野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月… 野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月22日〉 - 1913年〈大正2年〉10月3日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政本党)。勲等は勲四等。 淡路国三原郡賀集村(現・南あわじ市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだ後、賀集村会議員、三原郡町村組合会議員などを務める。1892年(明治25年)2月、兵庫県会議員に三原郡選出で当選した。その後、再選した。1894年(明治27年)5月25日に賀集村長に就任した。1896年(明治29年)10月1日、府県制施行に伴い、県議を失職した。同月20日に村長を退任した。また、同年当選期の三原郡会議員に補欠当選して、1899年(明治32年)まで務めている。
油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年8月29日(文久3… 油屋 熊八(あぶらや くまはち、1863年8月29日(文久3年7月16日) - 1935年(昭和10年)3月27日)は、日本の実業家。 伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として生まれ、家業を継いで妻ユキを娶る。1888年(明治21年)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。35歳の時に別府に住む亀井タマエという女性に妻の身を託しアメリカに渡る。アメリカを放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年滞在。帰国後、再度相場師となるがうまくいかず、1911年(明治44年)妻を頼って別府を訪れる。
小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8… 小室 三吉(こむろ さんきち、文久3年7月9日(1863年8月22日) - 大正9年(1920年)10月18日) は、日本の実業家。戦前三井財閥の幹部で、三井合名参事、三井家同族会理事などを務めた。 江戸出身。ロンドン留学後、1883年商法講習所(現一橋大学)卒業。同期に福井菊三郎。1884年に三井物産入社。香港支店長、上海支店長、ロンドン支店長などを経て、1906年理事。1909年取締役、三井合名参事。のち、三井家同族会理事。1913年三井合名監査部幹事長。1916年東京海上保険取締役。1918年大正海上火災保険監査役。1920年に病気で危篤となり叙従六位。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1… 早川 千吉郎(はやかわ せんきちろう、文久3年6月21日(1863年8月5日) - 大正11年(1922年)10月14日)は、明治、大正期の官僚、実業家、政治家。三井財閥の幹部の一人。 石川県金沢市出身。明治20年(1887年)、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。明治22年(1889年)、同大学院農政学研究科修了。明治23年(1890年)1月、大蔵省入省。明治32年(1899年)日本銀行監理官。明治33年(1900年)辞職。 明治34年(1901年)、三井銀行専務理事。明治42年(1909年)三井銀行常務取締役。大正7年(1918年)、三井合名会社副理事長。1920年(大正9年)6月2日、貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。
井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久… 井原 喜代太郎(いはら きよたろう、1863年8月5日(文久3年6月21日)- 1920年(大正9年)8月6日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県会議長、佐賀県藤津郡南鹿島村長。俳号・黄渓。 肥前国藤津郡高津原村(佐賀県藤津郡南鹿島村、鹿島町、現鹿島市横田)で、鹿島藩士・井原五兵衛(陶一、為助)の長男(長子)として生まれる。谷口藍田(中秋)から漢学を学び、鹿島変則中学で普通学を修めた。その後上京し、専修学校(現専修大学)で学び、慶應義塾を卒業した。1882年(明治15年)12月、家督を相続した。 1886年(明治19年)鹿島銀行の創立に参画し、佐世保支店長、取締役、頭取を歴任。
南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3… 南嶋 間作(みなみじま まさく、1863年7月31日(文久3年9月13日)- 1899年(明治32年)2月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 越中国射水郡新湊放生津町(石川県射水郡新湊放生津町、富山県射水郡新湊放生津町、新湊町、新湊市を経て現射水市放生津町)で、徳三の長男として生まれた。岡田呉陽に漢学を学んだ。高岡(現高岡市)の商家で奉公し、その後、大阪・渋谷塾で数学を学び、東京・豊国校で簿記学を慶應義塾で政治学・経済学を学んだ。1886年(明治19年)父の病のため帰郷した。 新湊町立卓立小学校長、同廉貞小学校長に就任。1888年(明治21年)四日曽根小学校長、荒屋小学校長を兼務。1889年(明治22年)小学校長を辞職し、上海で海運事情を視察して帰国した。
漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6… 漆間 民夫(うるま たみお、1863年7月31日(文久3年6月16日)- 1926年(大正15年)7月26日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・守太郎。号・履堂、千畝。生地銀行創立者。 越中国新川郡生地村(石川県新川郡生地村、下新川郡生地村、富山県下新川郡生地村、生地町を経て現黒部市生地)で、素封家、酒造業・漆間次郎右衛門の長男として生まれた。1877年(明治10年)岡田呉陽の塾に入門。1883年(明治16年)上京して明治義塾で学び馬場辰猪から薫陶を受けた。 島田孝之、田村惟昌らと自由民権運動に尽力。富山県奨学委員、生地村外4ケ村奨学委員、富山県免囚保護会評議員を務めた。
宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年… 宇田川 銀之助(うだがわ ぎんのすけ、旧姓・福室、1863年6月29日〈文久3年5月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、資産家、商人(酒醬油商)、会社役員。東京市神田区会議員。共立土地建物取締役。族籍は東京府平民。 東京府豊多摩郡上落合村(現・東京都新宿区上落合)出身。福室藤左衛門の三男。浅草平右衛門町の酒家の宇田川に養子となり、1896年に家督を相続する。 酒醬油商を営む。養父・金蔵は老衰していて家業は甚だ振るわなかったので、身を挺して難局に当たった。 信仰に厚く、平常弘法大師に帰依し、諸国の霊場を巡拝した。住所は東京神田同朋町(現・東京都千代田区外神田)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年… 秋岡 義一(あきおか ぎいち、1863年6月26日〈文久3年5月11日〉- 1925年〈大正14年〉3月31日)は、明治から大正期の日本の地主・農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。妻のタニは、川端康成の母方の叔母。 摂津国東成郡蒲生村(大阪府東成郡鯰江村を経て現大阪市)で、大地主、豪農・秋岡伊兵衛の長男として生まれる。1884年(明治17年)4月、家督を相続し農業を営む。 実業界では、朝鮮綿業監査役、京阪電気鉄道監査役、京阪土地建物監査役、大阪農工銀行頭取、利別農場業務執行社員などを務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙で大阪府第4区から無所属で出馬して初当選。その後、第11回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算8期在任した。
頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月1… 頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月16日〉 - 1926年〈大正15年〉12月3日)は、日本の政治家(衆議院議員、当選1回)、広島県多額納税者、広島県の大地主、名望家、資産家、実業家。竹原銀行取締役頭取。木ノ江汽船相談役。族籍は広島県平民。 安芸国竹原(現・広島県竹原市)出身。頼廉次郎の長男。和漢学及び英学を修めた。町会議員に挙げられた。農業、製塩業、金穀貸付業を営んだ。1894年、広島県第5区より選ばれて衆議院議員となった。実業同志倶楽部、大手倶楽部に所属。 江戸後期の儒者、勤王家頼山陽の叔父頼春風の曽孫にあたる。家は累世栄え、俊直に至り、その富は益々大になり、「竹原町随一の長者」と称呼された。
坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文… 坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文久3年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。坂口商店代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身。木綿商・坂口平吉郎の三男。坂口喜平の養子となる。 尾高区区長、西伯郡会議員、米子町収入役、米子町会議員、米子製糸取締役、米子製鋼所監査役、西伯酒造組合長、西伯醤油製造同業組合長などをつとめる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年… 町田 忠治(まちだ ちゅうじ、文久3年3月30日(1863年5月17日) - 昭和21年(1946年)11月12日)は、明治から昭和期の政治家、実業家、ジャーナリスト。 衆議院議員(当選10回)。立憲民政党・日本進歩党総裁、農林大臣・商工大臣・大蔵大臣(兼任)などを歴任したが最晩年は公職追放された。正三位勲一等。号は幾堂。愛称はノンキナトウサン。 出羽国秋田郡久保田城下の秋田保戸野八丁新田上丁(現秋田県秋田市保戸野八丁)に秋田藩士・町田伝治の四男として誕生。父伝治は3歳の時に亡くなったため、祖父町田平治と母シン子によって育てられた。大正期の『中央公論』編集長・滝田樗陰は甥にあたる。 1875年(明治8年)に叔母町田直の養子となり、家督を継いだ。
