倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28… 倉富 鈞(くらとみ ひとし、1885年〈明治18年〉2月28日 - 1977年〈昭和52年〉4月5日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。位階は従四位。 司法官僚・倉富勇三郎の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1936年(昭和11年)6月1日、男爵を襲爵した。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1928年(昭和3年)朝鮮銀行秘書課長兼国庫課長に就任。その後、同検査役、産業組合中央金庫参事・貸付課長、同理事、農地開発営団理事などを務めた。 1941年(昭和16年)9月6日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月2… 黒木 三次(くろき さんじ、明治17年(1884年)12月21日 - 昭和19年(1944年)9月30日)は、日本の華族。貴族院議員・帝都復興院参与・司法省委員を務める。位階・勲等・爵位は正三位・勲三等・伯爵。 第1軍司令官を務めた黒木為楨陸軍大将伯爵と、妻ヒヤク(黒田清隆の養女)の長男として東京に生まれる。一高で内村鑑三の元で学び、明治45年(1912年)東京帝国大学法科大学を卒業。大正7年(1918年)から欧米に留学し、帰国後は母校の東京帝国大学法科大学で副手を務める。大正12年(1923年)2月3日の父の薨去を受けて襲爵し、伯爵となる。三次は同年9月1日に発生した関東大震災の復興を目的とした帝都復興院参与に就任し、大正15年(1926年)5月1日には補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出された。
徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月… 徳川 好敏(とくがわ よしとし、1884年(明治17年)7月24日 - 1963年(昭和38年)4月17日)は、日本の陸軍軍人、華族。
北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月… 北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉8月20日)は、大正から昭和前期の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家第77代当主、貴族院男爵議員。 島根県簸川郡(現・出雲市大社町)で北島国造家76代当主・北島斉孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1906年(明治39年)、学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学史学科を修了した。1918年、父の死去後、神道出雲教会大教主に就任。1952年(昭和27年)、神道大教から離れ出雲教を設立して国造に就任した。1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)まで出雲大社御造営御用掛を務めた。
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25… 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧氏名は、九条 節子(くじょう さだこ)。 昭和天皇の母。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。 1884年(明治17年)6月25日、公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)で誕生。
南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月2… 南部 利淳(なんぶ としあつ、明治17年(1884年)6月25日 - 昭和5年(1930年)1月1日)は、戦前日本の華族。南部家第43代当主で、最後の盛岡藩主南部利恭の次男、先代当主南部利祥の弟。爵位は伯爵。 明治38年(1905年)、日露戦争で戦死した兄利祥の跡を継ぎ、南部家第43代当主となる。東京帝国大学在学中の明治40年(1907年)に旧鳥取藩主池田輝知侯爵の三女嚴子と結婚し、一男一女をもうける。 利淳夫妻は芸術に造詣が深く、利淳は彫刻や書道、嚴子は日本画や竹細工などをたしなんだ。また、夫婦で黒田清輝、五味清吉、石川寅治などの画家から洋画を習っている。大正3年(1914年)には盛岡に「南部鋳金研究所」を設置し、東京美術学校鋳金科出身の松橋宗明を所長として迎えるなど、南部鉄器の改良発展に貢献した。
西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月1… 西尾 忠方(にしお ただみち、1884年(明治17年)5月14日 - 1958年(昭和33年)6月17日)は、大正から昭和期の政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・加藤、旧名・泰吉。 旧大洲藩主・加藤泰秋の四男として生まれ、1909年(明治42年)12月、子爵・西尾忠篤の養子となり、同年同月、忠方と改名。養父の死去に伴い、1910年(明治43年)11月29日、子爵を襲爵した。 1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学を卒業。馬政調査会委員、軍用保護馬鍛錬中央会副会頭、日本競馬会評議員、十五銀行監査役、蓬莱殖産監査役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年… 亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年(1884年)4月17日 - 昭和17年(1942年)5月2日)は、日本の華族、宮内官僚。亀井家第14代当主。爵位は伯爵。東京市渋谷区千駄谷町穏田に居住していた。衆議院議員亀井亜紀子は曾孫に当たる。 第13代当主亀井茲明の子として島根県鹿足郡津和野に生まれる。 1909年(明治42年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、式部官に任じられ皇室の式典及び語学研究のため欧米を歴遊。1912年に帰国後、主猟官を兼ねた。 後に東宮侍従に任じられ、1921年(大正10年)には皇太子裕仁親王の海外巡遊に際し随行を命じられた。1929年(昭和4年)、官を辞す。
