井筒 和幸(いづつ かずゆき、1952年12月13日 - )… 井筒 和幸(いづつ かずゆき、1952年12月13日 - )は、日本の映画監督、映画評論家。井筒プロダクション所属。代表作は『二代目はクリスチャン』『犬死にせしもの』『のど自慢』『パッチギ!』など。テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活動し、映画評論家としては映画監督や製作者、スタッフ、キャストの視点に立った辛辣な映画批評でも知られる。奈良県出身。 アメリカン・ニューシネマに傾倒し、奈良県立奈良高等学校 時代から8ミリと16ミリ映画の製作を行っており、1975年に友人と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立する。 1975年にピンク映画『行く行くマイトガイ 性春の悶々』を初監督(「ゆけゆけマイトガイ性春の悶々」に後に改題。
河毛 俊作(かわけ しゅんさく、1952年9月4日- )は、… 河毛 俊作(かわけ しゅんさく、1952年9月4日- )は、フジテレビジョン所属の役員待遇編成制作局ドラマ制作センターエグゼクティブディレクター、映画監督。東京都出身。河毛二郎の子、河毛一郎の甥。 1976年フジテレビ入社。以前は、編成製作局ゼネラルディレクター。父は王子製紙元会長の河毛二郎。慶應義塾大学卒業。 少年時代から映画監督に憧れてはいたが、大学卒業時にはすでに映画産業は衰退の一途をたどっていたことに不安を感じ、それでも映像に携わりたいと思い、テレビ局入りを決めた。 『セーラー服と機関銃』など、1980年代前期からテレビドラマの演出で活動。1980年代後期から1990年代初期にはいわゆるトレンディドラマの演出の一翼を担った。
水谷 豊(みずたに ゆたか、1952年〈昭和27年〉7月14… 水谷 豊(みずたに ゆたか、1952年〈昭和27年〉7月14日 - )は、日本の俳優、歌手、映画監督、実業家。Trysome Bros.LLC合同会社代表社員。北海道芦別市出身。Trysome Bros.所属。妻は伊藤蘭、長女は趣里。 北海道芦別市野花南で生まれる。両親は京都出身である。四人兄弟の末っ子。父親はすぐに仕事を変えては転々とし、家族もこれに伴い、北海道の各地を転々。北海道時代の記憶はほとんどないという。小学校は北海道留萌郡小平町立達布小学校に入学。小学2年の時、父が東京都立川市で土建業を興し、以降、立川で育ち、俳優デビュー後も20代半ばまで実家に住んだ。 立川市立立川第四小学校、立川市立立川第一中学校卒業。
北浦 嗣巳(きたうら つぐみ、1952年7月8日 - )は、… 北浦 嗣巳(きたうら つぐみ、1952年7月8日 - )は、日本の映画監督、演出家、脚本家、プロデューサー。千葉県出身。 東京造形大学在籍中に実相寺昭雄の監督作品『あさき夢みし』(1974年)にアルバイトで参加し、その後実相寺率いる映像制作集団「コダイ」に所属。円谷プロダクションの『恐竜大戦争アイゼンボーグ』(1977年)に助監督として参加した後、実相寺昭雄監督作品にチーフ助監督として携わる。 その後『西遊記』(1994年)で本編監督と特技監督を務めたのを皮切りに、テレビドラマや映画の監督として活動するほか、舞台やオペラなどの演出も手がける。 『ウルトラマンティガ』(1996年)以降平成ウルトラシリーズの常連スタッフとなる。
すずき じゅんいち(本名・鈴木潤一、1952年5月21日 -… すずき じゅんいち(本名・鈴木潤一、1952年5月21日 - )は、日本の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。 神奈川県茅ヶ崎市出身。神奈川県立湘南高等学校、東京大学文学部倫理学科卒業。 日活に助監督として入社後、神代辰巳、市川崑らに師事する。日活ロマンポルノ作品でデビューした。 1985年、青年海外協力隊としてモロッコに派遣(昭和60年度2次隊、職種:映像)。モロッコ保健省に配属され、要請の内容は視覚による避妊教育のための映画作成であった。しかし、任期半ばで臀部にできたせつの手術をモロッコで受けるが、予後の状況が芳しくなかった。このため任期を短縮し1年で日本に帰国した。 その後、フリーランスに転じ、多くの作品を発表する。
細野 辰興(ほその たつおき、1952年5月13日 - )は… 細野 辰興(ほその たつおき、1952年5月13日 - )は、日本の映画監督。日本映画大学教授。 神奈川県出身。1971年鎌倉学園高等学校卒業。1976年獨協大学外国語学部を卒業後、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に進む。今村プロダクション映像企画を振り出しにディレクターズ・カンパニーで助監督時代を過ごし、今村昌平、長谷川和彦、相米慎二、根岸吉太郎の4監督に師事する。1991年のデビュー以来、ジャンルに捉われず社会性のある骨太なエンターテイメント作品を発表。デビューが同時期で、同じジャンルの作品を撮っていた三池崇史、望月六郎と共に「アクション映画の三羽鴉」として注目される。 1996年公開の『シャブ極道』は、映倫により性描写以外の理由で初の成人映画指定となるなど物議を醸す一方、その骨太で破天荒な世界観が評価され、各種ベスト・テンと主演男優賞(役所広司)を(『Shall we ダンス?』『眠る男』と併せて)数多く受賞し、センセーションを巻き起こした。
