本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元… 本田 親済(親濟、ほんだ ちかなり、1864年7月13日(元治元年6月10日)- 1922年(大正11年)1月14日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。幼名・大吉。位階は正四位。勲等は勲四等。 薩摩藩士・本田親雄の二男として生まれる。1898年(明治31年)12月、親済と改名。父の死去に伴い、1909年(明治42年)3月25日、男爵を襲爵した。 札幌農学校、帝国大学法科大学を修了。イギリスに留学して、1890年(明治23年)英国ニューポート大学を卒業。 帰国後、食塩 (株) 社員、駅逓 (株) 社員、芝銀行取締役、鴻池銀行東京支店副長、宮内省式部官、逓信大臣秘書官代理などを務めた。
広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日… 広瀬 鎮之(廣瀬 鎭之、ひろせ ちんし、1864年7月11日(元治元年6月8日)- 1930年(昭和5年)10月21日)は、日本の実業家、漁業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡藪田村(のち富山県氷見郡藪田村、現:氷見市)で、素封家・広瀬義太郎の長男として生まれる。小学校を卒業し、金沢で漢学を、東京で禅学、語学を学んだ。 1885年頃、同郷の浅野総一郎が経営する秋田の鉱山で支配人に就任。日清戦争後、浅野らと台湾で事業を展開し、台北電燈取締役、台北米穀市場理事などを務めた。1910年、氷見に三漁組を設立して漁業経営を行った。その他、光針製造取締役、日本電気興業取締役、東方公司取締役、樺太炭礦取締役などを歴任した。
後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864… 後藤 快五郎(ごとう かいごろう、元治元年5月9日(1864年6月12日) - 昭和2年(1927年)1月11日)は、日本の実業家、政治家。町会議員、郡会議員、県会議員。旧姓小林。山陰鉄道敷設最大の功労者である。 出雲国能義郡布部村宇波(現・島根県安来市)出身。広瀬の山村塾・県立松江中に学び、小学校教師を勤めた。 明治20年(1887年)鳥取・米子の名門商家後藤家の養子となる。養子のため当主が代々襲名する市右衛門を名乗ることはなかった。当時後藤家の経済はやや苦しかったが、為替倉庫業・質業などで次第に業績をあげた。刻煙草製造業も経営していたが、煙草専売法施行後、松江との競争に勝って岡山専売局の出張所誘致に成功し、その働きによって山陰の煙草元売捌権を得た。
富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治… 富安 保太郎(とみやす やすたろう、1864年6月9日(元治元年5月6日)- 1931年(昭和6年)10月26日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 筑後国山門郡吉開村(現・福岡県柳川市三橋町吉開)で、柳河藩士・富安昌太郎の長男として生まれる。東京法学院を卒業。 博多商業会議所特別議員、福岡県教育会副会長、瀬高銀行頭取、九州製油社長、博多築港社長、博多電気軌道取締役、九州電気軌道取締役、日本毛織取締役、九州土地信託取締役、九州林業取締役、日本電報通信社取締役、福岡日日新聞社社長(昭和3年8月25日~4年11月22日)などを務めた。 政界では、福岡県会議員、同参事会員、同副議長、同議長を歴任。
岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日… 岡 烈(おか れつ、元治元年4月23日(1864年5月28日) - 大正6年(1917年)5月14日)は、日本の実業家。 長門国厚狭郡(現在の山口県)出身。 吉田松陰の松下村塾に学んだ後、上京して、明治法律学校(現明治大学)に学ぶ。卒業後、大蔵省税務官に任官。実業界に転向し、当時の大財閥であった鈴木商店に入り、支配人に就任(1906年)。更に、東京瓦斯(現東京ガス)の創立に携わり、設立と共に常務取締役に就任。1912年には帝国麦酒(現サッポロビール)を設立し、社長に就任。後に大正生命保険設立にも関与し、同社専務に就任。他にも、京王電鉄など数社の取締役、監査役を務めた。 1917年、死去。52歳没。
越 寿三郎(こし じゅさぶろう、元治元年4月8日〈1864年… 越 寿三郎(こし じゅさぶろう、元治元年4月8日〈1864年5月13日〉 - 1932年〈昭和7年〉3月11日)は、明治から昭和戦前期にかけて活動した日本の実業家である。長野県上高井郡須坂町(現・須坂市)の人物で、「山丸組」の名で製糸業を経営したほか、同地の電力会社信濃電気や同社から派生した信越窒素肥料(現・信越化学工業)の社長を務めた。 越寿三郎は、元治元年4月8日(新暦:1864年5月13日)、信濃国高井郡須坂村(後の長野県上高井郡須坂町、現・須坂市)に豪農・小田切新蔵(3代目)の三男として生まれた。実家小田切家は曽祖父にあたる初代新蔵が宗家から分かれ起こした家で、屋号は「東糀屋」。父新造は1875年(明治8年)から製糸業(山三製糸所)を営み、1889年(明治22年)からは須坂町会議員を務めた。
