淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月… 淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1967年〈昭和42年〉7月7日)は、日本の文芸評論家。フランス文学者。 京都府紀伊郡伏見町(現・京都市伏見区)生まれ。本名・三吉。淀野家は伏見過書町で手広く鉄工所を営んでいた。京都府立京都第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を卒業後、1922年に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科甲類に入学。野球部に入り、一高三高戦で三塁手として活躍した。三高劇研究会に所属し、卒業した先輩の梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂と知り合う。 1925年、三高卒業後に東京帝国大学文学部仏文科に入学。前年に同校に進んでいた梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂の創刊した同人誌『青空』の6月号・通巻4号から同人参加した。
石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 20… 石堂 清倫(いしどう きよとも、1904年4月5日 - 2001年9月1日)は、日本の評論家、社会思想研究家、社会運動家である。 1904年、石川県石川郡松任町(現白山市)生まれ。第四高等学校で先輩である中野重治を知り、東京帝国大学在学中、新人会で共に活動する。1927年東京帝国大学文学部英文科卒業後、関東電気労働組合に勤務、東京府荏原郡馬込村で西田信春、大間知篤三、岩田義道、栗原佑との5人で共同生活。同年10月、日本共産党入党、11月無産者新聞の編集に携わる。1928年、「三・一五事件」に連座し逮捕。その後釈放と逮捕を繰り返し、執行猶予となって、1933年11月保釈。獄中でロシア語や中国語を独学、ペンネームでウラジーミル・レーニンなどの著作を翻訳。
吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日… 吉村 正一郎(よしむら しょういちろう、1904年2月17日 - 1977年12月9日)は、日本のフランス文学者・文芸評論家・翻訳家。 滋賀県甲賀郡水口町(現・甲賀市)に、のち広島市長の吉村平造(吉村胆南)の長男として生まれる。弟に映画監督の吉村公三郎がいる。1925年京都帝国大学文学部仏文科入学、1928年同卒業、朝日新聞社に入社、京都支局長、パリ特派員、論説委員を歴任し、「天声人語」を書く。生島遼一の妹悦子と結婚するが先立たれた。戦後1959年に京都市助役、1968年に奈良県教育委員長となる。1976年に帝塚山学園長となり、在職中にガン性腹膜炎のため自宅で死去した。 逝去時には、東大寺信徒総代、大仏奉讃会副理事長を務めていた。
中川 龍一(なかがわ りょういち、1904年2月15日 - … 中川 龍一(なかがわ りょういち、1904年2月15日 - 1990年8月6日)は、日本の英文学者、演劇評論家、翻訳家。 大阪外国語学校、関西学院大学卒。戦後、南山大学文学部教授。1973年、大妻女子大学教授。英語戯曲の翻訳、演劇評論で活動、ほか推理小説の翻訳もした。
唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月… 唐木 順三(からき じゅんぞう、1904年(明治37年)2月13日 - 1980年(昭和55年)5月27日)は、日本の文芸評論家・哲学者・思想家。 京大で西田幾多郎に師事。『現代日本文学序説』(1962年)を書き、『鷗外の精神』(1943年)、『中世の文学』(1955年)と研究を進めた。反近代の思想を貫き『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(1980年)を遺して死去した。 1904年(明治37年)、長野県上伊那郡宮田村に生まれる。旧制松本中学(現:長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校(現:信州大学)文科甲類を卒業後、1927年(昭和2年)に京都帝国大学文学部哲学科を卒業。西田幾多郎や田邊元から多大な影響を受けた。
青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944… 青柳 優(あおやぎ ゆたか、1904年2月1日 - 1944年7月30日)は日本の詩人、文芸評論家。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)に医師の三男として生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)では同級に唐木順三がいた。早稲田大学英文科在学中からアナーキズム文学雑誌『世紀文学』を創刊する。その後、文芸雑誌『黒色戦線』を創刊し、「丹沢明」の筆名で、同人誌にダダイズム的な評論や詩を発表した。1930年(昭和5年)『黒色戦線』を廃刊し、『黒戦』1932年『アナーキズム文学』を創刊する。1931年(昭和6年)京都帝国大学の青柳栄司の世話で、四条畷女子学校の英語教師となるが、2ヶ月ほどで退職し、千住税務署に勤務しながら文芸評論を続ける。
