主張し、宮内庁が入選者に事情を聴いたところ応募者は盗作の嫌疑を否定したものの賞を辞退することとなった(昭和38年歌会始盗作事件)。
錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8… 錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8日)は、日本のエッセイスト、歌人、蜘蛛研究家、特にバルーニングの研究で著名。山形県山形市出身。1936年山形師範学校卒業、小学校教員となる。1929年頃から斉藤茂吉の弟子の結城哀草果に師事して作歌を始める。1937年アララギ入会。晩年は短歌結社「山麓」の選者を務めた。1958年日本蜘蛛学会に入会。蜘蛛に関連する書籍で数多くの賞を受賞する。1973年退職、1975年南陽市芸術文化協会会長。翌年、市史編さん嘱託(編集委員長)に就任。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
佐藤 志満(さとう しま、1913年(大正2年)12月11日… 佐藤 志満(さとう しま、1913年(大正2年)12月11日 - 2009年(平成21年)7月23日)は、日本の歌人。福岡県出身。夫は佐藤佐太郎。昭和20年代後半の5年間の作品を収めた第一歌集「草の上」では、戦後の貧しい日常生活を抒情豊かに詠じた。歌誌「歩道」の発行に力を注ぎながら生涯にわたり精力的に作歌を続け、晩年には、文芸評論家梶木剛が「志満調」と呼んだ、自宅庭前を中心とする独自の歌風を確立した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日… 江口 きち(えぐち きち、1913年〈大正2年〉11月23日 - 1938年〈昭和13年〉12月2日)は、大正時代から昭和時代前期にかけての女流歌人。 河井酔茗と島本久恵に師事し、貧困の中で多くの歌を詠んだが最期は自殺した。「薄幸の天才歌人」「女啄木」と呼ばれた。ただし作風は啄木とは大きく異なり万葉調であった。 群馬県利根郡川場村大字谷地に、1913年(大正2年)11月23日に父熊吉、母ユワの長女として生まれる。父は博徒で生活能力がなく、兄廣寿は幼時の脳膜炎の後遺症で知的障害があった。母が飲食店を切り盛りして三人の子どもを育てた。川場村尋常高等小学校での学業成績は優秀だったが進学は諦めた。 1930年(昭和5年)2月から沼田の郵便局に勤めるが、6月3日に母が急逝したため帰郷し家族の世話のために家業を継ぐ。
小川博三(おがわ ひろぞう、1913年10月3日 - 197… 小川博三(おがわ ひろぞう、1913年10月3日 - 1976年1月17日)は、日本の都市計画家研究者・交通計画研究者・歌人。岩手大学教授・北海道大学教授を歴任。 岩手県生まれ。学生時代から短歌をよくして、歌誌「地中海」や「満州短歌」の同人として活動。1975年には「カルル橋」で第11回「短歌研究賞」を受賞した。 1937年(昭和12年)、北海道帝国大学工学部土木工学科卒。在学中の満州事変勃発を契機に大陸に志を抱いたという。満州や朝鮮へ実習をかねて訪れている。大学卒業後、南満州鉄道株式会社へ入社する。 1943年、現職のまま大東亜省嘱託として東南アジア諸国の交通実態調査を命じられ、翌1944年から1946年まで、ベトナム、カンボジア、タイ王国、マレーシア、ビルマ(ミャンマー)などで調査にあたる。
太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年)8月18日… 太田 静子(おおた しずこ 1913年(大正2年)8月18日 - 1982年(昭和57年)11月24日)は、滋賀県出身の歌人、作家。太宰治の愛人の一人。『斜陽』に材料を提供したことで知られている。 作家の太田治子は、太田静子と太宰治の娘。 滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町愛知川)にて、開業医太田守・きさの四女として誕生。実家は九州の大名の御典医の家系。叔父(きさの弟)は大和田悌二(逓信省次官で、退官後日本曹達社長、日本電信電話公社経営委員長)。愛知高等女学校(現:滋賀県立愛知高等学校)卒業後、東京の実践女学校家政科に進む。直後から口語短歌を作り、逗子八郎が主宰する「短歌と方法」に入る。1934年(昭和9年)、口語歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行。
