井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 -… 井上 白文地(いのうえ はくぶんじ、1904年2月24日 - 1946年5月行方不明)は、福井県出身の俳人。 出生名・岸本久七。敦賀生まれ。1906年、報恩寺住職の養子となり、井上隆證(りょうしょう)と改称。法華寺学林、第三高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部哲学科を卒業。その後関西大学、立命館大学などで講師として教鞭を取る。 俳句は高校時代にはじめ、「京鹿子」「ホトトギス」「馬酔木」に投句。京大三高俳句会を復興し「京大俳句」を平畑静塔らと創刊。時事的な句や評論を執筆。当時の句に、反戦的と思われる「往く人の母は埋れぬ日の丸に」(1937年)、「我講義軍靴の音にたゝかれたり」(1937年)等がある。
西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は… 西条 皎(さいじょう あきら、1904年 - 1972年)は、日本の詩人、俳人。また、居住地で村長を務めた。 滋賀郡滋賀郡真野村(現・大津市真野)に生まれる[要出典]。1927年に東海詩人協会に加わり、『東海詩集』に「軍艦」、「大佛」、「飛行船」、「仁王」等を発表。井口蕉花、高木斐瑳雄、野々部逸二、中西悟堂らの詩誌『青騎士』に「草屋詩情」等を発表。東京で佐藤惣之助と同人誌をつくる。また、岐阜市の詩魔詩人会とも交流があった。[要出典] 戦後、真野村最後の村長を務め、1964年には堅田町立真野小学校(現・大津市立真野小学校)の校歌を作詞した[要出典]。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
手代木 啞々子(てしろぎ ああし、1904年 - 1982年… 手代木 啞々子(てしろぎ ああし、1904年 - 1982年12月5日)は、現代俳句の俳人。農民俳句の実践者と評される。本名は、手代木茂守(てしろぎ しげもり)。「合歓」主宰。金子兜太の「海程」同人。妻は、手代木かよ(俳号: 胆振かよ)[出典無効]。 父・円治郎 (志賀家)、母・ミスの長男として北海道有珠郡伊達村大字紋鼈村(現在の伊達市)で誕生した。1918年(大正7年) 函館區立寶小学校高等科を卒業し、同年4月函館商業学校に入学した(旧24回生)。後に「この頃から新聞や雑誌に投稿していて、よく俳句が採用されのめり込んでいった。」と語っている。 1923年(大正12年)、大倉高等商業学校(現在の東京経済大学)へ入学した。
星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月1… 星野 立子(ほしの たつこ、1903年(明治36年)11月15日 - 1984年(昭和59年)3月3日)は、昭和期の俳人。高浜虚子の次女。虚子に師事し、初の女性主宰誌『玉藻』を創刊・主宰した。虚子一族で特に評価の高い人物。女性俳人では同時期に活躍した中村汀女・橋本多佳子・三橋鷹女とともに四Tと称された。星野立子の名を冠する俳句賞として、星野立子賞・星野立子新人賞が設けられている。 東京府麹町区富士見町(現・東京都千代田区)に生まれる。父高浜虚子、母いとの次女。7歳のとき鎌倉に移る。1924年、東京女子大学高等学部卒業。1925年に作家で『文学界』主宰星野天知の息子、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚、『ホトトギス』発行所および文化学院に就職する。
芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日… 芝 不器男(しば ふきお、1903年(明治36年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月24日)は、日本の俳人。「天の川」の代表作家として活躍、「ホトトギス」でも四S以降の新人として注目されたが、句歴四年、26歳で夭折した。愛媛県出身。 愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町)で生まれる。父・来三郎、母・キチの四男。父は教員や村長を歴任し俳句も作った。「不器男」の命名は『論語』の「子曰、君子不器」(子曰く、君子は器ならず)による。1920年(大正9年)、宇和島中学校(一級上に富澤赤黄男がいた)を卒業し、松山高等学校に入学。 高校では山岳部に所属、日本アルプスを踏破した。 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科に入学。
逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月… 逗子 八郎(ずし はちろう、本名:井上 司朗、1903年2月23日 - 1991年7月7日)は、日本の歌人、情報局官僚。新短歌運動を推進し、1929年、短歌誌「短歌と方法」を主宰した。 立教中学校から第一高等学校 (旧制)を経て、1924年、東京帝国大学文学部国文科に入学。在学中、逗子開成中学校の英語と国語と漢文の講師を務め、逗子開成学園の校歌を作詞している。弁護士である義兄の切望その他で、1925年、東京帝国大学法学部政治学科に入り直し、1928年に卒業。 朝日新聞社と安田銀行を受験し、第一志望の前者で不採用となったため後者に入る。1939年、内閣情報部情報官に任官、情報局第五部第三課長、第二部文芸課長を歴任するが、1944年5月、中央公論社と改造社に対する情報局からの自発廃業勧告に反対し、内務省系の上司たちから睨まれるようになる。
駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月… 駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月18日 - 1978年(昭和53年)1月2日)は、大正・昭和期に活動した、石川県出身の女性運動家、政治家、歌人。 1951年(昭和26年)に女性初の石川県議会議員となり、以降5期25年にわたって在任した。 当時金沢市議会議員(後の第6代金沢市長)であった飯尾次郎三郎の長女として生まれる。 1918年(大正7年)、石川県立金沢第一高等女学校(現在の金沢二水高等学校)を卒業。 1920年(大正9年)に法学士の駒井粂吉と結婚したが、1934年(昭和9年)に死別した。夫の粂吉は、読書家で政治に関心を持っており、このことが妻の志づ子にも影響を与えたとされる。
前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 19… 前川 佐美雄(まえかわ さみお、1903年2月5日 - 1990年7月15日)は、昭和期の歌人。妻の前川緑、長男の前川佐重郎も歌人。五味康祐夫人千鶴子は妻の妹。 奈良県南葛城郡忍海村(現葛城市忍海)の素封家の長男として生まれる。父は佐兵衛、母は久菊。祖父佐重良は一族の長老として分家にも采配を振るっていた。 小学校六年で初めて短歌を作り、14歳で奈良の儒者越智黄華の漢学塾に学ぶ。1921年、下淵農林学校卒業。同年竹柏会「心の花」入会、佐佐木信綱に師事する。1922年に上京して東洋大学専門部倫理学東洋文学科に入学。木下利玄、石槫茂(後の五島茂)ら「心の花」の精鋭が集まる「曙会」にも参加し、「心の花」の新鋭として注目を浴び始める。
橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年… 橋 閒石(はし かんせき、1903年2月3日 - 1992年11月26日)は、石川県出身の俳人、英文学者。神戸商科大学名誉教授。俳誌「白燕」(びゃくえん)創刊・代表。本名泰来(やすき)。 金沢市十三間町に生まれる。本名の泰来は、石圃または閒遊と号した書家であった祖父・往來(ゆきき)の名からとっており、のちの俳号閒石もこの祖父の号に由来する。金沢二中(現・石川県立金沢錦丘中学校・高等学校)、四高を経て京都帝国大学英文科卒。中学の後半からたびたび病に臥せるようになり、病床で俳書を読んだことから独学で俳句を学ぶ。 1928年、京大卒業し和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)教諭に赴任。1931年、新設された兵庫県立神戸高等商業学校(兵庫県立神戸商科大学を経て、現・兵庫県立大学)教授となり神戸に移住。
岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 199… 岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 1996年3月7日)は、歌人、大東出版社代表。 広島県江田島海軍兵学校官舎に生まれる。1922年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒業。1924年東洋大学倫理教育部入学。1925年10月大東出版社創立者、浄閑寺第24世岩野真雄と結婚。同11月仏教学者・高楠順次郎に師事する。1930年1月與謝野寛・晶子夫妻に師事し、新詩社同人となる。1942年9月與謝野晶子のあとを受け、文化学院にて短歌を指導。『明星』の後継誌『浅間嶺』を主宰。1948年1月法学者であり仏教研究者であった小野清一郎の聖典講座に参加。1968年夫の岩野真雄が死去、大東出版社の代表となる。
渋田 黎明花(しぶた れいめいか、1902年11月12日 -… 渋田 黎明花(しぶた れいめいか、1902年11月12日 - 1978年10月10日)は、昭和時代日本の小説家、作詞家、俳人。本名は渋田 喜久雄(しぶた きくお)で、作詞家としては戦前・戦後を通じて多数のペンネームを使い分けていた。 1902年(明治35年)、福岡県糟屋郡席内村(現在の古賀市)庄に生まれる。吏員だった父親の転勤により、新潟県西蒲原郡赤塚村(現在の新潟市西区赤塚)で幼少の一時期を過ごした。 福岡へ戻った後は官営八幡製鐵所付属の幼年職工養成所を卒業し、旋盤工を務めていたが文芸を志して上京、1930年(昭和5年)に『サンデー毎日』誌の大衆文芸へ応募した時代小説『変幻花鳥図』が佳作を受賞、同年5月1日号に掲載される。