池島 重信(いけじま しげのぶ、1904年(明治37年)1月… 池島 重信(いけじま しげのぶ、1904年(明治37年)1月2日 - 1991年(平成3年)8月18日)は、日本の哲学者、文芸評論家。専門はドイツ哲学。法政大学名誉教授。 1904年(明治37年)1月2日に茨城県水戸市に生まれる。1929年(昭和4年)に法政大学法文学部哲学科を卒業する。 法政大学助手を経て講師になるが、1935年(昭和10年)の法政騒動で野上豊一郎たちと共に辞職、日本放送協会教養部に勤務し、教養部副部長に就任する。 戦後、1946年(昭和21年)に法政大学に復職し、文学部助教授に就任、教授・文学部長などを歴任する。 1991年(平成3年)8月18日に死去、87歳。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - … 天知 俊一(あまち しゅんいち、1903年12月30日 - 1976年3月12日)は、兵庫県西宮市出身の元野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 旧制甲陽中学校2年時に攻玉社中学校へ転校した後、明治大学予科へ進学するが、当時の中学校3年修了では資格が無いとして下野中学校へ再入学させられる。下野中で中学校4年修了となり、晴れて明治大学予科進学の資格を得られ、再度進学する。天知の学生生活は波乱に富んだものであったが、明大時代は捕手で、後に毎日オリオンズで監督を務める湯浅禎夫とバッテリーを組んだ。また、大学野球の審判を充実させる必要性を感じていた一学年先輩の二出川延明から野球のルールについての難問が毎朝10問、「宿題」として天知に出され、練習開始時間までに全問解く訓練を受けた。
瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)1… 瀧口 修造(たきぐち しゅうぞう、1903年(明治36年)12月7日 - 1979年(昭和54年)7月1日)は、近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、近代詩の詩人とは一線を画す存在。 1903年、富山県婦負郡寒江村(のち呉羽町、現:富山市)大塚に3人姉弟の長男として生まれる。家は祖父の代から医者であり、長男の修造は当然家業を継ぐものとして期待されていた。だが、それに反するかのように本人は子供の頃から大の学校嫌いで、よく家の大黒柱につかまっていたという。小学5年生のある日、父の勤めている病院に連れて行ってもらい、実際の手術の現場を見せてもらったところ、あやうく卒倒しかける。
手塚 富雄(てづか とみお、1903年11月29日 - 19… 手塚 富雄(てづか とみお、1903年11月29日 - 1983年2月12日)は、日本のドイツ文学者・評論家。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1961年)。東京大学名誉教授。 栃木県宇都宮市生まれ。旧制第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学文学部独文科卒。旧制松本高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部独文科助教授、1949年教授。1961年に学位論文「ゲオルゲとリルケの研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。1963年より文学部長をつとめる。1964年定年退官後は立教大学教授、共立女子大学教授を歴任。1967年日本学士院会員、1972年、NHK放送文化賞受賞、1981年文化功労者。
神西 清(じんざい きよし、1903年11月15日 - 19… 神西 清(じんざい きよし、1903年11月15日 - 1957年3月11日)は、日本のロシア文学者、翻訳家、小説家、文芸評論家。 1903年、内務省の官吏の息子として東京市に生まれる。1910年、麹町の番町小学校に入学。父の転勤に伴って日本国内各地を転々とした末、父は台湾へ赴任。清も台湾の日本人学校に学ぶ。内向的で孤独な少年だった。1912年、父をマラリアで失う。 1916年、東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)に入学。このころ、母方の伯母を頼って北村家に同居。従兄の北村寿夫の影響で文学に親しむ。中学で、終生の友人竹山道雄と知り合う。 1920年、旧制第一高等学校に入学。堀辰雄と知り合う、親交は終生続き、堀の没後には全集の編集を担当した。
今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日… 今 日出海(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日 - 1984年(昭和59年)7月30日)は、日本の小説家、文芸評論家、舞台演出家。 初代文化庁長官を務めた。 北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。 日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年(明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年(大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。 1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。