上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年… 上村 杢左衛門(うえむら もくざえもん、1863年〈文久3年〉5月10日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、三河国渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)出身の実業家。東三河地方では指折りの事業家であるとされる。渥美半島における様々な企業の創業に関与し、海運業、電気事業、陸運業、金融業などで半島の発展に寄与した。衆議院議員の上村千一郎は孫。 1863年(文久3年)5月10日、三河国渥美郡畠村614番地(現在の愛知県田原市福江町)に生まれた。上村家は畠村の庄屋を務めていた家である。父は上村杢八、母はもとであり、母は知多郡師崎村(現在の南知多町)出身だった。杢左衛門は長男である。1867年(慶応3年)には父の杢八が死去し、4歳にして杢左衛門が上村家を相続した。
永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863… 永田 仁助(ながた にすけ[要出典] / じんすけ、1863年5月9日(文久3年3月22日)- 1927年(昭和2年)3月10日)は、明治・大正期の実業家、政治家。浪速銀行頭取、貴族院勅選議員。 摂津国西成郡(後の大阪市南区高津町四番丁。現在の大阪市中央区高津)で、米穀商・永田仁左衛門の長男として生まれる。藤沢南岳の泊園書院(現在の関西大学)で漢籍を学んだ。その後、家業を廃し、1889年(明治22年)第1回大阪市会議員選挙で当選。その後、大阪府会議員にも選出された。 その後、大阪の経済発展の必要性を考え、1894年(明治27年)8月、大阪明治銀行の設立に際して取締役に就任。その後、大阪市中銀行の合同の計画を推進し、1898年(明治31年)に浪速銀行が設立されると常務取締役となり、1908年(明治41年)第3代頭取に就任し、1913年(大正2年)まで在任した。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4… 長谷川 亀一郎(龜一郎、はせがわ かめいちろう、1863年4月14日(文久3年2月27日)- 1927年(昭和2年)3月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 尾張国丹羽郡、のちの愛知県丹羽郡穂波村(西成村を経て現一宮市)で、尾張藩士・長谷川甚左衛門の二男として生まれた。鷲津私立学校で漢学を修めた。製糸業、石炭販売業を営む。日清戦争に従軍。 木曽川三川四百七箇村土功会議員、愛知県会議員、丹羽郡会議員、同参事会員、愛知県税賦課額調査委員を務めた。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第4区、無所属)で当選し、その後、新自由党に所属し衆議院議員に1期在任した。 その後、愛知県湯屋連合組合組長、愛知県会議員、同市部会議長、名古屋市会議員、名古屋商業会議所特別議員、日本赤十字社終身社員などを務めた。
津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2… 津村 紀陵(つむら きりょう、1863年4月9日(文久3年2月22日) - 1933年(昭和8年)12月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。前名・光三郎。 素封家・津村重兵衛の長男として紀伊国那賀郡、のちの和歌山県那賀郡山崎村(岩出町を経て現岩出市)で生まれる。1904年(明治37年)3月、家督を相続し紀陵と改名した。 1884年(明治17年)中野黒木村外8カ村戸長に就任。和歌山県会議員を経て、紀南索道、野上軽便鉄道、秋津川水力電気各社長、和歌山倉庫銀行取締役などを歴任した。1918年(大正7年)6月和歌山県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1925年(大正14年)9月28日まで在任した。
臼井 哲夫(うすい てつお、1863年3月18日(文久3年1… 臼井 哲夫(うすい てつお、1863年3月18日(文久3年1月29日)- 1935年(昭和10年)6月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡島原村(現:長崎県島原市)で、臼井三平の長男として生まれる。島原学校、松風義塾、小叩塾などを経て慶應義塾で学ぶ。 1880年、同志と共に西海日報社を創立し、翌年まで同紙の記者を務めた。1888年、日本輸出米商社事務長に就任。以後、総武鉄道庶務課長、近江鉄道取締役、磯湊鉄道取締役、上野鉄道社長、吾妻川電力社長などを歴任した。 1883年、長崎県会議員に当選。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙において長崎県第三区から出馬し当選。その後、第8回、第9回、第10回総選挙でも当選。
近藤 喜兵衛(こんどう きへえ、1863年3月13日〈文久3… 近藤 喜兵衛(こんどう きへえ、1863年3月13日〈文久3年12月8日〉 - 1932年〈昭和7年〉)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者。鉱山業、近藤本店店主。近藤家第6代。 伯耆国日野郡根雨宿(のち鳥取県日野郡根雨町、現日野町)出身。近藤喜八郎の長男。1883年、家督を相続する。製鉄業、商業を営む。 所謂伯耆鉄の品質を改良し、欧州大戦勃発以来専ら特殊銑鉄の供給に当たり、1ヶ年砂鉄採取額1万2千噸、製鉄産額3千噸、この価格45拾万円、1日平均2千人の労働者を使用し、国家の危急に応じたが、1919年以来外国鉄の輸入に圧せられ、事業を休止した。 製鉄業の休止による数千人の失業者救済は、最も腐心する所であって、その際一大英断をもって製炭事業を起し、職工全部をこの方面に転業させた。
