解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月… 解良 富太郎(けら とみたろう、1901年(明治34年)1月30日 - 1937年(昭和12年)2月20日)は、日本の歌人、法学者。商法、特に海商法を専攻したが、病弱で大学教員としての道は諦め、病床で短歌を詠んだ。アララギ派に属した。 1901年(明治34年)1月30日、新潟県三島郡寺泊町片町で父・彌一郎、母・モトの四男として生まれる。家は雑貨商を営んだ。 1915年(大正4年)、寺泊尋常高等小学校の高等科第二学年を卒業し、家業を助ける傍ら独学で中学講義録を学んだ。1917年(大正6年)には与板町登記所雇員となるも、脚気のため1か月も経たずに退職した。1918年(大正7年)、勉学の希望を捨てられず、次兄・英次郎の勤務先である大阪の孔官堂主人の増田という人物が富太郎を呼び寄せ、大阪に転居した。
小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 19… 小原 貞敏(おばら さだとし、1901年1月29日 - 1988年7月19日)は、日本の工学者。専門は機械工学。鹿児島大学名誉教授 。鹿児島大学工学部長や鹿児島工業高等専門学校初代校長を歴任。 鹿児島県鹿児島市高麗町出身。1918年鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。1922年第七高等学校造士館 (旧制)理科卒業。1925年京都帝国大学工学部機械工学科卒業。大学卒業後に南満州鉄道へ入り機関士見習いからたたき上げ、あじあ (列車)の設計に携わる。終戦直前に満鉄本部運輸局長。戦後1946年から鹿児島県立工業専門学校 (旧制)でボイラー関係を教える(県立工業専門学校は学制改革で1949年2月に鹿児島県立大学工学部となる)。
梶野 悳三(かじの とくぞう、1901年1月29日 - 19… 梶野 悳三(かじの とくぞう、1901年1月29日 - 1984年4月1日)は、昭和期日本の小説家。 新潟県岩船郡村上町(現在の村上市)生まれ。本名・正義。幼児期に北海道に移住。1921年に横須賀海兵団に入り、水兵となる。海軍三等主計兵曹であった。柔道に励んで四段となる。退団後、柔道知識を生かして梶野千万騎(かじの ちまき)の筆名で「試合もの」の小説を書き始める。1933年、山手樹一郎らと『大衆文学』を創刊。長谷川伸の新鷹会に加入後、悳三に改名。 1930年代後半から海洋文学、とくに捕鯨船員の生活などを描いた長編を手掛けるようになり、「俺は水兵」「鯨の町」などの作品を発表する。 1946年、自身が少年期を過ごした北海道天塩の鰊漁場を描いた「鰊漁場」(『大衆文芸』1947年6月号)で大衆雑誌懇話会賞を受賞。
高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月… 高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年〈明治34年〉1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。 愛媛県伊方町出身。母親を少年時代に亡くす。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。1922年12月、「今から俺はダダを全世界に宣伝するのだ」と言ってタクシーの運転手をステッキで殴る事件(発狂事件)を起こして逮捕される。 1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
金子 与重郎(旧字体: 金子 與重郞、かねこ よじゅうろう、… 金子 与重郎(旧字体: 金子 與重郞、かねこ よじゅうろう、1901年(明治34年)1月27日 - 1954年(昭和29年)10月9日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県勢多郡粕川村大字室沢(現・前橋市粕川町室沢)で、金子新作の長男として生まれる。群馬県立勢多農林学校(現・群馬県立勢多農林高等学校)を経て、1919年(大正8年)盛岡高等農林学校農学科別科を卒業した。 帰郷して農業を営む。また、県下の産業組合の組織化に尽力し、組合厚生病院を設けて農村の保健衛生の向上に尽くした。群馬蚕糸会社の設立に参画し、蚕糸業の振興を図った。その他、粕川村会議員、粕川信用販売利用組合長、群馬県購買販売利用組合専務理事、同購買販売利用組合連合会総務部長、群馬蚕糸製造監査役などを務めた。
