金子 登(かねこ のぼる、1907年2月11日 - 1989… 金子 登(かねこ のぼる、1907年2月11日 - 1989年7月30日)は放送作家、ユーモア研究者。 東京・芝に生まれる。明治学院大学文芸部卒業。 戦前は新興キネマ、国際文化振興会等に所属。戦後米国大使館などの勤務を経て、放送作家として独立。ラジオでの作品に「時の神の戯れ」「ほのぼの人生」など。 また、ユーモア関係の著書も多く、落語から西洋の古典まであらゆる古今東西のユーモア文学に通暁する。
藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 -… 藤野 恒三郎(ふじの つねさぶろう、1907年1月28日 - 1992年8月15日)は、日本の医学者、細菌学者、医学史研究者。大阪大学名誉教授。神戸学院大学名誉教授。 1950年に集団食中毒の原因として腸炎ビブリオを発見した。適塾を主とした近代医学史の研究でも知られる。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎の甥。祖父藤野升八郎から三代続けての医家。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10… 藤原 恵(ふじわら さとし、1907年(明治40年)1月10日 - 1990年(平成2年)3月16日)は、朝日新聞記者、関西学院大学社会学部教授などを務めた、日本のジャーナリスト、新聞学研究者。 愛媛県新居郡氷見町(後の西条市)に生まれる。1924年に愛媛県立西条中学校を卒業して、4年生の専門学校であった関西学院文学部社会学科に進み、1928年に卒業した。在学中は、河上丈太郎に師事した。 同年、大阪時事新報社に入り、1931年に大阪朝日新聞社へ転じた。1944年に出版局編集部次長兼『週刊朝日』副編集長となり、その後は在阪の出版局、整理部関係の役職を歴任して1962年に定年退職し、客員となった。この間、1945年には、収集していた新聞関係文献資料を大阪朝日新聞社に寄贈し、その目録が『藤原恵文庫目録』として出版された。
満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 19… 満岡 忠成(みつおか ただなり、1907年1月3日 - 1994年8月22日)は、日本の陶磁器研究者。 三重県生まれ。1930年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒。大和文華館勤務、1968年京都市立芸術大学教授。1972年滴翠美術館館長。1974年大手前女子大学教授、1986年退任。1987年小山富士夫記念賞功績褒章受章。1994年8月22日、肺癌のため死去。 数代前の先祖に佐賀藩士で儒学者の満岡允成(俗称:一兵衛、白里)がいる。
原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 20… 原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 2000年11月13日)は、日本の光源研究者。 浜磯太郎の二男として、福岡市に生まれ、原田あやめ(金次郎未亡人)の養子となる。東京大学医学部名誉教授で、日本学士院会員に選ばれた医学者浜清は実弟。1924年福岡県立中学修猷館を経て、1929年東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1929年芝浦製作所(現・東芝)に入社。光源及び放電管の研究に従事し、1942年綜合電灯研究所副所長兼電灯第一課長、光学工業研究所所長、1949年マツダ研究所所長、1961年中央研究所次長、1962年5月取締役、1964年5月常務取締役を経て、1966年5月専務取締役に就任。
手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1… 手塚 英孝(てづか ひでたか、1906年12月15日 - 1981年12月1日)は、日本の文学研究者、作家である。 山口県熊毛郡周防村(現光市小周防)に代々続く医師の長男として生まれる。維新の英蘭学者手塚律蔵は曾祖父の弟にあたる。 旧制徳山中学から慶應義塾大学に進学する。徳山中学在学中に19世紀ロシア文学を愛読、特にトルストイの影響を受ける。慶應在学中に社会運動に参加するようになり、その後当時非合法だった日本共産党に入党し、文化団体の活動をする。日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の新人作家であったこの時期の作品に1932年に発表した「虱」がある。 1933年に検挙され、出獄した後は同じ中学の一年後輩だった宮本顕治の救援活動をおこない、宮本百合子と協力して獄中でのたたかいを支えた。
杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - … 杉山 信三(すぎやま のぶぞう、1906年11月30日 - 1997年12月28日)は、昭和・平成期の日本史研究者である。 京都市埋蔵文化財研究所所長や、近畿大学理工学部教授を務めた。 京都府京都市下京区にて生まれる。ただし少年時代を過ごしたのは聖護院近く(現在の左京区)であった。 京都市立美術工芸学校(現・京都市立美術工芸高等学校)を経て、1929年(昭和4年)に京都高等工芸学校図案科を卒業する。 学校卒業後は京都府庁古社寺修理技手、法隆寺国宝保存工事事務所技手(1934年 - 1935年)、朝鮮総督府技手(1935年 - 1945年)、京都帝国大学→京都大学工学部助手(1945年 - 1952年)を経て、1953年より奈良国立文化財研究所勤務となる。
伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月… 伊藤 信吉(いとう しんきち、1906年〈明治39年〉11月30日 - 2002年〈平成14年〉8月3日)は、日本の詩人、近代文学研究者。 萩原朔太郎、室生犀星、草野心平の知遇を得て、詩人として活動を開始する。戦前にはプロレタリア文学運動に参加していた。最初の詩集『故郷』刊行後に詩作を止め、詩人論や現代詩鑑賞などの評論著述に専念、萩原や室生などの詩人全集の編集に携わった。 70歳で第二詩集『上州』を刊行して詩作を再開。群馬県立土屋文明記念近代文学館初代館長をつとめ、郷土出版で『群馬文学全集』の編纂にも携わった。 1906年(明治39年)11月30日、群馬県群馬郡元総社村大字元総社(現・前橋市元総社町)の農家に父実太郎・母みねの長男として生まれる。
木村 英一(きむら えいいち、1906年11月4日 - 19… 木村 英一(きむら えいいち、1906年11月4日 - 1981年11月15日)は、日本の中国哲学研究者。大阪大学名誉教授。 京都府出身。1930年京都帝国大学文学部支那哲学史卒。1960年「老子の新研究」で京都大学文学博士。京大助教授、1949年大阪大学文学部教授、67年定年退官、名誉教授、追手門学院大学教授。
榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 -… 榊原 美文(さかきばら よしぶみ、1906年10月30日 - 1979年7月6日)は、日本文学研究者。 愛知県生まれ。1931年早稲田大学文学部国文科卒。日本俳優学校講師、1936年大阪に移住、中学校教員となる。戦後、愛知学芸大学教授、帝塚山大学教授。1977年定年退任、名誉教授となる。近藤忠義、石山徹郎、野坂昭如と親しかった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 197… 中野 五郎(なかの ごろう、1906年7月11日 - 1972年10月14日)は、日本の新聞記者、軍事史研究者、翻訳家。 東京府出身。東京帝国大学卒業後、東京朝日新聞に入社。太平洋戦争開戦当時はニューヨーク特派員を務めており、アメリカ政府により抑留される。開戦の翌1942年に交換船により帰国した。帰国後の1943年に『祖国に還へる』を公刊し、開戦直前から帰国に至る経緯で、アメリカ政府への最後通告遅延問題に関し議論の対象となる新庄健吉陸軍大佐の葬儀に出席した模様が記されている。 占領下の1948年に朝日新聞を退社。以降は第二次世界大戦を中心とした軍事関係の著述家・翻訳者となる。1972年に死去。 加藤哲郎によると、戦前に偽名を使って日本で活動していた労農赤軍本部のスパイであるアイノ・クーシネンが著書で「中野男爵」と記している人物は、中野のことであるとみられる。
大場 俊助(おおば しゅんすけ、1906年5月13日 - 1… 大場 俊助(おおば しゅんすけ、1906年5月13日 - 1970年11月30日)は、日本の日本文学研究者。 静岡県出身。東京文理科大学国文科卒。1936年中央大学予科教授、1939年中央大学文学部教授。国語教育が専門だが、近世文学などに業績があり、小林一茶のセックスについて研究したことで知られる。