林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年… 林 小参(小參、はやし こさん、1863年3月9日(文久3年1月20日)- 1921年(大正10年)11月21日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・小原。 尾張国春日井郡上条村(愛知県春日井郡和爾良村、東春日井郡和爾良村、鳥居松村を経て現春日井市上条町)で、小原藤三郎の長男として生まれ、皇漢学、英学、撃剣、柔術を学んだ。1881年(明治14年)先々代林金兵衛の養子となり、先代・亡養兄国太郎の家督を相続し農業を営む。 学務委員、勧業委員、東春日井郡書記、和爾良村会議員、連合村会議員、愛知県教育会商議員、愛知県育児院幹事、東春日井郡徴兵参事員、同郡会議員、同参事会員、愛知県会議員、大日本武徳会支部常置委員などを務めた。
初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日… 初代 江原 桂三郎(えばら けいざぶろう、文久3年1月20日〈1863年3月9日〉 - 1929年〈昭和4年〉6月6日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。群馬県前橋市長、第12代群馬県会議長、前橋市会議長、群馬中央銀行(現・群馬銀行)頭取。 坂本金十郎の三男として、武蔵国児玉郡児玉町(現・埼玉県本庄市)に生まれる。 前橋の江原都奈(つな)の養子となり、資産家・江原家の分家を継いだ。 1892年(明治25年)第1回前橋市会議員選挙に当選。以後1896年(明治29年)から翌年まで市会副議長、1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで市会議長を務める。1903年(明治36年)に群馬県会議員に当選、1905年(明治38年)県会議長となる。
五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863… 五十嵐 佐市(いがらし さいち、文久3年1月14日(1863年3月3日) - 昭和19年(1944年)8月7日)は、日本の実業家、政治家。北海道多額納税者。北海造営(株)監査役。札幌電気軌道監査役。金融業。地主。北海道士族。衆議院議員。 越前国足羽郡、のちの福井県足羽郡和田村(現福井市)出身。福井県士族五十嵐佐次平の長男。明治31年(1898年)家督を相続する。金融業を営む。衆議院議員に挙げられる。 五十嵐農場(東中)の土地売却をめぐっては、当時急激に増加しつつあった小作争議との関わりで社会の注目を集めることになった。この農場は明治40年(1907年)に中島農場から所有権が移動したもので、実質的な所有者は札幌の金貸し業・五十嵐であった。
竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久… 竹村 欽次郎(たけむら きんじろう、1863年3月1日(文久3年1月12日)- 1932年(昭和7年)4月16日)は、明治から昭和初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・古瀬。 出羽国最上郡、のちの山形県最上郡新庄町(現新庄市)で、素封家、新庄藩士・古瀬鉄之助の第五子として生れ、同藩士・竹村勝行の養子となる。1888年(明治21年)7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 1888年11月24日、大蔵省試補に任官し出納局に配属。出納局配賦課事務取扱、大蔵主計官、預金局勤務、兼預金局収支課長、理財局国庫課長、青森県収税長、岡山県収税長、新潟税関長、司税官、新潟県税務管理局長、大蔵主計官などを歴任し、1898年(明治31年)10月27日に退官した。
河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文… 河口 善之助(かわぐち ぜんのすけ、1863年2月24日(文久3年1月7日)- 1933年(昭和8年)11月13日)は、明治期から昭和初期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員、山梨県南都留郡谷村長、同谷村町長。 甲斐国都留郡、のちの谷村(山梨県南都留郡谷村、谷村町を経て現都留市)で、豪農・河口善兵衛の長男として生まれる。和漢学、数学を修めた。1877年(明治10年)1月、家督を相続し農業を営む。 1882年(明治15年)7月、巌村(現上野原市)の古家広泰らの鶴北自由党(のち峡中立憲党)に入党し自由民権運動に加わった。谷村長、谷村町長、南都留郡会議員、同参事会員、所得税調査員を務めた。1888年(明治21年)山梨県会議員に選出された。
飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年… 飯田 壽作(いいだ じゅさく、1863年2月17日〈文久2年12月29日〉 - 1930年〈昭和5年〉1月14日)は、日本の実業家。西宮銀行常務取締役。西宮酒造取締役・同監査役。西宮開運取締役。族籍は兵庫県平民。 兵庫県平民・飯田與作の長男。1874年、分かれて一家を創立する。住所は兵庫県武庫郡西宮町松原(現・西宮市)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年… 白勢 春三(しろせ しゅんぞう、1863年2月6日〈文久2年12月18日〉 - 1941年〈昭和16年〉5月25日)は、日本の政治家、新潟県多額納税者、資産家、地主、実業家。衆議院議員(新潟県新潟市選出、当選1回)、貴族院議員。新潟商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡(のち新潟県北蒲原郡金塚村、現在の新発田市金塚)生まれ。白勢彦次郎の長男、白勢二朔の養兄である。新潟英語学校に学んだ。1888年、家督を相続した。 新潟市に於ける名望家であり、諸種の実業団体幹部役員及び新潟市会議員同参事会員、同市会議長、同商業会議所議員、同会頭、同特別議員等に挙げられ、衆議院議員に当選し、1905年、日露戦争の功により勲四等に叙せらる。
愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年… 愛甲 兼達(あいこう かねさと、1863年1月8日(文久2年11月19日) - 1928年(昭和3年)10月17日)は、明治から大正の実業家。 薩摩藩士津曲伝助の長男として鹿児島加治屋町に生まれ、のち愛甲家の養子となる。鹿児島銀行の前身である勤倹貯蓄銀行や鹿児島電気軌道、日本水電などの取締役のほかに十五銀行の頭取を歴任した。
山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年… 山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年11月17日)– 1936年(昭和11年)10月9日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 土佐国香美郡岩村郷金地村(高知県香美郡金地村、岩村を経て現・南国市金地)で、豪農、譲受郷士の賢一郎の長男として生まれた。漢学を修め、明治法律学校(現明治大学)法律科で学んだが中退した。 帰郷して政治運動に身を投じ、自由民権運動を推進した。1890年(明治23年)1月、第1回衆議院議員総選挙に対応するため岩村倶楽部を結成し部長に就任。1893年(明治26年)3月、楠目玄の失格に伴う高知県会議員補欠選挙で当選し、同年8月の半数改選でも再選された。
武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11… 武田 秀雄(たけだ ひでお、1863年1月5日(文久2年11月16日) - 1942年(昭和17年)2月16日)は、日本の海軍軍人、実業家。最終階級は海軍機関中将。 文久2年(1863年)11月、土佐国香美郡野市村(現:香南市)に生まれる。土佐藩家老の武田秀友の長男。 大阪英語学校を経て上京。当時満15歳であったが、同郷の海軍中秘史楠目正幹の斡旋により辛うじて証明を得て1878年(明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入校 。1883年(明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。1886年(明治19年)4月、海軍少機関士(少尉相当官)に任官した。 1890年(明治23年)7月から1894年(明治27年)6月までフランスに留学。
横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月… 横山 富次郎(よこやま とみじろう、1863年(文久3年2月) - 1936年(昭和11年)3月21日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(政友会)。 1863年(文久3年2月)、江戸日本橋に呉服木綿問屋横山五兵衛の第三子として生まれる。中江篤介の仏学塾などで学んだ後、1888年(明治21年)に東京仏学校(現・法政大学)を卒業する。家業に従事しながら、1897年(明治30年)に貿易会社大和商会を興し、経営する。 1891年(明治24年)に日本橋区会議員、1892年(明治25年)に東京府会議員、1893年(明治26年)に東京市会議員、1898年(明治31年)に第6回衆議院議員総選挙(東京府第4区)に当選する。
堀之内 庄右衛門(ほりのうち しょううえもん、1863年1-… 堀之内 庄右衛門(ほりのうち しょううえもん、1863年1-2月(文久2年12月) - 1909年(明治42年)1月30日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 薩摩国薩摩郡隈之城郷勝目(鹿児島県薩摩郡隈之城村、川内町、川内市を経て現薩摩川内市勝目町)出身。1900年(明治33年)より大洋商船、曽木電気などの重役を務めたのち、1906年(明治39年)12月、鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月13日、議員に就任し、在任中に脳溢血により死去した。
伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年… 伊澤 平左衛門(いさわ / いざわ へいざえもん、1862年12月28日(文久2年11月8日) - 1934年(昭和9年)6月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。貴族院多額納税者議員。 仙台に醸造家伊澤平藏(3代目)の長男に生まれる。父の跡を継ぎ、1907年に仙台市会議員、その後、同参事会員などを務めた。1915年に宮城貯蓄銀行、1919年に塩釜銀行の各頭取に、1920年に仙台ガス社長に就任した。 同年の総選挙では立憲政友会から出馬を要請されたが、一族に反対された。しかし、政友会本部は岡崎邦輔を仙台に派遣し、伊澤を説き伏せ、正式に立候補となった。これにより、憲政会の村松亀一郎との争いになり、当選し、激しい選挙戦を制した。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(… 稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(文久2年10月30日) - 1949年(昭和24年)3月30日)は、大正・昭和前期の日本の実業家、貴族院勅選議員。稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。また日仏文化交流に貢献しており、日本で初めてシネマトグラフを輸入して映画興行を行った人物としても知られる。正五位勲三等。
平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日… 平山 浪三郎(ひらやま なみさぶろう、1862年12月19日〈文久2年10月28日〉 - 1922年〈大正11年〉8月16日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、青森県多額納税者、青森県の大地主。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡五所川原村(現・青森県五所川原市)出身。平山助六の長男。1903年、家督を相続。農業を営む。 1917年(大正6年)青森県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年1月18日から1918年9月28日まで務めた。 五所川原銀行頭取、陸奥鉄道、五所川原銀行、青森県農工銀行各取締役などを務めた。 津軽地方の一大地主で、多額納税者である。住所は青森県北津軽郡五所川原町。
白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文… 白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文久2年10月22日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の実業家、政治家。号は如海。 会津若松城下で家禄500石の上級藩士である白井家の長男として生まれる。父の五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。戊辰戦争後に再建された日新館(現会津高校)に学び、上京後は秋月悌次郎門下として勉学を続けた。1884年(明治17年)には東政図(東次郎)の中国赴任に随行。清国改造運動に加わった。一年後には日本へ戻り、井深彦三郎、中野二郎らと同居生活を送った。 中国との貿易に従事し、1891年(明治24年)には東邦協会の設立に関わり、幹事を務める。
植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日… 植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日(文久2年10月11日) - 1941年(昭和16年)1月17日)は、日本の実業家。族籍は東京府士族。経団連会長植村甲午郎は息子、農学博士の渋沢寿一はひ孫にあたる。甲斐出身。 甲斐国甲府(現山梨県)生まれ。幕臣・植村厚十郎の長男。明治維新の際横須賀に移住する。家は素より貧窮を極めたため、幼い頃から小田信樹の塾僕となり、傍ら漢籍を修めた。 1879年、上京し、開拓使の東京出張所吏員となる。後に大蔵省、農商務省等に勤務し、1887年、逓信省に転じ、累進して管理局次長となる。1889年、官を辞し実業界に入る。 1889年、北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となり、渋沢栄一の勧めで1894年、札幌麦酒専務取締役、1906年、大日本麦酒常務取締役に就任、原料麦の改良、麦芽・ホップの国産化などにつとめた。
堀 豊彦(ほり とよひこ、1862年12月1日〈文久2年10… 堀 豊彦(ほり とよひこ、1862年12月1日〈文久2年10月10日〉 - 1932年〈昭和7年〉7月10日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家。衆議院議員。 播磨国揖東郡、のちの兵庫県揖東郡小宅村(揖保郡小宅村、龍野町、龍野市を経て現たつの市)で、農業・堀甚三郎の息子として生まれる。郷学で学び、その後、1878年(明治11年)大阪の儒学者・藤沢南岳に師事し漢文学を学んだ。 帰郷して、家業の農業に従事。自由党に加わり、その党勢拡大に尽力。1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(兵庫県第8区、憲政党)で初当選。1904年(明治37年)2月、兵庫県会議員に選出され、1906年(明治39年)に再選されたが、実業界に専念するため1907年(明治40年)県議を辞職した。