木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月1… 木下 保(きのした たもつ、1903年(明治36年)10月14日 - 1982年(昭和57年)11月11日)は、日本の声楽家(テノール)、音楽教育者、指揮者、合唱指揮者、オペラ歌手、音楽評論家、作曲家・編曲家。日本の洋楽の黎明期を代表する音楽家として多大な功績を残した。 兵庫県城崎郡豊岡町(現: 豊岡市)に三人兄弟の次男として生まれる。父・松吉は特産「柳行李」製造卸業。1920年(大正9年)3月上京。ヴァイオリンを川上淳、声楽を澤崎定之に師事。1922年(大正11年)4月東京音楽学校予科入学。1926年(大正15年)同校本科声楽部を卒業し研究科進級。ペツォード、ネトケ=レーヴェに師事。 ベートーヴェン『第九』は、学生時代に東京音楽学校定期演奏会での公式初演で合唱団メンバーとして参加し、1927年(昭和2年)5月新交響楽団(現「NHK交響楽団」の前身)による初演奏「ベートーヴェン没後百周年演奏会」でソリストとしてデビュー。
池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990… 池田 潔(いけだ きよし、1903年10月4日 - 1990年3月14日)は、日本のイギリス文学者、評論家、随筆家である。
石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 19… 石垣 綾子(いしがき あやこ、1903年9月21日 - 1996年11月12日)は、日本の女性問題評論家、社会運動家。旧姓・田中。 陸軍幼年学校物理学教授田中三四郎の二女として東京(現在の東京都新宿区市谷加賀町)に生まれる。2歳のときに早稲田南町に転居した。転居先の近所には夏目漱石が居住しており、漱石の三女とは小学校で同級だった。4歳の時母親と死別し、父親の手で育つ。府立第一高女に学び、YMCAの英語クラス、バイブル・クラスに通って社会運動にふれる。卒業後は自由学園高等科に入学。自由学園卒業後。警察に検挙されたことをきっかけに、家族の勧めにより、1926年に外交官としてワシントンに赴任する姉夫婦とともに米国に渡り、反戦・社会運動に参加する。
金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903… 金 晋燮(キム・ジンソプ、朝鮮語: 김진섭/金晉燮、1903年8月24日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の評論家、随筆家、詩人、作家、ドイツ文学者、アナウンサー。 号は聴川(チョンチョン、청천/聽川)。 全羅南道木浦に生まれ。幼少期いっとき慶尚南道安東で過ごす。1927年に法政大学文学部独文科卒。1925年に文学評論家として登壇、以後随筆の大家として名を鳴らした。 解放後は京城放送局員、ソウル大学校中央図書館長、ソウル大学校・成均館大学校教授を歴任したが、自宅にいた際に北朝鮮に拉致され、以後消息不明。
梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6… 梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6月24日〉 - 1977年2月4日)は、大韓民国の詩人、評論家、国文学者、英文学者、翻訳家、随筆家、教授。本貫は南海梁氏(済州梁氏)。号は无涯(ムエ、무애)。 京畿道開城に生まれた。幼児期をいっとき平壌で過ごし、長淵で育った。京城中東高等普通学校を経て渡日し、1928年に早稲田大学英語英文学科卒業。1919年に廉想渉と共同で『文芸公論』を発刊し、崇実専門学校(現・崇実大学校)教授を務め、1923年同人誌『金星』で文壇に登場した。1930年には詩集『朝鮮の脈拍』を出版した。その後、郷歌の研究をし、1942年に郷歌25首の解読を行った『朝鮮古歌研究』を出版した。
中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日… 中野 好夫(なかの よしお、1903年〈明治36年〉8月2日 - 1985年〈昭和60年〉2月20日)は、日本の英文学者・評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。東京大学教授・中央大学教授を歴任。 愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた。 第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。 1926年に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。
竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 19… 竹山 道雄(たけやま みちお、1903年7月17日 - 1984年6月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者、小説家。日本芸術院会員。第一高等学校教授、東京大学教養学部教授などを歴任した。 1903年、銀行員の息子として赴任先の大阪市で出生。幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現・ソウル)で過ごした。東京府立第四中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学。1926年に大学を卒業した。 卒業後はドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省より欧州留学を命じられ、ベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となった。 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官。
芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8… 芳賀 檀(はが まゆみ、1903年7月6日 - 1991年8月15日)は、日本の評論家、ドイツ文学者。
高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 197… 高桑 純夫(たかくわ すみお、1903年6月4日 - 1979年5月21日)は、日本の哲学者、思想評論家。 東京女子医科大学教授、愛知大学教授を歴任。 奈良県出身。上智大学文学部哲学科卒。1940年陸軍士官学校教授。中世スコラ哲学を研究するが、戦後唯物論哲学に転じ主体性論争で活躍。 1965年原水爆禁止国民会議事務局長。
林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日… 林 房雄(はやし ふさお、1903年(明治36年)5月30日 - 1975年(昭和50年)10月9日)は、日本の小説家、文芸評論家。大分県大分市出身。本名は後藤 寿夫(ごとう ひさお)。戦後の一時期の筆名は白井 明。戦後は中間小説の分野で活動し、『息子の青春』、『妻の青春』などを出版し舞台上演され流行作家となった。 父が酒に溺れたため、家業の雑貨商が破産。このため母が紡績工場の女工として家計を支えた。1916年(大正5年)、旧制大分中学校(現・県立大分上野丘高校)入学後は、銀行家の小野家の住み込み家庭教師として働きながら苦学し、1919年(大正8年)、第五高等学校に入学してからも小野家の援助を受ける。
丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 199… 丸岡 秀子(まるおか ひでこ、1903年5月5日 - 1990年5月25日)は、日本の社会評論家。婦人問題評論家。 生年については、1904年説があるが、没後の集いで井出孫六が「1903年に生まれ」と言っている。 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。生まれ。本名・石井ひで。政治家の井出一太郎、医学者の井出源四郎、作家の井出孫六、共同通信社論説委員長の井出武三郎は異母弟。生母が幼くして死去したため養女に出され、のち生母の実家で祖父母に育てられた。 長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務、組織拡充のため全国の農村を回り、1937年、『日本農村婦人問題』を刊行。
村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - … 村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - 1994年6月17日)は、日本の評論家。 香川県仲多度郡琴平町生まれ。1923年、日本女子大学校国文科卒、1930年、岡山医科大学副手の村山高と結婚、1936年頃から地域婦人活動を行う。新地に女子青年団が結成された際、団長に選ばれる。 その後、1943年から大阪に住み女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に勤める。 戦争で大阪の家を焼かれ、戦後、大阪市社会教育委員など各種婦人団体の役員をつとめ、新聞の身の上相談や社会時評などで、婦人問題評論家として活動。 『源氏物語』の研究を始めてその解き語りを、関西中心に始める。現代視点からのユニークな解説、講演から「村山源氏」として知られ、1959年にはテレビでその現代語訳の朗読を行った。
富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年… 富松 良夫(とみまつ よしお、1903年3月 - 1954年11月)は、日本の詩人、作詞家、文芸評論家。 教育家富松柏の長男として宮崎県都城市姫城町に生まれる。母方の親戚に有馬馨がいる。 6歳のとき脊髄カリエスにかかり身体障害者となる。翌年には生母を亡くし、伯母に背負われて小学校に通った。1917年に高等小学校を卒業、1919年にキリスト教の洗礼を受ける。1925年に文芸誌「盆地」を刊行し、1929年に詩誌「白」を主宰。いずれもガリ版刷りであった。1930年に友人坂元彦太郎の助力により第一詩集『寂しき候鳥』を出版。1938年、黒木清次らと「竜舌蘭」を創刊。 独学で美術論、音楽論、宗教論を書き、またフランス語を学び訳詩もした。
窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 -… 窪川 鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日 - 1974年6月15日)は、日本の文芸評論家。 静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。 そのころ知り合った佐多稲子と1927年に結婚。稲子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか日の目を見なかった。
大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24… 大橋 薫(おおはし かおる、1903年(明治36年)2月24日 - 1983年(昭和58年)4月30日)は、日本の新聞記者、経済評論家。 大蔵省や都市銀行の頭取クラスに対して絶大な影響を持ち、アジア開発銀行の設立やがん保険の認可に関わり、「金融界の黒幕」や「金融界のフィクサー」と呼ばれた。 栃木県下都賀郡絹村(現: 小山市)出身[要出典]。 1929年に慶應義塾大学文学部史学科を卒業後、ジャパンタイムズに入社、1937年頃からは同盟通信社に転じた。 戦前には日本経済連盟会(日本経済団体連合会の前身)による対外資本の導入を研究し、外務省の矢野征記らとともに原案を草案した。 その後戦時中は大東亜省に転じた[要出典]。
