堀之内 直(ほりのうち すなお、1878年(明治11年)4月… 堀之内 直(ほりのうち すなお、1878年(明治11年)4月26日 - 1968年(昭和43年)9月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県大口村(後に北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)に生まれる。1899年(明治32年)陸軍士官学校第11期卒業。 1923年(大正12年)8月に敦賀連隊区司令部部員、1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・敦賀連隊区司令官、1927年(昭和2年)3月に歩兵第32連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月に陸軍少将・歩兵第13旅団長に任官。1932年(昭和7年)8月8日に待命、同年8月30日に予備役に編入する。
平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 … 平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将従三位男爵、東京帝大総長、工学博士。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 197… 田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 日本の陸軍で活躍した薬剤師である。陸軍衛生材料廠のトップを経て、陸軍薬剤総監に就任した。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど、後進の育成にも尽力した。 1878年(明治11年)2月24日に生まれた。誠之小学校を経て、東京府尋常中学校で学んだ。第一高等学校を卒業し、さらに東京帝国大学に進学した。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ。
坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 … 坂田 祐(さかた たすく、旧姓・中村、1878年2月12日 - 1969年12月16日)は、日本の陸軍軍人、教育者、関東学院院長。学校法人関東学院の基礎作りに貢献した。 旧会津藩士の父・中村富造、母ミエの二男として、秋田県鹿角郡大湯村(現・鹿角市十和田大湯)で生まれる。母方の祖父は白虎隊士中二番隊長の日向内記。両親は斗南藩領(現・青森県むつ市)に移ったものの困難な生活を余儀なくされ、廃藩後に大湯村に永住することとなった。一家の生活は苦しく、1892年(明治25年)毛馬内小学校高等科(現・鹿角市立十和田小学校)第3年で中退し、大湯村の不老倉銅山で働いた。しかし、勉学の志止みがたく、1896年(明治29年)故郷を出て東京に向かい、東京、横浜、浦賀などを転々としたが、最後は足尾銅山で1898年(明治31年)まで働いた。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 … 西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1941年〈昭和16年〉4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。弟の西義顕は満鉄社員で、犬養健、松本重治らと汪兆銘工作を行った。西は稚松会の評議員である。 栃木中学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。1902年(明治35年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉… 山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉12月22日 - 1942年〈昭和17年〉2月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将、カトリック教会信者。正三位勲二等功五級。族籍は神奈川県平民。 相模国鎌倉郡川口村(現・片瀬)の旧家の山本庄太郎・ミツ夫婦の次男として生まれ、父親が持ち家をマリア会の別荘として貸していた関係から、小学校卒業後、マリア会の暁星中学校に入学した。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強く、彼も当初は侮蔑を抱いていた。だが学校を運営しているマリア会の修道士と過ごしているうちにキリスト教を次第に理解するようになる。
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)… 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年(明治10年)12月16日 - 1964年(昭和39年)5月8日)は、昭和初期に活躍した海軍軍人、外交官、政治家。海兵26期次席。位階勲功等は海軍大将従二位勲一等功二級。 和歌山県和歌山市出身。国際法の権威として知られ、阿部内閣で外務大臣を勤めた後、第二次近衛内閣成立後に駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃の日まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索した。 旧紀州藩士・増田喜三郎の三男として和歌山県名草郡(現:和歌山市西釘貫丁)で生まれ、野村正胤の養子となる。1895年(明治28年)、和歌山中学校(現・県立桐蔭高校)を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校(現在の海城中学校・高等学校)で学び、海軍兵学校(26期、1898年(明治31年))卒業(次席)。
杉本 弘蔭(すぎもと ひろかげ、1877年(明治10年)12… 杉本 弘蔭(すぎもと ひろかげ、1877年(明治10年)12月7日 - 1927年(昭和2年)10月4日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍砲兵大佐。従四位・勲三等。 岐阜県可児郡久々利村(現・可児市)に生まれる。成城学校に進学し、卒業した1895年(明治28年)に陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)に陸軍士官学校(9期)を卒業し、兵庫県淡路島の由良要塞副官などを歴任した。日露戦争には中隊長として従軍。1912年(大正元年)9月、朝鮮半島の永興湾要塞司令官に就任した。 1920年(大正9年)、宇都宮市の第14師団で兵器所長を務める。 軍務中は日曜日や深夜まで書類整理をおこない、参謀本部の検査官から「要塞で斯くまで確実に整理の行き届いた所は他に見ることはなかった」と言われたという。
鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日… 鳥巣 玉樹(とす たまき、1877年〈明治10年〉12月1日 - 1949年〈昭和24年〉5月21日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県佐賀市出身。 佐賀県佐賀中学校、福岡県立尋常中学修猷館を経て、海軍兵学校第25期入校。入校時成績順位は36名中第4位、卒業時成績順位は32名中第3位。 鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回の計4回の在英経験は当時としても多い方である。1924年(大正13年)から1925年(大正14年)には、東宮御用掛として海軍軍事学を進講した。 艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。
坂部 十寸穂(さかべ としお / とすお / ますお、187… 坂部 十寸穂(さかべ としお / とすお / ますお、1877年(明治10年)12月1日 - 1930年(昭和5年)11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・寺沢。 高知県板野郡、後の北灘村(現徳島県鳴門市北灘町)で、徳島藩士・寺沢男也の三男として生まれた。6歳で父を失い、母方の実家、元徳島市長・坂部広織の養子となる。徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)を経て、1895年(明治28年)12月、士官候補生となり、翌年9月、陸軍士官学校に入学。1897年(明治30年)11月、陸士(9期)を卒業。翌1898年(明治31年)6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第15連隊付となる。 1901年(明治34年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。
武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月… 武川 壽輔(むがわ じゅすけ、1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、教育者。最終階級は陸軍少将、兵庫県立赤穂中学校(現:兵庫県立赤穂高等学校)の初代校長。 福島県安積郡福良村出身。父は旧会津藩藩士で県会議員の武川定八。安積中学から陸軍士官学校に進み、1897年(明治30年)卒業(9期)。1898年(明治31年)歩兵少尉に任官。陸軍大学校在学中に歩兵第27連隊の中隊長として日露戦争に出征。旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。 戦後陸大(18期)を卒業し、教育総監部課員、歩兵第57連隊大隊長、第13師団、東京衛戍総督部の各参謀を経て歩兵第3連隊の連隊長に就任する。
樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月1… 樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月14日 - 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家(鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族。元フィギュアスケート選手・八木沼純子の曾祖父。 鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身。医者の次男である。1877年、父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征、戦死した。可也は貧しい少年時代を送った。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した。 1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10… 小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。 広島県広島市出身。福山誠之館中学、修道学校(現:修道中学校・高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。入校時成績順位62名中第4位、卒業時成績順位59名中第3位。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。 一部の書籍で同郷の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥と記載されているが、加藤の兄弟姉妹に小林の縁故者はおらず、加藤との姻戚関係はないことが強く推定される。弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。
兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25… 兼坂 隆(かねさか たかし、1877年(明治10年)9月25日 - 1961年(昭和29年)12月16日)は、日本の海軍軍人。海兵27期。海大甲種10期。最終階級は海軍中将。号は三州。 千葉県出身。八雲艦長、横須賀海兵団長、砲術学校長、大要司令官などを歴任。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本… 篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日… 漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。衆議院議員、平沼内閣内務政務次官。最終階級は海軍少将。海軍兵学校27期卒。沖縄県出身。 大正年間に当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元の沖縄県から選出され、衆議院議員となった。戦前最後の沖縄県選出議員の一人である。 1877年(明治10年)、漢那憲慎・オトの長男として琉球国那覇西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。先祖は福州との貿易に従事していた。 1892年(明治25年)、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。