広岡 謙二(廣岡 謙二、ひろおか けんじ、1901年〈明治3… 広岡 謙二(廣岡 謙二、ひろおか けんじ、1901年〈明治34年〉1月27日 - 1995年〈平成7年〉6月30日)は、日本の内務官僚。石川県知事、警視総監。位階は正四位。 徳島県出身。広岡四郎の二男として生まれる。徳島中校、第一高等学校を経て、1923年4月、東京帝国大学文学部に入学したが、翌年3月に退学。1926年11月、高等試験行政科試験に合格。1927年3月、東北帝国大学法文学部英法科を卒業。同年4月、内務省に入り山口県属として内務部庶務課兼地方課に配属された。 1929年5月、山口県警部を兼務。以後、山口県商工水産課長、地方警視・鹿児島県保安課長、宮城県特高課長、警視庁特別高等警察部特高第一課長、同部労働課長、山口県学務部長、大分県書記官・警察部長、警視庁消防部長、熊本県書記官・警察部長、福岡県部長・警察部長などを歴任。
高野 実(たかの みのる、1901年1月27日 – 1974… 高野 実(たかの みのる、1901年1月27日 – 1974年9月13日)は、日本の労働運動家。元日本労働組合総評議会(総評)事務局長。長男にジャーナリストの高野孟が、二男に気功師の津村喬がいる。
13代千宗左(せん そうさ、1901年〈明治34年〉1月27… 13代千宗左(せん そうさ、1901年〈明治34年〉1月27日 - 1979年〈昭和54年〉8月29日)は、茶道表千家の家元。 京都府生まれ。12代惺斎千宗左の次男。即中斎。幼名は覚二郎、号に無尽・清友軒。慶應義塾大学文学部及び京都帝国大学史学選科卒。1936年、兄・不言斎が急逝、1937年、父・惺斎の死去のため、表千家13代家元を継ぐ。1949年、財団法人不審庵を設立。1973年、京都市文化功労者。1975年、表千家同門会を発足させ茶の普及につとめた。また不審庵伝来の「元伯宗旦文書」を公刊。1979年、死去。
伊吹 武彦(いぶき たけひこ、1901年1月27日 - 19… 伊吹 武彦(いぶき たけひこ、1901年1月27日 - 1982年10月12日)は、日本のフランス文学者。京都大学名誉教授。 大阪府生まれ。旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学文学部仏文科卒。第三高等学校教授、京都帝国大学文学部講師、1950年京都大学文学部仏文科教授。1964年に定年退官、関西学院大学教授を務めた。戦後まもなくは、文芸誌『世界文学』(を編集し、近現代フランス文学を紹介した。 ラクロ、フローベール、アナトール・フランス、プルースト、サルトルなどを訳し、生島遼一、桑原武夫とともに京大フランス学を形成した。後年は『仏和大辞典』の編纂にも尽力した。 京都市とパリの姉妹都市の結成など日仏文化交流に貢献し、1961年にレジオンドヌール勲章を受章した。
初代・瀧川 末子(たきがわ すえこ、1901年(明治34年)… 初代・瀧川 末子(たきがわ すえこ、1901年(明治34年)1月27日 - 1983年(昭和58年)2月12日)は、元宝塚少女歌劇団花組主演男役クラスで宝塚歌劇団卒業生。1920年当時の本名の表記は竹中みさを、死去時の本名は竹中美佐保。兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)出身。1913年11月 - 1933年在団。宝塚歌劇団2期生で、初期のスターの一人。同期生に篠原淺茅、人見八重子、吉野雪子がいる。花組組長も務めた。なお、藤波楽斎『歌劇と歌劇俳優』には「瀧川壽榮子」と書かれている。 芸名は小倉百人一首の第77番:崇徳院の 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。
望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 -… 望月 市恵(もちづき いちえ、男性、1901年1月25日 - 1991年9月8日)は、ドイツ文学者、信州大学名誉教授。
下泉 重吉(しもいずみ じゅうきち、1901年1月25日 -… 下泉 重吉(しもいずみ じゅうきち、1901年1月25日 - 1975年12月21日)は、日本の動物学者。東京教育大学教授、都留文科大学学長を務めた。理学博士。 主として動物の冬眠について研究をおこなった。またヤマネの生態について明らかにし飼育に成功する。日本生物教育学会を創設し、理科教育や環境教育、自然保護思想についての振興につとめた。後に同会名誉会長。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
