神吉 宏充(かんき ひろみつ、1959年3月1日 - )は、… 神吉 宏充(かんき ひろみつ、1959年3月1日 - )は、将棋棋士。2011年、引退。内藤國雄九段門下。棋士番号は160。兵庫県加古川市出身。 将棋界きってのエンターテイナーと評される。2021年現在の所属事務所は昭和プロダクション。 小学生の頃に将棋を覚え、中学生のときに本格的に指し始める。そのきっかけは、おじさんに「ヨワ将」と呼ばれたこと。 1977年のアマチュア名人戦で兵庫県代表となる。全国大会では最年少の18歳であったが、ベスト4進出。角頭歩戦法を用いた勝局もあったという。 そして、1978年、内藤門下で奨励会に入会。入門前の約3年間は会社員だった。1級での入会は1961年の若松政和(アマ名人戦優勝歴あり)以来17年ぶり。
福崎 睦美(ふくさき むつみ、1958年- )は、日本の将… 福崎 睦美(ふくさき むつみ、1958年- )は、日本の将棋の元女流棋士。旧姓兼田(かねだ)。五十嵐豊一門下。日本将棋連盟所属時の女流棋士番号8。北海道雨竜郡幌加内町生まれの夕張市育ち。北海道夕張南高等学校卒。
加瀬 純一(かせ じゅんいち、1957年11月26日 - )… 加瀬 純一(かせ じゅんいち、1957年11月26日 - )は、将棋棋士。棋士番号156。千葉県八日市場市(現・匝瑳市)出身。松田茂役九段門下。 父の加瀬不知夫は、日本将棋連盟の柏支部長。 1982年のプロ入り以来、タイトル戦で本戦進出歴は無く、第50期王座戦(2001年度)の二次予選決勝進出が最高であった。一般棋戦では、オールスター勝ち抜き戦で1回(第6回・1983年度)、NHK杯で2回(第35回・1985年度及び第52回・2002年度)予選を通過して本戦入りを果たした。順位戦での勝ち越しは第52期・1993年度の1回(7勝3敗)のみで、第56期・1997年度で3個目の降級点を喫し、同棋戦への参加資格を失いフリークラスに降級。
田中 寅彦(たなか とらひこ、1957年4月29日 - )は… 田中 寅彦(たなか とらひこ、1957年4月29日 - )は、将棋棋士。高柳敏夫名誉九段門下。大阪府豊中市出身。棋士番号127。棋聖のタイトルを獲得。竜王戦1組通算9期。順位戦A級通算6期。日本将棋連盟理事(2005年5月 - 2009年5月、2011年5月 - 2013年6月)。2012年12月に当時専務理事であった谷川浩司の会長就任に伴い、日本将棋連盟専務理事となり2013年まで務めた。 1976年、プロ入り(四段)。順位戦でC級2組に4年在籍したが、4期目に昇級。1981年度、新人王戦で優勝し、棋戦初優勝。1982年度、早指し新鋭戦と勝ち抜き戦で優勝。この間、順位戦では4年連続で昇級しており、1984年4月1日にA級八段となった。
小林 健二(こばやし けんじ、1957年3月31日 - )は… 小林 健二(こばやし けんじ、1957年3月31日 - )は、将棋棋士。棋士番号123。香川県高松市出身。板谷進九段門下。竜王戦1組通算1期、順位戦A級通算4期。 1972年に14歳で板谷門下に入門。同年4月に東京・将棋会館の塾生となるが、しばらくすると体調を崩してしまう。そのため師匠の板谷を頼って名古屋に移り、板谷の内弟子となる。1975年12月に四段に昇段。 四段時代の1977年、第18期王位戦の挑戦者決定リーグ戦に進出。白組で有吉道夫八段らを破り5戦全勝で優勝、挑戦者決定戦へ進出した。将棋界初の四段によるタイトル挑戦かと騒がれ、紅組で優勝した米長邦雄八段との対局も途中までは優勢であったが、終盤で逆転負けし、惜しくもタイトル挑戦とはならなかった。
鈴木 宏彦(すずき ひろひこ、1956年1月26日 - )は… 鈴木 宏彦(すずき ひろひこ、1956年1月26日 - )は、日本の将棋・囲碁観戦記者で将棋ライター。 愛知県岡崎市生まれ。1974年(昭和49年)、愛知県立岡崎高等学校卒業。早稲田大学第一文学部卒業。早稲田大学在学中より、石田和雄九段の指導を受け、1978年から1986年まで、日本将棋連盟の雑誌『将棋世界』の編集者をした後、フリーの観戦記者に。観戦記者としてのペンネームは青島たつひこ。他の筆名に立浪健一(タツナミケンイチ)、落合謙。「立浪」「落合」「健一」「謙」という筆名は、鈴木が愛知県出身ということもあり、中日ドラゴンズに関連している可能性がある。 将棋ライターとしては、『週刊将棋』の「序盤初期の有力局面ごとの勝率分析」記事や連載「81桝物語」、『将棋世界』の連載「イメージと読みの将棋観」など、従来なかった、新鮮な内容の記事を続けて執筆している。