井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月… 井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月29日 - 1950年〈昭和25年〉7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将とクラスメートかつ親友)の妹。井上達三の家族関係については、井上成美#親族を参照。 本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。 宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。 東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14… 冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14日 - 1945年(昭和20年)9月28日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。高松市長。 香川県、現在の高松市出身。香川県尋常中学校卒を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(10期)を卒業。1899年(明治32年)6月27日、陸軍工兵少尉に任官し、1924年(大正13年)2月4日に陸軍少将に至った。その間、陸軍士官学校教官、第3軍兵站電信隊長、工兵第5大隊中隊長、陸軍砲工学校教官、教育総監部工兵監部員、陸軍大学校教官、鉄道連隊附工兵第19大隊長、同第13大隊長を歴任した。少将としては対馬要塞司令官、陸軍科学研究所第1部長を務めた。
寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7… 寺岡 平吾(てらおか へいご、1877年(明治10年)7月7日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 山形県出身。村会議員・寺岡儀一の五男として生れる。荘内中学校を経て、1899年(明治32年)12月、海軍兵学校(27期)を卒業し、1901年(明治34年)1月、海軍少尉任官。日露戦争では第1艇隊艇長として出征した。 1905年(明治38年)9月、「扶桑」水雷長となり、海兵教官、「厳島」・「常磐」の各水雷長、軍令部出仕などを経て、1910年(明治43年)3月、東郷平八郎大将付副官に就任。翌年3月、「鞍馬」分隊長に着任し、横須賀予備艦隊副官、海軍省人事局員、「比叡」副長などを歴任。
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26… 荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛改造内閣・平沼内閣の文部大臣。位階勲等功級爵位は従二位勲一等功四級男爵。最終階級は陸軍大将。 陸軍発の社会の革新を訴える派閥「一夕会」の領袖として陸軍省を掌握。一夕会の分裂後は昭和維新を掲げる急進的な青年将校に担がれるが、二・二六事件後の異動により予備役編入。 文相就任時の「皇道教育」導入等を理由として、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として起訴され、終身禁固刑を言い渡された。 1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。
倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)… 倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)4月28日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 長野県小県郡本原村(現・上田市真田町本原)出身。1898年(明治31年)陸軍士官学校第10期卒業。 1922年(大正11年)2月に麻布連隊区司令官を経て、同年4月に陸軍歩兵大佐に昇進。その後、1923年(大正12年)8月に歩兵第69連隊長、1925年(大正14年)5月に富山連隊区司令部附、同年8月に第9師団司令部附・金沢医科大学服務を経て、1927年(昭和2年)3月に陸軍少将・歩兵第4旅団長に補任。翌年の1928年(昭和3年)8月10日に待命、同年8月29日に予備役に編入した。
藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年… 藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 1966年(昭和41年)7月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 福島県士族の三男である。会津中学を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第15連隊大隊長、歩兵第59連隊附、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。
鎌田 弥彦(かまだ やひこ、1877年〈明治10年〉4月1日… 鎌田 弥彦(かまだ やひこ、1877年〈明治10年〉4月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月15日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の鹿児島県鹿児島市上之園町で生まれた。1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 1920年(大正9年)8月、北京駐屯歩兵隊長に就任。1921年(大正10年)7月、歩兵大佐に昇進し神戸連隊区司令官となる。1923年(大正12年)8月、歩兵第39連隊長に異動。1926年(大正15年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第32旅団長に就任。 1927年(昭和2年)7月、第11師団司令部付となり、1930年(昭和5年)8月、台湾守備隊司令官に移るが、セデック族の反乱(霧社事件を指す)を鎮圧した。
