成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 199… 成田 春人(なりた はると、1908年3月31日 - 1992年3月17日)は、日本の建築家。宮城県仙台市出身。1950年に国鉄施設局建築課長となり、鉄道建築の総締めの地位につく。位階は従五位。 国鉄の建物の多くは木造であり、成田は建築物の不燃化に取りくみ、「不燃化の成田さん」として知られた。 終戦直後の1945年10月、伊藤滋鉄道省建築課長から「鉄道に来てくれるような良い建築技師が軍にいないだろうかと相談を受けた」のちに同僚となる太田和夫は成田春人を陸軍航空本部に訪ねた。成田は同僚の井上英彦と高山馨を誘うことを約束し、同年12月に3人が鉄道省に入ることになったという。 井上英彦によると木造の格納庫建築のために木造大張間構造の実現が求められ、陸軍航空本部では木材の接合部の処理を釘とジベルの2つとし、釘は高山馨、ジベルは成田が中心となって担当することとなり、いずれの工法も成功して鋼材の節約に貢献したという。
竹山 謙三郎(たけやま けんざぶろう、1908年 <明治41… 竹山 謙三郎(たけやま けんざぶろう、1908年 <明治41年> 1月8日 - 1986年 <昭和61年> 3月13日)は、日本の建築家、建築構造学、建築防災学の研究者。位階は従四位。 静岡県浜松市出身。1932年に東京帝国大学工学部を卒業。同年大蔵省営繕管財局に嘱託技師として入局。1945年工学博士(東大、木構造)。1946年、戦災復興院第二技術研究所技師、建設省建築研究所、1955年、同所長。1961年に退職。東京都立大学教授。1963年、鹿島建設技術研究所4代目所長に就任、1966年、所内に電子計算センターを新設し日本初の超高層「霞が関ビル」の建設に大きく貢献した。1968年退職、日本女子大学教授。
前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日… 前田 敏男(まえだ としお、1908年(明治41年)1月1日 - 1991年(平成3年)7月24日)は、日本の建築学者。建築環境工学の開拓者でかつ熱環境工学の確立者。京都大学総長、日本建築学会会長などを歴任した。日本建築学会賞、日本建築学会大賞などを受賞。勲一等瑞宝章。京都大学名誉教授。 1908年(明治41年)1月1日、高知県吾川郡春野町弘中(現高知市)において、農家の三男として誕生。当時の農家の次・三男は農業を継ぐことはできなかったため、高等小学校卒業後の1923年(大正12年)、教員になるべく高知師範学校に進学した。4年生の時、運動会のアーチの設計を命じられて、参考書として手にした『大建築学』(三橋四郎著)によって建築を志すようになる。
勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、… 勝田 千利(かつた ちとし、1908年 - 1981年)は、昭和期の建築学者である。1959年(昭和34年)に被害を齎した伊勢湾台風により補強コンクリートブロック造による「伊勢湾台風復興住宅」の設計、また関東大震災後の「柔剛論争」後の研究停滞期に免震構造の研究等で知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
千賀 恒夫(せんが つねお、1908年(明治42年) - … 千賀 恒夫(せんが つねお、1908年(明治42年) - 没年不明)は、日本の建築家。 1932年(昭和7年)に横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を卒業後、宮内省入省。 1933年(昭和8年)内匠寮匠生に採用され、1937年(昭和12年)に宮内技手となる。二代目宮内省庁舎(現・宮内庁庁舎)、楽部庁舎などの設計に携わった。1945年(昭和20年)に退官。
棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974… 棚橋 諒(たなばし りょう、1907年3月2日 - 1974年5月5日)は、岐阜県出身の建築学者。 京都帝国大学卒業、神戸高工(現神戸大学)講師、昭和20年京都帝大教授。 1951年に京都大学工学部 石原藤次郎、理学部 小堀憲らとともに京都大学防災研究所を立ち上げ、初代所長を務めた。 日本建築学会第28代会長(1963年 - 1965年)を歴任。
村田 政真(むらた まさちか、1906年 - 1987年)は… 村田 政真(むらた まさちか、1906年 - 1987年)は、日本の建築家。駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場が代表作。 三重県に生まれる。1929年に東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科を卒業した。同年より岡田信一郎の岡田建築事務所に勤務する。 1931年(昭和6年)より宮内省内匠寮臨時帝室博物館造営課に配属になる。1934年、国立公園ニ建ツ山小屋建築設計コンペ(国立公園協会・建築学会主催)で、佳作二席となる。 退官後の1937年からヨーロッパ、アメリカに出張した。その後1940年から土浦亀城建築事務所に勤務する。 1946年(昭和21年)に村田政真建築設計事務所を開設した。 妻は園芸家の村田ユリ(旧姓:鍵富)。