森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文… 森田 庄兵衛(もりた しょうべえ、1862年11月12日(文久2年9月21日)- 1924年(大正13年)11月5日)は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 紀伊国伊都郡丁ノ町村(和歌山県伊都郡妙寺村、妙寺町を経て現かつらぎ町)で、酒造業・森田正治の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して慶應義塾で学び、1882(明治15年)に帰郷した。父の隠居に伴い1883年(明治16年)4月に家督を相続した。 その後、英語、数学、漢学、修身、習字を教授する伊都郡自助私学校を設立し、夜間部も設け、英語教師に英文学者河島敬蔵を招き、地域の子弟の育成に貢献したが、1887年(明治20年)に閉校した。
佐藤 潤象(さとう じゅんぞう、1862年9月19日(文久2… 佐藤 潤象(さとう じゅんぞう、1862年9月19日(文久2年8月24日) - 1953年(昭和28年)7月11日)は、日本の実業家、政治家。朝鮮鉄道などを設立したのち、衆議院議員(1期)。 熊本県出身。二松学舎で漢学を学び、同人社で英語を学ぶ。1883年、同郷の鎌田景弼が佐賀県令に任命されると池辺三山、高橋長秋と共に佐賀県属となり、22歳で会計を担当する。その後熊本県収税属、同県属、農商務省営林主事、同林務官補、同林務官を歴任。 この間、大韓帝国政府に招かれ、大倉喜八郎、高島義恭らと計り釜山埋築(株)を設立した。釜山港は貿易港として有望だが、周囲を丘山に囲まれ平地が狭隘であるという欠点があり、将来の京釜鉄道の開通に備えて、埋立による埠頭拡張が不可欠で、計画の実行には、韓国政府からの許可だけでなく、釜山在留の日本人居留民や京釜鉄道創立委員会の同意が必要だった。
清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年… 清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年8月20日)‐ 1929年(昭和4年)10月21日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・告森、筆名・山本隆徳、号・鶴城。 伊予国宇和島城下御殿町(愛媛県北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で、宇和島藩士・告森桑圃の二男として生まれる。都筑荘蔵(鶴州)、上甲振洋の謹教堂で漢学を修めた。1877年(明治10年)北予変則中学校(松山中学校を経て現愛媛県立松山東高等学校)で学び、1881年(明治14年)大分県中津の慶應義塾支塾に入塾した。1880年(明治13年)頃、松山の民権結社「公共社」機関紙『海南新聞』編輯長に就任。1881年(明治14年)9月に上京し、1882年(明治15年)5月に千葉に移り『千葉総房共立新聞』幹事となる。
伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8… 伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8月10日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(1期)。 伊藤長重郎の子。遠江国麁玉郡宮口村(現・静岡県浜松市浜名区宮口)出身。1881年(明治14年)7月、浜松中学校を卒業後上京し同人社に入るが1883年(明治16年)7月、退学する。東京専門学校に転じ1886年(明治19年)7月、卒業をもって帰郷し1888年(明治21年)2月、静岡県茶業組合連合会議員となり、1890年(明治23年)2月には静岡県会議員に当選した。ほか同副議長、同参事会員、中央茶業組合会議所議員、関東茶業会本部主事、宮口銀行頭取、宮口委託監査役などを歴任した。
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈… 上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年8月30日〈文久2年8月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉9月7日)は、日本の実業家、篤農家、名望家。蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神。ユーゴスラビア王国名誉領事。前名・秀之助。 1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年、家督を相続し前名秀之助を改めた。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。 16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校(現・立教大学)に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた。
4代 蓼沼 丈吉(たでぬま じょうきち、1862年8月23日… 4代 蓼沼 丈吉(たでぬま じょうきち、1862年8月23日(文久2年7月28日)- 1919年(大正8年)7月1日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、栃木県多額納税者、栃木県安蘇郡三好村長。幼名・勝蔵、千代吉。田中正造の支援者の一人。 下野国安蘇郡岩崎村(栃木県安蘇那岩崎村、三好村、田沼町を経て現佐野市岩崎町)で、地主、呉服太物業・2代丈吉、智恵の二男として生まれる。16歳から家業に従事。1886年(明治19年)6月、兄・3代丈吉の死去に伴い家督を相続し4代丈吉を襲名した。 1887年(明治20年)下野石灰監査委員に就任。以後、葛生銀行幹事、同取締役、佐野鉄道社長、佐野銀行取締役、下野新聞取締役、栃木県農工銀行監査役などを務めた。