大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)1… 大原 重明(おおはら しげあきら、1883年(明治16年)12月31日 - 1961年(昭和36年)2月20日)は、日本の雅楽家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府で伯爵・大原重朝の三男として生まれる。学習院を経て、1907年(明治40年)東京帝国大学文科大学国文科を卒業した。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月28日、伯爵を襲爵した。 郢曲を綾小路有良に、箏・琵琶を豊原喜秋に、篳篥を安倍季節にそれぞれ師事した。1909年(明治42年)宮内省歌御会講頌御人数に任じられ、御歌所参候、歌御会始講頌などを務め、1950年(昭和25年)の歌会始まで披講、講頌の役をほぼ毎年担った。 1922年(大正11年)5月11日、貴族院伯爵議員補欠選挙に当選し、研究会に属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した。
林 忠一(はやし ただかず、1883年(明治16年)11月1… 林 忠一(はやし ただかず、1883年(明治16年)11月15日 - 1952年(昭和27年)12月23日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家、華族。貴族院男爵議員。 旧上総国請西藩主家当主・林忠弘の長男として生まれる。 1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。第10師団法官部理事を経て、1917年(大正6年)大阪地方裁判所所属弁護士となった。同年1月31日、前年の忠弘死去に伴い男爵を襲爵した。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
酒井 忠克(さかい ただたえ、1883年〈明治16年〉11月… 酒井 忠克(さかい ただたえ、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1939年〈昭和14年〉6月17日)は、日本の宮内官僚、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・酒井忠道の二男として生まれる。1906年(明治39年)学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学法科大学を修了。父・忠道の死去に伴い、1920年(大正9年)3月10日、家督を相続し伯爵を襲爵した。 1914年(大正3年)以降、主猟官、式部官兼主猟官、中央失業対策委員会委員などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して死去するまで在任した。
原口 徠(はらぐち きたる、1883年(明治16年)10月2… 原口 徠(はらぐち きたる、1883年(明治16年)10月29日 - 1936年(昭和11年)4月22日)は、日本の銀行家、華族。 1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。1910年同専攻部卒業、日本勧業銀行入行。1919年男爵を襲爵し、正五位に叙される。1926年叙従四位。1934年日本勧業銀行常務理事。叙正四位。1936年死去。享年54。 父は原口兼済。妻は伊東巳代治の娘。 娘の峯子は、博多大丸取締役の武田克(磯部正春の甥、岩崎弥太郎の婚族)に嫁いだ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
保科 正昭(ほしな まさあき、1883年〈明治16年〉10月… 保科 正昭(ほしな まさあき、1883年〈明治16年〉10月1日 - 1947年〈昭和22年〉10月11日)は、明治から昭和期の技師、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・盛之助。 旧飯野藩主・保科正益の三男として生まれる。父の死去に伴い、1888年(明治21年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1909年(明治42年)7月、東京帝国大学理科大学鉱物学科を卒業。同年10月、主猟官に就任。以後、朝鮮総督府技師、農商務技師、東京帝室博物館嘱託、帝室林野管理局御用掛、地質調査所鉱物陳列館主任、京城工業専門学校講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月… 伊東 二郎丸(いとう じろまる、1883年(明治16年)8月29日 - 1969年(昭和44年)11月2日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で海軍中将・伊東祐麿の二男として生まれた。父の死去に伴い、1906年(明治39年)3月14日、子爵を襲爵した。 学習院高等学科を経て、1910年(明治43年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1912年、日本製鋼所に入社し室蘭に転居。その後、イギリスに2年間留学し、帰国後、高砂商工銀行取締役に就任。電気化学工業取締役なども務めた。 水野直子爵の導きで政界を志し、東京帝大在学中に尚友会に入会。1923年(大正12年)8月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属。