東 和男(あずま かずお、1955年8月17日 - )は、将… 東 和男(あずま かずお、1955年8月17日 - )は、将棋棋士。棋士番号は128。長崎県佐世保市出身。高島一岐代九段門下。日本将棋連盟理事を3期6年務めた(2011年5月 - 2017年5月)。 プロ入りから3年目の1979年度(第38期)順位戦C級2組で8勝2敗の成績で3位となり、C級1組に昇級。1983年度には、第42期C級1組順位戦で9勝1敗で1位となり、B級2組へ昇級。比較的順調に昇級する。 1986年度、第27期王位戦でリーグ入り。挑戦者にはなれなかったが、入りやすく落ちやすいリーグである王位リーグで、残留を果たす(大内延介、二上達也らに勝利)。翌期も残留している(大山康晴、森雞二らに勝利)。
土佐 浩司(とさ こうじ、1955年3月30日 - )は、将… 土佐 浩司(とさ こうじ、1955年3月30日 - )は、将棋棋士。清野静男八段門下。棋士番号は124。新潟県南魚沼郡塩沢町(現在の南魚沼市の一部)出身。 プロ入り前の1975年度、第6回新人王戦でベスト4進出(準決勝で桜井昇に敗北)。 1976年2月、20歳でプロ入り。しかし、その頃に名人戦・順位戦の主催紙移行問題があり、初の順位戦を戦うまで実質1年間待たされることになる。そのかたわら、初参加の十段戦(第16期・1977年度)において予選を6連勝で通過し、難関の十段リーグに入る。四段の棋士の十段リーグ入りは初。リーグ戦では残留はならなかったものの、米長邦雄・大山康晴・有吉道夫に勝ち3勝7敗と健闘した。
飯野 健二(いいの けんじ、1954年7月7日 - )は、将… 飯野 健二(いいの けんじ、1954年7月7日 - )は、将棋棋士。関根茂九段門下。棋士番号は117。東京都葛飾区出身。 10歳の頃、父から教わり将棋を始める。 1968年、6級で奨励会に入会。以降、三段昇段までは、各昇級昇段に1年以上をかけることなく順調に昇る。 1973年度後期から三段リーグ(旧制)で3期(1年半)を戦うが四段に上がれず、そこで三段リーグ制度が廃止。それから約1年後の1975年3月4日、武市三郎に勝ち、12勝4敗の規定により四段昇段(プロ入り)。その武市との一局で採用した戦法は、奨励会入会以来2度目の採用の振り飛車(阪田流向かい飛車)であった。「知らない将棋を指せば震えないだろう」と考えたからだという。
武市 三郎(たけいち さぶろう、1954年3月30日 - )… 武市 三郎(たけいち さぶろう、1954年3月30日 - )は、将棋棋士。徳島県徳島市出身。丸田祐三九段門下。棋士番号152。2014年引退。 1981年11月11日に四段に昇段し、プロ入り。プロ入り後初参加の第22期十段戦(1982年-83年)予選で決勝まで勝ち進んだ。難関の十段リーグ出場まであと1勝と迫ったが、桐山清澄に敗れた。 第7回(1984年度)オールスター勝ち抜き戦の本戦に出場し、1戦目で中原誠に敗北した。第34回(1984年度)NHK杯の本戦に出場し、1回戦で石田和雄に敗北した。第24期十段戦(1984年-85年)予選で準決勝まで勝ち進むも、加藤一二三に敗れ、十段リーグ入りをまたも果たせなかった。
谷川 治恵(たにかわ はるえ、1954年2月9日 - )は、… 谷川 治恵(たにかわ はるえ、1954年2月9日 - )は、日本将棋連盟所属の女流棋士。2002年引退。女流棋士番号は10から2。女流棋士会会長(2001年 - 2003年、2007年 - 2009年)。日本将棋連盟非常勤理事(2011年5月-)。埼玉県出身。青山学院大学卒業。佐瀬勇次名誉九段門下。 現 司会・聞き手 室谷由紀 (2024 - )現 司会・聞き手 和田あき (2026 - ) (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
武者野 勝巳(むしゃの かつみ、1954年〈昭和29年〉1月… 武者野 勝巳(むしゃの かつみ、1954年〈昭和29年〉1月1日 - 2023年〈令和5年〉5月8日)は、将棋棋士。花村元司九段門下で、棋士番号は137。群馬県館林市出身。 館林第一中学校を経て、1972年に群馬県立館林高等学校を卒業。 1971年にアマチュア名人戦の群馬県代表となる。これが契機となり師匠の花村の薦めで同年4級で奨励会に入会。翌1972年より、日本将棋連盟に当時存在した「塾生」制度により将棋会館に住み込んで修行を行う。1975年3月に三段昇段。当時は三段リーグが存在しなかったため、三段も現行の二段以下と同様に、直近の勝率によって昇段の可否が決められていた。1979年3月22日に規定の勝率を修め、25歳で四段昇段。