旦 雄二(だん ゆうじ、1952年3月24日 - )は、日本… 旦 雄二(だん ゆうじ、1952年3月24日 - )は、日本の映画監督、脚本家、CMディレクター、映像クリエイターである。日本映画監督協会会員。 『城戸賞』『ACC賞』『経産省HVC賞』受賞。別名・檀 雄二。大阪府大阪市出身。武蔵野美術大学卒業。 大阪府大阪市生まれ。桃山学院高等学校、武蔵野美術大学(美術デザイン専攻)を卒業。1975年(昭和50年)よりフリーの映画助監督として渡辺護、山本晋也、中村幻児らにつく。見習いサードからセカンドを経てチーフを歴任。 1978年(昭和53年)からCMに従事。CMプロダクション「HAT Inc.(旧CAP)」にて制作、プロダクション・マネージャー、アシスタント・プロデューサー、CMプランナー、アシスタント・ディレクターを担当。
大森 一樹(、1952年〈昭和27年〉3月3日 - 2022… 大森 一樹(、1952年〈昭和27年〉3月3日 - 2022年〈令和4年〉11月12日)は、日本の男性映画監督、脚本家。株式会社ファーストウッド・エンタテインメント代表取締役。日本映画監督協会理事、大阪芸術大学芸術学部映像学科学科長。血液型はAB型。 文芸作品から怪獣映画まで幅広いジャンルを手掛ける。独自の視点による人間描写が特徴である。 1952年に大阪府大阪市東住吉区に医師をしている父親の家で生まれる。1961年に父親の転勤で兵庫県芦屋市に転居、芦屋市立精道中学校、六甲高等学校、京都府立医科大学医学部卒業。医師免許を持つ映画監督という希少な人物でもある。 もともと漫画少年であり、手塚治虫や真崎守の作品などに影響を受ける。
村上 龍(むらかみ りゅう、本名:村上 龍之助〈むらかみ り… 村上 龍(むらかみ りゅう、本名:村上 龍之助〈むらかみ りゅうのすけ〉、1952年〈昭和27年〉2月19日 - )は、日本の小説家・映画監督・脚本家。血液型はO型。長崎県佐世保市出身。 武蔵野美術大学在学中の1976年、福生の米軍キャンプで麻薬とセックスに溺れる退廃的な若者たちを描いた『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞、及び芥川龍之介賞を受賞。同作は100万部を売り上げた。ベストセラー作家として、村上春樹とともに時代を代表する作家と目された。代表作に、『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』『69 sixty nine 』『トパーズ』『五分後の世界』『半島を出よ』などがある。
那須 博之(なす ひろゆき、1952年1月27日 - 200… 那須 博之(なす ひろゆき、1952年1月27日 - 2005年2月27日)は、日本の映画監督。東京都杉並区桃井出身。妻は脚本家の那須真知子。 父は建設会社社長。東京都立西高等学校、東京大学経済学部卒業。大学在学中はワンダーフォーゲル部に所属し、山登りに熱中。そんな折に映画『仁義なき戦い』を見て強い衝撃を受け、アクション映画監督を志し日活に助監督として入社し、田中登、曽根中生、澤田幸弘らに師事。1982年に日活ロマンポルノ『ワイセツ家族 母と娘』で監督デビューする。ポルノ畑で修業を積んだのち、1985年に念願叶って手がけた初のアクション映画『ビー・バップ・ハイスクール』のヒットで注目され、同シリーズを立て続けに成功させて一時代を築く。
安達 かおる(あだち かおる、1952年1月27日 - )は… 安達 かおる(あだち かおる、1952年1月27日 - )は、日本のAV監督、実業家。V&Rプランニング元代表取締役。本名、三枝進(さえぐさ すすむ)。独自の作風で知られる。 東京都出身。幼少時代、外交官の父親に随行してイラン(テヘラン)に遊学、帰国し。1970年、國學院大學久我山高等学校を卒業。1974年、獨協大学外国語学部ドイツ語学科を卒業。 TV制作会社(ドキュメンタリー部門)を勤めた。しかし、営業で建前が多くて疲れ、末端の人たちから生の声を聞きたい、とスーパーマーケット「ジャストイン」を運営し、有限会社ブイアンドアールプランニングを設立した。 1986年、当時34歳の頃に、安達が知人の用事に付き添いでたまたまAV会社に行き、作品が足りないからとアルバイトとして安達がAVを作ることになった。
