江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、兵… 江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、兵庫県尼崎市出身(奈良県吉野郡生まれ)の元プロ野球選手(投手)、解説者・評論家・タレント。 2025年現在でも日本記録であるシーズン401奪三振を達成したほか、NPB最多タイ記録となる最優秀救援投手(現在の最多セーブ投手)を6回獲得している。プレーそのものについても「オールスター9連続奪三振」「江夏の21球」など多くのエピソードを持つ。 1948年5月15日、奈良県吉野郡にて生まれる。鹿児島県出身の母は大阪にいた頃大阪大空襲に遭い疎開先の奈良県吉野郡で江夏の父親となる男性と出会い、豊が生まれた。江夏の母親にとって豊は三男に当たり、14歳年上の長男、7歳年上の次男、と3人とも父親が全員異なるという複雑な家庭環境であり、江夏姓も母方の姓だった。
古沢 憲司(古澤 憲司、ふるさわ けんじ、1948年3月31… 古沢 憲司(古澤 憲司、ふるさわ けんじ、1948年3月31日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
河村 健一郎(かわむら けんいちろう、1948年2月26日 … 河村 健一郎(かわむら けんいちろう、1948年2月26日 - )は、山口県柳井市出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。 桜ケ丘高校では、3年次の1964年に秋季中国大会準々決勝に進むが、広島商に敗れ甲子園には届かなかった。 高校卒業後は1965年に芝浦工業大学へ進学し、道原裕幸は高校・大学の2年後輩となる。東都大学リーグでは3年次の1968年、左腕エース池田善吾とバッテリーを組んで秋季リーグに優勝。リーグ通算45試合出場、124打数32安打、打率.258、0本塁打、11打点。大学同期に豊田憲司、片岡新之介(中退)がいる。 大学卒業後は1969年に日本石油へ入社し、1970年の都市対抗では奥江英幸らとバッテリーを組み準々決勝に進むが、三菱重工神戸に敗退。
加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、… 加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、宮城県仙台市宮城野区出身の元プロ野球選手(捕手)・解説者。ニックネームは「ドン」。 仙台育英では2年次の1964年に夏の甲子園へ出場するが、1回戦で滝川高の芝池博明に0-1で完封負けを喫した。チームメイトでは1期上のエース・倉橋寛、遊撃手の佐藤博廸(南海)、同期の三塁手・石崎一夫がプロ入りしている。3年次の1965年夏は東北大会準決勝で磐城高に惜敗し、2年連続で甲子園には出場できなかった。高校時代から「大物」とうたわれ、通算打率.380をマークした。強肩と強打にプロ球界も目を付け、小さい頃からファンであった巨人から指名の話が来た時は有頂天になったが、同年のドラフトでは巨人の前に大洋から2位で指名されているが、入団を拒否。
水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )… 水谷 実雄(みずたに じつお、1947年11月19日 - )は、宮崎県串間市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、解説者・評論家。
藤田 平(ふじた たいら、1947年10月19日 - )は、… 藤田 平(ふじた たいら、1947年10月19日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1947年7月26日 - )は、… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1947年7月26日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東… 佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 愛称はミチ、ミチさん。 パ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。 日大三高ではエースとして同期の石塚雅二とバッテリーを組み、3年次の1965年には夏の甲子園都予選決勝に進むが、後に大学で同期となる日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する(2年時にチームはセンバツに出場したが自身の出番は無かった)。高校の1年上には遊撃手の大橋穣、1年下に左翼手の磯部史雄がいた。 高校卒業後の1966年、石塚と共に日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは低迷が続き、3年次の1968年にチームが二部に降格するが、4年次の1969年に一部復帰を果たす。