青野 照市(あおの てるいち、1953年1月31日 - )は… 青野 照市(あおの てるいち、1953年1月31日 - )は、静岡県焼津市出身の将棋棋士。廣津久雄九段門下・棋士番号114。主な実績は竜王戦1組通算6期・順位戦A級通算11期・王座戦挑戦1回・棋戦優勝4回。 研究派として知られ、A級在籍時には大山康晴、中原誠、米長邦雄、谷川浩司等としのぎを削り、さらに羽生善治、佐藤康光、森内俊之、藤井猛等(いわゆる「羽生世代」)が台頭してきた中でも健闘した。1999年度のB級1組順位戦で1位となり、2000年に10年ぶりにA級に復帰したとき、羽生世代の棋士たちがA級の大半を占める中での活躍は「中年の星」として話題となった。 桐山清澄が2022年4月27日付で引退して以降、現役最古参棋士(四段昇段が最も古い)かつ現役最年長棋士となり、1950年代生まれの棋士としては唯一、70歳を過ぎても現役を続けていたが、2024年6月13日付で引退した。
宮田 利男(みやた としお、1952年10月29日 - )は… 宮田 利男(みやた としお、1952年10月29日 - )は、将棋棋士。棋士番号110。秋田県大曲市(現在の大仙市の一部)出身。高柳敏夫名誉九段門下。 奨励会入会が16歳という遅いスタートであったが、1972年、20歳で四段となりプロ入りする。 宮田の戦績には棋戦優勝やタイトル戦登場がない。しかしながら、準優勝などの活躍(後述)は何度もあり、通算勝率5割以上を長らくキープしていた(通算対局数1000局到達の前後から5割を割っている)。タイトル戦昇格1年目の第31期王座戦では、兄弟子の中原誠と挑戦者決定戦を戦って敗れた。 順位戦への参加は1999年度限りとし、フリークラス宣言をした。 2017年3月31日、フリークラス規定により同年度の最終対局をもっての引退が確定。
真部 一男(まなべ かずお、1952年2月16日 - 200… 真部 一男(まなべ かずお、1952年2月16日 - 2007年11月24日)は、将棋棋士。加藤治郎名誉九段門下。棋士番号は111。東京都荒川区出身。順位戦A級2期(第47期及び第49期)。 若手時代は1950年代生まれの棋士の代表格として期待され、当時の名人であった中原誠に対する対戦成績の良さから「将来の名人候補」との評判も勝ち得た。 奨励会時代から俊英として知られ、将棋愛好家のエッセイスト山口瞳が1972年に上梓した著書「血涙十番勝負」にも「真部一男三段。毎年惜しくも昇段を逃しているが、奨励会実力ナンバーワンは衆目の見る所。それどころか、順調に進めばA級間違い無しの俊秀である」と記述されていた。
森 信雄(もり のぶお、1952年2月10日 - )は、将棋… 森 信雄(もり のぶお、1952年2月10日 - )は、将棋棋士。棋士番号126。2017年5月16日に引退。愛媛県伊予三島市(現・四国中央市)出身。南口繁一九段門下。愛媛県立三島高等学校卒業。 3兄弟の末っ子で、飲んだくれの父親は幼少時に蒸発。母は土方仕事で3人の子を女手一つで育てたが、極貧の生活であった。いじめの標的にされていた森だが、小学5年で将棋を覚えて急速に上達し、伊予三島市に一軒だけあった将棋道場に通い、愛媛県立三島高等学校を卒業する頃にはアマ二段になっていた。高校を卒業して兵庫県伊丹市の帝国化成の工場に勤め、余暇には、のちに師匠となる南口繁一・九段が開いていた「南口将棋教室」に通った。
中田 章道(なかだ しょうどう、1952年1月19日 - )… 中田 章道(なかだ しょうどう、1952年1月19日 - )は、将棋棋士。富山県婦負郡八尾町(現・富山市)出身。板谷四郎門下。棋士番号は129。 (2026年7月1日現在) (2024年7月2日現在) (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。
松浦 隆一(まつうら りゅういち、1951年12月24日 -… 松浦 隆一(まつうら りゅういち、1951年12月24日 - )は、将棋棋士。丸田祐三九段門下。棋士番号は132。2011年6月10日に引退。東京都台東区出身。
児玉 孝一(こだま こういち、1951年2月21日 - )は… 児玉 孝一(こだま こういち、1951年2月21日 - )は、将棋棋士。2011年、引退。岡崎史明八段門下。棋士番号は141。福岡県北九州市出身。 玉の囲いを放棄し、左右の銀を中央に繰り出して攻勢をとる「カニカニ銀」の創案者。この戦法の独創性・優秀性が高く評価され、2003年将棋大賞の升田幸三賞を受賞。「カニカニ銀」と命名したのは森信雄である。森内俊之も実戦(1992年11月20日)で採用して勝ったことがある。 父から教わって将棋を覚えたのは12歳のときであり、将棋を(本格的に)始めたのは高校1年生のときである。福岡県立八幡中央高等学校卒業。北九州アマ王位戦でA級2位となった後、1968年、第4回高校選手権で団体優勝。
田丸 昇(たまる のぼる、1950年5月5日 - )は、将棋… 田丸 昇(たまる のぼる、1950年5月5日 - )は、将棋棋士。2016年10月、引退。長野県北佐久郡北御牧村(現・東御市)出身。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号109。 (2021年2月25日現在) (2021年4月1日現在) 通算成績 1274局 546勝728敗(勝率0.4285) (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照)