竜野 周一郎(たつの しゅういちろう、元治元年4月7日(18… 竜野 周一郎(たつの しゅういちろう、元治元年4月7日(1864年5月12日) - 昭和3年(1928年)4月11日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、実業家。 信濃国小県郡石神村(現長野県上田市)出身。旧制上田中学などで学んだ。明治14年(1881年)、小県郡の教育家の知識交換のために集義社を設立。同年、益友社という政社をおこし、自由党に加入した。自由党の遊説員として北信地方を回ったが、政府から演説を禁止されてしまった。 そこで軍談師の免許を取得して先憂亭後楽と称し、政治講談によって自由民権思想を広めた。明治17年(1884年)の飯田事件に関係したとして検挙されたが証拠不十分として免訴となった。
石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治… 石本 鏆太郎(いしもと かんたろう、1864年5月9日(元治元年4月4日) - 1933年(昭和8年)12月30日)は、大正から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員。大連市長。台湾から関東州へアヘン専売制を持ち込み巨万の富を築き大連のアヘン王と呼ばれた。 土佐国長岡郡八幡村(高知県長岡郡岡豊村八幡を経て、現在の南国市)に生まれる。東京大学予備門に学ぶ。渡清し、上海でフランス語、中国語を学ぶ。北京にも留学した。西郷隆盛大使附通訳官を経て、日清、日露両戦役に陸軍通訳として従軍する。ついで台湾総督府専売局翻訳官、関東州民政署満州利源調査委員、関東都督府事務嘱託を経て、大連市長に就任する。ほか、大連高等女学校や奉天日々新聞を経営する傍ら、アヘン製造販売業に従事し巨万の富を得た。
池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元… 池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日)- 1925年(大正14年)10月23日)は、明治後期から大正期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員。 備中国後月郡井原村猪原(岡山県後月郡井原村、井原町を経て現井原市井原町)で、宮六の二男として生れた。興譲館長・坂田警軒に師事し、同志社英学校を経て、1890年(明治23年)慶應義塾を卒業した。 岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、慶應義塾で教師を務め、自由新聞記者となる。山陽鉄道を経て、村井兄弟商会に入り上海支店長、工業部長を歴任。1900年(明治33年)渡米してタバコ事情を視察。1901年(明治34年)に帰国し、煙草専売局技師、東京第二煙草製造所長に就任。
大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年… 大塚 惟明(おおつか これあき、1864年5月7日(元治元年4月2日) - 1928年(昭和3年)12月28日)は、日本の実業家、政治家。南海電気鉄道株式会社元社長、讃岐電気軌道株式会社元取締役、大阪電球株式会社元取締役、阪神土地建物株式会社元取締役、元大阪市議。斬新な旅客サービスと電化推進で日本初の純民間鉄道を育てた。 1864年5月7日(元治元年4月2日)、肥後国(熊本県)の士族、大塚磨の長男として生まれる。父・大塚磨は、大阪に出て大阪商船社長、山陽鉄道取締役を務めた人物。惟明は北里柴三郎とは同郷で従兄弟関係にある。 1878年(明治11年)14歳で上京し東京府立第一中学校から大学予備門に進むが、キリスト教の影響を受け、大阪の英和学舎(立教大学の前身の一つ)、立教学校(立教大学の前身の一つ)、東京三一神学校(現・聖公会神学院)で学ぶ。
野澤 源次郎(のざわ げんじろう、(1864年(元治元年)5… 野澤 源次郎(のざわ げんじろう、(1864年(元治元年)5月6日 - 1955年(昭和30年))は、日本の実業家。貿易商社・野澤組の2代目。 長野県北佐久郡軽井沢町で大規模な別荘地開墾事業を行い、現在の旧軽井沢の風景を創り上げた人物として知られる。 1864年(元治元年)5月6日、東京府士族・野澤卯之吉の長男として生まれる。1882年(明治15年)、慶應義塾大学を卒業。父が設立した会社・野澤組に加わり、貿易商として本格化させる。 1883年(明治16年)、後に日本初の洋式国産リボンの製造を行うことになる実業家・岩橋謹次郎の妹・貞子と結婚する。 1895年(明治28年)、海外視察から帰国したのを機に、父・卯之吉とともに製帽会社「初音合資会社」を谷中初音町に設立。
牛田 唯一(うしだ ただいち、1864年4月19日(元治元年… 牛田 唯一(うしだ ただいち、1864年4月19日(元治元年3月14日)- 1918年(大正7年)11月2日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。 甲斐国都留郡玉川村(山梨県都留郡三吉村、南都留郡三吉村、谷村町を経て現都留市玉川)で牛田八郎の長男として生まれる。1878年(明治11年)上京して同人社で学んだ。1879年(明治12年)8月、家督を相続した。 帰郷後、戸長、組合村長、南都留郡会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)山梨県会議員に選出され、同参事会員、同議長も務めた。1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に山梨県郡部で立憲政友会所属で出馬して初当選。