高安 国世(たかやす くによ、男性、1913年8月11日 -… 高安 国世(たかやす くによ、男性、1913年8月11日 - 1984年7月30日)は、日本の歌人、ドイツ文学者、翻訳家。専門はリルケで、多くの作品を翻訳している。短歌結社「塔」の創設者。 父高安道成は医師、母やす子はアララギの歌人。三男高安醇は画家。伯父に高安月郊。作曲家・弘田龍太郎はいとこの夫。 大阪府大阪市道修町出身。 母の影響を受けて短歌を志し、アララギに入会、土屋文明に師事。1954年に『塔』を創刊する。 リアリズムに基礎を置きながらも、現実には存在しないものを表現の対象に求めるなど、常に新しい表現を求め続けた。 京都大学短歌会の顧問もつとめ、永田和宏や栗木京子を育てた。
岡路 市郎(おかじ いちろう、1913年(大正2年)8月11… 岡路 市郎(おかじ いちろう、1913年(大正2年)8月11日 - 2003年(平成15年)4月11日)は、日本の心理学者・俳人。専門は教育心理学。元・北海道教育大学学長。 滋賀県出身。1946年広島文理科大学 (旧制)心理学科卒。その後、1947年北海道大学法文学部助教授、1950年同法経学部助教授を経て、1952年(昭和27年)北海道学芸大学助教授に就任。1959年(昭和34年)同教授。1975年(昭和50年)北海道教育大学7代学長。1983年(昭和58年)北海道教育大学退官。同名誉教授。北星学園大学文学部教授。1988年(昭和63年)北星学園大学定年退職。駒澤大学保育専門学校招聘講師(1992年まで))。
古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日… 古沢 太穂(ふるさわ たいほ、1913年(大正2年)8月1日 - 2000年(平成12年)3月2日)は、俳人。本名は古沢 太保(ふるさわ たもつ)。「道標」主宰、新俳句人連盟会長、現代俳句協会顧問を歴任。第12回多喜二・百合子賞受賞。 富山県上新川郡大久保町(現・富山市)生まれ。生家は料理屋兼芸妓置屋。幼くして父を失い、一家は東京から横浜へ。法政大学商業学校(現在の法政大学中学校・高等学校)を経て、1938年、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科ロシヤ語学科卒業。その後結核のため療養生活に入る。療養所で俳句を勧められ、1940年、「馬酔木」を購読。のち加藤楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。
近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日… 近藤 芳美(こんどう よしみ、1913年〈大正2年〉5月5日 - 2006年〈平成18年〉6月21日)は、日本の歌人。男性。 本名は近藤 芽美(読み同じ)。戦後の歌壇を牽引する歌人として活動し、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持ち、ゼネコンや大学に籍を置く。 東工大建築科卒。「アララギ」に入会、土屋文明に師事。1948年刊行の『埃吹く街』は戦後の短歌の方向を樹立したものといわれている。戦争経験をもつ知識人の立場から時代状況を鋭く歌いつづけた。ほかに『黒豹』(1968年)など。 1913年、慶尚農工銀行(後の朝鮮殖産銀行)に勤務する父の赴任先だった朝鮮・慶尚南道の馬山で出生。
和知 喜八(わち きはち、1913年4月25日 - 2004… 和知 喜八(わち きはち、1913年4月25日 - 2004年10月23日)は、東京出身の俳人。東京府町田町(現町田市)生。中央大学法学部法学科卒、日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)に務める。1937年、「馬酔木」に投句。当初は樹峰と号した。1940年、加藤楸邨の「寒雷」創刊に参加。1952年、「寒雷」同人。1958年、職場俳句の仲間とともに「響焔」を創刊。1963年に休刊したが、1969年に復刊。1970年、「寒雷」清山賞受賞。1975年、「響焔」主宰に就任。1998年、高齢となったため「響焔」主宰を退き名誉主宰に就任。同年、現代俳句協会名誉会員。2004年、第4回現代俳句大賞受賞。