淡路 仁茂(あわじ ひとしげ、1950年3月21日 - )は… 淡路 仁茂(あわじ ひとしげ、1950年3月21日 - )は、将棋棋士。棋士番号は113。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。名人戦A級通算1期。 関西三段リーグで1970年、1972年に優勝するが、東西決戦で敗れて四段昇段を逸する。そして、1973年度に3度目の優勝をし、「3度目は東西決戦不要」の規定により四段昇段してプロデビューする。 1977年度、第16期十段戦と第27期王将戦でリーグ入り。いずれも定員がA級順位戦より少なく、将棋界屈指の難関リーグとされていたが前者では5勝5敗・4位の成績でリーグ残留、後者では3勝4敗でリーグに残留できなかったものの、2つのリーグで大山康晴(当時棋聖)に3連勝を挙げた。
湯川 恵子(ゆかわ けいこ、1950年 - )は、将棋および… 湯川 恵子(ゆかわ けいこ、1950年 - )は、将棋および囲碁の観戦記者。夫は将棋著作家の湯川博士。
桐谷 広人(きりたに ひろと、1949年10月15日 - )… 桐谷 広人(きりたに ひろと、1949年10月15日 - )は、日本の将棋棋士、投資家。升田幸三実力制第四代名人門下。棋士番号120。2007年に引退。 広島県竹原市出身。将棋棋士の門をたたこうとしていたところ、紹介により同郷の升田幸三の弟子となった。1975年に桐谷のライバルとされた沼春雄と共に四段昇段を果たしプロ棋士となった。当時まだ珍しかった、研究派の棋士で「コンピューター桐谷」の異名をとった。棋風は居飛車党の受け将棋。相手の攻め駒を攻める、駒得を重視する戦術で、優勢になってもなお相手の攻撃の応接を継続する「マッサージ戦術」を得意として「桐谷マッサージ戦術」(青野照市)などと呼ばれた。また入玉が得意の棋士としても知られる。
森安 秀光(もりやす ひでみつ、1949年8月18日 - 1… 森安 秀光(もりやす ひでみつ、1949年8月18日 - 1993年11月22日)は、将棋棋士。森安九段刺殺事件被害者。棋士番号99。岡山県笠岡市出身。藤内金吾門下。同じくプロ将棋棋士である森安正幸は実兄。 小学6年生の時に兄・正幸とともに奨励会入会。同期入会には小阪昇がいる。 1968年、兄より一足早く四段昇段。順位戦は数年間C級で足踏みするものの、古豪新鋭戦や新人王戦で優勝するなど、関西のホープとして脚光を浴びる。初の棋戦優勝となった第16回古豪新鋭戦決勝は、兄・正幸との兄弟決戦となり、188手の長手数の末勝利している。 1978年、七段昇段とともに初の十段戦リーグ入り。その2年後には晴れてA級八段となり、一流棋士の仲間入りを果たす。
酒井 順吉(さかい じゅんきち、1949年6月18日 - )… 酒井 順吉(さかい じゅんきち、1949年6月18日 - )は、将棋棋士。2006年、引退。藤内金吾八段門下。棋士番号は125。兵庫県明石市出身。 小学校4年の頃から神戸市の藤内道場へ通い、中学2年のときにプロを志す。 奨励会への入会は1966年。旧制度の三段リーグ(奨励会A組)への参加は、1970年後期から同制度が終了する1973年度後期までであった。その間、1971年度後期には関西優勝をしてプロ入りのチャンスが巡ってきたが、東西決戦で田丸昇に敗れ、昇段を逃す。リーグ制度廃止後、1976年3月に12勝4敗を記録し、26歳でプロ入りを果たす。 プロ1年目の1976年度に、第18期(1977年度)王位戦のリーグ入りを決めるなどの活躍で、20勝超えの成績を収める。
椎橋 金司(しいはし きんじ、1948年10月10日 - 2… 椎橋 金司(しいはし きんじ、1948年10月10日 - 2009年1月16日)は、将棋棋士、六段。松下力九段門下。棋士番号は115。東京都足立区出身。 奨励会への入会は1962年。旧制度の三段リーグ(奨励会A組)への参加は1969年後期からで、同制度が終了する1973年度後期までの9期・4年半、四段昇段(プロ入り)をすることができなかった。 その頃、第3回奨励会若獅子戦の関東の決勝で、田中寅彦4級を角落ちで破って関東優勝。しかし、西の優勝者・淡路仁茂三段との決勝では、秒読みで悪手を指して敗れ、準優勝に終わる。このとき椎橋は、観戦記担当の団鬼六や記録係にわざわざお茶を持ってくるという気遣いを見せた。