小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日… 小山 満雄(おやま みつお、1877年(明治10年)3月9日 - 1936年(昭和11年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争では第三軍の一員として戦い、のち歩兵第十六連隊長を務めた陸軍少将である。 旧会津藩藩士小山満峻の長男として宇都宮に生まれる。満峻は戊辰戦争後に栃木県に勤務した。小山は陸軍士官学校9期で、稚松会創立会員の一人。陸士同期では武川寿輔などが同様であった。小山の原隊は歩兵第十五連隊(高崎)、兵科は歩兵であり、1898年(明治31年)6月に歩兵少尉へ任官している。中尉時代に日露戦争に出征し、旅順で二〇三高地の攻略戦に加わった。1904年(明治)37年8月大尉に進級し、奉天会戦では田義屯の戦いに功績があった。
金谷 元朗(かなや もとろう、1877年〈明治10年〉3月 … 金谷 元朗(かなや もとろう、1877年〈明治10年〉3月 - 没年不明)は、日本の陸軍軍人・柔術家である。 1877年3月(明治10年)金谷七次郎元良の長男として東京府豊多摩郡角筈新町に生まれる。父の金谷元良は丹南藩柔術指南役を務めた人物であり、江戸で戸塚彦介英俊の門人となって楊心古流を学んだ柔術家であった。 父の金谷元良は子には何も教えないという方針だったため、金谷元良の兄弟子の今田七郎正儀から戸塚派楊心流を教わった。1895年(明治28年)に今田正儀に入門し、1901年(明治34年)に免許皆伝を受けて楊心古流六代目師範となった。 戸塚派楊心流に入門する前は講道館に籍を置いおり1888年(明治21年)の入門記録が残っている。
小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月1… 小野 庄造(おの しょうぞう、1877年(明治10年)2月12日 - 1938年(昭和13年)9月6日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少将。第5代岡崎市長。 愛知県額田郡伊賀村(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業した後は、歩兵第33連隊に属し、1902年(明治35年)には陸軍大学校に入学した。陸軍大学校在学中に日露戦争が勃発し、第3師団に属して出征し、負傷した。1907年(明治40年)、陸軍大学校に復学し、翌年に卒業した。卒業後は参謀本部に勤務するかたわら、山縣有朋元帥の副官を務めた。1910年(明治43年)、少佐に昇進するとともに、イギリス・フランス・ドイツに留学し、飛行機・自動車の調査にあたった。
津田 増次郎(津田 增次郎、つだ ますじろう、1877年(明… 津田 増次郎(津田 增次郎、つだ ますじろう、1877年(明治10年)2月11日 - 1951年(昭和26年)11月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 高知県香美郡赤岡村(現・香南市赤岡町)に生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)を経て、1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1918年(大正7年)7月に水戸連隊区司令官、1920年(大正9年)8月に陸軍歩兵大佐を経て、1922年(大正11年)2月に歩兵第19連隊長に任官。その後、1924年(大正13年)12月15日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月20日に予備役に編入した。 退役後は、在郷軍人会長、帝国在郷軍人会高知支部顧問、高知市議会議員などを務めた。
永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 … 永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 - 1934年(昭和9年)2月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従三位勲二等功五級。旧姓・楊井。 山口県玖珂郡広瀬村大字船津(現・岩国市錦町)出身。楊井正之進の二男として生れ、西南戦争の植木口の戦いで戦死した同郷の陸軍少佐・永井勝正の養嗣子となる。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業。 1904年(明治37年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第17連隊中隊長に就任。
林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944… 林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944年5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)… 黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)1月1日 – 1967年(昭和42年)3月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の栃木県塩谷郡高根沢町で黒崎邦三郎の子として生まれる。1897年(明治30年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年に砲兵少尉に任じられた。さらに1908年(明治41年)に東京帝国大学工科大学電気科を卒業した。大阪砲兵工廠技術課長、陸軍技術本部総務部長、大阪砲兵工廠弾丸製造所長、陸軍技術本部第一部長を歴任した。1927年(昭和2年)、陸軍中将に昇進し、翌年には陸軍科学研究所所長に就任した。1932年(昭和7年)、予備役に編入された。 その後、奉天造兵所株式会社代表取締役、満洲計器股份有限公司監査人、奉天商工会議所特別議員を務めた。
本城 嘉守(ほんじょう よしもり、1877年(明治10年) … 本城 嘉守(ほんじょう よしもり、1877年(明治10年) - 1960年(昭和35年))は、日本の陸軍軍人、政治家。初代徳山市長(現・周南市)。父に本城宣馬。徳山七士の一人本城清は祖父にあたる。
山本 新太郎(やまもと しんたろう、1877年 - 1918… 山本 新太郎(やまもと しんたろう、1877年 - 1918年10月4日)は、明治・大正期の海軍軍人。 青森県下北郡田名部町出身。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年海軍少主計任官。 第十駆逐隊附海軍中主計、大湊要港部附海軍中主計、宗谷乗組海軍大主計等を経て、1913年海軍経理学校甲種学生教程卒業、海軍主計少監、叙従六位勲四等。 1918年軍事視察のためヨーロッパに出張した際、帰国のためリヴァプールから乗船した平野丸がUボートにより撃沈され戦死し、海軍主計中監に特進し、正六位勲三等旭日中綬章を追贈され、ロンドン日本人倶楽部で追悼会が開かれた。 ウェールズ地方ペンブルックシャー州アングルのセント・メリーズ教会に平野丸殉難者の墓碑が建てられたが、埋葬記録には「身元不明、男性、40歳前後」とあるのみで、山本が埋葬されているかは不明。