中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月… 中島 健蔵(なかじま けんぞう、1903年(明治36年)2月21日 - 1979年(昭和54年)6月11日)は、フランス文学者、文芸評論家。ヴァレリーやボードレールなどを翻訳紹介する一方、当時まだ無名だった宮澤賢治の作品に光を当て、戦後はいわゆる進歩的知識人の一人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会の再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力した。中国切手の世界的なコレクターとしても有名である。
外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1… 外山 卯三郎(とやま うさぶろう、1903年〈明治36年〉1月25日 - 1980年〈昭和55年〉3月21日)は、日本の美術評論家、教育者。 1903年(明治36年)1月25日、和歌山県に生れる。1928年(昭和3年)に京都帝国大学文学部美術史学科を卒業した。同年、同人誌『詩と詩論』の発行に参画する。 1939年(昭和14年)、ナチスによって閉鎖されたバウハウスの流れを汲む画塾「美術工芸学院」を、東京高円寺に開く。画塾には三木清や西園寺公一、現代アートの前衛画家たちが訪ねてきたが、学生は富山妙子ら10人ほどしか集まらず、経営難に陥った。 1946年(昭和21年)、造形美術協会を創立して理事長に就任する。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問、日本を守る国民会議議長などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子であり、オノ・ヨーコは姪。 終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」とも称された。 1903年(明治36年)に最年少代議士・弁護士・中央大学副学長であった父・加瀬禧逸の五男として千葉県旭町(現在の千葉県旭市大田)に生まれた。
斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月2… 斎藤 忠(さいとう ちゅう、1902年(明治35年)12月29日 - 1994年(平成6年)1月12日)は日本の国際政治評論家、軍事評論家、ジャーナリスト。大日本言論報国会常務理事、『ジャパンタイムズ』論説主幹等を歴任した。尾浜惣一の筆名で翻訳も行っている。 考古学者の斎藤忠(さいとう ただし)は同姓同名の別人である。 1902年(明治35年)12月29日、新潟県に生まれる。本籍地は東京市麹町区富士見町二丁目(現在の千代田区九段南)。 1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部英文科を卒業、大学院に進学し1930年(昭和5年)4月に2年の課程を修了、1933年(昭和8年)4月まで在籍。大学院での研究題目は「文芸復興期以後ノ欧羅巴ニ於ケル浪漫精神ノ研究」。
矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日… 矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、日本の政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。政治学博士。旧姓横山。 1902年11月9日、鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現・鳥取市向国安)の農家に生まれる。のち、愛媛県今治市出身の司法官・矢部安男の養子となる。美穂小学校、旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学。1926年3月同大学法学部政治学科を卒業、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられ、政治学の創始者たる恩師・小野塚喜平次博士に従って政治学者への道を進むこととなる。
胡 風(こ ふう、フー・フォン、1902年11月2日 - 1… 胡 風(こ ふう、フー・フォン、1902年11月2日 - 1985年6月8日)は、中国の文芸理論家、文学評論家、翻訳家、詩人。本名は張光人、他の筆名に谷非、高荒、張果などがある。魯迅との親交もあった。 左翼作家として知られ、七月派と呼ばれる作家集団を作った。1955年、共産主義に反したとして仲間と共に逮捕され、1965年まで投獄される。一度は解放されるが1965年に懲役14年の判決が下り、1979年1月まで投獄される。1985年6月8日、死去。 1925年、清華大学英文科に入学、1929年日本に留学、東亜高等予備校で学び、1931年、慶應義塾大学文学部英文科に入学。プロレタリア科学研究所芸術部会に参加した。
薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 19… 薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 1967年4月23日)はNHKの元アナウンサー、郷土史家、大衆芸能評論家。 NHK広島局の初代アナウンサーであり、戦前の広島市の大衆文化史を記録した『がんす横丁』の著者として知られる。 広島市に生まれ、1908年創立されたばかりの広島市立竹屋小学校に入学。卒業後、県立広島商業学校(現在の県立広島商業高校)に入学し、学生野球の応援団長として名を馳せた。その後、素人劇団「広島十一人座」の同人となり、1928年の広島放送局の開局とともに初代アナウンサーの一人となり、特にスポーツ実況で知られた。敗戦前後は南方にいたため原爆には被災せず、翌1946年夏に引揚船により帰国。