ジョー 小泉(ジョー こいずみ、本名:小山 義弘(こやま よ… ジョー 小泉(ジョー こいずみ、本名:小山 義弘(こやま よしひろ)、1947年3月31日 - )は、日本のボクシング評論家、ボクシングのマッチメーカー兼トレーナー、ボクシング番組解説者、ボクシング誌記者。兵庫県神戸市出身。国際ボクシング名誉の殿堂博物館、世界ボクシング殿堂入り。 ペンネームの由来は、小泉信三元慶大塾長の著書に感動したことと、フランツ・カフカの小説の主人公の名前から。 神戸市兵庫区西出町に生まれる。先祖は広島藩の御納戸役であったという。祖父も父もエンジニアで父は戦前、皇太子の近衛兵として東京に召集されたが、広島への原爆投下により実家が壊滅。広島に居た親族のほとんどが亡くなり、姉のいた神戸で途中下車しそのまま住みついた。
水沼 四郎(みずぬま しろう、1947年2月27日 - )は… 水沼 四郎(みずぬま しろう、1947年2月27日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。
奥野 俊一(おくの しゅんいち、1947年2月23日 - )… 奥野 俊一(おくの しゅんいち、1947年2月23日 - )は、宮崎県出身のバスケットボール指導者、解説者。 福岡市立多々良中学校でバスケを始め、長崎西高校、東京教育大学でポイントガードとして活躍。大学では主将も務めた。 卒業後、長崎東高校のコーチや大学院でコーチ学を学び、修了後は東芝男子、第一勧銀女子などで指揮を執る。 1989年にはケンタッキー大学へコーチ留学。一方で、全日本男子のコーチも務め、1990年にはヤングメンアジア選手権優勝に導く。 現在はNHKのNBA解説と普及活動を務めている。 2011年にプロバスケットボールチーム「ライジング福岡」のオーナー代行兼GM、2012年からは社長に就任したがその後退任した。
小林 正之(こばやし まさゆき、1947年2月5日 - )は… 小林 正之(こばやし まさゆき、1947年2月5日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。 日大一高では2年次の1963年に春夏連続で甲子園へ出場。春の選抜は内野の控えにとどまり、2回戦で東田正義・元田昌義を擁する御所工に敗退。夏の選手権では三塁手として出場し、1回戦で徳島商のエース・三好幸雄に抑えられて大敗を喫する。 高校卒業後は千葉商科大学に進学し、千葉県大学リーグでは在学中7度の優勝を飾り、4回も首位打者を獲得。中央球界では無名であったが、三拍子揃った内野手として阪急、巨人からも注目されていた。1969年には日本学生野球協会から表彰を受け、同年のドラフト5位で広島東洋カープに入団。
小川 邦和(おがわ くにかず、1947年2月1日 - )は、… 小川 邦和(おがわ くにかず、1947年2月1日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・評論家・解説者。
竹内 宏介(たけうち こうすけ、1947年1月6日 - 20… 竹内 宏介(たけうち こうすけ、1947年1月6日 - 2012年5月3日)は、日本のスポーツジャーナリスト、プロレス評論家、解説者。 元日本スポーツ出版社代表取締役社長、のち顧問。ニックネームは「魂の解説者」「ミスター・ゴング」「昭和プロレスの伝道師」「魂のプロレス請負人」。 静岡県熱海市にて出生し、後に東京都台東区にて育つ。幼少時代、力道山による空前のプロレスブームが起こり、竹内も例外ではなく、街頭テレビに映る力道山に熱中した。 1965年にベースボール・マガジン社に入社し、格闘技専門誌である『プロレス&ボクシング』のカメラマンとしてプロレスに携わる。記事も執筆しており、19歳で『プロレス&ボクシング』、『月刊ボディビルマガジン』の編集長に就任するが、日本スポーツ出版社から新雑誌創刊のためにヘッドハンティングされたことを受け、1968年に日本スポーツ出版社へ転職し、『週刊ゴング』の前身である『月刊ゴング』を創刊する。
篠原 文也(しのはら ふみや、1947年 - )は、日本の政… 篠原 文也(しのはら ふみや、1947年 - )は、日本の政治解説者(評論家)、元政治部記者、元テレビ東京解説委員、昭和女子大学客員教授。 大分県大分市生まれ。早稲田大学政治経済学部政治経済学科卒業後、1971年4月日本経済新聞社に入社。政治部記者として、総理大臣官邸、自民党キャップ、1986年4月、政治部次長、1990年9月の人事にて、宇都宮支局長へ異動。1993年4月付けで、テレビ東京の報道局解説委員を担当。解説委員長を含め務め、2007年11月まで担当し同時に日経新聞社を退職。 京都工芸繊維大学特別教授、昭和女子大学客員教授。2009年3月、文部科学省中央教育審議会委員、2012年3月から内閣府再就職等監視委員会委員を務める。