金田 千鶴(かなだ / かねだ ちづ、1902年11月 - … 金田 千鶴(かなだ / かねだ ちづ、1902年11月 - 1934年8月17日)は、昭和初期のアララギ派の女流歌人。 長野県下伊那郡泰阜村平島田の庄屋の家に生まれ、長野県立飯田高等女学校(後の長野県飯田風越高等学校の前身校の一つ)に学ぶ。卒業後に飯田町の寺に嫁いだが、程なくして離婚し、上京して帝国女子専門学校(後の相模女子大学の前身)に学ぶ。 在学中に『アララギ』の選者であった岡麓と知り合い、師事する。 1924年、小学校時代の教師だった彫刻家の倉沢興世と再会し、恋愛関係となるが、程なくして結核に罹患し、帰郷することとなった。 帰郷後も作歌を続け、1929年には『アララギ』の準同人となり、自然や人間関係を主題としたもののほか、昭和恐慌下で困窮する山村の姿を捉えた「社会詠」も手掛けた。
岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月1… 岩津 資雄(いわつ もとお、1902年(明治35年)10月16日 - 1992年(平成4年)3月13日)は、日本の歌人、国文学者。三重県宇治山田市出身。号は不言舎(いわずのや)。斎藤拙堂の外孫である岩津海三郎の長男。 三重県第一中学校(現:三重県立津高等学校)在学中に稲森宗太郎らと文芸活動を始める。1921年早稲田高等学院に入り、早稲田大学国文科に進む。在学中より窪田空穂に師事し、稲垣達郎、尾崎一雄、都筑省吾らと短歌文芸誌『槻の木』創刊に参加。1933年第二早稲田高等学院講師、49年早大教授。73年定年退任、名誉教授。
和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日… 和達 清夫(わだち きよお、1902年(明治35年)9月8日 - 1995年(平成7年1月5日))は、日本の地球物理学者・歌人。専門は、気象学・地震学。理学博士(東京帝國大学・1932年)。初代気象庁長官。深発地震の存在を証明し、分布を指摘してプレートテクトニクスに先鞭をつけた。 愛知県名古屋市生まれ。息子に物理学者・和達三樹がいる。 西須諸次(さいす もろじ)の名でエッセーを執筆した。 天王寺中学、東京開成中学、一高を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝國大学理学部物理学科を卒業。中央気象台に入り、1932年、東京帝國大学から理学博士の学位を取得する。 1947年(昭和22年)第6代中央気象台台長につき、1956年(昭和31年)に組織改変により初代気象庁長官に就任。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
副島 民雄(そえじま たみお、1902年5月20日 - 19… 副島 民雄(そえじま たみお、1902年5月20日 - 1975年7月10日)は、日本の哲学者、歌人。妻・百合子は太田秀穂の長女。 佐賀県出身。1927年東京帝国大学文学部哲学科卒。1962年「プラトンの後期における生成について」で京都大学文学博士。熊本大学教授、1963年九州大学文学部教授。1967年定年退官、お茶の水女子大学教授、日本ルーテル神学大学教授を務めた。古代ギリシア哲学専門で、『水甕』所属で短歌を詠んだ。
吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 19… 吉田 正俊(よしだ まさとし、1902年4月30日 - 1993年6月23日)は、明治期から昭和期にかけての歌人、実業家。 福井県福井市出身。旧制福井中学校(現福井県立藤島高等学校)、東京帝国大学法学部卒業。石川島造船所自動車部門に入社し、のちにいすゞ自動車専務取締役や相談役を務めた。1974年、勲三等瑞宝章受章。東京都杉並区天沼に居を構えた。 歌人としては1925年「アララギ」に入会、土屋文明に師事し、のち選者、発行人。歌誌「柊」選者。高度経済成長期を背景に写実主義を貫いた。1965年『くさぐさの歌』で第11回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人クラブ賞)、1976年『流るる雲』で第27回読売文学賞、1988年『朝の霧』で第23回迢空賞受賞。