塩川 幸太(しおかわ こうた、1864年4月8日〈元治元年3… 塩川 幸太(しおかわ こうた、1864年4月8日〈元治元年3月3日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月21日)は、日本の実業家、政治家、長野県の大地主。佐久銀行頭取。衆議院議員(長野県郡部選出、当選1回)。勲四等。族籍は長野県平民。 信濃国佐久郡森山村(現・長野県小諸市)生まれ。塩川仁助の長男。郡会議員、県会議員に選ばれる。1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。立憲政友会に所属。実業界では佐久銀行頭取、長野農工銀行取締役、長野貯蓄銀行監査役などをつとめる。 1883年、家督を相続する。住所は長野県北佐久郡三岡村。 塩川家は代々農業を営む。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
神部 為蔵(かんべ ためぞう、1864年3月18日(元治元年… 神部 為蔵(かんべ ためぞう、1864年3月18日(元治元年2月11日) - 1947年(昭和22年)1月31日)は、日本の実業家、政治家、土木技師。憲政会・立憲民政党所属の衆議院議員。 相模国高座郡本郷村(現神奈川県海老名市)で、池亀五兵衛の二男として生まれ、神部マスの養子となる。海軍計吏となり横須賀鎮守府在勤、さらに練習艦「館山」乗組みとなる。1889年(明治22年)7月、神奈川県庁に転じ同県技手に任官し、酒匂川の増水破堤改築工事に従事。1902年10月、北海道庁技手に転じ、1906年1月まで在任した。 その後、上川郡鷹栖村字近文(その後東鷹栖町を経て現旭川市)で牧畜業を経営し、さらに土木建築請負業を行う。
横井 藤四郎(よこい とうしろう、1864年3月12日(元治… 横井 藤四郎(よこい とうしろう、1864年3月12日(元治元年2月5日)- 1933年(昭和8年)6月11日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・清水。 若狭国遠敷郡国分村(福井県遠敷郡遠敷村を経て現小浜市国分)で、清水幸助の二男として生まれる。1892年(明治25年)9月、遠敷郡三宅村(上中町を経て現三方上中郡若狭町)の仮屋、横井惣右衛門の婿養子となる。漢学、数学、英学などを学び、日清戦争、日露戦争に従軍した。 共立物産 (株) 支配人となり、同社取締役、沖台拓殖製糖取締役、中立砂糖 (株) 監査役、ユニオン硝子専務取締役、江若鉄道取締役などを務めた。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙で福井県郡部から無所属で立候補したが落選。
奥田 栄之進(おくだ えいのしん、1864年3月11日(元治… 奥田 栄之進(おくだ えいのしん、1864年3月11日(元治元年2月4日) - 1945年(昭和20年)1月7日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(4期)。 奥田清蔵の二男として、薩摩鹿児島藩領日置郡串木野郷麓(鹿児島県日置郡串木野町、串木野市を経て現いちき串木野市)に生まれる。1881年(明治14年)7月、家督を相続する。おじ奥田直之助の跡を継いで1898年(明治31年)鹿児島県会議員に当選。副議長を経て、1902年(明治35年)同議長に就任。同参事会員も務めた。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙では鹿児島県郡部から出馬し当選する。
鎌田 勝太郎(かまだ かつたろう、諱・正康。号・淡翁、186… 鎌田 勝太郎(かまだ かつたろう、諱・正康。号・淡翁、1864年2月29日〈元治元年1月22日〉 - 1942年〈昭和17年〉3月28日)は、戦前日本の実業家、政治家、社会事業家、資産家、醤油醸造家(堺屋)、香川県多額納税者、地主。貴族院多額納税者議員(4期)。衆議院議員(当選1回)。従五位勲三等。族籍は香川県平民。 坂出塩業の振興につとめ「讃岐坂出塩業の父」とも称される。貴族院政治史上最多の当選回数(4選)の保持者でもあり、貴族院の重鎮としても君臨した。 醤油醸造を業とする家に生まれた。鎌田正平の長男。2歳、あるいは3歳の時、父親が死亡し、祖父母と母親の手で育てられた。1876年8月、家督を相続した。
初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月… 初代 金岡 又左衛門(かなおか またざえもん、1864年2月29日(元治元年1月22日)- 1929年(昭和4年)6月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。幼名・米太郎。 越中国新川郡新庄新町村(富山県上新川郡新庄町を経て現富山市新庄町)で、薬種業・金剛寺屋又右衛門、たみ夫妻の長男として生まれる。1879年(明治12年)9月20日、16歳で父が死去して又左衛門に改名し家業を継いだ。1879年(明治12年)富山医学所に入学したが、1881年(明治14年)4月同校の廃校により退学を余儀なくされた。その後、林周平から3年ほど漢学を学んだ。 密田孝吉との出会いで電気事業に関心を持ち、1897年(明治30年)11月に富山電灯(のち日本海電気)を設立して社長に就任した。
臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4… 臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4年1月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉7月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。族籍は鳥取県士族。 因幡国法美郡立川町(現鳥取県鳥取市立川町)で、鳥取藩士・臼田久雄、つね夫妻の二男として生まれる。立川小学校を卒業後、京都市丸太町烏丸の林益習館で学んだ。 小学校教員を経て、第八十二国立銀行に勤務。1895年(明治28年)神戸の戸崎商店に入り大牟田支店詰となる。1905年(明治38年)に独立して臼田商会を設立。鉄道鉱山用材料の輸入商を営み、炭鉱に鉄類などを納入して事業を発展させた。 その後、三池無尽取締役、大牟田瓦斯取締役社長、帝国セメント監査役、大牟田製氷取締役社長、博多株式取引所理事などを務めた。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年… 牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年1月6日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、実業家。アメリカに移民し、「馬鈴薯王」と呼ばれた。勲四等、雅号に別天。現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。妻は同志社総長, 下村孝太郎の妹である.
利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年… 利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年12月29日) - 1945年(昭和20年)7月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(当選2回、東京府第五区選出)。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)創業者。星亨の側近。 豊後国(現大分県)生まれ。1879年、家督を相続。岡山に出て漢学塾に於いて陽明学を修め、上京し、明治法律学校に入学(1900年に推薦校友となる)。代言人試験に合格し、代言人(弁護士)となる。その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)を創業した。 1864年2月6日(文久3年12月29日)、豊後国大分郡稙田村字粟野(現・大分県大分市大字稙田)にて利光市松、シン子夫妻のもとに生まれる。
菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年1… 菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年12月25日)- 1934年(昭和9年)3月6日)は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。 陸奥国田村郡北鹿又村(福島県田村郡美山村大字北鹿又村、船引町を経て現田村市船引町北鹿又)で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した。1882年(明治15年)11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村(現喜多方市熊倉町新合)の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年(明治16年)2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年1… 清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年12月8日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国盛岡(現岩手県盛岡市)生まれ。父親行三の関係で秋田で過ごし太平学校(旧制秋田中学校、現秋田県立秋田高等学校)を卒業。1882年(明治15年)から1894年(明治27年)まで岩手県庁に勤務。1894年から1901年(明治34年)まで盛岡市長を務めた。1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬して原敬に敗れる。その後、盛岡電気社長、巖手日報の主筆、同社長などの事業を手がけた。
盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年… 盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年12月7日) - 1937年(昭和12年)2月24日)は、日本の実業家。敷島製パンの創業者で初代社長。 尾張国知多郡小鈴谷村(現・愛知県常滑市)で造り酒屋を営んでいた盛田太助の五男で、敷島製パンの現社長盛田淳夫はひ孫。中埜酢店(現・ミツカン)の4代中埜又左衛門は叔父に当たる。 1864年1月15日(文久3年12月7日)、造り酒屋の五男として生まれた善平は家業を継ぐも酒税法の改正により廃業。当時ミツカンの創業家である中埜家の養子となっていた叔父の4代中埜又左衛門から「ビールづくりを手伝って欲しい」と頼まれたのを期に独学でビール造りを学び、1887年(明治20年)に又左衛門と共に丸三麦酒醸造所を創業する。