内藤 亮一(ないとう りょういち、1905年12月18日 -… 内藤 亮一(ないとう りょういち、1905年12月18日 - 1983年3月28日)は、日本の建設官僚、建築学者。 東京帝国大学工学部建築学科卒業後、地方で住宅行政に携わった後、建設省住宅局の指導課長として建築士法制定のために活動した。晩年は横浜国立大学で教鞭をとった。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。 東京府出身。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業。1930年に東京美術学校を卒業後、岡田建築事務所(岡田信一郎の事務所)、大林組を経て1940年に独立し、山本建築事務所を開設。1949年、海老原一郎と共同で、信建築設計事務所を設立(海老原は間もなく独立)。 映画監督の山本薩夫は実弟。子息の山本學、山本圭、山本亘はいずれも俳優である。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1… 海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1990年5月7日)は日本の建築家、日本芸術院会員。 東京府生まれ。本所区の府立第三中学校卒業。1924年、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)建築科に入学。 在学中に山口文象と知り合い、近代建築運動団体・創宇社建築会(1923年結成)に参加。1929年の創宇社第6回展・第7回展、1930年の第8回展に、労働診療所、労働者アパートメント、消費組合食堂などの作品を出品した。 1930年3月に東京美術学校を卒業後、石本建築事務所に勤める。1938年に独立し、海老原建築事務所を設立する。 1950年代に尾崎記念館(現在の憲政記念館)、1960年代に日本最初の超高層ビル「ディックビル」(18階建)を設計。
前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 19… 前川 國男(まえかわ くにお、1905年5月14日 - 1986年6月26日)は日本の建築家である。
黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 -… 黒川 巳喜(くろかわ みき、1905年(明治38年)3月 - 1994年(平成6年)1月2日)は、愛知県海部郡蟹江町出身の建築家。愛知県総務部営繕課に勤務した後に独立して黒川建築事務所を設立し、公共建築を多く手掛けた。建築家の黒川紀章と黒川雅之と黒川喜洋彦は息子。 1905年(明治38年)3月、愛知県海部郡蟹江町蟹江新田に生まれた。1924年(大正13年)、旧制私立東海中学校を卒業した。 1927年(昭和2年)3月には名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)建築科を卒業。卒業設計は「或美術協会」の洋画自由研究所である。卒業後には愛知県総務部営繕課の建築助手となった。昭和塾堂(1929年)の設計主任は足立武郎であり、実施設計は黒川が担当した。
浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991… 浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991年8月19日)は、愛知県名古屋市出身の建築学者・建築史家。工学博士(京都大学)。元奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学・愛知工業大学教授。 古建築の復原研究の第一人者であり、建築遺跡発掘調査を伴う「建物復原調査法」の開発、「古代建築技法」の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。また、社寺の建築や民家研究でも貢献した。 1926年名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)建築科を卒業。1934年法隆寺国宝保存工事事務所技手、後に所長となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。1952年工学博士(京都大学)。同年、奈良学芸大学助教授および奈良国立文化財研究所研究員を併任。
白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5… 白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる。 1905年2月5日に京都市の三条大宮で、白井七蔵・えんの長男として生まれる。本名は白井成一。兄弟には、7歳上の姉清子と、弟の隆吉がいる。