山口 茂吉(やまぐち もきち、1902年4月11日 - 19… 山口 茂吉(やまぐち もきち、1902年4月11日 - 1958年4月29日)は、昭和期の日本の歌人。 兵庫県多可郡杉原谷村清水(現・多可町)に生まれる。1924年(大正13年)に中央大学商学部を卒業し、明治生命東京本社に入社。当時、会社の幹部として作家の水上瀧太郎がいて、その感化を受けることが多かったという。同年「アララギ」入会、島木赤彦に学び赤彦が没後は斎藤茂吉に師事。斎藤茂吉・土屋文明の助手として「アララギ」の編輯・校正に携わることになる。1944年(昭和19年)には明治生命を辞職し、株式会社住友本社に入社する。1946年(昭和21年)に東京歌話会結成。1948年「アザミ」創刊主宰。1957年(昭和32年)以降は『斎藤茂吉全集』の編集校訂に携わる。
峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1… 峯村 英薫(みねむら ひでしげ、1902年3月24日 - 1991年3月21日)は、日本の経営者、歌人。 長野県小県郡富士山村(現在の上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、旧制松本高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業。 加島銀行での勤務を経て、野村銀行に入行し、大和銀行専務を経て、1959年に副頭取に就任し、1963年に会長に就任し、1968年から顧問を務めた。積水化学工業取締役なども歴任した。 1923年に太田水穂に師事し、歌人としても活躍し、「峯村英薫歌集」がある。 1965年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章した。 1991年3月21日急性心不全のために死去。
深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 … 深川 正一郎(ふかがわ しょういちろう、1902年3月6日 - 1987年8月12日)は、愛媛県出身の俳人。 宇摩郡上山村(現・四国中央市)に生まれる。11歳で両親と死別し祖父母に育てられる。川之江二洲学舎(戦後は愛媛県立川之江高等学校定時制に引き継がれる)を卒業。在学中より俳句・短歌をたしなむ。 1924年、文藝春秋に入社。1930年、日本コロムビア編集長に就任。翌年、俳句朗読の録音で高浜虚子と知り合い師事する。のち「ホトトギス」同人。1949年「冬扇」を創刊・主宰。1973年、妻の健康のため「冬扇」を終刊。 1987年、「ホトトギス」同人会長となり、また日本伝統俳句協会設立に伴い初代副会長に就任。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1… 森竹 竹市(もりたけ たけいち、1902年2月23日 - 1976年8月3日)は、昭和時代の歌人。違星北斗やバチェラー八重子とともにアイヌ三大歌人に数えられる。筑堂と号する。 北海道白老郡白老のコタンに父エヘチカン、母オテエの長男として生まれる。父の急逝により家は窮乏におちいり、9歳から漁場で働くようになる。1915年に白老第二尋常小学校を卒業後、石狩・厚田・臼谷(小平町)・留萌の鰊漁場に出稼ぎに行く。白老郵便局長・満岡伸一の好意により1917年から郵便局に勤める。1919年に白老駅夫を拝命し、正職員となるため勉学に励む。1923年に札幌鉄道局雇員採用試験に合格。1927年に札幌鉄道局雇員を拝命し、以後は追分・佐瑠太(富川)・苫小牧・静内に貨物掛として転勤する。
皆吉 爽雨(みなよし そうう、1902年2月7日 - 198… 皆吉 爽雨(みなよし そうう、1902年2月7日 - 1983年6月29日)は、福井県出身の俳人。本名・大太郎。福井市上宝永町に生まれ、丸岡町、三国町に育つ。福井中学校(現福井県立藤島高等学校)卒業。1919年、住友電気工業に入社。「ホトトギス」に投句し高浜虚子に師事する。1922年、「山茶花」創刊に参加。1936年、「山茶花」選者。1945年に上京、1946年に「雪解」を創刊・主宰。1967年、句集『三露』などの功績より第1回蛇笏賞受賞。1979年、勲四等旭日小綬章受章。俳人協会副会長を務めた。墓所は東京都調布市の深大寺。 孫の皆吉司は俳人、画家。
下村 非文(しもむら ひぶん、1902年2月2日 - 198… 下村 非文(しもむら ひぶん、1902年2月2日 - 1987年8月13日)は、福岡県出身の俳人。本名利雄。 築上郡(現豊前市)生。東京大学経済学部卒、台湾銀行に勤務。終戦後に引揚げ、関西に住み証券業の要職を歴任。俳句は1926年、社内句会からはじめ、松本たかしに師事。1949年「ホトトギス」同人。1964年、田村木国の死去後「山茶花」主宰を継承。非文は「山茶花」外部の人間であったが、高浜年尾と阿波野青畝の推挙により主宰についた。非文の主宰により、「山茶花」の勢力は飛躍的に増大し若手が多く育った。1978年、関西俳句友好訪中団を結成。旅行、登山を好み大景を詠むことを得意とした。代表句「赤富士や百鳥晨をよろこべる」「夕焼けのヒマラヤ一座一座消え」など。