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月… 内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月1日 - 1936年(昭和11年)2月10日)は、日本の会社役員。大日本麦酒(現サッポロビール)監査役。岡山県岡山市出身であり、族籍は岡山県平民。 岡山県上道郡富山村(現:岡山市)の内田武壽の長男として出生する。。1873年、家督を相続する。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制横浜商業学校(現:横浜市立大学)を経て、三井物産へ入社する。三井物産横浜支店、山陽倉庫銀行、岡山銀行等に勤務して同郷の先輩馬越恭平の知遇を得て大日本麦酒に入り、以来累進して商務課長、名古屋出張所長及び東京出張所長、取締役、監査役等を歴任する。 妻は赤龍丸事件を起こした鹿児島士族江田(ごうだ)兼親の娘雪(俗名幾子)。
石川 貞治(いしかわ ていじ、1864年 - 1932年)は… 石川 貞治(いしかわ ていじ、1864年 - 1932年)は、日本の教育者・文化人類学者・技師・実業家・技官。 島根県浜田市生まれ。1884年札幌農学校入学。1888年同校卒業(7期)。卒業後、考古学や文化人類学の研究者として札幌農学校助教授に就任。1896年拓殖務省技師に就任。その後、北海道庁にて鉱山・測量の技術者となる。同庁を退官後、北海道における金山・炭坑・油田の開発や経営を手掛ける。特に、鉱床開発では、手稲山が有名で、鉱業権を取得し、手稲鉱山と命名。その後、大津和多理、大町信、岡元輔、浅羽靖と共に、札幌農学校予科入学を目指す中等教育機関として北海英語学校中等部を創立。また、北海中学校・北海高等学校の創立にも大きく寄与した。
宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 19… 宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、北海道・大沼公園の観光地化に尽力した日本の実業家。明治時代から昭和初期にかけて活動し、鉄道や宿泊施設の経営、観光資源の開発を通じて地域経済に大きな影響を与えた。 岩手県宮古市金浜(旧下閉伊郡磯鶏村大字金浜第四地割七拾番地)に生まれる。祖父勝弥の次男多次郎(天保十四年十月二日生)が父である。ー 北海道へ出稼ぎに行った父を追って、16歳(明治十三年三月十四日)の時、船で函館へ渡るが多次郎には会えぬまま、土工現場に従事した。 17歳の時、森田常吉率いる博徒団体マルモ一家(マルモは○の内側にモ)の創設に参加。- 明治20年(1887)から、函館を本拠に、全盛期には北海道、樺太、東京、青森、宮城、山形、秋田、岩手、新潟の1府2丁6県下に勢力を持ち、2万余の子分を擁した一大組織マルモ一家のナンバー2だったが、38歳で脱退。
長瀬 富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863… 長瀬 富郎(ながせ とみろう、文久3年11月21日(1863年12月31日) - 明治44年(1911年)10月26日)は実業家。花王の創業者。 美濃国恵那郡福岡村(現在の岐阜県中津川市福岡)の造り酒屋に生まれる。12歳の時に、母親の実家である加茂郡神土村(後の加茂郡東白川村神土)へ奉公に出る。17歳のとき奉公先の店主の弟が独立したのに従い店を移る。 23歳の時に、店を辞め上京する。150円の資金で米相場を張っても失敗し、無一文になる。この時の挫折を教訓とし、「堅実に生きる」事を終生の誓いとする。 出直すべく日本橋馬喰町の小物問屋に入店、経営を任されるまでになる。その後1887年、23歳で独立を果たし「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業する。
大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久… 大槻 龍治(おおつき りゅうじ、1863年12月27日(文久3年11月17日) - 1927年(昭和2年)6月25日)は、日本の官僚、鉄道実業家である。陸軍中将の白石通則は義理の兄弟。 宮城県出身。仙台藩士の大槻武治の次男だったが、兄の大槻栄行の養子となり家督を継ぐ。1890年に帝国大学法科を卒業した後に農商務省に入省し、1902年には参事官に任じられた。神奈川、京都、鳥取の各参事官、大蔵省主税官、長崎税関長などを歴任し、1905年に大阪税関長に就任し、1913年6月に熊本税務監督局長に就任した。 1915年から1927年までに大阪電気軌道社長を務め、債務の整理を行い、建設費の高騰で苦しんでいた大軌を再建した。
3代 小林 万次郎(こばやし まんじろう、1863年12月1… 3代 小林 万次郎(こばやし まんじろう、1863年12月15日(文久3年11月5日)- 1919年(大正8年)9月27日)は、日本の地主、実業家、政治家。衆議院議員、長野県下高井郡中野町長。旧名・清水直。 信濃国水内郡温井村(長野県下水内郡岡山村を経て現飯山市)の清水家で生まれ、高井郡松川村(下高井郡中野町松川を経て現中野市)の素封家・2代小林万次郎の養子となる。3代小林万次郎を襲名した。生糸商を営んだ。 1901年(明治34年)中野町長に就任。1903年(明治36年)長野県会議員に選出され1期在任した。1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙で長野県郡部から選出された石塚重平の死去に伴い、1907年(明治40年)9月に行われた補欠選挙で当選し、立憲政友会所属で衆議院議員を1期務めた。
堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12… 堀谷 左治郎(ほりや / ほりたに さじろう、1863年12月7日(文久3年10月27日) - 1925年(大正14年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・岸田。左次郎と表記される場合がある。 松代藩士・岸田鉄治の二男として生まれる。1876年(明治9年)に上京し、1879年(明治12年)同人社を卒業。さらに、商業学校、早稲田中学校で学んだ。1880年(明治13年)ころ横浜の叔父・堀谷真治の養子となる。 養家の質商・米穀仲買業に従事。日本絹綿紡績社長に就任し、1892年(明治25年)東京移民会社を創設して数千人の移民を送り出した。その他、横浜実業銀行重役、横浜実業貯蓄銀行重役、安全石油監査役、横浜商業会議所議員などを務めた。
白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10… 白仁 武(しらに たけし、1863年12月1日(文久3年10月21日)- 1941年(昭和16年)4月20日)は、日本の内務官僚・実業家。官選栃木県知事、日本郵船社長、八幡製鉄所長官。 柳河藩主立花家家従・白仁成功の長男として生まれる。1883年(明治16年)家督を相続。柳河中学、共立学校、大学予備門を経て、1890年(明治23年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年7月、内務省に入り内務試補として会計局に配属された。 1890年11月、県治局勤務となる。以後、内務省参事官、北海道庁参事官・内務部郡治課長、同部地理課長、文部書記官、拓殖務書記官、内務事務官、内務書記官・大臣官房北海道課長、内務省神社局長兼総務局北海道課長などを歴任。
八木 亀三郎(やぎ かめさぶろう、1863年〈文久3年〉12… 八木 亀三郎(やぎ かめさぶろう、1863年〈文久3年〉12月- 1938年〈昭和13年〉7月)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家であり、1938年(昭和13年)まで存在した八木商店の経営者、北洋漁業の先駆者として知られる。愛媛県今治市に残る八木商店本店店舗は登録有形文化財に登録されている。 伊予松山藩(現在の愛媛県今治市)生まれ。1863年(文久3年)に波止浜塩田で製塩・塩廻船業を営む八木友蔵(升屋友蔵)の長男として生まれ、1877年(明治10年)に分家独立した後に水産業に進出、1893年(明治26年)にニコライエフスクに拠点を構え、当時の実業界からは日露貿易・北洋漁業の先駆者の一人と目されていた。
田中 秀治郎(たなか ひでじろう、1863年11月30日(文… 田中 秀治郎(たなか ひでじろう、1863年11月30日(文久3年10月20日)- 1922年(大正11年)8月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑前国怡土郡、後の長糸村(現福岡県糸島市)で、田中喜蔵の二男として生まれる。福岡の正木昌陽、豊前中津の大久保啓蔵から漢籍を学ぶ。1902年(明治35年)東京法学院を卒業した。 大阪で染色を学び福岡市東中洲で染色業を営んだ。その後帰郷して、長糸村役場に就職し兵事係となる。1892年(明治25年)長糸村会議員に選ばれ、さらに学務委員、福岡県会議員、糸島郡会議員、同参事会員、糸島銀行常務取締役などを務めた。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙(福岡県郡部)で当選し、衆議院議員を1期務めた。
小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文… 小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文久3年10月12日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。日本工業常務取締役。旧姓・芦田。 京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)、芦田信治の次男。小室静三の養子となる。静三の長女べんと結婚する。後に本籍を宮津町字魚屋に移す。20歳の頃に京都日報に入り、編輯課に従事する。宮津町へ移転と同時に丹州汽船会社に入り支配人となり、1892年2月に辞職。 1887年3月、大阪控訴院で公証人登用試験に合格、また与謝郡郡会議員に当選、任期満了により退職する。1892年4月に司法省より公証人を命じられ、1904年4月に願いにより職を免ぜられる。 1904年、支那杭州で武林洋行を設立し、大阪店主任となる。