野伏 翔(のぶし しょう、1952年1月23日 - )は、日… 野伏 翔(のぶし しょう、1952年1月23日 - )は、日本の演出家、映画監督。劇団夜想会主宰。茨城県古河市出身。 獨協大学外国語学部英語学科卒業。文学座演劇研究所を経て1982年「劇団夜想会」を設立。これまでの演出作品は100作品を超える。劇団設立初期はシェイクスピア、サルトル、チェーホフ作品など新劇作品の演出多かった。 俳優として『トーキング・ヘッド』(押井守監督・1992年)に出演している。 空手道、少林寺拳法、剣道などの武道が趣味で計十段の腕前を誇る。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
中田 信一郎(なかだ しんいちろう、1952年 - )は、日… 中田 信一郎(なかだ しんいちろう、1952年 - )は、日本の映画監督、脚本家。横浜放送映画専門学校(現・日本映画大学)卒業。 慶應義塾大学卒業後、ベルスクール・オブ・ケンブリッジ(英国)に留学。帰国し横浜放送映画専門学校(現・日本映画大学)に入学。卒業後、映画『復讐するは我にあり』等、今村昌平、大林宣彦の助監督を経験。1988年短編映画集『不可思議物語』で映画監督デビューする。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
榎戸 耕史(えのきど こうじ、1952年 - )は、日本の映… 榎戸 耕史(えのきど こうじ、1952年 - )は、日本の映画監督である。 1952年、茨城県に生まれる。上智大学文学部を卒業。数々の相米慎二監督作品他、崔洋一、井筒和幸、根岸吉太郎監督などの下、セントラルアーツ作品を中心に助監督を務める。1988年、セントラルアーツ、日本テレビ制作の劇場映画『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』で映画監督デビューを果たす。2000年以降はテレビ作品で活躍。2007年、桜美林大学総合文化学群教授に就任する。 • 黒澤満(プロデューサー、セントラルアーツ代表取締役社長) • 相米慎二(映画監督) • 崔洋一(映画監督) • 丸山昇一(脚本家) • 今村治子(スクリプター) • 長谷川康(助監督、監督) • 伊地智啓(プロデューサー) • 浜田毅(撮影監督) TOKYO BLOOD(石井聰亙) - 月はどっちに出ている(崔洋一) - 来たことのある初めての道(山川直人) - ワイルドサイド(長崎俊一) - 殺し屋アミ(榎戸耕史) エレファントソング(利重剛) - 突然炎のごとく(井筒和幸) - パイパティローマ(中江祐司) - よい子と遊ぼう(平山秀幸) - ルーキーバトルN45゜【第1話】ワンダーラビッシュ(祭主恭嗣)】-【第2話】パオさんとの復讐(小峰隆生)-【第3話】情熱の荒野(佐々木弘久)-【第4話】風は、どっちに吹いている(中嶋竹彦) 女優霊(中田秀夫) - Helpless(青山真治) - Mogura(梅林茂) - 宇宙貨物船レムナント6(万田邦敏) 萌の朱雀(河瀨直美) - いさなのうみ(日垣一博) - 林檎のうさぎ(小林広司) - アートフル・ドヂャース(保田卓夫) 楽園(萩生田宏治) - 人間の屑(中嶋竹彦) - Unloved(万田邦敏) - まぶだち(古厩智之)
山田 勇男(やまだ いさお、1952年〈昭和27年〉 - )… 山田 勇男(やまだ いさお、1952年〈昭和27年〉 - )は、日本の映画監督、映像作家、美術家、漫画家。北海道夕張郡長沼町出身。 1974年(昭和49年)、北海道綜合美術専門学校(現北海道芸術デザイン専門学校)を卒業し、演劇実験室天井桟敷に入団。寺山修司監督『田園に死す』の疑景工作を担う。その後も、寺山修司の映画『ボクサー』(1977年)、『草迷宮』(1979年)、『さらば箱舟』(1984年)の美術や衣装デザインを担当している。 1977年(昭和52年)、札幌にて漫画家・湊谷夢吉らと「銀河画報社映画倶楽部」を結成。稲垣足穂の「一千一夜物語」をモチーフとした8ミリ映画の第一作『スバルの夜』(1977年)が、オフシアター・フィルムフェスティバル'79(後のぴあフィルムフェスティバル)に入選。
ジャン・ユンカーマン(John Junkerman、1952… ジャン・ユンカーマン(John Junkerman、1952年 - )は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、映画監督。 アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。生後程無くしてアメリカ軍の横須賀基地に赴任した軍医の父親と共に神奈川県葉山町に住むが、1年後に帰国。高校時代はベトナム戦争が泥沼状態となる中、反戦運動に加わり徴兵制反対デモを行う。1969年再来日し、慶應義塾志木高等学校に学ぶ。その後、スタンフォード大学東洋文学語科、ウィスコンシン大学大学院を経て、日米両国に於いてジャーナリストとして活動しており、流暢な日本語が話せる。 一方で映画製作にも関わり、1988年ドキュメンタリー映画『HELL FIRE 劫火』でアカデミー賞記録映画部門にノミネート、1992年には『夢窓 庭との語らい』でエミー賞を受賞する。