磐瀬 太郎(いわせ たろう、1906年5月3日 - 1970… 磐瀬 太郎(いわせ たろう、1906年5月3日 - 1970年2月28日)は、日本の蝶学の研究者・愛好者・アマチュア研究の指導者。 東京都文京区出身。日本鱗翅学会会長(1967-70年)。妻は浜口吉右衛門長女文子。従姉妹に童謡歌手の平山美代子。妻の従姉妹に嵯峨浩がいる。 1906年、文京区駒込西片町(現・文京区西片)に東京帝国大学名誉教授、宮内庁御用掛侍医、医学博士磐瀬雄一の長男として生まれる。1919年東京高等師範学校付属小学校を卒業。同付属中学を卒業。父雄一より標本、採取道具等を譲り受け、東京谷中墓地等で蝶の採取を経験する。 中学在学中の1921年、初めての論文「アゲハ蝶類の草食及び食物に就いて」を「昆虫世界」(第25号)に発表。
見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 197… 見田 石介(みた せきすけ、1906年4月23日 - 1975年8月9日)は、日本の哲学者・マルクス主義経済学者・ヘーゲル研究者。旧姓は甘粕、筆名「佐竹 恒有」、「瀬木 健」。 1906年、島根県津和野生まれ。1923年3月県立富山中学校4学年修了。1927年3月旧制第四高等学校理科卒業。1930年京都帝国大学文学部哲学科卒業。波多野精一に師事し、ヘーゲルの歴史哲学を研究した。 1930年4月に同大学大学院に進学し、同時に平安女学院講師に就職するが、1931年3月に大学院を退学。同年4月に平安女学院講師も退職する。1932年10月に創立された唯物論研究会に11月に参加。1933年機関誌『唯物論研究』に執筆開始。
市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 -… 市川 泰治郎(いちかわ たいじろう、1906年3月25日 - 没年不詳)は、日本の経済・思想史研究者。 横浜市生まれ。東京商科大学本科卒。国立国会図書館勤務、国際事業部長、拓殖大学教授。77年定年、名誉教授。城西大学教授。
本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 200… 本田 安次(ほんだ やすじ、1906年3月18日 - 2001年2月19日)は、日本の芸能研究者。早稲田大学名誉教授。 福島県本宮町(現・本宮市)生まれ。1929年早稲田大学文学部英文科卒業。宮城県立石巻中学校教諭、1943年『山伏神楽・田楽』『能及狂言考』で藝能学会賞受賞、1949年早稲田大学付属高等学院教諭・同大学文学部講師(-1960年)、1950年文化財保護審議会専門委員(-1986年)、1954年『霜月神楽之研究』で芸術選奨文部大臣賞受賞、東京都文化財専門委員(-1974年)、1960年早稲田大学教育学部教授、「神楽の研究」で早大文学博士、1967年紫綬褒章受章、1971年日本民俗芸能協会会長、1972年河北文化賞受賞、1973年早稲田大学大隈記念学術褒章、1975年『日本の民俗芸能』全5巻で再度芸術選奨文部大臣賞受賞、1976年勲三等瑞宝章受章、早大を定年退職、成城大学講師(-1979年)、1981年日本口承文芸学会会長(-1983年)、1987年民俗芸能協会名誉会長、1990年芸能学会会長(-1992年)、1991年伝統文化ポーラ大賞、1992年『沖縄の祭と芸能』で柳田賞、1995年文化功労者。
日野西 義輝(ひのにし よしてる、1906年(明治39年)3… 日野西 義輝(ひのにし よしてる、1906年(明治39年)3月16日 - 1983年(昭和58年)6月15日)は、日本の蛍光体研究者・実業家であり、日本電気化学代表取締役の後、日立ランプ取締役。北海道出身。 北海道茅部郡石倉村(現・森町)濁川の広大な日野西牧場で農場を経営していた日野西長輝(日野西光善の三男)の長男として生まれた。日野西家は京都の堂上華族である。1916年に父親が日本統治下の朝鮮・慶尚南道の村井進永農場の農場長に就任したため、小学校6年より叔母の家があった岡山県成羽町(現・高梁市)で暮らす。その後、1919年(大正8年)旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し同期に石川達三、金澤覚太郎、翁孝文(クラボウ常務)がいた。
川村 智治郎(かわむら としじろう、1906年3月7日 - … 川村 智治郎(かわむら としじろう、1906年3月7日 - 2003年1月27日)は、両生類の研究者。第3代広島大学学長。 滋賀県生まれ。(旧制)広島文理科大学に進学、広島文理科大学時代の指導教官は阿部余四男教授で、卒業論文はウズラに関する内容であった。1933年(昭和8年)に同大学を卒業後、同大学助手・講師、京都帝国大学講師、広島文理科大学助教授を務めた。 1935年(昭和10年)9月から翌年3月までの半年間、広島高等師範学校の動物の授業を担当した。 1947年(昭和22年)12月6日、広島県内に昭和天皇の戦後巡幸があった際には、厳島に宿泊していた昭和天皇に召し出されて「両生類における実験発生学的研究」について奏上する機会を得た。