井本 農一(いもと のういち、1913年3月30日 - 19… 井本 農一(いもと のういち、1913年3月30日 - 1998年10月10日)は、日本の国文学者・俳人、お茶の水女子大学名誉教授。実践女子大学第8代学長で、勲二等瑞宝章受章者。 1913年、山口県新南陽市(現周南市)に生まれた。1933年、旧制成蹊高等学校文科甲類を卒業。1936年、東京帝国大学文学部国文科を卒業。 卒業後は、お茶の水女子大学教授をつとめた。1961年、学位論文『蕉風を中心としたる俳諧史の問題的研究』を東京大学に提出して文学博士号を取得。1976年にお茶の水女子大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も聖心女子大学教授として教鞭をとり、1984年からは実践女子大学第8代学長をつとめた。
田中 清太郎(たなか せいたろう、1913年3月30日 - … 田中 清太郎(たなか せいたろう、1913年3月30日 - 2000年6月3日)は、日本の英文学者、翻訳家、詩人、俳人。 東京生まれ。1936年東京帝国大学文学部英文学科卒業。 武蔵大学助教授、学習院大学助教授、1951年教授。1983年定年退職、名誉教授。1970年「D・H・ロレンス詩集」の翻訳により日本翻訳文化賞受賞。 専門はイギリスの詩、特にディラン・トマス。 俳人でもあり、日本の近代詩についての評論もある。
渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1… 渡辺 白泉(わたなべ はくせん、1913年3月24日 - 1969年1月30日)は、東京出身の俳人。本名威徳(たけのり)。 昭和初期の新興俳句運動において無季派(超季派)の俳人として活躍。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」など、戦争の本質を鋭く突いた「銃後俳句」と呼ばれる無季俳句が特に知られる。 東京市赤坂区青山(現・港区)生。本籍地は山梨県で、父は同地の地主の息子であったが青山で呉服店を営んでいた。白泉は長男で一人っ子だった。青南尋常小学校、慶應義塾普通部を経て、1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 16歳のとき正岡子規の『子規俳話』を読んで俳句に興味を持つ。大学時代の1933年、水原秋桜子の『俳句の本質』に啓発されて「馬酔木」に投句、翌年より「句と評論」にも投句。
石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18… 石田 波郷(いしだ はきょう、1913年(大正2年)3月18日 - 1969年(昭和44年)11月21日)は、愛媛県出身の日本の俳人。本名は哲大(てつお)。水原秋桜子に師事、『馬酔木』に拠ったのち、『鶴』を創刊・主宰。初期の青春性のあふれる叙情句から始まり、自己の生活を見つめる、人間性に深く根ざした作風を追求。加藤楸邨、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。昭和の第二次世界大戦前に流行した新興俳句運動を批判し、韻文精神の尊重を説き、切れ字を重視。戦中には結核を発病し、戦後は病と対峙する自身の生活を題材とする境涯俳句を詠み続けた。 愛媛県温泉郡垣生村大字西垣生に、父惣五郎、母ユウの次男として生まれる。
加藤 春彦(かとう はるひこ、1913年3月8日 - 199… 加藤 春彦(かとう はるひこ、1913年3月8日 - 1993年6月12日)は、愛知県愛知郡豊明村出身の俳人。『帯』主宰。『馬酔木』同人。 当時としては珍しいサラリーマンの一人息子として、1913年(大正2年)3月8日に愛知県愛知郡豊明村に生まれた。1930年(昭和5年)に旧制中学を卒業し、すぐに名古屋市役所に就職した。1957年(昭和32年)から5年間は名古屋市老人福祉施設「寿寮」(現在は民間に移管されて養護老人ホーム 名古屋市寿荘)の寮長を務め、その後は名古屋市高齢者職業紹介所所長を務めた。1968年(昭和43年)には定年を前に名古屋市役所を退職した。 水原秋桜子の句集『新樹』を読んだのがきっかけで俳句の世界に足を踏み入れ、1941年(昭和16年)には月刊俳句誌『馬酔木』に投句した。