島本 和彦(しまもと かずひこ、1946年8月18日 - )… 島本 和彦(しまもと かずひこ、1946年8月18日 - )は、東京都世田谷区出身のバスケットボール編集者、解説者。月刊バスケットボールの初代編集長を務めた。NHK-BS放送などでNBAやスポナビライブのBリーグで解説をしており、現在、NBAファンクラブの「HOOPHYSTERIA」代表も務めている。以前はbjリーグ・大分ヒートデビルズのエグゼクティブPRディレクターも務めていた。東京都世田谷区出身。 この項目は、バスケットボール関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:BASKET)。
野村 収(のむら おさむ、1946年8月9日 - )は、神奈… 野村 収(のむら おさむ、1946年8月9日 - )は、神奈川県平塚市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、解説者。NPBで史上初めて全12球団から勝利を挙げた。 中学から本格的に野球を始めた。打撃投手を務めていた際に肘に違和感を覚えると、三塁手で出場した際に一塁手への送球で肘を故障、医師からは投手は難しいと言われたが風呂で温めてから肘を伸ばす日課を続けていると肘が伸びて投げられるようにまで回復。家庭の事情で私立の強豪校は諦め、1962年に平塚農業高校へ進学。入学当初のシートノックでは三塁手を指示されたが外野手を希望して強肩をアピールし、狙い通り投手の座を掴んだ。県大会1回戦負けの常連であったが、3年次の1964年春に強豪の鎌倉学園に2-1で勝利して評価を高めた。
中沢 伸二(なかざわ しんじ、1946年6月18日 - )は… 中沢 伸二(なかざわ しんじ、1946年6月18日 - )は、山梨県中巨摩郡白根町(現・南アルプス市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。
高橋 一三(たかはし かずみ、1946年6月9日 - 201… 高橋 一三(たかはし かずみ、1946年6月9日 - 2015年7月14日)は、広島県府中市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 府中西小学校→第二中学校を経て、1962年に北川工業高校へ進学。2年次の1963年の秋季中国大会県予選ではエースとして決勝に進み、尾道商の小川邦和と投げ合い完封負けを喫するが、中国大会への出場権を獲得。しかし準々決勝で佐々木誠吾を擁する浜田高に敗れ、3年次の1964年春の選抜への出場を逃す。同年夏の大会も県予選で敗退し、甲子園には届かなかった。 1964年11月4日に読売ジャイアンツへ入団。この入団は当時の中国地区担当スカウトの木戸美摸の尽力によるものである。
森脇 基恭(もりわき もとやす、1946年4月27日 - )… 森脇 基恭(もりわき もとやす、1946年4月27日 - )は、日本の自動車技術者、レーシングカーデザイナー、モータースポーツ解説者、ノバ・エンジニアリング技術部長および取締役副社長。東京都出身。成蹊大学工学部卒業。 1968年に成蹊大学工学部を卒業し、ホンダに入社、本田技術研究所に配属され四輪車の車体・サスペンションの設計を担当。上司は第1期ホンダF1の車体設計者として知られる佐野彰一。同期には元ホンダ社長の福井威夫、第2期ホンダF1のプロジェクトリーダーからマクラーレン・フェラーリ・ザウバーのエンジニアに転身した後藤治らがいる。 1973年にホンダを退社して渡英。イギリスのレーシングカーコンストラクターであるGroup Racing Development(英語版) (GRD) 社に入社。
熊倉 重春(くまくら しげはる、1946年 - )は、日本の… 熊倉 重春(くまくら しげはる、1946年 - )は、日本の自動車評論家、モータースポーツ解説者。1989年から1995年まで、自動車雑誌『カーグラフィック(CG)』(二玄社)編集長。 東京都出身。専修大学卒業[要出典]。1969年から自動車雑誌「カーグラフィック」編集部に在籍する。1988年から同誌編集長を務めた後、1995年に独立してフリーランスの自動車評論家となった。 1970年に二玄社に入社し、スポーツエディターとしてモータースポーツの取材の中心に活動を行う。1989年から1995年にかけて、CGの二代目編集長を務めた。現在も『Web CG』などでの執筆を行っている。 日本でF1専門雑誌が生まれる以前から、F1の報道を行ってきていたCG誌においてF1記事を担当していた。
外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )… 外木場 義郎(そとこば よしろう、1945年6月1日 - )は、鹿児島県出水市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 現役時代は、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の広島カープでエースとして活躍、1975年には球団史上初のリーグ優勝に貢献した。2リーグ制以降のプロ野球で、3回のノーヒットノーラン(うち完全試合1試合)を達成した唯一の投手である。 旧薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)にて5人きょうだいの3番目として生まれた。父親がバス会社の事務職をしていていた為転勤族であった。現さつま町の盈進小学校時代に遊びでソフトボールを始める。出水市に転居し出水市立出水中学校に入学後、野球部監督の上垣侃から誘われ、この時に小学生の頃から好きだった野球を始めた。