上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、18… 上郎 清助(こうろ / こうろう せいすけ、旧姓・吉田、1863年11月17日〈文久3年10月7日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月18日)は、日本の実業家、政治家、資産家、神奈川県多額納税者。 貴族院議員、神奈川県会議長、横浜市会議員。横浜中央銀行、上信銀行各頭取。横浜信託社長。族籍は神奈川県平民。 武蔵国橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田三郎兵衛の弟で、磯野庸幸、上郎新二の兄。生家の吉田家は屋号を「堀上(ほりあげ)」といい、天保年間より醤油の醸造をしていた。1893年、上郎幸八の女婿となる。1905年、分家して一家を創立する。 東京大学予備門を経て、1890年、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(18… 一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(1863年11月6日) - 昭和4年(1929年)11月5日)は、日本の実業家。河北新報社創業者(社主)。旧姓鈴木。宮城県平民。 河北新報元社長の一力次郎の父。元河北新報社社主の一力一夫の祖父。河北新報社社長の一力雅彦の曾祖父。囲碁棋士の一力遼の高祖父。 太町の唐物商の鈴木作兵衛の四男として生まれた。後に隣家の茶商である一力松治郎の養子となる。東華学校、第二高等中学校を卒業後、上京。国民英学会にて学ぶ。また、第二高等中学在学中には、くまじ夫人との間にすでに、一男一女をもうけていた。 仙台での書店経営で実業界入りし、植林会社(宮城植林株式会社)を興し創業。
飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年… 飯島 保作(いいじま ほさく、文久3年9月21日(1863年11月2日) - 昭和6年(1931年)7月26日)は明治時代から昭和時代初期の日本の実業家。第十九国立銀行頭取。号は花月。 信濃国小県郡上田城下(現長野県上田市)の和泉家に生まれ、のち飯島家の養子となった。小学校を卒業して三等郵便局長となる。一時政治に関心を持ち、立憲改進党系の結社・己丑倶楽部に入って活躍。明治29年(1896年)小県郡上田町の収入役、明治32年(1899年)小県郡会議員となる。一方、諏訪倉庫や上田倉庫の取締役、上田商業会議所会頭などを歴任して経済界に腕を振るう。 大正8年(1919年)第十九国立銀行頭取に就任、昭和恐慌に際し、松代の第六十三国立銀行との合併による八十二銀行の創立に奔走したが、合併直前に腸チフスで急逝した。
須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈… 須藤 善一郎(すどう ぜんいちろう、1863年10月30日〈文久3年9月18日〉- 1937年〈昭和12年〉4月10日)は、明治から昭和初期の畜産家、実業家、政治家。衆議院議員、秋田県由利郡本荘町長。幼名・広太郎。雅号・寿堂、松園。生涯、馬産改良に尽力した。 出羽国由利郡本荘中町(秋田県由利郡本荘町、本荘市を経て現由利本荘市中町)で、大地主・須藤善太郎、ナオの長男として生まれた。長安寺の寺子屋、本荘藩藩校を経て、1877年(明治10年)小学校を卒業した。以後、自宅に招いた教師から歴史、漢学、英語を修めた。1879年(明治12年)9月、父が死去して家督を相続し善一郎に改名した。1880年(明治13年)ころに同志を募って夜学講習会を立上げ会長に就任した。
久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年1… 久保 通猷(くぼ つうゆう、文久3年9月16日(1863年10月28日) – 昭和12年(1937年)5月2日)は、日本および同統治下台湾の官僚、政治家、実業家。衆議院議員(立憲政友会→中正会)。福岡県若松町長。 長門国厚狭郡厚西村(現在の山陽小野田市)出身。小学校卒業後、独学で文学、政治、経済、法律を学び1895年(明治28年)、高等文官試験に合格し、内務省、台湾総督府、地方官として勤務した。退官後は1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選、そのほか若松町長も務めた。その他に私立興風中学校理事長を務め、その後大連に渡り、大連大正米製造合資会社の代表を務めた。
関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう / きつたろう、18… 関矢 橘太郎(關矢、せきや きちたろう / きつたろう、1863年10月26日(文久3年9月14日)- 1912年(明治45年)4月10日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県北魚沼郡下条村長。諱・忠和、号・雙柳。 越後国魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村並柳を経て現魚沼市)で、素封家・関矢孫左衛門の長男として生まれた。 1881年(明治14年)地域の冬期副業として機織工場(殖産会社)を設立して頭取に就任。1883年(明治16年)同志と益友会を組織し教育補修、知識の交換、学術の錬磨を図った。1897年(明治30年)小出町に病院を設立。1899年(明治32年)小千谷石油の設立に参画し取締役に就任。