張振武(ちょう しんぶ、1877年 - 1912年8月16日… 張振武(ちょう しんぶ、1877年 - 1912年8月16日)は、清末民初の民主革命家・軍人。武昌起義の主要人物の一人。原名は堯鑫、字は春山、別名竹山として知られる。湖北省羅田県出身だが、後に竹山県に居住した。共和元勲の尊称を持ち、同じく名前に「武」が入る孫武や蔣翊武と併せて「辛亥三武」と呼ばれる。 張振武は湖北省羅田県の裕福な家庭の出身で、後に竹山県に居住した。 沈廷楷、韓孝堅ら地元名士に師事。県の高等学堂卒業後、1900年に湖北師範学校に入学、法律と政治を勉強するために1904年に自費で早稲田大学へ留学、体育を通して軍事訓練に参加した。 1905年に中国同盟会参加。 1907年(光緒33年)卒業後は清に戻り、武昌の黄鶴楼小学校で教鞭をとったが、反清革命を広めたとして、江蘇巡撫陳夔龍(中国語版)に危うく逮捕されるところだった。
野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治… 野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治9年)12月21日 - 1947年(昭和22年)6月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、陸軍軍人。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県丹羽郡大口村長、陸軍歩兵少尉。 愛知県丹羽郡大屋敷村(太田村、大口村を経て現大口町)で、代々庄屋を務めた野田家当主・野田庄右衛門の長男として生まれる。1886年(明治19年)家督を相続した。陸軍教導団に入団し日露戦争に従軍。陸軍歩兵少尉に進み陸軍幼年学校教官として務め予備役編入となった。1907年(明治40年)早稲田大学専門部法律科を卒業して帰郷し、農業を営む。 丹羽郡養蚕組合長、同桑苗組合長、同農会長、愛知県養蚕業組合連合会長、同耕地協会副会長などを務めた。
菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)… 菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)12月15日 - 1963年(昭和38年)12月26日)は、明治時代から昭和時代の日本海軍軍人、教育者。西海学園高等学校の創立者である。 旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸(現平戸市)に生まれる。兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた。 兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍。 1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、佐世保市助役に推されたが辞退し当時佐世保に無かった男子の進学できる私立普通中学の創設を志した。退官翌年の1925年(大正14年)、「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校。
真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、… 真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、1876年〈明治9年〉11月27日 - 1956年〈昭和31年〉8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人として、青年将校の衆望を集める。青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。 弟に海軍少将、衆議院議員の真崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。 1876年(明治9年)11月27日、中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた。 佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年(明治28年)12月に卒業後、士官候補生を経て1896年(明治29年)9月に陸軍士官学校に入学した。
宮地 久衛(みやじ ひさえ、1876年11月6日 - 193… 宮地 久衛(みやじ ひさえ、1876年11月6日 - 1939年2月18日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐。社会事業家、部落解放運動家。 1876年11月6日、高知県幡多郡小筑紫村田ノ浦(現宿毛市)で宮地重政の長男として生まれた。祖父の宮地重勝は、土佐国幡多郡津ノ川の郷士であり、安政3年(1856年)伊賀家に仕え、田ノ浦村や津賀川村(現小筑紫町都賀川)の庄屋や戸長を勤めた。 3歳で母と離別し、祖母に育てられた。1892年7月に中村小学校高等科を卒業した。同年9月に高知海南学校へ入学したが、学資が足らず2年で退学した。1896年に陸軍に入営し、陸軍士官学校や騎兵実施学校などに学んだ。1901年11月22日、陸軍士官学校(13期)を卒業し、1902年6月23日、騎兵少尉となり、日露戦争では騎兵第15聯隊付として出征した。
松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 19… 松木 直亮(まつき なおすけ、1876年11月5日 - 1940年5月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1… 四竈 孝輔(しかま こうすけ、1876年10月26日 - 1937年12月12日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。宮城県仙台市出身。