有野 芳人(ありの よしと、1948年9月9日 - )は、将… 有野 芳人(ありの よしと、1948年9月9日 - )は、将棋棋士。1991年、引退。下平幸男八段門下。棋士番号は122。東京都大田区出身。 1965年の入門から10年経った三段当時の1975年の10月 - 11月に、8連勝を記録して27歳でプロとなる。この間、第1回(1971年)奨励会若獅子戦で優勝している。 1977年度、第5回(1978年度)名将戦で、予選を突破。 順位戦では、第36期・1977年度よりC級2組に出場したものの、13期目までC級1組に昇級する成績を修められず、出場14期目(第49期・1990年度)で降級点を喫したのを機に、42歳で引退する。順位戦での通算勝率は、4割ちょうどである。
青木 清(あおき きよし、1948年1月5日 - 2022年… 青木 清(あおき きよし、1948年1月5日 - 2022年9月5日)は、将棋棋士。2000年、引退。熊谷達人九段門下。棋士番号は133。福岡県北九州市出身。 奨励会では、プロ入り一歩手前の三段時代が10年間もあった。旧制度の三段リーグ(奨励会A組)では1967年度後期から制度が終わる1973年度後期まで13期を過ごした。その間、1968年度後期リーグでチャンスが巡ってきたが、東西決戦で池田修一、野本虎次に敗れて昇段を逃した。 1972年度、第2回奨励会若獅子戦・関西トーナメントで優勝。その決勝は中田章道1級を相手にした香落ち対局であった。また、同年度、第16回古豪新鋭戦でベスト4進出。 1977年8月20日、29歳でプロ入り。
中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将… 中原 誠(なかはら まこと、1947年9月2日 - )は、将棋棋士。2009年3月、引退。十六世名人、および、永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖という5つの永世称号を保持し、かつ、いずれも引退前から名乗る。通算1308勝は大山康晴、加藤一二三、羽生善治に次ぎ歴代4位。通算タイトル獲得数64期は歴代3位。
森安 正幸(もりやす まさゆき、1947年5月20日 - )… 森安 正幸(もりやす まさゆき、1947年5月20日 - )は、将棋棋士。棋士番号108。岡山県笠岡市出身。藤内金吾門下。同じく将棋棋士である森安秀光は実弟。 (2025年3月4日現在) この項目は、将棋の棋士(女流棋士・アマチュアを含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:ボードゲーム/プロジェクト:人物伝)。 (棋士番号の割り当てがない棋士 → 「template:日本将棋連盟引退棋士」参照)
石田 和雄(いしだ かずお、1947年3月29日- )は、将… 石田 和雄(いしだ かずお、1947年3月29日- )は、将棋棋士、九段。2012年、引退。棋士番号は97。愛知県岡崎市明大寺町生まれ。岡崎市立竜海中学校卒業。板谷四郎九段門下。竜王戦1組通算1期、名人戦A級通算4期。 岡崎市の石材店で、五人兄弟の末子として生まれる。父の岡崎淳一郎は、二宮尊徳像を多数作り、最盛期には1日8体を作っていたという。中学1年生から将棋に熱中。板谷四郎に師事して、1962年に関東奨励会に入会。6級で指し始め、僅か5か月で3級、2年で初段。そこから20勝1敗で三段に昇段。三段リーグから、東西の人数の調整のため、関西に移り、関西三段リーグを4期で抜けてプロデビュー(同期の関東三段リーグの優勝は勝浦修であり、本来なら東西決戦の勝者が四段となる仕組みだったが、勝浦が二回目のリーグ優勝であったため、東西決戦を免除され、勝浦・石田ともに四段昇進となった)。
勝浦 修(かつうら おさむ、1946年5月8日 - )は、将… 勝浦 修(かつうら おさむ、1946年5月8日 - )は、将棋棋士、九段。2011年、引退。渡辺東一名誉九段門下。棋士番号は96。北海道紋別市出身。竜王戦1組4期、順位戦A級7期在籍。
森 雞二(もり けいじ、1946年4月6日 - )は、将棋棋… 森 雞二(もり けいじ、1946年4月6日 - )は、将棋棋士。棋士番号100。高知県中村市(現:四万十市)出身。大友昇門下。棋聖、王位のタイトルを獲得。竜王戦1組通算5期。名人戦A級通算10期。2017年に引退。元大相撲幕内力士玉海力は甥。 大阪に幼少期を過ごし、父親の死後、中学2年で母親と上京。 晩学で知られる。将棋を覚えたのが16歳の頃と遅かったが、近所の将棋クラブでひたすら将棋を指し続け、僅か半年でアマ三段の実力にまで上達する。森自身は「この期間は夜の11時まで夕食もとらずに将棋を指し続けた」と後年に述懐した。戦前はいざ知らず、森以降の世代で、これほどの「晩学」で名人位挑戦、タイトル保持まで進んだ棋士は他にいない[要出典]。