野上 進(のがみ すすむ、1901年1月25日 - 1965… 野上 進(のがみ すすむ、1901年1月25日 - 1965年12月21日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期、自由民主党)。 熊本県出身。1923年明治大学専門部政経科卒。卒業後は関東庁警察部に入り、のち熊本県内の各警察署長、同県刑事、警防の各課長、熊本市交通局長、熊本電気軌道社長、九州産業交通初代社長、同会長、熊本観光社長、ラジオ熊本、熊本振興各取締役、熊本県交通安全協会、同県バス協会、同県トラック協会各会長などを務めた。 1947年、熊本県議会に当選し、副議長となる。自由党熊本県支部幹事長、1956年、自由民主党熊本県連会長、1960年、参議院議員熊本地方区補欠選挙に当選、参議院運輸委員会委員長などを歴任する。
石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳… 石川 冷(いしかわ れい、1901年1月25日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は石川 良平(いしかわ りょうへい)だが、婚姻後は齋藤 良平(さいとう - )と名乗った。旧芸名は石川 鳳堂(いしかわ ほうどう)。妻は舞踊家の藤間寿美枝(本名は斎藤 千代子)である。 1901年(明治34年)1月25日、東京府東京市本所区業平(現在の東京都墨田区)に生まれる。父親である杢平は人形師であった為、人形作りを手伝いながら、1914年(大正3年)に小学校を卒業。卒業後は琴古流尺八を習い、石川鳳堂と名乗った。 1920年(大正9年)、新派俳優の武田正憲(1890年 - 1962年)の門下となり、東京で初舞台を踏む。
石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1… 石館 守三(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は、日本の薬学者、薬理学者。日本の薬学界のパイオニア。ハンセン病治療薬「プロミン」を合成し、多くのハンセン病患者を救った。また、日本初のがん化学療法剤ナイトロミン(ナイトロジェンマスタードN-オキシド)を創製した。東京大学薬学部初代学部長、名誉教授、薬学博士、元日本薬剤師会会長。 放送作家・アニメーション監督の石ダテコー太郎は孫。 1901年、青森県青森市、喜久造・みきの三男として薬種商を営む裕福な商家に生まれた。1918年、青森県立青森中学校を卒業、1919年第二高等学校理科二類に進学。中学を卒業して浪人中の夏、療養所でハンセン病患者に初めて遭遇し、衝撃を受ける。
小島 吉雄(こじま よしお、1901年(明治34年)1月24… 小島 吉雄(こじま よしお、1901年(明治34年)1月24日 - 1989年(平成元年)10月21日)は、日本の国文学者。 学位は、文学博士(九州帝国大学・論文博士・1945年)(学位論文「後鳥羽上皇と新古今和歌集」)。大阪大学名誉教授。 大阪府出身。1924年京都帝国大学文学部国文科卒。九州帝国大学助教授、教授、1945年「後鳥羽上皇と新古今和歌集」で九州帝国大学より文学博士の学位を取得。1950年大阪大学文学部教授、1965年定年退官、名誉教授。 「新古今和歌集の研究」をはじめ、中世歌論、連歌、俳諧、浄瑠璃を研究した。 1982年(昭和57年)には各種の古典講座を開催し、一般市民に古典文学への興味と理解を深めさせ、古典文学の普及に尽力してきたとして、大阪文化賞を受賞する。
朝井 閑右衛門(あさい かんえもん/あさい かんうえもん、出… 朝井 閑右衛門(あさい かんえもん/あさい かんうえもん、出生名:浅井 實(みのる)、1901年1月24日 - 1983年4月23日)は、日本の洋画家。戦前は官展や光風会で活躍、戦後は新樹会や国際形象展を結成し、油彩の厚塗りで強烈な個性を発揮した。常に画壇の第一線で活躍しながら画集もなく、また本格的な個展も開催することがないなど、特異な生涯を貫いた。同じモチーフを繰り返し描くことが多く、「バラの画家」「ドン・キホーテに憑かれた画家」とも呼ばれる。 明治34年(1901年)1月24日、大阪府大阪市南区恵美須町(現在の浪速区恵美須西)の今宮戎神社の南門近くで、浅井繁熊(25歳)、ヒサ(27歳)の長男として生まれる。
斎藤 次郎(さいとう じろう、1901年1月23日 - 19… 斎藤 次郎(さいとう じろう、1901年1月23日 - 1971年6月13日)は、日本の経営者。住友セメント社長を務めた。 東京都出身。1927年に東北帝国大学法文学部を卒業し、同年に磐城セメントに入社。 1939年6月に取締役に就任し、同年12月に常務を経て、1948年4月には社長に就任。 1967年3月に藍綬褒章を受章。 1971年6月13日、急性肺炎と心不全のために死去。70歳没。