河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2… 河盛 好蔵(かわもり よしぞう、1902年10月4日 - 2000年3月27日)は、日本のフランス文学者、評論家、翻訳家。仏文学者としてはモラリストの著作を日本に紹介した。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 大阪府堺市出身。1920年に旧制大阪府立堺中学校から第三高等学校へ入学し、1923年に同校を卒業。京都帝国大学文学部仏文科で落合太郎・河野与一に師事。1926年、京都帝国大学仏文科を卒業して関西大学に赴任し、フランス語を教える。 1928年学校騒動で関西大学を辞職して渡仏し、ソルボンヌ大学に学ぶ。1930年に帰国。堺の生家でジャン・コクトー『山師トマ』を翻訳。 上京後、ファーブル『昆虫記』を三好達治と共訳。
城戸 又一(きど またいち、1902年10月3日 - 199… 城戸 又一(きど またいち、1902年10月3日 - 1997年8月22日)は、日本のジャーナリスト、評論家。東京大学名誉教授・創価大学名誉教授。 福岡県福岡市博多出身。1927年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業、大阪毎日新聞社入社。1933年パリ特派員となり、ヒトラー出現からミュンヘン会談に至るヨーロッパ政局を報道する。帰国後、学芸部長、論説委員、論説副委員長を歴任。1951年単独講和に反対して毎日新聞を辞職。その後東京大学新聞研究所教授、1959年同所長。同志社大学教授、創価大学教授、放送批評懇談会会長、日本新聞学会会長を歴任。 編著に「講座現代ジャーナリズム」がある。1998年城戸又一賞が創設される。
富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1… 富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1980年6月4日)は、日本の美術史家、美術評論家。男爵・安場末喜の孫。 東京市生まれ。学習院初等科、中等科、高等科を経て、1923年東京帝国大学文学部フランス文学科に進学する。翌年美学美術史学科に転科し、1926年同学科を卒業。1927年学習院講師、1929年学習院教授。1931年から1933年にかけて、宮内省在外研究員として欧米に留学。1949年、学習院大学文学部教授。1954年、美術評論家連盟会長。1959年、国立西洋美術館初代館長に就任するが、1968年に購入作品の真贋問題が追及された責任をとって辞任した。1968年大阪万国博覧会美術館館長、共立女子大学教授。
大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 -… 大河内 信威(おおこうち のぶたけ、1902年7月24日 - 1990年7月12日)は、日本の美術史家、美術評論家、実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。 元共産党員。別名・小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 理化学研究所第3代所長・理研産業団創始者で貴族院議員を務めた子爵大河内正敏の長男。高等師範付属中学時代から左翼思想に興味を抱き、旧制浦和高校に進学すると学内に思想研究会を組織。2年在学時には読売新聞(大正12年5月30日長官)に埼玉県警察の黒表(ブラックリスト)に上がっているとする記事が掲載された。東京帝国大学では学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。
今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 19… 今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 1984年1月19日)は、日本の美術評論家。 山形県生まれ。旧制山形高校を経て東京帝国大学卒。1932年ヨーロッパに渡り、パリ大学、ベルリン大学に学ぶ。1934年帰国、美術評論を始め、1936年美術批評家協会を創立、1952年国立近代美術館次長、1967年京都国立近代美術館館長、1969年まで務めた。
岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1… 岡沢 秀虎(おかざわ ひでとら、1902年5月13日 - 1973年3月8日)は、ロシア文学者、評論家。 1902年、山口県生まれ。豊浦中学を卒業して、早稲田大学露文科に進んだ。在学中は早大童話会に所属。1940年、早稲田大学教授に就任。 太平洋戦争後の1946年、復活した露文科の再建にあたる。早稲田大学露文科に米川正夫を迎え、後進の育成に尽くした。研究者としてはスターリン体制の欠陥を指摘していた。