和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月2… 和田 繁二郎(わだ しげじろう、1913年(大正2年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月16日)は、日本近代文学研究者、歌人。 京都府京都市生まれ。立命館大学法文学部国文学科卒。立命館中学校教諭、立命館大学予科教授、1949年(昭和24年)立命館大学助教授、1956年(昭和31年)同大学教授。1976年「近代文学創成期の研究 リアリズムの生成」で立命館大文学博士。1979年退任、名誉教授、大谷女子大学教授。1983年退職。1985年、勲三等瑞宝章受章。1999年、肝臓癌のため死去。 歌誌『ポトナム』同人。筆名・周三。小泉苳三に師事。門下に上田博など。
山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日… 山上 次郎(やまがみ じろう、1913年(大正2年)1月1日 - 2010年(平成22年)3月13日)は、日本の歌人・文筆家。別名「童馬堂人」。 愛媛県出身。愛媛県立三島中学校(旧制中学)を卒業後、農業従事のかたわら短歌を学んだ。1941年太平洋戦争に従軍しビルマにて負傷、1942年に帰還した。従軍時の歌集「弾雨に禊ぐ」が第一歌集となる。敗戦後、農民組合を結成し農民運動に参加した。1951年には愛媛県議会議員に当選し、以後12年間県政に参与した。その間、斎藤茂吉に関する著書を出版するとともに歌集を上梓するなど旺盛な文筆活動を続けた。1967年以降は文学・著述に専念し、正岡子規や斎藤茂吉の研究に没頭した。
小林 康治(こばやし こうじ 1912年11月12日 - 1… 小林 康治(こばやし こうじ 1912年11月12日 - 1992年2月3日)は、東京出身の俳人。 渋谷生まれ。青山学院中等部卒。1938年、根岸麦寸の「燈影会」で俳句を学ぶ。1940年、「鶴」に入会し石田波郷に師事。1943年応召、1945年傷病兵として帰還。1953年、「鶴」復刊号発表の「四季貧窮」48句にて注目を浴びる。同年「鶴」同人、第1回鶴俳句賞受賞。1963年、『玄霜』にて第3回俳人協会賞受賞。1974年、「泉」を創刊・主宰。1980年、「泉」を辞し「林」を創刊・主宰。代表句「たかんなの光りて竹となりにけり」他。波郷の唱導する韻文精神を尊重し骨格のたしかな句を詠んだ。句集に『四季貧窮』『玄霜』『華髪』『叢林』『存念』『虚実』など。
平野 峯郎(ひらの みねろう、1912年9月19日 - 20… 平野 峯郎(ひらの みねろう、1912年9月19日 - 2002年12月22日)は、日本の歌人。千葉県君津郡貞元村生まれ。北原白秋が主宰する多磨短歌会の会員などを経て、1952年より山本康夫に師事。君津市の鹿野山には峯郎の短歌を刻んだ歌碑が建てられている。 1912年、千葉県君津郡貞元村(現・君津市貞元)生まれ。貞元小学校および農業補習学校卒。農村地帯に生まれ、自らも農業を生業としたが、一方で1928年ごろから作歌活動を開始し、雑誌『千葉県青年処女』(千葉県連合青年団)の歌壇(伊藤公平選)や、千葉県農会機関誌『愛土』の歌壇(鈴木康文選)に短歌を投稿する。その後、1940年に北原白秋が主宰する多磨短歌会(1935年結成)の会員となる。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 19… 片山 桃史(かたやま とうし、1912年8月23日 - 1944年1月21日)は、兵庫県出身の俳人。本名・隆雄。 黒井村(現・丹波市春日町)生まれ。酒屋の次男。旧制柏原中学校(現・兵庫県立柏原高等学校)を卒業後、鴻池銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)に入行。俳句は旧制中学在学中よりはじめ、「鬼灯」誌で西山泊雲に師事、「ホトトギス」を経て、1935年に日野草城の「旗艦」創刊に同人参加。1937年8月応召、中国大陸にて従軍しながら戦地で詠んだ前線俳句を本国に送り「旗艦」に発表した。1940年帰国、句集『北方兵団』(三省堂 俳苑叢刊)を刊行。1941年に再度応召し、東部ニューギニアで戦死した。戦後、宇多喜代子が遺稿などを集め、1984年に『片山桃史集』を編集刊行している。