五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または… 五所 平之助(ごしょ へいのすけ、1902年1月24日または2月1日 - 1981年5月1日)は、日本の映画監督、脚本家、俳人。日本最初の国産トーキー映画『マダムと女房』の監督として有名である。本名は五所 平右衛門(ごしょ へいえもん)。俳号は五所亭。 東京市神田区鍋町(現・千代田区内神田3丁目)に、「豊前屋」という大店の乾物問屋を営む父・平助の妾腹の子として生まれる。生みの母は新富町で芸者をしていた。5歳の時に長男が亡くなり、母のもとを離れて後継ぎにされた。1916年に慶應義塾商工学校に入学する。学生時代には俳句に没頭していた。 1921年、歩兵第1連隊に志願入隊し、見習士官で予備となる。1923年、慶應義塾商工学校卒業後、城戸四郎との出会いがきっかけで、父の友人の息子である島津保次郎の口添えもあって、松竹蒲田撮影所へ入社する。
杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)… 杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)1月7日 - 1989年(平成元年)4月26日)は、日本の実業家、俳人である。 京都の生まれ。大阪商科大学高商部(現在の大阪市立大学)卒業後、上京し三越に入社し勤務した。その後京都に戻り、千葉県に出店していた奈良屋の経営に携わり、本店移動に携わった。1937年(昭和12年)には同社の社長に就任し、その後はニューナラヤに商号変更して古巣の三越と連携しながら会長を歴任した。 後に千葉県商工会議所連合会の会頭を務め、千葉県美術会及び1958年(昭和33年)には日本対がん協会の千葉県支部の設立(後に副会長に就任)にも携わった。また北柿の俳号で「原人」を主宰し、多くの句集を発行した。
北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)… 北見 恂吉(きたみ じゅんきち、1902年 - 1990年)は、日本の神官、歌人。 本名・鈴木重道。北海道出身。余市の神社の息子に生まれる。小樽中学校で二年後輩の伊藤整に、通学列車の中で島崎藤村詩集を教え、影響を与えた。伊藤の自伝的小説『若い詩人の肖像』に、本名が実名で登場する。 伊勢の神宮皇學館本科を卒業して、神宮文庫に勤務。根岸短歌会系の五更会に入り、同誌の編集発行を担当、岡麓に師事して短歌も詠んだ。埼玉県立久喜高等女学校教諭を6年勤めたのち、1934年に帰郷して神官となる。1937年より朝鮮神宮主典として京城に赴任して朝鮮総督府祭務官となるが、本州勤務を希望し福島県の伊佐須美神社宮司となり、そこで敗戦を迎える。
横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1… 横山 武夫(よこやま たけお、1901年12月15日 - 1989年8月22日)は昭和時代日本の歌人、作詞家。元青森県副知事、青森県立図書館館長。 1901年(明治34年)、青森市で日本鉄道(のち鉄道院→鉄道省を経て国鉄)職員の家庭に生まれる。1915年(大正6年)に有志で短歌誌『樹焔』を創刊し若山牧水、太田水穂らの寄稿・指導を受けた。旧制青森中学校を経て1924年(大正13年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。青森へ帰郷後、県内の旧制中学校各校で教員を務める傍ら1928年(昭和3年)に短歌誌『羅漢柏』(アスナロ)を創刊、自ら主宰する。 1946年(昭和21年)に旧制青森中学校校長を退職後、県教育次長を経て津島文治知事に請われ、副知事に就任する。
鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月1… 鬼頭 白雨(きとう はくう、1901年(明治34年)11月16日 - 1977年(昭和52年)10月4日) は、三重県津市出身の歌人。 その後に白駒の歌誌「ROVE」と合同し、「日輪」と改題して発刊したが当局の圧力を受け創刊即終巻となった。(伊勢平野 三重歌壇回顧録より) 「歌人稲森宗太郎」年譜によると、当時の一中(現 津高等学校)には伊賀出身の稲森宗太郎と同時代に鬼頭白雨も在学しており、中谷太郎、岩津資雄、城多又兵衛、後藤義之進らがおり、一級下には寺崎浩、中谷悌吉。また二級上には文学を志す中谷孝雄がいた。在学中には岩津資雄らと合同歌集「青白き薔薇」を発刊とあり、鬼頭白雨とも親交が深かったことが想像できる。
山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月… 山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の俳人。京都府京都市出身。本名は山口新比古(やまぐち ちかひこ)。 高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。大正11年、初めて虚子に会い、俳号を「誓子(ちかひこ)」から「誓子(せいし)」と改めた。
秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1… 秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1977年7月25日)は、日本の俳人。神奈川県横浜市出身。本名は不二雄。前号は東京三(ひがし きょうぞう)。別号に秋元地平線。島田青峰に師事し「土上」「天香」に参加。新興俳句運動に加わり、京大俳句事件に連座して投獄される。戦後は「天狼」参加を経て「氷海」を創刊・主宰。劇作家の秋元松代は妹。息子の秋元近史は『シャボン玉ホリデー』を手がけたテレビディレクター・プロデューサー。 横浜市中区元町生まれ。漆器の輸出商の次男で、長男は不死男が生まれた日に病没。他に姉一人、弟・妹が二人ずついたが、父は不死男が13歳のときに病没。以後母親が和裁の賃仕事や夜店の行商をして家計を支えた。
高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - … 高崎 正秀(たかさき まさひで、1901年10月16日 - 1982年3月2日)は、富山県生まれの国文学者、万葉学者、歌人。國學院大學名誉教授。國學院大學栃木短期大学名誉学長。文学博士。 折口信夫に師事(著書『折口学への招待』(桜楓社)がある)、折口信夫の五博士のうちの一人である。著作は『高崎正秀著作集』(桜楓社、全8巻、1971年)にまとめられている。
熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、190… 熊谷 登久平(くまがい とくへい、本名:熊谷 徳兵衛、1901年10月2日 - 1968年11月24日)は、日本の洋画家、歌人。岩手県出身。 愛称は「とくさん」「熊公」「十九平/とくべえ」。 1901年(明治34年)10月2日、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。 1925年(大正14年)、中央大学商学部を卒業。学生時代に川端画学校に入り、藤島武二、富永勝重の指導を受ける。1924年(大正13年)修了。 1926年(大正15年)ごろ、長谷川利行を識り、親交を結ぶ。 1927年(昭和2年)、長谷川利行と二人展(反調和会展)を上野の山、言問通り沿いの額縁屋彩美堂と大地堂(木秋社)を会場として開催(企画段階では松尾恒夫(詳細不明、戦前の白日会展と1930年協会入選者に名がある)を含む三人展)。
五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 198… 五味 保義(ごみ やすよし、1901年8月31日 - 1982年5月27日)は、日本の歌人・万葉学者。末弟は万葉学者の五味智英。長野県下諏訪町出身。 旧制諏訪中学(現・長野県諏訪清陵高等学校)、東京高等師範学校文科を経て、京都帝国大学国文科卒業。中学時代より叔母のアララギ派詩人・五味えい、同郷の島木赤彦の影響を受け、短歌の道を志した。1929年上京後、齋藤茂吉、土屋文明の指導を受けながら、アララギの中興や、歌誌「アララギ」の発行に携わり、特に戦後は、世田谷区奥沢の自宅を「アララギ」発行所として専念した。数多くの学校で教壇に立ち、東京第三師範学校や日本女子大学の教授も勤めた。1953年から1982年まで信濃毎日新聞歌壇撰者。
山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月3… 山崎 敏夫(やまざき としお、1901年〈明治34年〉7月30日 - 1978年〈昭和53年〉4月3日)は、日本の歌人・国文学者。愛知県立大学元学長、同大名誉教授。位階は従三位。勲二等瑞宝章受章。 東京出身。第八高等学校卒、1926年京都帝国大学文学部国文科卒。八高時代石井直三郎に師事し、歌誌「青樹」を経て「水甕」(尾上柴舟)所属。愛知県立第一高等女学校(愛知県立明和高等学校の前身の一つ)校長などを経て、愛知県立女子大学教授、1964年学長、1966年愛知県立大学学長を務めた。1969年定年退官、名誉教授となり、椙山女学園大学短期大学部教授を務め、1977年退職。1972年勲二等瑞宝章受章。1978年死去。
伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 19… 伊藤 公平(いとう こうへい、1901年7月28日 - 1984年3月9日)は、日本の歌人、随筆家、小説家、教員。千葉県印旛郡八生村押畑生まれ。吉植庄亮に師事。千葉県歌人クラブでは創設以来、事務所代表を長年務めた。また、出身地である成田市をはじめ、各地で短歌教室を開き指導を続け、後進に大きな影響を与えたと評価される。 1901年、千葉県印旛郡八生村押畑(現・成田市押畑)に父総平、母よねの長男として生まれる。父の総平も歌人であった。少年時代より体が弱く、文学や絵画に親しむようになる。1919年、成田中学校(現・成田高等学校)を卒業して、國學院大學に進学。大学で佐佐木信綱、折口信夫、武田祐吉らの講義を受けて文学的素養を深めたが、同時期に絵画に傾倒し、川端画学校で油絵を学ぶ。