櫛田 良洪(くしだ りょうこう、1905年11月28日 – … 櫛田 良洪(くしだ りょうこう、1905年11月28日 – 1980年11月4日 )は、日本の僧侶、日本仏教史研究者。 愛知県出身。大正13年旧制豊山中学校卒業、1929年大正大学文学部史学科卒業。1934年大正大学講師、1944年同助教授、1947年同教授。1966年には大正大学学長となり、1974年に名誉教授。日本仏教史、特に浄土真宗史の研究を専門とし、1960年に「東密の史的展開に関する研究」により大正大学から文学博士の学位を授与された。松戸市教育委員長なども務めた。1977年に勲三等瑞宝章を受章。
竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - … 竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - 1989年3月7日)は、昭和時代の研究者、経営者。大阪府大阪市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12… 森 蘊(もり おさむ、1905年8月8日 - 1988年12月14日)は、日本庭園の研究者、作庭家。庭園研究家。『作庭記』など古文献の研究と、桂離宮や修学院離宮など多くの日本庭園における実地測量や発掘調査を組み合わせて、研究や庭園の復元整備に取り組んだ。旧大乗院庭園にかかる朱塗りの反橋、日本最古の人工滝である法金剛院の青女瀧などは、森が時代考証や現地調査を経て復元した。法華寺「仔犬の庭」や慈光院の新書院庭園など、古風な作庭も自ら手掛けた。 東京府北多摩郡立川村(現・東京都立川市)生まれ。1932年に東京帝国大学農学部農学科を卒業。在学中は、田村剛の造園学の講義を聴き造園研究の道に進むことを決める。
高村 象平(たかむら しょうへい、1905年(明治38年)8… 高村 象平(たかむら しょうへい、1905年(明治38年)8月2日 - 1989年(平成元年)5月11日)は、第11代慶應義塾塾長、経済人類学研究者、ハンザ史研究者。中央教育審議会会長、日本学士院会員等を歴任。従三位勲一等瑞宝章。専攻はドイツ中世都市の研究、とくにドイツ・ハンザの研究。
三井 礼子(禮子、みつい れいこ、1905年(明治38年)3… 三井 礼子(禮子、みつい れいこ、1905年(明治38年)3月16日 - 1989年(平成元年)1月13日)は、日本の女性史研究者、歴史家。 東京市出身。(三井高棟〔三井家総領家当主〕)四女に生まれる。女子学習院高等科に進み、蒙古史や東洋歴史論などで著名な河野元三に師事すると1924年(大正13年)卒業。東京帝国大学文学部(現東京大学文学部)に聴講生として通いはじめマルクスやエンゲルスに立脚する歴史を学ぶ。同年に三井高篤と結婚後、1929年から4年余りを海外で過ごし、やはり海外赴任に帯同していた石本(加藤シヅエ)に出会う。 1946年(昭和21年)民主主義科学者協会設立に参画すると、そのもとに婦人問題研究会を組織した。
長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日… 長田 幹雄(ながた みきお、1905年(明治38年)3月1日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、岩波書店の元専務、竹久夢二研究者。 1919年(大正8年)に岩波書店に入店以来1972年(昭和47年)に退職するまで、『漱石全集』をはじめとする岩波書店の主要出版物にかかわり、編集・経営の両面において長く同書店の中心的存在であり続けた。「岩波新書」の命名者でもある。 長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。成人する前に父をなくしたため、高等小学校を14歳で卒業すると上京し、岩波書店に入る。 いわゆる『決定版漱石全集』(1935年 - 1937年刊行)においては、企画から出版まで、小宮豊隆を補佐し、完成に最後まで責任を持った。