原 隆仁(はら たかひと、1951年11月30日 - )は、… 原 隆仁(はら たかひと、1951年11月30日 - )は、日本の映画監督。クリエイターズエージェンシー所属。息子は映画監督の原廣利。 東京都出身で東海大学海洋学部卒。国際放映に助監督としてフリー契約した後、独立後は舛田利雄、森田芳光、村川透らに師事。この間、1984年にTVドラマ『西部警察PARTIII』で監督デビューした後、1987年に『あぶない刑事』で正式に監督昇進。1989年、『べっぴんの町』で長篇映画デビューを果たす。 デビュー当初は主にB級アクション、ハードボイルド作品を多く手掛けていたが、『夜逃げ屋本舗』の成功により独自のコメディー世界を確立。 以降は同作をはじめ、『お墓がない!』『いらっしゃいませ、患者さま。
森田 健(もりた けん、1951年10月26日 - )は、コ… 森田 健(もりた けん、1951年10月26日 - )は、コンピュータソフト会社の経営者、不思議現象の研究者、ルポライター、SF作家、映画監督、作詞家、作曲家、著作家。 東京都西多摩郡日の出町出身。東京都立武蔵高等学校、上智大学電気電子工学科卒業。富士通を経て、コンピュータソフト会社を経営。開発した通信ソフトにて郵政大臣賞を受賞。 1997年、アメリカのモンロー研究所のセミナーに参加し、体外離脱を体験したという。1999年、2000年に船井総合研究所主催のフナイオープンワールドというスピリチュアル系イベントで講演を行う。2004年に『運命を変える未来からの情報』で六爻占術を紹介。 2005年、「不思議の科学」シリーズが、講談社α文庫より『「私は結果」原因の世界への旅』、『自分ひとりでは変われないあなたへ』、『ハンドルを手放せ』の3冊に改題・改訂出版された。
押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )は、日本… 押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 - )は、日本の映画監督、アニメーション演出家、小説家、脚本家、漫画原作者、劇作家、ゲームクリエイター。東京大学大学院特任教授、東京経済大学客員教授などとしても活動している。2021年時点は静岡県熱海市在住。 東京都大田区大森出身。東京都立小山台高等学校、東京学芸大学教育学部美術教育学科卒。静岡県熱海市在住。2008年度から2009年度まで東京経済大学コミュニケーション学部の客員教授を務めた。 2017年時点で日本SF作家クラブ会員だったが、2024年6月時点の会員名簿には名前がない。 日本のアニメーション監督で、世界三大映画祭すべてに出品したことがある唯一の監督である(2018年現在)。
中原 俊(なかはら しゅん、1951年5月25日 - )は、… 中原 俊(なかはら しゅん、1951年5月25日 - )は、日本の映画監督である。本名:中原 俊弘(なかはら としひろ)。日本映画大学教授。ポルノ映画から出発し、以降はジャンルに囚われずに様々な題材を広く取り扱う。 鹿児島市草牟田出身。ラ・サール高等学校、東京大学文学部宗教学科を卒業。1976年に日活に入社する。鈴木清順、大林宣彦、市川崑、根岸吉太郎等の助監督を務めた。 1982年に日活ロマンポルノの『犯され志願』でデビュー。以降日活ロマンポルノにて活動し、1985年に日活を退社しフリーとなる。 フリーランスになってからは、一般映画・テレビドラマ・オリジナルビデオへと活動の幅を広げる。 1990年11月に、吉田秋生原作の『櫻の園』を発表する。
児玉 高志(こだま たかし、1951年4月7日 - )は、日… 児玉 高志(こだま たかし、1951年4月7日 - )は、日本の映画監督、東京工芸大学芸術学部映像学科教授。東京都出身。 千葉大学卒業後、1975年に日活に助監督として入社。白鳥信一、藤井克彦に師事。1982年に『受験慰安婦』で監督デビュー。1985年に、にっかつを退社。1987年より、半沢浩のフィルム・シティに所属。 1988年にロマンポルノのアンソロジー映画『ザッツ・ロマンポルノ 女神たちの微笑み』で構成・監督を手掛け、17年間続いたロマンポルノの終焉に花を添えた。 その後、Vシネマやテレビの平成ウルトラマンシリーズなどでメガホンをとった。 父は映画評論家の児玉数夫。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。