上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(… 上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(文久3年 8月30日)- 1917年(大正6年)3月13日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県江沼郡動橋村長。 加賀国江沼郡動橋村(石川県江沼郡動橋村字動橋、動橋町を経て現加賀市動橋町)で生まれた。製油業を営む。石川県農工銀行取締役に在任。 動橋村長、江沼郡会議員を務めた。1897年(明治30年)6月、石川県会議員に当選したが、同年12月に失職した。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(石川県郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員に1期在任。1909年(明治42年)6月1日、衆議院議員選挙法違反事件の判決により当選が無効となった。
早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久… 早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久3年8月8日〉 - 1916年〈大正5年〉4月17日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県海津郡今尾町(平田町を経て現海津市)出身。早川理右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)10月、家督を相続する。 1890年(明治23年)の岐阜県会議員選挙に安八郡選挙区から立候補して初当選を果たしたが、任期途中で辞職した。そのほか、南濃銀行頭取、土地家屋貸付会社社長、七十六銀行、真宗生命保険、大垣銀行、美濃商業銀行、竹鼻銀行、岐阜市貯蓄銀行、濃飛農工銀行、治水共同社、福寿生命保険取締役、美濃貯蓄銀行、高須貯蓄銀行各重役などを歴任した。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年… 藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)は、佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。福澤諭吉門下直系の実業家として、東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。正五位勲三等。 1919年(大正8年)に藍綬褒章、1923年(大正12年)に紺綬褒章を受章。次いでフランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。
坂田 貞(さかた ただす、1863年9月13日(文久3年8月… 坂田 貞(さかた ただす、1863年9月13日(文久3年8月1日) - 1937年(昭和12年)9月25日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥後国八代郡植柳村(熊本県八代郡植柳村を経て現八代市)出身。橋本寛の長男として生まれ、先代範英の養子となり1872年(明治5年)家督を相続する。 1891年(明治24年)以降、植柳村会議員、同村農会長、熊本県会議員、同県農会長、八代郡会議員、郡参事会員、同農会評議員、帝国農会議員のほか、九州商業銀行取締役、九州新聞社監査役などを歴任した。 1925年(大正14年)9月には熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され同年9月29日に就任し、交友倶楽部に所属し1932年(昭和7年)9月まで務めた。
大橋 新太郎(おおはし しんたろう、文久3年7月29日(18… 大橋 新太郎(おおはし しんたろう、文久3年7月29日(1863年9月11日) - 1944年(昭和19年)5月5日)は、明治時代から昭和時代にかけての実業家・政治家。父の大橋佐平とともに博文館を創業し、明治・大正時代の出版界の王者となり、印刷から販売まで手がける出版コンツェルンを構築した。また。衆議院議員・貴族院議員にも選ばれたほか、日本工業倶楽部会長を務めた。 父の大橋佐平は越後長岡の開明的な商人で、出版・新聞などの情報産業にいち早く着目し、新潟県から東京に進出して近代出版業の先駆者となった。 博文館は、佐平と新太郎の父子が協力して創立した出版社で、日清戦争・日露戦争などの報道によって爆発的な利益を得るとともに、尾崎紅葉を盟主とする硯友社の文学運動に「文芸倶楽部」などの発表の場を提供することによって当時の文壇の首脳部を手中に収めた。
下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年… 下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年9月9日(文久3年7月27日)- 1934年(昭和9年)12月27日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国群馬郡前橋本町(群馬県東群馬郡前橋本町、前橋町本町を経て現前橋市)で、初代前橋市長となる下村善太郎の長男として生まれた。父の方針で福沢諭吉から直接個人教育を受けた。1882年(明治15年)自費で4名の青年を海外に留学させた。 政界では、前橋市会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)群馬県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、無所属)で初当選。第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。