多田 基(ただ もとい、1901年(明治34年)1月23日 … 多田 基(ただ もとい、1901年(明治34年)1月23日 - 1995年(平成7年)12月21日)は、日本の経済学者。法政大学名誉教授、学校法人実践女子学園理事長、大月短期大学名誉教授。 1901年(明治34年)1月23日、鳥取県鳥取市に生まれる。1925年(大正14年)に法政大学経済学部を卒業し、1947年(昭和22年)に法政大学教授に就任する。 1961年(昭和36年)に大月短期大学学長に就任する。1974年(昭和49年)に実践女子学園理事長に就任し、1978年(昭和53年)に実践女子大学・短期大学学長を兼任する。 1995年(平成7年)12月21日に死去、94歳。 内田百閒の教え子で、黒澤明の『まあだだよ』の題材である「摩阿陀会」の肝煎(幹事)の一人である。
深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年… 深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は植岡 隆逸(うえおか たかいつ)。 1901年(明治34年)1月22日、宮崎県に生まれる。実家は旅館業を経営していた。京都府立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)中退。 1926年(大正15年)5月、坪内士行(1887年 - 1986年)等の宝塚国民座の創立に参加し俳優となる。1929年(昭和4年)、松竹大阪の専属俳優となり、同年8月には大阪浪花座で旗揚げした関西歌舞伎の阪東壽三郎(1886年 - 1954年)を中心とする第一劇場に参加した。同劇場には小堀誠、吉田豊作、進藤英太郎、八雲恵美子などがいた。
天野 末治(あまの すえじ、1901年1月21日 - 197… 天野 末治(あまの すえじ、1901年1月21日 - 1976年3月1日)は、日本の弁護士、社会運動家。扱った事件の多くは、小作争議、労働争議、思想弾圧事件などであり、自由法曹団東海支部結成においては指導的役割を果たした。愛知大学事件、大須事件の弁護団長として知られる。旧姓は柴田。 愛知県美合村大字岡村(現:岡崎市岡町字西側25番地)に、父柴田喜十、母たまの末っ子として生まれた。生家は農業で、当時その地方では養蚕が盛んであったことから、養蚕家が集まって蚕種製造組合を創った。父の柴田喜十は推されてその組合長となり、村会、信用組合などの役員などもした。 1914年(大正3年)、男川尋常高等小学校高等科を修了。
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月2… 永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日 - 1970年(昭和45年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 茨城県出身。永井弥八郎の五男として生まれる。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任。
中田 政美(なかた まさみ、1901年(明治34年)1月20… 中田 政美(なかた まさみ、1901年(明治34年)1月20日 - 1976年(昭和51年)7月15日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。位階は従三位。衆議院議員(1期)、建設事務次官。 鳥取県出身。自作農・中田亀太郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)安井尋常高等小学校高等科を卒業。同年4月、日下部村役場戸籍係となる。1920年(大正9年)4月、鳥取県八頭郡書記となり、1921年(大正10年)普通文官試験に合格。1922年(大正11年)6月、徴兵され輜重兵第16連隊に入隊し、同年8月に満期除隊となる。同年9月、簡易保険局書記補に転じ、1923年(大正12年)5月、同書記に任官。同年6月、高文予備試験七条試験に合格。
筧 元貞(かけい もとさだ、1901年(明治34年)1月20… 筧 元貞(かけい もとさだ、1901年(明治34年)1月20日 - 没年不明)は、日本の実業家。日本内燃機元専務取締役。族籍は東京府士族。 筧鏡平の長男として生まれる。母は衆議院議員や日本中央競馬会理事長を務め、「日本競馬の父」と呼ばれた安田伊左衛門の妹・田鶴。 旧制第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部英法科を卒業。大学卒業後、三菱銀行に入行しロンドン大学に留学。1940年(昭和15年)日本内燃機に転職。同社企画部長を経て、1943年(昭和18年)取締役に就任し、その後常務、専務、監査役を歴任。退職後はエース商会専務を務めた。 茅ヶ崎徳洲会総合病院(現:湘南藤沢徳洲会病院)にて84歳で死去。
渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1… 渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1月19日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の科学者・教育者・実業家。ホトフィニ株式会社(現在の株式会社JPF)創設者。日本大学芸術学部長を務めた。 現在の東京都文京区に、父・三平と母・勝の長男として生まれる。明化小学校、豊島師範付属小学校、開成中学校、官立旧制第四高等学校を経て、東京大学工学部造兵学科を卒業し、1925年(大正14年)、財団法人理化学研究所に入所した。 理化学研究所に入所した渡辺は、理化学研究所3代目所長を務めた大河内正敏の研究室に所属し、工学士としての長年に亘る研究生活を経て、独自の多面積式録音方式および自動現像方式を発明した。
村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月… 村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。
古河 三樹(ふるかわ みき、男性、1901年1月16日 - … 古河 三樹(ふるかわ みき、男性、1901年1月16日 - 1995年5月18日)は、日本の編集者、歴史家。 京都府生まれ。本名・三樹松。古河力作の弟。工業学校応用化学科卒。大正末期、アナルコ・サンジカリストとして活動し、その後平凡社に勤務。退職後、四谷で古河書店を開く。また、古河三樹の筆名で、見世物の研究書を刊行した。
菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1901年(明治34… 菊池 長右衛門(きくち ちょううえもん、1901年(明治34年)1月16日 - 1974年(昭和49年)8月19日)は、日本の政治家。元立憲政友会→日本自由党衆議院議員(2期)。 岩手県出身。1920年(大正9年)盛岡中学校卒業。宮古町会議員、同町長、下閉伊郡町村会長、宮古市会議員、同議長、初代宮古市長、岩手県会議員などを務めた。 1936年の第19回衆議院議員総選挙で立憲政友会から立候補して当選。その後、1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党から立候補して再選。2期務めた。翌1947年、公職追放となる。 岩手県漁業組合連合会会長、同水産協会会長、東京都水産物卸売人協会理事、六大都市水産物卸売人協会常任理事を務めるなど水産関係の要職を歴任し、中央魚類㈱取締役社長、中央冷凍㈱取締役、東京豊海冷蔵㈱取締役、㈱宮古製氷冷凍工場取締役社長を務めるなど水産流通業界において重きをなした。
梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月… 梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月15日 - 1946年〈昭和21年〉4月5日)は、日本の作家・編集者。本名は梅原 貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。 1901年、富山県富山市の士族の次男として生まれる。父・貞義は生命保険の代理店を営んでおり、生活はゆとりがあったとされる。京都の平安中学を卒業し、早稲田大学予科に進学。同校在学中に片山潜のグループと接し、社会主義思想に触れた。1920年に中退して関西で部落解放運動に従事。1924年から新聞社や雑誌社に勤める傍ら小説を執筆。
吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)… 吉川 大二郎(きっかわ だいじろう、1901年(明治34年)1月14日 - 1978年(昭和53年)9月25日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。学位は、法学博士(1947年)(学位論文「保全訴訟における裁判の効力」)。立命館大学名誉教授。元日本弁護士連合会会長。国際法曹協会名誉会長。1971年勲一等瑞宝章受章。 戦前から戦後のながきにわたり日本の民事手続法研究と実務をリードした。特に民事執行・保全法に関する研究は吉川がこの分野のパイオニアとされる。そのため吉川の考えは現在の民事執行法・保全法の基本的な考えとなっている。例えば、吉川以前は、保全訴訟において被保全権利の存在は審理の対象ではなかったが、吉川が被保全権利の存在は仮処分命令の発令要件であると唱えて以来、この考えが通説となっている。