池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月2… 池田 長康(いけだ ながやす、1883年(明治16年)7月24日 - 1962年(昭和37年)5月23日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・千坂。 本籍・岡山県。内務官僚・千坂高雅の六男として生まれ、男爵・池田長準の養子となる。養父の死去に伴い、1913年(大正2年)4月10日、男爵を襲爵した。 第一高等学校を経て、1911年(明治44年)7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年、三井銀行に入行。以後、日本鉄工取締役、富士護謨工業取締役、山城銀行頭取、桑船銀行取締役、萩電灯取締役などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1932年(昭和7年)7月9日まで2期在任した。
矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明… 矢吹 省三(やぶき しょうぞう / せいぞう、1883年(明治16年)7月23日 - 1950年(昭和25年)12月27日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 東京府出身。旧幕臣・陸軍中将、矢吹秀一の三男として生まれる。旧制第一高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。父の死去に伴い1910年(明治43年)1月19日、男爵を襲爵。 横浜正金銀行書記、富士生命保険 (株) 取締役、東京タクシー自動車 (株) 取締役、東京貿易 (株) 社長などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され公正会に属して活動した。
八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6… 八条 隆正(はちじょう たかまさ、1883年(明治16年)6月27日 - 1950年(昭和25年)2月3日)は、明治末から昭和前期の大蔵官僚、政治家、華族。貴族院子爵議員。 伯爵・油小路隆董の三男として生まれ、子爵・八条隆邦の養子となる。養父・隆邦の死去に伴い、1896年(明治29年)9月8日、家督を相続し子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業。1909年(明治42年)大蔵省に入省し、税務監督局属兼大蔵属、同監督局事務官、東京税務監督局経理部長などを歴任。1915年(大正4年)7月15日、依願免本官となり退官した。その後、産業組合中央金庫理事長、日本銀行監事、住宅営団監事、内閣顧問、大蔵省顧問、帝国農会特別議員、国民貯蓄奨励委員会委員、学習院評議会会員などを務めた。
二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月… 二条 厚基(にじょう あつもと、1883年〈明治16年〉6月14日 - 1927年〈昭和2年〉9月11日)は、日本の政治家、華族。貴族院公爵議員。 公爵・二条基弘の二男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学で学ぶ。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した。当選後は無所属だったが、1922年(大正11年)9月27日、研究会に所属した。 1917年(大正6年)以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。 1927年(昭和2年)9月11日、議員在職中のまま死去。実子がいなかったため相続争いが起こったが、二条正麿の三男である弼基が養子となり襲爵した。
小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月1… 小村 欣一(こむら きんいち、1883年〈明治16年〉5月13日 - 1930年〈昭和5年〉12月29日)は、大正・昭和初期の外交官、貴族院議員、華族(侯爵)。 明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる。 欣一は日本中学、一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。
東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年… 東三条 実敏(東三條、ひがしさんじょう さねとし、1883年5月5日 - 1935年3月13日)は、明治から昭和期にかけての華族。正四位、男爵。 太政大臣などを務めた三条実美の養嗣子三条公恭の長男として生まれた。1886年、浪費癖などにより公恭が廃嫡処分となったため、実美の実子で分家の東三条家を興していた公美が三条家の嗣子となった。このため、実敏は公美の養嗣子になって東三条家を継ぎ、幼いながらも襲爵した。実父公恭は東三条家の厄介となったが、後に平民籍に編入されている。1908年、明治大学法律科卒業。
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月2… 加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。
米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月… 米津 政賢(よねきつ まさただ、1883年(明治16年)3月8日 - 1941年(昭和16年)8月19日)は、明治から昭和期の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。位階および勲等は正三位・勲二等。 旧長瀞藩主・米津政敏の長男として生まれる。父の死去に伴い、1895年(明治28年)11月22日、子爵を襲爵した。 学習院中等科、第六高等学校を経て、1908年(明治28年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業。同年、農商務省嘱託となる。以後、農商務省種畜牧場嘱託、農林省嘱託、同畜産試験場嘱託、畜産博覧会審査官、第2回神奈川県有畜農業経営共進会審査長などを務めた。 1915年(大正4年)6月12日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで5期在任した。