石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 20… 石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 2000年1月14日)は、日本の兵法研究者、文学博士、弓道家(弓道範士十段)、本多流師範。國學院大學教授、國學院大學弓道部元師範。号は榊舎弓人。 広島県生まれ。学生時代に今まで余り史学者が手掛けてこなかった分野を研究したいと模索していた時に、休職中だった海軍大佐の有馬成甫(のち海軍少将)と知り合い、兵法学について関心を持つ。1934年國學院大學国史学科を卒業すると、有馬の推挙で多くの兵法文献を所蔵する江田島の海軍兵学校教育参考館に嘱託研究員として就職する。海軍兵学校教育参考館には、伊予松山藩の野沢文庫、上泉流を主体とする鳥取池田藩の鷲見文庫など膨大な兵書文献を所蔵していた。
服部 英次郎(はっとり えいじろう、1905年1月14日 -… 服部 英次郎(はっとり えいじろう、1905年1月14日 - 1986年7月31日)は、日本の哲学研究者。関西大学名誉教授。 和歌山県生まれ。京都帝国大学文学部哲学科卒。神戸大学教授、名古屋大学教授、奈良女子大学教授、関西大学教授、1975年定年、名誉教授。 古代哲学末期のアウグスティヌスから中世哲学のトマス・アクィナス、ルネサンス期のベーコンなどの思想家を研究、アウグスティヌス『告白』『神の国』など多くの原典訳がある。
尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999… 尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999年5月16日)は、日本の国際政治学者、法学者、ソ連研究者。神戸大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市出身。1929年京都帝国大学法学部卒業。満州のハルピン学院や建国大学で教授を務める。終戦直前に現地召集され、戦後は5年間シベリア抑留された。 1951年より神戸大学法学部教授、1968年定年退官、名誉教授。同年より神戸学院大学法学部教授を務め、1974年から1980年までは学長も務めた。1989年退職。 1961年、「ソビエト外交史」で京都大学法学博士。1975年勲三等旭日中綬章受章。
杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年… 杉本 捷雄(すぎもと かつお・はやお、1905年(明治38年)1月1日 - 1970年(昭和45年)11月17日)は、日本の文筆家・陶芸研究者・歴史研究者。陶芸研究においては、古曾部焼、丹波焼を中心に調査・資料収集を行なった。 大阪市生まれ。東洋大学卒業。小説家として活動した後、陶芸研究・千利休の周辺をはじめとする歴史研究を行ない、兵庫県陶芸館副館長を務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
山本 光雄(やまもと みつお、1905年 ‐ 1981年)は… 山本 光雄(やまもと みつお、1905年 ‐ 1981年)は、古代哲学研究者、東京都立大学名誉教授。福岡県生まれ。東京帝国大学文学部哲学科卒業。1967年まで東京都立大学教授。
福田 清人(ふくだ きよと、1904年〈明治37年〉11月2… 福田 清人(ふくだ きよと、1904年〈明治37年〉11月29日 - 1995年〈平成7年〉6月13日)は、日本の小説家、児童文学作家、近代文学研究者、文芸評論家。立教大学教授、立教女学院短期大学教授、実践女子大学教授。 日本児童文芸家協会を結成して理事長・会長を歴任したほか、滑川道夫らと日本児童文学学会を設立した。日本近代文学館常任理事、波佐見町名誉町民。勲四等旭日小綬章受章。 1904年(明治37年)11月29日、長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷鹿山で、父「和一朗」(医師)と母「すい」の長男として誕生。5歳までは同町鬼木郷にあった母親の実家で育てられる。村長となった祖父、村医として開業した医師の父に連れられて、少年時代を西彼杵郡土井首村(現長崎市土井首)で過ごす。
松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月… 松井 達夫(まつい たつお、1904年 <明治37年> 9月29日 - 1997年 <平成9年> 3月25日)は、日本の都市計画家、都市計画研究者。土木技術官僚。位階は正四位。 早稲田大学教授を務めた。このほか、帯広市市計画立案委員会委員長(帯広の団地のうち柏林台団地は昭和38年マスタープランを担当)、土木学会関東支部長、島根県庁周辺整備委員会委員、八王子土地利用計画研究委員会委員・幹事長、川崎市都市計画審議委員長、 南多摩地方計画策定委員会委員、 帝都高速度交通営団管理委員会委員、庵原地区総合開発調査委員会委員長、 港北ニュータウン計画に関して日本都市計画学会検討委員会委員長、 双葉原子力地区調査委員会委員長、 原子力委員会地帯整備専門部会都市計画小委員会主査 など、要職を多数歴任した。