多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 198… 多田 裕計(ただ ゆうけい、1912年8月18日 - 1980年7月8日)は、日本の小説家・俳人。福井県福井市出身。 旧制福井中学校、旧制第二早稲田高等学院、早稲田大学文学部仏文科卒業。横光利一に師事し、石塚友二らと交流する。高等学院時代は、八木義徳、辻亮一、中村八朗らと同人誌「黙示」を創刊。 1940年より上海へ渡り、上海中華映画に勤務、1941年、『大陸往来』に寄せた「長江デルタ」で第13回芥川賞受賞。 1945年福井に疎開するが空襲にあい、三国町(現坂井市)に移住し、三好達治らと交流を持つ。 1947年福井県社会教育委員を務め、福井県文化協議会の設立に参加。「蛇師」で大衆文芸懇話会賞佳作。
菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日… 菅原 独去(すがはら どっこ、1912年〈大正元年〉8月4日 - 1990年〈平成2年〉12月20日)は、日本の俳人・僧侶。境港市光祐寺住職。 本名は真哲(しんてつ)。鳥取県倉吉市生まれ。昭和9年、仏教専門学校(現佛教大学)卒業。1935年(昭和10年)より句作をはじめ、1937年(昭和12年)に『ホトトギス』に初入選。その後、高浜虚子に師事し、1954年(昭和29年)よりホトトギス同人となる。1963年(昭和38年)より、句誌『城』の選者を務めた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 201… 古川 哲史(ふるかわ てつし、1912年5月8日 - 2011年8月22日)は、日本の倫理学者、歌人。東京大学名誉教授、国際武道大学名誉教授。日本弘道会元副会長。
中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月1… 中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月11日- 1988年(昭和63年)3月27日)は、新潟県出身の歌人。長岡工業高等専門学校名誉教授。コスモス短歌会新潟県支部長。 新潟市刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。 町立小千谷尋常小学校から旧制県立小千谷中学校を経て、國學院高等師範学校を卒業した。卒業後は水戸工業学校で教員(国語・漢文)となる。 1938年、歩兵第58連隊少尉として支那事変に従軍した。除隊後、新潟県立糸魚川中学校で教職に復帰する。 1945年7月に再度の招集を受け、広島県からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没する。
森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4… 森村 浅香(もりむら あさか、1912年〈明治45年〉3月4日 - 2011年〈平成23年〉8月6日)は、歌人。夫は作家の豊田三郎と、長女は森村桂。 群馬県伊勢崎市の旧家の生まれ。東京府立第五高等女学校卒。女子高等学園で西角井正慶に和歌の教えを受ける。同人誌『海石榴』を発行。1946年『鶏苑』に参加。1953年加藤克巳を中心に『近代』を創刊。1954年に『古今』に入会。1960年北沢郁子らと同人誌『藍』を創刊する。現代歌人協会会員。
宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2… 宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2009年1月2日)は、日本の歌人。口語自由律短歌(いわゆる新短歌)の隆盛に努めた。短歌雑誌「未来山脈」代表。京都歌人協会委員長。新短歌人連盟会長。現代歌人協会会員。 滋賀県坂田郡息長村箕浦(現在の米原市)、米原駅近くの母の生家で生まれる。2歳の時に、警察官だった父を殉職で失う。その後、教職についた母に育てられる。 昭和6年、県立彦根中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)時代、歌人の平井乙磨の薦めで前田夕暮の「詩歌」の会員となり、矢代東村の選で「詩歌」に初めて短歌5首が掲載された。横浜の旧制横浜専門学校(現在の神奈川大学)に進学するため関東に移り、中野嘉一や香川進らと出会う。
田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 199… 田中順二(たなか じゅんじ、1912年2月14日 - 1997年1月16日)は、日本の歌人、国文学者。 東京深川区生まれ。京都帝国大学国文科に入学し、「短歌草原」「香蘭」(村野次郎主宰)を経て、1933年(昭和8年)より吉澤義則が立ち上げた歌誌『ハハキギ』同人の編集に参画。なお吉澤没後、1962年より『ハハキギ』を引き継いで主宰した。 1936年(昭和11年)京都帝国大学国文科卒。卒業後、不況のため就職難先の確保に苦労したが、滋賀県立膳所中学校で教員を4年間務めた後、京都府立第一中学校で教員を務めた。この際、『ハハキギ』で交流があった日本文学研究者、里井陸郎に借家を用意してもらっている。その後、同志社女子大学教授、1982年(昭和57年)定年、奈良大学教授。
福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳… 福田廣宣(ふくだ ひろのぶ、1912年1月5日 - 没年不詳)は、日本の歌人、センテナリアン。 福岡県浮羽郡田主丸町(現:久留米市)生まれ。1932年、長崎高商(現:長崎大学経済学部)在学中に「西陵短歌」を主宰創刊すると共に、土田杏村、清水信らの「短歌建設」に参加する。卒業後、三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル)及び同系列会社に勤務しながら、1928年より新短歌(口語自由律短歌)を創り続ける。「新短歌」「芸術と自由」同人。 短歌新聞社から「新短歌作品賞」、「新短歌功績賞」を受賞。新短歌社から「新短歌功績賞」を受賞。 2012年に100歳を迎えたことが報告されていた。兵庫県芦屋市在住していた。
吉川 金次(よしかわ きんじ、1912年(明治45年) - … 吉川 金次(よしかわ きんじ、1912年(明治45年) - 1996年(平成8年))は、日本の俳人。鋸職人、日本の鋸研究家。第十四回文化人間賞受賞。栃木県出身。 1912年に栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)で生まれる。実家は鋸鍛冶をしており、金次も氏家尋常高等小学校高等科卒業後は、東京に出て鋸の目立て(すり減った鋸やヤスリなどの目を鋭くする)業を営むようになった。また狂言師の野村万蔵に師事し、能面彫刻なども手がけている。 かつて氏家を訪れた河東碧梧桐の影響もあり、1936年に碧梧桐去って以降の中塚一碧楼が主宰する『海紅』の同人となり、自由律俳句を詠むようになる。金次の自由律は層雲出身で後に新俳句人連盟を立ち上げる栗林一石路や橋本夢道のようなプロレタリア俳句が多く、碧門の多い海紅では異色の作風であり、一碧楼にとっても異質な「愛弟子」であった。
光岡 良二(みつおか りょうじ、1911年11月23日 - … 光岡 良二(みつおか りょうじ、1911年11月23日 - 1995年4月29日)は、ハンセン病の歌人。 兵庫県生まれ。東京帝国大学文学部哲学科2年修了時にハンセン病を発病、1933年、多磨全生園に入院、北条民雄と知り合う。1936年、山室のぶ子(光岡芳枝)と結婚。戦中戦後一時社会復帰するものの、1948年再発し、再入院。文芸活動のほか、全患協などで活動。多磨全生園の生活記録を集めた『倶会一処 患者が綴る全生園の七十年』の編纂の中心となった。厚木叡(あきら)、岸根光雄の筆名を用いた。