池田 敏春(いけだ としはる、1951年2月23日 - 20… 池田 敏春(いけだ としはる、1951年2月23日 - 2010年12月24日)は、日本の映画監督。山形県出身。 1974年、早稲田大学第一文学部卒業。在学中から石原プロモーションにて助監督を務める。卒業後日活に入社。曽根中生などの助監督をしながら脚本を執筆する。同期入社には根岸吉太郎がいる。 1980年、『スケバンマフィア・肉刑・リンチ』にて監督デビューを果たし、1982年『天使のはらわた 赤い淫画』がきっかけで日活を退社しディレクターズ・カンパニーに参加する。『人魚伝説』はディレクターズカンパニーの第一作の作品で監督たちの手によって思いどおりの作品を作るという理想の作品として、当時の日本映画界を震撼させた。
山崎博子(やまざき ひろこ、1951年 - )は、日本の映画… 山崎博子(やまざき ひろこ、1951年 - )は、日本の映画監督。 大阪府生まれ。関西大学文学部ドイツ文学科卒。大学在学中はアングラ演劇に携わる。広告代理店に勤務した後、コロンビア大学を経てカリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院映画科卒。角川映画『ぼくらの七日間戦争2』で長編映画デビュー。他にドキュメンタリー映画『タラウマラの村々にて』など。女性初の日本映画監督協会理事でもある。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
熊谷博子(くまがい ひろこ、1951年 - )は、日本の映画… 熊谷博子(くまがい ひろこ、1951年 - )は、日本の映画監督・映像ジャーナリスト。東京都出身。
磯村 一路(いそむら いつみち、1950年11月30日 - … 磯村 一路(いそむら いつみち、1950年11月30日 - )は日本の映画監督、脚本家。アルタミラピクチャーズ専務取締役。岐阜県出身。 岐阜県立岐阜高等学校、早稲田大学第一文学部社会学専修卒業。 カメラマンを目指していたが大学卒業後はデザイン会社に勤務するかたわら、新宿のジャズ喫茶などで映画の上映会を主催。その上映会のゲストで来ていた若松孝二監督に声をかけられ、ずっと興味があった映画に関わりたいと会社を退職してアルバイトをする。1977年から助監督として若松に師事。神代辰巳、崔洋一、高橋伴明監督らの作品にも携わる。 1979年、『レイプゾーン/犯しの履歴書』により監督デビュー。以後はピンク映画の監督と平行して助監督、製作主任を務める。
片岡 修二(かたおか しゅうじ、1950年11月23日 - … 片岡 修二(かたおか しゅうじ、1950年11月23日 - )は、日本の映画監督・脚本家。北海道旭川市出身。 関東学院大学経済学部中退。獅子プロダクションにて修業を積み、1983年『予告暴行・犯る!刺す!』でデビュー。以降ピンク映画にてアクションタッチの作品を次々と手がけ、一般映画・Vシネマにも進出する。「丘哲民」、「周知安」名義で脚本も手がける。
根岸 吉太郎(ねぎし きちたろう、1950年8月24日 - … 根岸 吉太郎(ねぎし きちたろう、1950年8月24日 - )は、日本の映画監督。東北芸術工科大学理事長。 東京都出身。東京都立駒場高等学校、早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。 早稲田大学卒業後、1974年日活に入社。同期には池田敏春がいる。なおこの年はにっかつが映画制作再開に伴い10年ぶりに大学卒の新卒採用を再開した年でもあった。藤田敏八、曽根中生に師事。 早稲田卒業時の論文は、野田高梧の脚本における時間経過などがテーマであり「映画監督志望なのになんで小津ではなく野田か」と、仲間内でも笑う者や不思議がる者が多かったという。
原 將人(はら まさと、1950年(昭和25年)7月15日 … 原 將人(はら まさと、1950年(昭和25年)7月15日 - )は、東京都目黒区出身の映画監督。現在京都府京都市在住。
五代目 坂東玉三郎(ごだいめ ばんどう たまさぶろう、195… 五代目 坂東玉三郎(ごだいめ ばんどう たまさぶろう、1950年(昭和25年)4月25日 - )は、歌舞伎役者、日本の俳優、映画監督、演出家。本名は守田 伸一(もりた しんいち)。通名は守田 親市(もりた しんいち)。旧姓は楡原(にれはら)。屋号は大和屋。定紋は花勝見(はなかつみ)、替紋は熨斗菱(のしびし)。歌舞伎名跡「坂東玉三郎」の当代。
奥田 瑛二(おくだ えいじ、1950年〈昭和25年〉3月18… 奥田 瑛二(おくだ えいじ、1950年〈昭和25年〉3月18日 - )は、日本の俳優、映画監督、画家。ゼロ・ピクチュアズ所属。 愛知県東春日井郡高蔵寺町(現在の春日井市)出身。本名は安藤 豊明(あんどう とよあき)。妻は安藤和津、長女は安藤桃子、次女は安藤サクラ。 愛知県東春日井郡高蔵寺町(現在の春日井市)生まれ。小学5年生のときに大友柳太朗の『丹下左膳』を観て衝撃を受け、役者を志す。夜尿症で中学入学式の前日までおねしょをする子だった。役者になるには体格を良くするべきと考え、中学では野球部、高校ではラグビー部に入る。中学卒業時は152センチメートルしかなかったが、高校に入ってラグビーをしてからは身長が173センチメートルまで大きく伸びたという。