相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1… 相原 信作(あいはら しんさく、1904年9月24日 - 1996年7月6日)は、日本の哲学研究者。
澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 19… 澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 1995年2月26日)は、日本の哲学研究者。大阪大学名誉教授。専門はフランス哲学。 1904年、三重県伊勢市で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、哲学科で九鬼周造に師事した。1929年に卒業。1935年、フランス政府招聘留学生として渡仏。 1938年に京都帝国大学講師となり、1941年に大阪帝国大学講師に転じた。1954年、大阪大学文学部教授に昇格。1960年、学位論文『医学概論』を大阪大学に提出して医学博士号を取得。1968年、大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、南山大学教授を務めた。1986年、日本学士院会員に選出された。
水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月2… 水野 勝邦(みずの かつくに、1904年〈明治37年〉6月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月12日)は、日本の華族(子爵)・政治家・中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年(大正13年)11月26日、勝邦に改名した。 1928年(昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した。 1939年(昭和14年)7月10日に貴族院子爵議員に選出され、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月2… 樋口 勝彦(ひぐち かつひこ、1904年(明治37年)4月24日 - 1964年(昭和39年)3月19日)は、昭和中期のラテン文学、西洋古典学研究者。慶応義塾大学教授。日本西洋古典学会委員。オウィディウス『アルス・アマトリア』の訳者。
宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904… 宮澤 清六(みやざわ せいろく、新字体:宮沢 清六、1904年(明治37年)4月1日 - 2001年(平成13年)6月12日)は、日本の実業家、児童文学研究者。宮沢賢治と宮沢トシの実弟で、全集の編纂をはじめとする賢治の文学研究に携わった。宮沢和樹は孫。 宮澤政次郎の次男として岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市)に生まれ育つ(賢治の8歳年下)。 1922年、旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を卒業し、家業を手伝った。同年11月27日、6歳上の姉トシが死去。「家業への嫌悪」とトシ死去などの「暗欝な家庭からの脱出、息抜き」として家族の了解を得た上で、同年12月から東京市本郷区龍岡町(現・東京都文京区湯島)に下宿して、図書館や研数学館で数学(主として幾何学)と科学(主として電気)を学ぶ。
駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 197… 駒形 作次(こまがた さくじ、1904年2月6日 - 1970年7月11日)は、昭和の電気工学研究者、半導体研究者。原子力研究者。 逓信省電気試験所所長。通商産業省工業技術院長。日本原子力研究所理事長。原子力委員。三菱原子力工業顧問。 界面動電現象や東北帝国大学渡辺寧とともに日本で最初に半導体(トランジスタ)の研究を行いその後、原子力開発に携わった。 新潟県長岡市出身。新潟県立長岡中学校卒業(旧制)。旧制新潟高校卒業。東京帝国大学電気工学科卒。1937年(昭和12年)工学博士。 1927年(昭和2年)逓信省電気試験所に入所。1952年(昭和27年)通商産業省工業技術院長となる。