八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(… 八木沢 荘六(八木澤 荘六、やぎさわ そうろく、1944年(昭和19年)12月1日 - )は、栃木県今市市(現・日光市)出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者。現・公益社団法人全国野球振興会理事長。史上13人目の完全試合達成者。 実家は製材所を経営し、父親の善吉は今市市の市長も務めた。祖父が明治期の陸軍参謀総長・川上操六を尊敬していたため、「荘六」の名になった。作新学院では2年次の1961年に春の選抜で初出場を果たすと、1回戦に先発して柏原高を完封するが、2回戦はリリーフに回って高松商に敗退。3年次の1962年には春の選抜にエースとして出場し、準々決勝では八幡商を延長18回引き分け再試合の末に降す。
安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )… 安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )は、沖縄県那覇市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家・ラジオパーソナリティ。
長池 徳士(ながいけ あつし、本名:長池 徳二〈ながいけ と… 長池 徳士(ながいけ あつし、本名:長池 徳二〈ながいけ とくじ〉、1944年2月21日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(外野手・指名打者、右投右打)・コーチ、解説者・評論家。1979年に登録名を本名から変更している。 現役時代は阪急ブレーブス一筋で14シーズンにわたりプレーしたことから、不動の4番打者「ミスターブレーブス」として親しまれた。1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。本塁打王に3回輝き、9年連続で25本塁打以上を記録するなど、球界を代表する「右の大砲」として活躍した。パ・リーグ初のベストナイン(指名打者部門)を受賞している。
井手 峻(いで たかし、1944年2月13日 - )は、東京… 井手 峻(いで たかし、1944年2月13日 - )は、東京都新宿区出身(佐賀県東松浦郡北波多村 (現:唐津市北波多)生まれ)の元プロ野球選手(投手, 外野手)・コーチ・監督、解説者、元中日球団代表兼連盟担当(会社役員)。 新治伸治(1965年大洋入団)に次ぐ史上2人目の東大野球部出身プロ野球選手で、ドラフト制度発足後としては東大初の指名選手となった。公式戦出場試合数は、過去の東大出身プロ野球選手の中では最も多かった。 父は脚本家の井手俊郎。 父・俊郎の実家は質屋を営んでいた。その家は「明治時代以降に炭鉱町として発展した北波多村の繁栄を伝える重要な町家建築」として国の登録有形文化財に登録され、現在もギャラリーとして残っている。
松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、… 松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、埼玉県入間郡飯能町(現:飯能市)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)・コーチ、解説者。 6人兄弟の末っ子に生まれ、飯能高校では捕手として活躍。体は大きいが非力で鈍足、特技は強肩と変化球が打てることであった。3年次の1961年に夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、熊谷商工に敗退。 1962年に大洋ホエールズへ捕手として入団。1年目は4月15日の中日戦(川崎)で9回裏に島野雅亘の代打で初出場し、5月8日の中日戦(中日)に8番打者・捕手として初先発出場を果たすと、7回表に板東英二から初安打を放つ。周囲からプロでは通用しないと言われ、初安打を打った時は嬉しくて母に手紙を書き、母は死ぬまでその手紙を持っていた。