平松 義彦(ひらまつ よしひこ、1905年(明治38年)- … 平松 義彦(ひらまつ よしひこ、1905年(明治38年)- 1980年(昭和55年)1月22日)は、日本の建築家。昭和戦前期から戦後にかけて活動していた。 以下 <まちもり通信:二人の建築家の戦中戦後 建築家・小町和義氏インタビュー>や『追悼 平松義彦』(1980年、株式会社平松建築設計事務所 及 新建築家技術者集団 著)によると、東京市芝区下高輪町出身。1928年に東京美術学校卒業後、兄の英彦が勤めていた大林組に入社。また分離派建築会にも関わり、その後創宇社建築会メンバーとなる。 戦中期は劇團前進座の集合住宅などを手掛けるほか、大正期新興美術運動にも携わる。 戦後、創宇社建築会メンバーの仲間であった今泉善一、道明栄次らと共同経営で東京建築設計事務所を開設。
谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月… 谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月24日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。石川県金沢市出身。
栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976… 栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976年3月3日)は、北海道出身の建築家。 1904年に北海道広尾郡茂寄村(現・広尾町)で味噌製造を営む栄米蔵・ふゆ夫妻の四男として生まれ、広尾小学校を経て将来に期待を込め遊学させることとなり1916年に東京・浅草の松葉小学校に転校。 1922年に京華中学校卒業、1年浪人し1923年に東京美術学校に入学、1927年には小石川区の日本基督教団上富坂教会で結婚に向けてキリスト教の洗礼を受け、1928年に東京美術学校建築科を卒業。その後寄寓先の姪の加納春江と結婚。 東京美術学校卒業後は樺太庁に入庁し内務部土木科嘱託として建築技術者の道を歩み出す。1929年には技手に任官、大泊警察署を皮切りに10件の建築に携わる。
市浦 健(いちうら けん、1904年1月24日 - 1981… 市浦 健(いちうら けん、1904年1月24日 - 1981年11月3日)は、日本の建築家。 1928年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後大学院に籍をおいて、東京女子高等師範学校(のちの新制お茶の水女子大学)で住居の講義担当を経て、実地としていくつかの個人住宅を設計のかたわら日本大学に赴任し専門部の教授。1932年には川喜田煉七郎開設の新建築工芸学院でも教鞭をとる。1936年から1941年まで、厚生省体力局嘱託、同保険局技師として勤務。 1937年に「建築生産の合理化について」を発表。1941年住宅営団に入り、 研究部企画課長などを歴任。1945年からは、戦災復興院技師。住宅建築にかかわる。 1948年から51年まで鹿島建設にて取締役、企画第三部長、沖縄支店や名古屋支店長を歴任。
図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、… 図師 嘉彦(ずし よしひこ、1904年 - 1981年)は、日本の建築家。日本建築学会・日本演劇学会共同委員会「劇場小委員会」に属し、劇場建築への造詣が深かった人物。東京出身。 鉄道官僚図師民嘉の次男として東京に生まれ、1929年に早稲田大学理工学部建築学科卒業後、大蔵省営繕課勤務を経てドイツに留学。1934年(昭和9年)帰国、直後に日本共産党に資金提供したとして治安維持法違反で逮捕。釈放後、1935年(昭和10年)に独立。1937年(昭和11年)、自らの建築設計事務所・株式会社図師設計事務所を設立。市浦健・土浦亀城らと新興建築家聯盟を結成。このころ日本共産党の地下印刷所などを設計。 1946年(昭和21年)、今泉善一、梅田穣、海老原一郎ら旧創宇社系メンバーで日本民主建築会結成。
二見 秀雄(ふたみ ひでお、1903年(明治36年)11月1… 二見 秀雄(ふたみ ひでお、1903年(明治36年)11月15日 - 1986年(昭和61年)6月10日)は、日本の建築学者。 ラーメン構造の構造力学研究と50余年にわたる教職を通して、人材育成、委員会の収締め役として貢献した。とくに初代南極観測建築委員長として観測建物の製作指導や、高層ビルの高さ制限の調停などがあげられる。東京工業大学名誉教授。
林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は… 林豪蔵(はやし ごうぞう、1903年3月 - 1975年)は、日本の建築家、建築教育者である。 1903年(明治36年)3月、東京市麹町区に生まれる。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1927年に東京帝国大学建築学科を卒業した。大阪府警察部建築課勤務ののち、1931年4月に横浜高等工業学校建築学科、同年10月には教授に就任した。1969年3月に定年を迎えるまで、横浜高等工業学校、横浜工業専門学校、横浜国立大学、横浜国立大学工業教員養成所で教鞭を取った。1966年からは工業教員養成所の所長を務めている。 1947年には、日本建築学会関東支部設置に向けた懇談会の出席者に、建築教育に関わる立場として名前が記録されている。