松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16… 松平 乗統(乘統、まつだいら のりつな、1883年(明治16年)1月27日 - 1961年(昭和36年)7月28日)は、明治から昭和期の宮内官、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・源次郎。 旧西尾藩主家当主、子爵・松平乗承の二男として生まれる。1912年、乗統に改名。父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)6月15日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学文科大学史学科(国史学)を卒業し、同学史料編纂係嘱託となる。1908年(明治41年)宮内省皇孫御用掛に就任。以後、皇子御用掛兼東宮職御用掛、皇子傅育官、式部官兼御歌所主事、大礼使典儀官兼主猟官、兼李王職典紀などを務めた。
島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1… 島津 健之助(しまづ けんのすけ、1883年(明治16年)1月5日 - 1937年(昭和12年)8月24日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院議員、男爵、従四位。 伯爵・島津忠亮の二男に生まれ、明治42年(1909年)12月20日、分家して祖父・佐土原藩主島津忠寛の勲功により男爵を叙爵する。その後、慶應義塾大学部理財科を修了。 1910年(明治43年)国光生命保険相互会社監査役となり、のち同社取締役社長を務めた。 1918年(大正7年)7月10日に貴族院男爵議員に選出され、1925年(大正14年)6月24日まで在任した。
米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体: 米田 國臣、1882… 米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体: 米田 國臣、1882年(明治15年)12月3日 - 1951年(昭和26年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍砲兵大佐。子爵。貴族院子爵議員。旧姓・細川。旧熊本藩家老米田家。 熊本県宇土郡宇土町(現宇土市)で細川興勝(宇土藩主・故細川興文孫)の三男として生まれ、侍従・米田虎雄の養子となる。養父の死去に伴い1915年(大正4年)12月24日、子爵を襲爵した。 陸軍士官学校(15期)に入り、1903年(明治36年)11月30日に卒業し、1904年(明治37年)2月12日、砲兵少尉に任官。陸軍砲工学校を卒業し、陸軍砲兵工科学校教官、同副官、同生徒隊長、近衛野砲兵連隊付、第1師団兵器部長などを歴任。
三条 公輝(さんじょう きんてる、1882年〈明治15年〉1… 三条 公輝(さんじょう きんてる、1882年〈明治15年〉12月2日 - 1945年〈昭和20年〉11月10日)は、明治から昭和戦前期にかけての華族(公爵)、貴族院議員。東京帝国大学法科大学政治科卒業。 三条実美の三男。母は鷹司輔煕の九女・治子。1892年(明治25年)に分家、男爵に叙爵したが、実美の遺産は僅かで本家ともども困窮した。三条家に恩義がある尾崎三良が見かねて山縣有朋に掛け合い、宮内省から思召しとして1万円の公債を得ている。 1924年(大正13年)、甥・三条実憲の急逝を受けて三条家の家督を相続し、公爵となる。貞明皇后と香淳皇后に仕え、宮内省皇后宮主事、皇太后宮事務官を歴任し、1933年(昭和8年)に掌典長に就任し、のち御所歌長を兼ねた。
青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1… 青山 徹蔵(あおやま てつぞう、1882年11月2日 - 1953年1月10日)は日本の医学者(外科学)、華族(男爵)。 長野県東筑摩郡洗馬村(現塩尻市)の代々医家の熊谷家に生まれる。熊谷陸蔵の次男で、元東北帝国大学総長熊谷岱蔵の実弟。 明治39年(1906年)東京大学医科大学(東京大学医学部)卒業。在学中に同大内科教授青山胤通の娘芳子と結婚、青山姓となった。大正5年(1916年)「胆石形成に関する実験的研究」で医学博士号取得。同8年(1919年)東京帝大外科学助教授、同14年(1925年)外科学第1講座教授。外国留学後、昭和11年(1936年)視力障害を理由に依願退職。従三位勲三等。 腹部外科、特に胆石症や胃潰瘍などの権威として知られ、著作に「小外科総論」がある。
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治1… 竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。 北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。
武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15… 武者小路 公共(むしゃこうじ きんとも、1882年(明治15年)8月29日 - 1962年(昭和37年)4月21日)は、日本の華族、外交官、武者小路家第10代当主。爵位は子爵。位階は正二位。作家・武者小路実篤の兄。 子爵・武者小路実世の三男として東京府東京市麹町区(のち東京都千代田区)に生まれた。1887年(明治20年)に父・実世が肺結核で死去したため、武者小路家の家督と子爵位を継承した。 学習院高等科を経て、1907年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、外務省入省。上海総領事館勤務をふりだしにルーマニア兼ユーゴスラビア、デンマーク兼スウェーデンの各公使に就任。さらに1933年(昭和8年)に駐トルコ大使に就任。