平口 広美(ひらくち ひろみ、1950年3月11日。 - )… 平口 広美(ひらくち ひろみ、1950年3月11日。 - )は、北海道伊達市出身の漫画家、AV男優兼AV監督。既婚。血液型はO型。 高校卒業後上京。1976年より美学校に入り、赤瀬川原平に師事。1978年に『ガロ』で漫画家デビュー後、三流エロ劇画誌で執筆。さらにAV男優や性風俗ルポでも活躍した。 この項目は、性風俗関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:性/PJ:性)。
森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 20… 森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 2011年12月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。
池田 博穂(いけだ ひろお、1950年 - )は、日本の映画… 池田 博穂(いけだ ひろお、1950年 - )は、日本の映画監督、脚本家。 秋田県大仙市出身。法政大学を卒業後、全国農村映画協会(全農映)に助監督として参加。山本薩夫、今井正、橘祐典、後藤俊夫などの監督に師事。「天保水滸伝 大原幽学」「東京大空襲・戦争と青春」「ガラスのうさぎ」「マタギ」「オーロラの下で(日ソ合作)」などの作品に助監督他として携わる。 監督作品として「豊饒の大地」「江戸前料理・粋と洒落」「犬張子」、その他テレビドキュメントを含めて多数制作。近作では、特高警察による取調べ中に拷問死したプロレタリア作家 小林多喜二を描いた長編記録映画「時代を撃て 多喜二」、2003年の鹿児島県警察による違法捜査事件(志布志事件)を扱った日弁連制作の短編映画「つくられる自白—志布志の悲劇—」、足尾銅山鉱毒事件を告発した田中正造の生涯を綴った「赤貧洗うがごとき〜田中正造と野に叫ぶ人々〜」等。
大河原 孝夫(、1949年〈昭和24年〉12月20日 - )… 大河原 孝夫(、1949年〈昭和24年〉12月20日 - )は日本の映画監督。千葉県出身。 父親が鉄道会社に務めていたことから、その路線のフリーパスや系列映画館の優待券で費用をかけずに映画を鑑賞できたため幼少期から映画館に足繁く通っていた。映画『ベン・ハー』(1959年)などに感銘を受けて映画業界を志すようになり、高校時代には黒澤明の監督作品に傾倒し、大学ではシネマ研究会に入るなどしていた。 1973年、早稲田大学教育学部卒業後、東宝に入社。当時の東宝は撮影所志望の新入社員は採用していなかったため当初はデスクワークを行っていたが、副社長の藤本真澄の口添えを得て三好邦夫とともに撮影所へ出向。助監督として、黒澤明、森谷司郎、降旗康男監督らに師事する。
土田 博和(つちだ ひろかず、1949年10月31日 - )… 土田 博和(つちだ ひろかず、1949年10月31日 - )は、日本の医師、政治家、映画監督。フジ虎ノ門グループ代表、医療法人社団青虎会理事長、社会福祉法人博友会理事長。参議院議員を1期務めた。
川島 透(かわしま とおる、1949年9月11日 - )は、… 川島 透(かわしま とおる、1949年9月11日 - )は、日本の映画監督。本名、大石忠敏。福岡県福岡市奈良屋町(現・博多区奈良屋町)出身。 福岡県立福岡高等学校卒業。原宿学校(現・東京映像芸術学院)映像クリエーター科出身。 1980年代に数々のヒット作を手がける。 2010年10月2~8日に東京・渋谷のシネマヴェーラにて初の特集上映「川島透映画祭」が開催された。 『竜二』主演の金子正次とは原宿学校からの先輩後輩の仲で親しかった。当初はプロデューサーとしての参加だったが、トラブルで監督降板後に大部分を撮り直し、監督デビューとなった。映画作家としては陽性なコメディやミステリへの志向が強く、谷岡雅樹は彼が最初から監督だったらそもそも『竜二』は撮らなかっただろうと記している。
柏原 寛司(、1949年〈昭和24年〉9月6日 - )は、日… 柏原 寛司(、1949年〈昭和24年〉9月6日 - )は、日本の脚本家、映画監督。東京都中央区日本橋出身。一般社団法人シナリオ作家協会会長、日本シナリオ作家協会副理事長を歴任。 実家は江戸時代末期から代々、東京・人形町に住む一家で、柏原で4代目に当たる。中学生時代は映画少年で、特に西部劇を好み、『アラモ』は36回も観たという。この他にも少年時代は落語も愛好した。高校生以降は友人の勧めで『用心棒』を観て以来、日本映画も好むようになり、高倉健、勝新太郎主演などの作品をよく観るようになる。一方で高校時代は野球部で、野球にも打ち込んでいた。 1969年、日本シナリオ作家協会主催のシナリオ研究所(現在のシナリオ講座の前身)第22期を修了。