中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7… 中村 草田男(なかむら くさたお、1901年〈明治34年〉7月24日 - 1983年〈昭和58年〉8月5日)は、日本の俳人・国文学者。成蹊大学名誉教授。本名は中村 清一郎(なかむら せいいちろう)。 中国廈門出身。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。次世代の金子兜太などに多大な影響を与えた。忌日は「草田男忌」として、季語になっている。 清(現中国)福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。
日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月1… 日野 草城(ひの そうじょう、1901年(明治34年)7月18日 - 1956年(昭和31年)1月29日)は、日本の俳人。東京都出身。本名は克修(よしのぶ)。 『ホトトギス』で学んだ後、『旗艦』を創刊、男性が眼差す女性のエロスを主題とした句や無季俳句を作り、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は『青玄』を創刊・主宰し、一転して静謐な句を作った。 東京市下谷区上野山下町(現在の東京都台東区上野)に生まれる。1905年より朝鮮に移住し、京城(現在のソウル特別市)の小学校を経て京城中学校(現在のソウル高等学校)で学ぶ。その後帰国し、1918年、第三高等学校第一部乙類(英文科)入学。歌俳をたしなんだ父の影響で、草城もその影響で10代から文学に親しんだ。
青柳菁々(あおやぎ せいせい 1901年〈明治34年〉7月1… 青柳菁々(あおやぎ せいせい 1901年〈明治34年〉7月16日 - 1957年〈昭和32年〉1月1日)は、福井県福井市出身の俳人。 講談社の月刊『現代』の編集記者を経て、新潮社に入社。『小説新潮』を創刊させる。1947年に独立し、近代出版社を創業。文芸書を中心とした書籍のほか月刊雑誌『文学の世界』を創刊、谷崎潤一郎、三島由紀夫らの作品を掲載した。 また俳人としては臼田亜浪の俳句結社「石楠」に参加、最高幹部となった。息子は、文化放送、フジテレビの元アナウンサーでジャーナリストの青柳森。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉… 稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。 1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた。 早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった。
明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月… 明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日 - 1939年(昭和14年)6月9日) は、昭和初期に活動した日本の歌人である。本名は野田勝太郎。「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」とは大岡信の言である。 1901年 (明治34年) 7月5日、沼津市に三男として生まれた。2人の兄と1人の妹がいる。もう1人弟がいたが出生後間もなく亡くなっている。生家は経済的に恵まれており、沼津商業学校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進み、1920年 (大正9年) に師範学校を卒業後、小学校教員となった。 1924年、同僚の麻子と結婚、翌1925年 (大正14年) には長女の瑞穂、続いて次女の和子をもうけた。
今井 福治郎(いまい ふくじろう、1901年7月2日 - 1… 今井 福治郎(いまい ふくじろう、1901年7月2日 - 1968年1月23日)は、歌人、国文学者。 山梨県甲府市生まれ。号・白水。1927年ころから作歌。1935年に國學院大學文学部国文科を卒業。1961年「万葉集の地名と伝承」で國學院大學文学博士。和洋女子大学教授。