1948年アメリカのベル研究所でショックレー、ブラッタン、バーディーンによって半導体であるゲルマニウムを用いたトランジスタが発明され、GHQからもたらされたトランジスタの論文を翻訳し「トランジスタ勉強会」を発足させる。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 19… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1904年1月25日 - 1995年1月28日)は、日本の哲学研究者。弘前大学名誉教授。 秋田県生まれ。1933年東京文理科大学哲学科卒。1949年弘前大学文理学部教授、人文学部長。1960年「ヤスパースにおける絶対的意識の構造と展開」で東京教育大学文学博士。1962年文部省在外研究員として西独、スイス、米国に滞在。1968年定年退官、名誉教授、弘前学院大学学長。
中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12… 中平 解(なかひら さとる、1904年〈明治37年〉1月12日 - 2001年〈平成13年〉11月12日)は、日本のフランス語学研究者。日本民俗語学者。 1904年(明治37年)1月12日、愛媛県南宇和郡一本松村広見(現・愛南町)に生まれる。父・中平幾男、母・栄。「わたしの家は三万石の〔伊予〕吉田藩〔宇和島藩の支藩〕の小船頭の役をしていて、祖父は殿様が参勤交代のときに大阪まで行ったようである」。「祖父は四万十川が氾濫したとき、政府(県かもしれない)が呉れた米を、御上のくれた物は食べないと言って頑張った、という話を聞いたこともあるが、わたしのアマノジャクも、この祖父の性質を受けているのかもしれない」。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 … 龍口 直太郎(たつのくち なおたろう、1903年9月14日 - 1979年8月1日)は、日本のアメリカ文学研究者。早稲田大学名誉教授。 「瀧口直太郎」「滝口直太郎」と名前が誤記されることもある。 スタインベック、コールドウェル、カポーティなどの作品を数多く翻訳。また英国文学でもモームの翻訳が多く、日本モーム協会に参加。英文解釈や作文などの教科書も数多く執筆した。 東京府生まれ。聖学院中学校(現聖学院高等学校)卒業後、東京外国語学校英語科に進学、卒業。アメリカ文学を専攻し、早稲田大学教育学部教授を長年務め、退職後は名誉教授に就いた。 早稲田大学での教え子に角野栄子がいた。 その他共編、改訂で教科書、参考書が多数にのぼる。
辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 196… 辛島 驍(からしま たけし、1903年8月16日 - 1967年4月27日)は、日本の中国文学研究者。 1903年、福岡県博多市で生まれた。1921年に福岡県立中学修猷館を卒業し、山口高等学校を卒業した。1928年、東京帝国大学文学部支那文学科を卒業。同年、京城帝国大学に赴任し、支那語学・支那文学講座を担当した。その後、助教授を経て、1939年に教授昇格。同年、博士論文『支那現代文学の研究』を東京大学に提出したが、太平洋戦争下の混乱の中で文学博士号授与は1946年となった。朝鮮半島赴任時には、延禧専門学校(現・延世大学校)校長も務めた。 戦後は昭和女子大学、相模女子大学教授などをつとめた。また、鎌倉文士とのつきあいもあり、鎌倉市図書館館長を務めた。
栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 199… 栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 1998年6月12日)は、日本の中国哲学研究者、中国学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、茨城県水戸市で生まれた。第一早稲田高等学院を卒業し、早稲田大学文学部西洋哲学専攻に進学。戸川行男と共に津田左右吉の講義を受講したことを機に、以後、津田に師事。 1933年に早稲田大学文学部助手となった。1937年から2年間北京に留学。1939年に帰国し、早稲田大学文学部専任講師に昇格。1948年に早稲田大学文学部教授となった。1974年に早稲田大学を退職し、名誉教授となった。1998年に死去。 近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者として知られ、特に中国古代思想の分野で優れた業績を上げた。