崔 洋一(さい よういち、朝: 최양일、男性、1949年〈昭… 崔 洋一(さい よういち、朝: 최양일、男性、1949年〈昭和24年〉7月6日 - 2022年〈令和4年〉11月27日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優。在日韓国人2世。 日本映画監督協会理事長、宝塚大学教授、株式会社ネクステップ顧問、スカパーJSATグループ番組審議会委員、民間放送教育協会理事を歴任。 長野県佐久市生まれ。父は在日朝鮮人、母は日本人のハーフ。 1968年(昭和43年)、東京朝鮮中高級学校高級部を卒業。東京綜合写真専門学校中退。写真学校在学中の20歳のころ、主に近代映画協会で撮影助手の仕事をしていた先輩に勧められ、近代映画協会とは関係のない今井正監督の『婉という女』(ほるぷ映画製作・東宝配給)の現場に就く。
原田 眞人(はらだ まさと、1949年7月3日 - 2025… 原田 眞人(はらだ まさと、1949年7月3日 - 2025年12月8日)は、日本の映画評論家、映画監督、脚本家。 静岡県沼津市出身。スカイホーク所属(業務提携:つばさプロジェクト)。BS朝日番組審議会委員。 静岡県立沼津東高等学校卒業、東京写真専門学校(現:専門学校東京ビジュアルアーツ)、ペパーダイン大学中退。 幼少期より年間100本観るほど映画を愛好し、自身も大勢の観客を沸かせたり感動させたりしたいと考え映画監督を志すようになる。1962年に東京・有楽町で見たドン・シーゲル監督の『突撃隊』に感銘を受け、映画を見るたびに映画に関するメモや論評を書くようになった。 ロンドンに語学留学中の1972年、『ラスト・ショー』の評論を『キネマ旬報』に載せたことをきっかけに映画評論家となり、『キネマ旬報』や『宝島』にアメリカ発の映画情報を寄稿。
水島 総(みずしま さとる、1949年(昭和24年)6月18… 水島 総(みずしま さとる、1949年(昭和24年)6月18日 - )は、日本の経営者、映画監督、脚本家、プロデューサー、政治活動家、日本文化チャンネル桜代表取締役社長。頑張れ日本!全国行動委員会幹事長
稲川 方人(いながわ まさと、1949年6月1日 - )は、… 稲川 方人(いながわ まさと、1949年6月1日 - )は、日本の詩人、映画監督、映画評論家である。
高橋 伴明(たかはし ばんめい、1949年〈昭和24年〉5月… 高橋 伴明(たかはし ばんめい、1949年〈昭和24年〉5月10日 - )は、日本の映画監督、映画プロダクション経営者、大学教授。ブロウアップ代表取締役。脚本家のペンネームとしては剣山象、高橋伴がある。 奈良県奈良市出身。華道の家に生まれ、本名は"ともあき"と読む。東大寺学園高校卒業後、早稲田大学第二文学部に入学。映画研究会に入り、渡辺護監督らのピンク映画の現場でアルバイト生活を送る。同時に学生運動にも身を入れ、第二次早稲田大学闘争に参加したことで、大学を除籍されて中退した。 1972年、『婦女暴行脱走犯』で監督デビューするが、プロデューサーと対立、一時は映画界を離れた。1973年、小林悟とともに東活に入り製作業務に携わった。
若松 節朗(わかまつ せつろう、1949年(昭和24年)5月… 若松 節朗(わかまつ せつろう、1949年(昭和24年)5月5日 - )は、日本のテレビドラマ演出家・映画監督。 秋田県河辺郡河辺町(現・秋田市)生まれ。秋田市立秋田商業高等学校、日本大学藝術学部放送学科卒業後、TBS系のテレパックに入社。ADを経て『思春期の妻たち』(1984年、フジテレビ)などのテレビドラマを演出。 1986年にフジテレビ系の共同テレビジョンに移籍。局制作が少なかったフジの中でテレパック時代のノウハウを活かし、『あまえないでヨ!』『ラジオびんびん物語』『しゃぼん玉』などのヒットドラマを数々手がけた。 90年代は『振り返れば奴がいる』『お金がない!』『正義は勝つ』など織田裕二の主演ドラマを多数演出し、その縁で2000年、織田主演のアクション大作『ホワイトアウト』で映画監督デビューを果たす。
倉内 均(くらうち ひとし、1949年5月3日 - 2022… 倉内 均(くらうち ひとし、1949年5月3日 - 2022年10月7日)は、日本のテレビディレクター、テレビプロデューサー、映画監督、実業家である。大ヒットした映画『佐賀のがばいばあちゃん』を監督したことで知られる。映像製作会社アマゾンの創立者であり、(株)アマゾンラテルナの代表取締役会長である。ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)理事長(2012年 - )。 青森県青森市(当時は南津軽郡浪岡町)出身。テレビマンユニオンに所属し『アメリカ横断ウルトラクイズ』などの制作に関わる。1985年のテレビ制作会社ネクサスの設立に参加。 1988年4月1日、東京都港区にテレビ番組制作会社として株式会社アマゾンを設立、以来、テレビ作品を中心に、数多くの映像作品を生み出す。