山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 19… 山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 1996年7月8日)は、日本の歌人、出版者、実業家。 兵庫県赤穂郡上郡町の酒造家に生まれる。早稲田大学文学部国文科卒。窪田空穂のもとで作歌、1926年『槻の木』を創刊、尾崎一雄らと同人誌を出し、1935年砂子屋書房を創業。43年には廃業し、実家の山崎酒造の社長を務めた。砂子屋ははじめ「まなごや」と読ませるつもりだったが、人々が「すなこや」と呼ぶためこれに任せた。
北小路 功光(きたこうじ いさみつ、1901年〈明治34年〉… 北小路 功光(きたこうじ いさみつ、1901年〈明治34年〉4月23日 - 1989年〈平成元年〉2月27日)は、昭和時代の華族(子爵)、歌人。母は歌人として知られる柳原白蓮(柳原燁子)。昭和天皇とは又従兄弟にあたり、自身の誕生から6日後に誕生している。 1901年(明治34年)、北小路資武の長男として東京で生まれる。一家は困窮のため、北小路家縁の京都鞍馬口へ転居する。功光が5歳のときに両親が離婚したため、祖母・久子によって育てられた。 同志社中学から学習院を経て、東京帝国大学文学部中退。学習院時代には霊南坂教会に通っていた。1942年(昭和17年)2月28日に父子爵の資武が亡くなると、7月15日に子爵を襲爵した。
解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月… 解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月30日 - 1937年(昭和12年)2月20日)は、日本の歌人、法学者。商法、特に海商法を専攻したが、病弱で大学教員としての道は諦め、病床で短歌を詠んだ。アララギ派に属した。 1901年(明治34年)1月30日、新潟県三島郡寺泊町片町で父・彌一郎、母・モトの四男として生まれる。家は雑貨商を営んだ。 1915年(大正4年)、寺泊尋常高等小学校の高等科第二学年を卒業し、家業を助ける傍ら独学で中学講義録を学んだ。1917年(大正6年)には与板町登記所雇員となるも、脚気のため1か月も経たずに退職した。1918年(大正7年)、勉学の希望を捨てられず、次兄・英次郎の勤務先である大阪の孔官堂主人の増田という人物が富太郎を呼び寄せ、大阪に転居した。
違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) … 違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) - 1929年(昭和4年)1月26日)はアイヌの歌人・社会運動家。 アイヌ民族の地位向上のための運動に一生を捧げ、その思想を新聞や雑誌に短歌の形で発表して、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えた。また道内のアイヌコタンを廻って、まずアイヌ自身が自覚し、団結することが必要であると説いた。 バチェラー八重子、森竹竹市と並ぶ、「アイヌ三大歌人」の一人。「アイヌの啄木」と称されることもある。著作に『違星北斗遺稿 コタン』(昭和5年・希望社出版部、現在は草風館より復刊)、『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(角川ソフィア文庫)がある。 違星北斗は1901年(明治34年)、北海道後志支庁余市町大川町1丁目に、父甚作と母ハルの間の三男として生まれる。
高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1… 高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人。ホトトギス代表。俳人高浜虚子の長男。「年尾」の名は正岡子規の命名による。 東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。
五島 茂(ごとう しげる、1900年12月5日 - 2003… 五島 茂(ごとう しげる、1900年12月5日 - 2003年12月19日)は、日本の歌人、経済史学者。
初井 しづ枝(はつい しずえ、1900年(明治33年)10月… 初井 しづ枝(はつい しずえ、1900年(明治33年)10月29日 - 1976年(昭和51年)2月15日)は、日本の歌人。兵庫県姫路市出身。 兵庫県姫路市大黒町(現・大国壱丁町)に、薬種商井上又次・たねの三女として生まれる。本名・しづ江。姫路高等女学校(現・兵庫県立姫路東高等学校)を卒業し、大阪道修薬学校(現・大阪薬科大学)に入学。薬剤師の検定試験を受けて合格。姫路に帰郷し、親戚の病院へ調剤の見習いに通う。 その後、姫路高女時代から交際していた初井佐一と結婚(当時20歳)。佐一の生家・初井家は姫路を代表する大地主で素封家であった。歌誌『アララギ』の会員で短歌を作っていた夫に勧められて作歌を始め、1926年に「日光」に入社、北原白秋に師事。