内山 勝(うちやま まさる、1944年(昭和19年) - )… 内山 勝(うちやま まさる、1944年(昭和19年) - )は、日本のテニス選手、指導者、解説者。日本テニス協会ジュニア代表監督、フェドカップなどで監督を務め、テレビでも試合解説を担当した、硬式テニス関連の著書やビデオも出版(#著作節参照)。日本テニス協会理事、荏原湘南スポーツセンター代表取締役などを歴任。2017年秋、旭日双光章を受勲。 内山は1944年、神奈川県に生まれ、中央大学を卒業。選手として全日本学生テニス選手権大会、全日本選手権に出場。 その後、内山はコーチとしてハリー・ホップマンのキャンプに参加。 などを務め、主な指導選手に らがいる。テレビ番組の解説でも活躍した。 荏原湘南スポーツセンターでは代表取締役を務め、日本テニス協会では理事待遇、常務理事、総務財務本部長、トーナメント本部長、ジャパンオープン委員長、専務理事などを歴任した。
広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、… 広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。実兄は元プロ野球選手の広野翼。 徳島商業では2年次の1960年に左翼手として甲子園に春夏連続出場し、春の選抜では2回戦で滝川高に敗退。夏の選手権では2回戦で米子東高のエース・宮本洋二郎を打ち崩すなど順調に勝ち進むが、準決勝で静岡高に敗れた。3年次の1961年夏はエースの妹尾幸一(南海)を擁し南四国大会決勝に進むが、高知商の高橋善正に抑えられ、9回裏0-1のサヨナラ負けで甲子園には届かなかった。他のチームメイトに二塁手の多田勉(広島)がいた。 高校卒業後は1962年に慶應義塾大学へ入学し、同期外野手の鈴木義信と共に東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。
大石 弥太郎(おおいし やたろう、1943年10月6日 - … 大石 弥太郎(おおいし やたろう、1943年10月6日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
大熊 忠義(おおくま ただよし、1943年9月8日 - )は… 大熊 忠義(おおくま ただよし、1943年9月8日 - )は、大阪府羽曳野市出身(出生は現在の中国東北部)の日本の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 生まれたのは現在の中国東北部で、父は出征先から戻らず、終戦後に母、妹と三人で引き揚げた。引き揚げ後の家族は親類を頼って大阪府羽曳野市で暮らし、小学生の頃から新聞配達をした。これが足腰の鍛錬になったという。その頃に野球を始め、中学時代は捕手だった。しかし野球よりは伝書鳩の飼育に熱中する少年時代を過ごし、中学卒業後は旋盤工になるつもりでいたところ、浪商高校からスカウトされた部の同僚が家庭事情から断ったため代わりに立候補して進学した。 高校野球部に入部後は連日走らされ、270人いたという同期が脱落していく中、足には自信のあった大熊は残ってやがてベンチ入りメンバーとなる。
佐々木 宏一郎(ささき こういちろう、1943年8月30日 … 佐々木 宏一郎(ささき こういちろう、1943年8月30日 - 1989年5月22日)は、岐阜県揖斐郡池田町出身のプロ野球選手(投手)・解説者。 史上11人目の完全試合達成者。 1960年代後半から1970年代前半にかけての近鉄バファローズにおいて、アンダースローの技巧派として鈴木啓示・清俊彦と共に主力投手の1人として活躍した。 岐阜短大付属岐阜では、1960年秋季中部大会県予選準決勝に進むが、県岐阜商に敗退。 1961年夏の甲子園県予選でも準決勝に進出するが、またも県岐阜商に敗れた。 1962年、大洋ホエールズにテスト入団。120人の応募者の中で唯一のテスト合格者であり、1年目から早速一軍での登板機会があった。
阪本 敏三(さかもと としぞう、1943年7月13日 - )… 阪本 敏三(さかもと としぞう、1943年7月13日 - )は、京都府京都市伏見区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。
後藤 完夫(ごとう さだお、1943年2月1日 - 2018… 後藤 完夫(ごとう さだお、1943年2月1日 - 2018年4月9日)は、東京都出身のスポーツジャーナリスト、アメリカンフットボール解説者。出版社タッチダウン社主。日本タッチ・アンド・フラッグフットボール協会会長。 慶應義塾高等学校時代の1960年に同級生から誘われてアメリカンフットボールを始める。その後慶應義塾大学進学後もアメリカンフットボールを続けた。1964年12月に行われた日本学生選抜のハワイ遠征メンバーに選ばれてハワイ大学と対戦した。 現役時はランニングバックとして活躍。日本選抜ヘッドコーチなども歴任した。 慶應義塾大学を卒業後、企業に勤めたがアメリカンフットボールの魅力を日本で広めたいと考え、友人たちと雑誌の創刊にむけて動き回った。