福間 健二(ふくま けんじ、1949年3月10日 - 202… 福間 健二(ふくま けんじ、1949年3月10日 - 2023年4月26日)は、日本の詩人、翻訳家、映画評論家、映画監督、首都大学東京名誉教授。新潟県出身。 旧・東京都立大学(現・東京都立大学)人文学部英文学科卒業。同大学院人文科学研究科修士課程修了。岡山大学教養部講師、東京都立大学助教授、教授、2005年首都大学東京人文科学研究科教授、2013年定年退職、名誉教授。 2023年4月26日、肺炎のため死去。74歳没。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
伊勢 真一(いせ しんいち、1949年1月29日 - )は、… 伊勢 真一(いせ しんいち、1949年1月29日 - )は、日本のドキュメンタリー映画監督。父親はドキュメンタリー映画編集者の伊勢長之助。東京都出身 フィルムを希望者に貸し出す自主上映に力を入れている。 少年時代は野球選手を目指していた。立教大学法学部卒業後は大工の棟梁のもとに弟子入りするもクビになり、仕事がなくなっていたところ父の伊勢長之助の葬式時に出会った映像関係者の誘いを受けてドキュメンタリー映画の世界へと入った。 長男の伊勢朋矢はドキュメンタリー映像作家。長女の伊勢佳世は女優。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
珠 瑠美(たま るみ、1949年1月15日 - )は、日本の… 珠 瑠美(たま るみ、1949年1月15日 - )は、日本の女優、映画監督・脚本家。出生名は小谷 瑠美(こたに るみ)、木俣堯喬との結婚後本名は木俣 瑠美(きまた るみ)。珠 るみ、珠 ルミとクレジットされた作品もある。プロダクション鷹取締役、代表取締役を歴任した。 1949年(昭和24年)1月15日、東京都世田谷区烏山町(現在の同区烏山)に生まれる。父は戦前に日活大将軍撮影所の小道具係であり、戦後も東映東京撮影所や連合映画撮影所で装飾部として活動した小谷春勇(小谷春男)、叔父が大映の撮影技師・渡辺公夫(1918年 - 1983年)、兄がのちに東映の照明部に在籍しており、2歳下の妹がのちに女優なる谷身知子(1951年 - )である。
大浦 信行(おおうら のぶゆき、1949年 - )は、日本の… 大浦 信行(おおうら のぶゆき、1949年 - )は、日本の芸術家、映画監督。 昭和天皇をモチーフとして扱った作品である《遠近を抱えて》が展覧会の後に問題作として画集が焼却され、それに対して裁判を起こした。 1949年に富山県で生まれた。1956年東京都に転居。19歳で画家を志し、絵画制作を始めた。1971年國學院大學を卒業し、ケニヤ画廊にて個展を行った。1972年、24歳で8mm映画製作を開始した。また、プリントアートギャラリーにて個展を行った。1973年、ジャパン・アート・フェスティバルに出展した。1974年東京、天井桟敷館にて映像による個展に出展したほか、アンダーグラウンドシネマ新作展、100フィートフィルムフェスティバルに出展した。
市川 準(いちかわ じゅん、1948年11月25日 - 20… 市川 準(いちかわ じゅん、1948年11月25日 - 2008年9月19日)は、日本の映画監督、CMディレクター。 本名は、市川 純(読み同じ)。東京都府中市出身。CM演出家を経て1987年に『BU・SU』で映画初監督。以降、幅広い題材に意欲的に取り組み話題作を数多く発表した。 聖パウロ学園高校卒業後、画家を志して東京芸術大学美術学部絵画科への入学を目指すが浪人を繰り返す。1975年にCM制作会社に入社してCM演出家になり、1981年の退社後は無所属で活動する。演出家として禁煙パイポ、タンスにゴン(金鳥)、エバラ焼肉のたれ、ヤクルトタフマン、デューダ等の、テレビCMを手掛ける。1985年にはカンヌ国際広告祭で金賞を受賞している。
高嶺 剛(たかみね ごう、1948年11月12日 - )は、… 高嶺 剛(たかみね ごう、1948年11月12日 - )は、沖縄県石垣島川平出身の映画監督。京都市在住。 小学生になる前に那覇市に移り住む。1969年、京都教育大学特修美術学科に「国費留学生」として進学。在学中から自主映画を取り始めるが、大学中退。 ほぼ一貫して、沖縄をテーマとする映画を制作している。ジョナス・メカスの影響をもとにドキュメンタリー映画を撮っていたが、『パラダイスビュー』(1985年)からは劇映画に進出。1989年の作品『ウンタマギルー』は日本映画監督協会新人賞、ベルリン国際映画祭カリガリ賞、ナント三大陸映画祭最優秀賞などを受賞した。 2008年の作品『Puppet shaman star』は沖縄を舞台としておらず、京都在住の顔師(祇園祭の稚児の顔に化粧をする職)にして人形つかいの奥山恵介をとりあげたドキュメンタリーである。