平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 198… 平山 嵩(ひらやま たかし、1903年2月15日 - 1986年11月20日)は、日本の建築家・建築学者。専門は、建築環境工学。工学博士。 1903年、東京府(現・東京都)出身。1926年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。留学してハーバード大学修了の後、マサチューセッツ工科大学大学院に進み修了した。 帰国した後大蔵省営繕管財局に入り、国会議事堂の室内意匠・音響設計等に従事。1930年、東京帝大工学部講師となった。翌1931年に東大助教授に昇格し、助教授時代に公衆衛生院建築衛生部長を兼任した。1940年より東大教授。1963年に東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は東洋大学工学部教授として後進の指導にあたった。
武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989… 武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989年3月12日)は、日本の建築家・建築構造学者・構造家。千葉工業大学工学部建築学科の創設者。元鹿島建設副社長。兄は医学者の武藤完雄。日本建築学会会長、国際地震工学会初代会長、日本コンクリート会議初代会長などを歴任し、また自身で武藤構造力学研究所を開く。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)出身。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)から第二高等学校を経て東京帝国大学工学部建築学科に進学。1925年(大正14年)卒業後、母校に残り佐野利器の元で建築構造の研究に打ち込む。 関東大震災の直後から構造振動解析の研究に着手し、耐震構造学の研究を進めた。
間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1… 間野 貞吉(まの さだきち、1903年(明治36年) - 1979年(昭和54年))は、兵庫県神戸市出身の日本の建築家、一級建築士、ゴルフ場設計者。 間野貞吉は、1903年(明治36年)、兵庫県神戸市に生まれ、神戸一中から岡山の旧制第六高等学校を卒業、東京帝国大学工学部建築科に入学した。1926年(大正15年)、建築復興助成株式会社に入社、耐火建築の設計を主な仕事として勤務した。1929年(昭和4年)、東京帝国大学を卒業した。 間野は建築家として耐火建築物の設計を多く手掛けた。1932年(昭和7年)、母校の東京帝国大学から、論文『ゴルフ場の施設』により工学博士号を授与された。「相模カンツリー倶楽部」のメンバーとなり、ゴルフに打ちこんだ。
東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1… 東畑 謙三(とうはた けんぞう、1902年4月11日 - 1998年4月29日)は、日本の建築家。 三重県一志郡豊地村(現:松阪市)の地主の家に生まれた。東畑吉之助の三男。 1923年に第三高等学校理科乙類、1926年に京都帝国大学工学部建築学科を卒業。1932年に東畑謙三建築事務所を設立。以後、武田五一の弟子として関西の建築業界を牽引した。日本建築家協会名誉会長。日本建築学会名誉会員。
清水 一(しみず はじめ、1902年3月13日 - 1972… 清水 一(しみず はじめ、1902年3月13日 - 1972年3月17日)は、日本の建築家。 総合建設会社の設計部要職にあって、和風様式や伝統技術に精通した建築家として輻広い交友を築いた。また、職人仕事や日本の住まいに関する一般向けの軽妙な随筆に健筆をふるった。 東京府出身。1926年、東京帝国大学工学部を卒業し、大倉土木(現・大成建設)に入社。1963年まで設計に従事し、ホテルオークラやホテルニューオータニなどを手がけた。ほか建築作品に大倉集古舘 (1938)、サンフランシスコ博覧会日本館 (1939) など。 1950年、大成建設取締役建築技師長。1953年取締役、1959年常務取締役、1963年退任、顧問。
渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 197… 渡辺 要(わたなべ かなめ、1902年1月11日 - 1971年8月21日)は、日本の建築学者。
山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 … 山口 文象(やまぐち ぶんぞう、男性、1902年1月10日 - 1978年5月19日)は、1930年代から60年代にかけて活躍した、近代日本建築運動のリーダーのひとりであり、モダニズム建築デザインと同時に和風建築の名手であった建築家。 東京・浅草生れ。祖父は宮大工、父は清水組(現・清水建設)の大工棟梁。1915年、親の反対に遭い府立一中(現 都立日比谷高校)入学翌日に退学を余儀なくされ、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科大工分科入学(現 東京工大附属高校)。同期には横河工務所で構造技術者として活躍し、山口の代表作である日本歯科医学専門学校付属医院の構造設計も担当した田中正蔵らがいる。1918年、東京高等工業学校附属職工徒弟学校を卒業し、父の仕事を継ぐべく清水組(現:清水建設)に入社、名古屋の工場や銀行の工事現場に配属された。