税所 篤秀(さいしょ あつひで、1882年(明治15年)8月… 税所 篤秀(さいしょ あつひで、1882年(明治15年)8月16日 - 1930年(昭和5年)7月10日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍鹿児島県。警察官僚・税所篤一の長男として生まれる。 1908年(明治41年)私立東洋大学を卒業。同年、東亜煙草に入社し大連販売所で勤務。その後、浪速銀行書記、十五銀行勤務となった。 父・篤一の死去に伴い、1914年(大正3年)6月30日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し死去するまで1期在任した。
今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882… 今園 国貞(國貞、いまその / いまぞの くにさだ、1882年(明治15年)7月20日 - 1950年(昭和25年)5月2日)は、日本の国文学者、政治家、華族。貴族院男爵議員。 華族・今園国映の長男として生まれる。父の死去に伴い、1893年(明治26年)5月12日、男爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、1912年7月、東京帝国大学文科大学文学科(国文学)を卒業。1928年(昭和3年)歌会始講頌となり、以後、同読士、同奉行、御歌所参候、東京女子大学教授などを務めた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。
大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉… 大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年〈明治15年〉6月16日 - 1963年〈昭和38年〉2月2日)は、大倉財閥2代目総帥。男爵。東京(赤坂区葵町、現東京都港区虎ノ門)生まれ。長唄の名を聴松。 父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1919年〈大正8年〉 -1991年〈平成3年〉)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。 父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放、財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。 気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。
勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4… 勧修寺 経雄(かじゅうじ つねお、1882年(明治15年)4月13日 - 1936年(昭和11年)11月1日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 東京府出身。伯爵・勧修寺顕允の長男として生まれる。父・顕允の死去に伴い、1900年(明治33年)10月4日、家督を相続し伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した。 1908年(明治41年)東京高等農学校を卒業。1910年(明治43年)以降、殿掌、掌典、陵墓監、同志社女子専門学校講師、京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)講師などを務めた。 1919年(大正8年)6月14日、補欠選挙で貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1925年(大正14年)7月9日まで在任した。
中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月17日 - 1… 中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月17日 - 1943年2月26日)は、日本の官僚、華族。鉄道省建設局長、鉄道会議議員、鉄道工事統制協会長、土木学会長、災害予防調査会委員、発電調査会委員等を歴任し、貴族院議員も務める。勲三等男爵。墓地は多磨霊園。中村覚の子。 中村覚・陸軍大将男爵の長男として生まれる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月… 梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年〈明治15年〉2月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月19日)は、日本の旧皇族。梨本宮守正王の妃。鍋島直大侯爵令嬢。妹に松平信子。お印は桂。旧名は、鍋島 伊都子(なべしま いつこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、守正王妃 伊都子(もりまさおうひ いつこ)であった。 1882年(明治15年)2月2日、駐イタリア特命全権公使・鍋島直大の次女としてローマで生まれた。母は広橋胤保の五女・榮子。「イタリア(伊太利亜)の都の子」の意味で伊都子(いつこ)と命名される。生後7か月目に一家は帰国し、東京府麹町区永田町二丁目1番地(現在の東京都千代田区永田町)の鍋島本邸で育てられた。
中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月 - 1943… 中村 謙一(なかむら けんいち、1882年2月 - 1943年2月26日)は、日本の官僚、華族。鉄道省建設局長、鉄道会議議員、鉄道工事統制協会長、土木学会長、災害予防調査会委員、発電調査会委員等を歴任し、貴族院議員も務める。勲三等男爵。墓地は多磨霊園。
戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日… 戸田 氏秀(とだ うじひで、明治15年(1882年)1月6日 - 大正13年(1924年)6月19日)は、日本の華族。大河内輝声の四男で、大垣藩戸田家12代戸田氏共の婿養子。前名は輝耡。最初の妻は戸田氏共の次女・米子、2番目の妻は氏共の五女・富子。 東京帝国大学卒業後、宮内省で東宮職主事、東宮職庶務課長、宮内事務官兼式部官を務めた。42歳で腸チフスのため死去。墓所は東京都文京区向丘の蓮光寺。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月… 伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月10日 - 1957年(昭和32年)11月26日)は、沖縄県出身の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、向氏伊江家十四世。号・馬巖。 首里当蔵村(現那覇市首里当蔵町)で、伊江家十三世・伊江朝真の長男として生まれる。父が尚侯爵家御用係兼家扶となり首里小学校卒業後に上京。私立順天中学校、早稲田大学高等予科を経て、1907年(明治40年)7月、同大学部政治科を卒業した。1908年(明治41年)12月、一年志願兵として歩兵第48連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月に満期除隊。 帰郷後、1911年(明治44年)5月、沖縄電気軌道会社常任監査役に就任。
蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881… 蒔田 広城(まいた ひろなり、旧字体: 蒔田 廣城、1881年(明治14年)8月25日 - 1943年(昭和18年)3月18日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。幼名・新之助。 元伊予宇和島藩主・伊達宗城の十一男として生まれ、子爵・蒔田広孝の養子となる。養父の隠居に伴い、1912年(明治45年)7月20日に子爵を襲爵した。 学習院を経て、京都帝国大学法科大学を修了。1911年、アメリカ合衆国を視察。帰国後、小田原急行沿線企業の重役を務めた。 1919年(大正8年)12月26日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、1925年(大正14年)7月9日まで在任。さらに、1932年(昭和7年)7月10月、貴族院子爵議員に当選し、研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで通算2期在任した。
岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月… 岩倉 道倶(いわくら みちとも、1881年(明治14年)5月29日 - 1946年(昭和21年)10月9日)は、日本の華族。貴族院男爵議員。 1881年岩倉具視の四男として生まれる。1896年分家して、同年12月3日、父の勲功により男爵を叙爵。学習院を経て、東京帝国大学文科大学修了。1909年欧米視察。1911年7月10日、貴族院議員となる。福徳生命保険、大成漁業各取締役、十五銀行監査役。1932年以降米穀対策調査会、石油業委員会、液体燃料委員会、帝国石油、台湾拓殖、樺太開発その他各設立委員、川崎造船所、千代田火災保険各取締役を務め、翼賛政治会常任総務を歴任した。 戦後の1946年5月8日に貴族院男爵議員を辞職し、その後公職追放となり、間もなく死去した。
島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治… 島津 久賢(しまづ ひさよし / ひさたか、1881年(明治14年)4月20日 - 1926年(大正15年)11月10日)は、明治から大正期の政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・相良、旧名・基直。 旧人吉藩主・相良頼基の六男として生まれる。1896年(明治29年)加治木島津家当主・島津健(とし、前当主・故島津久宝夫人、島津久徴六女)の養子となり、同年8月14日に家督を継承。1897年(明治30年)10月27日、久宝の戊辰戦争の功により特旨をもって男爵を叙爵した。 錦城中学校を経て、1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。1909年(明治42年)イギリスに留学し、政治学・法律学を学び、1910年(明治43年)10月に帰国した。
村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年… 村井 長八郎(むらい ちょうはちろう、1881年(明治14年)2月28日 - 1945年(昭和20年)11月9日)は、大正・昭和期の農林技官、華族(男爵)。加賀八家村井家第12代当主。 加賀藩重臣村井長在の嫡男村井又六の子として金沢に生まれる。1900年、父の隠居により家督を継ぎ、同年5月9日に祖父長在の明治維新における功績により男爵に叙爵された。 金沢第一中学校、盛岡高等農林学校を卒業。1909年、農商務省に入り福島・長野・水戸各営林署長等を歴任した。1935年、退官し前田侯爵家嘱託に就いた。
黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月3… 黒田 長和(くろだ ながとし、1881年(明治14年)1月30日 - 1944年(昭和19年)3月8日)は、明治から昭和前期の華族、政治家。男爵、貴族院議員。幼名は峯太郎。 福岡藩最後の藩主・黒田長知の四男。母は側室・田代園子。異母兄に侯爵黒田長成がいる。 1896年(明治29年)断絶した黒田直方家の再興という形で分家し、1896年(明治29年)12月3日、男爵を叙爵し、同月、長和と改名した。1904年(明治37年)7月、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学した。1906年(明治39年)イギリス、ケンブリッジ大学に留学した。 1899年(明治32年)東宮職出仕。宗秩寮審議官、衆議院議員選挙革正審議会委員、内閣制度審議会委員、議会制度審議会委員、議院制度調査会委員、貴族院制度調査会委員などを務めた。
尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月… 尾崎 洵盛(おざき のぶもり、1880年〈明治13年〉11月29日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、日本の陶磁器研究家、外交官、男爵。中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財専門審議会専門委員。 東京生まれ。慶應義塾幼稚舎を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1905年同専攻部卒業。1906年外交官及領事官試験に合格し、外務省に入省。在上海日本国総領事館総領事事務代理、在アメリカ合衆国日本国大使館三等書記官、外務省参事官、在ベルギー公使館二等書記官等を経て、1918年退官。陶磁器研究を行い、中国の陶磁器の権威として知られた。元文化財保護委員会文化財専門審議会専門委員。
大河内 輝耕(おおこうち きこう、1880年〈明治13年〉1… 大河内 輝耕(おおこうち きこう、1880年〈明治13年〉11月18日 - 1955年〈昭和30年〉5月2日)は、明治期から昭和期にかけての華族、政治家。貴族院議員。子爵。妻は徳川慶喜の八女の国子。 上野国高崎藩最後の藩主・大河内輝声の長男として生まれる。1882年(明治15年)父の死により家督を相続し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した。1901年(明治34年)7月に学習院高等科を卒業して、東京帝国大学法科大学に入り、1905年(明治38年)に卒業した。同年11月、文官高等試験に合格し、大蔵省に入り、主計局に配属された。その後、大蔵書記官、主計局主計課長、専売局主事、大蔵参事官、専売局理事、東京地方専売局長などを歴任した。
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉1… 甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉10月5日 - 1977年〈昭和52年〉6月20日)は、日本の華族(伯爵)。甘露寺家第35代当主。東宮侍従、侍従、侍従次長、明治神宮宮司を歴任した。官位は従二位勲一等。 1880年(明治23年)、甘露寺義長の長男として生まれる。母は子爵勘解由小路資生の四女・立子(たつこ)。 学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。 1910年(明治43年)12月、東宮侍従に任じられ、大正天皇践祚の後も東宮侍従として裕仁親王(のちの昭和天皇)に仕えた。
高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ、1880年(明治13年)8月… 高崎 弓彦(たかさき ゆみひこ、1880年(明治13年)8月11日 - 1958年(昭和33年)4月9日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院男爵議員。 岡山県令・高崎五六の三男として生まれる。兄高崎安彦の死去に伴い、1911年(明治44年)1月31日、男爵を襲爵した。 学習院を経て、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を修了した。1906年、三井物産に入社し米国ニューヨーク支店勤務となる。その後、日本製鋼所社員に転じた。 1918年(大正7年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで4期在任した。その他、政府貸付金処理委員会委員、財政収支調整調査会委員を務めた。
牧野 一成(まきの かずしげ、1880年(明治13年)7月2… 牧野 一成(まきの かずしげ、1880年(明治13年)7月22日 - 1958年(昭和33年)9月25日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧丹後田辺藩主・牧野弼成の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1916年2月21日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、同大学科を修了。1915年、大礼使典儀官を務めた。 1921年2月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1932年7月まで2期在任した。
高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明… 高橋 新八(たかはし しんはち / しんぱち、1880年(明治13年)6月28日 - 1923年(大正12年)4月9日)は、明治から大正期の造船技術者、実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧名・新作。 英学者・高橋新吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1909年7月(明治42年)東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。神戸川崎造船所技師を経て、1917年(大正6年)八千代生命保険監査役に就任。その他、南国護謨監査役、輸出水産取締役、墨田川造船所社長などを務めた。 1922年(大正11年)5月13日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し1923年4月8日まで在任した。