2代佐藤 栄右衛門(さとう えいえもん、1862年8月14日… 2代佐藤 栄右衛門(さとう えいえもん、1862年8月14日(文久2年7月19日) - 1917年(大正6年)1月23日)は、日本の政治家、漁業家、実業家。衆議院議員。幼名・幾太郎。 蝦夷地箱館(現・函館市)で佐藤重三郎の息子として生まれる。明治2年6月(1869年)、歌棄郡(現・寿都郡)の漁業家、初代・佐藤栄右衛門の養子となる。1885年に養父の隠退に伴い家督を相続し栄右衛門を襲名。歌棄郵便局長、歌棄水産物営業人組合納税委員、歌棄村惣代人、歌棄郡惣代人、歌棄水産組合頭取、学務委員、寿都外三郡聯合漁業組合副会長、歌棄水産税区会議員、歌棄水産組合組長、寿都外三郡水産組合聯合会組長、歌棄村会議員、寿都銀行頭取、寿都汽船取締役、寿都倉庫重役、後志興農監査役、北海道会議員などを歴任。
広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日〈文久2年7… 広野 織蔵(ひろの おりぞう、1862年8月3日〈文久2年7月18日〉 - 1940年〈昭和15年〉7月24日)は、日本の銀行家、実業家。百三十三銀行(滋賀銀行の前身)の「育ての親」と評される。衆議院議員を務めた広野規矩太郎は子息。 第百三十三国立銀行の創始者の一人である廣野古矩の二男として、彦根に生まれる。廣野家は彦根藩士の家系で、1915年時点で織蔵も滋賀県の士族であったと『人事興信録』に記されている。兄は源太郞で、織蔵がのちにその跡を継いだ。 幼少時は彦根藩の藩校に学んだ後、彦根中学校(現・滋賀県立彦根東高等学校)を卒業した。その後京都に出て儒学者の谷鉄臣・草場船山らに漢籍の指導を受けた。
楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文… 楠目 玄(くずめ / くすめ げん、1862年7月13日(文久2年6月17日)- 1938年(昭和13年)1月7日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、自由民権運動家。衆議院議員、高知県香美郡大楠植村長。初名・馬太郎。 土佐国香美郡楠目村(高知県香美郡大楠植村大字楠目、土佐山田町を経て現香美市土佐山田町楠目)で、楠目久米作、兼の長男として生まれる。小学校、旧制中学校を卒業。農業を営む。 1882年(明治15年)から自由民権運動に加わり、1887年(明治20年)政談演説会弁士として活動した。同年、香美郡63カ村総代として三大事件建白運動で上京し、保安条例違反として退去命令を受けたが拒否したため投獄された。
清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文… 清水 松三郎(きよみず まつさぶろう、1862年6月8日(文久2年5月11日)- 1905年(明治38年)10月18日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、愛知県愛知郡岩崎村長。 尾張国愛知郡、のちの愛知県愛知郡岩崎村(日進村、日進町を経て現日進市)で、里正・治左衛門の息子として生まれた。志水大三郎に師事し、さらに1875年(明治8年)佐藤牧山について漢学を修めた。1879年(明治12年)上京して諸学を学んだ。帰郷して農業を営む。 1883年(明治16年)1月、岩崎村戸長に就任。以後、愛知県勧業委員、愛知郡第四高等小学校学務委員、岩崎村外二ヶ村戸長、岩崎村会議員、愛知郡米野木村外七ヶ村連合会議員などを歴任。
小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日… 小山 久左衛門(こやま きゅうざえもん、1862年5月30日〈文久2年5月2日〉- 1918年〈大正7年〉7月21日)は、日本の実業家、政治家、篤志家。小山家23代当主。諱は正友、幼名は邦太郎。信濃国佐久郡出身。政治家小山邦太郎・画家小山敬三の父。 出自には諸説あるが、源義光の曾孫である安田義定を祖とする説が小諸市内の小山姓において存在する。義定は甲斐源氏の一族であったため、その勢力を警戒した源頼朝により粛清されるが、子孫の安田義知が武田信虎に仕え、村上義清に備えて信濃国佐久郡に与良城を築城し、安田氏から与良氏へ改称したという。その後、その庶流の一族が同国高井郡小山郷を所領とし、与良氏から小山氏に改称したといわれている。
森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年… 森本 確也(もりもと かくや、1862年5月11日(文久2年4月13日)- 1927年(昭和2年)2月10日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。号・得堂。 志摩国英虞郡、のちの三重県志摩郡鵜方村(鵜方町、阿児町を経て現志摩市阿児町鵜方)で、大地主・森本佐左衛門、なつ の長男として生まれる。1877年(明治10年)三重県師範学校を卒業。さらに同人社英学科及び漢学科を卒業し、専修学校(現専修大学)で経済学を学んだ。帰郷して、しばらく著作業に従事した。 1891年(明治24年)3月、家督を相続して農業を営み、三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。また、三重県農工銀行取締役、同頭取、三重銀行取締役、津商業会議所特別議員などに在任した。