志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日… 志賀 義雄(しが よしお、1901年(明治34年)1月12日 - 1989年(平成元年)3月6日)は、日本の政治家、共産主義運動の活動家。衆議院議員、日本共産党中央委員、「日本共産党(日本のこえ)」委員長などを務めた。ソ連共産党から資金援助を受けていた。 福岡県門司市(現・北九州市門司区)生まれ。旧姓、川本。1906年、母方の祖父の養子となって山口県阿武郡萩町(現・萩市)へ移り、志賀姓となる。 旧制萩中学校(現・山口県立萩高等学校)から一高を経て東京帝国大学文学部に入学する。帝大在学中に学生運動に参加し、在学中の1923年(大正12年)には、前年に非合法政党として結成された日本共産党へ入党。1927年(昭和2)1月には、モスクワに赴任した福本和夫から党中央常任委員・政治部長の要職を引き継いだが、1928年(昭和3年)の三・一五事件において検挙され、1934年(昭和9年)に治安維持法により懲役10年の有罪判決を受けた。
三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988… 三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988年2月20日)は、昭和期の政治家。郵政大臣。 佐賀県神埼郡三田川村(現・吉野ヶ里町)に、三池鉄一の長男として生まれる。佐賀高等学校理科甲類を経て、1926年九州帝国大学工学部電気科を卒業、京浜電力株式会社に入社する。奈川渡発電所(信州)所長を経て、理化学研究所特殊製鉄株式会社に移り常務取締役となる。終戦は同社羅興(現・北朝鮮咸鏡南道)工場長として朝鮮半島で迎えた。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党から佐賀県全県区で立候補し当選する(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二など)。
難波 経一(なんば つねかず、1901年1月11日-1986… 難波 経一(なんば つねかず、1901年1月11日-1986年2月22日)は、大正・昭和期の官僚、実業家。東京府出身。妻直子は男爵岩倉道倶の二女、岩倉具視の孫娘である。
荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 19… 荻野 貞行(おぎの さだゆき、1901年1月11日 - 1979年10月4日)は、日本のプロボクサー。日本プロボクシング草創期の強豪。技巧派の名選手であり、後には指導者としても活躍するなど、ボクシング界に対する幾多の貢献から、“日本ボクシングの母”とも呼ばれる。初代日本ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオン。帝拳プロモーション創設者。 群馬県甘楽郡富岡町(現・富岡市)の出身。父は荻野卓造。1922年(大正11年)、立教大学在学中に創設間もない渡辺勇次郎率いる日本拳闘倶楽部に入りボクシングを学び、同年、日本拳闘倶楽部公認の日本ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)チャンピオンとなった。
渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(190… 渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。 セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。
入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10… 入江 俊郎(いりえ としお、1901年(明治34年)1月10日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の官僚、政治家、裁判官。法制局長官、貴族院議員、衆議院法制局長、最高裁判所判事。東京府出身。 府立三中、第一高等学校、東京帝国大学卒業。1924年に内務省に入り、1927年、法制局参事官となる。 戦後の1945年9月には法制局第一部長、同年11月には法制局次長、1946年3月には法制局長官となり、日本国憲法の立案責任者になった。1946年5月18日、昭和天皇により貴族院議員に勅選され、同和会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。 日本国憲法により帝国議会及び貴族院は廃止され、国立国会図書館専門調査員であったところ、芦田内閣期の1948年7月に衆議院の法制局長に任命された。