池田 修一(いけだ しゅういち、1945年2月12日 - 2… 池田 修一(いけだ しゅういち、1945年2月12日 - 2006年7月3日)は、将棋棋士。花村元司九段門下。棋士番号102。青森県八戸市出身。 1960年に15歳で奨励会に入る。 1964年 - 1965年の頃に肺結核を発症し、1966年(昭和41年)の7月から1968年(昭和43年)5月まで故郷で治療入院していた。当時三段で無収入であったが、医療費は医師の温情で出世払いとなり、生活費は親友でプロになりたての中原誠四段(当時)が支えていた。病気復帰の翌年である1969年に四段昇段。 1972年・1982年の王位戦で本戦リーグ入り。1982年には、米長邦雄永世棋聖(当時棋王)を破るなど活躍した。
米長 邦雄(よねなが くにお、1943年〈昭和18年〉6月1… 米長 邦雄(よねなが くにお、1943年〈昭和18年〉6月10日 - 2012年〈平成24年〉12月18日)は、将棋棋士。タイトル獲得数19期は歴代7位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段(日本棋院から追贈)。2003年(平成15年)12月、引退。日本将棋連盟会長(2005年〈平成17年〉 - 2012年〈平成24年〉)。 2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)。 北陸先端科学技術大学院大学特任教授(2011年〈平成23年〉10月1日 - 2012年〈平成24年〉9月30日)。
杉崎 里子(すぎさき さとこ、1942年12月24日 - 1… 杉崎 里子(すぎさき さとこ、1942年12月24日 - 1997年7月20日)は将棋の女流棋士(旧女流棋士番号は7)・女流四段、観戦記者、将棋講座講師。師匠はいない。「和洋裁の店サトコ」を経営するとともに「杉崎里子和洋裁教室」を運営。「和洋裁教室」は、亡くなるまで続けた。大分県北海部郡佐賀関町(後に大分市の一部)出身。 1942年(昭和17年)12月24日、大分県北海部郡佐賀関町に生まれる。父は杉崎喜蔵、母は正子。生家は、300年続いた老舗の呉服屋「株式会社平野屋」であるが、里子が生まれた時期から昭和30年にかけては、「平野屋」が扱っていた高級呉服は時代にそぐわなくなっていた上に、同業者の負債の肩代わりをしなければならなくなる事態も起き、里子の生家は倒産を余儀なくされた。
多田 佳子(ただ よしこ、1942年2月7日 - )は将棋の… 多田 佳子(ただ よしこ、1942年2月7日 - )は将棋の元女流棋士。2004年引退。東京都大田区出身。成城大学卒業。女流棋士一期生6人のうちの一人。1974年に女流棋士の制度が発足した際に、アマチュアから直接に女流棋士になったため、師匠がいない。夫は川柳作家の多田哲朗。 日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属だったが、2014年1月31日付で退会した。LPSA番号は2であった。LPSAの発足以前は日本将棋連盟に所属し、当時の女流棋士番号は旧3。
大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - 2… 大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - 2017年6月23日)は、将棋棋士。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京府東京市(現:東京都港区)出身。中央大学卒業。 小学4年生のとき、将棋道場で二枚落ちで3連敗し、それがきっかけで将棋にのめりこむ。小学6年生の頃には、将棋の駒の名産地として知られる山形県天童市にて、1か月間の将棋修行をした。 1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。三段時代の1961年、1962に古豪新鋭戦に連続して優勝。1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、同じ中大の後輩である米長邦雄と同期である。大内と、高島弘光、西村一義、山口英夫との4名は同年生まれで若手時代から活躍して「花の昭和16年組」と呼ばれた。
高島 弘光(たかしま ひろみつ、1941年9月15日 - 1… 高島 弘光(たかしま ひろみつ、1941年9月15日 - 1996年12月27日)は、将棋棋士、八段。高島一岐代九段門下。棋士番号は83。大阪府八尾市出身。 1953年、叔父の高島一岐代に入門。旧制度の三段リーグに1958年度後期から参加。8期目となる1961年度後期関東リーグで12戦全勝(新記録)。このとき、米長邦雄と大内延介から2勝ずつを挙げている。そして、北村文男(順位戦からの降級者)との東西決戦でも勝ち、1962年4月1日付でプロ入り(四段昇段)を果たす。 高島と、大内延介、西村一義、山口英夫との4名は同年生まれで若手時代から活躍して「花の昭和16年組」と呼ばれた。 プロ1年目も勢いは止まらず、初参加の順位戦となる第17期(1962年度)C級2組で残り2局の時点まで9勝2敗で突っ走り(最終成績は9勝4敗)、1期でC級1組へ昇級。