印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2… 印南 高一(いんなみ こういち、1903年4月30日 - 2001年12月19日)は、日本の演出家、演劇研究者(大学教授)。印南 喬(いんなみ たかし)の筆名がある。本名の印南高一に、「いんなみ たかいち」のルビを振る著書もある。 長野県飯田市出身。印南は同郷の先輩河竹繁俊を介しての、坪内逍遙の孫弟子である。財団法人逍遙協会理事を40年間務めた。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の設立初期から、また坪内が創設した早稲田大学文学部(坪内の当時東京専門学校)に新設された芸術科の設立初期から関わり、半生を奉職した。 演劇の研究分野は東洋演劇をはじめとして、日本、西洋の古今の演劇におよぶ。演出においては、坪内逍遙のページェント(野外劇)運動およびヨーロッパの「音と光」のページェント手法を用いた、シェイクスピア演劇の前衛的な活動などをした。
平等 通昭(びょうどう つうしょう、1903年2月25日 -… 平等 通昭(びょうどう つうしょう、1903年2月25日 - 1993年9月20日)は、浄土真宗の僧、仏教研究者。 神奈川県横浜市出身。別名・都筑照雄、平等通照。浄土真宗本願寺派善教寺の継嗣。本名・通照(みちてる)、得度して通昭だが、双方を用いた。 早稲田高等学院を経て、1926年東京帝国大学文学部梵文学科卒。自寺に印度学研究所を設け著述刊行した。1929年善教寺住職となり、1962年新羽幼稚園を設立、園長となる。なお、1947年と1951年の横浜市議会議員選挙(港北区選挙区)に日本社会党公認で立候補し落選している。
鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 19… 鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 1947年8月6日)は、昭和初期の日本の臨床医師、医学研究者(医学博士)。南洋庁立の病院の医師として、トラック医院、パラオ医院、ヤップ医院、ヤルート医院、ポナペ医院で現地日本人およびミクロネシア人を診察した。その傍ら、ミクロネシア人についての医学的、人類学的、疫学的研究をおこなった。 1920年(大正9年)、岡山医学専門学校に進学する。在学中の1922年に岡山医学専門学校は岡山医科大学に昇格した。1924年(大正13年)3月、岡山医科大学付属専門部を卒業。 日本の各地の医師を経て、南洋群島に渡り1934年(昭和9年)頃に南洋庁の官医となる。
磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1… 磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1997年4月5日)は、日本の都市社会学研究者。
松浦 一六(まつうら いちろく、1903年 - ?<1999… 松浦 一六(まつうら いちろく、1903年 - ?<1999年時点で故人>)は、日本の日本文学研究者。近世日本文学、特に井原西鶴の研究などで知られ、「西鶴町人物研究の先覚」と評された。 兵庫県武庫郡須磨村(1912年に町に昇格、1920年に神戸市に編入)に生まれ、中学卒業まで地元で育つ。少年期には浪曲と野球に熱中した。中学卒業後、神戸を離れて岡山市の第六高等学校に進んだ。その後上京し、1927年に東京大学文学部国文科を卒業した。 大学卒業後すぐに、第七高等学校教授となり、以降、七高などから改組新設された鹿児島大学、さらに鹿児島県立短期大学、鹿児島短期大学で教授を歴任した。 なお、第二次世界大戦中には静岡市にいた時期があり、1945年6月の静岡大空襲で、収集していたレコード類などを始め全財産を失うという経験もしている。
香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 19… 香西 精(こうさい つとむ、1902年11月29日 - 1979年1月12日)は、日本の英文学者・能楽研究者。 岡山県倉敷市出身。東京帝国大学文学部英文科卒業、甲南高等学校教授となるが病気のため辞職、1942年米穀会社に入り、兵庫米穀社長・会長。戦前から能楽研究を行い『謡曲界』などに多くの論文を発表。戦後、雑誌『宝生』に「とらうきやう考」を発表した後、表章との交流が始まり、世阿弥研究の基礎となる多くの功績を残した。1963年法政大学能楽研究所顧問。甲南高校時代の教え子に武智鉄二がいる。長男は元住友化学工業社長の香西昭夫。次男は日本経済研究センター理事長や政府税制調査会会長を務めたエコノミストの香西泰。