明石 信道(あかし しんどう、1901年7月 - 1986年… 明石 信道(あかし しんどう、1901年7月 - 1986年)は昭和期に活動した日本の建築家。早稲田大学名誉教授。 函館市青柳町生まれ。生家は函館の名家堀川家で五男坊。同地の願乗寺川を掘削し、函館発展に尽力した真言本願寺派の僧侶・堀川乗経は祖父、英国人地震学者ジョン・ミルンと結婚したトネ・ミルンは伯母。 新川小学校を経て道立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業後に上京。23歳の時に母方の名跡で松前藩重臣であった旧家明石家の養子となって家を継ぎ明石姓となる。その後トネのアドバイスにより、信道は早稲田大学理工学部建築科に進学。1928年に卒業。 在学中に新宿の映画館・武蔵野館のオーナーの依頼を受け、設計を担当。
坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5… 坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
泰井 武(やすい たけし、1901年 - 1997年)は、日… 泰井 武(やすい たけし、1901年 - 1997年)は、日本の建築家。泰井の作品については実績で詳らかなものは少ないが、広く知られているものに駿府城跡に立地する静岡県庁舎本館(1937、登録文化財)が挙げられている。1934年(昭和9年)の静岡県庁舎懸賞設計競技に当選したものであるが、実施設計は静岡県営繕課の中村與資平・大村巳代治らによっておこなわれた。 名古屋高等工業学校の出身で、卒業後は東京市臨時建築局学校建設課に勤務。大正15年(1926)開催の神奈川県庁舎懸賞設計に応募し、三等二席に入選。1927年(昭和2年には西村好時が所属する第一銀行に勤め、西村の独立とともに西村設計事務所に移った。
瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月… 瀧本 義一(たきもと ぎいち、1900年(明治33年)12月23日 - 1986年(昭和61年)8月5日)は、日本の建築工学・建築構造学者。大阪工業大学名誉教授。工学博士(京都大学)。建築学教室担当。 専門は、建築工学・建築構造(特にラーメン構造・構造計算)、建築材料(特にコンクリート工学)。 京都帝国大学工学部建築学科卒業(指導教授:京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる武田五一)。のちに工学博士(京都大学)。大阪工業大学工学部建築学科に着任。1958年同学科教授。1971年大阪工業大学名誉教授。大阪工業大学建築学科にて長きに渡り教鞭を執り、大学初期の建築構造・建築材料の研究推進・育成に貢献した。
谷口 忠(たにぐち ただし、1900年(明治33年)12月8… 谷口 忠(たにぐち ただし、1900年(明治33年)12月8日 - 1995年(平成7年)12月11日)は、昭和期の建築学者である。
大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 … 大岡 實(大岡 実、おおおか みのる、1900年9月29日 - 1987年12月7日)は、日本の建築家・建築史学者。修理技術者でもある。 木造古建築の不燃化を目指し、RC造で日本の伝統様式の再現を試みている。 主要作品には浅草寺本堂(1958)や川崎大師平間寺本堂(1964)、聖光寺本堂(1970)などや、松前城本丸跡に立地する松前城資料館(1960)が確認される。 東京出身。1926年東京帝国大学工学部建築学科卒。1941年「興福寺伽藍配置ノ我伽藍制度史上ニ於ケル地位ヲ論ズ」で工学博士(東京帝大)。1927年文部省宗務局嘱託となり、のち文部技官、国立博物館保存修理課課長、法隆寺国宝保存工事事務所所長。
山越 邦彦(やまごし くにひこ、1900年6月22日 - 1… 山越 邦彦(やまごし くにひこ、1900年6月22日 - 1980年4月7日)は、日本の建築家。建築設備設計技術者。東京出身。 東京帝国大学工学部(現東京大学工学部)建築学科を経て戸田組に入社。建築家として勤務の傍ら、モダニズムの啓蒙雑誌『建築時潮』を編集。分離派建築に代表される芸術家としての建築家像を否定し、自ら「構築家」と称して科学性と社会性のある建築を提唱した。戸田組退社後は横浜国立大学理工学部教授となり、環境問題にも関心を持った。 主な作品のうち、1933年に発表した自邸・ドモディナミカ(動力学の家)では、乾式工法と床暖房、ピロティを採用し設備や間取りの考え方など、当時としては画期的な提案を行っている。
金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月1… 金澤 庸治(かなざわ ようじ、1900年(明治33年)3月15日-1982年(昭和58年))は、日本の建築家、建築教育者。金沢庸治とも表記される。 東京出身。1917年(大正6年)3月に京北実業学校中学校を卒業。1919年4月、東京美術学校図案科第二部予備科に入学(1923年5月に図案科第二部は建築科となる)、1924年3月、建築科の第1回生として卒業。同年、一年志願兵として近衛輜重兵大隊に入隊。1927年4月に東京美術学校の講師となり、1936年1月、助教授に就任、1946年3月に退職 建築設計も平行して手がけ、恩師である岡田信一郎の建築事務所のスタッフを務める。一説には、岡田が設計した黒田記念館(1928年)、明治生命館(1934年)の装飾を担当したとも言われる。