桜井 昇(さくらい のぼる、1941年5月10日 - ) は… 桜井 昇(さくらい のぼる、1941年5月10日 - ) は、将棋棋士。2007年、引退。原田泰夫九段門下。棋士番号は90。群馬県吾妻郡長野原町出身。杉並区立天沼中学校卒。 1965年、23歳でデビュー。同年度、順位戦C級2組で8勝4敗(16人中3位)の好成績を挙げ、C級2組を1期抜けして昇級。同時に五段昇段。 1966年度、古豪新鋭戦で優勝。準決勝の相手はまだ十代の中原誠、決勝戦の相手は長老の北村秀治郎であった。 1975年度、第23回王座戦でベスト4。同年度、第6回新人王戦では決勝三番勝負に進み、森安秀光に0-2で敗れて準優勝。 第27期(1972年度)順位戦C級1組で8勝2敗の2位となり、B級2組に昇級。
関根 紀代子(せきね きよこ、1940年12月15日 - )… 関根 紀代子(せきね きよこ、1940年12月15日 - )は日本将棋連盟所属の女流棋士。女流棋士番号は1(2011年3月31日までは2)。群馬県前橋市出身。関根茂九段門下。関根茂は夫でもある。旧姓は吉田。 女流棋士一期生6人のうちの一人で、引退時には現役最年長女流棋士であった。1974年に女流棋士の制度が発足する際に、アマチュアから直接に女流二段になったため、プロ入り当初は師匠がいなかった。 1968年、第1回女流アマ名人戦で優勝(当時は旧姓:吉田)。未だ女流棋士の制度が存在しなかった時期に蛸島彰子のライバル格として注目された。 1974年に女流棋士の制度が定められ、初の女流棋戦として女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始された時に、女流二段で女流棋士となった。
加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年〈昭和15年〉1月1… 加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年〈昭和15年〉1月1日 - 2026年〈令和8年〉1月22日)は、日本の将棋棋士。剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。勲等は旭日小綬章。文化功労者。 62年後の2016年に藤井聡太が14歳2か月で更新するまで、14歳7か月で当時の史上最年少中学生棋士となったことから神武以来の天才(詳細は後述)と呼ばれ、また早指し棋戦の名手でもあったことから1分将棋の神様の異名を持つ。 実力制6人目の名人で、戦前生まれの名人経験者としては最後の存命者であった。2017年6月20日に現役引退。 福岡県嘉麻市出身、同市の名誉市民。仙台白百合女子大学客員教授(2017年6月23日 - 2026年1月22日)。
小林 禮子(こばやし れいこ、旧姓・木谷 1939年12月2… 小林 禮子(こばやし れいこ、旧姓・木谷 1939年12月23日 - 1996年4月16日)は、日本棋院所属の囲碁の女流棋士。神奈川県平塚市出身、七段。父は木谷實九段、夫は小林光一名誉三冠、女流本因坊などを獲得した小林泉美六段は娘。 1939年木谷實の三女に生まれる。平塚市立花水小学校、平塚市立浜岳中学校から神奈川県立平塚江南高等学校に進学。父の木谷實の道場で大勢の弟子達に混じって腕を磨き、1956年に入段。木谷の子女の中では唯一のプロ入り。1961年三段に昇進。1963年四段時に、女流選手権戦で伊藤友恵五段を破って初タイトル獲得、以後女流碁界のリーダー的存在として活躍。1964年に囲碁使節団の一員として渡米。
河口 俊彦(かわぐち としひこ、1936年11月23日 - … 河口 俊彦(かわぐち としひこ、1936年11月23日 - 2015年1月30日)は、将棋棋士。2002年、引退。将棋ライター。神奈川県横須賀市出身。小堀清一九段門下。棋士番号95。 中学二年生の頃に将棋を覚え、学校の授業中は先生の目を盗んで将棋の本を読み、学校が終わったら将棋クラブに通い、家に帰ったら再び将棋の本を読むなど将棋漬けの毎日を送る。そのため、僅か三か月で初段の実力にまで上達する。 英語を習いに行ったときに、英語の先生が将棋を指しているのを見て横から口を出すとその手を先生に褒められ、「きみは勉強よりも将棋のほうが好きならプロになれ」と言われる。その一言により河口はプロになることを決意する。