横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、… 横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、山梨県東山梨郡勝沼町(現・山梨県甲州市)出身の元サッカー選手および現サッカー指導者・解説者。 山梨県立日川高等学校在学中よりサッカーを始め、日本体育大学入学後もサッカー部に入部した。大学卒業後は高校教諭となり、1968年に(昭和43年)山梨県立谷村工業高等学校に赴任してサッカー部の監督に就任し、関東大会に出場した。その傍ら甲府サッカークラブで1973年 (昭和48年)6月までプレーして主将も務めた。 現役を引退した1973年(昭和48年)より山梨県立韮崎高等学校に赴任となり、サッカー部の監督に就任。1975年(昭和50年)に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝した。
辻 恭彦(つじ やすひこ、1942年6月18日 - )は、愛… 辻 恭彦(つじ やすひこ、1942年6月18日 - )は、愛知県名古屋市西区出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。
伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007… 伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)は、宮城県仙台市出身(岩手県生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。愛称は「キートン」。 父親の転勤で幼少期を各地で過ごし、中学時代に仙台市に移る。東北高校では3年次の1960年に夏の甲子園に出場したが、1回戦で青森高に敗退。強肩強打の捕手として大洋や巨人なども注目したが、1959年に同校の先輩である波山次郎が大洋に入団していたこともあって、1961年に大洋ホエールズへ入団。契約金は170万円で、年俸は36万円であった。 1年目の同年から一軍でマスクを被り、7月30日の中日戦(川崎)の9回裏に蓜島久美に代わって初出場を果たす。
江藤 省三(えとう しょうぞう、1942年4月29日 - )… 江藤 省三(えとう しょうぞう、1942年4月29日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 元プロ野球選手・監督の江藤慎一は実兄。 慶應義塾大学では、2009年から2013年まで監督、2014年6月まで助監督を務めた。 父・哲美は戦前、 八幡製鐵で投手として活躍し、その後も省三が進学した西部中学校で監督を務めるなど、野球一色の人生であった。無類の野球好きで、現役引退後も野球三昧の日々であった父を見て、省三は子供心にその印象が強かったのか、大きくなったら野球をすると自然に思っていた。男ばかりの4人兄弟で長兄の愼一が既に野球をやっていて、体も大きく、とても上手かったことも大きく影響したが、幼少期に父から直接、球の投げ方ひとつさえ、野球の指導を受けたことは一度もなかった。
杉山 隆一(すぎやま りゅういち、1941年7月4日 - )… 杉山 隆一(すぎやま りゅういち、1941年7月4日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元サッカー選手・監督、解説者。 袖師中学校時代からサッカーを始め、清水東高校時代に富山国体で優勝、一躍有名になる。1年次の1958年から3年次の1960年まで3年連続で日本ユース代表に選出され、AFCユース選手権に参加するなど、国際的にも活躍した。 大学浪人中の1961年に19歳で国際Aマッチ初出場を果たし、1962年に明治大学へ進学。3年次の1964年には東京オリンピックで活躍し、日本代表をベスト8へと導いた。この活躍により南米のクラブからは20万ドルの移籍金を提示され「20万ドルの左足」と賞されたが、20万ドルという金額及び移籍の申し入れに関しては、岡野俊一郎が話題づくりのために意図的に間違った情報をリークしたとされている。
武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 200… 武上 四郎(たけがみ しろう、1941年4月8日 - 2002年8月23日)は、宮崎県宮崎市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 中学時代から子分を40人も持つガキ大将で、進学校の宮崎大宮高校では100m走を10秒9で走る俊足であった。1年次の1957年に夏の甲子園に出場しているが、自身の出場はなかった。 高校卒業後は1961年に中央大学へ進学し、東都大学野球リーグでは3年次の1963年秋季リーグ、4年次の1964年秋季リーグと2度の優勝を経験。3年時のエースは三浦宏(北海道拓殖銀行)であった。1964年10月には東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。
水谷 寿伸(みずたに ひさのぶ、1941年1月3日 - )は… 水谷 寿伸(みずたに ひさのぶ、1941年1月3日 - )は、愛知県名古屋市千種区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