岩崎 正三郎(いわさき しょうざぶろう、1901年〈明治34… 岩崎 正三郎(いわさき しょうざぶろう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の社会運動家、政治家、参議院議員(1期)。位階は正五位。 栃木県下都賀郡藤岡町(現栃木市)で生まれた。1924年、拓殖大学を卒業。同年、報知新聞社に記者として入社し、1925年に退社した。 1927年、日本労農党に加わり、同党関西事務局書記長、全国労農青年同盟書記長、全国大衆党中央委員、日本大衆党中央委員、社会大衆党中央委員などを歴任し、労働運動、農民運動を指導。1934年、社会活動から身を引き東京製鐵社員となる。 戦後、日本社会党に入党し、栃木県労働組合協議会の結成に関わった。
井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 19… 井上 敏夫(いのうえ としお、1901年1月10日 - 1975年6月23日)は、日本の経営者。東京証券取引所理事長を務めた。 三重県出身。1924年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に日本銀行に入行。 1948年4月に理事に就任し、1954年6月から1959年6月までに副総裁を務め、1961年4月から1967年4月までに東京証券取引所理事長を務めた。 1975年6月23日、脳血栓のために死去。74歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1… 岡崎 英城(おかざき えいじょう、1901年〈明治34年〉1月10日 - 1989年〈平成元年〉2月18日)は、日本の内務官僚・政治家。 東京帝国大学経済学部卒業後、内務省に入省。警察畑を歩み公職追放後の1955年(昭和30年)衆議院議員に東京4区から初当選(連続当選6回)。岸内閣の内閣官房副長官、労働・行政管理・通産の各政務次官、自民党東京都連幹事長などを歴任したが、入閣はできず1972年の衆院選で落選し政界を引退した。墓所は多磨霊園。 1901年(明治34年)1月10日、三重県津市出身。 水戸高校を卒業し、1928年(昭和3年)に東京帝国大学経済学部経済学科卒業・高等文官試験行政科に合格する。
山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 196… 山崎 岩男(やまざき いわお、1901年1月9日 - 1964年11月23日)は日本の政治家。衆議院議員や青森県知事を務めた。 1901年、北海道久遠村(現せたな町大成区)に青森県出身の漁師の末子として生まれる。実家は貧しく、父は本籍地を捨てて出奔した状態だったので戸籍上は母の私生児扱いであった。1915年、父の郷里である八戸市に移住。八戸中学(現青森県立八戸高等学校)に入学するもストライキ騒動の責任者とされて退学処分を受ける。その後は中央大学の予科に進学。箱根駅伝の走者として活躍し、第2回から第7回まで出場した。在学中に結婚し、長男の竜男が生まれている。 中央大学法学部卒業後、青森県立青森商業高等学校の英語兼民法の教師となるが、大学の先輩である梅村大の衆議院議員立候補を応援するために退職。
佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 199… 佐伯 郁朗(さえき いくろう、1901年1月9日 - 1992年4月19日)は、日本の内務官僚、詩人。 岩手県江刺郡米里村(現:奥州市江刺米里)出身。本名は慎一。1925年早稲田大学文学部仏文科卒。内務省に入り、情報局文芸課に勤務。児童向け書籍の統制に大きな役割を果たす。第二次世界大戦後は岩手県庁に勤めたのち、1973年盛岡大学短期大学部生活学園短期大学教授。1985年退職。大学在学中から詩作を始め、1931年詩集『北の貌』を刊行。「詩洋」「文学表現」「風」同人。児童文化運動にも関わり、1964年岩手県教育功労者。 1941年(昭和16年)12月23日に児童文化の統制団体として発足した日本少国民文化協会の設立にあたっては、民間側の城戸幡太郎、波多野完治、百田宗治、上村哲弥、藤田圭雄、吉田甲子太郎、滑川道夫、羽仁説子、稲田達雄、武井武雄とともに官側(内務省)の設立準備委員を務めた。
塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年… 塚本 哲(つかもと てつ、1901年1月8日 - 1980年8月1日)は、社会福祉家。 島根県生まれ。幼名・僧哲。東洋大学社会福祉学科卒。1923年、関東大震災の時、日比谷公園で被災した子供らの相談に当たる。卒業後、知的障害者施設藤倉学園の研修生となる。のち本所のスラム街へセツラーとして入り、東京市社会局勤務。戦後東京都民生局調査室に勤務し、東京都新宿生活館初代館長。老人福祉事業に取りくみ、老人クラブの結成などに関わる。1956年定年、東洋大学社会学部教授、佛教大学教授、東北福祉大学教授。