佐藤 大五郎(さとう だいごろう、1936年10月19日 -… 佐藤 大五郎(さとう だいごろう、1936年10月19日 - 2010年9月1日)は、将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下。棋士番号は74。北海道函館市出身。 8歳で小学3年の頃、父と兄から習い、将棋を始める。 1953年に16歳でアマチュア名人戦北海道代表になり、全国大会で準優勝。1954年1級で渡辺東一名誉九段に入門。1957年四段(プロ入り)。 第14期(1959年度)C級2組順位戦と第15期(1960年度)C級1組で各々1位の成績を収め、2期連続昇級でB級2組へ昇級。 第11期(1961年度)王将戦でリーグ入り。4勝3敗で勝ち越すが、同星の加藤博二・二上達也との残留決定戦で敗れ、リーグ陥落。 1964年、第4回「最強者決定戦」で二上達也・丸田祐三らを破り決勝進出。
佐伯 昌優(さえき よしまさ、1936年8月4日 - )は、… 佐伯 昌優(さえき よしまさ、1936年8月4日 - )は、将棋棋士、九段。2002年、引退。坂口允彦九段門下。棋士番号は79。鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身。 5歳の頃、将棋を趣味としていた兄の影響を受けて将棋を覚える。 1952年に奨励会入会。1959年前期の予備クラスにおいて関東優勝をし、東西決戦で関西の星田啓三六段に勝ち、1959年10月1日付けで四段昇段(プロ入り)。 順位戦では、初参加から2期目の第16期(1961年度)C級2組で10勝2敗・1位となり初昇級。1年置いて、第18期(1963年度)C級1組順位戦で8勝3敗・2位の成績でB級2組に昇級。 1962年、第6回古豪新鋭戦で米長邦雄(三段)に勝ち決勝進出するが、大内延介(三段)に敗れて準優勝。
有吉 道夫(ありよし みちお、1935年7月27日 - 20… 有吉 道夫(ありよし みちお、1935年7月27日 - 2022年9月27日)は、将棋棋士、九段。2010年、引退。大山康晴十五世名人門下。棋士番号は66。岡山県備前市出身。 棋聖のタイトル獲得1回のほか優勝8回。また、タイトル戦の舞台での大山との師弟対決は4度実現。 現役55年を数え、2001年には史上6人目の通算1000勝(特別将棋栄誉賞)を達成。過去に7人しかいない『六十歳代A級棋士』の一人でもあった。順位戦A級在籍21期。同じ関西本部所属では、内藤國雄とは自他ともに認めるライバル関係で、共に関西棋界を長年にわたって牽引した。 将棋に熱中したきっかけは、「矢倉囲いの美しさに感動したから」だという。
木村 義徳(きむら よしのり、1935年(昭和10年)5月2… 木村 義徳(きむら よしのり、1935年(昭和10年)5月2日 - 2021年(令和3年)6月29日)は、将棋棋士。東京府(現:東京都)出身。加藤治郎名誉九段門下。棋士番号82。父は木村義雄十四世名人。 早稲田大学第二文学部在学中の1956年にアマチュア名人・学生名人を獲得。1958年、アマチュアとして第9期九段戦予選に特別参加。芹沢博文に敗れた。大学院在学中の1959年にも第10期九段戦予選に特別参加して健闘して、三段で奨励会入り。 1960年に早稲田大学大学院文学研究科卒業(東洋史専攻)。翌年の1961年に四段に昇段する。大学院卒の将棋棋士は木村が初。四段時代の1963年に、王座戦で大山康晴名人に勝利して、「四段が名人を破った」金星としてニュースになった。
北村 昌男(きたむら まさお、1934年10月30日 - 2… 北村 昌男(きたむら まさお、1934年10月30日 - 2023年7月9日)は、将棋棋士。1994年、引退。渡辺東一名誉九段門下。棋士番号は60。北海道函館市出身。 渡辺東一名誉九段門下で1953年、プロデビュー。初参加の順位戦(第8期C級2組順位戦)において7勝3敗で2位となり、1期でC級1組に昇級。 2年後、第10期(1955年度)C級1組順位戦で11勝2敗の1位で、B級2組へ昇級。このとき、2位で同時に昇級した‘神武以来の天才’こと加藤一二三から白星を挙げた。 さらに2年後の第13期(1958年度)B級2組順位戦では9勝4敗の1位でB級1組へ昇級。以降17年間B級1組に在籍し続けたが、A級昇級には手が届かなかった。
関屋 喜代作(せきや きよさく、1933年12月15日 - … 関屋 喜代作(せきや きよさく、1933年12月15日 - 2015年12月5日)は、将棋棋士。1994年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は69。千葉県茂原市出身。 1955年、22歳でプロ入り。 初参加(1956年度)から8期目の第18期(1963年度)C級2組順位戦は、2勝10敗で初の降級点を喫する。ところが、次の第19期(1964年度)では一転して開幕7連勝をするなど、最終局を待たずして10勝1敗(最終成績は10勝2敗)の圧倒的な成績でC級1組への昇級を決める。なお、もう一人の昇級者は、同じく10勝2敗の米長邦雄(関屋の10歳下)であった。 第2回(1958年度)古豪新鋭戦で優勝。