石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月… 石丸 重治(いしまる しげはる、1902年(明治35年)5月12日 - 1968年(昭和43年)12月12日)は、美術評論家。慶應義塾大学教授(法科)。 島根県出身。叔父に柳宗悦 。1915年(大正4年)、府立一中(現・都立日比谷高校)に入学したが半途(中途)退学。1927年(昭和2年)、慶應義塾大学英文科卒業。一中時代は小林秀雄や西竹一(バロン西、半途退学)、迫水久常、原奎一郎らと同期。また「青銅時代」を創刊するなど、この中学校の頃から評論に携わっていた。小林秀雄などとは、同人誌「山繭」を主宰し、また柳宗悦や吉田璋也、河井寛次郎らの民藝運動に初期には関わっている。 美術評論家として知られ、主な著作に『英国の工芸』(工政會出版部、1930年)、『英国教会本寺考』(好學社、1953年)。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年(明治35年)4月11日 - 1983年(昭和58年)3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家。
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月1… 小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日 - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 昭和文壇に大きな影響を与えた文芸評論家であり、日本における本格的な近代批評の創始者とみなされている。アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。代表作に『無常といふ事』(1942年 - 1943年、1946年刊)、『ドストエフスキイの生活』(1935年 - 1937年)、『モオツァルト』(1946年)、『ゴッホの手紙』(1951年 - 1952年)などがあり、晩年には本居宣長などの学問大系を思索した『本居宣長』(1977年完成)でも高い評価を受けた。
小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2… 小宮山 明敏(こみやま あきとし、1902年〈明治35年〉2月10日 - 1931年〈昭和6年〉9月30日)は、1920年代に活躍したプロレタリア文学の評論家である。 岡山県御津郡金川町(現・岡山市)出身。早稲田第一高等学院文科に入学し、早稲田大学露文科に進学する。在学中より尾崎一雄、村田春海たちと同人雑誌をはじめ、卒業後は高等学院で教壇にもたつが、結核を病み職を辞し、文芸評論の執筆に専念する。その後、日本プロレタリア作家同盟に加入し、1930年に『文学革命の前哨』(世界社)を上梓するも、まもなく没した。 瀬沼茂樹は『現代日本文学大系』所収の小宮山の評論に関して、「解説」のなかで、「マルクス主義の立場で所謂ブルジョア文学を内在的に批評する者は稀であったので、珍重すべき評論」と述べている。
蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月… 蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月26日 - 1991年(平成3年)1月25日)は、日本の評論家である。ペンネームは古川荘一郎。駄じゃれが好きという一面もある。
中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月2… 中野 重治(なかの しげはる、1902年(明治35年)1月25日 - 1979年(昭和54年)8月24日)は、日本の小説家・詩人・評論家・政治家。代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』など。詩人の中野鈴子は実妹、女優の原泉は妻。 福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙され1934年に転向する。
吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日… 吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日 - 1998年)は、日本の科学評論家。 石川県生まれ。東北帝国大学理学部卒、1934年九州帝国大学法文学部卒。戦後久留米大学教授、1959年「人の性格に関する脳波学的研究」で久留米大学より医学博士の学位を取得。定年退官後、九州産業大学教授。 数学、医学、哲学などで多くの一般向け著作をなした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉… 河上 徹太郎(かわかみ てつたろう、1902年〈明治35年〉1月8日 - 1980年〈昭和55年〉9月22日)は、日本の文芸評論家・音楽評論家。日本芸術院会員、文化功労者。 ヴァレリーやジイドを翻訳紹介しフランス象徴主義の影響下に評論活動を展開、近代批評の先駆者となる。シェストフの紹介者でもあった。小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちとの親交も有名。なお夫人アヤ(綾子)は男爵・大鳥圭介の孫にあたる。 父邦彦は日本郵船の造船工学技師。1902年(明治35年)、赴任先だった長崎市で生まれた。本籍地は山口県岩国市。河上家は江戸時代は岩国藩士であった。祖父逸は勝海舟、今北洪川、玉乃世履らに師事した。
板橋 倫行(いたばし ともゆき、1902年〈明治35年〉 -… 板橋 倫行(いたばし ともゆき、1902年〈明治35年〉 - 1961年〈昭和36年〉)は、国文学者、評論家。 東京銀座生まれ。新潟高等学校 (旧制)を経て、1926年東京帝国大学文学部東洋史学科卒。早稲田大学講師を務めた。芸文同人誌『双魚』主宰。小川晴暘、會津八一、安藤更生と交遊があった。多くの論文を発表するが不遇のうちに1957年から病臥、58歳で死去した。1978年評論集の刊行が始まったが第一巻でとだえた。