三村 明(みむら あきら、1901年1月6日 - 1985年… 三村 明(みむら あきら、1901年1月6日 - 1985年12月23日)は、大正、昭和期の撮影監督、映画監督。日本映画カメラマン創始者の一人。海外ではハリー・三村 (Harry Mimura) の名前で知られる。 父は戦艦霧島や戦艦日向の艦長を務めた海軍少将・三村錦三郎。広島県安芸郡江田島町(現江田島市)生まれ。1919年(大正8年)逗子開成中学を卒業し、同年9月に渡米した。シアトルのスクールを経て、1924年、シカゴのニコラスセン大学予科を卒業した。全米で拡がりつつあった排日運動の払拭に際し、「キャメラマンとなってアメリカ人に日本の正しい姿を見せたい」との思いで映画界に入ることを決意したといわれる。
嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6… 嶋田 晋作(しまだ しんさく、1901年(明治34年)1月6日 - 1950年(昭和25年)6月20日)は、大正末から昭和前期のジャーナリスト、評論家、政治家。衆議院議員。旧姓・近江谷。 秋田県南秋田郡土崎港町小鴨町(現秋田市土崎港)で、実業家・近江谷栄次の三男として生まれる。暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)、第三高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学経済学部経済学科を卒業した。 1925年(大正14年)中外商業新報に入社し経済部記者となり、のちの能代市・嶋田家の養子となる。以後、名古屋新聞嘱託、報知新聞論説委員、中部日本新聞(現中日新聞)論説委員、東京新聞論説委員を歴任。
阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治3… 阿川 幸寿(阿川 幸壽、あがわ ゆきひさ、1901年〈明治34年〉1月5日 - 1968年〈昭和43年〉8月26日)は、満州国官吏、日本の実業家。阿川機工、構造物コンサルタント各社長。 長崎県・田中良蔵の甥。大阪府立天王寺中学校を経て1924年、第七高等学校造士館を卒業。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。 満鉄に入社する。安東、奉天各地方事務所に勤務。瓦房店、四平街各地方事務所庶務係長、大石橋地方事務所長を経て満州国に転じ、審計局審計官第一處勤務。後に四平街市長となる。1940年、安東市長に就任する。 1950年に阿川機工を設立、社長に就任。1962年に構造物コンサルタントを設立、社長を兼務。
弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年… 弘津 千代(ひろつ ちよ、1901年1月5日 - 1983年)は、日本の劇作家、小説家。 山口県熊毛郡伊保庄村(現、山口県柳井市伊保庄)上八(こうじょう)生まれ。広島女学校附属小学校、広島県師範学校附属小学校、広島県立広島高等女学校を経て、日本女子大学校文科国文学科を1922年卒業。在学中より中村吉蔵らに師事。卒業後も東京で劇作に専念した。本名はチヨ。 1921年、日本女子大学校在学中に卒論のかわりに、印度の阿育王の伝説を題材にした戯曲・華子城物語(かしじょう・ものがたり)を、同級生の山原鶴、宮田範と共作、翌1922年6月、新光社より出版される。 代表作は、1925年(大正14年)7月号の「舞台批評」に発表した「天樹院」。
山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973… 山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973年2月24日) は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。元宇部工業高等専門学校校長。元日本伝熱研究会会長。 1901年、山口県厚狭生まれ。1926年九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、卒業後は同大学の助手となる。1927年、九州帝国大学講師に昇進。1929年、九州帝国大学助教授に昇進。1939年、九州帝国大学に「真直ナ円管内ニ於ケル流体ノ非等温層流ノ理論ニ対スル寄与」を提出して工学博士号を取得。1940年、九州帝国大学工学部教授に昇進。1947年より九州大学工学部長。1964年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。 その後は郷里に戻り、1965年より宇部工業高等専門学校校長(第3代目校長)。