大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1… 大倉 三郎(おおくら さぶろう、1900年2月24日 - 1983年11月26日)は、京都を中心として活躍した建築家。京都工芸繊維大学学長、西日本工業大学学長などを務めた。
佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 19… 佐藤 武夫(さとう たけお、1899年10月22日 - 1972年4月11日)は、日本の建築家。建築音響工学の先駆者。 日本建築学会元会長、同名誉会員、日本建築家協会終身正会員、英国王立建築家協会名誉会員。日本芸術院賞受賞者。 オーディトリウム設計の第一人者として、さらに市庁舎、市民会館、公会堂などが彼の数多い作品の中でも圧倒的に数が多い。科学者としての学識、一方で新劇運動に熱中し、劇場史を研究するほどの芸術青年で分離派時代の山口文象をしてまったくシャッポを脱がされた、といわしめたほどのスケッチの名手、作品はその天賦の芸術家の才能と、情熱のぬくもりがあるとされ、また塔も多く、”塔の佐藤"ともいわれるゆえんである。
玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - … 玉置 豊次郎(たまき とよじろう、1899年7月13日 - 1984年10月9日)は、大阪市出身の日本の建築学者・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。大阪工業大学名誉教授。元内閣技官・帝都復興院復興局技師。元大阪府建築監督官・愛知県建築部長。勲四等瑞宝章受章。 専門は建築計画・建築史、都市計画。 1923年(大正12年)、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、内務省から都市計画地方委員会事務取扱を委嘱される。同年、関東大震災が発生し、帝都復興院の設置により復興局技師に転じ、復興計画にあたる。1925年(大正14年)大阪府警察技師、1927年(昭和2年)地方技師・大阪府建築監督官を勤める。この後、約15年間は土地区画整理事業等の指導に当たる。
田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日… 田上義也(たのうえ よしや、1899年(明治32年)5月5日 - 1991年(平成3年)8月17日)は、日本の建築家、音楽家。 栃木県那須郡西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。 大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍した。若くしてフランク・ロイド・ライトの影響を受け、確かな腕を持つ棟梁の小島与市と出会った。北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。 また、札幌新交響楽団の創立者でもあり、初代指揮者も兼務した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日… 城戸 武男(きど たけお、1899年〈明治32年〉4月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月5日)は、日本の建築家。戦前は表現主義やスパニッシュ風の作品を多く手がけ、戦後は機能主義建築と和風建築で秀作を残す。建築史家の城戸久は弟。 1899年(明治32年)4月29日、三重県阿山郡上野町(現・伊賀市)字忍町12番屋敷に生まれた。城戸操の長男である。 三重県立第三中学校(現・三重県立上野高等学校)を経て、1920年(大正9年)3月に名古屋高等工業学校建築科(現・名古屋工業大学)を卒業した。教授の鈴木禎次に直接薫陶を受け、それが制作への強い源泉になったと回顧している。 卒業後は合名会社竹中工務店に入社し、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)には本店設計部、1923年(大正12年)から1933年(昭和8年)には名古屋支店に勤務した。
岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 196… 岸田 日出刀(きしだ ひでと、1899年2月6日 - 1966年5月3日)は、日本の建築学者・建築家。工学博士(1929年)。元東京大学教授。 戦前から戦後にかけて建築分野の造形意匠設計方面の権威であった。東京帝国大学工学部建築学科卒業後、大学に残り非常勤講師を務める傍ら、東京帝国大学大講堂(安田講堂)、同理学部1号館(現存せず)などの設計に携わり、内田祥三とともに関東大震災で被災した東京帝国大学のキャンパス復興に尽力した。東京大学建築学科では建築意匠設計教育に長くかかわり、岸田研究室には前川國男、丹下健三、立原道造、浜口隆一、浅田孝らが在籍し巣立っていったほか、前川や丹下らをバックアップし育てた。