中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月1… 中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)は、日本の陸軍軍医、政治家。旧姓は小林、野村、柏村。元山口町議会議員。元湯田医院(中原医院)長。従五位勲四等。 山口県厚狭郡厚東村(現宇部市)の農家小林八九郎、フデの次男として生まれた。小学生の頃、父親の八九郎が離婚、浜田スミという女性と再婚。謙助は八九郎の姉のミキが嫁いでいた野村家の養子になる。棚井小学校(現・宇部市立厚東小学校)の教師から苗字が変わったことを告げられた謙助はその場で泣き出したという。 小学校卒業と同時に、母の実家・藤井家の従兄藤井幸八のすすめによって上京を決意する。藤井幸八は名医として聞え、藤井眼科医院は遠近からの患者で大いに栄え、入院患者を収容するのに付近の農家を借りるほどだった。
赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 195… 赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 1954年12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15… 山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15日 - 1962年(昭和37年)7月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥(権兵衛の兄吉蔵の息子)にあたり、「封じ袴の大将」と呼ばれた。
本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10… 本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10日 - 1945年〈昭和20年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。 長男一雄は陸軍主計中佐。彼は父の死後、襲爵の手続きを行わなかった。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。 1876年(明治9年)5月10日、本庄常右衛門と母ひろ子の長男として兵庫県多紀郡城南村真南条中村(現:丹波篠山市)に生まれる。生家は大地主で、本庄氏は多紀郡の有力国人酒井氏に仕えた名家であった。
大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日… 大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。位階および勲等、軍功は正二位・勲一等・功五級。 愛知県出身で本籍は高知県。自邸は東京市芝区高輪下町にあった。 1876年(明治9年)、愛知県中島郡三宅村(現:稲沢市平和町上三宅上屋敷)で、農業・大角藤平の長男として生まれた。幼名は親一。 1891年(明治24年)3月に中島郡高等小学校を卒業後、愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。 1897年(明治30年)、24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。
木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 … 木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 - 1940年(昭和15年)9月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日… 小牧 自然(こまき じねん、1876年(明治9年)3月22日 - 1939年(昭和14年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。 高知県安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。海南中学校を経て、1897年(明治30年)12月、海軍兵学校(25期)を卒業し、1899年(明治32年)2月、海軍少尉任官。日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。1909年(明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任。 1909年10月、「香取」航海長心得となり、呉鎮守府参謀兼望楼監督官、海軍省軍務局局員兼教育本部員(二部)、「出雲」副長心得を歴任。
坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15… 坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15日 - 1953年(昭和28年)8月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。子に二・二六事件に参加した坂井直がいる。 三重県三重郡桜村出身。1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐・堺連隊区司令官を経て、1923年(大正12年)8月に歩兵第37連隊長に任官。その後、1926年(大正15年)3月2日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月22日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30… 牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県玉名郡弥富村(現・玉名市)出身。牛島義雄の五男として生まれる。1893年(明治26年)12月、陸軍教導団に入り、1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1904年7月、歩兵第24旅団副官となり日露戦争に出征。1906年3月、歩兵第23連隊中隊長となり、歩兵第1連隊中隊長を経て、1912年(大正1年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年5月、参謀本部員となり、歩兵第54連隊大隊長、陸大教官を経て、1921年11月から翌年2月までアメリカ合衆国に出張。
原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1… 原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1月29日 - 昭和24年(1949年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員、貴族院議員。