辻 佳紀(つじ よしのり、1940年12月20日 - 198… 辻 佳紀(つじ よしのり、1940年12月20日 - 1989年4月25日)は、福井県敦賀市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。
宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2… 宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2025年5月20日)は、東京都目黒区出身のプロ野球選手(捕手)・解説者。 荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。 大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
一枝 修平(いちえだ しゅうへい、1940年7月24日 - … 一枝 修平(いちえだ しゅうへい、1940年7月24日 - )は、大阪府大阪市天王寺区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者・評論家。
河村 保彦(かわむら やすひこ、1940年7月15日 - 2… 河村 保彦(かわむら やすひこ、1940年7月15日 - 2012年2月21日)は、岐阜県多治見市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。
大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023… 大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023年11月28日)は、静岡県清水市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 「剃刀」と喩えられたストレートとスライダーを武器に、「カープ史上最速のピッチャー」と評された。 清水商業高校では3年次の1958年に春季中部大会1回戦で岐阜商に逆転負けし、夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。卒業後は清水商野球部後援会と立教大学校友会静岡支部の推薦で立大進学が決まっていたが、家庭の事情でプロ入りが決まる。 1959年に広島カープへ入団し、同期には後に阪急でもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ、若くして主戦投手となる。
齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2… 齋藤 章児(さいとう しょうじ、1940年3月25日 - 2019年4月4日)は、日本のアマチュア野球指導者・解説者。 中学生の頃から野球を始め、立教高校から立教大学経済学部卒業。社会人野球のヤシカを経て、1967年4月から東京農業大学第二高等学校の教諭になると同時に硬式野球部の監督に就任し、以降27年間で春2回、夏4回、甲子園に出場する。群馬県での高校野球監督就任については、群馬県立桐生高等学校監督であった稲川東一郎への思いがあったと語っている。 2000年から4年間、立教大学野球部監督。2007年に育成功労賞を受賞。 監督から退いた後も野球のシーズンになると地元群馬テレビの高校野球関連番組に出演したり、上毛新聞紙上に観戦コメントを掲載したりなど活動した。
岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は… 岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。
城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - … 城之内 邦雄(じょうのうち くにお、1940年2月3日 - )は、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 小学校時代は陸上部に所属し、中学校入学と同時に野球を始めるが、中学時代は控え一塁手で3年春には野球部を退部。進学した佐原一高では入学時にバレーボール部へ入部したが、部員不足の野球部から勧誘を受けて同年6月に移る。入学当初は一塁手であったが、秋から肩の強さを見込まれて投手となる。最初はオーバースローで投げていたが、高校に野球を教えに来ていた明治大学の選手から勧められて2年生の6月頃からサイドスローに転向した。同年秋からエースになると一念発起し、毎朝10キロのランニング、ハンドグリッパーを握り続けながら登校などの努力を続ける。
藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大… 藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大阪府堺市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。