山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 198… 山脇 巌(やまわき いわお、1898年4月29日 - 1987年3月8日)は、戦前から戦後にかけて活躍した建築家、写真家。日本大学の名誉教授。バウハウスを日本へ紹介し、造形理論を教育に導入。日本のデザイン教育の方向に重要な役割を果たした。 1898年4月29日、藤田家の三男として長崎県対馬で生まれる。 1926年、東京美術学校 図案科第二部(建築科)卒業後、横河工務所に入所。横河工務所に入った頃から写真撮影を始める。また、舞台美術にも関心をもち、新興美術グループ「単位三科」にも同人として参加。 裏千家の茶人・山脇善五郎の娘で当時、東京女高師附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)生の山脇道子(1910-2000)とお見合い結婚し、山脇家の養子となる。
岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 19… 岡見 健彦(おかみ たけひこ、1898年3月29日 - 1972年)は、日本の建築家。遠藤新の事務所を経て、フランク・ロイド・ライトに学び、ライトの影響を受けつつもモダニズム的な作品を制作した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 19… 蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 1932年10月16日)は日本の建築家。司法省技師。日本における表現主義建築の傑作とされる小菅刑務所(現東京拘置所)と、建畠大夢が建設した北軽井沢大学村に現存する洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)が代表作。 明治31年(1898年)、岡山市で旧佐賀藩の漢学者の次男[要検証 – ノート]として生まれる。岡山県立第一中学校、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学に進学。大正11年(1922年)3月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業制作は「住宅」。同期には岸田日出刀、土浦亀城、田辺平学、長谷川輝雄などがいる。
田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 19… 田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 1954年2月3日)は、日本の建築構造学者、防災研究者、建築家。日本の建築物、都市の不燃化の研究、啓蒙に務めた。東京工業大学名誉教授。 田辺政之助の子として京都府で生まれる。1922年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、神戸高等工業学校講師。1925(大正14)年、建築構造学研究のため、欧米に出張。ドイツとイギリス、アメリカ合衆国へ2年間滞在する。ドイツでは商店で火事に遭遇する。 帰国後の1929年、神戸高等工業学校教授。「鉄筋混凝土版の基本的事項に関する研究」で工学博士号を取得。東京工業大学教授を兼任。 1931年、日本建築学会学術賞受賞。
伊藤 滋(いとう しげる、1898年 - 1971年7月4日… 伊藤 滋(いとう しげる、1898年 - 1971年7月4日)は、日本の建築家。鉄道省に所属し大正から昭和にかけて鉄道関連の建築諸施設を手がける。旧国鉄の駅舎建築を主導、駅の近代化と民衆駅方式を提唱。鉄道省建築課長、日本建築学会会長を歴任。建築生産の近代化を推奨し建築経済分野の基礎を築く。工学博士。東京都出身。 戦後池袋駅をはじめ多くの民衆駅の企画·設計に関係し、最後に鉄道会館を創立して経営者としての業績でもよく知られ、まとめ役としての能力は特筆すべきものがあったという。戦時体制で伊藤を中心に大村巳代治らとが先ず最初の発起人となって「建築新体制促進同志会」なるものの結成を提唱した時、伊藤の説得力の結果この運動はまず各団体統合をめざすこととなり、建築学会、当時の日本建築士会,大阪の日本建築協会への働きかけとなり、会員は少なかったが堀越三郎会長をはじめ、新体制について熱心に研究していた士会の方々と頻繁に議論をたたかわす。
土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月2… 土浦 亀城(つちうら かめき、1897年(明治30年)6月29日 - 1996年(平成8年)1月29日)は、昭和期の建築家である。 茨城県水戸市で土浦市松と光枝の間に生まれた。市松と横山大観はいとこである。1918年東京帝国大学工学部建築学科に入学。1922年、寄宿先で知り合い懇意にしていた遠藤新(当時、帝国ホテル建設のために来日していたフランク・ロイド・ライトの手伝いをしていた)の紹介でドラフトマンとしてライトの設計を手伝った。 同年にライトが建設費の問題から帝国ホテルの設計の任を解かれアメリカに引き上げる際、土浦はライトからアメリカに来るように請われ、卒業後の1923年に信子夫人(吉野作造の長女)と共に渡米。